FC2ブログ

やべ、書き始めたらついつい長くなった

Sound Of Superman
/ Various Artists

Sound Of Superman
スーパーマンとエモというヒーロー不在の追究
 70年代後半から80年代後半にかけて、宇宙の平和を守るスーパーマンとして映画『スーパーマン』シリーズに主演し映画界のヒーローとなったクリストファー・リーヴはしかし、その栄光の象徴ともいえる大文字“S”マークを胸に刻んだコスチュームと赤いマントを脱ぎ去ることを何よりも望んでいた。詳しくは知らないが、根っからの役者人だったらしい彼にとって、スーパーマンの栄光は時として単なるしがらみでしかなかったのだろう。人々が求めるヒーロー像と本当に追究したい演技との狭間で彼が味わった苦しみについてはもはや想像するしかないが、それは文字通り想像に難くない。吐き捨てられたガムみたいにへばり付いた「スーパーマン」としてのイメージの払拭を目指した彼は他の作品にもいくつか出演しているが、世間の先入観というものは得てして残酷なほどに根強いものだ。他作品でも彼の演技は高い評価を得たようだが、凝り固まったイメージからの完全な脱却にはとても及ばなかったのではないだろうか。人々の目に刻まれた“S”マークは彼の胸に刻まれたそれよりも遥かに強烈だったということだろう。よくある話だと思う。
 そんなクリストファー・リーヴを悲劇が襲ったのは95年。乗馬中に突如として立ち往生した馬の背中から放り出されてしまった彼は、頭から地面に不時着し、早急な手術を受けるも脊髄に重大な損傷を負ってしまう。脊損者となってしまった彼は、意識はあるものの歩くことはおろか息をすることにでさえも人工呼吸器の助けを得なくてはならなかった。鳥や飛行機に見間違えられながら壮健に泳いでいたあの悠々たる大空から動けないベッドに沈んでしまったスーパーヒーロー。役者生命としては、決定的であり、致命的だったはずだ。彼はもはや、マントを脱ぎ去るどころかそれを着ることさえもできなくなってしまったのだから。言うなればそれは、イメージからの脱却どころかその半ばで自分がスーパーマンであるという前提そのものを強奪されてしまったようなものだ。それどころか、呼吸さえもままならない状態で、いったいどうして他の誰かを演じることができるだろう。そんな状態で演技の追及などできるはずがないし、やるべきではない。挫折ですらない断絶された夢。それでも命ある限り人生は続く。生命力の本当の逞しさと冷酷さを思い知る時とはそんな時だろうか。そういえば、小説家・西尾維新が自身の作品の中でこんなことを言っていた。「人生がゲームでないのはリセットボタンがないからではなく、そこにゲームオーバーがないからだ。とっくの昔に《終わっている》のに、それでも明日はやってくる」。クリストファー・リーヴは決して勝算のない明日を何度迎えたのだろう。04年10月、彼は、最後まで車椅子から降りることなく、52歳という若さでこの世を去った。

 06年に発表された作品だが、個人的に気に入っているジャックス・マネキンが参加しているということを知って、スーパーマンをテーマにしたトリビュート盤『サウンド・オブ・スーパーマン』を最近買った。参加アーティストとしてジャックス・マネキンの他にはジ・アカデミー・イズやモーション・シティ・サウンドトラックなどの名前が並んでいて、「エモい」連中を意識してピックアップしていることは明らかだ。
 ではなぜスーパーマンでエモなのか? それについて少し考えてみた。

 銀河の彼方に位置する惑星クリプトン。そこは、太陽への異常接近が止まらない、滅亡の危機に瀕した惑星だった。クリプトン科学の最高権威であるジョー=エル博士は惑星の異常事態を警告するもまったく相手にされず、苦肉の策として自分の最愛の息子を彼の意志を伝えるためのクリスタルと共にカプセルに入れて地球へと送った。カプセルが着陸した麦畑を偶然通りかかった人間の夫婦は、考えられない馬鹿力を発揮する赤ん坊を天からの授かりモノと思い、そのまま自分たちで育てる決心をする。汽車よりも早く走るなど、すでにスーパーマンとしての能力の片鱗を窺わせていた少年はそれでも人間としてきちんと育てられた。しかし、ある日、彼はクリスタルの力によって自分が地球において極めて特別な存在であることを知る。つまり、自らの背負ったスーパーマンとしての運命と正義の意志を、引き受けるのだ。スーパーマンは情報収集のために普通の人間として新聞社に就職する。そして、人々の危機を察知してはあのお馴染みのコスチュームに身を包んで救出に向かうわけだが、スーパーマンの面白いところは、人間として生活を送る彼が、無自覚だが幼い頃からすでにスーパーマンとしての力を内包しているところにある。クリスタルによってスーパーマンとしての力を与えられるわけではなく、ただ“S”マークと赤いマントを持っていないだけで、彼はすでに生まれながらのスーパーマンであり、ただそれを知らなかった、気付いていなかっただけだと。
 それがいったいどういうことを伝えるのか。あの身なりからも分かるとおり、スーパーマンという存在は、なんというか、非常にフィクショナルである。ヒーローとはそもそもがそういうものかもしれないが、とにかく、あんな存在がこの世にいるとはとてもじゃないが考えられない。そう、スーパーマンなんて、いるわけがない。でもそれは、ただ単にみんなが気付いていないだけかもしれないのだ。だとしたら、スーパーマンなんてどこにもいないということは、スーパーマンはどこにでもいるということと、ほとんど同じことを言っているに過ぎない。スーパーマンはあなたの隣の家に住んでいるかもしれないし、もしかしたらあなた自身かもしれない。遠いようで近い存在。スーパーマンの本当の魅力はそこにある。給食をクラスで一番に食べ終わる君のその今は役立たずな能力が、いつかの未来で地球を救わないだなんていったい誰に断言できる?

 「エモ」と呼ばれる音楽の定義は非常に曖昧である。音楽的な性質としては非常に多種多様であって、「これ」とひとつに断定することはほとんどできないに等しい。一般的には、親しみやすい泣きのメロディとその感傷を開放させるダイナミックな演奏、というのがエモ系音楽の共通項だろうか。要するに、自己憐憫、自己完結である。そして、そこでぶちまけられる悲しみは大抵フラれただの自分はイケてないだのといった思春期的なものであり、要するに、世界の脅威に為り得ない、第三者としてはどうでもいいことである。そんな曖昧でどうでもいいまま転がり続けたエモは、思春期的、つまりは誰もが通過する普遍的なものであるが故に大きな支持を獲得する一方で、やはり幾度となく批判の対象にもされてきた。「失恋=世界崩壊」とでも言うような青さからくる大袈裟さ、そして若者の自傷行為や自殺の温床になっている、というものである。そして、そんな風に、明確な定義付けがされず賛否両論のままある意味立ち止まりかけていたエモ・シーンを完全にブレイク・スルーさせた一枚がマイ・ケミカル・ロマンスの06年作『ザ・ブラック・パレード』だった。というか、あのアルバムはエモの定義そのものとでも言うべき本質的な作品だった。そもそもマイケミは「死」をモチーフにしながら「僕は大丈夫じゃない!」と叫んでしまうような、エモ批判者にとっては絶好のカモだったわけで、実際にマイケミのネガティヴなイメージに関する論争も度々起こってきた。そんな中で、『ブラック・パレード』が定義した本当のエモとはいったいどのようなものだったのか。
 『ブラック・パレード』はそのダークな印象とは裏腹に極めてポップな一枚である。21世紀に発表されたあらゆる作品の中でも最高峰にポップな一枚である。ポップとはつまり、第三者を巻き込ませるということ、一緒になって歌わせるということだ。そして、『ブラック・パレード』を歌えばすべてがわかる。気付けば「生きることを恐れたりはしない」とあなたは歌っているはずだから。全然大丈夫なんかじゃない少年が、全然大丈夫じゃないまま、それでも「生きることを恐れたりはしない」と歌う勇気。『ブラック・パレード』はそれをあなたに歌わせる。
 それはいったいどういうことなのか。結局大丈夫じゃないままということは、決して『ブラック・パレード』は僕たちを救ってはくれないということだ。それは決して闇夜に訪れる救世主などではないと。そもそもロックとはステージの上で繰り広げられる何かであって、それを見上げる観客をどうしようもなく本質的に救い得ない音楽である。全然大丈夫じゃないからロックなんてめんどうな音楽わざわざ聴いてるのに、ロックは救いの手なんて差し伸べてはくれないのだ。そして、何よりも救いに近い場所にあると信じていたロックでさえ僕たちを救わないなら、僕たちを救うのは、もう僕たち自身しか残されていない。ロックとはそういう音楽である。あなたがロックにあると思っていた救いは実はここにはないのだと、あなたがロックにこそあると思っていた救いはむしろあなたの中にこそあるのだと。遠いようで近い存在。親しみやすいメロディでダイナミックで普遍的で歌わせる、つまりはポップな「エモ」と呼ばれる音楽は、それをほんの少しだけわかりやすい形で提示してみせただけのことだ。僕たちは死ぬためにロックを聴いてるんじゃない。こんなどうしようもなく負けてる自分でも生きていたくてロックを聴いているのだ。「生きることを恐れたりはしない」。毎秒ごとにそう小さく呟いて、生き繋いでいるのだ。

 要するに、スーパーマンとエモは一緒なのだ。近いようで遠い存在。それはまさに自分自身なのだと。

 クリストファー・リーヴがマントを脱ぎたがった理由が前よりもよく理解できる気がする。スーパーマンはどこにもいなくてどこにでもいる存在だからこそ素敵だった。でも彼は、「彼こそがスーパーマン」になってしまったのだ。その胸に光る“S”マークと赤いマントは、彼をある種特権的な存在にしてしまった。でも、それはもうすでに、本物のスーパーマンではなくなっているのだ。だから彼はヒーローにならなければいけなかった。自分自身という、本物のスーパーマンに。
 
 クリストファー・リーヴは落馬の悲劇からその死までの間、絶望というかむしろ無望の淵に沈んでしまってもおかしくないのに、リハビリを繰り返し、体を回復させ、車椅子に乗ったままだが映画にも出演し、福祉活動にも積極的に参加し、多くの人に感動を与え続けた。もちろん、胸に“S”マークは刻まれていないし、赤いマントも羽織ってはいない。スーパーマン以外の役で大成することもなかった。自分の足で歩けないまま、失礼な言い方になってしまうかもしれないが、そういう意味ではやはりどうしようもなく負けたまま、それでも彼が前向きに生き続けたのは、彼がもう気付いていたからだと思う。かっこよく脱ぎ去ることはできなかったけど、もう“S”マークも赤いマントも本当に必要ないということに。負けている僕たちを救うヒーローなんていなくても別に良いということに。「もう生きることを恐れたりはしない」。彼は多分そう歌えたと思うから。

 何もかも完璧にできる人間などいない。何もかも満たされている人間などいない。僕たちは徹底的に不完全・未完成で、明らかに何かが欠けている。そして、世界にはそんな僕たちを都合良く救ってくれるヒーローも欠けている。僕たち世界はパーフェクトじゃない。僕たち世界はどう見ても負けている。それでも、「生きることを恐れたりはしない」。そこには希望があると思うし、なくちゃならないと思うし、それ以上に、あった方が素敵だと思う。
 生きてるだけで勝利。安っぽいがそれで良いんじゃないかと思う。それさえ否定される世界なら、スーパーマンにもロックにも肯定できることなんてここにはひとつも残されていない。
スポンサーサイト



00:05 | 音楽 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑
本気の人間をナメてたら必ず痛い目に合う | top | You are a singer.

コメント

#
スーパーマンだ!

彼の生涯は英語の教科書で知った。
すごいよね、教科書になるなんて。

私は中学校一年くらいまでクラスで1番給食食べるのが遅く(今からは想像つかないかもけど!笑)、いつも半泣きだった笑
食べては吐き、超偏食野郎だった笑

今は結構なんでもペロリ。

ヒーローの第一条件は満たせそうな気がする。
by: まはまひまふまへまほ | 2009/03/23 10:43 | URL [編集] | page top↑
# まはまひまふまへまほへ
名前変わったね笑
個人的には「まひ」らへんが好きです。

俺の高校の英語の授業でもスーパーマンやった!
同じ教科書やったんかな?
英語の先生がスーパーマンめっちゃ好きやったみたいで、
テンション異様に高くておもろかった!
空を見ろ!あれは何だ!鳥だ!飛行機だ!いやスーパーマンだぁ!!って笑

まほが偏食信じられん。
変色の方がまだ信じられるかも。

俺は給食の献立全部混ぜて食べてました。
ヒーローになれるかな?

by: 幸大 | 2009/03/24 02:15 | URL [編集] | page top↑

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://overtheborder.blog64.fc2.com/tb.php/716-a3802001