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大学生になって一番最初に観た映画だった

A.I.
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まるでコインの表と裏のように
 スタンリー・キューブリックとスティーヴン・スピルバーグという超異例のタッグ作になるはずだったが、本格的な制作に取り掛かる前にキューブリックが他界し、結果としてスピルバーグがひとりで総指揮を務めることとなった本作。五年に一度のペースで映画そのものの力学とその債務を問うような本質のみで構成された作品を生み出す才能と、良質なエンターテインメント・ムービーを数年間で大量生産する才能。そのふたつの才能がそれぞれに生み出す作品は、まるで極端と極端を照らし合わせたかのように、明らかに違っている。スピルバーグは本作で、従来のロボットが決して持つことのなかったある種の「感情」を宿らせたロボットの少年が、それによってこそ限り無く人間に近づくことができたという温かい物語を描いた。あくまでも推論の域を出ない話だが、もしキューブリックが存命だったら、しかしそのあらゆる「感情」、それが例え「愛」と名の付くものであったとしても、そこに猜疑心を抱いてしまうからこそ僕たちは人間なのだと、だからこそ一途な愛を信じたこのロボット少年は限り無く人間に近づくことはできても決して「人間そのもの」にはなれなかったのだと、そんな厳しい作品に本作はなっていたかもしれない。それを想像するのは自由だが、結果的にやや一方の世界観に偏ることとなった本作を語る上で、どちらが優れているかなどという単純な比較評価でくだらないギャップを作り出してしまうことほど愚かな真似はないと思うし、これはただそれだけで非難される謂れなどまったくない素晴らしい映画である。
 キューブリックが本質の映画監督なら、スピルバーグは無駄の映画監督だと思う。しかしそれは決して言葉通りの差異を意味しない。キューブリックは『2001年宇宙の旅』で言っている。すなわち永遠とは一瞬ですらないと。無限と限界、本質と無駄、信じることと疑うこと。そこに、いったいどんな違いがあるだろう。もし僕たちの命が永遠なら、僕たちはきっと「永遠」という概念さえ獲得できずに一瞬ですらない時空の中で凍結してしまっていただろう。ただ、たまたま僕たちの命は永遠ではなかったというだけの話だ。コインを振れば良いんだ。「本当」が出れば信じれば良い。「嘘」が出れば騙されれば良い。それは例えば、本作の人型のロゴがそうであるように、ひとつの輪郭を内側からなぞるか外側からなぞるか程度の「同じ」でしかない。大丈夫。僕は「生きている」から。

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