村上春樹2007 / 08 / 29 ( Wed )
2日くらい前の夜にテレビを観ていたら、
「各国の人に聞いたすごい日本人」みたいなものをやっていて、 ドイツ人が選んだすごい日本人の3位に、村上春樹が入っていた。 大学では英語の他にもドイツ語を勉強してるけど、 僕はドイツ人とは仲良くなれないなと思った。 村上春樹の小説を好きな人って本当に多くて、 うちのクラスにも彼の作品を読み倒してる友達がいるし、 同じサークルの先輩も結構好きみたいだし、 バイト先の常連さんにも彼に心酔している人がいる。 なんだもうそこらへんにいるじゃないかという感じで、 いったいいくら稼げば気が済むのかと呆れちゃいそう。 そういえば、日本文学が大好きなうちの大学のアメリカ人の先生も、 村上春樹の作品のこと好きそうだったなぁ。 もう言うまでもないけど、僕は村上春樹が大嫌いだ。 僕の「三大嫌いなもの」のひとつだ。 それくらい大嫌いだ。 彼の作品、いったい何がそんなに魅力的なんだろう、 という疑問の答えを自分の中で見つけるのは思いのほかに簡単で、 率直に言えば、というか究極的に、 あの人の作品の魅力は「心地良い絶望感」だ。 「身を任せられる混乱」でも良いや。 その点ではもう並ぶ人はいないと思う。まさに一級品だ。 「村上春樹の作品を読んでいると、なんだか頭が変になりそうになる」。 よくそんなことを聞くのだけれど、そこの部分の心地良さが魅力なんだ。 そして、そんなことを言えるのは、 まだまだ彼の作品を理解できてないからなんだ。 彼の作品には絶望と混乱がとぐろを巻いていて、 それに飲み込まれるとなんだか気持ちが良くて。 それがそのまま村上作品の甘い罠だ。 話が面白いから、あの罠の引力はいっそう強いし、 一度はまったらなかなか抜け出せなくなる。 その引力の強さで、読み手の表現と理解を食い止める力が村上作品にはある。 ずいぶん遠まわしになったけど、要はあの人の作品は絶望を描けていないんだ。 あんなのは絶望じゃない。 絶望っていうのは、もっと切実な希望なんだ。 彼の作品は読み手の絶望の理解を、「絶望」までで遮っちゃう。 絶望の「その先」を見せてくれないし、見させようとしない。 あれにはまっちゃうと、もう絶望の浅い部分しか見られなくなっちゃう。 だから僕は彼の作品を読むと、いつも奥の方で危険信号が点滅します。 根本的に同じ理由で、ミスチルとmixiも大嫌いだ。 表現と理解を特定の浅い部分で遮るっていう意味で、このふたつも危険だ。 村上春樹とミスチルとmixi。僕の「三大嫌いなもの」です。 村上春樹の作品は僕のカラー・ボックスの本の列に並んでいるし、 i-Podにはミスチルの楽曲もいくつか入っているし、 僕は加入してないけど、友達のページから時々mixiで遊ぶ時もある。 でも、村上作品を読んで、ミスチルを聴いて、mixiで遊ぶたびに、 もの凄い危なさを感じる。 これを続けてたら自分は空っぽになるんじゃないかって思う。 だからもう、とにかく大嫌いです。 村上春樹とミスチルとmixiが大嫌いって言ってたら かなり多くの人からヒンシュク買いそうだけど、 それでも友達が減ったり仲が悪くなったりは今までしてこなかったから、 これからも「俺、大嫌いやねん」と言い続けます。 村上春樹とミスチルとmixiが心底大嫌いです。 長くなったのでそろそろディスク・レヴューに。 今日はウィーザーの作品。 僕はもうエモといったらウィーザーというくらい彼らが大好きで、 リヴァース・クオモの赤裸々過ぎるリリックには 本当に涙が出るくらい共感しまくってしまうダメ男です。 でも、そんなふうに聴けるのは初期2作だけだな。 ファースト・アルバムは一度紹介したことがあるので、 今日はセカンド・アルバムです。 Pinkerton / Weezer
リヴァース・クオモのペルソナ 僕は『グリーン・アルバム』(01年)でウィーザーを知って、次の年には「うぉ~おお~」と“ドープ・ノーズ”を口ずさんでいた、そんな世代の人間だ。たしか中学の頃でちょうどロックに本格的に目覚め始めた時期だったわけだけど、実は当時はウィーザーのことはさほど好きじゃなかった。あまりにも凡庸な理由で少し恥ずかしいけど、『グリーン・アルバム』も『マラドロワ』(02年)も、要はポップすぎたのだ。でも、何年かしてようやく初めて『ウィーザー』(94年)を聴いて、その時にリヴァース・クオモという男の夢想家ぶりに抱いた強烈な共感は今でも目の覚めるような瞬発力で呼び起こすことができる。それからはずっと、ウィーザーの作品は大切に聴いている。そして、誰にもぶちまけられない夢をロックに打ち明けたのがデビュー・アルバムの『ウィーザー』だったとすると、叶った夢と引き換えに失ったもうひとつの夢が本セカンド・アルバムである。 『ウィーザー』の最終曲“オンリー・イン・ドリームズ”は夢の中でしか大好きな女の子を抱きしめることのできないダメ男の賛美歌だったけど、本作1曲目でそのダメ男が開口一番発するのは「もうセックスには飽きちゃった」である。そんな不貞な幕開けから始まるこのアルバム全編を通してリヴァースは徹底してダメな自分を歌い、成功がもたらした喪失と虚無に完全に打ちのめされたひとりの男の人格を形成していく。骨抜き状態にされた男の心の壁が音を立てて崩壊し、その壁のせいでそれまで行き場もなく膨れ上がっていたものが外の世界に向かって一気に爆発する。セルフプロデュースのせいか前作よりもバンド・サウンドがささくれ立っていて、そんな部分までもがダメ男ぶりを焚き付けるように感じるのは言い過ぎかもしれないが、個人的にはウィーザー作品の中で最もエモな作品だと思っています。でも、こんなにもダメダメだからこそ、僕はずっとこの作品を聴き続けるんだろうなぁ。 おまけ Weezer-Pink Triangle スポンサーサイト
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コメント
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禿げ上がるほど同意。あなたのおっしゃる「絶望」を名刺代わりにして連帯感を築き上げている連中を見るだに虫唾が走ります。ありゃファッションですよ。勘弁。
初めまして!
もう二年以上も前に書いた記事なので、 いま読んでみると自分若いなーて思いますw ちょうどたまたまいま村上春樹を読んでいて、 それなりに楽しんでいます。 が、確かに、特に、若い人が読んでるのなんかを見ると、 ファッションだなーっておもいますね。
「村上春樹は右でも左でもない、イデオロギーとは関係無い」
と一部の読者は言う。 私はそれを否定する。村上春樹だって個人的な政治的意識があるだろう。 村上春樹は最新作で共産主義や自民党批判を 細部に織り込んでいる。 サブリミナル効果に注意してください。
遅れてすいません。初めまして。
イデオロギーなんちゃらについてはわかりませんが、 小説に、政治意識とか、そんなに必要ですか? 僕には 小説がまだ自分のものでしかなかった頃の、 村上春樹の作品が好きです。
「心地よい絶望」って表現が秀逸です。
ちなみに僕は村上春樹とミスチルが大好きです。 「失ってしまった気持ちはもう取り戻せない。」という(みんなが言う)喪失感の表現が世界で一番うまい作家が村上春樹なんだと思っています。 そして「もうあの感情を手にすることはできない。」というのが僕にとって大きな絶望です。 幸大さんの言う、「絶望」って、 たとえばどんな作品に表現されてるのですか? 興味があるので、ぜひ読んでみたいです!
はじめまして。
せっかくコメントいただいたのに、返事が遅くなってしまってすみません・・・。 この記事、もう何年も前に書いたものなので、 いまの僕はここに書かれていることにまったく責任を持てなくて、 読み直してみて、これほんとに自分が書いたのかな、 とか考えてるくらいなんですけど、 そうですね、このときは、 絶望→再生→愛、みたいなパターンを村上春樹の作品に感じていて、なんだかそれがすごくファッショナブルな救済みたいに見えていたのかもしれませんね。特に若い人が読んでいるのを見かけたら、偏見でそう思っていたのかもしれません。 いまはちょっと、違うように考えていると思います。 あと、最後の要望に応えられる作品、思い当たらないんですよね。 申し訳ないです。 でも極端な話ですけど、そういう「絶望」とのギャップを描くこと、 そこの部分のジレンマみたいなものを書くことこそ、 文学が絶望を取り扱う本当の意味なのかなぁとは、思います。 |
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