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地面のアスファルトに、模様は、あるか、ないか

借りぐらしのアリエッティ
借りぐらしのアリエッティ
輪っかなのではない、空洞が「ある」のがドーナッツなのだ
 小学生の頃、学校中にある○(マル)の数を数えた。教室の机や椅子の高さ調節のボルト穴、体育館のバスケットゴール、下足のスノコに打たれた釘の頭、グラウンドに埋め込まれたタイヤも半円しか見えなかったけど、数に入れた。何が目的だったのかよくわからない。あえて言うなら、数を数えること、だ。いまはもう、そんなことはしない。でもそれは、学校にだいたいどれくらい○があるのか把握したから、もう数える必要がないから、というだけの理由ではない気がする。なぜだか、やらなくなってしまったのだ。数がひとつずつ増えていく、ただそれだけのシンプルな過程が、あの頃はあんなにも楽しかったのに。
 人間の住居の床下で暮らす小人・アリエッティは極めて狭義な意味での幸せな生活をしている。それはすなわち、家族がいる、ということだ。温かい両親がいる。他に必要なものがあれば、巨大な人間の跋扈する外の世界から、例えば角砂糖やティッシュペーパーなどを、いそいそと「借り」てこなければならない。一方で、アリエッティと出会う人間の男の子・翔の存在がある。翔は重病を患っており、両親が離婚していて、仕事で忙しい母親との交流は希薄である。性格も、やはりどちらかと言うと暗い。いわゆる、人と人とが繋がりにくいとされる現代の代表選手のようなキャラクターだ。しかしマテリアルな意味では、少なくとも生活環境に不自由はない。その二人の間に、決定的な落差がある。他のものはなくても、そこに家族がいるという、そこにあるべきものがあるという、シンプルな喜びに満ちた世界と、すべてのツールが揃っているはずなのに、重大な何かが致命的に欠落している世界。アリエッティの生活は、ある意味でとても懐かしい光景だと思う。シンプルなことに喜び、シンプルなことに笑う。実際にそれを過去に経験したかどうかではなく、過去にあったような気がする光景、心の中に大事に仕舞っていたような情景。そういう懐かしさだ。でも、人間はいつしかシンプルに生きられなくなった。人間は「自然」という概念と共に「不自然」という概念をも生み出す。たったひとつの道を進むということは難しい。他の道から目を逸らすことは、案外簡単なものだが。そして、人間にはなかなかできないシンプルな生き方を実践し、それを守ろうとするアリエッティは、小人である。懐かしみとは、もはやファンタジーなのだ。
 でも、この物語が、そんな人間の哀しみを描きつつも、決してネガティヴな空気を纏わないのは、アリエッティ視点で描かれた人間の生活環境が、とてもスペクタクルな仕上りを見せているからだろう。アリエッティの目撃する人間の世界は、それが家というたったひとつの建築物に過ぎないにしても、あまりにも広い。僕たちが手を伸ばすだけで難なく触れられてしまう距離、それでもアリエッティには圧倒的な隔たりと奥行きがある。人々の何でもない動作のひとつひとつが、アリエッティにはとてつもない影響力を及ぼす。見えないものは、仕方ない。でも、見ようとしなければ、見えないものもある。
 最近、時計を見ると、時刻がぞろ目になっていることが多い気がする。そういう特別な瞬間に立ち会うことが多い気がする。でもそれはきっと、たまたまぞろ目だったときの方が、印象に残っているというだけのことだろう。「あ、ぞろ目だ」という特別な意識が働いているというだけの話だ。でも、それが意識の力だ。見えないものが、見える。いま、声の届く君が、懐かしい風景の中にいる。もう自分でも何を言っているのかよくわからないのだけど、全部夜のせい。とにかくいい映画だった。ぞろ目が多い気がするのも、深夜起きてるせいだし。

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