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ロックなんて知らなかった

ダンスマニア。

それはまさに、前代未聞、空前絶後のノンストップ・リミックス・アルバム。
輝かしき十代の季節、僕の人格を大きく左右することになった(かなぁ?)
ダンスマニア・シリーズ出演アーティスト五組の作品を、
今夜はなぜか大幅なタイムラグと共にお届けします。

みんなで一緒にダンスマニア聴こう!


The Mission
/ Captain Jack

Captain Jack - The Mission (1996)_frontal
闘いを拒絶したミリタリー・ポップ
 ハーイ!ディスィーズ!キャプテーン!ジャァッッック!というわけで、ダンスマニアを語る上で絶対に外すことのできない伝説的なドイツのポップ・デュオ、キャプテン・ジャックの96年のデビュー・アルバムから。このアルバム、本当によくできている。謎めいたジャケットのイメージ、軍隊の訓練を思い起こさせる幕開け、おなじみ“キャプテン・ジャック”や“ドリル・インストラクター”など収録曲はどれも本当に素晴らしくて、西洋軍歌・行進曲よろしく大合唱できる場所がもれなく用意してある。キャプテン・ジャックは女性ボーカルの方がキャリアを通して三回ほど入れ替わっているのだけど、個人的には初代のリサ、つまりはこの頃のコンビが一番すきで、というのもリサのユニセックスなボーカルが、サー・フランキー・ジーのおっさん声に全然負けないくらい逞しくて、とってもクール。もちろんポップなダンス・ミュージックだから軍隊的なストイックさとか重厚な感じは皆無で、軍服姿もコスプレにしか見えなかったりもするのだけど、特に一貫した感情や物語があるわけでもないのに、ボーカルふたりの優れた公式と、スタイルを前面に押し出した戦法がそのままひとつの愉快なコンセプトを作り上げている。ただこのデュオ、アルバムを出すにつれてどんどんミリタリーとかどうでもよくなってっちゃって、軍服は最後まで着たままだったけど、ここでの「レフト、ライト、レフト」な軍隊行進がなぜか四枚目のアルバムくらいになると「ハイホー!ハイホー!」になっちゃってる。そういうところがお茶目なんですけど、このアルバムでもすでにそのわずかな前兆が。なぜか気持ちよさそうに歌ってるよ。テークオンミー!アーハ!


Me & My
/ Me & My

MeMy-DUBIDUB.jpg
まだまだ猫かぶってます
 五枚紹介しようと最初から決めていて、その内このアルバム以外の四枚はすぐに決まったんですけど、あと一枚は、やっぱりスマイルdkもいいし(“バタフライ”の功績はでかい。あと“フューチャー・ガール”だいすき!)、2アンリミテッドも思い入れがあるし(ジュリアナをもう一度!当時四歳とかだけど……)、それにパパヤも捨てがたいなぁ(でもこの前レヴュー書いたしね)……といった感じで悶々とした結果、“ドゥビ・ドゥビ”がいまでもそらで歌えたんで、このアルバムにしました。日本でも実に百五十万枚以上を売り上げた、デンマーク出身の二人組ミー&マイのデビュー・アルバム。代表曲“ドゥビ・ドゥビ”はダンレボのセカンド・リミックスでも大変お世話になりました。“ドゥビ・ドゥビ”だけの瞬間芸かと思われがちな気がするのだけど全然そんなことはなくて、このアルバムにも“ベイビー・ボーイ”や“アイ・ビロング・トゥ・ユー”など、楽勝で“ドゥビ・ドゥビ”を超え得る瞬間が満載。ダンスマニア・シリーズ、というか要するにヨーロッパのダンス・ポップにはどこかキャラクターの印象で押し切ろうとするような強引なところがあって、ミー&マイもデビュー当時はコスプレ・シスターズみたいな売出し方をされていたみたいなのだけど、実は彼女たちがすごいのはそのキャラクターを消耗しきってからだった。まずはこのアルバムから聴いて欲しいのだけど、本格的なトランスに傾倒した三枚目のアルバム『フライ・ハイ』で、ミー&マイは完璧にスタイルを凌駕する。ユーロ・ポップのジレンマを打ち破ったっていうそれだけでも稀有なグループ。でもすべての始まりだったこのアルバムなしには何も語れない。


Hip Whoop
/ X-Treme

X Treme-Hip Whoop
どこでもディスコ
 KCアンド・ザ・サンシャイン・バンド“ザッツ・ザ・ウェイ”のリミックスをきっかけにイタリアから発掘されたX-TremeことDJアゴスティーノ・カローロ。彼の嗜好性は一貫して70年代、80年代のディスコ・チューン。ファースト・アルバムには“ザッツ・ザ・ウェイ”の他にもダン・ハートマン“リライト・マイ・ファイヤー”やアース・ウィンド&ファイヤー“セプテンバー”など誰もが知っているお馴染みのディスコ・ソングが多く援用されていて魅力的だった。00年のこのセカンドでも元ネタはまたまたアース・ウィンド&ファイヤー“ブギー・ワンダーランド”“レッツ・グルーヴ”を始め、クインシー・ジョーンズ“愛のコリーダ”やトランプス“ディスコ・インフェルノ”などに彼独特のテイストを発揮するラップを加えて、オリジナリティのあるカバーを披露している。根本にあるアイディアとしては二枚にそれほど差はないと思うのだけど、モードが少し違う。一枚目は“ザッツ・ザ・ウェイ”にしてもすごくクールに振舞っていると思うのだけど、このセカンドはもっと派手。でも彼のオリジナル楽曲の中にはベッドの上でのささやかな遊びみたいな曲もあって、いろんなところで躍らせてくれる極上の一枚だと思う。KCもEW&Fも僕はこの人がきっかけで聴き始めた。ロックに繋がる、小さな、でも忘れられない扉を開いてくれた歌がいっぱい詰まってる。


Get It On
/ Bus Stop

Bus Stop-Get It On
おそらく世界一ダサい“ウィ・ウィル・ロック・ユー”
 ダンレボ・ファンならご存知のとおり、カール・ダグラス“カンフー・ファイティング”のカバーで人気者になった英国出身の三人組。ヴァン・ヘイレン“ジャンプ”のカバーもすきだったな。それらはファーストの方に入っているのだけど、この00年のセカンドでは“フットルース”やTレックス“ゲット・イット・オン”、スペシャルズの“リトル・ビッチ”など、有名曲のカバー多数。X-Tremeの場合はクールだったりファニーだったりとにかくカバーに対する鋭いセンスを感じる。でもバス・ストップのいいところは、もう絶対ダサいところだと思う。そもそもユーロ系のダンス・ミュージックってのはダサい。僕も中学生の頃は散々バカにされたものですよ、ボン・ジョビとかエアロスミスとかすきな同級生から。なんていうか、たたずまいがブサイクなんだよな。ギター!ベース!ドラム!バンド!みたいにエッジがきいてないし、缶蹴りの歌とかあるしな。鼻詰まってるとしか思えない粘着質なラップも、郵便局のおじさんが無理して歌ってるみたいだ。バス・ストップっていうグループ名もなんだかなぁ。そういえばバックストリート・ボーイズは略してBSBって言われてましたね。彼ら歌の中でたまに「バス・ストップ・ボーイズ(=BSB!?)」とか言うんですよね……。あー、なんてダサい。そして、素晴らしくファンキーじゃないか。


Sexual Madness
/ E-Rotic

Erotic-Sexual Madness
おっぱいが、いっぱい!
 最後は絶対この人たちって決めてた!長年にわたりダンスマニア・シリーズを支え続けた(主に下半身を!)ドイツ出身の超人的ダンス・ユニット!E-Rotic!97年に発表された三枚目のアルバム!このアルバムを選んだのは、なんといっても代表曲“いかせてターン・ミー・オン”が入ってるから!この人たちがすごいのは、普通のポップ・ミュージックが「ナナナー」とか「ダンダンダリランラン」とか音としての言葉のリズムを楽しむようなところを、全部セクシーなあえぎ声でやってみせたところだ!それが普通に可愛らしい恋の歌なんかと並んでるのがすごい!十八歳未満が見ていいアダルトビデオみたいな、晴れ晴れとしすぎたエロス!夜の帳なんかに隠れちゃいられない、真昼間から大声で歌い踊ることを許された、これもある意味「みんなのうた」だよ!マーク・パンサーみたいなラップ担当のうたのおにいさんと、「Ooooh 感じるわ ベイビー/Ooooh 欲しいのよ ベイビー・ブルー」とか意味わかんないこと平気で言っちゃううたのおねえさんのコンビだよ!ちなみに彼ら、このアルバム発表の三ヵ月後に、なんと大胆にもアバのフル・カバー・アルバム『サンキュー・フォー・ザ・ミュージック』を発表してる!アバじゃあえげないと思うんですけど、あのアルバムはもしかしてキャリア史上唯一の汚点なのでは?と、本人たちに一度訊いてみたい!もちろんこれは、この人たちだけに当てはまる特殊な誉め言葉です!

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終わったなんて言うな

A Thousand Suns
/ Linkin Park

Linkin park-A Hundred Suns
まるで幻影のように
 かつては一枚のアルバムを世界規模で、一千万単位の枚数で動かしていたリンキン・パークが、いまは賛否両論という絵に描いたような混乱のど真ん中に立たされている。近年のリンキンを取り巻くそんな状況のすべては、「わからない」ということに端を発しているように思う。なぜ、リンキンの音楽はかつてのスリリングな性急性を失ったのか。なぜ、チェスター・ベニントンは以前のように叫ばないのか。なぜ、マイク・シノダはあの高速のラップを必要としなくなったのか。なぜ、リンキンは世界に亀裂を走らせるようなノイズを鳴らさないのか。なぜ、こんなにも美しいメロディとコーラスがここでは成立しているのか――。それらすべての「わからない」が、リスナーの間で混乱を生み、幻滅する者、許容する者を生み、そこにライナーの「最高ではない、至高なのだ」みたいな手っ取り早さを求めたとしか思えないファクトリーな言葉が余計な石を投げちゃったりなんかして、「わからない」ものをリスナーが理解しようとする前に、手軽な別物にすり替えようとしているような印象があって、初めて聴く人には、是非ともそういう喧騒からは一歩身を引いて、静かに耳を傾けて欲しいアルバムだと思う。変な言い方だけど、そういう敬意を払う価値のあるアルバムだと思う。僕なんかは、ロックがずっと辿り着きたかった場所はここなんじゃないかとさえ思った。リンキンはこのアルバムで、そこにかなり接近したんじゃないかと。ただその近さは、地球よりは土星の方が宇宙の先端に近いかもしれないっていうくらいの果てしない距離感ではあるけれど。そしてそれがどれほど重要な意味を持つのかも、よくわからないけれど。
 かつて無いほど静謐な、リンキン・パークの四枚目。そこが非難の的でもある。が、根本的なところは、気持ちのいいノイズを鳴らしていた当時とあまり変わらない気がする。オープニングの“ザ・レクイエム(=安息)”が、それを肯定している。彼らはもちろん、世界が絶叫で罵倒するに値する場所であることをとっくの昔から知っている。だから、このアルバムの美しさや優しさは、生易しさとは程遠く、ともすれば哀しすぎるくらいに響く。彼らにとって轟音とはすなわち世界との不和の表明であり、決してそれはリンキン・パークというバンドそのものを表したものではなかったのだろう。まったく違うバンドじゃないかと思えるほどこの数年でリンキンの音楽性は激変したが、本人たちには違う音楽をやっているなんて自覚はこれっぽっちもないんじゃないだろうか。ただ彼らはインスピレーションにふさわしい音をできるだけ的確に選んでいるだけだ。初期の彼らには叫ぶことが必要だった。現在の周辺状況がそうであるみたいに、世界がそれだけやかましい場所だったからだろう。それを上回るボリュームでなければ、声などどこにも届かなかったのだ。そしていま、彼らは狂騒の只中で黙り込む。まるで僕たちに、周囲を改めて見回すことを求めるように。この静寂の鳴らない場所に、これまで以上の気持ち悪いノイズを感じる。荒廃した街、世界の終わりの風景に鳴り響くものが、決まって美しい鐘の音であることと、少し似ているような気がする。
 そして、ここで歌われていることは、聴けば聴くほど、よくわからない。著名人の演説などからサンプリングされた数多くの引用にどんな意味があるのか。歌詞は遠くから眺めても単純には程遠く、雑多な抽象の集積みたいだ。「わからない」ことを、「至高」と表現してしまうことは、あまりに単純で、下品だと思う。リンキン・パークがここで必要としたこと、それは、「わからない」ことがある、ということを肯定することではないのか。彼らがここまでノイズを極端に抑えた理由、それは、ノイズだけでは表現しきれないものがそこにあるからなのではないか。音だけでは表現しきれないもの。言葉だけでは言い表せないもの。光だけでは描ききれないもの。太陽が決して照らすことのできないもの。真実だけでは証明できないもの。花火が爆発的な光を放出して、爆音で地面を揺らすまでの、そのタイムラグ。追いついたと思えば、すでにそこには存在しないもの。エンプティ・スペイス。どうしようもない矛盾を抱え込むことを受諾した世界には、単純な回答では決して当てはまらない、形なきものがあるということ。だから前作であれだけの批判を受けたにも関わらず、彼らは自身の最強無敵の武器とも言えるあの体系から潔く脱却したのではないか。「わからない」ものが、そこにあるからだ。いまのリンキン・パークは、決して触れることのできないものを、必死でコントロールしようと試みていると思う。しつこいけど、それを「至高」で片付けるのは、誉め言葉でもなんでもない。「わからない」、でいいのだ。「わかる」では理解の及ばない何かがあるということなのだから。
 人は、ライズもセットも目の前でしてくれる太陽に、始まりや終わりや諸々を任せる。自分の生まれるところも、死ぬところも、見ることはできないのに。リンキン・パークは終わった、なんて言うやつは許さない。ここには答えなんてない。ただ続けることにしか意味はない。そもそもロックとはそういうものではなかったのか。

17:03 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

レコードみたいに傷つきやすい過去

Roots And Echoes
/ The Coral

Coral-Roots  Echoes
永遠に訪れない季節に忘れ物
 さっきまで頭上にあったと思い込んでいた太陽が、気付けばもう沈んでいる。この感傷的な季節になると、毎年決まって無性にコーラルが聴きたくなる。ちょうどよく新作も発表されたことですし、ちょっとこれまでの作品を振り返っています。07年に発表されたこのアルバムに収録されている“プット・ザ・サン・バック”。この時期になると、この歌が頭から離れなくなる。その根拠は、センチメンタル。多分これがすべてだ。コーラルの歌ははっきり言って、例えば純音楽的な発展だとか、前代未聞の実験性だとか、そういう真新しさとはまったくもって無縁の音楽だ。しかし、ビートルズやゾンビーズなどのかつてのリバプール・サウンドの大御所バンドたちと並べてみてもまったく遜色のない、いい意味での渋み、「わびさび」のようなものを感じさせる(それそのものがすでに実験的だということもできるが)、そういう意味ではほとんど唯一といっていいほどの、二十一世紀の優れたバンドだ。それは、彼らの歌に、ある種の「記憶」が込められているからだろう。誰かが頭の中で何度も思い描き、再生し、すっかり擦り切れてしまったフィルムのような淋しさ。そう、その記憶とは、過去と名付けられた遠い昔の季節。思い出せるのは風景の幼い色合い。控え目な演奏隊の佇まい、少しかすれ気味のボーカル、切なすぎて目をつむったようなコーラス・ワーク。“プット・ザ・サン・バック”では、いつの間にか歯車の狂ってしまった恋人の物語が歌われる。涙を隠そうとした恋人に、彼は歌う。「We've got to put the sun back in our hearts」。そうは思うけど、彼にも何をどうしたらいいのかわからない。大好きな一行があるんだ。君とまたあの頃のようにやり直したい、だけど「I can't explain, you know what I mean」。もどかしい気持ちを表現するのは難しい。思い出さなきゃいけないものがあるのに、それの曖昧な色彩はわかるのに、明確な輪郭がつかめない。きっと、彼らはまたそのときと同じ季節が訪れても、それを取り戻すことはできないだろう。そんな気がする。思い出すことができたのか、それともやっぱり忘れたままなのか、それすらもわからない。なぜならその「わからない」というもどかしさこそが、何かを忘れる、季節を失うということの、紛れもない証左だからだ。まるで、いつの間にか姿を隠してしまった太陽のように、思い出になる前に消えている。そしてまた太陽は昇り沈みを繰り返し、過ぎ行く季節を惜しみながら、ただそこに立ち尽くす。それだけの歌。だからいいのだ。

06:11 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

Heart Rockerじゃないんですよ

The Hurt Locker
hurt locker
人と戦わない戦争
 戦いには高い塔が付き物だ、と考えていた頃があった。戦国時代の城だってその一種と言えるかもしれないし、アメリカの同時多発テロではワールドトレードセンターが、そして何より、天を目指した塔が崩壊したとき、人々は混乱の意味を知った。高い塔、それはすなわち、シンボルである。決まって高いところにあるものだ。他者に対する何らかの表明、ということだろうか。つまりは、思考と意識こそが、人々を目上げさせる。猿人が立ち上がったのだって、頭を使ったからだろう。精神と思想が人々の指向性を上に向かわせる。そしてだからこそ、戦いにおける倒壊した塔は、それがそのまま歴史的な墓標となる。だとしたら、その墓標にはいったいどんな文章が記されるのだろう。「こんな塔建てなきゃよかった」とでも書かれていたら面白いのに。
「彼らは、数えきれない命を救う。たった一つの命を懸けて――」というのがこの映画の日本でのキャッチ・コピーみたいなものらしいのだけど、実際に観たら『海猿』かなんかと勘違いしてるんじゃないかと思った。冒頭に記される戦争と中毒に関する引用からして、そういう美しい感動超大作とは方向性がまるで違う。緊迫の爆弾処理シーンでは物音よりも黙り込んだ戦場こそが多くを語り、周りの兵士が国に帰ることを願う中たったひとり戦いの場を求め続ける物語の中心人物は、決して勇敢には映らない。彼は任務終了後も戦場を思い、血の流れるそこに再び降り立つ決意を固める。その理由はたったひとつだ。爆弾処理こそが、彼の最も輝ける場所だからだ。そんな結構な幻想のためだけに彼は戦い続ける。精神と思想、その幻が誇らしげな見えない塔を築き上げ、戦いを呼ぶ。イラク戦争だって、結局核兵器はひとつも見つからなかった。全米イラク・アフガン帰還兵協会会長は「米軍に対する敬意が足りない」とこの映画を批判したらしいけど、兵士ってそんなに偉いのか? だとしたら、兵士はなぜ、いつまでたっても兵士のままでいるのか。

06:56 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ジャケットがジャケットだし、宇宙の話とかしてみました

Surfing The Void
/ Klaxsons

Klaxons-Surfing the void
最短の永遠
 宇宙の光(サンライトやスターライトのことではない。それは太陽の光、星の光だ)さえ届かない、宇宙の外側(裏側?)。そこにはいったい何があるのか。もしも、その空間に行くことができたとしたら、僕はいったい何を思うだろう。僕は、君の名前を呼ぶよ。どこに行っても頭に浮かぶ。宇宙がまるで無限のように放つ光、その圧倒的な暗闇さえも届かないところに、君の光が届く。奇跡的なスピードで広がる空間を超えて、宇宙の光は還元する。君が僕を呼ぶ声が、聞こえてきそうだ。その瞬きよりも短いような刹那が愛しい。現れたと認識したときにはすでに失われている、その声。たった一瞬で、あらゆる空間を跨ぎ、僕のとらわれた時間を壊す。永遠と呼ばれるものが、一瞬ですらないと感じる瞬間――シャイニング。それは、空と地上とをたちまち繋ぐ雷のような、魔法の言葉だ。
 このバンドのデビュー・アルバムを聴いたのはいつのことだっただろうと思う。三年前? 三年半くらい前になるか? とにかく、随分前のことだ。当時は彼らに続けとばかりに「ニュー・レイヴ」を冠したバンドが出てきていい作品を発表していたが、いまでも聴くことがあるのは、クラクソンズの『近未来の神話』の一枚だけだ。あのシーンで実際に何かを発明したバンドは、彼らだけだったと思う。というかそもそも、後に続くことそのものが不可能な音楽だったのだと、このセカンドを聴いて思う。クラクソンズが自ら提唱したニュー・レイヴ。それは初めから、刹那的であることを目指した音楽だった(使い捨て、という意味では絶対にない)。それはすなわち、伝達されたときにはすでに鳴り終っている音楽だったのだ。クラクソンズはシーンに登場するやいなやたった一枚のアルバムで伝説を作り上げ、しかし、その後の沈黙は余りにも長かった。この三年半の間、シーンに残っていたのは彼らの眩しすぎた残像だけ。そしていよいよこのセカンド。前作と同じことを目指している。そこがとても真摯だ。刹那という時空の歪みに、どこまで近づくことができるか。瞬間ごとに高速で置き去りにされていく音の数々。せめて傷痕だけでも残そうという意思が音そのものに宿っているんじゃないかと思えるほどエッジが利いている。速すぎるが故に、永遠という停止した時間、失われた時間に限りなく近づくもの、それが刹那だ。感知したときにはすでに失われている音楽。ちなみにこのアルバムは、“エコーズ”、すなわち、「残響」という楽曲から始まる。そういうことだ。

01:20 | 音楽 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

僕がYUKIを聴く理由、知ってる?

二人のストーリー
/ YUKI

YUKI-二人のストーリー
君は、僕以上に、僕に似ている
 数字の中では、「12」が一番好きだ。なぜって、この数字には物語がある。「1、2、3、4……」とそれまで等間隔で並んでいたはずの二種類以上の数字が、これまでになく接近する瞬間。「1」と「2」が、照れ臭そうに少しだけ隙間を開けて、それでも肩を寄せ合おうとしている。ひとつとひとつが、初めて「ひとつ」になるとき。「10」だってそうじゃないかと思われるかもしれないけれど、「1」と「2」の方が、なんだかとってもロマンチックじゃない。少なくとも僕はそう思うのだけど、どうだろう。

 YUKIの新曲が発表された(もう次の曲出てるけど……)。
 前作となるシングル“うれしくって抱きあうよ”がリリースされた当初は、恥ずかしい話、あれがこんなにも決定的な歌だとは思いもしなかった。先月発表されたこの“二人のストーリー”を聴いて、強く思う。ひょっとしたら“うれしくって抱きあうよ”は、YUKIを再び派手なステージに連れ戻した“JOY”よりも、胸の中に大切に仕舞っていた風景を取り戻した“汽車に乗って”よりも、もっともっとメモリアルでラジカルな歌だったんじゃないか。このブログでは、グダグダな歌だ、としか書いてこなかったけど、この“二人のストーリー”を聴くことで、わかったことがある。“うれしくって抱きあうよ”がきっかけだったんだ。とうとう、と言うべきか。まさか、と言うべきか。YUKIの歌から、「ひとり」が消えた。
 02年に記念すべき初のソロ・アルバム『PRISMIC』を発表して以来、YUKIは長年「ひとり」を歌い続けてきた。それは必ずしも独りぼっちや孤独を意味しない。あなたや君という明確な他者が登場する歌でさえ、それは彼女にとっての「出会い」であり、そこには、わたしという「ひとり」がいつまでも保たれていた。すべては自分に対する証明だったのかもしれない。出会いと別れを繰り返し、絶頂的な喜びと、波打つような哀しみをくぐり抜けた、他ならない自分自身への。僕たちにはもちろん、未来のことはわからない。道なき道を進むということは、道はいつだって後ろ側に伸びていく、ということだ。当然後ろ向きな意味ではない。YUKIは、常にその長い道のりを歌い続けてきた。やってきては通り過ぎていく人々、横切る風景、頭上にはいつも気まぐれな色彩が広がっている。ときには背中の向こうを振り返り、そしてまた前を向いて、未だ見ぬ誰かや何かに胸を躍らせる。出会いや別れの感触、過去や未来の距離、壊れやすい感性の切っ先がとらえたそういう情報から、自分自身という「ひとり」とこれまで歩んできた道のり、すなわち「いま、ここ」を、証明し続けてきたような印象がYUKIの歌にはある。そしてだからこそYUKIのディスコグラフィーは、それそのものがすでにひとつの物語として、どこまでも地続きな、優しく、そして強固な地盤を形成し続けてきた。YUKIの音楽を聴く人なら、わかってもらえるんじゃないかと思う。
 YUKIの歌には、例えば雨や星といった、情景的なキーワードがとても多い。そしてその風景の中に「ひとり」を見出すことで、YUKIは様々な場所に自分自身を証明してきた。『joy』以降、音楽性がポップになればなるほど、そのミラクルな跳躍力は顕著になっていったような気がする。幻想、夢、過去、未来、あなた、すべての時間と距離を超え、どこにでも自分がいられることをYUKIは証明してきた。地図さえなければ、人はどこにだって行ける。大気を埋め尽くす無数の雨粒のように、夜空に星原をなす無数の星々のように、YUKIは至る所で輝いてみせた。そしてそれはまるで月明かりのように、どこまで行っても還ってこられる「いま、ここ」の「ひとり」を照らすためにこそ、光を発信し続けていた。
 しかしその一方で、月の裏側はというと、いつだって真っ暗である。そういうことなのではないか。“二人のストーリー”を聴いて、そう思った。これも決してネガティヴな意味ではない。僕が言いたいのは、まだ光り輝ける場所があるのではないか、ということだ。そこに、YUKIが抱きあうことで知った初めての何かがあるのではないか、ということだ。抱きあうという、「ひとり」ではなく、「ふたり」でしかできない何かがあるのではないか。“うれしくって抱きあうよ”、そしてこの“二人のストーリー”が語り出す、もはや「ひとり」でないYUKIの物語が伝えることとは、そういうことなのではないだろうか。これらの歌はもしかすると、これまで自分の力によってこそ「ひとり」としての自分自身を証明し続けてきたYUKIが、初めて自分以外の誰かに証明されたことを歌った歌なのではないだろうか。数多くあるYUKIの楽曲の中で一番は決められないが、僕が最も思い入れの強い歌である“ハローグッバイ”の中に、こんな歌詞がある。「私が見てきたすべてのこと/むだじゃないよって君に言ってほしい」。まさにこれではないのか。「ひとり」と「ひとり」が出会い、抱きあったとき。その奇跡のようなタイミング以外に、いったいいつ、月の裏側までもが輝き始めるというのだ。
 この“二人のストーリー”の登場人物は、「いつまでも君の横顔を見て」いる。これはどういうことだろう。真正面を取り逃がしてしまうすれ違い、かもしれない。しかし重要なのは、隣にいる、ということだ。距離や隔たりなどもはや関係ない。どこにいても、隣にいる、ということだ。君の横顔は僕が見ている、という思いだ。僕たちは、ただひとり、自分の顔だけは肉眼で見ることができない。そこは、月の光が唯一届かない、月の裏側。そこに光を送る、自分の知らない自分を証明してくれる誰か。自分を託すことのできる誰か。その誰かはもはや、自分自身とほとんど同じなのではないだろうか。

 ねぇ、ナンセンスなクイズをしようよ。
 君ならきっと、僕の横顔を見ただけでわかる。
 いま、何考えてると思う?

10:20 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑
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