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惜しい

Stephen King's The Shining
the shining
見えるものが見えるだけ
 スタンリー・キューブリックの映画は非常に難解である。それは彼が映画を製作するときの基本的な美学が、極端な「排除」を基に成り立っているからだ。無駄な装飾が一切ない、すなわち、解説めいた挿話が作品内から徹底的に排除されているのだ。だから、思考を停止させてただそこに流れる映像だけを目で追っていたら、感想は「革新的な撮影技術」だとか「スタイリッシュな映像デザイン」だとかいう観れば誰にだってわかるご丁寧な説明に終始してしまう。要は何もわからないのだ。それさえあれば誰にだって理解できるのに、という優しい解説を彼がことごとく排除してしまう理由、それは、彼にとって映画とは、それが疑いようのない視覚メディアであるにも関わらず、いやだからこそ、見えないものを映し出さなければ意味をなさないからだ。見えるものが見える映画ではいけないのだ。見えないものが見えなければいけないのだ。だからキューブリックの『シャイニング』では、キャラクターの性格付けやそのバックボーンとしてのトラウマティックな過去、ホテルに眠るスキャンダラスな真実、トニーという不可解な少年の存在、作品の要となる「シャイニング」という名の超能力についてすら、一切の説明が行われない。彼にとっては、スティーヴン・キングの原作小説『シャイニング』に秘められた、決して視覚することのできない狂気のみが映画として映し出すに値する価値を持っていたからだ。過ぎ去ってしまったはずの過去がまるで無表情のモノリスのように現在に立ちはだかり、現在が逆再生されて二度と戻りたくない過去に迷い込んでしまう、そんな人々の狂気を、しかしキューブリックは原作には存在しなかった「迷路」というモチーフを新たに採用し、作品の細部にそれを暗示させるキーワードを散りばめることで、本来なくてはならなかった過去の物語を語らずして、その狂気の本質的恐怖を見事に抉り出してみせた。本作は、キューブリックが作品を勝手に上書きしてしまったことに多大なる不満を覚えた原作者のキングが、公けなバッシングを控えることと引き換えに、自らが監督を務めTVドラマ版として撮り直した方の『シャイニング』。原作にひどく忠実で、キューブリックが意識的に排除した挿話ももれなく網羅してある。キューブリックのバージョンが難解であるが故に多分に誤解を招く作品になってしまったことへの反発もあったのだろうが、オーバールックホテルというたったひとつの閉鎖的舞台で展開される物語としては、ディスク三枚組み四時間半はいくらなんでもくどすぎる。絶対に誤解されるわけにはいかないという気負いがあったのか、どうでもいい日付までも事細かに説明される。観念的な思惑までも間違えられないように全部映像化しちゃってるせいで、観る側に想像力を働かせる必要がなく、奥行きがない。これだけの情報量を持った原作小説を、描かないことでこそ説明し、映画という様式の制約内にぶち込んでみせたキューブリックの方が、やっぱり映像を手がける人間としては二枚も三枚も上手。キューブリックのバージョンを観た後では、キングの方は暇つぶしにうってつけな「神経質な解説」程度にしか思えない。だって全然怖くないもん。何もかもが手に取るようにわかるホラー作品なんて怖いわけがないじゃないか。でももちろんやっぱり一番すごいのは原作を書いたキングだ。キングはキューブリックの『シャイニング』を死ぬほど批判したらしいけど、他の人間だったらこんな物語、コントロールするどこかいいように振り回されるだけで終わるのがオチだろう。キューブリックのがダメなら、原作小説を映像として表現するのはそもそも不可能な話だったと認める他ない。

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19:47 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

美しい人

Reason
/ Melanie C

Melanie C-Reason
心底こういう人になりたい
 松尾スズキの最新小説『老人賭博』のしょーもないネタにスパイス・ガールズの“ワナビー”が出てきて、急に聴きたくなった。いま彼女のことをこう呼ぶ人は多分世界にひとりもいないだろうけど、「スポーティ・スパイス」ことメラニーCのソロ第二弾アルバム。03年発表。スパイス・ガールズは基本的に、お喋りなガールズ・グループだったと思う。ラップと呼ぶのもあつかましいようなワラワラ早口言葉で畳み掛ける“ワナビー”が何よりも象徴的。特にジェリとかメルBなんか、絵に描いたような「わたしがわたしが」精神の持ち主で、まあ確かにスパガはそういうバカっぽいところがチャーミングでよかったんだけど、明確にキャラ立ちしているように見えたあの五人の中で、他の四人がドレスアップする中ひとりジャージとか着て常に一歩下がったところから僕に歌いかけてきてくれたのが、他でもないメラニーCだった。中学の頃大好きだったんですよ、彼女の歌。「スポーティ」と呼ばれながらも、頭が悪いから元気に振舞うのではなくて、思慮深いからこそ常に笑みを絶やさないように努力してる。でもスパガは他のメンバーが本当に天井知らずのバカだったから(いやでもだから好きなんですよ)、おちゃらけた熱狂の中たったひとりだけバカになり切れなかったメラニーCには、それなりにフラストレーションとか、あったんだと思う。それぞれのソロ作品を聴けばわかるけど、なんで一緒のグループにいたの?と疑問になるほど五人の主義趣向は見事に食い違っている。それでも他の四人のやりたい音楽はグループの中でもそれなりに採用されていたと思うのだけど、メラニーCのソロ第一弾『ノーザン・スター』のナチュラル・ロックがスパガで採用されたことはもちろんたったの一度もない。でもだからこそ彼女はあれを作らないといけなかったんだろう。轟音の鳴りまくる“ゴーイン・ダウン”を歌わなければいけなかったんだろう。そして、ソロに移行してのびのびと自分を表現する場所をようやく獲得できた彼女は、ここで初めて、自分を評価する外側からの言葉でも、そんな外側をひきつけるための「わたしが」な言葉でもなく、自分自身の内側から自分自身にこそ語られる言葉に、静かに耳を傾けることができたんだと思う。そういう自問自答が絡まってひとりぼっちの暗闇に墜落していくのではなく、晴れ晴れとした場所へと開かれていくためにこそ、まずは自分自身に語りかけようとする彼女の健気な姿には痛く感動させられる。当たり前すぎるからこそ躊躇してしまいがちなポジティヴな言葉をここまで自然に歌うことができるのは、本当に素晴らしいことだと思う。好き。

04:13 | 音楽 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

ちょー好き

My Dinosaur Life
/ Motion City Soundtrack

Motion City Soundtrack-My Dinosaur Life
真っ当な傑作
 相変わらず、自分たちのリアルライフと地続きの物語を歌に託すことに誠実なバンドである。キュートでフィクショナルなアートワークを採用してはいるが、肝心の歌は全然浮ついていない。これまでと変わらず、人生を嗜むに不可欠な感傷についての歌ばかりだが、サウンド自体はこれまでで一番力強いんじゃないかな。ナヨナヨ・ピロピロお情け頂戴ムーグの音がこれまでで一番鳴っていないような気がする。力任せでもいいからそれだけ振り切らないといけない何かがあったのかもしれない。新しい価値観が提示されるわけではない。音楽的な実験性は皆無。でもこれでもかというほど瑞々しいメロディが詰まってる。彼らのアルバムはどれもそうで、空間性とかで音楽を選ぶ人には馴染まないだろうけど、感性さえぴったり合えば全曲とんでもない名曲になり得る爆発的ポテンシャルを秘めている。私生活における感傷と言葉で埋め尽くされるロックだから、当然比較的地味なんだけど、そのことを「素晴らしく普遍的」、と評価することにこんなにも申し訳なさが不必要なバンドはそういない。個人的な印象としては、軽妙なジミー・イート・ワールドといった感じで、メロディに関してはほとんど職人レベルの信頼を置いていいと思う。ユアン・マクレガー主演映画『普通じゃない』のタイトルをもじった楽曲が収録されていて、それが最高にいい。毎日聴いてます。ボーカリストであるジャスティンの私生活がいつだって恥ずかしげもなく公開されてきたモーション・シティ・サウンドトラックの音楽。アルコールまみれのくすんだ生活、手痛い失恋体験、コミュニケーション不全。そんなどこにでも転がっている普通すぎるダメ生活には、それでもこんなにも普通じゃいられなくさせるたまらんメロディが流れている。『アバター』観たアメリカ人がその世界観と現実世界とのギャップに悲観して鬱になったんだって。しかもひとりじゃなくて何人も。くだらない現実世界にめくるめくメロディなんて流れてないよ。どんなノンフィクションだって楽しもうとしてるやつのところにこそ、こんな優しいメロディは溢れてくるんだ。

01:41 | 音楽 | comments (4) | trackbacks (0) | page top↑

僕のアバター! 僕を救って!

Avatar
avatar.jpg
映画の限界
 壮絶ハイビジョン、3Dでも観れちゃう、ということで、話題の映画。を、なんと2Dで観てきました。邪道って言わないで。だって、3Dで観た人観た人みんな、「しんどい」「疲れる」「字幕も3D」って三重苦を仄めかしてくるんだもん……そんなの仕方ないよね。最新の映像技術を己が神のごとく使いまくる、というわけで、2Dだったとしても、これだけ話題になってるってことは、多分これが現時点における技術的に高度な「映像」という意味での映画の限界点なんだと思う(それは必ずしも「表現」の限界を意味しない)。ファンタジックな映像を追ってるだけでも、全然退屈しなかったと思う。ストーリーに関しては、長きに亘る映画史の「最善」の記録をめぐる旅(これはときとして「定型」「凡庸」「開始数分で全ストーリーを把握できる」を意味する)といった感じ。フィクション、伝説、破壊、大量死、大逆転、愛、奇跡。映画をエキサイティングに盛り上げるありとあらゆるお決まりのアイテムが揃ってる。「母なる自然を大切にしましょう」的、欠かせないメッセージ性もきちんとある。それを壮大な映像と音楽、もっとあっけらかんと言うなら、莫大な金をかけて力ずくで全肯定する。やりすぎじゃない?というところも、躊躇なく、やる。でも盛り上がることやりすぎちゃったせいで、映画として恐ろしく平坦になってる。せっかく「未体験」っていう武器があるのに、「どっかで観たことあるくない?」っていう、デ・ジャ・ヴ、が発動しまくり。あんまり思い描いてたとおりに進むから、もしかして僕、予知能力を手に入れてしまった?と思った。映画がこれまで大切にしてきた「美徳」(「美学」じゃない)をすべて出し尽くす、つまり、これが現時点における、映画の「正当性」の限界だ。そして、そんな映画の限界点を突き詰めてみせたこの作品が、結局のところ、「主人公がかっこつけられたから、もうそれでみんなハッピーだよね? エヘッ」程度のことしかできていない。解決の糸口がいつの間にか摩り替わってる。この巧妙な誤魔化しが、映画の「正当性」の限界。これを、「映画にしかできないこと」というのははっきり言って詭弁である。ただ、何にもできていないだけだ。当たり前だろう? もしこの作品に込められたメッセージを本当に現実世界に回帰させたいのなら、早い話が映画なんて作っている場合ではないのだ。そしてもちろん、観ている場合でもないのだ。でも、そういうことを了承した上で作品を観てしまった結果として、けちょんけちょんに全批判全否定するならまだ救いようがあるよ? 一番役立たずで救いようがないのは、こんな偉そうなこと言いながらも、普通にドキドキワクワク楽しんじゃった僕だよー! せめて「お茶目」と笑って許して。

01:36 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

孤独の人

Train
テラー・トレイン
過去に何かあったとしか思えない、目
 邦題は『テラー・トレイン』。大大大好きなソーラ・バーチ主演というだけの理由で手に取った、ホラー、というか地獄のようなバイオレンス映画。アメリカの大学生レスリング・チームの面々が、リトアニアのある地で乗った列車を舞台に、おびただしい鮮血と臓物に塗りたくられまくり放題90分。99年の『アメリカン・ビューティー』を皮切りに、00年代初頭には『ザ・ホール』『ゴーストワールド』といった傑作映画で主演を務めてきたソーラ・バーチだけど、ここ数年は、日本では劇場未公開でDVDでしか観られないタイプの小規模映画の主演が多くて、その上どれもこれもことごとくこういう悪趣味な性格の作品ばかりなもんだから、個人的にはかなりハードというか、ひとり「ひゃー」とか「わぁー」とか言いながらで彼女にウットリする間もなく少し残念な気持ちがなきにしもあらず……というのが続いていたような気がするけれど、今回のはなかなか、楽しめました。ストーリーに関しては、心踊るミステリー性もなく、ありがちな閉鎖設定、かといって特に破綻もなく延々と目を潰したくなる映像が続く、といったところで、でもそんな中でソーラ・バーチがちゃんと立ってる。死ぬほどヒイキ目で観たから冷静な感想じゃないけど、やっぱり目が違うんだよな。ソーラ・バーチは取り立てて美人だったり可愛かったりするタイプの女優さんではなくて、演技力うんぬんのことは僕にはさっぱりわかんないし、それでもこんなに好きなのはもしかして僕の個人的な性癖とかが関係してたりするのかな……なんて思わず自分を疑い始めてしまいそうにもなるけれど、とにかく彼女は表情で映画を作る人だと思う。全然すれてないんだ。いくつになっても子どもみたいに無邪気な笑い方するし、でもそれは彼女が本当にピュアな人だからとかじゃ多分なくて、本当はピュアでデリケートでいたいのにそうでいられない自分を知ってるからだと思う。なんで?って訊かれたら僕も感覚的にそう思うだけだからうまく説明できないけど(もしかしたら『ゴーストワールド』のイメージかな?)、目が、すごい哀しいんだよ。こんな目で見つめられたら、顔逸らすしかないじゃないかっていう目をするんだよこの人は笑ってるときでも。こんな、血まみれになる醜悪映画でもその少し緑がかった灰色の瞳が全然濁ってない。ソーラ・バーチがレスリング選手っていう設定は笑ったけど、観てたら『ゴーストワールド』の奇跡思い出して切なくなった。あと、最後のワイルドショートになったソーラ・バーチにはマジで惚れ直しました。

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軽やかに笑う

Yes
/ Oh No Ono

Oh No Ono-Yes
あなたを愛します、よりも、僕たちを愛して
 有名な話だけど、ジョン・レノンがオノ・ヨーコに惚れたのは、彼女の個展の中のある作品がきっかけだった。脚立に上って天井のキャンパスを虫眼鏡で覗く、『天井の絵』という作品。そこでジョン・レノンが見たのは、ありありと拡大化された小さな肯定。「Yes」。オノ・ヨーコのパフォーマンスは常にこれを基本的な精神にしていて、彼女の表現は受け手を絶対的に肯定する愛からしか始まらない。そして、この05年発表のデビュー・アルバムのタイトルは、間違いなくそれを意識している。でも、デンマーク出身のこの五人組がオノ・ヨーコの狂信的な信者だとかでは多分絶対にありえなくて、ふざけすぎたバンド名からしても、よく言って「マジリスペクト」っていうぐらいの感じなんだろう。日本のオフィシャルHPには「小野さん集合! そして大野さん大注目! ついでに小野寺さんも!」「あとはオノオノで楽しめ!」とか、ハンソンの「キラメキ☆」レベルの「どーせ本人たちにはバレないって」的な気の利いたコメントが寄せられちゃったりしているわけだけど、小野寺さんはさすがに関係なくないか? だったら遠野さんとかも折り合いの悪い親戚みたいな感じで呼ぶべきだと思う。とにかく、メンバー全員ストロークスに漂白剤かけたみたいなイケメンぞろいなんだけど、やってるのはかっちょいいガレージ・ロックなんかじゃなくて、完全にジュニア・シニア。と思ってたらヤスパー(ジュニア)がプロデュースに参加してて、納得した。“ヴィクティム・オブ・ザ・モダン・エイジ”なんていうついつい身構えそうなタイトルの曲がたまにあるけど、実態はシンセ鳴りまくりで踊りださずにはいられないエレポップ。オノ・ヨーコみたいな、世界の醜悪さを前提としたところからでさえ始まる絶対肯定とはまるで無縁の、来る者は拒まず精神の気安いイエス。ルックスからのギャップを考えてもそうだけど、あえて外してくる。世界にもロックにもそもそも恨みを持っていない連中の確信犯的ポップ、そんな感じだと思う。楽しむためならなんでもOKなジャンルレスさはジュニア・シニアそのものだけど、彼らほどフックが強くないのがたまにキズ。でも、アリかナシかだったら、イエス。断然アリです。ひとつすごいいい曲があった。

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2009年ベスト・ディスク4

No Line On The Horizon
/ U2

U2-No Line On The Horizon
真っ赤な嘘、真っ白な愛
 U2がその長きに亘るキャリアで初めて犯した「嘘」。このアルバムは、そういうアルバムだと思う。フロントマンのボノが、ノーベル平和賞の候補者に選ばれたり、アメリカ人でもないくせにオバマの就任式ライブに「ちゃっかり」どころではない存在感で乱入したり、日本の政治家にまで公然と苦言を呈しちゃったりなんかしてることからもご存知なとおり、U2とは、世界の愛と平和、罪と悪意、そしてその真実について、世界中の他のどんなロック・バンドよりも苛烈なステージで、真摯に考察し、対峙し、戦ってきたバンドだ。しかしもちろん、例えば91年の問題作『アクトン・ベイビー』がそうだったように、彼らは必ずしも常に「正しい」バンドではなかった。派手な化粧を施し、わざとらしいほどに偽善ぶっていたあの頃にも、確かに彼らはひどく意識的に嘘をついていた。しかし、その嘘の裏側には、いつだって暴かれるべき悲痛な真実の存在があった。その愚かな嘘の方角からしか抉り取ることのできない世界の残酷な真実が、そこには確かにあった。だからこそ『アクトン・ベイビー』という狂気的な嘘は、ドラッギーな多幸感とは程遠い血塗られた一色で塗りつぶされていたのだ。
 疑わしきもの。そしてそれは彼らにとって、自分たちが唯一の武器としたロックという音楽でさえ、そうだった。83年の傑作アルバム『WAR(闘)』制作当時の時点で、バンドを解散させて、本格的に宗教に救いを求めようとしていたほど、彼らにとってロックという手段は、疑わしき欺瞞以外の何物でもなかった。どれだけ歌っても、どれだけ訴えても、ロックの前で、世界はあまりに強固だった。何も変えられない、導けない、役立たずなロック。そしてそのことが彼らに突きつけたひとつの事実がある。ロックがいつまでたっても疑わしい贋物でしかいられない理由。歌い手が、そもそも最も疑わしき存在だからだ。
 だからU2はこのたった一枚を作るために、こんなにも長い時間を費やしてしまった。どれだけ「正しい」と思えることを歌っても、それを反対側から伝えるために道化ても、彼らのロックにはいつだって、迷い、葛藤、偽善、欺瞞、言い訳、卑屈、喪失、批評、意識、そんな真っ赤な血が流れ続けていた。彼らは知ってしまっていたのだ。自分たちが、世界を正しい方角に導くに値しない人間でしかないこと。血塗られた運命のロックは、世界はおろか愛すべき「あなた」さえ救わない。自分にならできると心底思い込めるほど彼らは無知でもなかったし、そのことに意識的にならざるを得ないほど絶望的なまでに賢かった。
 そして、そんな彼らとまったく同じ場所で立ち尽くしていたレディオヘッドが『イン・レインボウズ』というまったく新しい視座を獲得した一年半後、彼らはこの『境界なき地平』に辿り着いた。ふたつのアルバムが伝えていることはまったくの均等だ。『イン・レインボウズ』は、この一見絶望的に映る世界で、それでも僕たちは虹の真下にいる、という、視覚することのできない「嘘」だった。U2のこのアルバムだって一緒だ。ひたすらに境界線を引きまくり差別することで成り立つこの世界が、実はまったく境界など存在しない場所だった、そんな風景を聴き手に描かせるための「嘘」。そして彼らがここに辿り着くまでの背景には、『パブロ・ハニー』『OKコンピューター』『キッドA』といった、『WAR』『アクトン・ベイビー』といった、絶望の歴史があった。秘められた裏側の悲観があった。それでもU2は歌うのだ。ここに境界はない。この「嘘」には境界がない。裏側さえない。これは完璧に独立した、飛翔した鉄壁の「嘘」なのだと。
 このアルバムで、U2は真っ赤な血を流し続けた自分たちのロックを、そんな「嘘」で真っ白に塗りたくった。そしてそんな、すべての迷いと絶望を振り払った(ことにする=「嘘」)この真新しい地平で、歌うのだ。「僕は君とひとつになるために生まれてきた」。U2(=you too)と名付けられた、そう運命付けられたはずのバンドでさえ血を流しながらでしか歌えなかったその祈りを、今度こそ紛れもない「真実」として心から叫ぶために、彼らはこの『境界なき地平』という真っ白な「嘘」の景色を、裏側の存在し得ない背景を、必要としたのだ。ここに辿り着くまでの彼らの歌には、真実の裏側に常に嘘があり、嘘の裏側には常に真実があった。どちらがいいというものではない。真実と嘘が均等に対立し合う存在として、お互いの足を引っ張り続けてきたのだ。だからそれさえも振り切るために彼らは前人未到の地平から歌う。境界のない「嘘」。裏側のない「嘘」。対立し得ない「嘘」。それはそのまま、ひとつの紛れもない「真実」ではないかと。 

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2009年ベスト・ディスク3

Mama, I'm Swollen
/ Cursive

Cursive-Mama Im Swollen
永遠に終わらない合わせ鏡
 みたいな一枚だと思った。ティム・ケイシャーがずっと覗くことを避け続けていた鏡。そして、これまでだったら覗くことすら必要としなかった鏡。なぜなら、彼にはもっと優先して対峙すべきものがあったからだ。それが、「あなた」であり、つまりは、「世界」だった。そしてそれは、鏡を通して自己を省みる必要すらないほど、彼には己の抱えた絶望の責任を押し付けることのできる他者の存在がそこにあったということでもある。
 カーシヴの歌は、いつだって「物語」としての体裁を保ち続けてきた。そして、そこに登場する「わたし」を主人公としたその物語は、頑なに「世界との不和」を物語り続けてきた。傑作アルバム『ドメスティカ』『アグリー・オルガン』で語られたのは、ときには“シエラ”と名付けられた実の娘さえも生贄にする家庭内という小さな世界でのすれ違い、そして、続く『ハッピー・ホロウ』で、その小さな他者は当然のような延長として、アメリカという巨大な他者へと肥大していった。お前が悪いから、アメリカが悪いから、世界が悪いから、俺はこんなにも強固な絶望を強いられているんだ、とでも言うかのように。
 そして、そんな後ろ向きな作品にも、たまに希望と呼べそうなものがチラッと顔を見せていたのは、ただ単に、その物語の先に、もっと大きな他者という続きが約束されていたから、その一点に他ならない。「わたし」には、まだまだ重大な責任を背負わせることのできる、頑丈な言い訳が約束されてた。そして、そこには希望っぽく見えるものがあった。でもその希望は、単なる紛い物でしかなかったのだ。
 でもティム・ケイシャーはそのことに気付けなかった。だから、「あなた」にも「世界」にもすべてを擦り付けた後、それでも完璧に消え去らない絶望の原因を、彼は今世紀最大の他者としての、「自己」に突きつける他なかった。すべてが死滅した後の地平に残された、たったひとりの他者としての「わたし」。彼の言葉は、執拗にそれを痛めつけた。このアルバムは、まことに残念ながら、そういうアルバムである。
 一曲目から「こんな世界に生きたくない」に始まり、「地獄に堕ちていく」と歌いながらも、愛し憎んだ誰もが消え去ったこの荒野こそが、そもそも地獄でしかないことを彼は知っている。そしてそんな独りぼっちの世界の孤独を誰よりも彼自身が理解しているからこそ、これまで何もかもを他人のせいにし続けてきた自分に、「俺はいったいいままで何をしていたんだ」という後悔の言葉で嫌悪を表明することしかできなかった。そして、そんな自己嫌悪すら、自己を他者として遠ざける言い訳でしかないことを彼はもちろんわかっている。人は、自分が自覚しているよりももっと大きな誰かや何かに常に守られている。でも、彼は最後までそのことに気付けなかった。気付けていたかもしれないが、認められなかった。彼が嫌悪した「あなた」や「世界」、そして「わたし」は、確かに彼を苦しめたかもしれないが、それと同様の質量で、彼を守り続けてきたはずだ。でなきゃ責任を押し付けることさえできなかっただろう。「不和」を申し立てるだけの余裕があるほどに、そこには厳しさと対等の優しさがあった。自己嫌悪や絶望は、いつだってそれよりも大きな何かに掌握されている。それは、それそのものだけを突き詰めても決して完結し得ることのない物語なのだ。
 当たり前である。永遠の奥行きで映し返す合わせ鏡。それは、ただそのままの意味でしかない。途中で途切れたり、別の何かが介入したり、まったくの別物に変わったりはしないのだ。それは、文字通り永遠に続くものでしかない。そこに映り続ける「わたし」を嫌悪して嫌悪して嫌悪し尽くしたたところで、救済は訪れないのだ。だとしたら、そんな鏡の前に立ち尽くしてしまった人間に求められる唯一の手段は、そこに映る「わたし」が、左右前後逆転した幻でしかないことを認めること。それが、「わたしっぽく見えるもの」でしかないということを、認めることだ。目の前に映る幻を叩き割りさえすれば、それはいともあっけなく終結させられる物語なのだ。そこに、彼の心底望んだ「和解」はあったのだから。
 でもティム・ケイシャーにはそれができなかった。このアルバムは、そんな悲劇の産物。悲劇でしかない産物。このアルバムには未来も希望もない。永遠にダラダラと続くネガティヴ。「わたし」の自殺なしには完結し得ない物語。ロックが唯一肯定すべきでない罪悪。全曲がスミスの“ゼア・イズ・ア・ライト・ザット・ネヴァー・ゴーズ・アウト”。なんでいまのいままで気付かなかったんだろう。こんなアルバムに嬉々とするやつの気が知れない。どうしても聴きたかったら、そういうこと前提にして聴いてください。精神的に浮き沈みの激しいタイプの人は、絶対に聴くべきじゃない。でも09年のベスト・アルバム四枚に選んじゃってたから、せめてもの称号を与える。「今世紀最も聴かれるべきでない」傑作。 

 
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2009年ベスト・ディスク2

Scars
/ Basement Jaxx

Basement Jaxx-Scars
「どこか」ではない「ここ」
 09年、もっとも聴いた楽曲は間違いなくベースメント・ジャックスの“レインドロップス”だった。『Scars(=傷痕)』と題され、ベースメント史上最強に感傷的な楽曲“レインドロップス”が収録された本作。ベースメント・ジャックスの楽曲を聴くとき、これまでだったら真っ先に連想するのは浅はかなセックスの享楽さだった。複数の全裸の男女が肌を密着させて寝そべるデビュー・アルバムのジャケット。溢れ出る欲望に身を任せるということが、どれほど甘くエキサイティングなものか。ベースメント・ジャックスにとっての「解放」とは、いつだってその軽薄なまでの従順さと同義だった。クラブという言わば行きずりの地層で、人目もはばからずに腰を振る。人が踊るということはすなわち、そういうことなのだ。
 個人的な感想としては、通算五作目となる本作は、これまででもっとも湿ったサウンドではあるが、唯一セックスを想起させないアルバムだった。でもそのことが意味するものは、彼らにとっての踊る意味そのものの変質ではなく、ものすごく単純な洗練でしかないのだと思う。時に幼稚ですらあった自らの欲望を、ここで初めて真に手懐けることができた、そんな印象だ。なぜなら、「傷痕」を背負ったはずの本作で、彼らは決して“ワン・モア・タイム”、すなわち、踊ることをいったん止めたところからしか始まらない踊り、を表現しなかったからだ。
 “レインドロップス”がすべてを表象している。ここにある確かな悲しみ、それは、「乗り越えるべきもの」、はたまた、「逃避すべきもの」、そのどちらでもない場所に配置されている。どうこう説明するよりも一度聴いてみて欲しい。彼らがこの楽曲で聴き手に求めるリアクションは、踊ることを止めることでも、踊り直すことでもない。この悲しみを新たな出発点として踊り始めること。悲しみを前にしてうまく踊れないことを認めるのではなく、悲しみの前でさえ踊ることができることを認める。本作でベースメント・ジャックスからセックスが消えたのは、ただそこに悲しみがあったからというだけの理由でしかない。そこには、セックスと同じだけ上質な欲望と解放が、確かにあったのだ。
 人がなぜ踊るのか、僕にはいまいち理解できない。それは勝利を目的としたスポーツ全般と違って、踊るということがそのままひとつの表現であり、そうである以上、全身を駆使しながらも本質的な意味ではひどくメンタルな営みだからだと思う。肉体で感知するイマジネーション。踊るということはそういうことなのかもしれない。強固な地面から足を乖離させ、宙を漕ぐように腕を振り回して踊る僕たち。その姿は、必死で「ここ」ではない「どこか」へと自らを誘おうとしているようにも見える。それは時に逃走であり、闘争でもあるだろう。いま居るそこがもし何も考えなくても構わないような場所なら、僕たちはそもそも踊ることなど必要とはしなかったはずだ。しかし、ここで彼らが言うように、踊ることがもし悲しみさえも内包するのなら、すべてが反転するような気がする。揺らぎやすい足元を確実に踏み鳴らし、手応えを求めて腕を伸ばす。「どこか」にいるかもしれない幸福な自分に思いを馳せるのではなく、喜びにも怒りにも悲しみにも、あらゆる感情に翻弄される「ここ」にしかいない自分を謳歌するために、踊る。そして、彼らにとっての踊るということは、いつだってそういうことだったのだ。ご馳走を前にして、色彩やにおいが本物の「味」に勝てるわけがない。喜びも怒りも悲しみも全部しゃぶりつくしてやる。人が踊る欲望。それは、すべてが出揃った「ここ」に対する絶対肯定以外の何物でもない。そして、だからこそそんな「ここ」の確かな延長線上には、僕たちは「どこででも」踊ることができるという、圧倒的な解放が約束されている。

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2009年ベスト・ディスク1

年明けには、「○○年ベスト・ディスク50」つって、
前年を振り返って優れたアルバム50枚のレヴューを載せるってやってた。
09年版のそれをやろうと思って家にあるCDを眺めてたら、
僕がわざわざ振り返って聴かなきゃいけないくらい
熱心に耳を傾けたアルバムは、たったの四枚しかなかった。
不作だったってことじゃないよ。
聴き散らかすばっかで、この四枚くらいしか、僕がまじめに聴こうとしなかったんだ。

おーなんか新年早々雰囲気がおかしい。
言い換える。

09年、僕には四枚も熱心に聴いたアルバムがあった。
だからそれを一枚ずつ紹介する。
順番に紹介するけど、例年みたいにナンバリングはしない。
並列の四枚。すごい四枚なんだから。
僕の09年にぶっ刺さった最強の四枚。四天王。

今日は一枚目。

The E.N.D.
/ Black Eyed Peas

Black Eyed Peas-END
メロディは鳴る、必ず
 正直、先行シングルとしてすでに全米一位を獲得していた“ブン・ブン・パウ”を初めて聴いたときには、絶対に「ブラック・アイド・ピーズの新曲」っていう装飾がなかったら全米一位なんて獲れる曲じゃないと思った。超クールな曲だっていうのは認めるけどメロディとかほとんどないに等しいし、ノレるかノレないか、その判断をひどく聴き手に預けた曲だと思った。でも収録曲の中では人気曲みたいで、未だに「全米一位!」って聴いて“ベイビー・ワン・モア・タイム”が頭に流れる僕の感覚の方が古いものなんだと認めるしかない。でも、メロディとはいつだってそういうものだったはずだ。楽器を持たずとも誰もが口ずさむことのできる、公然と共有されるべきもの。“ブン・ブン・パウ”は、そのリズム感においては極めて優れた一曲だと思う。でも、「懐メロ」に親しみは感じても、「懐リズ」なんて聞いたこともないだろう? そういうことなのだ。
 疑いようのないワールドワイド・サクセスをもたらした前作『モンキー・ビジネス』。あれで、ブラック・アイド・ピーズは正真正銘の公然のものとなった。あらゆるジャンルの垣根を飛び越え、数え切れないゲストを招集し、ボーダレスを体現する。そういう意味において、あのアルバムはブラック・アイド・ピーズのひとつの完成型だった。メロディとは、人が音楽を口ずさむときの、温度と湿度を伴った生身の息遣いである。『モンキー・ビジネス』という来る者をまったく拒まないコミュニティは、それゆえに、とても温かい場所だった。僕たちは、『モンキー・ビジネス』の持つ途方もない豊かなメロディを前にして、立ち尽くすことなど微塵も求められなかったのだ。
 本作における基本構造はそこから驚くべき変化を見せた。外部の人間などいない。音楽性は、エレクトロ一本に固く貫かれている。デジタル・エフェクトを多用し、メンバー全員がまるでサイボーグのように振舞う。人間の息遣いを排除した、無風地帯。本作がまとうある種の冷たさは果たして、『モンキー・ビジネス』という、ブラック・アイド・ピーズそのものが公然の「メロディ」として完結した後の、アウトロに過ぎないのか? 違うのだ、と彼らは本作の幕開けから早くもそう宣言する。
 本作には少なくとも、『エレファンク』以降のブラック・アイド・ピーズが徹してきた、「何でもあり」の精神は希薄である。でもそれは絶対に彼らの表現の陳腐な矮小化を意味しない。でなきゃ最初の、「これはエンドでありビギニングである」、だなんていう思わず作り手の美意識を疑ってしまうようなダサすぎるアナウンス、彼らは必要としなかったはずだ。絶対に、誤解されるわけにはいかなかったのだ。これはメロディが鳴り止んだその後の物語ではない。彼らがここで言う、「エンドがビギニングにすらなり得る」、というパラドックス。そのことが意味するのは、「メロディがまだ鳴っていない場所は確かにある」、ということ。これに他ならない。
 収録曲の、“アイ・ガッタ・フィーリング”が好きだ。この曲のイントロが流れ始めると、僕はいつもジャクソン5の“アイ・ウォント・ユー・バック”の奇跡を連想する。なんでもできそうな気がするんだよな、ジャクソン5のイントロも本当に。そして、音楽が本当に果たすべきものとは、そういうものではなかったのかとブラック・アイド・ピーズは問うているのだ。マンデーもチューズデーもウェンズデーもサーズデーもフライデーもサタデーもサンデーも全部ここから始まる。ここからは何だって始まる。実際にどうかなんてわからないけど、でも無性にそう思わせる。ここには彼らが『モンキー・ビジネス』でやってみせた、何もかもが許されるパーティー感は存在しない。でもこれは行き止まりの「ジ・エンド」なんかじゃないんだぜ。まだ始まってないんだ。思い出してみろよ、メロディが鳴り始める前、その一瞬の余白のような時間には、いつだって未来が約束されてたじゃないか。彼らはそう言っているのだ。そして、メロディが鳴らない場所なんて、あるはずがないだろう、と。
 本作に対する評価は、ファンの間でも、メディアの間でも、賛否の分かれるものになっている。まったく、これは真新しいパーティーへの招待状だぜ? 始まる前からケチつけてどうすんだ。せいぜい開始時間には遅れないように、早めに家を出ろよ。

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