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時代を置き去りにして

携帯ぶっ壊れました。
以前からボタンを押す衝撃だけで電源が切れたりしていたから、
そろそろ危ないとは思っていたけどついに。

データが完全に消えたのがつらい。
大学はともかく、地元の知り合いの連絡先、
どうやって手に入れたら良いの?
町ですれ違ったりなんて、あり得ないしなぁ。

とは言ったものの、携帯なくてもそんなに困らなさそーという、
ちょっとどうなんだろうという気持ちもある。
僕に連絡くれる人なんて、きっとどうしようもない物好きなんだろう。
なんか笑える。


マイケミ、フォール・アウト・ボーイ、パニック・アット・ザ・ディスコ。
これと似たようなことができるエモ系バンドはこの三組しかいないのでは。
というか、この三組が今やっているのは、もはやエモですらない。
個人的には、ジャックス・マネキンのピアノソロなんて、聴いてみたいなぁ。

モーション・シティ・サウンドトラックのサード・アルバム
『イーヴン・イフ・イット・キルズ・ミー』は、
これがエモでなくてなんなのか、とでも言うような、
もうひたすらにエモい作品です。文句あんのかって。

嘘つきのまま、それでも自分の求めてるものに限り無く近づきたい。

Even If It Kills Me Acoustic EP
/ Motion City Soundtrack

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嘘つきが嘘を止める時
 未だに定義が曖昧なまま、しかしロック界で目下最強無敵の言語となっている「エモ」。いつになってもその輪郭が定まらないのは、エモが自身の不透明さを必然的に肯定してしまう音楽だからだ。それはつまり、エモが明確にして的確な認証行為を経て存在を肯定された音楽ではないということを意味している。エモの基本構造とは、ざっくり言うなら、歌い手の「嘘」と聴き手の「誤解」が手と手を取り合った「共犯関係」に他ならない。「ここにはみんなの歌があるよ!」とオオカミ少年のごとく声を張り上げ、過剰な演出を施し聴き手の感傷を揺さぶりまくる歌い手。「ホントだ! これは僕の歌だ!」とそれに勘違いし、手を振りかざしながら大合唱する聴き手。エモは、あくまで基本的に、そしてだからこそ恐ろしく根本的に、そんな明らかなすれ違いに目をつぶることで両者が築き上げた「共犯関係」の上に、ちょこんと座ってしまった音楽である。道端に置き去りにされた仔犬のような感傷。それは果たして「本物」なのか?とエモは何度となく疑いの眼差しを向けられてきた。これからもそれは変わらないだろう。
 今年3月に発表された本EPは、07年に発表された彼らの傑作サード・アルバム(ビルボード・インディー・チャート一位)の収録曲5曲を新たにアコースティック・バージョンで録り直した企画盤。肩の力を抜いて聴けばいい作品だとは思うが、彼らのサウンドにおける強烈な魅力のひとつだったムーグの音が一切鳴り止み、音そのものに絶頂感や解放感がなくなったここでのアコースティック・ナンバーはどれも、もはやエモの必然である「共犯関係」を必要としてはいない。「みんなの歌」がその全体像を小さくすることで、ものすごく「個人的な歌」に完全に成り代わっているのだ。聴き手をほとんど必要としていないのだ。しかし、その音楽が伝える悲しみや切なさの質量は、まったくと言って良いほど損なわれていない。ここまで虚飾を取り払ってもなおリスニングに堪える強度を備えているエモ系バンドは恐らく数えるほどしかいないのではないだろうか。ダンサーがダンスを放棄する時、そこでは時間が止まり、時代の革新者がエクスペリメンタリズムをかなぐり捨てる時、そこには永遠が生まれる。エモっ子という嘘つきが嘘を吐くことを止めた時、そこにはとにかく名曲が残ったのだ。

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