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マッシヴ鍬形アタック

マイルド生活スーパーライト
/ 丹下健太

マイルド生活スーパーライト
さりげなく、良作
 あんまり知られていない作家だと思う。文藝賞を同時受賞してデビューを果たした磯崎憲一郎が昨年『終の住処』で芥川を受賞して一躍脚光を浴びたのとは違って、この人はこの最新作がまだ二作目だし、アマゾンのページとか見てみても、全然売れてる感じじゃない。文藝賞の『青色讃歌』は三十手前のフリーターの話で、作者のプロフィールそのままだった。自分の生きている世界を、限りなく実体験に近いエピソードと実感だけで描く、嫌いな言葉だけど「等身大」すぎる作品だった。定職にも就かずフラフラしていて彼女ともいまいちうまくいっていない三十前後の男の、似たような仲間たちとのグダグダトホホな日常生活。体裁的には三人称の文体だけど、読んでいると一人称の小説を読んでいるみたい。それくらい自分の目と耳と身体で知覚する世界に忠実なのだ。本作でもそれはまったく変わっていなくて、それは作家としてどうなんだろう、成長してないだけじゃないか、挑戦していないだけじゃないか、ということになってしまうんだろうけど、僕はこの人の作風が好きだ。キャラもほとんど描き分けなんてされていなくて誰が誰だかわからないし、適当な箇所をピックアップして読み比べたら前作と本作のどちらか区別がつかない。テーマも両方、これも嫌いな言葉だけどいわゆる「自分探し」というやつで、実際にその言葉は作中に頻出する。一作目と二作目で、まったく同じことを、まったく同じ世界で、まったく同じ言葉で、まったく同じ手法で、丁寧にトレースしたみたい。本人曰く「物覚えが悪い」そうなのだけど、もしかして、自分が前に書いた作品のこと忘れちゃった? と思うくらい、本作は前作と似ている。なんかこのまま続けてたら批判めいたものになってしまいそうだけど、でも、喪失も事件も何もないけど、この人にしか出せない特別な味がある。後ろめたさの、なさだ。笑える余裕があることを、開き直りでもヘラヘラするわけでもなく、ものすごく自然に、受け入れているところだ。それが作者本人をそのまま映し出したような主人公にとぼけた味付けをしていて、面白い。自分の周りの小さな世界を、本当に愛しているんだろうなぁと思う。やっぱり作者の愛を感じない作品は面白くないですよ。それにしてもこのタイトル、前田司郎の『グレート生活アドベンチャー』まんまじゃない? あれもフラフラしてる三十男の話だったよね?

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恥ずかしい夜に

The Open Door
/ Evanescence

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悲劇の女王
 03年のメジャー第一作『フォールン』が全世界で1500万枚を超えるモンスター・ヒットを記録し、当時日本でも大いにチャートを賑わせたエヴァネッセンスが06年に発表したセカンド・アルバム。03年という年は個人的に思い入れ深い年で、リンキン・パークが『メテオラ』、デフトーンズが『デフトーンズ』、P.O.D.が『ペイヤブル・オン・デス』という傑作を立て続けに発表し、そして少し遅れてリンプ・ビズキットが『リゾルツ・メイ・ヴァリー』という疑わしき作品を発表した、そんな年だった。つまりは、へヴィ・ロックの隆盛と廃退が交錯した年だった。日本でも輸入盤から早くも火のついていたエヴァネッセンスが03年に降り立ったタイミングは完璧と言えた。へヴィ・ロックにまだ、少なくともいま以上に期待できた頃で、何よりボーカルが女性で印象的だったし、しかも歌唱力が並半端じゃなく、“ブリング・ミー・トゥ・ライフ”という必殺曲まで持っているという、破格の存在だった(リリース当時には「リンキン・パークmeets宇多田ヒカル」なんて言われたりもしていた)。何より『フォールン』のクオリティは素晴らしく、冗談みたいなセールスにも頷けた。でも、彼女たちが本当に特別だったのは、他のへヴィ・ロック勢(リンキンは違うけど。あ、デフトーンズも違うか。やつらはずば抜けて知的だからな。やばい。思ってたこと書けない。でも一応書いてみる)が暴力的な爆音で世界をねじ伏せ、言わば「加害者(なんかこう、つっぱったりして、かっこいいみたいな。リンプがいい例。そしてそれが「へヴィ・ロック」という音楽の体裁的な一面だった)」になろうと躍起になっていた頃、エヴァネッセンスのスタンスが明らかに「被害者」のものだったからだ。そこにあったものが、見当違いな怒りではなく、理不尽な悲しみだったからだ。音楽性が商業向けでゴシック・メタルの匂いを漂わせていた分、少し虚飾めいていて、そこに身を切るような切実さは感じにくかったが、『フォールン』に重々しく漂う空気感、そのある種の神秘めいた何かは、悲しみに他ならなかった。そこにエイミーのあの歌声が乗せられることで、どこまでも堕ちていく悲劇の美しさをあのアルバムは見事に演出していた。だから僕は未だに彼女たちの代表曲“ブリング~”にはいまいち馴染めなくて(あのラップ調の合いの手みたいなのダサすぎ)、でも久しぶりに“ウィスパー”とか聴いたらすごく感動した。ウェスの離脱や発売延期で完全にタイミングを逃したリンプの『リゾルツ~』に失望してからへヴィ・ロックはあんまり聴かなくなって、だからこのセカンドが発表された06年当時にはエヴァネッセンスにも全然興味がなくなってた。中古ですごく安かったから懐かしいなぁと思って買ったのだけど、予想以上にいいアルバムでした。ソングライティングの要のひとりが脱退して、どうかなぁと思っていたけど、エイミーがいる限り大丈夫だと思う。彼女たちの「ゴス」は単なる装いに過ぎない。その暗さはエイミーの内省の深みだ。エイミーが言葉の海でもがいている本作が証明してる。暗いけど、時々、すごく美しい。

03:47 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

市原隼人みたいになりたーい!

Anywhere But Here
ここよりどこかで
「どこか」で繋がってる
 ソーラ・バーチが出てるって事で、並々ならないテンションで観てみた映画。邦題は『ここよりどこかで』。『パトリオット・ゲーム』のシリーズや『ホーカス・ポーカス』なんかに出てた子役時代のソーラ・バーチは演技のうまい天才だけど面構えは至って普通の女の子で、むしろ天真爛漫なくらいなんだけど(根っからすれてる子どもってのもいやだけど)、彼女の代表作のひとつである『アメリカン・ビューティー』と同年公開の本作では、もう明らかに目が哀しくなってきてる。その間にいったい何があったんだろうと変な勘を働かせてしまうくらい、一瞬、瞳が空っぽになるんだ、この人。「別にどんなひどいことされても構わないわ。わたし、どんな哀しみだって呑み込めるのよ」みたいな目になるんだ。出番の少ないほんの端役なんだけど、思わず見惚れてしまいました。セリフも二言三言くらいしかなくてそれはちょっと寂しかったけど、予想外に話が面白くて最後まで楽しんで観られた。初っ端から、印象的だった。後先考えずに衝動だけで行動してしまう母親と、そんな母親に付き合いきれないあくまで堅実な娘。母親の思い付きでアメリカの片田舎からロスへ引っ越すことになった道中、いつもどおり喧嘩が始まって、「わたしを巻き込まないでよ!」「じゃああんたの好きにしなさいよ!」みたいな感じになって果ての見えない荒野に娘はひとり車から降ろされる。前々から望んでいたシチュエーションのはずなのに、娘はいざそのど真ん中に立たされると、足を踏み出せずに立ち尽くしてしまう。難しいんだよ。自分信じるのとか、ちゃんと狂うのとか。だからいっつも楽天的な母親のひとりぼっちのベッドルームでは、ありがちに悲観的な思考が首をもたげてくる。でもそういう、もどかしい気持ちが人情ってもんだよ。別れはあるし、幻滅だってする。「ここ」なんてすっごいヤワで、どんな景色だって自分の精神状態ひとつでいろんな色に変わる。母親のセリフにすごく印象的な言葉があって、「もし生活が苦しくてお金が10セントしかなかったら、その全財産使って靴を磨きなさい」。正確な言葉じゃないけど、確かそんな感じだったと思う。もっと役に立たないことしよう。バカなことばっか言おう。明日もし雨が降ったりでもしたら、それは君が今日そのことを考えたから。明日、僕は君の今日を見透かす。そしたら「ここ」にもちょっとは確かな手応えが感じられて、雨ん中でも笑える気がする。

23:38 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

東方神起のメンバーになりたーい!

BEST SELECTION 2010
/ 東方神起

東方辛気-BEST
東ノ方カラ神ガ起キル
 『私の頭の中の消しゴム』でまだ自分の涙がカラッカラに干からびていないことを思い知らされ、『ぱちんこ冬のソナタ』でボロ勝ちさせてもらった経験のある僕からすると、韓国文化っていうのはなかなか、悪いもんじゃないね、なんて思っているのだけど、一時の韓流ブームなんかは加齢臭の旦那じゃ味わえない生々しいラブとセンチメンタルを日本のおばちゃん連中が揃いも揃ってヨン様に求めている!程度にしか思っていなかった。でもその一連の現象が日本から韓国へのでっかい入り口をかっ開いたことは間違いない。東方神起の快勝もその系譜の延長と言えない事もないんだろうけど、でも彼らの立っているステージはもう韓国だなんだとか全然関係ないところにあって、だから日本で彼らを支持している層は、ぐっと若い。ものすごく自然に、若い世代からアイドルとして受け入れられているのだ。アイドルは、完全に持っているか持っていないかで決まる。昔からアイドルにめっぽう弱い僕が言うんだから間違いない。そして、日韓含めた他のアイドル/ダンス・グループが誰も東方神起になれていないことからもわかるように、彼らは間違いなく「持っている」。メンバーとか未だにそんな別格にかっこいいとか思えないし(近所のイケメン兄ちゃん集めたら超えられそう。ジェジュンがたまに千原ジュニアに見える。でもユチュンはかっちょいい! ユンホ、つぶらな瞳で見てくるんじゃねぇ!)、歌は引くほどうまいけど日本語の発音がやっぱりちょっとつたなくて歌詞の「まつ毛」が「マトゥゲ」になっちゃったりしてるし(でもなんかだからこそ頑張ってる感がヒシヒシと伝わっていつも以上に歌詞に耳を傾けたくなってしまう!)、“明日は来るから”とか歌われても、きっとやってくる明日の朝よりも永遠に明けない夜の方が欲しい僕には全然、共感とかできない。でも、はっきり言って、アイドル相手に共感なんていらないのだ。アイドルっていうのは、共感できない歌を歌うことを許された稀有な存在のことを言う。本当のアイドルの前では、いろんなことがうやむやになってしまうのである(「マトゥゲ」さえも)。優れた楽曲と本人たちの実力、それだけじゃ足りない大切な何かを、東方神起は絶対に持っている。嵐よりこっちでしょ。なんて言われようと心から応援してます。

02:05 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ロマンスは僕と君だけのものだ

Romance Is Boring
/ Los Campesinos!

Los Campesinos-Romance Is Boring
宗教なき世界、トイレの隅っこにて
 ロス・キャンペシーノス!というバンドは、ものすごく、厄介なところから始まったバンドである。それは、すべてが敗北した場所。夢は必ず破れ、愛が引き裂かれる場所。大人たちが教えてくれた真実とやらは、テレビやネットを通じてことごとくその嘘を暴かれていく。アイドルの笑顔に騙されることができない。人を救うという意味において、宗教は年収にすら負ける。信仰を持たないのではなく、そもそも信じられるものがない。そして、それこそが21世紀という時代なのだと。だから彼らは自分たちが手に取ったロックという手段にさえ、始めから救いを求めなかった。ロックは人を救わない。彼らのロックはいつだってそこから始まっている。彼らのロックを埋め尽くした膨大な言葉には、例えば教科書や聖書のような絶対的真実とされるようなことがらは何ひとつ含まれない。非常に観念的、すなわち、ある意味では実態などどこにもない、詭弁とも取れる刺激的な嘘の羅列である。メンバー・チェンジを経ての通算三作目となる本作でもそれはまったく変わっていなくて、だからこのアルバムの主人公には、一曲目から早くも「死」が約束されている。終わらないものなど、どこにもないのだ。どんなに強靭と思われた真実も、たったひとつの亀裂でたちどころに嘘に変わる。そしてそれは愛すらも例外ではない。いわゆる「戦後」と呼ばれ続ける時代、愛の正しさを、道徳を聞いて育った世代が、いざそれと対面したときに、上手に振舞えない。愛にさえ疑いの眼差しを向けてしまう。このアルバムに彼らの確かな成長を感じるのは、例えばこれまでの彼らだったら、ロックは人を救えなくていいんだ!という半ば開き直りに近いスタンスしか取れなかったと思うのだが、今回は、それでもロマンスを守ろうとしているところだ。ここに片っ端から書き並べたいくらい相変わらず印象的な歌詞が多いのだが、そのひとつを挙げる。「僕らがこれまで愛したものは、奴らに横取りされてしまった。奴らはそれを引用句と薄っぺらい装飾で飾り立てたんだ」。信じたいものがすべて嘘へと変わっていく時代、それでもたったひとり、君だけは信じ続けたいのに、思い込むことなどできないほど、僕たちは猜疑心を持ってしまっている。大人たちが、ちゃんと騙してくれなかったから。だから彼らはここで、大人たちに薄っぺらい装飾を施されてしまう前に、他でもない自分たちの手で、汚いトイレの扉の落書きレベルにまでロマンスを貶めた。『ロマンスなんて退屈だ』というこの強烈なタイトルは、「ロマンスだけは絶対に退屈であってはならない」という究極のパラドックスである。

18:04 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

YUKIの世界がすごくって、僕の言葉じゃもう追いつけないよー!

うれしくって抱きあうよ
/ YUKI

YUKI-うれしくって抱きあうよ
約束の場所
 YUKIの38歳の誕生日である本日、ようやく発売日を迎えたファン待望の新曲。三月には同名タイトルの実に三年半ぶりとなるアルバム発表を控え、先日のMステスペシャルでは久しぶりにテレビでの露出もあって意気込みを感じさせたが、はっきり言ってこの歌は、例えば“JOY”のような、高らかなメモリアルを告げるタイプの歌ではない。決してこれまでのキャリアを明らかに刷新するような特別な歌ではない。木枯らしに吹かれるようにしなやかに体を揺らしながらこの歌を歌うYUKI。ビデオの舞台はあまりにも平凡に黄昏ている町並み。YUKIはその中で写真屋の店員を演じている。“COSMIX BOX”で復活したと思ったトレードマークのボブ・ウィッグも再び取った。歌声も、女の子のスリリングな表情を覗かせた昔のものとは違って、長い時間をかけて浮かび上がってきたような熟成めいたものを感じさせる。38歳とは思えない可愛さだけは嫌味なほどに変わらないが、そうやって考えてみると、所帯じみた、というのはちょっと違うが、YUKIもようやく落ち着ける場所を見つけられたのかな、と思う。そして実際この曲のサウンド・デザインは、ここ数年続いていたYUKI得意のキラキラのポップ・チューンとは違って、音そのものに人肌の温度と湿度を感じるような、非常に落ち着いた、温かみのあるものに仕上がっている。守りに入ったとか言い出すバカはひとりもいないだろうが、アルバムとタイトルを共有する言わば名刺代わりの歌としては、いささか地味ではある。そのタイトルも、“うれしくって抱きあうよ”。“ワンダーライン”とか“ランデヴー”とか“COSMIC BOX”みたいなイマジネーションの世界から連れてきた派手な言葉ではなくて、“うれしくって抱きあうよ”。なんというか、グダグダなタイトルじゃないか。新曲リリースのニュースで初めてタイトルを知ったときには、少なからず眉をひそめた。
 05年のソロ出世作『joy』以降、YUKIは簡潔で踊れるキレのいいポップ・ソングを歌い続けてきた。でもなんか前にもグダグダなタイトルの歌がひとつあったな、と思う。08年の春に発表された、“汽車に乗って”だ。あの歌も、今回と同じようにいつものポップ路線とは大きくかけ離れた地味な歌だった。でもそれは必然にしか思えなかった。あの歌が、他でもないYUKIの個人的な原点回顧の歌だったからだ。熱烈ファンからの超ヒイキ目なまったく冷静じゃない意見を言わせてもらうが、YUKIは絶対に浅はかな真似はしない人だ。これから新たなフェーズに突入する、というまさにその絶妙なタイミングで、YUKIは必ずと言っていいほどひどく個人的な歌を歌う。みんなに笑顔を振りまくポップ・ソングではなく、自分というたったひとりのための歌を歌う。しかしそれはもちろん、新たな挑戦を前に怖気づき自己の中に閉じこもる、などという臆病な逃避行為とはまったくもって無縁のものだ。自分を求めるファンからの声ではなく、まるで決心を固めるかのように、YUKIはまず自分自身の声に静かに耳を傾ける。自分の歩いてきた道程を振り返り、その過去への距離を今度は未来へと反転させるかのように、立ち止まっては足元を見つめ直し、そして再び前を向いて歩き始めるのだ。YUKIは常にそうやって自身のキャリアをここまで紡いできた。そしてその慎重さと大胆さ故に、ときに軽薄にすら思えかねないYUKIの明るいポップ・ソングには、それでいて大きな説得力があった。あのでっかい笑顔は即席の仮面なんかじゃない。何の根拠も持たない無責任なポジティビズムなんかじゃない。自分の過去をきちんと引き受けてきた人間の、力強さがそこにはあった。YUKIというひとりの人間の、軽いわけがないその過去が、弾けるポップネスをきちんと裏打ちしていたのだ。背景、と言えばいいかもしれない。YUKIのポップ・ソングにはいつだってその根拠となる背景があった。YUKIのキャリアの本質はそこにこそある。前進を続けながらも、自分の帰るべき背景を見失わない。いやむしろ、前進を続けることでこそ、これまでに通過した背景を次々と描き出していく。そして人は、背景なしに物語を語ることなど、できないのである。
 そしてだからこそ、YUKIのキャリアはそれそのものがすでにひとつの大きな物語を形成している。愛しいバンドのメンバーたちと袂を分かち、ひとりになっての再出発となった『PRISMIC』は、ときに陰鬱すぎる表情をも見せるほど自閉的な側面を持ったアルバムだった。続く『COMMUNE』は、そのタイトルが示すとおり、人と人とが関わり合うコミュニケーションについてのドキュメントだった。そしてそこで獲得した勇気は当然のように『joy』という喜びへと発展し、その先のさらに開かれた場所には喜びや悲しみがうなるように波打つ『WAVE』という新たな地平があった。そのつど自分の背景を歌い続けてきたYUKIのキャリアはどこまでも地続きな成長の物語だ。そしてひとつ、忘れてはならないことは、ソロ・キャリアの出発点となった『PRISMIC』を締めくくったあの一行。「もう うたえないわ」。そう歌わなければいけないようなところから、YUKIのキャリアは始まっているということだ。
 一見穏やかな曲調の新曲“うれしくって抱きあうよ”には、しかしよく耳を澄ませればところどころに危うい言葉が並んでいる。「欲しいものなら手に入れたんだ」。「振り出した雨止まずに びしょ濡れならそのままもいいさ」。「欲しいものなどもはや無いんだ」。力強いが、捨て鉢、と取れなくもない内容である。ビデオには、幸せ、と呼ぶにはあまりにもありきたりすぎる忙しい日常が描かれている。欲しいものを手に入れてしまったら、怖い。びしょ濡れになるのも怖いが、びしょ濡れになれないのも怖い。人を好きになるのは人と別れるのと同じくらい、怖い。人は、平凡な幸福の前ですらときに臆病になってしまう。思いは単純な一本の線ではなく複雑に交錯する。そんなこと、YUKIは当然わかっている。だから日常にそっと寄り添うようなこの歌には、当然のように涙が流れている。磨耗されそうな忙しさがある。悲しみがある。決して『joy』の一言では済ませられない波打つ日常がある。そんな場所で、「欲しいものなどもはや無いんだ」とこの人は歌うのである。ここにはすべてがある、と歌うのである。喜びや、悲しみとでさえ抱き合ったとき、わたしはそのことに気付いたのだと。
 いま思えば、YUKIはいつだって、すべてがあるようですべてがない、すべてがないようですべてがある、そんな微妙な狭間から歌を歌っていたような気がする。ハローとグッバイはどちらとも「出会い」だと歌い(“ハローグッバイ”)、“COSMIC BOX”の中にはタイムカプセルのように過去と未来が同居している。過去を歌い未来を紡ぎ、現実とイマジネーションの間を軽やかに行き来する。バンドとの別れと再出発のど真ん中で「もう うたえないわ」と歌った『PRISMIC』のジャケット写真でそっと左手を掲げたYUKIは、初対面の誰かにハローを告げているようにも、大切な仲間にグッバイを告げているようにも見える。YUKIを取り巻く日常は毎日のように変化し続けているだろう。ソロになってからのライブの規模だって、目に見えて大きくなっている。でも本当は何も変わっていないのだ。「もう うたえないわ」と歌いながらさまよい歩いたこれまでの道程は、全部「ここ」でしかなかったのだ。すべては「ここ」を抱きしめることから始まっていたのだ。未来はやはり「ここ」と地続きのものでしかないのだから。“うれしくって抱きあうよ”。抱きしめたいすべてのものは実は「ここ」に揃っていたのだと認められたとき、YUKIの世界は開けたのだ。
 この歌が本当に素晴らしいのは、ここぞで背景という過去に立ち返ってきたYUKIが、自分の足元を確かめるようなこの歌で、それでも明らかな未来に触れているところだ。「雲の上待ち合わせ」。この一言が最高に効いている。臆病で、背景を偽って生きてきたからって何だ。あなたが本当に抱きしめなきゃいけないのはそんな失われた過去じゃなくて紛れもない「ここ」だ。後ろに背景なんてなくたっていいじゃないか。自分という物語を語る背景が、前にあったっていいじゃないか。そんな待ち合わせを抱きしめることができたら、雨雲の広がった「ここ」だって、生きずにはいられないじゃないか。帰るべき場所や抱きしめたい誰かが未来で待っていてくれたっていいじゃないか。だからまずはそんな未来と待ち合わせのできる「ここ」が嬉しい場所だって笑ってみせるんだ。YUKIはずっとそうやって笑い続けてきたんだ。嬉しくって抱きしめたくなる「ここ」の続きは「どこか」じゃない。すべてが出揃っている「どこでも」だ。“嬉しくって抱きあうよ”。多分これ以上のタイトルは他の誰にも思いつけない。


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安いからいいけどさ

Clear And Present Danger
いまそこにある危機
渦中のハリソン・フォードにだけ危機がない
 サスペンス連作物の三作目。第一作『レッド・オクトーバーを追え!』ではショーン・コネリーが主演だったらしいのだけど、僕はそれは観ていなくて、ハリソン・フォード主演になった二作目の『パトリオット・ゲーム』から観ました。というのも、ハリソン・フォードの娘役として天才子役時代のソーラ・バーチが出ているから! でなきゃ絶対DVDとか買わない。前作もとにかく運命の神様がハリソン・フォードにえこひいきしているとしか思えない都合のいい話だったけど、本作ではそこにさらに磨き(とお金)がかかっている。それでも前作は幼いソーラ・バーチが夢に見るほど可愛かったからなんとか最後まで観られたのだけど、こっちはあんまり出てきてくれなくて辛かったな……(でも出番少ないただの子ども役でこんなに役者多くて大掛かりな映画なのにクレジット十一番目だよ! すごい! 天才! 最高! 可愛い! ラブ!)。市街地で銃撃を受けても周りがバッタバッタと倒れていく中なぜかハリソン・フォードだけがほとんど無傷の生還(もちろん救世主のごとく負傷者を背負いながら)、黒幕との一騎打ちでも相手は銃持っててしかも白髪ハリソン・フォードより多分十歳くらい若いやつなのに、丸腰のハリソン・フォードが予定調和のごとく秒速で圧勝(前作では神のような手さばきで暗闇の中ボートを操縦し、黒幕を見事打ち負かしていた!)。仕舞いにはあからさまな合成で無茶なアクションまでやってのける(ご老体には辛いですからね……っていうか最初からやるな。おっさんの必死こいてる姿なんて誰が観たい! ソーラ・バーチ出せ!)。セリフひとつとってみても、まるでハリソン・フォードこそがこの世の正義・真実であるかのよう……(大統領に至極道徳的な説教まで垂れる。というか「あんれは米国のお金だぁあ!」と子どもみたいに駄々こねる大統領、バカすぎ)。そろそろソーラ・バーチ出てくるかな……まだかなまだかな……とそれだけを唯一の希望の光にしてなんとか最後まで観たけど、後半まったく出てこないじゃん! あーなんで僕はバレンタインの夜にひとりでこんな映画を観ているんだろう……というハリソン・フォードがかっこつけるたびに湧き上がる途方もない疑問を払拭してくれるのは心の恋人ソーラ・バーチだけだったのに! これは僕史に残る最高にグダグダなバレンタインだったな……。まぁ結構楽しんでるからいいけど。……ってか今日TVで『ロストワールド』やってたのか! そっち観りゃよかった……! とにかくみんなでハリソン・フォードを祭り上げようってな映画でした(多分原作者には米国のポリティカルな真実を暴くという大真面目な挑戦がある。が、残念なことに、政治よりもハリソン・フォードの方が偉いのです)。あ、この映画、邦題は『いまそこにある危機』っていうらしいよ。……えー? どこにー?

00:14 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ジョージ朝倉と誕生日ひとつ違いだ!

ハッピーエンド
/ ジョージ朝倉

ハッピーエンド
ぶち抜き愛のテンション
 個人的に、ジョージ朝倉の漫画は、読んでて無性に元気出るか畜生に落ち込むか、どっちかだ。どっちかしかない。落ち込む方は、もう読むの止めた。絶対最後まで読んでやらない。だって打ちのめされたくないもん、ハート! で、これはめっちゃ笑った。笑い止らんかった。『カラオケバカ一代』みたいなアホアホギャグ漫画じゃないし、内容はマジなんだけど、やばい、読み終わって、いま、テンションが。それで二回読んだ。一回目は、なんでこれが回想式の設定じゃないといけなかったのかよくわからなかったし、章ごとに「○○年前」って設定表示はされるんだけど、僕は頭が悪くてそういうのをうまく処理できない性質なので、順番とか途中でもうぐちゃぐちゃになったりして、一話一話を完結した話としか読めなかった。この話には「現在」がない。一応年代設定が表示されない最後のがどうも「現在」っぽく描かれてるけど、ちょっとわかりにくい言い方をするなら、最後の話は、「現在じゃなくてもいい」話だ。この話が回想式じゃないといけなかったのは、絶対に「その先」がなきゃいけなかったからだ。ジョージ朝倉の漫画読んで無性に元気が出るのは、めっちゃ悩んでたり打ちのめされてたりするのに、キャラが「鬱」じゃなくて「躁」で、全然テンションが高いからだ。だから回想式のこの話でも、それは後ろ向きだったり過去が舞い戻ってくる切なさとかでも全然なくて、「躁」な連中が、クライマーのごとく過去をどんどんよじ登ってくる。みんな、話の中でわかりやすいハッピーエンドには辿り着けていないけど、読み終わったとき、「うわぁ! みんなハッピーエンドにしか向かってねぇ!」って気付かされる。だってそうだ! 後ろ向きに進めるほど器用じゃねーもん! そんなんできんのマイケルだけだよ! あーあー、僕の向いてる方角がいつだって「前」だよ! 前向きにしかなれねー! 今日バイト上がって店のテレビで天気予報見ながら「あー明日雨かーまた洗濯できんー」って言ってたらママさんに「バレンタインやから雨で残念なんじゃなくて洗濯か!」って言われてさっきまでマジで自己嫌悪だったけどいま元気しか出ないよー! あーちくしょー、こちとらバレンタイン以外の日でもヘコヘコしたっていいくらいお菓子もらいてーのによー、毎日あくまで受け取る側でのバレンタイン設定なのによー、14日誰にも会う予定ないしよー、ベルトしないでバイト行ったらめっちゃジーパンずれるしよー! あーなんかめっちゃ嬉しいしよー! ……ぶち抜きですものっ! 
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完成度が高くて切なくなったので、お門違いなこと言います

Acolyte
/ Delphic

Delphic-Acolyte.jpg
ロックなんて、土足で踏み込んでナンボだろうが
 デルフィックと関係のない話で申し訳ないけど、昨年末からブロック・パーティーの解散説が浮上している。どれくらい信憑性がある話なのかわからないし、個人的に、将来レディヘと同じ舞台で戦える数少ないバンドだと思っていたから絶対に止めて欲しくないんだけど、マットの脱退とかケリーのソロ作品の話を見聞きする限り、ほとんど決定的なんだろうなと思う。もはやロックとダンスの間に垣根などないに等しいし、金髪の兄ちゃんがギターかき鳴らしてるっていう昔のイメージじゃもうほとんどそれはロックとは呼べないところにまで来ている。チャートからはギター・ロックが目に見えて後退し、器用なデジタル使いが上位を占めるようになっている。ブロック・パーティーは、あくまでギター・ロックの領域から、ダンスやデジタルの方角へと足を踏み入れていったバンドだ。現時点での最新作『インティマシー』ではまったくギターの音の鳴っていない楽曲も多く収録され、ギターの音でさえデジタルの「素材」のひとつとして使用するという徹底した構築を図りつつ、間違いなくロックとしてのダイナミズムさえも内包した大傑作だった。そして、ライブというある意味アナログな場所では完璧に再現しきれないほどデジタル使用に移行したそのアルバムを最後にブロック・パーティーが解散してしまうのなら、それはそれで、ひとつの象徴的な出来事だと思えなくもない。コンピューターひとつであらゆる音声を作成できてしまえるいま、ロックはギターに義理立てする必要などないし、バンドに固執する理由も、これといってないのである。
 もちろんデルフィックはバンドである。ギターだって使っている。そして90年代テクノを土台としたそのサウンド・デザインは、新時代のものではあるが、リスナーにとって決して初めての音楽体験にはなり得ない。ここには確かにロックのエキサイティングな魅力がある。挑戦だって破綻だってある。でも、やっぱり顔が見えないんだよな。演奏してる連中の背後に、物語が見えない。というか、この達観の仕方は、意図的に見えないようにしているような気さえする。超クールだ。ただひとつ僕が言いたいことは、時代や音質が変わっても、ロックには絶対に変わってはいけないところがあるということだ。当たり前すぎてびっくりされなきゃいいけど、それは、ロックはかっこよくなければいけない、ということだ。このアルバムがかっこ悪いって言ってるんじゃない。“カウンターポイント”とか、頭下がるくらいかっこいいよ。でも、だ。でも、カート・コバーンにしても、ギャラガー兄弟にしても、リヴァース・クオモにしても、ジェラルド・ウェイにしても、マイクの前に立たせればかっこよく見える彼らロック・スターの背後には、いつだって冗談にすらならないようなかっこ悪い物語があった。だからこそ彼らにとってロックという場所は、ほとんど唯一と言ってもいいくらい、すさまじくかっこつけられる場所じゃなきゃいけなかった。そして、そこには聴き手の心までも巻き込んで傷つけるノイズが確かに鳴っていた。アクモンとかデルフィックとか、クールな連中ばっかじゃマジで面白くないんだよ僕は。ヘッドホンから聴こえる物にしか興味が持てない。素晴らしいアルバムだけど、二年後にはもう聴いてないと思う。

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こういうの読むと幸せになる

容疑者xの献身
/ 東野圭吾

容疑者Xの献身
解かれてはいけない愛の数式
 構築と破綻、それを平坦で食い違う「矛盾」よりも圧倒的に深いレベルで掌握して、作者が人間を味わってる。どちらかと言うと、外堀から埋めていった作品なんじゃないかと思う。ミステリーだし、全能的な解決ありきの作品だから当然といえば当然なんだけど、でも話の展開を優先させるために、いくつかの犠牲を払っている印象は否めない。果たしてこんな人間が本当に存在するだろうか、と疑問になるところは多い。というか、存在していいのだろうか、と疑問になるほどに、この作品はその美しさの合間に極端に非・人道的な顔を見せる。僕たちは日頃、「美しい」という言葉を滅多なことがなければ口にしない。滅多なことがあったとしても、口にしない。いやする人もいるかもしれないけど、その対象を前にあまりに美しくない自分を思い知らされそうで、口にしない。「美しい」なんて、非・日常の世界から導き出される言葉だ。そして、この物語は、間違いなく「美しい」。なぜなら、この物語が、謎解きでも、物理学でも数学でもなく、愛の物語だからだ。
 この物語は、決して少なくないいくつかの意味で明らかに破綻している。でも作者がその破綻をも恐れずに強引に筆を進ませた力強さも、ある。だから、この作品を読み終えたときに残っているのは、ページを埋め尽くした理知的かつ論理的な言葉の数々でも、奇想天外すぎるトリックでも、数学者から女性への愛ですらなく、物語に破綻をきたしてしまうすべての登場人物たちへの、作者からの愛だ。こんな人間、絶対にこの物語の中でしか存在を許されない。でもだから、他でもない俺が責任を持ってお前を苦しめてやる悲しませてやるカッコつけさせてやるって、作者は言ってる。これ読んだ後だったら、東野圭吾の作品はどれもそうだったような気がしてくる。彼の物語を支えているのは、ストーリーという表層に現れる言葉ではなくいつだってその根本的な愛だ。だから、読み手を含めた全員が間違いなく敗北しているにも関わらず、こんなにも絶望的じゃない。他の誰にも解くことのできない作者の愛の数式を見た。

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