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世界で三枚目のIt's Up To You

うれしくって抱きあうよ
/ YUKI

YUKI-うれしくって抱きあうよAL
待ち遠しい過去、懐かしい未来、抱きしめるは今
 06年の前作『WAVE』以来実に三年半振りとなる通算五作目のオリジナル・アルバム。前々から、次のアルバムはYUKIのこれまでのキャリアとは完璧に乖離した作品になると思っていた。楽曲のテイストについての話ではない。立っているステージがそもそも違う、四枚のアルバムを通じてYUKIが語り続けてきた一連の物語とはまったく別の座標に配置された物語、そういう、根本的なところから脱却したアルバムになると思っていた。このアルバムが、キャリアに明らかな楔を打ち込んだ原点回顧の歌“汽車に乗って”以降の価値観で制作されることはYUKI本人の発言からも明白だったし、実際、収録されたシングルを見てみても、そういう作品になっている。08年、“汽車に乗って”発売直後のライブ・ツアーで、YUKIは「最近、曲を作るときは、世界を創るときは、自分じゃないところで、みんなが歌えるものを作ってきた」と穏やかな口調で観客に向かって語りかけた。そして、YUKIが函館から上京するときの思いに立ち返った“汽車に乗って”という歌は、「自分じゃない」歌を歌い続けてきた自分に対する「リハビリ」の第一歩なのだと。「リハビリ」、という言葉に、痛々しさを感じなかったわけではない。でもその直後にYUKIは一転したような明るい口調で、「そろそろ戻ってみっか!」と笑いながら、まるで冗談のように宣言したのだ。そうして歌われた“汽車に乗って”には、ノスタルジックな悲しみなど微塵も漂ってはいなかった。過去に思いを巡らせながら歌うYUKIのその姿からは、ここからまた新しい何かが始まる、という未来しか感じさせなかった。やり直せない場所なんて実はどこにもない。YUKIは間違いなくあの歌でその希望についてを歌っていた。そのとき思った。次のアルバムはこれまでの物語から完璧に飛翔した、まっさらな始まりのアルバムになるに違いないと。そしていま、実際にこの最新作を聴いて思うことは、僕の予想は、半分は確かに当たっていて(悔し紛れじゃないよ)、半分は的外れだったということだ。そしてその外れた方の半分は、相当に重要な半分だったということだ。
 決して特別なアルバムではない、と思う。誤解されたくないのだけど、楽曲のクオリティに関して言えば、これは突出して特別なアルバムである。発表されたばかりという高揚感を差し引いてみても、このアルバムを一番に挙げる人は絶対に少ないわけがないと思う。アレンジひとつとってみても過去最高にバラエティに富んだ芳醇な内容、そしてもはや言うまでもなく、どの楽曲も一度再生したら聴き手の首根っこをつかんで離さない強烈なメロディを持っている。聴こうかどうか悩んでいる人のために言っておくが、そうそうお目にかかれるレベルのアルバムではない。でもそんなことは、実際に聴いてみれば誰にでもわかることだ。美辞麗句を書き並べてこのアルバムを絶賛することは容易い。だからあえて、特別なアルバムではない、と言わせてもらう。多分その方が、このブログらしいから。決してすぐ隣に特別なエピソードを携えたアルバムではない。一枚切り取ってみて特別な意味を発揮できるアルバムではない。少なくとも、それを感じさせるアルバムではない。それそのものが特別な意味を持たざるを得なかった『PRISMIC』とも、作品の内容と同時にキャリアの隆盛それ自体にも興奮を禁じ得なかった『joy』とも違う。これは、言うなれば、ただそこにあるアルバムである。ただそこにあり、そして、そうあって然るべきアルバムである。前作から本作までの長い月日の中で、YUKIはいくつも特別な出来事を体験してきたはずだ。個人的な事情は僕にはわかりようもないが、子どもだって産まれているのだ。YUKIが二年前に発した「リハビリ」という言葉の真意が、このアルバムにどの程度引き継がれていて、機能しているのかも、僕にはわからない。ただ、このアルバムには見事なまでに破綻がない。長いような短いようなライフタイムを一日の中に落とし込んだコンセプチュアルな構成にしてもそうだが、思わず立ち止まりかけてしまいそうな、物語に破綻をきたしかねない微妙な感情の入り込む隙がまったくないとでも言おうか。つまりここには、あまりにも明確な回答が予め用意されているのだ。物語を語る動機についての物語ではないのだ。数々のエピソードを並び立てるまでもなく、ここにはすでに、絶対に譲るわけにはいかなかったひとつの思いがあったのだ。そんな達観性を帯びれば帯びるほど、このアルバムは穏やかにその力強さを増していく。ここにある回答を導き出させた経緯とは、もちろんこれまでのYUKIのキャリアのすべてである。そういう意味では、このアルバムは間違いなくこれまでの四作の延長線上にある。でもそれは単なる一本の線で繋げるような関係性ではないと思う。この一作だけが、ポツンと円の外側に佇んでいるのだ。このアルバムは、YUKIのキャリアをあからさまには刷新しない。その場所それ自体に特別な意味はないのだ。ただ、外側から両腕を広げて円の内側にあるこれまでのすべてを抱きしめたとき、そのとき初めて、このアルバムは自ずと、ここにしかない特別な意味を持ち始める。
 このアルバムを埋め尽くした言葉たちは、はっきり言って、ひどく危うい。「満たされた」「救われた」をこれでもかとしつこく連呼し(初めて聴いたとき、これには本当に呆気に取られた。いまじゃもう笑いしか出てきません)、「貴方は運命の男」と断言し、「欲しいものなら手に入れたんだ」「欲しいものなどもはやないんだ」と高らかに宣言してみせる。YUKIがこれまでこんなにもどストレートに充足感を露わにしたことがあっただろうかと、それはある意味ではそこで世界を閉じてしまうことと同義ではないかと、そう首をひねらずにはいられない思い切りのよすぎる言葉が次から次へと飛び出してくる。アルバム・タイトルも、これまでの『PRISMIC』『COMMUNE』『joy』『WAVE』といった抽象的で、でもだからこそ独特な広がりを持った類のものとは一線を画していて、『うれしくって抱きあうよ』、である。それ以外に解釈の仕様が、ないのである。そして、その一点に破綻なく焦点を絞ってみせたという意味において、このアルバムは大きく破綻している。いまここにある幸せを、こんなにも大文字で幸せと認めてみせることは、決して簡単なことではないからだ。
 並々ならない思い入れを『PRISMIC』に抱えている人間の個人的すぎる見解で申し訳ないけど、YUKIのソロ・キャリアは、その出発点となった『PRISMIC』を終わらせるための旅なんだとこれまでずっと思っていた。いまも、少しそう思っているかもしれない。「もう うたえないわ」と心情を吐露しながら、歌いながらでしか歩き始めることのできなかったYUKI。『PRISMIC』という光の河を下り、次々と開けていく景色に一喜一憂しながらも歩き続ける。その河の最下流に広がる景色を確かめるために。そんなふうに思っていた。でもいまはちょっと違うふうに感じる。終わらせるための旅ではなかったのだ。終わらせないための旅だったのだ。歌い続ける決意とその切実な思いは絶対に間違ってはいないと肯定するための、抱きしめるための旅だったのだ。そしてYUKIは、ようやく辿り着いたということなんだろう。
 このアルバムでYUKIは、過去は未来のなかにあり、未来は過去の中にあり、わたしは君の中にいる、という多くのパラドキシカルな経緯を隔てながら、自分の立つ、いまここ、という在り処をゆっくりと慎重に、しかし大胆に紐解いていく。ここでYUKIが提示する回答は、ある意味では、満たされた場所にいるからこそ歌える内容だとも言える。実際、『PRISMIC』の頃だったらこんなの絶対に歌えなかっただろう。そんなことは百も承知である。でも、ためらいながら歌われる愛の歌なんかにいったい誰が耳を傾ける。ときに悲痛な現実を、力ずくで捻じ曲げてでも歌われなければいけなかった歌にこそ、僕たちは無性に心を駆り立てられる思いがするんじゃないか。そんな歌にこそ、「その先」を無性に予感してしまうんじゃないか。あなたは虹の真下にいる、と歌ったレディオヘッド。世界に境界などない、と歌ったU2。そしてYUKIも歌うのだ。あなたはいつだって愛に抱きしめられている。だったらあなたはいったい何を抱きしめるのか。そこに、すべては揃っているというのに。


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09:54 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑
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