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No.07

Intimacy
/ Bloc Party

Block Party-Intimacy
世界が衝突する時
 賛否両論、というか、明らかに過小評価されているブロック・パーティーのサード・アルバム。高く評価している人もサウンドのデザインとかどうでもいいことばかり言っている。書いて録って出して、という熟考する間を置かずに即リリースの形が取られた本作は、ひとつのコンセプトを基盤にして着実に積み上げていった前作に比べればどうしてもとっ散らかった印象を受けるかもしれない。このアルバムが示しているものは明らかに「完成」ではないし、そういう意味では中途半端な内容のものかもしれない。だが、このアルバムは「過渡期」の一言で終わらせるには余りにも重要すぎるひとつの「始まり」を告げている。そもそも彼らがこのアルバムを手付かずのまま発表することを決めたのもそういう理由からだろう。早く次に進みたかったのだ。つまりこれは、「始まり」として完了することを前提とした物語なのだ。
 冒頭曲“アレス”の時点で、本作でブロック・パーティーに起こった変化の大きさは明らかだ。前作は特にそうだったが、これまでエモーションとして鳴らされていたギター・サウンドが、本作ではあくまで楽曲を構成するための音の要素のひとつというところまでその意味を失っている。響きがエモーションの高まりではなく、荒々しいが無感情に鳴らされているのだ。続く“マーキュリー”ではもはやギターの音は鳴っていない。かと思えば“ヘイロ”でこれまでのギター・ロックとしてのブロック・パーティーがチラリと顔を見せたりするが、それも“ビコ”で再び隠れてしまう。その代わりに表に現れているのは、ダンス・ミュージックとしての激しい変則ビートや機械によるハイ・レベルなプロダクションだ。そう、本作でのブロック・パーティーはもはやギター・ロックのバンドではない。ギターに対してある意味でひどく無責任になってしまっている。なぜか。ギターではもはや、歌そのものの描き出す圧倒的な世界観を内包することができなくなってしまったからだ。
 本作でブロック・パーティーが迎えた変化の最も大きなところはそこである。これまでの彼らの歌は、どれも良い意味で自己完結するものばかりだった。デビュー作『サイレント・アラーム』が抽象的な表現で覆い尽くされていたのはまさにそういうことだったし、前作にあたるセカンド『ウィークエンド・イン・ザ・シティ』はケリーが自分の中に眠る個人的な記憶やトラウマを通して世界を見つめようとする試みだった。だからこそこれまでの彼らの歌は(例外はあるが)どれもギター・ロックの範疇を過剰に超えることはなかったのだ。それが本作ではどうだろうか。本作の『インティマシー=親交』というタイトルは、ケリーが本作の内容を改めて俯瞰した時に、決してコンセプトに沿って作ったわけではないのにここにある歌がそれぞれに何がしかの人間関係を描いているような印象を受けたことから付けられた。
 小説家の舞城王太郎は僕たちひとりひとりの人間がリアリティを持って把握し得るそれぞれの世界観を「密室」と呼んだ。同じく小説家の白石一文はそれを宇宙に浮かぶひとつの「惑星」に例えた。意味するところは同じである。この考えを前提とするなら、密室と密室、惑星と惑星の衝突、つまり、人と人が関わり合うということは、あるひとつの接合点を共有しながらも、その裏側にはそれぞれが他者である限り絶対的に不可侵の領域が広がっている、ということだ。人は誰しも自分だけの世界を持っている。そのひとりの人生を生きているのはまさしくそのひとりの人物本人しかいないなのだから、当たり前である。同じ記憶、思い、バックグラウンドを持って生きている他者などこの世には存在し得ないのだ。人と人が関わり合うということは、それそのものがすでに世界と世界の衝突なのだ。当たり前に聞こえるかもしれない。そして、他者の作った音楽をまた別の他者が聴くという行為もまた、そうなのである。それがコミュニケーションとして成立する以上、それもまた世界と世界の衝突なのである。しかし、その新たな世界観との関わりをしっかりとした実感を持って感じさせてくれるアーティストは実際にはほとんどいない。今思い浮かぶのはベックとレディオヘッドぐらいだ。そして、ブロック・パーティーが本作から描き始めた世界観は、そういうものなのである。ケリーの詞はもう自己完結できる内容のものではなくなってきている。自己の中に求め続けてきた対峙すべき世界を、ケリーはついに他者の中に求め始めた。ケリーは、向き合う他者のその背後に、明らかに世界を見ている。人と人が関わり合うことで発生する世界と世界の衝突。このとっ散らかったアルバムをひとつに結んでいるものがあるとすれば、それはその衝突の瞬間の記録である。それは同時に、僕やあなたという世界が、ブロック・パーティーというひとつの世界と衝突するまさにその瞬間でもあるのだ。これは、そう言い切るに十分すぎる強度を具えたアルバムである。ロックンロールのグルーヴとは、音や言葉ひとつで自分だけのオリジナルな世界観を広げてみせるまさにその圧倒的な強度のことを言うのではなかっただろうか。
 ある有名音楽評論家が「レディオヘッドは21世紀型のモダンなロック・グルーヴを、まったく独自の形で作り上げたバンドだ」と言っていた。そしてそのグルーヴとは、「ただ聴けば一発でそれとわかる不思議なもの」で「しかもアコギ一本とヴォーカルだけで実現可能なもの」と。本作の日本盤ボーナス・トラックには“タロンズ”と“サインズ”のアコースティック・ヴァージョンが収録されているのだが、その内容はまさしくそういうものになっている。とは言えこれはまだ始まりの物語に過ぎない。衝突した世界に広がる新たなる景色を僕たちが目撃する日は近い。
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