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今更だけど、本当に素敵な二人組みだ

Dangerous And Moving
/ t.A.T.u.

Tatu-Dangerous And Moving
究極の、究極の一発芸
 輸入盤が洋楽ファンの間でマスト・アイテムになり火の付いたタトゥーのデビュー・アルバムは03年発売の国内盤と合わせてここ日本ではダブル・ミリオンを記録した。が、その人気も同年6月のMステ・ドタキャン騒動で一気に暴落、年末のコンサート会場となった東京ドームの客席は虫に食われたようにガラガラだったという。どうやら現在でも細々と活動しているようだが、一連の騒動以降、日本でのタトゥーに対する認識は完全に「過去の人」に分類され、もう誰も何にも気にしないよ――と、こうして日本におけるタトゥーのバイオグラフィーを数行でまとめてみると、果たして彼女たちは何のために現れたんだろう?と首を捻りたくなること必至である。05年発表の本作もそれなりに売れたけど数字にしたら前作の十数分の一程度。でも彼女たちのやってることは何も変わってなくて、歌唱力は本当に凄いし、音楽にも根源的な不安感みたいなものが終始漂っていて、且つ、メロディアス。タトゥーの本当の魅力は、意味がわからないところにある。こいつらはどうしてこんな、叩かれることが誰にでも想像できるようなバカな真似をやってしまったんだろう。それは、彼女たちには、未来に佇む自分たちの姿が、まったくもって見えていなかったからだ。想像すらもできていなかったからだ。でもそれは、彼女たちが単なるバカだったからだ、と誰が嘲笑えるだろう。いや、嘲笑っていいけど、でも、未来がわからないのは決して彼女たちだけじゃない。こんな時代、予め失われた未来は、案外すぐそこにある。ただ、誰も彼女たちほど威勢よくは狂えない、というだけの話なのだ。でも、彼女たちは、「咲いて、散った」という意味においては完璧に辻褄を合わせてきた。本作には、あまり一般的には知られていないが、日本におけるタトゥー伝説を終結させる珠玉の名曲が収録されている。その名も“Gomenasai”。この曲のサビの部分を、彼女たちはなぜか、忌まわしいはずの日本語で歌っている。「ゴーメナーサーイ」。いや、言えてねーし。謝る気ねーし。

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22:07 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

もしも、

僕が僕のモノマネをしているのなら。
君が君のモノマネをしているのなら。

Mister Lonely
Mister Lonely
あなたはマイケル・ジャクソンよりも個性的だ
 マイケル・ジャクソンとして生きるひとりの男が、マリリン・モンローとして生きる女性と出会い、他者を通じて自分自身を見つめなおすことで、最大の他者としての「僕」という意識を求めて旅立つ。ふと、他の誰でもないはずの自分が、他の誰とも結局何も変わらないような奇妙な感覚に陥る。世界には今この時も六十五億にも及ぶ人間が生息していて、地球という長い歴史の中で考えたら、ひとりの人間なんて砂漠の中の特定の砂粒のひとつのような存在でしかない。まったく同じ形の砂粒くらい、探すことはできなくても他にもいくつかあるだろう。結局のところ、僕たちは知らず知らずのうちに他の誰かの人生をなぞっている。この映画に登場するユニークなキャラクターたち――チャップリンとして、マドンナとして、エリザベス女王として、ローマ法王として生きる人々――が、誰かのモノマネを四六時中していないとアイデンティティーを獲得できないだなんていう滑稽な生き方しかできなかったのは、ただ彼らが「僕」「わたし」という意識の在り処について敏感だっただけの話だけど、でもそうした生き方を選んでしまう人が確かに存在するような曖昧な世界に僕たちは生きているということでもある。
 もしも僕たちが、無意識にだったとしても、他の誰かの人生をなぞっているとしたら、それはやはり僕たちがとてつもなく大きな存在に操られ、手の平の上で踊らされているということになるのだろうか。生まれてくることを選べない時点で、もしかしたらそういうことなのかもしれない。だから人生に悲観した人は、「好きで生まれてきたわけじゃない」「子どもは親を選べない」とか言ってしまう。運命という言葉があるのは、何ひとつ選択することのできない人生と折り合いをつけるための言い訳に過ぎないのかもしれない。それでも、もし何かひとつでも、僕たちが他の誰かのものでしかないかもしれない人生の中で、「選択」と呼べる大胆な行為を果たすことができるとしたら、それは誰よりも自分のそばにいて欲しいと願う「君」という存在との出会い以外には考えられないのではないだろうか。もしも神と呼ばれる存在が、僕たち人間に愚かさを演じさせるためにこの世界を作ったのだとしたら、とことん愚かになってやればいい。それこそ、例えばアデルが「世界に伝えようとしても、あなたに届かなければ意味がない」と歌ったように、あなたが冒した唯一にして最大の選択との間に世界を作り上げてしまえばいい。そばにいて欲しい誰かがいるのなら、あなたは運命のすべてを選んでいる。

21:04 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

冷やし茶漬け

アデルのデビュー・アルバム『19』の中に
“メルト・マイ・ハート・トゥ・ストーン”っていう歌が入ってて、
彼女の歌声が代表曲の“チェイシング・ペイヴメンツ”を超える奇跡を放出するすごい歌。
本当に大好きで、山崎ナオコーラ読んだらずっとそれが流れてる感じだった。

カツラ美容室別室
/ 山崎ナオコーラ

カツラ美容室別室
冷めてるんじゃなくてほんの少し温かい
 山崎ナオコーラの作品を、短い、改行が多い、盛り上がりに欠ける、などなど、形式的なことを挙げて批判するのは簡単だ。デビュー作にして代表作の『人のセックスを笑うな』にしても、扇情的なタイトルや「ナオコーラ」という彼女の名前の与える大段不敵なイメージとは裏腹に、とても静かで淡白な物語だった。読み物として物足りない、と感じる人は、確かに少なくないかもしれない。物語とは、言うまでもなく、単なる文字の羅列ではない。そこには余白があり、破綻があり、とにかく言い尽くせないような色んな思いがある。人は、様々な思いで物語を書く。山崎ナオコーラの作品があくまでもひどく坦々としているのは、それが彼女にとっての物語だからだ。大事件無し、どんでん返し無し、ドロドロ無し。しかしだからこそ、人の心はいつだって本人ですら気付かないようなスピードでゆっくりと、でも確実に凍り付いて、立ち止まってしまう。決定的な致命傷を負わせられたなら、わかりやすい特効薬を使えばいい。でもそんなに単純じゃない時だってあるんだ。むしろ原因とか意識とかわかんない時の方が多い。だから、彼女の作品を読み終わった後の静かな清涼感は、少なくとも勝利的な解放とは程遠い。それはゆっくりと氷を溶かすわずかな温もり。別に力む必要なんてない。「文学」なんていう高圧的な呼び方がまず良くないよな。ほんの少しでいい。ほんの少し。設定温度を今よりも二度上げるだけでいい。山崎ナオコーラはそう言ってる。

02:02 | | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

リアル・スリム・シェイディとか一緒に歌った

僕が中三の頃、
我が家にはカナダ人の女の子がホームステイに来ていて、
彼女が日本からカナダに飛び立つときに、
僕は当時大好きだったデュラン・デュランの
“オーディナリー・ワールド”の歌詞を英語で書いて、
まるで僕が書いた手紙であるかのようにして彼女に渡した。

エミネムとかが好きな女の子だったから、
デュラン・デュランとか絶対知らないだろと思って渡したら案の定バレなくて、
「幸大、あなたは詩人なのね!」と青い目をキラキラさせられて、
罪悪感をまったく感じなかったことを今も覚えている。

ジャケットが好きなんだな。
ジャケットのイメージで『ウェディング・アルバム』として通っているけど、
実際にはセルフ・タイトルだったりする。

The Wedding Album
/ Duran Duran

Duran Duran-Wedding Album
過去も未来も、どこかではなく、ちゃんとここにある
 デュラン・デュランといえばやはり80年代、マイケル・ジャクソンやマドンナらと共にMTV全盛期を築き上げたポップ・アイコンのひとつだが、そんな輝かしき時代が彼ら当事者に与えた疲労感は当然のように尋常ではなかった。商品としての価値のみを問われ続け疲弊したデュラン・デュランの斜陽期は80年代後半から始まり、本アルバムの前作にあたる90年作『リバティ』においては、本人たち曰くただドラッグにハマッていた記憶しかないという。本作冒頭を飾る“トゥー・マッチ・インフォメーション”は「MTVにダメにされた俺。恩を仇で返すのはいやだけど、情報が多すぎる」という恨み言から始まっている。それでもやはり本作がただの不満の捌け口や独りよがりな現実逃避といったありがちな甘えに終わっていないのは、“カム・アンダーン”も確かにいい曲だが、なんといっても普遍の名曲“オーディナリー・ワールド”の存在がデカいと思う。アイドルとして華々しいステージの上のみならず日常生活までも厳しく縛り付けられた彼らの歌う“オーディナリー・ワールド(=普通の世界)”とは。それはつまり、普通の世界なんてどこにもなくて、それと同時に、どんな世界だって普通の世界でしかないというパラドックスである。要するに、人生など、薄い紙切れ一枚の表と裏のような些細なものでしかない。彼らは歌う。「ありきたりな世界へなんとか辿り着こうとするにつれ、僕は生き延びていくことになるんだ」。この曲は、それがたとえ凄惨なものであったとしても、自分の過去をきちんと引き受けて未来に飛びたとうとするかのような、大きな翼を力強く広げてリスナーを受け入れてくれる。もう二度と戻れはしない過去、失われた未来――そんなものに悲観してちゃいけない。ちゃんと現在を生きられない人間には、ちゃんとした過去もちゃんとした未来もない。それはすなわち、過去も未来も、霞むような遥か彼方ではなく、あなたがいる「ここ」に、間違いなくあるのだと。

01:44 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

下手くそな世界にせめてもの愛を

食べ物がなくなったら困るけど、ロックがなくなっても困らない。
だって生まれた時にはもうジョン・レノンだっていなかったんだ。
僕たちは、世界を変えるような重大な責任を、ロックに対して許してはいない。

「君の歌だよ」。
このセリフは、ロックのことを心の底から信じ込んでいない限り、
絶対に吐けない。
ちゃんと騙されてないと言えない。


BECK
/ ハロルド作石

BECK-ハロルド
指先の幻想
 ロック好きなガキがマジでムカつくのは、生きてるなら自分にしかできないことがしたいとか言って、サラリーマンとか堅気とか安定とか心のどっかで見下してるところだ。そんなの、自分に何の関係もない遠くの方ばかり気にして身近で肝心な半径1メートル以内のことが見えてないバカの言うことだと思う。お前の親の子どもとしての役割ができるのは、お前だけだ。お前の恋人の大切な人としての役割ができるのは、お前だけだ。人間なんて、結局のところ、生きてる限り「自分にしかできないこと」しかできない。ロック好きのバカにはそういう単純なことに気付けないタチの悪い連中が多い。ロックの先には自分にしかできないすげーことがあるって心の底から思い込んでるから、ロックへの疑いがそもそも欠落してるから、なかなかブレーキが掛からないし、仕舞には世界変えるとか言って、自分が音楽のみを武器にとてつもなく大きな世界と対峙してるようなふざけた錯覚に陥る。そういう連中は、世界を前にして、ロックがどれだけ役立たずかってことを知らないんだ。ロックがこの世から消え去ることで世界が被る不利益の、その余りのショボさに気付いてないんだ。ロックが世界を変えたことなんて一度もない。なぜなら、ロックなんてただの幻想に過ぎないからだ。ロックには確かな根拠に裏打ちされた可能性なんてどこにも約束されていなくて、世界に飛び交う蚊の羽音程度のノイズでしかないからだ。それなのに、そんな欺瞞に満ち溢れたロックに魅せられるバカはなぜか一向にいなくならない。若者にしか聞こえない耳障りなモスキート音をわざと聞きに行く連中なんかがいるくらい、バカはノイズが好きだから? 違う。もはや当然のように世界を変えられないロックは、それでもお前が手を伸ばした半径1メートル以内までなら何かを起こせるかもしれないからだ。未熟な世界すらも救えないその歌が、お前の指先を繋ぐ大切な誰かとの間に何かを残すことができたなら、そこには、全世界を救うことと、いったいどれだけの差があるっていうんだ。世界を救わなかったロック・ソングなんて、いったいどこにあるっていうんだ。『BECK』が問うているのは、そういうことだと思う。

01:37 | | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑
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