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水道料金払いたかった僕を殺したのは誰だー!

Screaming Bloody Murder
/ Sum41

Sum-41-Screaming-Bloody-Murder1 (1)
誰もが幾つもの自分を殺しながら生きている
 デビューからずっと聴き続けてる数少ないバンドのひとつ。サム41の歌では、前作『アンダークラス・ヒーロー』に収録の“スピーク・オブ・ザ・デヴィル”という歌が圧倒的にすきだ。なにかと口で失敗することの多い口下手な人間なので、この歌には並々ならない共感を寄せている、つもりだ。心にもないことは簡単に言えてしまうのに、思っていることに限ってなかなか言葉にできない。こんなの本心じゃないという叫びを軽々と裏切って、醜いことを口走れてしまう。まるで悪魔が僕の口を勝手に借りて喋っているみたいに。スピーク・オブ・ザ・デヴィル。昔は“ファット・リップ”なんてひどい冗談みたいなこと歌ってたバンドだったのに、こんなの歌うようになったかと随分感慨に浸ったものだ。自分のこの肉体の中に、自分とは相容れない、他の誰かがいる。自我が芽生える、ということはこういうことかもしれない。芽生え、幹を伸ばし、枝分かれしていくのが生命なら、どうして自分はひとりだなんて言い切ることができるだろう。これだから、自分を持ってないやつは嫌いだ、なんて言う人にはとことん嫌われる(そうでなくても友だち少ないけど……)。僕なんて、鏡を見るだけでもこれが本当に自分!?って驚くくらいなのに。
 前作から実に四年ぶりとなる現時点での最新作。これまでで、一番激しいんじゃないかな。もはやパンクというよりメタルじゃないかと思わせるような一瞬が、ある。メタルなんて聴くと、うるさいだけじゃないかとか、髪の毛振り乱してるだけじゃないかと思う人もいるかもしれないけれど、よくよく聴いていると、彼らが本当に叫びたい相手は自分の中に潜む決して許容することのできない誰かなんじゃないか、とだんだん思えてくる。そしてそんなときにメタルが奏でるメロディはまるで、生まれながらにしてこんな自分に生まれたくなかったと泣き叫んでいる赤ちゃんみたいに、愛しく、そして綺麗だ。それを象徴するかのようなタイトル・トラックが素晴らしい。一見、不条理な世界との不和を訴える歌にも聴こえる。でも、殺戮者は、自分の中にもいないか? あのとき、ああ言いたかった自分を殺したのは? ああすべきだった自分を殺したのは? いったい誰? だからこそこの歌の、最も激しさの高まるサビの一行目は、"Tear me open"という切り裂くような叫びでなければいけなかったのだろう。
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企業努力!

Let Me Touch You
/ O'Jays

Ojays-Let Me Touch You
本気の大人たち
 デビューから今年で実に四十八年、結成当初から数えると優に半世紀を越えるキャリアを持つ、フィリー・ソウルのみならずアメリカが誇るブラック・ミュージック界全体を代表する大御所ボーカル・グループであるオー・ジェイズは現在も現役活動中(もちろんメンバー・チェンジは幾度も重ねているが、現役メンバー三人のうち二人は結成当初からのオリジナル・メンバー! すごいよね)。70年代前半には“バック・スタッバーズ”や“ラヴ・トレイン”などディスコでも欠かせない名曲を幾つも発表した彼らだが、80年代前半にはフィリー・ソウルの人気低迷から苦戦を強いられることになる(83年の“プット・アワ・ヘッズ・トゥゲザー”とか、それはもう素晴らしいけどね)。倒産危機にまで追い込まれた当時在籍のフィラデルフィア・インターナショナル・レコーズが敏腕プロデューサーを総動員し、社運をかけて制作されたのがこの87年発表の『レット・ミー・タッチ・ユー』だ。エディ・リヴァートの名シャウターぶりがいきなり炸裂する冒頭のアップ・ナンバー“ドント・テイク・ユア・ラヴ・アウェイ”を始め、ムーディなミディアム・ポップ“アンダーカヴァー・ラヴァー”、キレのいいドラム・マシーンとシンセの演出が雲を追い払う風を感じさせるような“ノー・ライズ・トゥ・クラウド・マイ・アイズ”、そして最後を締めくくるスロウな名バラード“コーズ・アイ・ウォント・ユー・バック”まで、優れた佳曲が目白押しの力作だ。全編を通して、ゴスペルを通過した彼らの迫力のボーカルを聴くことができ、アルバム・タイトルが示すような内なる衝動が楽曲にしっかりと筋を通している。中でも圧巻中の圧巻は、全米R&Bチャートで見事一位に輝いた“ラヴィン・ユー”だろう。これまで何度も歌われてきたような、なんともありがちなタイトルがつけられた歌だが、しかしありがちだからこそ、時に愛されることよりも難しい狂おしい表現を、彼らの圧倒的な歌唱力が可能にしている。70年代80年代のボーカル・グループと言えば、スタンド・マイクを前にメンバー全員が綺麗に揃ったステップを踏みながらの歌唱というイメージがあるのだが、オー・ジェイズのそれは見事に歌が靭帯と繋がっているというか、要するに彼らならではのグルーヴがどんなテイストの楽曲でも常に発揮されているということだ。そんな最高のボーカル・グループが、一社のすべてを背負って発表した超破格の名盤。とてもいいです。
19:23 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ラヴ・マシーン

James Blake
/ James Blake

James Blake-James Blake
僕たちは出来損ないの機械
 本年度上半期に発表された作品の中でも恐らく最も注目を浴びた一枚。ジャンル云々に関しては、聴いただけでこれは何だと特定できる能力を持っていないのでよくわからないが、音数の少ないダウナーっぽいダブステップに彼の過剰にエフェクトのかけられたボーカルがのせられる、非常にテクノロジカルでありメランコリックな印象の一枚だ。冒頭の“アンラック”を聴いて、カーペンターズの“クロース・トゥ・ユー”をトークボックスを使用して歌ったスティービー・ワンダーの名演を思い出した。オリジナルの“クロース・トゥ・ユー”ではなくてポール・ウェラーの面白おかしいカバーで育った人間なので、あんまり自分の感性には信用できないところが多いのだが、スティービー・ワンダーのあの演奏はとにかく感動的だった。色んなシンガーの歌う“クロース・トゥ・ユー”を聴いてきたが、なんと言うか、あれほど自分の心に近いあの歌を聴いたのは初めてだった。人間の肉声に、まるでエレクトリックな楽器演奏のようなエフェクトをかける魔法の箱、トークボックス。機械の音の方が、人間の心に近い。そう思わせるような名演だった。ジェイムス・ブレイクのデビュー作となる本作を聴いていると、ダブ系の音楽にありがちな、身体がどこまでも深い海の奥底に沈んでいくような感覚を、やはり味わうことができる。だけどそれは、例えばポーティスヘッドのような、気持ちまでもが沈んでいく、身も心もブラックホールに呑み込まれてしまうような圧倒的な虚無感とは、少し違うような気がする。心だけを置き去りにして、身体だけが沈んでいくような。言い換えるなら、心だけが、まるで摘出されていくかのように、海の表面に浮かんでくるような。こんなにもテクノロジカルなのに、ひとりの人間の身体が沈んで見えなくなって、透明な人間になって、その内部の心の動きを直接見ることができるみたい。どうしてこんなことが起きるんだろう。だけど、人間だって、その構造を分解すれば、機械のひとつだと言えないこともない。感情だって全部本当は単なる電気信号。その反応のパターンを数多ある中から選んでいるだけ。ただ、ほんのちょっとしたことでその選択に狂いが生じてしまう、傷つきやすい機械。バチバチ。ドキドキ。マタイツカ、キミニアエルカナ。なんて考えている傍らで。オナカヘッタナ、グーグー。とかやってる、愉快な機械。
09:44 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

もうほんと、これ聴いて冷静でいられるとか信じられない

Gold Cobra
/ Limp Bizkit

Limp Bizkit-old Cobra
来た、2011年ベスト・アルバム
 待ってた。この時を本当に待ってた。中学生の時に、初めてサード・アルバムの『チョコレート・スターフィッシュ~』を聴いてからずっと、リンプのこんな新作を待ってた。ウェスが一時バンドを離脱し新しいギタリストを迎えて、発売延期になりながらもなんとかリリースに漕ぎ付けた四枚目『リゾルツ・メイ・ヴァリー』のへたれ具合に失望したのをきっかけにヘヴィ・ロックはあんまり聴かなくなってたけど、リンプの『チョコレート・スターフィッシュ~』だけはいまでも頻繁に聴き続けてる。正直な話、リンプの音楽には知性と呼べるものを一切感じない。その音からは、ヘヴィ・ロックにおける美学だとか神聖だとか、そういう本質的なものはまるで聴こえてこない。腰パンしていきがってる、人を喰ったような声でラップするフレッドがフロントマンっていうのが一番象徴的だろう。すべてはスタイルのため。かっこつけるために、リンプはヘヴィ・ロックを選んだ。ファック。シット。中指立てて不用意に世界を敵に回す、ただの悪ガキにしか見えないその姿が、昔はかっこよかった。大きい音出して、露骨にかっこつけようとしてる、そのスタイルそのものがすでにかっこよかった。でもいまのロックは違うよね。二十一世紀に突入して、テクノロジーの発展と共に社会に膨大な情報が氾濫するようになるにつれ(というか、「情報化社会になったと呼ばれる」につれ)、ロックは小さい音を発信することに比重を傾けるようになった。大きい音は、すべてプロパガンダ(それをあえてやることで見事に皮肉ったのがグリーン・デイ“アメリカン・イディオット”)。小さい音こそが、耳を傾けるべき真実(9.11を経験した00年代アメリカにおけるインディ・シーンの隆盛がまさにこれだ)。そう、誰もが目にするような大きな場所には、すでに真実など存在しない。目を凝らさねば見つけられないような小さな場所こそが、真実の在り処。すなわち、信じることよりも、まずは騙されないこと。それこそが真実か否かを見極める一番のやり方。しかし、しかしここで、リンプのこの『ゴールド・コブラ』なのである(ついにオリジナル・メンバーが揃った!)。こいつら、まだ信じてやがる。騙されてやがる。へヴィ・ロックやってたら絶対かっこいいに決まってんだって。“ブリング・イット・バック”視聴した瞬間に確信した。大蛇みたいにうねりを上げるウェスのギターが、復活してる! リンプが、のけぞるような大きな音出してる! アルバムのタイトル・センスどうかと思うぞ! ついでに“シャーク・アタック”のタイトル・センスもどうかと思うぞ! 「サメ攻撃」って何だよ! しかしかっこいい。本当はダサいだけなんだけど、大きい音出した方が勝ちなんだって、絵に描いたようなアメリカン・イディオットを地でやるリンプがかっこいい。だって、ロックってそもそもそういうもんでしょ。だからみんな魅了されたんでしょ。めちゃくちゃかっこよかったから、ロックすきになったんでしょ。真実かどうかなんてたいした問題じゃない。かっこいい方が、勝ちなんだよ。
15:02 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

人前で前髪を上げることにひどい抵抗がある。もったいぶるほどの何かがおでこにあるわけでもないのに。

I for You
/ LUNA SEA

LUNA SEA-I for You
心から伝えたい、と口からしか言えない
 まさか自分にLUNA SEAを聴くときがやって来ようとは・・・・・・。とは言ってもこの歌以外は実はまだ全然じっくり聴いていないのだけど、でもあんまりいい歌だから何か書きたくなった。初期の、もっとヴィジュアル系っぽく尖ってた頃のこともメンバーの来歴についてもまだまだ何も知らないことばかりでこんなことを言うのもアレだけど(でもきっと誰もがこう思うはず)、このバンドの唯一にして最大の弱点は、河村隆一という危うい才能の存在だと思う(誰だ、真矢じゃねーのかって言ったやつ!)。あのナルシスティックな眼差しやまるで愛撫のように優しく言葉を置いていく歌っぷりが性に合わないという人も多いだろう。SUGIZO、INORAN、J、というサイドを固めるメンバーのいでたちがどこから見ても男前なのに対して(真矢はもうなんだか、かわいい)、バンドの最もわかりやすいイメージとなるセンターに立つのがあのクセの強い河村隆一であるという紙一重のバランス。元々ハードロック的な素養を持ったメンバーたちの高度な演奏は、まるで何かを傷つけようとするかのように攻撃的で、強靭であり時に美しくも、その実態はひどく歪んでいる。が、それに肝心な言葉を載せる役割を担うのが、誰も傷つけたくないと願うような甘い声で歌う河村隆一であるという圧倒的な対比。まだ簡単に聴いたくらいの段階だが、このバンドにおける矛盾と綻びのすべてが、河村隆一ただひとりに集中しているような印象を受けた。一見最も中心的で、核となるべき存在のものが、しかし最も矛盾した、弱点であるという構造。これと似たものを、よく知っている。
 本当の、優しい人になりたい。心底それを願う。しかしこれが難しい。自分なんて、もう散々うんざりし尽くしたはずなのに、まだ他の誰かよりは自分の方が大事みたいだ。誰も傷つけたくないという見せかけばかりの優しさが、真綿で首を絞めるようにギリギリと誰かを追い詰めていく。生まれたときから自分に意思があったなら、こんな醜い「自分」なんて容れ物は選ばなかった。自我なんていうものに、どうして途中で気付いてしまうんだろう。どうして途中から割って入ってきたこんな「自分」が、自分の主体なんだろう。感情、肉体、言葉、そんな、決して「自分」と完璧に一致するわけではないものたちが、「自分」の内側ではなく周囲に張り巡らされているだけのものたちが、どうしてこんなにも、ここぞとばかりに中心的役割であるはずの「自分」という人格を責め立てるんだろう。感情も肉体も言葉も自我も、そんなものさえなければもっと近づけたのに。君のために生まれてきた。そんな甘い呪文でもまだまだ足りない。君として生まれてきたかった。そんな、小さな刃を無数に持った嵐のような轟音の真ん中から、「心から 君に伝えたい」と叫ぶところでこの歌は絶頂を迎える。
16:45 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

八月六日はハローの日ですよー

Hello!
/ YUKI

YUKI-HELLO.jpg
君の運命を解いてあげる
 最近よく聴く歌の中に、“ゼアーズ・ナッシング・イン・ディス・ワールド・ザット・キャン・ストップ・ミー・フロム・ラヴィング・ユー”というクソ長ったらしいタイトルの歌がある。70年代を中心に、かのバリー・ホワイトと共に多くのソウル系シンガーのプロデュースをしてきたトム・ブロックという人が74年に発表した唯一のオリジナル・アルバムに収録されている楽曲で、骨格としてはシンプルな歌なのだけど、ロマンチックなストリングスの音色で聴かせる美しい名曲だ。Jay-Zが傑作アルバム『ブループリント』の中でサンプリング使用している楽曲として有名かもしれない。この世界で起こるどんな出来事も、君への愛を邪魔することなんてできない。タイトルからして、むせ返るほどロマンチック。だけど、ロマンチックなセリフほど、真似したくなるよね。Jay-Zもきっとあの歌で酔い痴れてみたかったんだろう。それなのに、僕みたいなやつが言った日には「冗談は顔だけにしてくれ」なんて言われてしまう。なかなか上手くはいかないものだ。めげずに頑張っていこう。

 昨年リリースされた“うれしくって抱きあうよ”から、前々作にあたる“二人のストーリー”、そして前作“ひみつ”までの三枚のシングルを通して、YUKIの歌う世界観はここ最近ぐっと密度を狭めてきたような印象がある。狭い世界。それはすなわち、具体性を伴った生活圏にまで歌が下りてきたということだ。だからこそ楽曲の持つ質感はフォークと呼ばれる音楽に近い、ギターのような日常的なアイテムがひとつでもあれば再現できる、親近感のある温かな手触りを一貫して基調とし続けてきた。そして先月27日に発売されたばかりのこの新曲“Hello!”。以前は多用していたエレクトロの羽ばたきにはやはり力を借りずに、まるでスキップするたびに足の裏に感じる刺激を楽しむかのように、生楽器のしっかりと地に足のついた感触を大切にしている。そういう意味では、この“Hello!”もやはりここ最近の楽曲群と類を成す一曲ということができるかもしれない。でも、例えば“うれしっくって抱きあうよ”以降のCDジャケットを見比べてみても明らかなように、この歌におけるYUKIのヴィジュアル・イメージは、唖然とするほど色鮮やかで、俄然晴れ晴れとしている。そしてこの、マイケル・ブーブレみたいなお出掛けピアノと酔いどれホーンセクションが、その広々とした景色の中で踊ることの心地よさを伝えている。もう少し広い舞台に、また一歩踏み出したかな、と思う。
 舞台。この歌は、まさしくそんな感じだ。ビッグバンドとまではいかないが、ブラス隊が収まるほど、大勢が集まれるほど広いステージの上でこそ映えるような、大きな歌。だから、テクテク歩くよりは、スキップで。スウィングは大きく、動きは大袈裟すぎるくらいに。そういった、四畳半の生活には収まり切らないような独特の抑揚、リズムがある。今回は、歌詞そのものにもリズムが組み込まれている。五文字を基準に区切られた言葉は、そのすべてが例えば「ありがとう」や「さようなら」といった言葉と同様の不思議な呪文のようにも聴こえる。ありきたりな言葉が、リズムに乗せられることで、特別な呪文になる。歌というものはそもそも、そういうものだ。そしてそんな不思議を引き起こす魔法のことを、僕たちはメロディと呼ぶ。
 呪文。その不思議な言葉を口ずさむだけで、すべては一変する。人々を呪縛から解き放ち、物語に新しい光をそそぐ、呪文。しかし、YUKIがこの歌に選んだ「Hello」という呪文は、いささかありきたりすぎるというか、少なくともドラマチックであったりロマンチックであったりという印象を聴き手に与えない言葉だろう。誰もが一番初めに教わり、誰もが知っている、誰もが物語の一番最初のセリフに選ぶ、共通の言葉だ。しかし、こう言うこともできるかもしれない。ただそれがすべてを解放する呪文であったと気付いていなかっただけ。呪文はすでに起動されていた。魔法はもうすでに始まっていた。まるで、毎晩いったいいつから夢を見始めるのかわからないのと同じように。誰かを初めてすきになった瞬間を、どうしても思い出せないことと同じように。ハロー。ハロー。いったいいつこの言葉を知っただろう。きっと誰かから教わったはず。でもそんなの思い出せない。生まれたときから知っていたんじゃないかと思うほどに、思い出せない。そしてそれは、生まれたときから自分は自分だったと思い込んでしまうほどに、自分自身の始まりの瞬間を思い出せないことと、まったく同種の疑問である。
 本当に不思議なもので、自分のことほどわからないものは多い。自分の右手で、自分の右手を握り締めた感触を知ることはできない。自分の肉眼で、自分の顔の表情を知ることはできない。自分のことは、わからない。でも、君のことならわかる。ここ最近のYUKIの歌はすべて、そのことについて歌っている。君と「抱きあ」い、君と「二人」というひとつになって、君と「ひみつ」の関係を結んだ、その喜びについてを。それらはどれも、君自身には到底わかりえない喜びだ。君とは違う、君を抱きしめ、君と言葉を交わし、君の横顔を見つめることのできる「わたし」だからこそ知りえた喜び。わたしのことは、わからない。でも、君のことならわかる。ハロー。君が生き始めた瞬間さえ、わたしにはわかる。
 誰もが、どこの誰とも知らない誰かから、「自分」という役割を与えられ、悪戦苦闘している。めくるめく環境に左右され、自分のものであるはずの感情にすら惑わされ、「自分」という役柄に一貫性を持てずに、完結した台本さえも与えられずに、完璧には演じられないでいる。どこまで生きても、自分に与えられた役柄の名前はわからない。でも、君のことならわかる。YUKIは、この歌の最後の一行で、まさにそのことを証明している。「君の名は Hello」。それが君に与えられた役柄。君に与えられた運命の名前。だって、出会うしかなかったんだもの。予めそう決められていたとしか思えないくらい、他の選択肢なんてなかったんだもの。別の、似合わない役柄を演じて自分を大きく見せる必要なんてないさ。ロマンチックなセリフなんてなくても、君はすべてを持っているんだから。そこにあるものが、そうあるべくしてそこにあったのだと心から納得できたとき(そしてそれは、そこにないものについても、同じことだ)、YUKIは“うれしくって抱きあうよ”を歌った。ならばこの歌は、出会うべくして出会った君との運命を祝福した歌なのだろう。
15:08 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑
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