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徹底検証 第5弾

「言葉」の力
 音楽の携帯化・ファッション化に僕が個人的に抱えている危機感についてはこれまで何度も書いてきたけど、最近の音楽に対する不安は決してそれだけではない。むしろ、携帯化・ファッション化は音楽の聴き方や価値を変えることはあるが、音楽という表現のそもそもの中身は何ひとついじくることができない分、まだまだ生易しい方かもしれない。音楽の将来に暗い影を落とす忌々しき問題は、他にも残されている。
 ヘヴィ・ロックがエンターテインメントとして肥大化し、だぶついていた90年代後半のアメリカの享楽的な空気は、そのまま持ち越されることなく9.11によって激変した。「今、歌うべきこと」と向き合いながら自分たちのアイデンティティの根本的な部分にまで視野を深めていったアメリカのロックは、『アメリカン・イディオット』を生み、『ネオン・バイブル』を生んだ。言わなければならないことを正確に言葉にし、アメリカのロックは真に迫っていったのだ。そして、アメリカのロックが次に向き合わなければいけない問題は、これから何を歌うか、だ。難しいが、アメリカのロックには未来がある。
 イギリスのロックは、どうでも良いことを歌っている。ロックが普遍である意味を歌ったザ・ヴュー、違和感を忠実に具体化してみせたブロック・パーティーなど、良いバンドはいる。でも、それもどこか突き抜けていない印象がある。どれもそのバンドの個人的なエモーションに収まってしまっていて、「時代の声」になっていないのだ。そして、それは日本でも同じだ。果たして僕たちはいつまでEXILEやコブクロで気楽な気持ちに浸かることができるだろうか。
 全ては「言葉」である。「言葉」は、気持ちであり、価値観であり、器だ。大きな「言葉」の器を持っていなければ、それだけ多くの思いや情報を取りこぼしてしまう。そして、その器から引き出す「言葉」も、限られたものになってしまう。最近の音楽に足りないところはまさにそこである。伝える側にそれが欠けているから、受け取る側も“NO MUSIC, NO LIFE”で終わってしまうのだ。それではいけない。音楽の表層的な部分だけを舐め回して悦に入っていてはいけない。今回の『徹底検証』で取り上げるのは、そこに強く訴えかけることのできるバンドだと思っている。
 ザ・スミス。現在のところイギリスで最後の「言葉」のバンドである。彼らが残した4枚のオリジナル・アルバムを通して、その「言葉」がいかに強烈な説得力を伴っていたかを振り返ります。
 『徹底検証』です。


The Smiths
The Smiths


あなたの「ロック」を裏切る歌
 ロックほどロマンチックなものはないと信じている。ラブでもピースでもハーモニーでも何でも良い。ロックは、未来を約束する表現だと思っている。どん詰まりの現状をどうにか打開するために、未来に輝いているはずの光に思いを馳せる、そんな「夢」という手段だと信じている。誰が何と言おうとそうである。僕の全ロック体験を懸けて、そう宣言する。でも、スミスの場合だけは例外を許して欲しい。スミスを聴くと、僕の中のロックは「夢」からベリベリと剥がれ落ちて、暗く深い闇へと沈んでしまうのだ。ラブもピースもハーモニーも、そしてそれらを歌うロックだって、すべて嘘っぱちだ。信じられるのは欲求にバカ正直な下半身だけである。そして少年は愛する人に股間を摺り寄せながら、絶望する。今なお英国で厄介な論争を巻き起こす発言を繰り返していることからも容易に理解できるが、モリッシーという男が地でいく変態であるためにスミスの作品はどれも本質的な部分を一切外していない。デビュー・アルバムである本作にしてすでにその表現型は堂に入っている。処女作にありがちなロックの輝かしい可能性に酔いしれるロマンチシズムは、一粒たりともない。モリッシーはロックが最終的に堕ちるべき肥溜めから言葉を拾っているのだ。ロックは無力だ、と。


Meat Is Murder
ミート・イズ・マーダー


全ての人間が共有する孤独と絶望について
 もともとはコンピレーション・アルバム『ハットフル・オブ・ホロウ』に収められ、オリジナル版には収録されなかった楽曲だが、後に再リリースされた際にはイギリスでも追加収録されたスミス髄一の名曲、“ハウ・スーン・イズ・ナウ?”について書きたい。モリッシーの書く詞の主人公は、毎晩ベッドで孤独を抱きしめながら自分の運命に絶望する「僕」であることがほとんどだが、“ハウ・スーン・イズ・ナウ?”ではそんな「僕」の目に映る「君」が無感情に説明されている。「クラブに行けば君のことを本当に愛してくれる誰かに会えるかもしれない/だから君は出かけて行って一人でつっ立ってみる/そして結局一人でクラブを出る/家に帰り/泣き/死にたくなるんだ」。そう、ここで語られる「君」の情けない姿とは、紛れもなくこれまでモリッシーが歌ってきた「僕」のそれと同一のものである。スミスの表現の核心部分に聴き手が急接近する数行だと思っているのだが、どうだろう。スミスの音楽が持っている多分に気色悪さを含んだ異常なほどの普遍性――それは聴き手の心に乗り移る「ひとり」の存在だと考えている。独り言のように己の暗さを披瀝するモリッシーの言葉に身を沈めながら、僕たちはそこに独りぼっちの自分の姿を見ているのだ。十代特有の倦怠や怒りを代弁し、一躍スターダムに伸し上ったt.A.T.u.は、デビュー・アルバムでこの曲をカバーしている。


The Queen Is Dead
ザ・クイーン・イズ・デッド


心に茨を持った少年がそこにも
 むなしい眼差しで地面に沈む女性。『女王は死んだ』というあえて薄氷を踏むような大胆なアルバム・タイトル。股間をまさぐるようにゾワゾワと這い上がってくるモリッシーの歌声。僕が初めて聴いたスミスのアルバムがこれだった。そのどれもが危ない世界への入り口につながっているみたいで、変に血が沸いたことを覚えている(実はこのブログを始めて僕が2番目に取り上げた作品がこれ。絶対に見ないほうが良いです)。でも、最も危険な匂いを発散していたのは、言葉だった。自分が孤独でいる理由にひとつずつ直面していく“アイ・ノウ・イッツ・オーヴァー”、スミス流の「人間失格」である“ビッグマウス・ストライクス・アゲイン”、強烈に愛情を求める思いを欺瞞にまで転換させた“心に茨を持つ少年”、健全に生きることを諦めた少年が闇へと向かう様を生々しく描いた“ゼア・イズ・ア・ライト”……。それら全ての物語が「愛こそ全て」と歌ったかつての素晴らしきロックを遥かに超える説得力を持っていたことは、ロック不毛の80年代にスミスが狂信的な支持を得たという史実をめくるまでもなく、僕は実感で知っている。スミスは、ドイツの悪魔のように若者を暗い穴蔵へと誘い込んだ笛吹きなのか、屈折した想像力の限界まで辿り着いた突然変異なのか。ただ言えることは、スミスの実態は僕とあなたの心の中にも存在する、ということだけだ。


Strangeways, Here We Come
Strangeways, Here We Come


負け犬は世界の終わりを見た
 本作発表後にバンドは解散する。ザ・スミス、最後のアルバムである。そして、このラスト・アルバムでもスミスはスミスであろうとした。“デス・オブ・ア・ディスコ・ダンサー”がそれを物語っている。上に書いたとおり、モリッシーの歌う「僕」が情けない彼自身であると同時に僕やあなたの隠されざる本性であるとわかった以上、「強きを救うサッチャリズムに汲々とする最底辺の若者の思いを代弁し~」という限定的な解説は僕にはほとんど意味を持たなかった。「ラブ、ピース、ハーモニー/とっても素敵だね/でもきっと来世のことだよね」と歌い、僕たちの生活を優しく包み込む絶対的な理想主義の偶像を完膚なきまで打ち砕き、モリッシーは未来を閉ざした。スミスがまだ現役で活動していた80年代よりも夢と希望に満ち溢れているはずだった21世紀の真実を知った今のほうが、モリッシーの言葉は切実に響くのではないだろうか。平和の祭典もエコもアキバのホコ天も、全ては絶望的な馬鹿どもの手によって「死」へと収束するのだ。「ディスコ・ダンサーの死」とは、その事実を鋭く叩きつけた明確なメタファーだった。僕たちが生きる命題を根本から覆したスミスの存在は、果たして世界を変えたのだろうか。伝説と化しながらもスミスは余りにも無力だった。だからこそ、きっと僕はまたどうしようもない思いでこのアルバムを開くことになるのだ。
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