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No.6

たまたまだけど、最近このアルバムを聴くことが多かった。
このまえはカイザー・チーフスのセカンドを聴いて
あの歌謡センスのせいかやけに懐かしく感じたんですけど、
このアルバムの方が実は一ヶ月ぐらい古い。
発表されてからちょうど1年、ずいぶん長く感じる。
でも、1年前に学校の中を歩きながら聴いた時の作品の響き方と、
今学校の中で聴く響き方は、まったく変わってない。

大学生っていうのは、ほんとうにみんな同じように見えるもんです。
自分がどんな風に見られてるのかはわからないけど、
なんというか、主流な感じとは少し離れて見られてるような気がする。
僕の場合、オシャレじゃないし変な髪形だし今でもサンダルだし、
っていうネガティヴな意味で離れてるだけで、
別に意識的に離れようとしているわけではありませんが。
でも、もしあの主流な感じの一部に自分がなるとしたら、やっぱりイヤだな。
要はメジャーかマイナーかって話ですが、僕は断然マイナー側が良い。

だから、僕はフランツよりもカサビアンよりもレイザーライトよりも、
もちろんカイザー・チーフスよりも、このバンドが好きだし、共感できる。
そんな個人的な思い入れも大きいけど、
07年、アメリカのロックに比べればあまりにものん気だったイギリス勢の中で、
このアルバムは最も主張の強い作品だったと思う。
前作からの飛躍にも目を見張るものが確かにあった。
というわけで、僕の07年ベスト・ディスクNo.6はこのバンド。

No.6
A Weekend In The City / Bloc Party
A Weekend in the City



「ストレス」から「表現」への覚醒
 今だったら「フランツ以降」「アクモン以前」の価値観で区切ることのできる、イギリスで04年から始まった怒涛のギター・ロック復権現象。「第二次ブリットポップ」なんて呼ばれるだけあって、フランツ然り、カサビアン然り、レイザーライト然り、やはりお祭り特有の華やかさがあった。だからこそ、今振り返ってみるとブロック・パーティーの『サイレント・アラーム』のシリアスさだけは明らかに異質だったし、お祭りのノリにどうしてもついていけない真面目っ子みたいに、周囲から孤立していた。その尖りまくったシリアスさや表現のアブストラクトさ故にのっぺりしたニヒリズムを気取ったただの学生バンドという批判もあったが、セカンド・アルバムとなる本作を聴けば、ブロック・パーティーがただ一人御輿を担がなかった理由は一目瞭然だろう。バンドの支柱であるケリー・オケレケが本作について「自分が何を意図しているのか、完璧にわかるようにしたかった」と答えているが、それはまさに前作への痛烈な自己批判だったし、だから本作で彼らは自分たちのフラストレーションの在り処とその矛先を明確に示す必要があった。そのために自分たちの個人的すぎる経験や実感を暴露することにさえ、まったく躊躇というものを感じていない。9.11や05年のロンドン・テロ以降、そのギリギリの社会情勢と何事にも無関心な町の一角との狭間で自分たちはどれほどに苦悩を強いられたか、ブラックの血を受け継いだケリー自身が実感として知っている差別されることの居心地の悪さとは如何なるものか、ファッションという名の下に多くの若者が画一化されていく中で取りこぼされていく自分――そんな赤黒く燃え上がる生活の一場面を「ある町のウィークエンド」として僕たちの日常にまで引きずり落とした、ジャンルやシーンなんて概念すら脇に寄せてみせる大飛躍作である。上に挙げたバンドたちはセカンド・アルバムで一連のムーヴメントからそれぞれ自力で巣立っていったが、ブロック・パーティーの場合そんなことすらまるで関係がない。ムーヴメントというお祭り騒ぎには近づけないし、差別はされるし、同世代の人たちは自分のことなんて理解してはくれない――でも、そうやって格別され、孤立することこそ自分たちが「表現」へと向かうモチベーションであり、そこからくるシリアスさが自分たちを更に孤立へと追いやる。そんな終わらないサークルの中でもがき続けるバンド、ブロック・パーティー。それでも、「今」を許さないことをお前たちは止めるな。
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