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クリスマスは更新しないで、あたかも予定があるっぽく振舞うなんて、しない。

キム・ヨナがどれだけ高い表現力を持っていたとしても、
僕は笑って踊ろうとしてる真央ちゃんが好きだ。

大丈夫。
僕はいまゾンビになれてる。
死んだことにすら気付かないで踊る。

そのことを、完璧な一言で言い切った人がいる。
マイケル・ジャクソン。

スリラー。

つーこっちゃ!

Rooty
/ Basement Jaxx

Basement Jaxx-rooty
僕たちなんてどこまでいっても最高の「アホ」だ
 いつだってヘラヘラチャラチャラしてきたベースメント・ジャックスだけど、その中でも突出してふざけてたのがこの頃。ジャケットもいいけど後ろの最高にポップな楽曲リストが好き。ろみお! じゃすわんきす! あいうぉんちゅー! ロックの制約? 責務? そんなもんちゃんちゃらおかしいとばかりに手を変え品を変え、彼らは様々な音楽に両足突っ込みまくって戯れる。その卑しすぎるほどのダンスへの執着は後に『キッシュ・キャッシュ』を表象した「SOUL PUNK UNITE」の名の下に超クールな高みへと昇華するわけだけど、どのみち彼らにとってもっとも優先すべき事項はただひたすらに「踊ること」だった。
 これ聴いた後に今年発表された最新作の『スカーズ』を聴いたら、多分めちゃくちゃ感動すると思う。『スカーズ』は、先行の“レインドロップス”が物語るように、あのチャラいベースメント・ジャックスが、初めて「悲しみ」を表現した、そういうアルバムだった。『スカーズ』のディスク・レヴューでも書いたけど、それでも彼らが清かったのは、立派な「悲しみ」を表現しながらも、“ワン・モア・タイム”を作ったダフト・パンクとは違って、「踊らないこと」「踊れなくてもいいこと」を、決して肯定しなかったからだ。そして、『スカーズ』の素晴らしい画期性はまさにそこにこそあった。「人間だもの」な慰めヒューマニズムさえ脇に押しやって、彼らはまざまざと浮かび上がる傷痕をなでながら、それでも「悲しみ」の上でさえ踊ったのだ。“レインドロップス”聴いたろう? 虹が見えそうなほどあんなにも切ないメロディなのに、あんなにも全身使って踊らずにはいられない歌が、かつていったいどれほどあったと言うのか。ベースメント・ジャックスは言ってる。「踊ること」とは、それそのものがすでに強烈なまでの肯定なのだと。だから彼らは片っ端から、ことごとく、歓迎する。喜びも、悲しみも、浅はかさも、全部まとめて踊り果ててやる。絶望結構、自己嫌悪結構、なんでもかかってこい。全部踊って、全部愛してやる。批評、罵声、妥協、卑屈、失恋――どうにも踊れそうにないメロディはしかし山ほどある。でもだからこそ彼らはあくまで愚かな道化を演じるのだ。踊れないなら、踊らされてやる。「アホ」に成り下がってでも踊る彼らの愛に勝てるやつらなんていない。

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04:02 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

自意識は嘘しかつけない

Rated R
/ Rihanna

Rihanna-Rated R
この人はブリトニーにはならない
 この最新作を聴くにあたって過去作をザックリ振り返ってみたのだけど、この人は多分、自分っていう漠然とした手応えにもっと確実なものを見たくて歌を歌っているんだろうなって思った。R・ケリーに才能を見込まれて鳴り物入りでデビューを果たしたリアーナも、多くのアメリカン・アイドルがそうであるように、当初は各方面のプロたちにうまい具合にとりあえずの「リアーナ」っていうキャラクターをプロデュースされていたんだろう。作品に対して彼女自身がどこまでの裁量権を持っているのかはよくわからないけど、それでもブレイクのきっかけとなったセカンド・アルバムでは“アンフェイスフル”なんていう裏切り者としての自分を歌っていたりなんかして、その次の傑作アルバムのタイトルは『グッド・ガール・ゴーン・バッド』、そして彼女のヴィジュアル・イメージは栗色つややかヘアーの美少女からシック&ダークな深みへと驚くべき変遷を遂げた。人が見る自分、と、本来の自分、と思いたい自分。そのふたつの虚像の狭間で自己嫌悪に陥って、わたしはこんなんじゃないって精一杯自己表現しても結局どこにも辿り着けない。何者にもなり損ねてる。レコード・セールスは最高の右肩上がりで華々しいキャリアを歩んできた彼女だけど、作品毎に無理やりでも自分を上書きしようとする彼女の歌を聴いていたら、その根底にはそういう煩悶が見て取れるような気がした。で、当然のようにそこにやっかいな恋人クリスの存在が絡んでくる。DVとか言われたりする、暴力を間に挟んだ恋人同士のコミュニケーションって僕にはよくわからなくて、失礼な言い方になってしまったら申し訳ないけど、要はお互いがそういう性癖だったりするんじゃないかって思わないでもない。でもとりあえずリアーナ本人がクリスの暴行についてどう感じているかは細かいところまではわからないし、僕にとって案外そこはどうでもよくて、ただ、本作におけるリアーナはただもう自分を傷つけることでしか、その傷口に触れることでしか、自分に対して確かなものを感じられないんだろうなと思う。有刺鉄線で身体ぐるぐる巻きにしてるブックレットなんか見たら「とうとうおかしくなっちゃったか」とか思う人もたくさん出てくるんだろうけど、でもやっぱりリアーナが賢いと思うのは、例えば「真実」というものがいつだって「暴かれる」対象でしかないのと同じように、必ずしもネガティヴこそが本音を語り出すわけではないということに、彼女自身が自覚的だからだ。ちゃんと傷ついている自分でさえ、本来の自分じゃないかもしれない可能性を、彼女は知っている。ただその一点のみにおいて、本作における狂気的な「リアーナ」を、彼女はきちんとコントロールできていると思う。ステージの上で彼女が裏切り続けてきたのは、手を振る観客ではなく、いつだって他ならない自分自身だった。だから彼女は傷だらけになって歌う。自分を疑い続けるこの呪縛から、解き放たれたい。完璧に狂い切れない愛と葛藤と彼女の強さと弱さが入り乱れる名曲“ロシアン・ルーレット”には本当に心を打たれた。痛々しいけど、幸せになりたいって叫んでる本作の彼女は、とても綺麗だと思った。

05:10 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

少年少女は恋を知らない

少年少女ロマンス
/ ジョージ朝倉

ジョージ朝倉-少年少女ロマンス
男の子と女の子は出会う、宇宙でだって出会う
 ジム・キャリーとケイト・ウィンスレットが主演の『エターナル・サンシャイン』っていう映画がある。ふたりが出会って、愛し合って、でもいざこざがあって、別れる。「消します、あなたの記憶」みたいな胡散臭い商売やってる連中が出てきて、ふたりとも、お互いの記憶抹消。多分、その方が楽だと思って、つい。でも、ふたりはもう一度出会う。二回目の初対面。また、恋愛っぽいことが始まって、でもそういう相性なのか何なのか、またちょっと気まずい感じ。そんな時、ある一本の録音テープをきっかけに、ふたりは、素晴らしく重要なことに気づかされる。そのテープは、失う前の記憶。自分の知らないところで、すでにふたりが出会っていたことを、ふたりとも、知る。あなたは、もしかして、運命の、人?
 そういうこと、なのかもしれない。何かのちょっとした間違いで、僕たちは、僕たちが気づく前のことを、ほんの少しばかり、忘れているだけなのかもしれない。順番、間違ったりなんかしてないよ。だって、むしろ本当はもっと前から愛し合ってたんだ。僕は、君と手ぇ繋ぎながら、めっちゃ笑いながら生まれてきた。それをちょっとの間、忘れてただけ。君との出会いはきっともう何度目かの初対面。だからもうどこいたって最高の場所。そういうことでいい。そういうことがいい。否が応でも意味を持つ偶然と役に立たない必然ばっかで何が本当か嘘かもわからない世界だけど。何もかもうまくいかなくて、もっと大きな存在に操られてるような気さえするけれど。なんかいろいろ邪魔が入って自分さえもうまくプロデュースできなかったりするけど。それでも僕が間違いなく自分自身の力で選択したのは君だけ。奇跡みたいな大逆転はもう何度だって起こってる。だから願わくば、君と最高の最後を。大丈夫。僕たちは愛しか知らない。そしたら僕はきっとまた君と世界のどこかで出会って、どんだけ言っても言い足りない言葉を、まるで記憶を失ったみたいに、繰り返す。超ウルトラ愛してる。

21:48 | | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

やっと読み終わった

シャイニング (下)
/ スティーヴン・キング

スティーヴン・キング-シャイニング下
あなたは無数の墓場で、起きかけている
 表題となっている「シャイニング」という言葉は、物語の中では主人公一家のひとり息子ダニーの持つ不可解な特殊能力(未来予知とか、読心とか)を示す言葉として使われているのだが、これはすなわち、本来見えないはずのものが見えるということ、不可能が可能に反転する、一瞬の閃光のようなひらめき、触れられないものを一瞬で繋ぎ合わせる直感、ということだ。物語の舞台となる「オーバールック・ホテル」にも、まるで己が生きた悪意だとでも言うかのような、奇妙な力が秘められている。それは、過去にホテルで犯された様々な悪事や惨劇の風景を、突如として現在に復活させるというもの。ダニーが未来を現在に見ることができるのと同じように、ホテルは現在に過去を引き起こす。そして、そんな醜悪なホテルの悪意に取り込まれてしまう父親ジャックについて本作で語られることといえば、もっぱら過去のトラウマティックな出来事ばかりだったりする。僕たちは未来を見ることはできないが、過去を振り返ることならできる。そしてそれが内省と呼ぶには余りに程遠い、救いようのない傷痕をあなたに示すのならば、あなたはその掻き消し難い過去を前に、どこまで平静を保つことができるだろう。死んだはずの過去がゾンビのようなしぶとさで蘇り、あなたの首をギリギリと絞めつける。例えば、音楽という一連の音の羅列が、次々とメロディを背後に置き去りにしていくこと、毎秒ごとに音を失うことと同義であるように、日々を生きる僕たちは、そのつど過去の自分を葬りながら現在を更新していく。幻滅、妥協、猜疑、欺瞞――、でも、完璧に死に切れなかったあの頃のあなたは、いつ蘇ってもおかしくはない。人はいとも簡単に、過去と現在の狭間なんてうやむやにできてしまう。ただ血が滴るから怖いのではない。あなたは自己の中に、これまで無数の墓場を掘り続けてきた。「シャイニング」。瞬きのようなほんの一瞬のきっかけさえあれば、あなたはそこで「あなた」と呼べなくもない朽ち果てた招かれざる客と、対面することになる。

04:14 | | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

BBC

I Had The Blues But I Shook Them Loose
/ Bombay Bicycle Club

Bombay Bicycle Club-I Had THe Blues But I Shock Them Loose
新世代のオリジナリティ
 破壊と再生を繰り返すロックンロール。00年代に突入してからもロックンロール・リバイバルだとかニュー・エキセントリックだとか様々な形でその使命は脈々と受け継がれてきた。そしてそれは時に、例えばストロークスにしてもフランツ・フェルディナンドにしても、彼らの斬新さは過去と照らし合わせることでこそ未来を切り開ける、そういう類のものだったような気がする。アークティック・モンキーズには冷く切り離された物語があった。ケイジャン・ダンス・パーティーには夢にまで見るめくるめくメロディがあった。そして09年も終わりに差し迫ったいま、ロンドンからの新星、ボンベイ・バイシクル・クラブである。様々なジャンル、しかもその表向きの魅力ではなく、絶妙なバランス感覚の方を優先した彼らの自由にして深淵な音楽は、的確に「これ」と過去を想起されることに対して非常に慎重である。全然浮ついていないから、七曲目“マグネット”終盤で唐突に挿入されるテクノっぽいアレンジひとつ取ってみても、予想外の展開でこそあれ、決して居心地は悪くなく、それはあくまで自然な派生でしかないのだと納得させる。攻撃範囲が広いのだ。しかし、語られるべき物語があるわけでは、ない。メロディも、多彩だがわかりやすい方向に丸く逃げ出すことはまずない。ある意味、新人としてのインパクトには弱い、少し地味な作品かもしれない。でも、この、深い水の奥底から長い時間をかけて浮かび上がってきたような「渋み」すら感じさせる音楽を、若干十九歳の青年たちが鳴らしている。これがきっと新世代ロックンロールの下地へとなっていく。小手先の技術やアイディアだけの話じゃない。ひとつひとつの音の感度が素晴らしく瑞々しい。

23:14 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

明日朝起きれるかなー

明日も朝九時から夜の一時までほぼぶっ通しでバイト。
映画観る暇もねーよ。
って思ってたらレポート宿題でた。

「くだらない質問はしないでください。僕はもっと高級なことに思考力を使いたいんです」
とか言ってる先生がいたんだけど、
でもその人の授業だって「宇宙はいかに広大か」とかそんなんだよ!?

宇宙の話するとき明らかにウットリしてる。
彼はきっと知らないんだ。
一日空を見上げて過ごす人のことをなんて呼ぶか。

オートフィクション
/ 金原ひとみ

金原ひとみ-オートフィクション
好きなんですよこの人
 金原ひとみといえばやっぱり綿矢りさの『蹴りたい背中』と芥川で最年少同時受賞して一時期すごい話題になった『蛇にピアス』だけど、僕、今年初めてあの作品読んだんですよ。で、すごい感動した。綿矢りさの方は言葉との戯れがすごくて、でも正直話は何が面白いのかわからなかったけど、『蛇にピアス』は本当に面白かった。スプリットタンとか刺青とかセックスとかで構築された、あまりにも脆弱な破綻の世界はこぢんまりとしてたけど、でも反社会的にすらなれない、漠然とした「生き難さ」を抱えた単なる社会不適応者に過ぎない若干十代の女の子が、それでも自分の居場所を求めるために吐き出した言葉の数々は、棘だらけでいびつだったけど、たまに、すごく綺麗だった。だから、この人の作品は全部読もうって決めて、でも僕は本を読むのが遅いから、いまようやく四作目の『オートフィクション』なんです。なんですけど、順序間違えてて、『AMEBIC』ってやつが先にあったの知らなくてまだ読んでなくて、だから『蛇にピアス』と『アッシュベイビー』と『オートフィクション』しか読めてないんですよ。しかもこれ、まだ読み終わってなくて途中。途中、なんだけど、早くもすんごいもどかしい。この人の作品の登場人物、みんな生き難そうに振舞ってて、みんなが平然とやってのけることが自分はできなくて絶望、みたいな感じなんだけど、狂気、なんだけど、頑張って狂おうとしてるな、って思う。『アッシュベイビー』もそんな作品だった。一発目の『蛇にピアス』であり得ないくらい強靭な居場所を獲得してしまって、多分、すごい意識しちゃったんだろうな。誰にも触れられないピュアだったはずの部分に、無自覚でいられなくなったんだと思う。ああでもない、こうでもないって一秒前の自分をことごとく否定して分裂症みたいな思考を繰り返す登場人物。でも、その書き手が実は全然狂ってない、ってことが文字の間から透けて見える。頑張って狂おうとしてる。登場人物は精一杯変なこと言って破綻ぶってるんだけど、全然底力がない。だから、あんまし説得力がない。でも、『オートフィクション』は06年の作品で、僕がまだ読んでない作品はいっぱいある。だから期待して次のも読みます。この人が『蛇にピアス』を超える瞬間が見たい。
03:31 | | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

やっぱすげぇ話だ

シャイニング (上)
/ スティーヴン・キング

スティーヴン・キング-シャイニング上
過去という、圧倒的他者
 分厚い上下巻構成で、まだ上巻しか読めてないのだけど、ホラー映画の金字塔にまでなったキューブリックの例の映画版とのあまりの違いに正直戸惑っている。この原作を読んだら、作者のスティーヴン・キングが、キューブリックの撮った『シャイニング』を散々こき下ろした挙句、自分で一から新たに撮り直してしまった理由が、わからないでもない。個人的に、キューブリックの『シャイニング』はとても思い入れ深い作品で、正直あれを超えられるわけがないと思うけど、スティーヴン・キングが自ら監督を務めた方も絶対に観てみようと思う。キューブリックのバージョンを観ると未だに、断片的、と思うのだけど、それの理由がわかった。
 キューブリックの『シャイニング』は、猛吹雪で下界と絶望的に隔たれたオーヴァールック・ホテルその場所に完全に焦点を絞った作品だった。その閉鎖的空間に、世界を構成するあらゆる要素をぶち込む試みだった。でも、この原作、上巻読み終わったところでこれ書いてるから要はやっと半分きたんだけど、それなのにまだほとんど、キューブリックが描いたような、あのホテルにおける陰惨な物語が、起動していない。舞台はトランス一家の日常からホテルへとすでに移行しているけど、キングがここで描いているのは、ホテルにいる現在の彼らを取り巻くあれこれではなく、そこに行き着くまでの、過ぎ去ってしまった過去の物語なのだ。映画的制約からキューブリックは多分意識的にそこの部分を排除したんだと思う。だからこそ彼の『シャイニング』は時として支離滅裂で、説明不足で、でもその突拍子のなさが彼独特の映像美学と呼応して、超一級ホラー映画としてのうまい企みに繋がっていたのも事実だ。しかし重要なのは、キングがこの原作でひたすらにこだわっているトランス一家の過去、それが、単なる懐かしい思い出でも忌々しい記憶でもなく、まるで一家の未来を阻むように立ちふさがる、現在まで継続させてしまった過去、泥だらけのタイムカプセルのように、一瞬のまたたきで現在を過去に復してしまう呪縛であるというその一点。朽ち果てたはずの過去が、現在をがんじがらめに縛りつけ、歪みを生じさせながら時空を逆転させる。「REDRUM」が「MURDER」に反転し、正気が紛れもない狂気に呑み込まれる場所。人はいつだって自分自身を裏切りながら時を過ごす。過去の自分――それは、ほとんどの場合、現在の「わたし」からすれば、信じられないような「あなた」である。君はかつて、狂気だった。だとしたら、いまの君は、いったいどうだろうか? キングは恐ろしくもそう問いかけるのだ。

02:04 | | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

某社にて

面接官 「君、何か特技はあるの?」
アギレラ「歌と、踊りを少々」
面接官 「へえ(鼻で笑いながら)、ちょっとやってみてよ」
アギレラ「ここで、ですか?」
面接官 「もちろん(なめるような視線)」
アギレラ「わかりました……」
 一瞬、暗転。なぜか、スポットライト。部屋の真ん中にポール。
 それを駆使して歌い踊るアギレラ。
アギレラ「……以上です」
面接官 「(唖然とした表情。眼鏡がずれる)……さ、採用」

アギレラなら、こんなこともあり得るんだろうなぁ……。

Stripped
/ Christina Aguilera

Christina Aguilera
付け入る隙もない
 アギレラの顔ってなんかいつまでたっても覚えられない。作品毎に彼女の中には明確なクールがあって、その時々でイメージがガラッと違う。まさに百面相。当代きってのヴィジュアリストであるそんなアギレラが、02年に発表したセカンド・アルバム、その名も『ストリップト』。裸一貫、っていうのとはちょっと違うけど、衝撃的なセルフ・ヌード。多分にネガティヴなものも含んだ恋愛にまつわるあらゆる感情を赤裸々に吐露しながらも、しかし一曲たりともクリスティーナ・アギレラその人の本当の根っこの部分、丸裸の輪郭までは、決して描ききれていない。でもそれは表現力不足だとか、結局は作り物だとか、そんな意味では全然なくて、個人的すぎる思いに両足どっぷり浸かりながらも、それを歌い上げる彼女自身が、少しも落ち込んだり開き直ったりしてない。声の立ち方が違うのだ。これ出したとき、確かアギレラ二十歳とかそこらへんだったと思うんだけど、すごいプロ然としてて、いい。あくまでも優先されるべきは、ひとりの女性としての繊細な魂の救済ではなく、「クリスティーナ・アギレラ」というかぎ括弧つきの存在感なのだ。だからこんなプライヴェートなアルバムでも、少人数の閉じた環境でこねくり回すのではなく、非常に豪華で幅広い性格のゲスト&プロデューサーを採用し、イメージの構築に妥協は一切持ち込まない。だから、自作自演が全然猿芝居になってない。すごいセルフ・プロデュース力。ご存知のとおり本作の四年後にアギレラは、傑作二枚組みアルバム『バック・トゥ・ベイシックス』で時間の流れも大きくまたいだド派手なベッドタイム・クイーンに転生する。来年にはいよいよ待望の新作。なんか、今回はネプチューンズが動いてるみたいだよ。

12:18 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

僕の頭には「ザ・ストロークス」がついてる

Phrazes For The Young
/ Julian Casablancas

Julian Casablancas-Phrazes For The Young
終わらない音楽の途中
 正直一曲目の“アウト・オブ・ザ・ブルー”を聴いたときにはどうしてジュリアンがわざわざひとりで、ストロークスを離れて、これをやらなきゃいけなかったのかわからなくて、釈然としなかった。アートワークのデザイン性とか、ストロークスから劇的な変化があるわけでもないし、ジュリアンのボーカル、なんか『イズ・ディス・イット』に戻ってないか?とか考えたけど、思い違いだった。めくるめく、芳醇な音楽体験。ストロークスでは絶対に使わなかった楽器多様、エレクトロな戯れまでも見せる。でも、そこにはやはり意味があったのだ、と思わせる。
 ストロークスにとってロックンロールは制約以外の何物でもなかった。デビュー・アルバムの『イズ・ディス・イット』が、完璧すぎるほどに本質的だったから。何ひとつ足し引きすることの許されない、鉄壁のシンプリティ。すべての音にそうあるべき意味と必然があり、これ以上何かひとつでも追加すれば重量崩壊を起こしかねない。ストロークスは肥大したロックンロールがすべてを見失いかけていた袋小路の00年代初頭、すべてをやり直すために、ロックンロールの始まりと終わりの同居する絶対回答を導き出したバンドだった。「完成」を鳴らしてしまったバンドが、その後にいったいどんな責任を果たせるというのか。でも彼らは『ファースト・インプレッションズ・オブ・アース』で、熱く、高らかに明言した。ロックンロールとはそもそも、未完成で構わないコミュニケーションなのだ、と。湯気のようにそこからこそ立ち上るノイズなのだ、と。だからひとりになっても、ジュリアンは歌ってる。ここに詰め込まれた、決してロックンロールの本質にはなり得ない無数の音楽は、歌われ続けることでしか完結しない。そしてそこには、どれだけ声と音に組み替えても狂おしいほどに完結できない何かがあるからこそ、俺はそれを歌わずにはいられないのだ、と。次はストロークス。ジュリアンの旅は終わらない。
19:50 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

あれ

え、なんか今までより字がきれいだって?
そうそう、それもあるけど、字の速さが違うと思わないかい?
なんかこう、ホントなんとなくだけどさ。

というわけで新しいパソコン買いました。
これがいったい古いのか新しいのか安いのか高いのか、
なーんもわかりませんが、とりあえず買いましたよ。
いやーそれにしてもサクサク軽快なんで、
選んだ僕は大正解なんだと思います。

前のパソコンだったら電源入れてネットに繋がるまで一時間半かかるんですけど、
世界と繋がるのに一時間半って、早いのか遅いのか、わかりませんね。


ヘヴン
/ 川上未映子

川上未映子-ヘヴン
世界が拓かれるとき
 そのタイトルが示すとおり、『わたくし率 イン 歯ー、または世界』にしても芥川受賞作となった『乳と卵』にしてもそうだけど、川上未映子はいつだって人間の身体を「入れ物」として扱ってきた。それはつまり、「わたくし」をひとまず収める役割としての器に過ぎず、決して「わたくし」そのものではないのだと。彼女自身は、誰がどう見ても美人であって、それゆえに謂われない批判を受けるようなことも多々あった。でもエッセイとか読んだら、仕事終わって家帰ってひとり、すげー自己嫌悪とかしてそう。綺麗な容姿を生まれ持った自分にじゃなくて、そんな器を必要とした自分に。
 そんな彼女の強い内向性を示すかのように、『乳と卵』までの作品群では必ずと言っていいほど、あの、エッセイのときとまったく変わらない独白調で適度に標準化された関西弁が、いつだって彼女の物語を饒舌にし、ストーリーを引っ張り続けてきた。それを封印し初めて挑んだ長編作品が本作『ヘヴン』。ある意味では第三者的視線で書かれた話だと言えるけど、ここに登場する二人は、やはりひどく内向的な性格の持ち主であり、要するに、川上未映子という人がそうであるのと同じように、「閉じている」。クラスでいじめにあっている斜視の少年と、同じくいじめられながらも「ヘヴン」と名付けた絵を頼りに耐え続ける少女。同じ境遇に落とされた彼らは寄り添うようにして二者完結することで、磁界のような閉鎖性を強固なものへと仕立て上げていく。でもそんな二人きりの楽園も結局は「二対世界」の意図の中、敗北は初めから運命付けられている。それはホントに目を背けたくなるほど陰惨だったけど、でもその後の救済がすごかった。「世界には向こう側があった」。すべての戦いに敗北した少年が、それでも真新しい視座を獲得した瞬間の希望の起き上がり方は圧倒的だった。呪縛のような自意識・自我から解き放たれた川上未映子の見た世界は、これほどまでに美しかった。

18:52 | | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑
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