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終わったなんて言うな

A Thousand Suns
/ Linkin Park

Linkin park-A Hundred Suns
まるで幻影のように
 かつては一枚のアルバムを世界規模で、一千万単位の枚数で動かしていたリンキン・パークが、いまは賛否両論という絵に描いたような混乱のど真ん中に立たされている。近年のリンキンを取り巻くそんな状況のすべては、「わからない」ということに端を発しているように思う。なぜ、リンキンの音楽はかつてのスリリングな性急性を失ったのか。なぜ、チェスター・ベニントンは以前のように叫ばないのか。なぜ、マイク・シノダはあの高速のラップを必要としなくなったのか。なぜ、リンキンは世界に亀裂を走らせるようなノイズを鳴らさないのか。なぜ、こんなにも美しいメロディとコーラスがここでは成立しているのか――。それらすべての「わからない」が、リスナーの間で混乱を生み、幻滅する者、許容する者を生み、そこにライナーの「最高ではない、至高なのだ」みたいな手っ取り早さを求めたとしか思えないファクトリーな言葉が余計な石を投げちゃったりなんかして、「わからない」ものをリスナーが理解しようとする前に、手軽な別物にすり替えようとしているような印象があって、初めて聴く人には、是非ともそういう喧騒からは一歩身を引いて、静かに耳を傾けて欲しいアルバムだと思う。変な言い方だけど、そういう敬意を払う価値のあるアルバムだと思う。僕なんかは、ロックがずっと辿り着きたかった場所はここなんじゃないかとさえ思った。リンキンはこのアルバムで、そこにかなり接近したんじゃないかと。ただその近さは、地球よりは土星の方が宇宙の先端に近いかもしれないっていうくらいの果てしない距離感ではあるけれど。そしてそれがどれほど重要な意味を持つのかも、よくわからないけれど。
 かつて無いほど静謐な、リンキン・パークの四枚目。そこが非難の的でもある。が、根本的なところは、気持ちのいいノイズを鳴らしていた当時とあまり変わらない気がする。オープニングの“ザ・レクイエム(=安息)”が、それを肯定している。彼らはもちろん、世界が絶叫で罵倒するに値する場所であることをとっくの昔から知っている。だから、このアルバムの美しさや優しさは、生易しさとは程遠く、ともすれば哀しすぎるくらいに響く。彼らにとって轟音とはすなわち世界との不和の表明であり、決してそれはリンキン・パークというバンドそのものを表したものではなかったのだろう。まったく違うバンドじゃないかと思えるほどこの数年でリンキンの音楽性は激変したが、本人たちには違う音楽をやっているなんて自覚はこれっぽっちもないんじゃないだろうか。ただ彼らはインスピレーションにふさわしい音をできるだけ的確に選んでいるだけだ。初期の彼らには叫ぶことが必要だった。現在の周辺状況がそうであるみたいに、世界がそれだけやかましい場所だったからだろう。それを上回るボリュームでなければ、声などどこにも届かなかったのだ。そしていま、彼らは狂騒の只中で黙り込む。まるで僕たちに、周囲を改めて見回すことを求めるように。この静寂の鳴らない場所に、これまで以上の気持ち悪いノイズを感じる。荒廃した街、世界の終わりの風景に鳴り響くものが、決まって美しい鐘の音であることと、少し似ているような気がする。
 そして、ここで歌われていることは、聴けば聴くほど、よくわからない。著名人の演説などからサンプリングされた数多くの引用にどんな意味があるのか。歌詞は遠くから眺めても単純には程遠く、雑多な抽象の集積みたいだ。「わからない」ことを、「至高」と表現してしまうことは、あまりに単純で、下品だと思う。リンキン・パークがここで必要としたこと、それは、「わからない」ことがある、ということを肯定することではないのか。彼らがここまでノイズを極端に抑えた理由、それは、ノイズだけでは表現しきれないものがそこにあるからなのではないか。音だけでは表現しきれないもの。言葉だけでは言い表せないもの。光だけでは描ききれないもの。太陽が決して照らすことのできないもの。真実だけでは証明できないもの。花火が爆発的な光を放出して、爆音で地面を揺らすまでの、そのタイムラグ。追いついたと思えば、すでにそこには存在しないもの。エンプティ・スペイス。どうしようもない矛盾を抱え込むことを受諾した世界には、単純な回答では決して当てはまらない、形なきものがあるということ。だから前作であれだけの批判を受けたにも関わらず、彼らは自身の最強無敵の武器とも言えるあの体系から潔く脱却したのではないか。「わからない」ものが、そこにあるからだ。いまのリンキン・パークは、決して触れることのできないものを、必死でコントロールしようと試みていると思う。しつこいけど、それを「至高」で片付けるのは、誉め言葉でもなんでもない。「わからない」、でいいのだ。「わかる」では理解の及ばない何かがあるということなのだから。
 人は、ライズもセットも目の前でしてくれる太陽に、始まりや終わりや諸々を任せる。自分の生まれるところも、死ぬところも、見ることはできないのに。リンキン・パークは終わった、なんて言うやつは許さない。ここには答えなんてない。ただ続けることにしか意味はない。そもそもロックとはそういうものではなかったのか。

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