スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--:-- | スポンサー広告 | comment (-) | trackback (-) | page top↑

最近

ジャスティン・ティンバーレイクとかブリトニー・スピアーズとか聴いてるんですよ。

中学生の頃は、なんでうちの中学にはブリトニーがいないんだろう、
って真剣に考えて夜眠れなくなってた。

今日バイト帰りに聴いた一枚。

Future Sex / Love Sounds
/ Justin Tmberlake

Justin Timberlake-Future Sex
演出が効いてる
 ミッシー・エリオットの『ソー・アディクティヴ』なんか聴くとすごい思うんだけど、プロデューサーとしてのティンバランドはつくづくシンガーをサイボーグにする人だと思う。ネプチューンズをプロデュースの中心に置いた前作『ジャスティファイド』とこのアルバムの間にある隔たりはまさにそこにあって、ネプチューンズがいつだって生身の人間の息づかいを求める一方で(機械とじゃれ合いまくったN.E.R.D.のサード・アルバムでさえそうだった)、ティンバランドはむしろその本来生身であるはずの肉声をいかに機械的に扱うかというところに深く焦点を合わせてきたような印象がある。ジャスティン・ティンバーレイクのソロ二作目である本作を牽引しているのは疑いようもなくティンバランドその人で、大ヒットを記録しながらもリリース当時に「ティンバランドの新作でしかない」という揶揄が持ち上がったことは正直頷ける。実際、僕も初めて聴いたときに思い浮かんだイメージは、ゾンバ最盛期を支えたイン・シンクのあの操り人形ジャケットだった。でも、否応でもセックスを連想させるこのアルバムと前作のいったいどちらが本当にセクシーだったかという議論になるとそこはもう本当に好みのレベルの話でしかないし、僕なんかは、やっぱ前作の“テイク・イット・フロム・ヒア”には勝てんわな、とか思ったりもする。要するにふたつの間には明確な優劣なんて付けようがなくて、両方とも素晴らしいアルバムに間違いはないし、ただそこからわかることは、ジャスティンが非常に恵まれた場所で音楽と向き合うことができている、という幸福な事実でしかない。でも、ジャスティン・ティンバーレイクというシンガーはそもそも、優れた演出が背後にあってこそ映える人だと思う。当然のことを言っているみたいだけどここが絶妙で、なんというか、卵の黄身のような人なのだ。それそのものではいつ弾けてもおかしくない危うさを抱えていながらも、白身っていう支えがあるからこそバランスを保てる。それでいて、頼りない黄身にこそきちんと核が宿っていて、濃厚な味わい、みたいな?

スポンサーサイト
01:52 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

i love you in the morning

A Weekend In The City
/ Bloc Party

Bloc Party-A Weekend In The City
闘争の果て、世界を肯定するとき
 ブロック・パーティーが他の同世代のバンドに比べてひどく冷めた印象を感じさせる理由は、ギターの音がかなり意識的なレベルで排除されている、というところにあると思う。現時点での最新作となる昨年の『インティマシー』はそれをさらに深く実践した非常に実験的なアルバムだったし、本作収録曲の音の構成を分解してみても、ギターの音が序盤から登場する楽曲はとても少ない。ブロック・パーティーの楽曲は基本、ロックとの接点を保ちつつも、ダンス・ミュージックとしての機能性をとても高いところで維持している。要するに、楽曲を牽引するものはメロディでも言葉でもなく、他でもないビートなのだ。それは実際の楽曲を聴いてみれば一発でわかる。感傷的でない故に冷静なのだ。魔女狩りやケリー自身のトラウマティックな過去をモチーフに世界への挑戦状を叩きつけるようなこのセカンド・アルバムにおいてもそれはもはや大前提で、つまりは、こんな醜悪な世界で力強く生き延びるためには感傷的になっている暇などない、ということなのだろう。ブロック・パーティーの楽曲はギターに限らずあらゆる音が本質の周りをグルグルと旋回するような作りになっていて、言葉でさえも、その中心に切り込んでくることはまず滅多にない。タイトルやジャケットを見てもそう。センチメンタルには片足でさえもつっ込まない主義なのだ。あくまで外側からの冷静な俯瞰視線を貫く。でも、本作ではそこの部分にとても重大な綻びが見える。ラスト三曲、特に、“アイ・スティル・リメンバー”と最終曲の“SRXT”。明らかに、明らかにギターが主導権を握っていて、冷静でいられなくなっている。実際、ここで歌われていることは、彼らとしては非常に例外的に、パーソナルな意味での「あなた」についてだ。でも僕は、あらゆるブロック・パーティーの楽曲の中で、この二曲が圧倒的に好きだ。所詮学生バンドと鼻で笑っていたオアシスのリアムでさえ、“SRXT”を初めて聴いたときには三十分間も伏せって枕を濡らしたという。それだけ感傷的な楽曲である。終盤の間奏でのギターは、過剰なほどの叙情性で溢れている。正確なリズムやビートでさえも決して測り知ることのできない何かがそこには必要だったからだろう。最近、バイト先から歩いて帰る一時間、このアルバムばかり聴いている。ジャケットみたいな、高速道路の外灯に照らされてオレンジを帯びる夜の町が、すごく綺麗に見えて嬉しいんだ。世界に悪態ついて過ごす人生の大半それ以外の場所で、それでも世界がこんなにも美しく見える瞬間が間違いなくあることを、彼らは本作の最後で歌っている。

02:30 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

かかし

こういう映画のスタッフロール見たら
「嘘つけ。そんなに大人数の大人が関わってるわけないだろ」
って思う。

あと、アルバトロスの映画観た後に、
ワーナーのオープニングのやつとか観るとすごい期待しちゃうの僕だけですか?

案山子男
案山子男
超元気系?ホラー・ムービー
 原題は『Scare Crow』。「キモイ」という哀しすぎる理由だけでいじめられ、担任教師にも「話しかけないで」と一蹴され、貧乏臭いトレーラーで共に暮らす母親は毎晩のように行きずりの男を連れてくる。そんな恵まれない境遇の少年がある日、唯一の友達だと思っていた女の子といじめっ子のキス・シーンを目撃し、自暴自棄。色々あったりなかったりして、結果、母親とファックしていた、帽子をとったときのマリオみたいな男に意味もなく殺される。が、自分が頭に藁が詰まっただけの何の悩みも知らない案山子だったらよかったのに!という意味不明な願望を抱いていた少年の怨念は、殺害現場のトウモロコシ畑に立てられた一体の案山子になぜか都合よく乗り移る。それからはもう、恨みとかほとんど関係なしに、訳もわからず人が死んでいく。バイト先の知り合いと「やっぱ映画はエログロだよね!」とか頭の悪そうなこと言い合いながら期待して借りたのに、特にエロくもなければグロくもない。役者は揃いも揃ってカリフォルニアの日の光を全身に浴びて自由気ままに育ったようないかにもアメリカン・ハイスクールな少年少女たち。なんか案山子男、ホラー映画なのに、人殺すときに変にアクロバティックなアクション披露するし、死体を発見する子どもの「俺、超クールな死体見つけたよ!」みたいなリアクション軽すぎ。事件が起きるのが余りに昼間すぎて、案山子男の住処のトウモロコシ畑が次第にサトウキビ畑に見えてくる……ざわわ。と、これは実際ホラー映画としてどうなんだろう?と首を捻りたくなるところ盛りだくさんで、全体的なイメージとしては、かなり明るい。元気。ホラー?って感じ。でも、どうやら『案山子男2』なんていう続編もあるみたいなんですが、それが全然気にならないところとか、それどころか『案山子男 オン・ザ・ビーチ』なる別バージョンまであるらしく、それにいたっては昼間のビーチに案山子って、ちょっとシュールすぎてホラー映画としての大切な何かをもう完全に放棄しちゃってるとしか思えないところとか、そういうの全部含めて好きです。ゲラゲラ笑いました。

07:17 | 映画 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

日の差さない場所なんてない

Out Of Ashes
/ Dead By Sunrise

Dead By Sunrise-Out Of Ashes
日のあたる場所を求めて
 一時期もてはやされたヘヴィ・ロック/ニュー・メタルのバンドが皆一様に音に最強のヴァイオレンスを求めたのには理由がある。それは、せめてサウンドに明確な手応えでも持たせなければ、自分たちの論理を肯定することができなかったからだ。中指を突き立てて醜悪な世界を罵倒する、はっきり言ってそれだけだったからだ。リンプビズキットなんかいい例で、実際には腰パンしてイキがってる田舎の不良程度のボキャブラリーしか持っていないのに、そこにウェス・ポーランドっていう天才ギタリストが居合わせたばっかりに、目に見えない音の幻想がバンドの実態を誤魔化しちゃって、歌い手も聴き手も勘違いして仕舞には『チョコレート・スターフィッシュ~』なんていう今聴いても引くぐらいすんごいアルバムが出来上がっちまった。でも、それはただ音の筋肉で武装しただけの代物に過ぎなかったから、ウェスがバンドを一時離脱した途端にギクシャクし始めて、その後、リンプは当然のように淘汰されていった。僕も夢中になっていた時期があったけど、今になってあのシーンを振り返ってみたら、知性と呼べるものを持っていたのはデフトーンズとスリップノットとリンキン・パークの三組みぐらいしかいなかったんじゃないかと思う。
 そういうわけで、リンキン・パークのボーカリスト、チェスター・ベニントンによるソロ・プロジェクト=デッド・バイ・サンライズのデビュー・アルバムが本作。リンキンはヘヴィなサウンドを追究してもそこに絶対に「ファック」という暴力は必要としなかった。リンキンの良識は「外さない」ところにあって、でもだからこそ極端に振り切れず、どこにも行き着き損ねたような印象すらあった。でも07年の『ミニッツ・トゥ・ミッドナイト』でそれも変わった。ファンの間では未だに賛否両論のアルバムみたいで、なんでわかんないの?バカじゃないの?って思うけど、あのすんばらしいアルバムで初めてリンキンの音楽はリンキンのモノでしかなくなったと思う。このデッド・バイ・サンライズのファーストを聴いて思うことは、音楽性はリンキンと大違いだけど、その根底にあるチェスターの理念はまったく同じだっていうこと。彼はもちろん、世界が罵倒に値する、醜悪な場所であることを知っている。本作で歌われている終末的な世界の風景――しかしそれは、そもそも世界とは終末的な場所でしかない――ということも彼は当然知っている。だからこのバンドの名前はこうでなければいけなかった。そして、世界の悪事を覆い隠す完璧な暗闇なんて存在しないことまで彼は知ってしまっているから、“イン・ザ・ダークネス”という自分自身の内側に巣食う暗闇について、彼はここで歌わずにはいられなかったのだ。歌うことは、チェスターにとって「解放」以外の何物でもないんだと思う。彼の歌声はいつだって自分が生きる世界を肯定してきた。だからこんなにも力強いんだろうな、って思う。

20:36 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

みんな大好き

Little Miss Sunshine
Little Miss Sunshine
大きいのが幸せ
 超大好きな映画。この映画のラストシーンを観て思い出すのは、「ピザ」って十回言って、ってやつ。「ピザピザピザ……」って十回繰り返したら、「ひじ」は「ひざ」になる。明らかに間違ってて、でもそれが楽しい。なんていうか、「ピザ」って十回言った後だったら、もう「ひじ」は「ひざ」ってことでいいじゃん、みたいな感じになれるところが好き。この前知り合いとのメールで相手が何言っても「おっぱい」って返してたら、最初は「はぁ?」「何言ってんの?」「ちょっとちょっと;」みたいな感じのリアクションだったのに、最後には向こうも「おっぱい?」ってまあ確かに「?」はついてたけどそう言ってくれて、アレはマジで涙が出るほど嬉しかった。どんなに脈絡がなくても、十回聞かせたら相手に「おっぱい」って言わせることだってできる。「ピザ」とまったく同じ原理。取り留めのないこととか明らかに変なことだって、何回も繰り返して積み重ねていったら、いっぱい掻き集めて大きくしていったら、もうそれはそれでいいんじゃない?みたいな境地に辿り着ける。僕からのお願い。「10」って十回言ってみて。言い終わったら考えて。じゃあ、「90」の次の数字は?
 この映画はそういうこと。無口とか自殺未遂のゲイとかエロじじいとかぽっちゃり娘とかで構成された、社会に何ら影響力のない、絵に描いたような役立たず一家。でもだからこそ、時にみんな、当然のように傷つく。自分がいかに「ちゃんとしてないか」を思い知らされる。それぞれが自分のどうしようもなさに対応するのに必死で、家族は最初、なんかバラバラだし、ネガティヴな台詞が多い。でも、そんな家族が、ついにひとつになる瞬間がやってくる。それは決して家族みんなが「まとも」になる決意を固めた、とかそんなんじゃなくて、「俺たちゃ役立たずだけどこんなにも楽しいんだ! 幸せなんだ! 踊ることぐらいはできるんだ!」みたいなほとんど開き直り。結局なーんも解決してない。けど、役立たずだってみんなが集まって大きくなれば、最初とは違う何かになれる。「90」の次の数字は、言うまでもなく、「91」。でもここは思い切って「100」って間違えちゃおう。なんかそっちの方が笑えるし。笑える方が幸せ。この映画はそう言ってる。

05:18 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ジャケットが2001年~っぽい

The Resistance
/ Muse

Muse-The Resistance
「わからない」に限り無く近いもの
 スタンリー・キューブリックの映画が好きなんだけど、どれが一番かって言われたら僕は絶対に、スティーヴン・キング原作の『シャイニング』って答える。あれはもうホント一時期気が狂ったみたいに観た。でもなんだかんでキューブリックは『2001年宇宙の旅』だと思う。あれはマジですごい映画で、何がすごいって、人間の頭の中のわからない部分を限りなく完璧に近い形で表現しきってる。基本的に、表現なんていうのは「わからない」ところからしかスタートできない。詳しいことは知らないけど、ウィーザーのリヴァース・クオモが“オンリー・イン・ドリームス”っていう名曲を作れたのは、大好きだけど抱き締めることのできない、その、決して手に入れることのできない至福の手応えに限り無く近いエクスタシーを音楽に求めたところから始まっているに違いない。つまり、わかりたいけどわからない答え、それそのものではなく、それに限り無く近い、一種の絶頂感。だから、どんな表現にしても、完結したものなんてあり得ない。歌がそこに作り出すのは大好きな女の子っぽく見える幻想だけだから。そこには物語を終結させる絶対回答なんて用意されてはいない。だから人は今日も歌を歌う。人間は基本、わからないもの、を、わかりたい。だから、いつだって興味の切っ先が鈍ることはないし、クイズ番組は終わらないし、宇宙なんていう果てしない黒にまでその矛先を向けたりして、とにかく答えを求めてる。『2001年宇宙の旅』は、ある意味でそんな人間の途方もない興味の肥大していく様子を生々しく描いた作品で、主人公が宇宙の最果てで経験するものは、極彩色のサイケデリア・トリップだ。要するに、狂気的に理解不能な人間の想像力である。人間の頭の中には宇宙以上に意味わからないことがアホほど詰まってる。そもそもあらゆる事象を対象化した時に、最も不可解なのは大概にして「自分」だ。想像力は宇宙よりもバカでかい。ミューズの新作を聴いて思うのもそういうこと。どれだけ巨大化しても、どれだけスタジアム級の解放感を獲得しても、ミューズの音楽の背後には常に閉塞感がへばりついてる。演奏側がまだ未熟だったファーストがやっぱ一番顕著なんだけど、それは、ミューズの音楽が結局のところマシュー・ベラミーっていう男の内側で築き上げられる幻想の世界でしかないからだ。で、多分わかってるんだと思う。そここそが宇宙の外側だってこと。

05:03 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

おっぱい星人

Scars
/ Basement Jaxx

Basement Jaxx-Scars
ラヴ、愛、おっぱい
 随分と昔の話をするけど、ダフト・パンクの01年作『ディスカバリー』のいったい何が「発見」だったかって、それは彼らの提示した「踊らなくていい場所」という新たなユートピアの存在だった。名曲“ワン・モア・タイム”中盤で訪れる異様に長いブレイクや、バラード“サムシング・アバウト・アス”は、まさしく喧騒のダンス・フロアのど真ん中で、「それでもあなたは踊らなくていい」という、「うまく踊れないことがあってもいい」という、途方もないほど巨大な肯定だった。多くのダンス・アクトが、音圧を高め、音に無敵の強度を持たせて、ひたすらに踊ることによっての祝祭を強要する中、余りにもソフトでヤワなダフト・パンクの、その、踊ることさえままならない不器用さを認める感傷的なダンス・ミュージックは、だからこそ次作で『ヒューマン・アフター・オール』という、「人間だもの」的な結末へと収束していったのだ。
 ベースメント・ジャックスのこの最新作のタイトルはその名も『スカーズ(=傷痕)』。で、リード・シングルが“レインドロップス”。ベースメント・ジャックスはこれまでファンキーでアゲアゲでチャラいイメージがあったけど、タイトルからしてもう今回は思いっきり感傷路線。でも、やっぱり彼らがダフト・パンクと違うのは、めっちゃセンチメンタルなのに、涙を流しているのに、それでも踊らせる気、踊る気しかない、というところだ。踊ってでもいないとやってられないっていう力技の開き直りとかでもなくて、涙を流しながらでさえ、卑しいほどに踊りたいのだ。オノ・ヨーコにライトスピード・チャンピオンにサンティゴールドまで巻き込むおびただしい数の「feat.」、何でもアリなジャケット、すべての音楽をぶち込んだ珠玉のナンバーの数々。あらゆる矛盾を呑み込んで、その真上と真下とど真ん中とそれ以外で踊りたい。全部欲しい。みんな超愛してる。ベースメント・ジャックスはそう言ってる。

03:55 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

開け放たれた扉の前で立ち尽くす

The Boy Who Knew Too Much
/ MIKA

MIKA-Boy Who Knew Too Much
世界の外側に閉じこもる
 前作『ライフ・イン・カートゥーン・モーション』にしてもそうだけど、なんでこんなにもカラフルでギャラクシーなアートワークなのに、ミーカその人だけが完全に色を失っているんだろう。そこに何か意図が働いているとは思えないけど、ミーカというシンガーの特異さを語るには十分に示唆的なファクターだと思う。内戦中のレバノンに生まれ、いじめにも遭いながら抑圧的な少年期を過ごした彼は、当然の帰結のようにファンタジーの世界にのめり込むことになる。彼のポップ・ソングが凡百の愉快犯たちと違って、例えば本作においても“ウィー・アー・ゴールデン”のような高い瞬発力を誇る楽曲のみならず、“アイ・シー・ユー”や“ピック・アップ・オフ・ザ・フロア”のような芳醇な魅力さえも発揮してしまっているのは、より過剰になったアートワークが映し出すような露骨なフィクションの世界の主人公が、ノンフィクションの世界に住むはずの彼自身に他ならないからだ。そこに歪みが生じている。だから、実際には目も鼻も耳も口も手も足もある、あからさまな「本物」でしかない彼がここで色を失っているのは、その暴力的なまでのポップ性の裏側に隠された悲しみとか、失われた未来とか、そういう複雑なものですらないんじゃないかと思う。ただ「本物」の自分との間に何か明確な違いを作りたかっただけなのかもしれない。だってこの人は、めちゃくちゃ前向きなんだ。なんというか、うまく言えなくてホント歯がゆいんだけど、誰もが何が何でもしがみついていようと必死こいているはずの、現実世界のわずかな後ろ髪を手放しちゃったことへの、後ろめたさが微塵もないんだ。引きこもりのくせに、ヲタクのくせに、根暗のくせに、めっちゃポジティヴなんだ。それがこの人の仮想世界に現実世界と対等の強靭さを与えている。ミーカの部屋はこの世で唯一狂いの生じている場所。世界の外側であるその部屋の内側に、世界は当然のように干渉できない。

17:16 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

シュヴァンクマイエル54歳の時

僕はディズニーのアニメが昔から苦手で、
これ観たら、あーあれは一種の悪意だったからなんだと思った。

アリスといえば、
最近読んだ北山猛邦の『「アリス・ミラー城」殺人事件』は面白かった。
メフィスト作家は意識の絡まっている人たちが多くて
それが独特の毒味を摘出しているように思うのだけど、
北山猛邦のミステリーはそういう意味ではメフィスト的じゃない。
でも「本格」としての説得力は絶対に読み手を黙らせると思う。

Alice
/ Jan Svankmajer

Jan Svankmajer
悪意なきシュールレアリスト
 「シュール」というそれ自体が微妙なバランスで成り立っている感覚を日本語で的確に言い表すことは難しい。諸説あるだろうけど、あえてここではそれを「悪意」と言いたい。シュールとはすなわち「非~」であることだ。理屈に反していたり意外であったりすることだ。自然的でないということ、つまりはそこに現実を歪める何がしかの意識が介在しているということだ。それを僕は「悪意」と呼びたい。本作は鬼才ヤン・シュヴァンクマイエルが88年のベルリン映画祭で上映した初の長編作であり、言わずと知れたルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』を好き勝手デフォルメしてそこにグロさすら引き出してみせた変な作品。でも極言すればルイス・キャロルの原作だって相当にイカれた話で、大きくなったり小さくなったり動物もみんな変だし明らかに始めから首はねる気しかない女王が出てきたりして、児童文学とは言えその異質感は冷静に読んだらファンタジーですらない何かにだってなりかねないくらい危うい悪意に満ちている。ルイス・キャロルがあの作品を作ったのだってアリスという名の実在する少女や「アリス」という愛しい名前そのものに異常な執着を持ったところから始まっていて、それは『鏡の国のアリス』という続編まで生み出している。ヤン・シュヴァンクマイエルは映像作品に頑なに「触覚」を求めた人で、実写では再現不可能なシーンも人形(本作でも体の小さくなったアリスはすべて人形を使って再現している)やクレイアニメを駆使し、映像を切り刻み、想像世界を「目に見えないもの」に留めておくことを許さない。効果音もわざとらしいくらい大袈裟な、一歩間違えればおふざけになってしまいそうな露骨なものばかり使っていて、そこに確かな耳障りを持たせようとしている。でも、短編集とか観たら特にそう思うんだけど、シュヴァンクマイエルの作品はすげー無邪気なんだ。無知な子どもが唐突にあり得ない構図でお絵かきを始めるような。だからこそここには大人が子ども向けに現実を歪める悪意ではなく、ひとりの少年が、自分がすでに大人になってしまっていることにすら気付かないで作ったような、でもその作品は明らかに子どもの鑑賞に堪えるものではないという、そういうナンセンスが効きまくっている。

20:48 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

五千分の一の光景

おーい、いったい何回この本読む気だ?

余裕で今までで一番読んだ本だよマジでこれ。

あの子の考えることは変
/ 本谷有希子

photo.jpg
今日も少しだけ、なんとなく、世界がいつもより美しく見える
 ダニー・ボイル監督作『スラムドッグ$ミリオネア』のパンフに本谷有希子が寄稿したものを読んだ時には相変わらずヘラヘラしてんなーぐらいにしか思ってなかったけど、到底物語の主人公にはなり得ないはずのスラム街出身のひとりの男の子の愛の奇跡を描いたあの作品に彼女がああいう形で関わったのは、ある意味では必然的なことだったのかなとも今は思う。ダニー・ボイルの『トレインスポッティング』『普通じゃない』『ザ・ビーチ』も本谷有希子の『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』『生きてるだけで、愛。』『幸せ最高ありがとうマジで!』も全部、結局のところ言ってることは同じだ。どんなに救いようのない人生にだって必ず希望はある、っていうか笑えない場所なんて実はどこにもない。本谷有希子は、執筆中は完璧に登場人物になりきってるって言われてるらしいけど、要するに彼女の書く物語の登場人物は彼女自身でしかないということだ。あり得ない自意識も狂おしい性欲も凄まじい孤独も。世界に何の役にも立たない変なことばっか考えて、それで自分をがんじがらめにして苦しんでる。彼女の物語に登場するのはそんなどうしようもない人間ばかり。本作に登場する、症候群の存在を信じて自分が臭いと思い込んでいる女の子・日田も、おっぱいだけがアイデンティティーでセフレへの異様な愛を燃やす女の子・巡谷も、もちろんそう。彼女の作品は、そんな社会不適応な登場人物の「生きてるだけで疲れる」の『疲れる』の部分を『、愛。』へと昇華させるためだけにある。文学は学校で習ったりノーベル賞とかもあったりするから高尚なイメージが強いけど、実際は案外そうでもないんじゃねーかと思う。村上春樹が一週間で百万冊売ったからっていったい世界の何が解決されるっていうんだ。そもそも世界に役に立つ人間なんて本当に存在するのか? まあそう言い始めたら身も蓋もないけど、少なくとも文学とか愛とかが世界を救えるとは思えない。でも、あの子の考える変なことだって、誰かひとりくらいは笑わせられたっていいんじゃない?ってこと。だから僕は今日もMDを作るよ。

00:12 | | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。