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一周した虚構のリアル

舞城王太郎
ファウスト作家といえば、舞城王太郎。
舞う城の王さま。
覆面作家。
とてもじゃないけど、これで純文学は書けない。

けど、
そこには新しい世界があった。
言葉はどこまで無責任になれるのか。
それは、小さな世界へと収束するシニシズムやニヒリズムではなく、
紛れもない世界との対峙だった。
そこからしか始まれない者の。

そして同じくファウスト作家の西尾維新。
メフィスト賞を受賞した02年のデビュー作です。

クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い
/ 西尾維新

西尾維新-クビキリサイクル
戯言を言います
 舞城王太郎や佐藤友哉らと共に西尾維新が創刊以来筆を執り続けている文芸誌『ファウスト』は、「闘うイラストーリー・ノベルスマガジン」をコンセプトに掲げている。小説家は言葉を武器に、イラストレーターはイラストを武器に、互いの世界をぶつけ合う非常に面白い文芸誌なのだが、その闘争の延長にあるのはもちろん、もっと大きな意味での「世界」との対峙である。それがいったいどういうことかと言うと、つまり、言葉やイラストによって表現された想像力・イメージ・言葉遊び・こじづけなどといった極めて形而上的な思考が「世界」を前にしていかにリアルであることができるのか、への挑戦である。別の言い方をするなら、言葉やイラストによって「世界」はどこまで解けるのか、という意味での、闘争である。
 論理的思考というやつには、いつだってその論理の発意点となるべきひとつの前提が必要とされる。論理とは目の前にある何かを次のレベルに引き上げるための組み立てであり、宇宙空間でレンガが積み上がらないのと同じように、そこには必ず平衡の保たれた確実な地面としての前提がなくてはならないのだ。そして、僕たちはりんごを買いに行く時ですらその論理的思考を働かせながらも、りんごの大きさに関しては、二つ以上のりんごを前にしての比較対照を行わずには知ることができない。僕たちは、「大きい」「小さい」という概念を、ひとつのりんごそのものを前提に生み出すことができない。この物語に登場する多くの「天才」が、やはり「凡人」との比較によって初めて「天才」として証明されるのと同じように。例えばその「天才」のひとり、「スタイルを持たない画家」が、いくらどんなスタイルにも拘泥しないといえどもそれは「スタイルを持たない」というその一点においてやはり間違いのないひとつの「スタイル」でしかないのと同じように。僕たちの前提なんていうものは、いとも簡単に、他でもない論理的思考によって、突破されてしまう。極端な話をするならば、この世に生きる誰一人として、宇宙の前提を知らない。無の前提を知らない。前提の前提を知らない。論理的思考なんていうものは、それを擁護したいものが捏造した都合のいい前提の上にのみ成り立つ屁理屈に過ぎないのだ。そして言うまでもなく、世界はそうやって回り続けてきた。自分が何のために存在するのか、その意味すらもわからずに。ある意味で、すべてが正しくて、すべてが間違っている。だとしたら、世界にはすべてがあって、すべてがないのと同じだ。ビッグバンとかいう大いなる不条理を孕んだ都合のいいひとつの前提の上に「成り立っていることにされている世界」。だとしたら、戯言とはまさに、世界そのもののことである。
 それでも、だ。それでも、僕たちは生きている。

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