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The Game Of Who Needs Who The Worst

悪人
/ 吉田修一

悪人
悪人の所業
 スタンリー・キューブリックの『フルメタル・ジャケット』を思い出した。ベトナム戦争の悲劇を描いた映画作品である。このブログでも書いたことがあるけど、あれは実は、戦争批判の映画なんかじゃ全然ない。一般市民を殺戮兵器へと作り上げる恐怖、すぐそばでさっきまで会話していた誰かが一瞬にして死に至る恐怖、恐れるべきものはたくさんあるが、僕があの映画で一番恐怖、というか狂気を感じたのは、ベトナム人の幼い女の子を撃ち殺してしまいさっきまで立ち尽くしていたはずの兵士たちが、燃え盛る町の中、“ミッキーマウス・マーチ”を歌いながら練り歩くラスト・シーン。殺戮にはあまりにも場違いな、陽気な歌である。すべての敵を殺傷した闘争の果て、そこで流れるものは、逃走のメロディである、というキューブリックの主張だ。最後の最後まで、たとえその手が血まみれであっても、自分だけは敵に回さない。フルメタルの殺戮兵器よりも本当に恐るべき人間の自己弁護。そしておそらく、そこにすら批判の意図はない。彼の映画はそれほどまでに、雄弁にして、冷徹である。
 ひとつの殺人事件と恋愛を軸にしたこの作品について、登場人物のいったい誰が「悪人」か、という議論にはいまいち信憑性を感じない。殺人を犯した男か、その罪をわかっていながら逃亡の道を選択させた女か、出会い系で男をまるで食い物のようにしていた被害者の女性か、その女性をあざ笑い蹂躙した大学生か。法や倫理観の下では、誰もが悪人のような気がする。でもそれぞれの事情やそれに裏づけされた言動を見ていると、みんなそれほどの悪人とはとても思えない。犠牲になるものは、当然ある。そしてその犠牲を前に、彼らは皆、「被害者」になりたがる。そのために、自分に被害を与えたと思われる、「悪人」と呼べる「加害者」をでっち上げる。自己を「悪人」から遠ざけるために、他者にもっとわかりやすい「悪人」を押し付ける。人を殺める者が、人を踏みにじる者が裁かれるべき悪人に違いないことはもうわかっている。「悪人」は暴力を使わない。反省と自己嫌悪と妥協と言い訳で自己を守り、守り、守り抜いて、作り上げたそのシェルターの中で速やかに他者の「善人」を殺す。

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