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英語を勉強するって何だろ

参院選、野党の圧勝でしたね。おもしろくなってきました。
衆院選も楽しみです。
ところで昨日テレビのチャンネルを適当に回してたら
横峯さくらのパパさんが出ていて、
彼に演説のアドバイスをしている男の人が
「得点取りに行くんじゃなくて、失点しないように」と言っていました。
さすが、政治に関わる人間は誰も僕の期待を裏切らない。
得点取りにいけないヤツが政治なんて変えられるわけないだろ。
3点失ってでも1点取りに行く姿勢じゃないと駄目に決まってるだろ。
バカか。
思想の生きてる演説じゃなきゃ駄目だ。


今日は5限にテストがあったけど、
始まる時間を間違えてちょっと遅刻してしまった。
2年にもなって5限の開始時間を間違えるなんて、恥ずかしいミスです。
まったく、1年の間何してたんだか。
でも論述のテストは好きなので、無事に出来たと思います。

明日は3つもテストがある。
全部必修。全部英語。
わざわざ大学入って英語専攻にいる人間が言うのもなんだけど、
英語っておもしろくないな。
いや、面白いのかもしれないけど、
うちの大学の英語はおもしろくないな。全然おもしろくない。

英語を勉強して、聞き取れるようになって、しゃべれるようになって、
読めるようになって、書けるようになって。
そこには、摩擦があまりにも無さ過ぎるんだな。
何も考えられない。自分の意思も考えも思想も持てない。
もう何十年、何百年前からある決まりを覚えて、
ボキャブラリーを増やして、英語をマスターして。
異論もぶつけられない。反発できない。
「なんで?」って思えない。
ただ知ってるか知らないかだけ。だから覚える。
うちの大学の「英語を勉強する」ってことはそこで終わってる。

音声学でも文学・文化各論でも、
教えてるのは史実的な出来事だけじゃないか。
テストだって、それにまつわる事実を覚えてるかだけじゃないか。
ディベートだって健康的なテーマしか取り上げないし、
そこには抵抗する隙間なんてまったくない。
キレイな四角ばっか集めてるだけじゃ駄目なんだ。
いびつな積み木を重ねるような危うい授業がひとつぐらいなきゃ駄目だ。
教え手の思想が生きてない講義なんて絶対駄目だ。
教え手の思想に「そうじゃないだろ」って思える講義がなきゃ駄目だ。
いろんな思想の中で「本物」を見つけたいんだ。

そうじゃなきゃ、どんどんバカになっていく気がする。
ものを考えられない人間は作れるけど、
あんな授業じゃ立派な国際人は生まれっこないよ。
一生懸命英語を勉強して、
世界規模でコミュニケーションできる人を増やして、
そうやっていろんな人と関わっていきたいって思うのは物凄い素敵だ。
そう思えない人間は英語を勉強しちゃいけないと思う。
でもそうやって英語がしゃべれるようになった時、
僕達の中身は空っぽなんじゃないかって思う。

授業で英語を使うことは本当に多いけど、
それは英語と向き合ってるっていう意味からちょっと離れてる気がする。
英語と本気で向き合える授業がひとつくらい欲しい。
「俺達英語が好きだから、英語を勉強したいから、
英語をしゃべれるようになりたいから、
だから俺達がいっぺん英語をぶっ潰してやろう」
そんな授業があっても良いと思う。
他の学部の学生よりも英語に囲まれてるからこそ、
一旦英語を引き離して、対象化できる授業が欲しい。
それが本当に英語と向き合うってことだと思う。
ただ口で使って、手で書いて、耳で聞いて、
それだけじゃ絶対におもしろくないって、
それだけで言語を学んじゃ危険だって、みんなは思わないのかな。
なんかどっかで聞いたことあるような思想だって思ったら、
ホワイト・ストライプスのそれとまったく一緒だ。


選挙のこともウダウダ語って英語についてもこんなこと書いてたら
本気でヒンシュク買いそう。
でも、そう思ってる。
音楽にもそう思ってる。
思想が生きてる音楽が聴きたい。
だから、それについて書く僕のディスク・レヴューにも
思想を生きさせたい。
僕の音楽の聴き方、愛し方、絶望の仕方が伝わるものが書きたい。
「音がソフトで~」みたいな聴いたらわかることだけじゃなくて、
音を垂れ流しにして聴いてるだけじゃわからないものを伝えたい。
今はまだ全然無理だけど、いつかそれが出来る日が来て欲しいと思う。

それじゃあ今日のディスク・レヴュー。
「こんだけ偉そうなこと書いてスネオかよ」と言われそうですが、
そう、スネオです。スネオは素晴らしいんです。
見よ、この着心地の悪そうな角ばったスカートを。
あの子が穿いているこのスカートの裾をやわらかく揺らすために、
スネオヘアーは歌い続けてるのです。

スカート / スネオヘアー
スカート (初回限定盤)(DVD付)



卒業アルバムを開く時みたい
  曲を書かない、というか書こうとしても書けない僕にとって、いつも何気なく聴いているアーティスト達がいったいどうやって曲を書いているのか、どんな時にあの感動的な言葉が思いつくのか、それは結構な謎である。「突然降りてくる」なんて神がかり的なことを言う連中もいるけど、スネオヘアーこと渡辺健二の場合、それは夕日に伸びた影を見つめて歩く帰り道であったり、赤信号で立ち止まった時にふと目に映る街の風景であったり、そういったさりげない日常が記憶の端っこを呼び起こして、ギターを握り締めた時にそれを渡辺健二というフィルターに通して「あの頃の思い・情熱」として再生させるのではないだろうか。実際にどうかは別にして、今年発表された通算5作目となるスネオヘアーの本アルバムを聴くとそうやってギターをかき鳴らす男の姿が頭に浮かんでくる。
  「悲しみの向こうにあるポジティブネス」とよく形容されているようだけど、スネオヘアーのやっている音楽はそんなものじゃないと思う。彼がやっているのは、渡辺健二という男のただひたすら個人的なドキュメントである。心の隅っこでポツンと座り込んでいる個人的な思いや記憶をどうやって聴き手ひとりひとりの胸にきちんと届け、共感させるか。スネオヘアーの作品のテーマは常にそれだった。だからこそ彼の作品は常に非日常的な世界を拒むし、物語はどこまでもセンチメンタルで、どこか色褪せていて、でも埃をかぶらないよう大切にされてきたような温かさで柔らかく守られている。ハチクロで使用された“スプリット”も入っているし、アルバム全体の風通しも良いし、もっと評価されても良いような気がするけど、彼の思いが多くの人の手垢でくすんでしまうのは確かに少し怖い。何年、何十年も月日が流れて周りの環境も自分の気持ちもいろんなものが変わり果てた時にこのアルバムをもう一度引っ張り出して、今の思いをこのアルバムに感じながら聴くのも悪くないと思う。


おまけ
スネオヘアー-スプリット
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