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大きくなるほどわからないものが増える

KAGEROU
/ 齋藤智裕

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僕の持ち主は誰だ
 先日、自分には馴染みのない町をひとりでぶらぶらと歩いていたら、すっかり葉っぱの落ちた街路樹の細い枝先に、キーホルダーのひもを枝の節に引っ掛けるようにして、一本の鍵がぶら下がっているのを見つけた。落し物を見つけた誰かがそこにかけておいたんだろう。あぁ、鍵の生る木なんだ、とは思わなかったけれど、少しばかり、小さい頃のことを思い出した。
 小学生の頃、学校からの帰り道か遊びに出かけた先かは覚えていないけれど、とにかくどこかの道端で鍵を拾った。どこの鍵だろう、何を開くための鍵だろう、と思った。僕はそれを家に持ち帰って、自分の身の回りにある鍵穴に片っ端からその拾った鍵をはめ込んでいった。当然、どの鍵穴にもその鍵はフィットしなかった。どこも開かなかったのだ。いつかこの鍵に合う鍵穴を見つけることができるかもしれない、そう思って僕は当時持っていた、ピアノの鍵盤がデザインされたちゃちな青い財布の中にそれを仕舞っておいた。もしも鍵穴を見つけることができなくても、この鍵でしか開けられない鍵穴を僕が作ってしまえばいい。いまはできないけれど、大人になったらそれができる。本気でそう思っていた。素直な子どもだったのだ。いま、僕はその頃の鍵もそれを仕舞った財布も、どこにあるのかまったくわからない。とっくの昔に捨ててしまったのかもしれない。いまのいままで思い出すこともしなかった。もしかしたらあの鍵は、あの鍵自身を永久に記憶の彼方に仕舞い込むための、その記憶の扉の鍵を内側からかけて二度と開かなくするための鍵だったのかもしれない、だなんてくだらないことを考える大きな子どもに、いつの間にかなってしまった。だから、木にぶら下がっていた方の鍵は、きっとその記憶の扉を外側から開けることのできる唯一の鍵だったんだなと思って、僕は手を触れずにそのまま歩き続けた。まだ、この鍵が必要な人がどこかにいるかもしれない。それくらいの分別はつく大きな子どもだ。世間ではそれを大人と呼ぶのかもしれない。鍵穴を作る技術は、まだ持ってはいないけれど。

 第五回ポプラ社小説大賞受賞の話題作。執筆者が実は有名タレントだったということで、大いに世間を騒がしているけれど、大波には乗ったもん勝ちだというミーハーなところがほんの少し(いやほんと、スーパーすこし君なんだけど)あるもので、ついつい予約までして買ってしまいました。これが処女作だということもあってか、受賞時の本人のしっかりした言葉を頭に入れて読むと、「命」というテーマの大袈裟なイメージに反して文章の重量が異様に軽い(わざと軽妙に仕上げている印象もあるが)。タイトルの日本語をあえてローマ字で綴って雰囲気を持たせる、というスタイルにも必然性を感じない(というかダサい。僻みじゃないよ!)。あまりに拙い、受賞作に値しない、裏でなんらかの働きがあったのでは、という非難もわからないでもないが、発売二日で六十万部超え、という恐るべき業績は、それ自体がすでに大賞に値するものを持っている(たとえ名前が巨大な広告塔として機能していたとしても)、という明らかな証左ではないだろうか。
 人は、いったいどこまで生きれば「生きた」ことになるのだろうか。「死」か。しかしそれならば、死んでしまった当事者は自身の「生」を評価することができない。後に残された者に託す他ないのか。だとすれば僕の「生」は、いったいどこまでが僕のものだ? もしも「死」によってこそ自身の「生」が完成するのならば、どうして僕たちはこんなにも「死」を恐れなければならないのか――そんな疑問と葛藤が、自殺や臓器移植といった形式を拝借して語られる。
 あらゆる生き物は、誕生したそのときから死に始める。「生」とはひとつの確固とした状態ではなく、「死」に向かってゆっくりと(素早い場合もある)進んでいく志向性のことだ。それをそのまま「命」と置き換えていいかもしれない。だとすればこの肉体は何だ? ひとつの「命」を「死」へと運び込む乗り物が肉体か。その肉体は、どこまでが僕のものだろう。ふたつある腎臓のうちひとつを失っても、少なくとも「命」は続くだろう。だとすればその失われた腎臓は「命」ではなかったのか。誰のものでもなかったのか。しかしそれを誰かから譲り受けなければ生きられない人がいる。片腕を失っても僕は僕でいられるだろう。では、肉体のどこまでを失えば僕は僕でいられなくなる? この肉体は、どこまでが僕のもので、どこからが僕のものではない? ――わからない。考えても、わからない、ということしかわからない。ところで、さっき「いきもの」って打ってみて思ったんですけど、「生き物」はあっても「生き者」ってないんですね。くだらない思い付きだ。しかしそういうことかもしれない。自分が生きているかどうかも把握することのできない「命」、それが人間というものかもしれない。それについて、ほんの少しだけの間、考えることのできる猶予を誰からか授かった「命」。だとすれば、まったくそれについて考えることのない人生というのも、面白い。だってそれって、すっごいパンクじゃない。

 木にぶら下がった鍵をやり過ごしてからもぶらぶら歩き続けていたら、早朝だったから、次第に町に通勤する大人や通学する子どもがどこからともなく現れるようになった。別段冷え込んだ朝だったせいもあって、みんな洋服を何着も着込んでいた。道ですれ違った何人かは、僕の季節はずれのビーチサンダルにこそこそと視線を送っていた。またしばらく、タバコを吸いながら当て所なく歩いていたら、野球帽を目深にかぶった小学生の男の子が道の向こう側から俯き気味に歩いてきた。なんだか不機嫌そうだな、朝ごはんに目玉焼きがあったのかな(昔大嫌いだったんです)、なんて思っていたら、すれ違うまさにそのときに、おはようございます、とこちらを向くでもなくその男の子が言った。あまりに突然すぎて、一瞬誰に言ったのかわからなかったけど、すぐに気付いて、僕も同じ挨拶を返した。まだ低学年だと思う。なかなかのポーカーフェイスだった。僕には真似できない(ガガの真似ならできるけど)。振り返ってみたら、男の子はその後もずっと俯いたまま小学校があるんだろうと思われる方向にとぼとぼと歩いていった。あれだけ下を向いていたら、いつか誰かの落とした鍵を見つけることがあるかもしれない。
 小学生の低学年だった頃の自分は、髪の毛ボサボサで薄汚い格好をした、タバコを吸っているこんな大人なんかに挨拶をしただろうかと思う。しなかっただろうなと思う。昔からとびきり臆病な人間だからな。でもなんだか楽しい気分になって、またタバコに口をつけた。木にぶら下がっていた鍵が、挨拶をしてきた男の子が思い出させてくれたみたいに、たまに、ふとした瞬間に、遠い昔の自分が生き返る。そしてまたタバコの煙を吐く頃には、死に返るように、忘れている。それの繰り返しだ。生きたり死んだりしながら、僕たちは歩いたり立ち止まったりを繰り返す。どこに向かうかなんてわからない。手にした鍵が開くはずの扉も、どこだってよかったじゃないか。
 またタバコを吸って、煙を吐く。陽炎みたいに揺れるこの煙は、どこに向かって上昇しているんだろう、と、また考えている。
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