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上々だね!

ポニョを「メス」と呼ぶな。

ポニョは、「おんなのこ」だー!

バッカみたいだ。


崖の上のポニョ
崖の上のポニョDVD
夢を覚めさせなくした女の子
 女の子は魔性を秘めている。女の子は「謎」を創り上げる生き物でありそれは理屈や統計ではなく強固なまでのひとつの真理である。宮崎映画での女の子の立ち居地はまさにそれを物語っている。特に、個人的な趣味世界の『紅の豚』を除く、『風の谷のナウシカ』から『もののけ姫』までの五作。ナウシカ(『風の谷のナウシカ』)、シータ(『天空の城ラピュタ』)、サツキとメイ(『となりのトトロ』)、キキ(『魔女の宅急便』)、そして、サン(『もののけ姫』)。彼女たちは誰よりも魔法に近く、自然という息吹に近かった。そしてそれは、彼女たちが同時に他の誰よりも全能に近かったということを意味している。宮崎映画における魔法や自然とはつまり、そういうことである。そしてだからこそ、そこに登場する全能から程遠い男性的なキャラクターは、彼女たちに畏怖と憧憬の眼差しを送りながらも、ただただ圧倒される他なかった。魔法、自然、全能とは、いつだって僕たちの望む夢そのものだ。本作に登場するポニョは、もちろん言うまでもなく、そんな宮崎映画の一連の系譜を再び引き継いだ、魔法を使う魚の女の子である。しかし、本作で、宮崎駿が描き続けてきた全能への憧れは、見事なまでに鮮やかに反転している。『魔女の宅急便』は、キキが、一度は失いかけた魔法の力を最後に再び取り戻すからこそ、希望の物語だった。『崖の上のポニョ』は、ポニョが、最後の最後に魔法の力を失うからこそ、これもまたやはり希望の物語なのだ。これは妥協や打算ではない。まさに息を呑むような圧倒的反転である。そう、僕たちはもちろん魔法なんて使えない。僕たちは自然と対峙すべき場所に佇んでいるし、そこはやはり全能とも程遠い。だからこそ僕たちはそれに強く憧れるわけだが、憧れとは、つまりは不可能ということだ。ファンタジーは、リアル・ライフではあり得ないということだ。だとすれば、僕たちはそんな手の届かない夢を見てしまう自分たちをどのようにして祝福することができるのか。宮崎駿は言っている。それは「夢を夢のままにする」ことだと。全能にはなれない自分自身を「それでいい」と認めてやることだと。そう、魔法なんていらない。だってそうじゃないか。僕たちは、顔も名前もわからない、置き忘れられたガラスの靴の持ち主を探し求めているわけじゃない。「僕」が求めているのは、いつだって「君」なんだ。だから世界を救うヒーローなんて待ち焦がれないで。そんなにも悲しいことはないから。かっちょいい救世主なんかに「君」を救わせたくないよ。

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