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言葉にし難い傑作

Seeing Sounds
/N.E.R.D

シーイング・サウンズ


音楽に最も求められるものの存在について
 テレビで某大手音楽会社の株主優待ライブの映像を何となく観ていたら、しばらく活動を自粛していた歌手はステージの上で歌いながら涙を流し、アメリカで音楽の勉強をして帰ってきたかつてのアイドル歌手は「これからも歌を皆さんに伝えていきたい」と感極まっていた。初めて思ったことではないけど、それを観た時、なんだか音楽はあまりにも美しいものに図々しくも成り上がってしまったような気がして、僕はとても居心地が悪かった。二人のやったことは絶対に間違っていない。誰も責めることなんてできるはずがない。でもだからこそ、僕はそのあまりの「正さ」に息が詰まりそうになった。人々に愛される音楽は、その根底に渦巻く複雑な何かをすっかり失ってしまったような気がした。今更、だけどね。
 先週、大学のある授業で、アメリカのメインストリームにおける黒人音楽の歴史を簡単に振り返ることがあった。それで改めて実感したのだけど、ちょうどMTVが台頭し音楽のエンターテインメント性が強調され始めた80年代から、黒人音楽も御多分に漏れずその意義を急速に変質することを求められたような印象を受けた。それまでは、「黒人が歌う」ということそのものにどうしようもなく必然的な「悲しみ」が含まれていたのだ。その「悲しみ」の正体とは、アフリカから強制的にアメリカに運び込まれた黒人たちがもう故郷には帰れないことを自覚したその瞬間から脈々と受け継がれてきた、黒人だけが共有できる黒人音楽の本当の中身であり、そんな歴史の延長上に今もなお鎮座し続けている黒人差別から生まれる、黒人が歌を歌わなければならない根底の意味だった。今はどうだろう。現代の黒人音楽を代表するスタイルであり、メインストリームを圧倒するほどの巨大な力を手に入れたヒップ・ホップは(もちろんすべてがそうではないが)、「カネ、車、オンナ、マッチョ」だけで語れるいけ好かない音楽に自ら価値を下げてしまったと僕は考えている。ヒップ・ホップには、もう闘志の欠片すらも感じられない。僕が知っているそもそものヒップ・ホップとは、どんな音楽よりも格段に言葉の比重を高め、それを「武器」にまで昇華させた「闘争」の表現である。そこにはやはり、醜悪な社会と向き合わなければならない必然があった。
 株主優待ライブの映像を観て僕が思ったことと、ペラッペラに骨抜きされた黒人音楽の現状には、美しすぎる形のまま巨大化してしまった現代の音楽が抱えている恐ろしく根源的な「欠落」が見える。「必然性」でも「熱意」でも良いが、その失われた何かを最も手っ取り早く伝える言葉。人は、それを「魂」と呼ぶ。そう、音楽は、時代の流れと共に「魂」を失いつつある。「魂」からでしか生まれるはずのないロックでさえ、もう「魂」ごと震えているような作品にはそうそうお目にかかれない。でも、僕が音楽に最も強く求めているのはそこである。「ポップ」でも「キャッチー」でもなく、すべてを塗り変えてしまうようほどの強烈な意志を持った「魂」。音楽はそんな「魂」の力のみによって更新され、前に進み続けてきたはずだ。テクノロジーの発展なんて二の次三の次である。なめてもらっては困る。
 このアルバムを聴いて、「売れ線」とか「ファッション的」とか言ってるやつがいたら、悪いことは言わないから本当に音楽を聴くのなんて止めた方が良いと思う。多分、君が音楽から新たな何かを見つけることは、もう死ぬまでないと思うから。それぐらいこのアルバムはすごい。単刀直入に言ってしまえば、本作でもN.E.R.DはN.E.R.Dだった、ただそれだけのことである。こいつらやっぱり最強。N.E.R.Dは、現在のアメリカが誇る最高峰のロック・バンドである。
 念のために言っておくが、N.E.R.Dはヒップ・ホップ・グループではない。勘違いのR&B集団でもない。黒人の安全圏内から大胆に飛び出して、ロックの首根っこを鷲づかみにした、紛れもないロック・バンドである。ネプチューンズ二人の編集センスがすごいだけじゃないの?なんて思われていそうだが、いや、もちろんファレルとチャドのコンビは最高である。「今一番イケてるもの」を音として具体化させることに懸けては天才的な才能の持ち主である。ただ、彼らがN.E.R.Dでやろうとしている音楽は、もっともっと本質的な意味での「ロックであること」に重点が置かれている。
 一旦発表された機械によるプログラム重視のファースト・アルバムを、納得がいかないからという理由で収録曲すべてを別のロック・バンドに演奏し直してもらって新たに作り直したというのは彼らの有名な話。すでに発表された作品を録り直すなんていう無茶も、自分たちの作品に強烈な何かを吹き込むための冷静な判断だったんだろう。セカンド・アルバムでは、彼ら自身が演奏することでエグイくらいの肉体性を放出することに成功した。スタイルとしてはヒップ・ホップもファンクもジャズもロックも一緒くたにぶち込んだ一種のミクスチャーとしての体裁を保っているが、N.E.R.Dではそんなスタイル云々よりも「自分たちはミュージシャンである」という意地とプライドが熱く立ち上ってくる。それは、自分たちが実際に楽器を取って演奏しているかどうかではなく、「音を鳴らす」という音楽の始まりの場所に彼らが求める「必然性」であり、「熱意」であり、「魂」だ。スタイルはその後についてくるものでしかない。そういう意味で、どれだけ機械を前にして音楽を作り上げていたとしても、N.E.R.Dにおいての彼らは音楽への深い理解でもってとてつもなく意識的なミュージシャンとしてあろうとしている。
 『シーイング・サウンズ(音が見える)』と題された本サード・アルバムは、そんな彼らのひとつの高みといっても良いアルバムだと思う。ファースト・アルバムでは未完成に終わった、機械から生まれるサウンドに「魂」を吹き込むことに大成功している。前作のような野生的な欲求は抑えて最高にクールでかっこいい音を探り当てながら、どんな美辞麗句も置き去りにしてしまうような、「魂」としか言えない何かが激しくうごめいている。黒人音楽が背負い続けてきた「必然の悲しみ」はもう消えつつある。そこを前提にした、それとは別質の、音楽を更に深く掘り下げた極点でN.E.R.Dが見つけた「魂」。それが、震えている。ヒップ・ホップがその根源的なパワーを見捨ててその周りでいつの間にか逞しく鍛え上げられた「筋力」のみでシーンにのさばり、大衆的なメインストリームの音楽ならまだしもロックまでもがそれに対する明確な危機感を鳴らせずにいる今だからこそ、彼らはこの作品を作ることができた。本来のロック・バンドよりももっと本質的な問題と向き合い、自身を前に進めるロック・バンド。それがN.E.R.Dである。08年、今のところ最も音楽そのものの在り方に接近し、最も「魂」を震わせている作品。多分、音楽の底の方まで、彼らには「見えている」んだろうな。ラカンターズやコールドプレイの新作も素晴らしかったけど、個人的には断然こっちを支持。
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