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助けて

ピンチランナー
ピンチランナー
あー、父さん母さん
 モーニング娘。四期メンバー(辻、加護、吉澤、石川)加入初シングルとなった“ハッピーサマーウェディング”発表直後に公開されたモーニング娘。主演の駅伝映画。“LOVEマシーン”に“恋のダンスサイト”と二作連続でミリオン・セラーを叩き出し、モーニング娘。が国民的人気を誇っていた頃の、実に十年前の映画なのだが、これがツッコミどころが多すぎると言うか何と言うか……。彼女たちの演技自体は、決して悪くない。下手くそだが、笑えるし、なんせかわいいから、「なっちだって頑張ってるんだよ!」とかバカみたいなエコヒイキのひとつぐらいしてあげてもいいよって気分になる。問題は完全に制作側にあって、ザックリまとめてみれば駅伝出場をひとつのゴールにした少女たちの結束と成長を主軸に置いた青春物語みたいな内容だと思うのだけど、制作側は、青春的希望の根源には大袈裟なハンデがなければいけないとでも勘違いしているのか、モーニング娘。のメンバーそれぞれがいじめやら病気やらトラウマやらやっかいなものをもれなく抱えていて、そのひとつひとつにいちいち全能的な解決策を提示するあまり、そっちに時間と労力をかけすぎちゃって、肝心の駅伝シーンが始まる頃には観てるこっちが疲れちゃって、もうさっさと走って家帰ろうよって肩叩きたくなる。そしてもちろん恋愛も盛り込まれているのですが、矢口に思いを寄せられつつも、安倍に密やかな恋心を抱く男は誰だろう……って押尾かよ! これは十年前の映画ですが、近年いろいろあっただけに、妙な時差のいたずらのせいもあって彼の登場シーンはかなりウケました。とにかくそういう、若者ならではの葛藤やお悩みが、小学生でもわかる予定調和の模範解答にもろ手で歓迎されていくさまには、映画は問いに対する答えを提示する義務などないとか考えて始めてしまって白けてきますが、まあモーニング娘。だし、甘めに見てやる。ただなんで駅伝シーンに入ってから、カメラが替わる!? 明らかに安いカメラに切り替わって、映像の質が格段に落ちる。奥行きがなくなって、普通にテレビののっぺりした映像見てるみたい。しかも本物の駅伝大会に参加して撮影されたらしいのですが、つまり観客は、エキストラではなく一般客。モーニング娘。のメンバーの走りに併走するカメラ小僧の数の多さといったら! しかも飯田がもう演技のこと忘れちゃって、道端から声援を送るファンたちに手を振って応え始めるあたりから完全に、映画観心地ゼロ状態に突入。凡人の美意識で観てたらヘロヘロになる。でも最後の最後に登場する大根丸出しの四期メンバーがかわいすぎるから全部許してやる!って感じになってもう観てるだけでランナーズ・ハイ。

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01:04 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

あなただって一回目かも

The Final Destination 4
ファイナルデッドサーキット
ノストラダムスの失敗
 あらゆる確率は一度目に起こる。これは屁理屈である。サイコロを振って、特定の数字が出る確率は、言うまでもなく六分の一。六つのすべての面が均一の条件を与えられている時点でこれは明白なことだが、そういう条件とかを一切無視して実践のみによってこの確率をはじき出す場合について考える。例えば「1」の目が出る確率。三回目に「1」が出た場合、「1」の出る確率はとりあえずは三分の一ということになる。八回目に出たら、八分の一。何回も繰り返せば、次第に六分の一という当然の結果へと集約されていくはずなのだが、ここで肝心なのは、そういうことじゃない。三分の一、八分の一、というその場その場の確率が発生する瞬間、すなわち、分子が「一」であると確定する瞬間は、実際に「1」の目が出たまさにそのとき以外にはあり得ないということだ。対象となるその事象が実際に起きて初めて、確率は完成する。あらゆる確率は一度目に起こる、とは、そのことをあえて本質を外して言った、言葉のトリックである。そこには、その特定の事象が起こらなかった可能性が加味されていない。ユニークな詭弁である。そしてだからこそこの言葉は、もう実際に起こってしまった出来事よりも、未だ起こっていない出来事に対して、ある種の有効性を持っている。起こっていないことは、起こる確率がゼロだからじゃない。まだ、一回目がやってきていないだけだ。この世には、起こり得ないことなどひとつもないのである。
 悲劇は、まるで予めそう定められていたかのように、起こるべくして起こる。致命的な不注意や不幸な偶然の連続によって人々がことごとく死へと追いやられていく『ファイナル・デスティネーション』シリーズの現時点での最新作。邦題は『ファイナル・デッドサーキット』。予知夢によって人々の死を予感した主人公がそれを防ごうと奮闘するのだが、まことに残念なことに、不可解な「死の力」には誰も抗えず、皆もれなく陰惨な血祭りにあげられる――というおおまかなストーリーは毎度のことながら、これが不思議と飽きない。洗車機にアンテナ立てたまま入っちゃって、破損したアンテナが洗車機のシステム部にぶっささって故障、洗車機の中に閉じ込められた挙句、扉を開けるわけにもいかず、脱出しようと試みた車の天窓まで壊れちゃって微妙に人が通れないくらいに開いたまま動かない、洗車機の水道管がぶっ壊れてちょうど天窓から車の中に水が溢れていく――みたいな見事に都合のいい、でも絶対に起きないとは言い切れない不幸が立て続けに発生する工程は、ピタゴラスイッチみたいで面白い。たったひとつのルール違反や慢心が、とんでもない不幸を引き起こしてしまうことがある。安心して生きるなんてそれだけで怠慢。世界には、突風に飛ばされた乾麺のスパゲッティに心臓を突かれて死んだシェフだっているんだから。
 

16:21 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

紛い物の物語

Pulp Fiction
Pulp Fiction
人生なんて慣れるまで怠けてりゃいい、だっけ?
 一台のオープンカーがそのまま一組の座席になっている、ちょっと気の利いたレストラン。そこに向かい合って座るジョン・トラボルタとユマ・サーマン。ふたりともタバコを片手に、それぞれのオーダーしたドリンクを傾けながら、喋ることを見つけられずに無言に徹している。退屈を持て余したユマ・サーマンが、一杯五ドルもするバニラシェークについていたチェリーを唇でなでて、堪らず口火を切る。「こういうの嫌い。気まずい沈黙。それを避けるために、くだらないことを喋るのよね?」。タランティーノの映画を引っ張っていくものは、基本的に、グロの刺激だったり、時系列を自由自在にまたぐストーリー構成だったりという、エンターテインメント寄りのものだ。会話はもはやその隙間を埋めるためとしか機能しておらず、だからどれだけキャラクターが雄弁に言葉を並べ立てたとしても、それは心にのしかかる重さを持たず、どこまでもくだらない無駄話の域を出ない。でもそのひとつひとつがもういちいちかっこいい。タランティーノの映画のど真ん中を真っ直ぐに貫いているものは、無駄の美学だ。役に立つことなんてしない。タバコをふかし、酒に酔われ、クスリで飛び、軽やかに流血、誰かを殺すことに大義なんていらない。映画には重大な意味性など必要ない、という開き直りに近い体裁的なスタンスですらなく、映画は暇つぶしでなきゃ意味がない、とでも断言するかのような、それは力強い信仰なのだ。だからどいつもこいつも、いつだって片手にタバコを持っている。文字通りの片手間なのだ。でもそれでいい。ジョン・トラボルタとユマ・サーマンはその後、退屈を打ち消すように、本物の死に近づくほどの大袈裟な暇つぶしを体験する。疲れ切ったふたりが最後に交わす会話がこれ。ユマ・サーマンから。「テレビ番組のジョークを聞く?」「聞きたい。でもいまはショックで笑えないかも」「笑えないほどくだらないの」「言えよ」「トマトの親子が歩いてるの。坊やの足が遅いもんだから、パパ・トマトが坊やをつぶして言うの。急げ(キャッチ・アップ)」「……」「ケチャップ。……じゃあね」。そうして寒いジョークを置き去りに、自分の家へ帰っていくユマ・サーマンの沈黙した背中に向かって、ジョン・トラボルタがそっと、誰も見ていないところで、投げキッスを送る。やっぱりかっこつけるくらいの余裕がなきゃ。片手ぐらい空けておかないと、誰の手も握れない。

20:14 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

お恥ずかしいことながら、いまさらゾクゾクしています

LOVEマシーン
/ モーニング娘。

モーニング娘。-LOVEマシーン
テロリスト集団
 アイドルの台頭というものは、常にセンセーショナルであるべきだ。そこには例えば、共感などといった歌い手と聴き手のコミュニケーションみたいな構築的な要素が、ほとんどと言っていいほど皆無だからだ。世紀末の狂乱とかみたいな時代の流れうんぬんもどうでもいい。ただ過剰なまでに愛され過ぎてしまった、それだけのことだ。そしてそれだけだからこそ、そこに発生する爆発的な熱量はなおのこと異常さを増し、日常とか社会みたいな現実性からことごとくかけ離れた境地へと人々を巻き込んでいく。アイドルがひとつの時代を作るということは、すなわちそういうことである。アイドルをピラミッドの頂点に置いた新しい秩序と正義の構図がドデーン!と幅を利かせるぐらいまでいかなきゃいけないのだ。そんなもんほとんど破壊行為である。従来の美意識なんてぶち壊してそこに胡座かくぐらいのテンションと厚かましさがなきゃいけない。そして、この頃のモーニング娘。は、ある意味ではそれを意図的に仕組まれたアイドル・グループだった。毎年のように繰り返されるメンバーの加入と脱退。安倍なつみがほとんどの楽曲でメインを務めていたグループの組織図もここから大きく変わった。短く区切られたフレーズを年齢も個性もバラバラなメンバーたちが「わたしがわたしが」精神で代わる代わる前へ前へと飛び出して自己主張を繰り広げる。モーニング娘。自体が、すでにぶっ壊れていたのだ(いまのモーニング娘。がやっているのは破綻ではなく構築だ、みたいなことを以前書いたけど、07年に八期メンバーが加入してからのこの三年間でメンバーの新加入は一切行われていない。そういうことだ)。即戦力の後藤真希加入と同時に始まったモーニング娘。テロリスト化計画のすべての始まりとなったこの歌。バカみたいなカタカナ語とWowWowWowWowで埋め尽くされた軽薄極まりない歌詞に共感の割り込む余地はない。いま見たらそんな飛び抜けて魅力的とも思えないこの無愛想な表情で佇む八人の歌うこれがそれでも当時は真実だった(ホントにこのジャケットの順番で抜けていきましたね)。語り尽くされたLOVEにエッビバディバディバディバディ!で派手な飾りつけまくって見当違いな方角でもいいからとにかくがむしゃらに打ち上げる。この歌のレコーディング風景は本当に一回見てみたほうがいい。つんく♂が、この歌が本来持っていた収まりのいいメロディとか言葉をどんどん即興でぶち壊して、楽曲の輪郭をいびつに作り直していくんだ(「ダイナマイト」を「ザイナマイト」って歌わせたりとか)。王道の最果てが、必ずしも成功に続いているとは限らない。ぶっ壊れたモーニング娘。は千鳥足で外れた道を行き、そしてこれが後に本物の王道になった。

17:09 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑
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