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ベンジャミン・バトン

睡眠不足と最初は全然期待してなかったのとで
三時間あるうちの最初の一時間は寝てしまったけど、
途中でいろいろ考え始めてからはもう一切眠れなくなってしまった。
ブラット・ピット主演の話題作『ベンジャミン・バトン』はそんな映画でした。

歳をとるにつれて若返る肉体、という過剰な設定は、
本作が描いている「生と死」とか「運命」とかの
スケールが異常に巨大でとっつきにくくて強権的なテーマを
観ている側にとって近づきやすいものにするためのギミックに過ぎないのではないか、
と思えるほど、僕にはどうでもよかった。

ラスト・シーンがもうひたすら良い。
ダンサー、アーティスト、お母さん、シェイクスピア・フリーク・・・・・・。
様々な人がそれぞれに辿り着いた「どこか」と呼べる場所を、全力で祝福するラスト。
それは、決して「運命」などという超然的な何かではないから。

時計の針は動き続ける。

The Curious Case of Benjamin Button
ベンジャミン・バトン
運命なんかにうなだれるな、あなたはすべてを選んでいる
 人は、死とはある日の突然の来訪者のように期せずして「訪れる」ものだと言うが、それは違うと思う。死は人間に突如襲い掛かる不幸ではない。人間は、生を享けたまさにその日からすでに、死を内包している。ゴールのマスがない双六なんてどこにもないのと同じように、僕たちの命は生と死をまったく同等に意味している。それでは僕たちが生きるということがいったいどういうことかと言うと、それは「死の摘出」と言うことができるかもしれない。僕たちは、生まれた瞬間、赤ん坊という名の無力である。無力、すなわち何もできないということはしかしこの場合において、これから何だってできるという無限の可能性と同義である。そして、未来に提示された限り無い可能性の中から、僕たちは自分を自分たらしめる可能性をそれぞれに選び抜いていく。可能性を選び抜くということは、その他の可能性をすべて不可能にするということである。僕たちは、歳を重ねるにつれて、自己を明確にしていくことと同時に自分にはできないことを増やし続けていく。そして、すべての人間に等しく残された最後の可能性が死なのだとすれば、僕たちは、それぞれ掛かる時間に違いはあるとしても、無限の可能性の中から最終的に死を選び抜こうといているのかもしれない。
 これから何だってできるという無力さ。何もないようで、そこにはすべてがある。すべてがあるようで、そこには何もない。つまり、それは何でもない。「何か」と呼べる特定の何かではない。ただ僕たちは便宜上それを「赤ちゃん」「赤ん坊」と呼んでいるだけのことだ。何でもないものから始まった僕たちはそれぞれに可能性を選択しながら自分の中に特定の「何か」を形成していく。「何でもないもの=どこでもない場所」から「何か=どこか」へ。生きるということがしばしば「居場所探し」と言われるのは、つまりそういうことである。それならば、僕たちが探している究極的な居場所は死なのだろうか。僕たちの辿り着くべき約束の地は本当にそんなところにあるのだろうか。心情的に、僕はその答えにどうしても納得できない。
 死が僕たちの辿り着くべき場所であるということ。それは、僕たちが「何でもないもの」のままでいられた時にのみ有効な答えである。他の誰かにも通用するおざなりの呼称のままで死を迎えた時、その答えは真実である。しかし、その可能性はほとんどあり得ない。なぜなら、僕たちは無限の可能性を内包した無力として始まっているからだ。そう、僕たちは「死によって死する」という可能性を選ばないという可能性を内包している。それは「死以外によって死する」という可能性である。特殊な事例を除いて、動物は自殺をしない。それなのにここ日本だけでも一日に80人以上もの人間が自殺をするメンタリティとは、まさにそれである。彼らは本来的な死によって死んでいるのではなく、耐えがたい喪失や絶望や僕たちには想像もできないような何かを理由に死を選択しているのだ。それも、首に縄をはめる前に。遥か眼下に広がるアスファルトに向かって飛び立つ前に。鼓動が途切れる前に。僕たちは、自分の双六の最後のマスを、すでにそれぞれ書き換えているのだ。
 始まりがどこでもない場所ならば、やはり終わりもまたどこでもない場所なのではないかと思う。いや、どこかのようで、どこでもない場所と言おうか。可能性が無限であるならば、結果も当然のように無限である。それを選び抜く行為もまた無限であり、それはどれかひとつを選び抜くこともなにひとつ選ばないことも同時に意味している。人は、「生と死」や「過去と未来」の複雑な繋がりについて、「運命」という言葉の神秘的な響きに頼りすぎである。そんな言い方をするから、そこに時として避けがたい威圧的な重さを感じてしまうのだ。すべてはあなたの「選択」である。それの連鎖である。起らなかったことは、100%起り得なかったこと、あなたが起こさせなかったことだ。これから起るであろうことは、100%起り得ること、あなたが起こさせることだ。選べない運命なんてどこにもない。すべてがあるようで、何もなくて、どこかのようで、どこでもない。そんな場所で、何かを選んだり選ばなかったりするということは、そういうことである。
 ゴッホは言う。「星々の高さとその無限を感じること。そうすれば人生はほぼ魅力的に映る」。人間の想像力が宇宙をも内包する圧倒的な広がりを持っているということをまずは理解しろということだ。時計の針は今も、いつかであり、いつでもない時を指し示している。それが前に進もうと後ろに進もうと、別にたいしたことではない。時はあなたを拘束し得ない。すべては、あなた次第なのだ。
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18:33 | 映画 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑
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コメント

#
素敵☆
by: hisako | 2009/02/21 01:04 | URL [編集] | page top↑
# hisakoさんへ
ども笑笑

本当に素敵な映画でしたよ!
最初寝ましたけど笑
by: 幸大 | 2009/02/22 00:13 | URL [編集] | page top↑

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