スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--:-- | スポンサー広告 | comment (-) | trackback (-) | page top↑

マイクロ熱病ソフト

どうも、ここ数日、謎の熱病にうなされてました。
死の床から起き上がり、パソコン開いたら、
立ち上がるまでに三十分、ネットのウィンドウ開くのに一時間。
なんだこれ。
ウイルスか? 故障か?
結局、未解決のまま、
愛しのiPhoneからハロー、みんな元気かい。

パソコン、三年おきに買い換えるのがベストだそう。
いまうぃうぃ言ってる目の前の四年目。
新しいの欲しいけど、パソコンなんてどうやって買えばいいのかわからないよ。
場所ぐらいはわかるけど、なんて言えばいいのさ。

パソコンに詳しい人って不思議だな。
パソコンの買い方なんて誰に習ったんだろう。

あーシークレットウィンドウやってるー!


スポンサーサイト
21:07 | 日記 | comments (5) | trackbacks (0) | page top↑

おもろしさ、タランことありませんデシターズ。

Inglorious Basterds
Inglorious Basterds
役立たずのおっぱいに愛を
 本格的な監督業を開始する前、レンタルビデオ店員として働きながら脚本を書き溜めていたクエンティン・タランティーノ。彼がアニメや日本映画などにも造詣の深い(多分に勘違いを含んではいるが)、いわゆるオタクであることは有名だが、そんなオタク気質な人間が作品に恋をする瞬間、のようなものがあるとすれば、キャラクターとの出会いというのはその中の重要なひとつだと思う。フィギアとか買ったりして細部まで眺めちゃいたくなるような、魅力的で愛しいキャラクター。そしてタランティーノの映画に対する愛はそこだと思う。ストーリーだって当然いつも面白い。でも彼の作品に個性を生み出しているのは間違いなくひとりひとりのキャラクター設定だと思う。だから、意味のないようで気の利いたかっちょいいセリフだってたくさん預ける。一度使った役者も気に入れば何度だって使う。すべてはキャラクターを立たせるためだ。今回はブラッド・ピット主演という異例の起用もあって、彼の演じる「バスターズ」の中心的人物であるレイン中尉は大きな見所のひとつに違いない(『ベンジャミン・バトン』とか『バーン・アフター・リーディング』とか、最近のブラピは絶対に「できない」って言わない姿勢がめっちゃ素敵だ)が、他のキャラだって全然負けてない。第二次世界大戦中、ナチス占領下のフランス、という堂々と胸を張って人を殺すことのできるシチュエーションを用意して、そこで巻き起こる数々の虐殺やら敵討ちやら作戦やら計画やらなんやかんや。でもどれもすんでの所で邪魔が入って失敗、の結果の怒号のような無駄死にというか犬死に。みんな絵に描いたようなイングロリアスな連中ばっかなんだけど、それでもタランティーノの愛を感じるのは、ちゃんとひとりひとりが光り輝ける場所を用意しているところだ。みんなにちゃんとかっこつけさせるのだ。まともさなんて欠片もないけど、自由な美学がうねってる。正真正銘の根っからのオタクが確実なスポンサーもファンも得た上で本気ででっかいことやろうとしたらこんなスゲーのができちまう。ラスト数十分、キャラクターが順番にかっこつけていくシーンの連続は観ていて本当にゾクゾクした。最高。

21:49 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

嘘つきロマンチスト

COSMIC BOX
/ YUKI

YUKI-Cosmic Box
どこにでもいるよ
 人が歌う、ということがいったいどういうことを意味するのか、人並みにしか聴かないし歌わない僕にはよくわからない。ただそれが、絶対的にこの世になくてはならないものだったとは到底思えない。僕たちの喜びや幸せや解放は、何も歌なんかに求めなくても、いくらでも他のところに転がっている。気持ちよくなりたいならもっと手頃な方法がある。でも、だからこそ歌が必要だった、という言い方もできる。人間が本来必要とすべきものではなかったからこそ、誰かは歌を歌わなければいけなかった。それはつまり、キスやセックスと同じ救済ではいけなかった、誰にでも与えられる、誰にでも受理できる喜びではいけなかった。そういう、すんごいちっぽけで個人的な営みだったのかもしれない。だとしたら、世界で初めて歌を歌うことを必要としたそのひとりは、そこにいったいどんな思いを込めたんだろう。世界で初めてのその歌を聴くことを求められたもうひとりは、そこにいったいどんな思いを見たんだろう。わからないけど、それが世界から美しく消えるための、後ろ向きな辻褄合わせの歌なんかじゃなかったらいいなと思う。その方が愛があるから。世界にとっては必要のない嘘でしかなかったとしても、そのふたりにとっては絶対になくてはならなかった真実があると思うから。

 凡庸な言い方で恥ずかしいけど、YUKIは基本的に、明るくて元気でポジティヴな女性だと思う。彼女が自身の音楽にいつだって飛び回るようなポップ性を必要としてきたのはそこの部分の表れに他ならないし、その歌は実際にここまで未来を切り開いてきた。でもそれが、何の根拠もない取り繕った前向きさとはやはり無縁のものだと思わざるを得ないのは、彼女がごく稀に、これまで自分が歩いてきた道程をふと振り返るような歌を歌うからだ。ジュディマリのときからそうだった。それも単なるセンチメンタルな思い出に浸るとかそんなんじゃなくて、過去との距離を未来に向かって計るような歌。ものすごく個人的な感覚で申し訳ないけど、YUKIがそういう歌を歌うとき、僕はいつも時が止まるような気がする。自身のキャリア以前の過去にまで立ち返った“汽車に乗って”。「愛しい呪い」と語るバンドへの決別宣言となったソロ一枚目の『PRISMIC』。『PRISMIC』のジャケ写がとても印象的で、そこには時の止まった少女が蜘蛛の巣に捕らえられたように写っている。あんなすごい表情をしている女の子を僕は他にあんまり知らない。時が止まって、すべての流れから解放されたそこには、いったい何があるんだろうって思う。

 11月18日にリリースされたYUKIの新曲“COSMIX BOX”は長澤まさみ主演映画『曲がれ!スプーン』の主題歌として提供された楽曲で、YUKIは映画のオフィシャル・サイトにこんなコメントを寄せている。「私達が子供だったころ、自分だけが見えている世界がありました。公園の砂場はロケット基地になっていたし、部屋の壁紙の柄は巨大な龍になり夜毎乗せてくれました。どんなに時が変わっても目に見えない意味のある偶然を伝えていくことが、人間の使命なのではないかなあ思います」。タイトルが物語っている通り、映画にはどうやら超常現象やらエスパーやら信じ難いものが色々と出てくるみたい。YUKIの歌にはもともとファンタジー的な要素を含んだものが多く、この曲でもやはりそこの部分は不変だ。そのふたつの共通点とはつまり、想像力が豊かであること。非・現実的であること。理由・根拠がないということ。要するに、実態のない幻想とほとんど紙一重であるということだ。そして、頭の中での想像力のみによって起動させられるという意味においては、僕たちの過去も、すべてが過ぎ去ってしまったいまとなっては、それもまたやはり幻想のひとつと、言えないこともないのだ。人は思い出を美化する傾向にある、と一般的に言われる。そういうことなのだ。
 だがしかし、YUKIがここで歌っていることは、細部を失い幻想へと成り果ててしまった過去を憂うことでも、そんな疑わしい過去しか持てない自分に改めて疑問を呈することでも、もちろん自分勝手に装飾した美しい過去の世界に酔い痴れることでもない。YUKIはこうも言っている。「『COSMIC BOX』は、宇宙とより近く繋がっていたあの頃の自分と会える場所です。信じるも信じないも自分次第」。
 そして、こう歌っている。

      遥か遠い昔から 伝わる言葉も全部無意味だとしても
      誰かが紡いだ 愛と未来の歌をうたおう

 YUKIはやはり、遠い過去のさらにその先に、他ならない未来を見据えている。そして、そんな未来もまた、いま、ここに再生し得ないという意味では、頭に思い浮かべることしかできないという意味では、もはや幻想以外の何物でもないのだ。
 ほんの少しのことで、過去なんて嘘に変わる。ほんの少し、自分の弱さに寄り添ってしまうだけで、そこには取り返しのつかない隔たりが生じてしまう。最もなりたくないと願っていた何者かにしかなれない自分。現在が膠着した時に人が真っ先に疑いの眼差しを向けるのは己の過去である。嘘になって錆び付いた過去は当然一層がんじがらめに現在を縛り上げ、未来への行く手を阻む。そうなれば未来はたちどころに劣化する。繋ぎ止められない過去。失われた未来。その狭間で揺れるこの不安定な現在は、だとすればいったい何なのか。

 前にもやったけど、世界が100の真実でできているとする。おそらくそのうちの99までは、人間が本来必要とすべき、「本当」によってこそ語られるべき真実なんだと思う。でも、その「本当」だけを掻き集めて、組み立てても、世界は完成しない。それじゃあたったひとつだけ欠けてるんだ。「本当」だけじゃ100%の真実は完成しない。なぜなら、その99の「本当」が語り出す真実は、「嘘」の存在を決定的に肯定できないからだ。そこに「嘘」がある、という紛れもない真実を、「本当」は決して許さないからだ。
 歌が鳴り始める場所というのも、ある意味ではここである。世界に必要ではなかった「嘘」が真実を語り始める場所。米の一粒も作らずにぽわぽわ歌ってる人間だって、それでも「生きている」。それは、そこに「嘘」がある、という、そんな喜びにやはり違いないのだ。

 大ヒットを記録したサード・アルバムの『joy』以降、YUKIはなんだかニセモノっぽく努めることに徹しているような印象がある。ここ数年のシングルを並べたら軽薄にさえ思えかねないカタカナの羅列になってしまいそうだし、未だにコスプレみたいな衣装着るし、回るし、宙飛んじゃったりもする。原風景回顧の“汽車に乗って”でついに取ったと思ったウィッグもまた復活した。だいたい37歳であの可愛さっていうのが一番嘘っぽいじゃないか。そんな道化を演じながら、それでもYUKIは、わたしはここにいる、とすべての時から解放されたそのどこでもない場所から高らかに歌うのだ。過去にも、未来にも、現在にも、それが幻想でしかなかったとしても、わたしはどこにでもいる、とYUKIは歌うのだ。
 時が止まった『PRISMIC』のジャケ写をもう一度見て欲しい。なにやらYUKIは奇妙な形に指の開いた左手をそっと掲げて佇み、その指先は初めて出会う誰かに「こんにちは」という未来を告げているようにも、去っていった誰かに「さようなら」という過去を告げているようにも見える。結局、ひとつはふたつであって、ふたつはひとつでしかない。とある真実を、前からなぞるか後ろからなぞるか、内からなぞるか外からなぞるか。ふたつは、その程度の「同じ」でしかないのだ。僕たちは、我を忘れて遊びまくったあの公園の砂場がロケット基地でないことを知っている。ただ念じるだけでスプーンを曲げることなんて無理だって、わかっている。でも、その起り得ない嘘は、ただ僕たちがあの頃のように騙されてやるだけで、本当に起こり得てしまうのだ。

 何にもなくて何もかもがある宇宙みたいな不思議な箱、“COSMIC BOX”。大丈夫だよ。僕たちはそれぞれにそれぞれの奇跡の箱を持っている。どこでもない星の真下には多分僕たちの欲しいすべてのものが揃ってる。正しかったり間違ってたり迷ったり迷わなかったり元気だったり元気じゃなかったり色々しながらもあなたは間違いなくここに「生きている」。だったらこんな世界、生きずにはいられないって、YUKIはずっとそう歌い続けてる。

01:44 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (1) | page top↑

100円で追憶②

前回の続きです。
一枚50円で買えるんですよ。
要は普通のワゴンセールなんだけど、
見てみたら「なんでこれが!?」なビックリ傑作揃いなんだ。

涙出そうなYUKIの新曲については、またゆっくり。

First Band On The Moon
/ The Cardigans

The Cardigans - First Band On The Moon
自虐の妙
 96年。サード・アルバム。名曲“カーニヴァル”の牽引力でもってセカンド・アルバム『ライフ』が日本でも50万枚を超す特大ヒットとなったカーディガンズ。一躍スウェディッシュ・ポップの代名詞へと化けた彼らだけど、その持て余すほどの成功の一年後に発表した本作でもまったく足元が浮ついてないところに清さを感じる。やっぱりイギリスとかアメリカみたいなロックの本味とはまったく無関係のところから出てきたのも大きいのかな。自分たちが本当に鳴らすべきものを、論理や妥協ではなく直感で鋭く捉えていると思う。それは彼ら独特の気だるいポップ・センスの「利き」だ。もちろんニーナのキュートなボーカルに因るところも大きいけど、多分、自分たちが楽しくなきゃ意味ないし、それを実現するに一番相応しい場所を心得てるんだろうなあ。そこのところの直観力が違うわ。カーディガンズの歌の空気感ってどこか絶妙な温度を持っていて、それはメロディが的確に自虐的だからだと思う。ラヴミラヴミ歌っててもそんな自分たちに彼ら自身が全然落ち込んでないし、うっとりもしてない。エモくないのだ。ちょっと離れたところから口の端を上げて鼻で笑ってる感じ。ま、いろいろあるけど気楽にやりましょや。本作タイトルをもじった『アザー・サイド・オブ・ザ・ムーン』っていうアコースティック・テイクとかの入ってる企画盤があるんだけど、実はそれがキャリア史上一番の傑作。


Greatest Tits
/ E-ROTIC

EROTIC-Greatest Tits
歌のおねえさん、とおにいさん
 ちょっと待って! いまタイトル打ってようやく気付いたんだけど、『グレイテスト・ティッツ』て! タイトル最高! やっぱすごいなー、てわけで90年代世界で最も売れたドイツ・デュオ、E-ROTICの初期ベスト盤。世紀の名曲“いかせてターン・ミー・オン”(何言ってんだ)もちろん収録。“いとしのビリー・ボーイ”めちゃ懐かしい! ビデオでコンドーム(ビリー・ボーイ)と精子がアホみたいに闘ってるコミカルな歌なんだ、中学ん時大好きだった。僕はホントに絵に描いたようなシャイ・ボーイ(いとしの?)だったから、こんなあえぎ声入りまくりのイケナイ歌聴いてるなんて人に知られるのがイヤで、ダンスマニア・シリーズ(キャプテンジャックとE-ROTICは毎回みたいに収録されてた)買っても「E-ROTICには興味ありませんけど?」みたいなスタンス守りつつも、人目を忍んでブックレットの彼女たちのページ開いてた。ブックオフで少しの恥ずかしさ我慢するだけで普通にレジまで持っていけてしまった自分にビックリだよ(とは言っても他にも五枚ぐらい一緒に買ってこの一枚のエロさを何とか薄めようと努めはしたが)。なんていうか、リアルなセックスを思ったほど連想させないところが素晴らしい。漫画。幼稚園児の「うんこ」「チンコ」的魔法。はいこれ言ったら全部ちゃらー、はい全部元通りー。おっぱい!

02:09 | 音楽 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

100円で追憶

ブックオフで古いCDが安かったので、
ちょっと個人的に懐かしいなあと思う人たちのアルバムを買いました。
軽く感想。


/ Boyz Ⅱ Men

Boyz2Men-2.jpg
紛れもない傑作
 94年。セカンド・アルバム。ボーイズⅡメンって言ったらやっぱりデビュー・アルバムからのシングル・カットでいきなり全米13週一位っていう記録的な数字を叩き出した“エンド・オブ・ザ・ロード”だけど、あの歌はあんまり過剰に叙情的すぎて、もうホントわざとらしいくらいで、途中で入る「ベイビー、ハニー」みたいな低音の語りとか、モーニング娘。の“ザ☆ピース!”で石川梨華がやってた「青春の一ページって、地球の歴史からすると、どのくらいなんだろう?」ってぼやき(?)と激しくかぶっちゃったりなんかして(BⅡBもモー娘。も中学の同時期に好んで聴いてたんですよ)、モー娘。の方は笑って許せたけどBⅡBのはマジでサブかった。普通の感性で歌作ってたらあんなナルシスティックな語りは絶対に入れない。要するにそれだけ作り物臭かったし、演出過多だったのだ。でも、本作ではそんなある意味で大きすぎた演出に彼ら自身の実力が追いついたというか、ハーモニー(ああこの言葉めっちゃ恥ずかしい)に歴然とした整合性が表れてきたというか、リスナーが自分たちに求めるラブ・バラードを早くもモノにできたのだ。“アイル・メイク・ラブ・トゥ・ユー(全米14週一位)”と“オン・ベンデッド・ニー(全米6週一位。また語ってます、「ベイビー、アイム・ソーリー」)”の二曲連続とか反則以外の何物でもないけど、でも全然くどくない。


Saints & Sinners
/ All Saints

All Saints-Saints  Sinners
お茶目さではスパイス・ガールズには敵いませんが
 00年。セカンド・アルバム。低迷期にあった90年代半ばのマドンナに『レイ・オブ・ライト』というアンビエント・ポップ最高峰の傑作をもたらしブレイクを果たしたウィリアム・オービットの活躍が、オール・セインツの本作においても、デビューから三年でようやくの二枚目という彼女たちの長かったブランクを無きものにしている。それが言わずと知れた名曲“ピュア・ショアーズ”の余りにも大きすぎる存在感。オール・セインツのポップ・ミュージックの魅力はやっぱり肩の力の抜けた、むしろ気だるさすら感じるくらいに脱力した音と声の立ち方だと思うのだけど、ウィリアム・オービットの作るつかみどころのないエレクトロ的空間の中にそんな彼女たちの魅力が自由気ままに散らばっているような楽曲で、そもそもはオービットがダニー・ボイル(『トレインスポッティング』『スラムドッグ$ミリオネア』)の映画『ザ・ビーチ』用に書き下ろしたものなのだけど、映画で観ると楽曲のイメージそのものみたいなシーンで使われていて、物凄く感動的です。他の収録曲も高い普遍性を持ったいい曲ばっか。端正な容姿だけで集められたような安易な女性ボーカル・グループはいまでも世界に数多くありますが、オール・セインツの楽曲デザインの素晴らしさは破格です。

19:01 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

面白さ、タランかったら・・・

Hannibal Rising
Hannibal Rising
過去が現在を凌駕するとき
 ハンニバル・レクターという突然変異的モンスター誕生の真実を描いた、ということになっている本作。第一印象としては、「え!? ハンニバルめっちゃ普通の人やん!?」っていう感じ。いやめっちゃ強いし立ち振る舞いの非・人間的さとかはやっぱ異常だけど、でもまだまだ薄い仮面をかぶっているだけというふうで、いかにもハンニバル的な底力の狂気を感じない。っていうか日本刀振り回してるハンニバルってどうなの? ギャップ? インパクト? タランティーノの『キル・ビル』思い出したの僕だけ? とまあツッコミどころは色々とあるけど、戦争で家族を失ったハンニバルが妹の仇を討つために原体験的風景から昇華していく様子が結構それなりの迫真性を持って物語を引っ張っている。本作で描かれている青年期のハンニバル・レクターが、肉体的には強いけど全然怖くないのは、「復讐」っていうめっちゃ感情的な狂気の理由にしてもそうだけど、言動がまったくもって論理付けされていないからだ。ハンニバルの狂気の正体は、それが根本からガチガチの論理で固められていて、例えば社会的規範としては明らかに「狂」でしかないにも関わらず、法や正義だけではどうにも打ち崩せない現実的な強度を持ち得ている、という理不尽なねじれ構造にこそある。アンソニー・ホプキンスの演じたドクター・レクターの台詞に耳を傾けていると、いったい何が正しくて何が間違っていて、もうどうしたらいいのかわからなくなってくる。机上の空論が平面から3Dの現実として立ち上がる恐怖なのだ。でもまあ、失われた妹の復讐っていうのは、ある意味象徴的でいいかも。復讐、をする側の人間の心、が本当の意味で満たされる瞬間、がもし本当にあるとすれば、それは、仇の首をとる、ということではなく、過去に失われたはずのものがそのままの形で現在に復活する、という非・現実に他ならない。要するに、はなから無茶な話なのだ。でも、錆び付いた過去にがんじがらめにされたハンニバルはそれを求める。過去を冷凍保存して、腐敗しないまま現在に再生するみたいに。失われた過去という幻想に血肉の手応えを与えるために、ハンニバルは完璧なまでの論理武装で不可能を可能に変える。

20:19 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

めんどくさい僕

The Fame
/ Lady Gaga

Lady Gaga-The Fame
ポップとは暴力である
 このアルバムがリリースされたときは他にも欲しい作品が色々とあったから、リード・シングルの“ジャスト・ダンス”のシングルCDだけ買って妥協していたのだけど、今更になってアルバムをフルで聴いてみて、なんでこっちを優先しなかったんだろうと激しく後悔。ユーチューブとかで観るの超めんどくさいからあんまりチェックしてなかったんだけど、他の楽曲のタイトルもちゃんと知ってたら絶対もっと早く買ってたのに。“ラヴゲーム”“パパラッチ”“ポーカー・フェイス”“マニー・ハニー”“ペーパー・ギャングスタ”……もう言葉選び完璧。センセーショナルな女性シンガーは、特にここ数年間、雨後のタケノコ式に次々と出てきていたけど、たとえマドンナを聴いて育った世代だといっても、いざ自分の番に回ってくると、みんなとても不器用だったと思う。その点、ストリッパーとかも経験して業界の裏側からの叩き上げで出てきたところが大きいのか、レディ・ガガは根性が違うなって思う。身も心も磨り減らした分をそのまま言語化したような大胆なタイトルに虚飾は一切ない。
 ポップ・ミュージックとはある意味で強弁である。どれだけくだらないことやはしたないことを言っていても、音に力がある方が絶対に勝つ。その、ポップ・ミュージックにおけるひとつのねじれた真実を改めて立証するようなアルバム。完璧にキャラ立ちした佇まい。キャッチーすぎるメロディ。ほとんど力技に近い強引な低音。リトル・ブーツとかラ・ルーなんかは時代との間に計算による呼応関係を結んだような、そんな瞬間芸的な印象があったけど、レディ・ガガはこの次も聴きたいと思った。この二十一世紀の愛すべきグラマラス・ポップには乗っかったもん勝ち。

00:28 | 音楽 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

Michael Jackson's

This Is It
This Is It
幻でも踊る
 これはもちろん、『オフ・ザ・ウォール』も『スリラー』も“ウィー・アー・ザ・ワールド”もリアルタイムで経験していない、マイケルとはテレビで伝えられる奇怪な騒動以外に何の接点も持たない世代からの感覚でしかないけれど、マイケル・ジャクソンという人は、言うなれば、考えるまでもない人、だったような気がする。あれこれ考えるまでもなく、変で、あり得なくて、すんごい、キング・オブ・ポップ。なんていうか、世界でたったひとりだけ明らかにキャラ立ちしてるような人で、そこに疑いの余地はなかった。でも、今年の六月にマイケルが死んで、それがちょっと変わったと思う。みんな考え始めたのだ。マイケル・ジャクソンという人はいったい何者だったのか。彼が残したものとはいったい何だったのか。マイケル・ジャクソンという改めて語るまでもない明確なキャラクターについて想像し、再検証する。あくまで一面真実でしかないけれど、それは、マイケル・ジャクソンというただでさえ嘘っぽかったキャラクターを、さらなる強固な幻想の人にビルドアップさせる行為だと思う。勘違いしないで欲しいけど批判とかそんなんじゃない。去ってしまった人の過去に思いを巡らせるという行為は、絶対的にそういう意味を含んでいる。もはや実像を結べない以上、僕たちがいま考え得るマイケル・ジャクソンという過去は、それがどんな姿であったとしても、すでにここには存在し得ない虚像でしかないのだ。この映画を観て思うことは、踊る、という行為は、ある意味で、自分という人間に限り無く近い幻想を見せるコミュニケーションなのかな、ということ。少なくとも、パフォーマンスとしてのダンスは、そうだと思う。でも多分、実際に踊ってる人にとってはそんなのそれこそ「考えるまでもない」ことで、マイケルも、なんで自分が地球上のほとんどの人がやったことないような速さで回転してるのか、なんて考えたこともないだろうし、そこについては他の誰よりも一番わかってないと思う。それでもマイケルが踊るのは、それが彼にとっての解放だからだ。マイケルのキャリアは常に誤解の付きまとうものだったと思う。こんなんじゃない。こんなのは自分じゃない。だから踊る。それが自分そのものではなく、「限り無く近い」ものでしかなかったとしても。だって二日後には死ぬはずなのに、マイケルが踊ってるところ見たらそれだけで未来を感じるんだ。たとえ幻想でしかなかったとしてもマイケル・ジャクソンは踊ることを止めない。マイケルはそう言ってる。

20:45 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ある意味では一番アホ?

アホ。

「アホ」って言った方がアホや。

「『アホ』って言った方がアホ」って言った方がアホや。

そんな、合わせ鏡のようなアホの応酬の最果てにいるのが、
ハンニバル・レクターという男だ。

Hannibal
Hannibal.jpg
世界一口喧嘩したくない男
 この作品が海外で具体的にどう評価されているのかは知らないし、そんなことは実はどーでもいい。ただ、特に映画に明るいわけでもない僕でも、狂人・レクター博士の狂気が猛威を振るうこのハンニバル・シリーズが、日本における少なくとも一般的なレベルで、正当な評価を得ていないということだけは十二分にわかる。本編に登場する所謂「脳みそ喰い」シーンの鮮烈さから、視覚的な意味においての暴力イメージばかりが先行してきた印象があるが、実はこれほど映像化に向いていない話も珍しくて、それはなぜなら、レクター博士という人間の暴力はいつだって目に見えないところでこそ効果的に機能する代物であって、その正体とは何かというと、それは他でもない「言葉」なのだ。天才精神科医であり、地下牢という下界を眺めることすらできない閉鎖空間に閉じ込められてきた彼のプロフィールがすべてを物語っている。彼は、いつだって「目に見えないもの」を見ようとしてきた。その究極たるものが、言葉だ。ここでの言葉には、当然のように文字や音としての意味は希薄である。彼が獲得した最大最強の武器としての言葉は、想像力を喚起する装置としてこそ最も重大な意味を持つからだ。例えば、本作でレクター博士は、彼のもとを訪れた刑事に向かって、こんな言葉を吐いている。「人は考えを言葉にしない。ただ黙って、あなたの出世を拒む。すまん、許してくれ。わたしは何でも言葉にする質でね」。こうして切り取ってみるとなんでもない台詞だが、ここに込められた真意とは、考え・言葉こそが個人の世界というリアリティそのものであり、例えば内向的な人間が閉鎖的な自己の内側にファンタジーの世界を広げる傾向にあるのとまったく逆で、すべての考えを言葉に変えて自己の外側にアウトプットすることは、自己の外側にこそ個人の世界を広げる試みであり、だとしたらそれは、個人の世界が全世界を飲み込む強靭さを獲得し得ることを意味するのではないか、ということ。ちょっとややこしいけど、「自己」という漠然とした概念を内包する器を、自分の肉体と設定するか、肉体の外側すべてこそが容量とするか、ということ。内側と外側の関係性が食い違っているのだ。閉じられた箱の内側が、本当に「内側」かどうかなんてわからない。それは箱の外側を閉め出すという意味においては確実に内側だが、内側を外側から閉め出すという意味においては紛れもない「外側」なのだ。レクター博士の言葉には、そういった実際に視覚することのできない想像上の事実を示唆する非情に観念的なレトリックがあちこちに散りばめられている。それを日本語で簡単に言ったらどういうことかというと、要するに「屁理屈」だ。この頭のイカれたおっさんが、毎回結構危うい状況に追いやられても実に都合よく、最後に必ず勝っているのは、この物語における全世界が結局は彼個人の内側でしかないからだ(彼の妄想とかそういう意味じゃない。一応)。目に見えない言葉の幻想が実在する肉体をも凌駕するその圧倒的な矛盾にこそ、この物語の本当の戦慄は潜んでいる。

03:03 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

触れたい

Manners
/ Passion Pit

Passion Pit-Manners
星を光らせる
 個人的な話からで申し訳ないけど、意識、というやつが嫌いだ。こいつがいっつも邪魔してくる。自分で気付いてしまったり、人に言われたり、今まで無意識だったところにコイツが行き届いてしまうと、たちどころに限界の壁が現れて、それができなくなる。~すればいいんじゃない?とか言われたらもうお仕舞い。お願いだから僕を閉じ込めないでくれよって思う。でもそんなのもちろんただの言い訳にすぎなくて、ただ怖いだけだ。意識で感知できる未来、つまりは、起こり得る未来が怖いだけだ。だから自分は、いっつも起こり得ない未来にばっかり期待して、楽してきたように思う。起こり得ない未来は、起り得ない、というそのままの意味において、ただの幻想に過ぎないから。絶対に起こらないことがわかっているから、そこで頑張らなくていいことがわかっているから、負けないことがわかっているから、意識とまったく無関係の場所にあるそれには、希望が持てる。この自作自演の猿芝居はいったいいつになったら終わるんだろう、って考えてる一日の大半で現実的な未来はどんどん先細っていくのに、それでもまだ期待しちゃうんだ。僕ひとりのために世界が狂う日がやってくるんじゃないかって。
 この人たちもそういうタイプの人間なんじゃないか、とふと思った。「僕を見て。僕はずっとこんな状態でい続けるの? そして今にも誰かが僕をさらいに来てくれると夢を見る。毎日、目を覚ましたまま横たわり、今日こそは、と神に願う。だけど僕はここにいる。ここに立ってる。いつになったらわかってくれるんだ」とか歌っちゃう“ザ・リーリング”なんていかにもだけど、僕が一番やられたのは一曲目からそっこうの“メイク・ライト”。タイトルがいいよな。目を覚ましたまま夢見ようとするような人間がその空想の世界でともす明りってなんだって言ったら、星だ。とにかくすごいアルバムなんだけど、とても紙一重の傑作だと思う。僕みたいな人間は聴かない方がいいかも。こんなの聴いたら、何にもしてない自分を肯定しちゃうから。手の届かない星を光らせようとするんじゃない。例えば昼と夜があるように、いま光っていないそれが、僕の感知し得ない世界のどこかでは光ってるかもしれないって信じる力こそ、本当に必要とすべきなのに。

02:04 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。