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「バカ」についてはタトゥーで書きました

Hero
/ Papaya

papaya-hero.jpg
半年以上も手をつなげなかった
 以前にリトル・ブーツか誰かのレヴューで、ポップっていうのは「嘘」と「セクシャリティ」と「バカ」だって書いたことがあるのだけど、その「セクシャリティ」について。僕だけだったら恥ずかしいのだけど、ポップであることって、どこかエロいと思う。そこに卑猥な言葉が登場する必要はないし、そもそも「卑猥」という意味でのエロさではニュアンスが違う。メロディだ。必要以上に弾けていて、コミカルなところ。それが、ものすごく恥ずかしがっているように聴こえる。好きな子の前でおちゃらけちゃうみたいな、照れ隠し。そして、それが顕著になればなるほど、ポップは「わたしとあなた」について歌うことを執拗に避けようとする。その圧倒的な頂点とも言えるアクアの名曲“バービー・ガール”。「わたしとあなた」ではなく、バービーとケンという二人の架空の人格を拝借した素敵な物語。なぜ、ポップはそんな嘘を必要とするのか。触れられないからだ。自分のそばにいない誰かと架空の世界は、「触れられない」というただその一点においては、完璧に同義だからだ。だから、架空の世界観を必要としたポップでは、その愛しさと狂おしさの色合いだけが残り、歌い手その人の人格は物語の背後に隠される。いじらしくて、奥ゆかしくて、たまらない。キス以前のもどかしさと、臆病さとほとんど紙一重の優しさ。ポップな音の運び方なら誰でも知っている。でもこの照れ臭さを知っているポップにはそうそう滅多に出会えない。そして、本当に優れたポップにはほとんど例外なく、この、ただひとつだけが架空でないニュアンスを感じる。それを僕は「セクシャリティ」と呼ぶことにしている。
 ダンスマニア・シリーズは中学生の頃よく聴いていた。この歌はシリーズの常連だったパパヤの楽曲の中でも突出して人気の高い歌で、当時は様々なリミックス・バージョンが作られていた。この歌も、求める愛しい誰かは「あなた」ではなく「ヒーロー」である。メロディ、声、アレンジ、どれをとっても秀逸なのだけど、歌詞が抜群にいい。特にサビ直前の、「But at the break of dawn he is gone/The wind has carried him away/And like a comet on the sky he will return - someday」のところ。彼が去っていくのを夜明けのせいにして、風のせいにして、ヒーローのせいにして、彼の戻ってくる「いつか」を待ち焦がれる。その直後の「You are my hero/Ooo I love you」が、わざと右手に持ち替えたカバンみたいに、ちょっとだけ照れてる。

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16:20 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

「12」は「1」と「2」が寄り添う、アイ

Se7en
セブン
「7」は孤独な数字
 キリスト教の七つの大罪をモチーフにした連続見立て殺人事件に挑む二人の刑事を中心に物語りは展開する。デヴィッド・フィンチャー監督のヴィジュアリストとしての感性、高度なミステリー的巧みさに満ちた脚本、そしてブラッド・ピットのラスト・シーンでの名演技、と見所満載の快作。すでに楽園を追われ、罪を背負いながら生きていく人々。時に地獄よりも醜悪な顔を見せる、もどかしくも理不尽な現実社会への厭世観を描きながらも、モーガン・フリーマン演じる退職を間近にした老刑事の体験とそこから生まれた言葉が、目を逸らさずに戦い続けなければいけないという物悲しい勇気をかろうじて呼び覚ます。ハンニバル・シリーズのレクター博士にも通じるが、こういったサイコ・ホラー映画に登場するいわゆる観念的な動機から殺人を犯す異常犯罪者には、決まってそんな醜悪な世界を何とか上回ろうとして犯行に及んでいるような印象がある。ネタがバレるので細かいことは書かないが、この映画の真犯人が目指したもの、それは、世界からの脱出法。罪にまみれたこの世界から、いかにして綺麗に消え去ることができるか、ということ。そんな逃避的ともとれる幻想のために生きた犯人と、「こんな悲惨な世界に子どもを産むのか?」「無関心が美徳とされる世界にはうんざりなんだ」と哀しみに裏打ちされた力強さを鼓舞する老刑事の二人が圧倒的なコントラストを形成し、その狭間でどちらにもなれなかったブラッド・ピット演じる新任刑事、つまりは狂気的な状況に巻き込まれた一般人が、とてつもなくむなしい。「1」から「10」の整数の中で唯一周囲と関わりを持てない「7」。罪を背負った人々の絶対的孤独と、罪を見て見ぬフリをすることでこそ回転する世界の不条理、そしてそれゆえに新たに加えられる罪。見終わった直後にネットでいろんな人のレヴューを読んだのだけど、こう言ってる人が多かったな。「子どもには見せたくない」。子どもにはまだ早いと。この悲痛な現実と直面するのは大人になってからだと。デヴィッド・フィンチャーはこの映画はホラーだと言っているみたいだけど、子どもに回り道させるその一種の優しさこそ、人を無関心にさせる諸悪の根源じゃないかと思えてしまって、僕にはそれが一番ホラーだった。

03:17 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

年上の方はまかせた

Teenage Dream
/ Katy Perry

Katy Perry-Teenage Dream
永遠の年下
 アルバムの一曲目を飾る表題曲の“ティーンエイジ・ドリーム”がいい。何がいいって、サビの直前の「ヤング・フォーエバー!」のところ。「ヤング」だけでも十分に「フォーエバー」っぽいニュアンスを含んでいるのに、両方揃ったらもう最強。タイトルにも同じことが言える。「ティーンエイジ」にはすでに十分「ドリーム」の甘さも儚さも内包されている。最強の幻想。ラジオである歌を聴いて、その歌詞のことをずっと考えていた時期があった。「地図にもない街」みたいな歌詞の出てくる歌だったと思う。それはどこだろう、と。それは未開のフロンティアか、誰もが夢見る桃源郷か。人はたまに、そういう幻想に憧れる。すべてが解決する場所が、ここではないどこかにはあるのではないか、と。ある者は西を目指し、またある者は海を追いかけた。でもいつか、それがひどいまわり道であることに気付く。かつて憧れた地図にもない街、それは誰も知らないどこかではなく、地図を見るまでもない「ここ」だったのだと。ティーンエイジとは、そういう季節である。いろんな幻想を抱いて余りある季節。しかし季節は移り変わる。いつかそれらの幻想を排除しなければならないタイミングがやってくる。夢は大きければ大きいほど、邪魔になる。あれほど大好きだった幻想で埋め尽くされていた小さな箱を、もっと役に立つ実用品に詰め替えなければならない時がくる。そしてその時になって立ち止まるのでは、もう遅いのだ。どんな物事も、実用に近づけば近づくほど面白さはたちまち減退する。まわり道も道草も食えない道を選ばなければ、大人にはなれないのだ。
 だからっていうわけでもないけれど、今回のアルバムで特に嬉しかったのは、ブックレットにわたあめのにおいがついているところ。っていうかわたあめってこんなクセ強いにおいしたっけ?と疑いたくなるほど甘くっさい。そういうところに無駄な労力使うところが偉い。「ヤング」であり「フォーエバー」であり「ティーンエイジ」であり「ドリーム」であること。これに似てること、たくさん知ってる。LP4使って70曲も入れた音質めちゃくちゃなジュディマリのMD、ケースにいっぱいになったもう時代遅れのMDの山、店員に「フラミンゴ」連発しながら僕の大好きなフレーミング・リップスのCD探してた。誰かが教えてくれなければ存在すら危うい虹みたいな、その愛しさという幻想はしかしたまに、住宅も車も仕事をも遥かに凌駕した力で人を救う。

00:53 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

スクラッチで見つかる人もいる

Congratulations
/ MGMT

mgmt-congratulations.jpg
君は、僕と同じ言葉を喋る
 まず、タイトルが単なる祝福のみを意味していないところがいい。コングラチュレーションという喜び。それがここでは疑うべき墓標であり、同時に、守るべきおもちゃ箱でもある。立ち止まる暇などないほど高速な世界の、気まぐれな波に流され、飲み込まれ、それでも足元の薄く脆い地盤はどこかへ辿り着こうとしている。漂着した浜辺は二十一世紀。すべてが出揃ったといわれる時代。強靭なシステムとネットワークの張り巡らされたそこでは、すべてが予め告げられる。すべてが揃っているはずなのに何かが決定的に足りない、そんな覚えたての虚無感。慣れ親しんだ「愛」すら記号としての意味くらいしか発揮できない世界で、「コングラチュレーション」にはいったいどれほどの役割が残されているのか。そういうアルバムなんじゃないかと思っている。いったいどう変換すれば「コングラチュレーション」に真摯な言霊を宿すことができるか。すべてが暴かれ、すべてが予め告げられる。それこそがすなわち、「失われる」ということの本質だ。完璧なタイミングは、まだ、どこかに、残されているのか。
 三曲目の“サムワンズ・ミッシング”が好きだ。音楽的に余りにも大胆な変貌を遂げた本セカンドにおいて、深夜の残響のように控えめでいて飛距離をもったサウンド・デザインのなされたこの幻想的な歌は、収録曲の中で前作に最も近い印象を与える楽曲かもしれない。やわらかいキスみたいな囁きの森の中、「誰かがいないような気がするんだ」という真新しい閃きをきっかけに、主人公に圧倒的な光が差す。ロックは、あらゆる葛藤や疑問について、必ずしも絶対的な回答を提示する必要などない。この歌は確かにヒントでしかない。いよいよ開かれた景色を見渡す。でも、そこにいるべき誰かがいないような気がする。「ある」はずのものが「ない」ということ。「ない」ものが「ある」ということ。「コングラチュレーション」の喜びをいかにして取り戻すか。そこに、予め失われた何かがあるということ。その発見が意味することは、僕たちはまだ、どうにかして、こうにかして、誰かと出会うことができるんじゃないかという紙一重の希望。それこそが、あるべきものなどないこの世界で、何かを「取り戻す」ということの本質ではないかと、このアルバムは逆説的に伝えている。

19:26 | 音楽 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑
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