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No.02

Modern Guilt
/ Beck

Beck-Modern Guilt
21世紀はもう完成しない
 ベックは時代を測る物差しだと言われてきた。ベックの動向を追えば時代の最先端を自然に掴むことができると言われてきた。しかし、21世紀を迎えてからだろうか、ベックの最先端をキャッチするアンテナは徐々に錆び付いてきた、とも言われてきた。そして、そんな衰えの見え始めたベックの起死回生を懸けた一枚だった本作は、例えば『シー・チェンジ』のような、あえて先端的時代性に固執することなく内省の深みに沈んでいくような、ある意味では立ち止まりのアルバムとなった、と一般的には言われている。
 でも、本当にそうなのか? 僕には、そんなカテゴライズではひどく居心地が悪いアルバムに思える。これがもし本当に内省のアルバムなら、なぜベックはタイトルに「モダン」という時間的な制約を掛けなければいけなかったのか? これがもしベックの個人的な内省の物語なのだとすれば、そこに時間は必要なかったはずだ。内省の深みを測るものは時間や事象ではない。ひとりの人間が内省の淵に沈むとき、時間は自然と脇に寄せられ、止まるものなのだ。『シー・チェンジ』はまさにそういうアルバムだったじゃないか。だとしたら、本作でベックが語ろうとしたモダン性とはいったい何なのだろうか。どうやら音楽的に新しいことをやっているようではない。心にぽっかりと空いたエアポケットのような虚無の漂う本作。これはもしかしたら、今という時代にこそ存在する「何か」の描写やメタファーではなく、21世紀という最もモダンな時代に、決定的に「欠けているもの」という意味で初めて成立するモダン性なのではないだろうか。いつもの笑顔を捨て去り、静かに凪いだ風のように俯くベックの姿。それはまさに、置き去りにされた空白そのもののようではないか。
 でも、それはあくまでイメージの話でしかない。では本作で実際に歌われていることとはいったい何なのか。一曲目“オーファンズ”の第一声、つまり本作の幕開けを飾る言葉は、「どうやら座礁したようだけど、どこに辿り着いたのかわからない」という居場所の喪失である(タイトルは「孤児」という意味)。続く“ガンマ・レイ”では「今日何を失ったのか、それが知りたい」、“ケムトレイルズ”では「あのたくさんの人は、いったいどこへ行ってしまうのか」、表題曲“モダン・ギルト”では「何をしてしまったのかわからないけど、でもなんだか恥ずかしく思う」と歌われている。冒頭四曲だけですでにこれだけの「わからない」が溢れている。自分が今立っている場所も、これから向かうべき場所も、どこからやってきたのかも、自分が何をしてしまったのかも、ひいては自分自身という存在さえ、ベックは「もう僕にはわからないんだ」と歌う。これだけの情報過多の時代に、すべてがクリックひとつで得られる時代に、ベックは「何もわからない」と歌う。キャッチすべき情報の余りの膨大さを前にして、ベックは本作で確かに立ち止まってしまっている。
 ベックは、「本作を貫いているのは二面性だ」と語っている。それは例えば“ケムトレイルズ”がモチーフにした、化学物質に侵された、でもそれゆえに美しい色を放つあの空の、神秘とその裏側に隠された愚劣な事実というまさにそういった二面性である。物事の裏側にある複雑さはいつだって表に現れる時には驚くほど単純化されている。そういうことは、よくあるのではないだろうか。本作は10曲35分という下手したらペラペラになりかねないほど簡潔なアルバムである。それでも本作が決して軽いアルバムになっていないのは、その表に現れる単純性の奥底で、ベックがやはり「わからない」を繰り返しながら本気で複雑な問いに思い悩んでいるからだ。その逆も言える。自分を取り囲む膨大な情報を前にした時、その選択肢の多さゆえに「わからない」という余りにも単純な回答しか見出さないということ。そして、「達観」はいつだってそんな境地から導き出される。すべてを通過し、すべてを吸収しようとし、それでもそれが不可能だと自覚した時にこそ、「達観」という圧倒的な俯瞰力はこみ上げてくるのだ。つまり、ベックの本作での「わからない」は、さじをポーンと投げ捨てる放棄としての「わからん」ではなく、それが21世紀を生きるということの「達観」として機能しているのだ。そして、その時点で、やはり「達観」とはどうしようもなく二面性を孕むものだということがわかる。なぜなら、それはまさに世界の構造そのものだからだ。すべてがあるように見えて、実は確かなものなど何ひとつ存在していない世界。僕たちが生きている空間は、そういう場所だったのではないだろうか。
 自分も世界ももはや何もわからないベックが、それを「わからない」と歌うことを「現代の罪悪感」と呼んでいる。しかし、ベックが「わからない」ことに対して抱いているその絶妙な感覚は、果たして本当に「罪悪感」と呼べるものなのだろうか? 何もわからないのに、なぜそれを「罪悪感」と言い切ることができる? ベックが語り出す「現代の罪悪感」、それは、ここで恐ろしく不明瞭なものになってしまっている。しかし、それで良いのだ。そうでしか、あり得ないのである。本作におけるベックの苦しみは、そこにこそあるのだから。世界が「チェンジ」をひたすら待ち望む21世紀という時代。何かが変わらなければ苦しい現状は確かに終わらない。でも、刷新にしか救いを見出せなくなってしまった僕たちは、事実として何かが変わってしまう前に、一旦立ち止まってその無力さを認めるべきなのではないだろうか。そう、『モダン・ギルト』とは、「現代の罪悪感そのもの」ではなく、それをすでに失ってしまった僕たちが味わうべき「敗北感」に他ならない。
 そして、ベックとは、やはりそういう人だったのである。“ルーザー”で「俺は負け犬、さっさと殺したらどうだ?」とグランジとジェネレーションXの敗北を誰よりもいち早く認めてみせたあの頃から、ベックはそうだったのである。僕たちが背負うべき「罪悪感」がどういうものかわからなくなってしまった時点で、僕たちはすでにどうしようもなく負けているのだ。「罪悪感」という、どこにも見当たらない21世紀最後のピースは、すでに彼方へと失われてしまったのだ。そして、次に進む前に、まずはそこを認めなければ何も始まらないと、ベックはそう歌っているんだと思う。
 これがベックの最高傑作かどうかはわからない。でも、これがベック史上最大の問題作であることだけは確かだ。当然、自分の敗北をそう簡単に認められる人などいない。これは、残された21世紀をどのように生きるのか、その運命を左右する踏み絵のようにして聴かれるべき作品である。
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