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「想い」はなんか実感できなくて使いたくないんだ。

アントニー&ジョンソンズ
これがアントニー・ヘガティのプロジェクト、
アントニー&ザ・ジョンソンズ。
今年一月に最新作を発表しました。
一番右のやつです。

僕が一番好きなのは、
真ん中にある『アイ・アム・ア・バード・ナウ』というセカンド・アルバム。
イギリスのマーキュリー・プライズを獲得したアルバムです。

ジャケットは、ピーター・ヒュージャーというエイズで他界した写真家の作品。
その名も『キャンディー・ダーリングの死の床』。
モデルのキャンディー・ダーリングは性同一性障害を抱えた女装のスター。
決して誰も訪れることのないベッドルームで、
ひとり化粧を施し、自分に美しさを見出そうとする男性がいる。

アントニー・ヘガティは自分が歌を歌うことを「パフォーマンス」と位置づけている。
そう、それは、こちらを見てくれる、
「自分以外の誰か」がいなくては成立し得ない行為なのだ。
だからこそこのアルバムはひどく悲しい。

この漫画読んで急に聴きたくなったんだ。

ハピネス
/ 古屋兎丸

古屋兎丸-ハピネス
あなたを思う時に私が流すこの涙は愛です
 八つの物語が収録された古屋兎丸の短編集。教師と女生徒の禁断の愛を描いた冒頭作にソフトコア・ポルノ映画の金字塔『エマニエル夫人』からのある台詞が登場する。「エロスは第三者の目があってはじめて完成する」。なるほど、と思ってしまった。欲望の当事者から距離を置いた客体的な視点はそこに幾ばくかの奥行きを与え、単なるエロを「エロス」へと昇華させる。僕たちが悲劇的な愛の物語に魅了される理由はそこにあるのではないかと思った。ロミオとジュリエット。織姫と彦星。理不尽にも引き裂かれる当事者たちの絶望感に共感しながらも第三者はそこに一種のカタルシスを見出している。なぜならそれは物語だからだ。フィクションだから安心、という意味ではない。引き裂かれた愛の背後にある物語性がそれをただの離別では終わらせない深まりを与えているということだ。そう、エロを「エロス」へと深める奥行きとは物語性である。当事者の現実を背負わないそれ以外の誰かにしかできない試みがあるとすれば、それはそのエロなり絶望なりを物語ることなのだ。それはもしかしたら無責任な行為かもしれない。しかし、そこからしか生まれ得ない救いもやはりあるのだ。彼ら当事者の打ち砕かれた愛を「悲しみの愛」と呼ぶことができるのはそれを物語る第三者だけなのだ。
 アントニー・ヘガティという歌手がいる。両性具有者である彼は、自分は完璧な女性になれなかったからこそこんな中途半端な姿かたちで独りぼっちにされてしまったのだと嘆き、そんな紛い物の自分をそのまま受け入れてくれる誰かが側にいてくれさえすれば、と“ホープ・ゼアズ・サムワン”という歌で切実に歌っている。そう、当事者の現実はやはり違うのだ。彼が本当に欲しいのは「悲しみの愛」などという情感溢れる代物ではないのだ。古屋兎丸が『ハピネス』というタイトルに希望を託しながらここで描いたことは「悲しみの愛」でしかない。しかしだからこそそこで少女の頬を濡らす涙は「あなたがいてくれるだけで良いのに」という当事者の現実の重さを強く訴えかける。そんな狂おしい物語が詰まってます。
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