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真骨頂で聴こう

先週の同じ日にも同じこと書いたような気がするけど、
今日はイギリスの大衆文化の授業でビートルズ史を勉強しました。
前は『サージェント・ペパーズ』についての言及がなさ過ぎたので
文句ばっか言ってましたが、今日もそうでした。

話が67年から始まったので、
やった!サージェント・ペパーズだ!と心躍らせていたんですけど、
まったく出てきませんでした。
ガッカリしてたら、というかもう完全に幻滅してたら、
前回触れてくれなかった『ホワイト・アルバム』の話が出てきて
ちょっと気を取り直したんですけど、そこでまた幻滅。

「『ホワイト・アルバム』は2枚組みなので
20~30曲入っていると思うんですが……」って。
「思うんですが」って、
授業で偉そうにビートルズ史なんてやってるくせに
ちゃんとアルバム聴いてないのか。
実際に作品を聴いてキャリアを俯瞰することさえしてないのか。
あの先生は、“へルター・スケルター”すら聴いたことがないのか。

多分、あの調子だと『サージェント・ペパーズ』すら聴いてないんだろう。
ちゃんと聴いてたら、
あの作品に対する記述がたったの3行なんてことにはならないはず。
『ビートルズ1』に一曲も収録されてないから
重要な作品じゃないと思ったのかな。
そういえばあの先生が授業で流してたのは全部『ビートルズ1』収録曲だ。
『ラバー・ソウル』も『リボルバー』も、多分ちゃんと聴けてないんだろう。
あまりにも間抜けすぎる。

授業の最初に“オール・ユー・ニード・イズ・ラブ”をかけ始めた時点で
ちょっとおかしいなとは思った。
あの曲が名曲なのはもう誰でも知ってるし、
“レット・イット・ビー”ならそんなことはなおさらで、
大学の授業で今更そんなことを再確認して何になるんだと思った。
みんなが知ってる曲をもう一度みんなで聴いて
「ああ、良い曲だね」って、「やっぱビートルズは凄いね」って、
そんな授業間抜けすぎる。
高校の数学の授業で2+3が5になることを
いちいち確認することぐらい間抜けだ。

「好き」か「嫌い」か。「良い」か「悪い」か。
そんな二元論でビートルズを語って良いのは純粋なリスナーであって、
大学で講義を開いている先生がそんなこと言ってちゃだめだ。
あんたがやらなきゃならないことは、
ビートルズが凄いか凄くないかなんてレベルの話ではなくて、
誰が何年に誰と結婚しただなんてどうでもいい話じゃなくて、
ビートルズがなぜ凄いのかを伝えることであるはずだ。
それを伝える時に、みんなが名曲だと知ってる曲を聴かせたって無意味だ。
あんたが学生に聴かせなきゃならない曲は
あの大量な情報を一身に抱え込んだ大傑作
“デイ・イン・ザ・ライフ”であるはずだし、
『ラバー・ソウル』~『サージェント・ペパーズ』がロックに起こした
変革こそあんたが伝えなきゃいけないビートルズの凄さだ。

ビートルズが凄いのは、ただ単に絶大な支持を得たからじゃない。
良い曲をいっぱい歌ったからでもない。
ロックの根底を覆して、ロックの制約をぶっ壊して、
ロックの未来を切り開いて、未来でも支持されたから凄いんだ。
その端緒を開いたのは間違いなく『サージェント・ペパーズ』だったはず。
あの作品は、一曲もシングルカットしないで、
一枚のアルバムを通してビートルズが架空のバンドを演じるという
コンセプチュアルなトータル性で、
ロックに新たな有効性を見出したアルバムだったはずだ。
それは、ロックに新たな表現が提示されたことを意味していたはずだ。
『サージェント・ペパーズ』をまったく無視して、
ビートルズの凄さが伝わってたまるか。
あの授業でビートルズに少し詳しくなった学生は不幸だ。


ちょっとイラつきすぎました。
でも、良い曲を垂れ流しにして聴いてるだけじゃわからない
ビートルズの凄さを伝えようとしなきゃ絶対に駄目だと思う。
自分にそれをする力がないのは悔しいけど、絶対にあんなのおかしい。

解釈の違いにこんなふうにイラつくことって結構よくあります。
高校の時に、“ボーン・トゥ・ラブ・ユー”の影響で
ちょっとクイーンが流行ったんですけど、
その時に友達に「え?洋楽好きなのに『ジュエルズ』持ってないの?」
って言われて物凄く不愉快だった。

僕はベスト・アルバムってものが本当に大嫌いで、
良い曲集めただけのアルバムでそのバンドを理解するなんて
絶対に不可能だと思ってるし、そんなの音楽の真骨頂じゃない。
ベストものほど『サージェント・ペパーズ』をバカにするものはない。
でもその手軽さゆえに結構ベスト・アルバムで納得しちゃう人って多くて、
クイーンの時も、オアシスの時も、とにかくイラついてました。
「そんなアルバムで解かってたまるか」って。
だから今日はクイーンの真骨頂だと思ってるアルバムを紹介します。

A Night At The Opera / Queen
A Night at the Opera



風は、今も吹いているか
 「クイーンの真骨頂を知る」という意味において、僕達の世代は極めて不幸な時代を生きていると思う。物心がついた頃にはフレディ・マーキュリーはすでにこの世にはいない「過去の偉人」だった。初めて聴いたクイーンの曲は他人が歌う“ウィ・ウィル・ロック・ユー”だった。中学の時には親がどうしてあんなに“ボヘミアン・ラプソディ”を絶賛するのか理解できなかった。高校の時には『ジュエルズ』(04年)を持っているやつが何人もいて、そのほとんどが“ボーン・トゥ・ラブ・ユー”に夢中だった。これらはあくまで僕のパーソナルな実感にすぎないが、誰もが少なからずこんな感じだと思う。少なくとも、僕のそばにはこのアルバムの存在を知っている友達──クイーンを真骨頂で聴いているやつなんて一人もいなかったし、それは今でも同じだ。
 ビートルズの『サージェント・ペパーズ』(67年)以降の価値観をもろに受けた本作は、従来からコンセプチュアルなクイーンの作風をオペラという壮大なテーマのもとにいっそうコンセプチュアルなものへと盛り上げている。そこに描かれたフレディ・マーキュリーという男の性格はひどく逃避的で、一言で言うなら「ダメ男」だ。その兆候は後半に進むほど如実に表れてくるのだが、ハイライトは間違いなくラストから2曲目の“ボヘミアン・ラプソディ”で訪れる。ほとんど誇大妄想的にバカでかくなった「死」の観念に取り付かれた男が、避けられない現実との狭間で上げる「死にたくない/生まれてこなきゃよかった」という切実な叫びには高揚を覚えずにはいられないし、そんなダメな自分に「とにかく、風は吹くさ」というやはりどこか逃避的な匂いのする一行だけで生きる希望を与える彼の姿には、とにかく激しく感動せずにはいられないのだ。『ジュエルズ』のような、レーベル・サイドの商業的なエゴが透けて見えるベスト・アルバムなんかでは絶対に味わえない「クイーンの真骨頂」を、是非ともこの作品で知ってほしいと思う。


おまけ
Queen-Bohemian Rapsody
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