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No.01

Hold On Now, Youngster...
/ Los Campesinos!

Los Campesinos!-Hold On Now, Youngster
人間ども集まれ! 僕たちは世界なんて救えない!
 08年は本当にひどい一年だった。こんなちっぽけな島国の中でさえ、ガソリンとか株とか食品偽装とか失業とかころころ変わる総理大臣だとか、いったいどうすればいいのかわからなくさせるような問題が次々と巻き起こっていた。そんな一年を表す08年の漢字は「変」だったわけだが、それは08年をズバリ言い当てると同時に未来への切な願いのようにも思える絶妙な一文字だった。海外でもまるで魔法の言葉のように「チェンジ」が叫ばれていた一年。08年、世界は明らかに、行き詰まり、立ち止まっていた。『モダン・ギルト』のベックが、まさにそうだったように。
 しかし、そんな混沌の渦の中心で行き場を失った世界を、少なくともここではないどこかへ連れて行ってくれるかもしれないある意味でものすごく極端な思想を持ったバンドが昨年登場していたことを、あなたは知っているだろうか。彼らの名前はロス・キャンペシーノス!。スペイン語で「農民」を意味する言葉を音の面白さだけでバンド名に選んだという軽さに無責任なエクスクラメーションをたずさえたこのアホ臭いバンド。ベックやオアシスのような大物を超えるバンドでないことはわかっている。それでも、『Over The Border』が選ぶ08年のベスト・アルバムは、そんなロス・キャンペシーノス!のデビュー・アルバムである本作『ホールド・オン・ナウ、ヤングスター…』である。何も考えていない軽薄さとほとんど紙一重のこのアルバムを選んだ理由は、彼らのエクスクラメーションのその先にあるひどく極端な希望に賭けるというただその一点のみ。誰が何と言おうと、僕はこの希望に騙され続けるつもりだ。

 人が、自分を無力だと痛感する時とはいったいどんな瞬間だろうか。大好きな異性に思いを伝えられなかった時、大切な誰かを守れなかった時、身を粉にして働いてきた会社に首を切られて路頭に迷った時、歌っても歌っても変わることのない世界の景色に立ち尽くした時――いくらでも挙げることができる。そして、そんな絶望感がどこから生まれるのかというと、それは、例えば「世界の景色を変えることができる」、という明るい希望を無効にする挫折感からに他ならない。希望と絶望は隣り合わせ、とはよく言われることだが、つまりはそういうことである。可能性を広げるということは、それと同時に不可能性を広げるということでもある。「最新コンピューターを使いこなせる」ということが「最新コンピューターを使いこなせない」という不全を一部に引き起こすように、「生まれる」という始まりに必ず「死ぬ」という終わりがついて回るように、両者はどうしようもなく引き裂き難い。僕たちが折に感じる無力感とはつまり、いつだって「~ができる」という有力感の裏返しなのだ。
 人間はなぜだか基本的に可能性が増えることを肯定的に捉えるようなっている。僕たちの遠い遠い祖先が転がっている木の棒に何らかの使い道を与えてしまったその時から、人間はあらゆるものに可能性を求め始め、火を起こし、家を建て、文明を作り、文化を発展させ、自分たちの領土を地球の外にまで作り、あらゆる「できること」を次々と増やし続け、進歩していったとされている。しかし、無力が常に有力について回るものならば、人間はその長い歴史の中で「できないこと」もまた次々と増やしてしまったといえるのではないだろうか。木の棒によって獲物が殴り倒されたまさにその時、一部の猿は「動物」を脱却して「人間」へと生まれ変わった。そう、彼らは人間に「なれてしまった」。つまり、動物にはもはや「なれなくなってしまった」のだ。僕たちの過ちはすでにそこから始まっていたのかもしれない。「動物」から「人間」に生まれ変わった彼らはその後も「進歩」という名の下に数々の「できること」と同じだけの「できないこと」を作り上げていく。
 決定的なものは「個人性の確立」だと思っている。巧みな言語力を獲得し、思考を逞しくさせ、プライヴェートというまったく新しい観念を作り出せてしまった時、「動物」を脱却した「人間」は、そこから更に「個人」というそれぞれがまったく別々の生き物へと生まれ変わってしまった。猫とタンポポがお互いに支えあいながら生きていくことなどできないように、僕とあなたもまた同じ世界に立つことなどできやしないのだ。それで、いったいどうして僕があなたを、あなたが僕を救えるだろう。

 ロス・キャンペシーノス!が、本作で「二組のゴスペル聖歌隊でさえ僕らを救えない」とか「この曲は君の恋愛を救えない」とか「ギターを抱えた汗だくの四人組の男の子は僕の人生を代弁しない」とか、とにかくそういった徹底的な「個人」、すなわち「自己」を、片っ端から喚き散らしているのを聴いていて思うことは、そういうことだ。そして、ゴスペル聖歌隊がロス・キャンペシーノス!を救わないのならば、ロス・キャンペシーノス!もやはりまたゴスペル隊を救い得ない。彼らの歌は、もはや当然のように僕やあなたを救い得ない。そんな無力さを認めるような彼らの歌は、しかしなぜこんなにもキラキラと輝いていて楽しげなのか。なぜこんなにも陽気なポップネスが弾けているのだろうか。「この指とまれ!」と声高らかに掲げられた人差し指のように、どうしてこんなにも僕たちをそこに集まらせようとするのか。
 彼らのポップネスとは、この歌を僕たちに歌わせるための引力に他ならない。僕たちというそれぞれの「自己」に、自分たちが無力だということを認めさせるために他ならない。今の世の中を見ていて思うことは、山積みにされた問題の数々は、僕たちが何かを「できる」ようになるために、それと同時に生み出してきた「できないこと」の蓄積なのではないだろうか、ということだ。彼らはそれを認めろと歌っているのだ。僕たちはもはや、「人間」などという立派な生き物ではないということを。

 前にも一度紹介したが、手塚治虫の漫画に『人間ども集まれ!』という作品がある。男でも女でもない、人間の繁殖にまったく関係のない第三の性を持った「非・人間」としての人間を人工的に造り出し戦争に利用するという血も涙もない話なのだが、結局のところ誰一人として満たされることのないあの物語の結末を読むと、科学を極めて未来の可能性を押し広げたところでその分の「できないこと」に僕たちはやはり押しつぶされてしまうのかもしれないと思う。便利な乗り物が、快適な生活空間が、やはりどうしようもなく地球の汚染に加担してしまうように。
 「個人」の問題だってある。「人間」「非・人間」といった単純な二分化を行っても彼らはそれとは違った「自分」の目線からやはり世界を見つめていた。自分だけの確固たる世界をそれぞれが作り上げ、そこに幸せを見出し、しかし誰も自分をわかってはくれないと嘆くのだ。遠い昔だったら食べ物を分けてやるだけでもうひとりの人間を救えたかもしれない。でも、僕たちはもはやそうではないのだ。あなたがくれた食べ物は、やはりどうしようもなく、僕の世界を救い得ない。
 食べてセックスして寝てれば「できないこと」など何もなかったのに、そこに留まることが出来ずに「進歩」と自分たちを正当化しながらここまで来てしまった僕ら。その結果がこれである。自分で自分の首を絞め続けた挙句未だにそれに気付いていない愚かで無力な僕たちを、だからこそ手塚治虫は「人間ども」と呼んだのだ。自分ひとりを救うために、他の誰かを救えなくなってしまった僕ら。僕たちはもう「人間」じゃない。「人間ども」。そんな間抜けな呼称で十分である。

 さあだから! だから人間ども集まれ! もはやひとつの世界を共有してなどいない僕たちは、当然のようにこのおっきな世界を救えない! でも、それの何が悪い!? それでいいじゃないか! 他の誰かを救えない僕たちが、みんなの世界を救えるわけがないじゃないか! 今から何かを始めるなら、まずはそこを認めてからだろう!? 僕が「人間として」ではなく「僕として」生き続ける限り、あなたが「人間として」ではなく「あなたとして」生き続ける限り、僕とあなたを救う希望はこの無責任なエクスクラメーションの先にしかない!
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14:05 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑
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