スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--:-- | スポンサー広告 | comment (-) | trackback (-) | page top↑

Overjoyed Embracing

YUKI concert tour 2010 “うれしくって抱きあうよ”
YUKI-うれしくって抱きあうよ
うれしくっても抱きあえなかったすべてのものたちへ
 今年の二月に発表されたYUKIの現時点での最新シングル“うれしくって抱きあうよ”を聴いていまでも思うことは、タイトルからして、グダグダな印象の歌だな、ということ。これだけは絶対間違ってもらいたくないんだけど、非難してるわけじゃない。すごく大好きな歌だ。長い時間をかけて蓄積された何かを内に秘めたような、穏やかでいて力強い、素晴らしい歌だ。これをグダグダだと感じるのは、ただシンプルに、多幸感に満ち溢れているからだと思う。それは、「ロック」と呼ばれる音楽のセオリーとは、余りにも遠くかけ離れている。幸せで、最高で、ありがとうなその場所に、果たして歌うべきことは残されているのか、という疑問である。まるで歌うように日常を過ごすことのできる人は、おそらく、歌を歌うことを必要としない。歌を歌うということがいったいどういうことか、それをいちいち定義し始めると長くなるが、ザックリとひとことで言うとしたら、それは「片思い」だ。永久に手に入れられないかもしれない何かへの思いを抱えながら、それでも力強くサバイブしていくこと。ロックにもし果たすべき責務のようなものがあるとすればそれは、その永久に報われないかもしれない魂の肯定に他ならない。人が歌うということは、そういうことだ。僕たちから見える、宇宙にあるあらゆる星の中で、たったひとつ、地球だけが光って見えないのと同じようなことだ。そして、僕たちはまさにその星に生きている。
 
 八月十五日。福岡サンパレス。
 まだ自由な会話でざわついていた会場に入ったときから、自分がこのコンサートに何を求めているのかということを考えていた。いや、そんなにそれを意識してはいなかったけど、好きな歌手を生で目撃する、ということに飛び跳ねるような興奮をあまり感じない僕にとっては、それが一番重要なことだったと思う。好きな歌手はいっぱいいるけど、ライブにはほとんど参加しない。めんどくさいからだ。それでもYUKIのコンサートには、初めて『PRISMIC』を聴いたあの日から、よほどのことがない限りは欠かさず参加するようにしている。YUKIのコンサートには、やっぱり欲しいものがあるから。
 僕は、YUKIの言葉が聴きたい。そう意気込んで参加しても、実際幕が下りると具体的な内容はほとんど忘れちゃってるところが情けないのだけど、印象だけは、しっかりと刻んできたつもりだ。コンサートは音楽を立体的に再現するところ。この日、YUKIはそう言っていた。“うれしくって抱きあうよ”に感じる、決して居心地は悪くはないが、確かに感じる違和感の正体を、僕は知りたかった。YUKIにそれを立体的に表現して欲しかった。
 コンサートは、壮大な影絵から始まった。ステージを隠すように閉じられた幕の表面に、YUKIの影と、人の体だけで表現された木や、オオカミのような影が、まるで生きているかのように躍動する。幕が開くと、そこには、光を得たようなYUKIが得意げな笑顔で佇んでいた。その背後には、ストリングスやブラス隊まで揃った十数人編成のバンド。舞台は、薄明るさと薄暗さの間の微妙な空間をとらえたような神秘的な森。会場中を飛び交う、悲鳴のような喚声。一曲目は、最新アルバム『うれしくって抱きあうよ』から、“朝が来る”――。
 観客はもちろん総立ちでYUKIを迎えた。すぐに驚くべきことが起きた。それからオープニングの二曲を歌い終えたYUKIが、僕たちを座らせたのだ。なにが始まるのだろうと思った。するとYUKIは、僕たちを座らせたまま、次の歌を歌い始めた。そこから終盤まで、僕たち観客はずっと座ったままYUKIの歌を聴いていたのだ。なぜ座らせたのか、コンサートが終わってからもしばらく考えていた。開演を待ち切れずに、会場の照明が暗転しただけで息を呑みながら立ち上がった僕たちを、YUKIはなぜ座らせたのか。披露された楽曲はどれも、初期のものから最新のものまで、すべて新たなアレンジが加えられていて、確かに、「楽しむ」というよりは静かに「嗜む」という雰囲気を持ったものに変更されていた。いつもならステージの端から端まで駆け抜けて踊るYUKIも、この日は小さく踊っていた。もっと違うものを求めていた観客も多かったのだと思う。事実、それまでのどこか清らかな雰囲気とは明らかに違った“ランデヴー”のイントロがコンサート終盤に流れ始めたときの、観客からのリアクションは凄まじかった。前半は行儀よく着席しながら聴いていたものの、本当に望んでいたのはこれだったんだとでも言うような。その頃にはすでに観客は再び席を立ち上がっていた。皆が激しく手を振り、飛び跳ねたりリズムに合わせて体を揺らしたり。立ち上がった観客たちの動きが大きくなればなるほど、YUKIがなぜ前半部分で僕たちを座らせたのかが余計に気になった。皆が歌いたくて踊りたくてウズウズしていたことを、YUKIはわかっていたはずだ。ただ単に雰囲気がそうだから、というだけの理由ではないだろう。皆座ってみて、違う景色が見えるよ、YUKIの足が見えるー!と冗談めかして僕たちを座らせたYUKIだけど、YUKIは本当にそれを望んだのだ。歌うことでも、踊ることでもない。YUKIがこの日、僕たちに求めたものは、「聴くこと」、そして、「見ること」だった。
 相変わらず愉快で笑いの絶えないMCの中に、ひどく印象的な話があった。いま自分が最も欲しいものとして、YUKIは、昔お母さんが編んでくれた、やぼったいけど温かい服、そういった手編みのぬくもりだ、と具体的な話をあげていた。そしてその手編みの最もプリミティヴなものがこれだ、とYUKIは自分の三つ編みの髪をいじくりながら語っていた。どうやらそれが今回のコンサート・ツアーの大きなテーマらしく、販売されたグッズにはいたるところに三つ編みが登場していた。コンサート中盤にはフランスから持ってきたという人毛で作られた椅子まで登場し、日に日に毛並みが悪くなる、と笑いながらもYUKIは愛しそうにその綻びた椅子を撫でていた。その姿がとても心に残った。
 それは一種の懐かしみだろうか、と思う。聞けばこの日の舞台のセットは大きな紙芝居だという。幼い頃に触れた懐かしい感触。それに対するセンチメンタルな気持ちなんだろうか、と。少し違うと思う。なぜかと訊かれると、長年YUKIを聴いてきた人間の直感だとしか言いようがない。時間は巻き戻らないことをこの人は知ってる。例えば、いま実際にお母さんが手編みの服をくれたとしても、昔それを着ていたときとまったく同じ感覚を得られないことをこの人は知ってる。そんなに単純なものではないのだ。ただこの人は、待ち遠しいのだ。手編みの綻び、少しだけ不器用な感じ。その繊細なところを、YUKIは「聴いて」、「見て」欲しかったのだと思う。ステージと客席が、ゆっくりと、静かに編み込まれていく感覚。過去に過ぎてしまったものへの感傷ではなく、まったく新しい、「いま」に対するセンチメンタル。YUKIは、それが待ち遠しくて、仕方がないんだと思う。
 懐かしさが待ち遠しいということ。そこに、いまのYUKIの挑戦があるように思う。YUKIの人生にだって、掴み損ねたもの、失ったものが、あるだろう。それはもういまは、うれしくったって抱きあえないものたちかもしれない。それでもそのことについて、哀しみに暮れる必要なんてない。すべては懐かしく、そして待ち遠しい。YUKIはそれを時系列の彼方に忘却する気なんてない。いまでも、抱きしめるつもりだ。もちろん、すでに失われたそれと、実際に手と手を触れ合って、体と体を重ねあって、抱きあうことは無理かもしれない。そうではないのだ。すべてが納得できるとき、と言おうか。すべてが、そうあるべきだったと祝福できるとき、だ。そのときが、待ち遠しくて待ち遠しくて仕方がないのだ。それはもう、すべてを抱きしめることと、同じことだからだ。
 真実を、それが真実であると証明することは、時として、嘘をつくことよりも難しい。YUKIはまさにいま、それをやろうとしている。すべてを抱きしめるなんて、雲の上で待ち合わせをするような、空想に過ぎないかもしれない。嘘っぱちに思えるかもしれない。それでもYUKIにとっては真実なのだ。それくらい、うれしくて、うれしくて、たまらないのだ。“うれしくって抱きあうよ”は、そういうことを願っている、祈っている。この日YUKIが歌った歌から言葉を借りるなら、こういうこと。
 いつか、完璧な環になるように。
 

スポンサーサイト
08:54 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

支配されることは、支配すること

もうひとりの明日香
/ 福田明日香

もうひとりの明日香
つんくがただひとり掌握できなかった娘。
 メジャー三枚目のシングル“抱いてHOLD ON ME!”が初のオリコン一位に輝いたとき、他のメンバーが涙しながら喜びを表現する中、水を差すように「オリコン一位がすべてじゃない」と言い放った福田明日香。某番組の収録で、「芸能界に入るにあたって捨てたものは?」と訊かれ、ペットだとか甘いものだとかいう可愛らしい回答に紛れて、「本当の自分」なんていうちょっと無視できないことを言っていた福田明日香。そして、「モーニング娘。」という意味不明なグループ名が発表されたとき、冗談きついぜつんく、とでも言うような引き気味の苦笑で埋め尽くされたASAYANのスタジオで、たったひとり、「かっこいい」と心底嬉しそうにしていたのが、福田明日香だった。冷静で、淡白で、でも情熱的。福田明日香は、少なくとも僕の目には、そういう女の子に映った。モーニング娘。は成長の物語。最初は地味で自信なさげにしていた子も、つんくに指導され、芸能界の狂騒を経験し、ファンからの声援を浴びるにつれて、徐々に逞しい自信を手にし、輝いていき、そんな自分を「本当の自分」に置き換えていく。変わらなかったのは、福田明日香だけだったと思う。もちろん彼女は在籍期間も極端に短い。そのこともあるだろうが、言い換えるなら、彼女だけが、モーニング娘。に「本当の自分」を託さなかったのだ。だからといってふて腐れながらやっていたというわけじゃない。やれと言われたことは、何だってとことんやる。クールに振舞っているようで、ステージに立てば観客に笑顔を振りまいてみせる。眩しいスポットライトに照らされたそこに、「本当の自分」なんていなくたっていいことを、彼女だけが知っていたからだ。というか、彼女だけが、そのことに明確な意識を持っていたからだ。そこに福田明日香の強さがある。天才と凡人の差は能力の差じゃない。意識の立ち上がりの圧倒的な速度だ。モーニング娘。を辞めるという余りにも早すぎた決断にしたって、そうだろう。状況が変わるだけ。そんなことで自分は何も変わらないと彼女はわかっていた。この本を読めばそのことがよくわかる。つんくも、福田明日香に限っては、活動にあたっての口出しをすることはほとんどなかったという。そして、自分の手で卒業という決断を下した福田明日香に、つんくは“Never Forget”という名曲を送った。モーニング娘。結成のきっかけとなった「シャ乱Qロックボーカリストオーディション」で、若干十二歳にして最終候補まで残った福田明日香。オーディションの三次審査となったスタジオでの歌披露、そこで彼女が初めてスタジオに登場したときには、つんくはまだのん気にヘラヘラ笑っていた。それが、安室奈美恵の“Body Feels EXIT”の一行目を彼女が歌い上げた瞬間、「うわっ」と声を上げ身を乗り出し、つんくは目も口も大きく開いて完全に夢中になっていた。あのド迫力のパフォーマンスを、つんくはもう一度見てみたかっただろうなと思う。モーニング娘。としての活動を始めた彼女に、つんくは一度もそれを再現させることはできなかった。

19:42 | | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

The Game Of Who Needs Who The Worst

悪人
/ 吉田修一

悪人
悪人の所業
 スタンリー・キューブリックの『フルメタル・ジャケット』を思い出した。ベトナム戦争の悲劇を描いた映画作品である。このブログでも書いたことがあるけど、あれは実は、戦争批判の映画なんかじゃ全然ない。一般市民を殺戮兵器へと作り上げる恐怖、すぐそばでさっきまで会話していた誰かが一瞬にして死に至る恐怖、恐れるべきものはたくさんあるが、僕があの映画で一番恐怖、というか狂気を感じたのは、ベトナム人の幼い女の子を撃ち殺してしまいさっきまで立ち尽くしていたはずの兵士たちが、燃え盛る町の中、“ミッキーマウス・マーチ”を歌いながら練り歩くラスト・シーン。殺戮にはあまりにも場違いな、陽気な歌である。すべての敵を殺傷した闘争の果て、そこで流れるものは、逃走のメロディである、というキューブリックの主張だ。最後の最後まで、たとえその手が血まみれであっても、自分だけは敵に回さない。フルメタルの殺戮兵器よりも本当に恐るべき人間の自己弁護。そしておそらく、そこにすら批判の意図はない。彼の映画はそれほどまでに、雄弁にして、冷徹である。
 ひとつの殺人事件と恋愛を軸にしたこの作品について、登場人物のいったい誰が「悪人」か、という議論にはいまいち信憑性を感じない。殺人を犯した男か、その罪をわかっていながら逃亡の道を選択させた女か、出会い系で男をまるで食い物のようにしていた被害者の女性か、その女性をあざ笑い蹂躙した大学生か。法や倫理観の下では、誰もが悪人のような気がする。でもそれぞれの事情やそれに裏づけされた言動を見ていると、みんなそれほどの悪人とはとても思えない。犠牲になるものは、当然ある。そしてその犠牲を前に、彼らは皆、「被害者」になりたがる。そのために、自分に被害を与えたと思われる、「悪人」と呼べる「加害者」をでっち上げる。自己を「悪人」から遠ざけるために、他者にもっとわかりやすい「悪人」を押し付ける。人を殺める者が、人を踏みにじる者が裁かれるべき悪人に違いないことはもうわかっている。「悪人」は暴力を使わない。反省と自己嫌悪と妥協と言い訳で自己を守り、守り、守り抜いて、作り上げたそのシェルターの中で速やかに他者の「善人」を殺す。

19:38 | | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

Forget Me Not

Crime Of Love
/ Comanechi

Comanechi-Crime Of Love
愛は、どうやら物忘れがひどいらしい
 それはかつて、「愛」と名付けられた真実だった。それは、あらゆる論理や定義を超越した方式であり、それは、地球をも救う絶対的救済であり、それは、歌うことのすべてだった。揺ぎ無いもの――疑い始めるには、それだけの要素で十分である。鉄壁の密室として区切られた空間を、自由自在に行き来してみせた誰かが必ず存在する。隙間なく地層を覆い隠したこの強固な大地でさえ、もしやそれそのものが運動・自転しているのではないかと疑いをかけられた経験を持つのだ。そして、そこから導かれる回答は、納得のいくものでさえあればいい。真実と呼ばれるものに、それ以上の価値はない。「愛」だけが例外であるわけがない。疑いをかけられ、錆びついた鎖に繋がれたそれは、身動きの取れないボルトのように、それ自身を錆びつかせていった。ザラザラに荒れ果てしまった表層。そこに、潤いを、生命を取り戻そうとするかのように、それは、真っ赤な鮮血を求め始める。それは本来、自身がピンクに近い赤色で表現されていたことを知っていたのか? その是非は、たいした問題ではない。真正面から全身に浴びた返り血が、初めて味わう愉悦であったとしても、実は何度目かの妥協や敗北であったとしても、「愛」がそれに納得できるのならば、それだけが真実なのである。
 序章と名付けられた、三十秒間の耳障りなノイズから始まる。丁寧なご挨拶のように添えられた、「12 Things Your Lover Can Leave You」という不愉快なメッセージ。紹介された十二のトラックで披露されるのは、誰かを傷つけようとして自傷しているような女性の金切り声と、早く何者かにならなければと追い立てるような爆音ギターの枯れた焦燥感。祈っても(“I Wish”)、すべてを脱ぎ捨てても(“Naked”)、千切れるように自問しても(“Why?”)、納得できない。それはどこか、死を渇望することと似ていて、確かに付き合いきれない。五十七に及ぶ長い長い沈黙ののち、自己と呼べるものと再会するためにそれは復讐を選択する(“R.O.M.P”)。ここに、「愛」の犯した最大の罪がある。つまりは、鎖に繋がれ錆びついたそれが、自身がかつて「愛」であったことを忘却した、という罪状。王子様のキスが目覚めさせるのは、もはや復讐にすら値しない幻想への認識。

06:45 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。