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楽勝で『幽遊白書』超したわ

コンピューターがデータを扱う時の最小単位、「ビット」。
そのビットが表しうる二通りの状態、それが、「0」と「1」だ。

楳図かずおは、その「0」に「ア」をあてて、「1」に「イ」をあてる。
そういうことなんだこの漫画が伝えてることはきっと多分絶対にそうであって欲しい。

コンピューターがあらゆるデータを「0」と「1」で表していくように、
楳図かずおは「ア」と「イ」で世界を描いていく。

わたしは真悟
/ 楳図かずお

わたしは真悟
世界は、僕と君で解ける
 すごい。これが本当に人間の描いたものかと思えるような画が至るところにあった。今の若い世代には、楳図かずおは単なるしょこたんのパーソナル・ゴッドで紅白ボーダー姿の変な人としか映らないだろうが、彼が、本当にペン一本で世界と対峙しようとしている力強い姿勢がヒシヒシと伝わってくる力作にして大傑作。これをリアルタイムで読んでいた世代があったのかと思うと心底羨ましい。楳図かずおという個人のフィルターを通して世界の隅々を見つめたような、ある意味で客観性を欠いた物語(形而上性が強いから仕方ないとはいえ)の世界観は非常に難解でわかりにくい。でも心配しなくていい。鮮やかな理解を得ないまま読み進めてもラストの感動にまったく遜色はない。なぜなら、そこにはどうしても伝えなければいけないものがあるからだ。漫画という形式を拝借し、楳図かずおが自分を絞り抜いて引きずり出した血まみれのメッセージがここにはある。
 男の子と女の子。人間と機械。秩序と混乱。現実と妄想。真実と嘘。この作品からは、そういった様々な対立構造の関係を読み取ることができる。そして、有史以前から現在に至るまで僕たちが一度として解決することのできなかったあらゆる争いは、言うまでもなくすべてこの呆れるほど単純な対立構造を基盤として成り立っている。だから、だからこそ、僕たちはどれだけ世界がひとつに結ばれることを切望しただろう。僕たちは、どれだけ他者への憧れと妬みと好意と嫌悪と幻滅に苦しめられてきただろう。自己と他者は決定的に相容れないのだろうか。機械の角張ったフォルムは、人間の複雑な感情をやはり描き切れないのだろうか。違う。そんな考え方ではいけない。小さなものを、それそのものよりも小さな視点で観察するんだ。最小単位の更にその先のレベルで考察するんだ。想像力の限界を突破しろ。黒と白が交錯するその瞬間には差なんてどこにもない。■で●を描くことは不可能なんかじゃない。想像しろ。それで無理なら今度は大きなものを、それそのものよりも大きな視点で、最大単位の更にその先のレベルで想像するんだ。本作最後のコマには、土星の輪のようにして虹が地球を周回している画が唐突に当てられている。地上から虹を見上げるんじゃない。宇宙から虹と地球の関係性を俯瞰するんだ。そうすればわかる。僕たちはいつだってあの虹の、太陽の、月の、星の真下にいるということが。僕と君という、最小にして最大の他者同士が地球の果てで出会った時に広がる景色がこれだ。本当に難しい作品だけど、わかる。わかるよ。楳図かずおの言ってること。それぞれの「君」に出会いたい僕たちは、冗談よりもバカでかい愛の中にいる。

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02:21 | | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

最近気付いたこと

僕、メガネを掛けると、
なんかカリスマの人っぽくなるんだ。

困ったなぁもう。

あと、26時間テレビの感動のフィナーレに猛烈に感動できない。
あー僕はなんて汚らわしい人間なんだろう。
今、日本で涙を流していないのはきっと五人ぐらいだろう。
まさか自分がその中のひとりだったとはなぁ。
そして残りの四人のうちのふたりくらいはきっと僕の知り合いだ。
類は友を呼ぶっていうしなぁ。
ヘラヘラしてしまうよ。

もう少し、もう少しだけ、まともだったらなぁ。
とか全然思ってない。

Octahedron
/ The Mars Volta

octahedron.jpg
僕たちはでっかいでっかい音楽の中にいる
 幼稚園から中学二年まで、十年間ぐらいピアノを習っていた。発表会でステージの上に立つ時、スポットライトに照らされたグランドピアノを見て思う。こいつには敵わない。重量級の巨大な体躯を必要最小限の三本の細い足のみで支えられた、「これが“美”だ」とでも言わんばかりに艶っぽく黒光りする無駄のない完璧なフォルム。グランドピアノの嘲笑うような黒と白の歯に僕は必死で指を突き立てるけど、ビクともしないんだ。それどころか僕はいつも通りの演奏ができなくてひどく戸惑う。そう、ピアニストはピアノを前にして、二度と同じ演奏を繰り返すことができない。まったく同じ回答を引き出すことができない。ピアノはピアニストを翻弄する。指を走らせ、音階を駆け上がり、なんとかピアノへの打撃の手応えを掴もうとするけれど、ピアノのその完璧な佇まいを前にピアニストは余りにも無力なんだ。二百本を超える絃から奏でられる混乱した音のすべてをその体に内包した僕たちが思い描く「ピアノ」という虚像は、すでにひとつの宇宙を呑み込んでしまっているんじゃないかと思わせるほど圧倒的に、デカい。
 通算五作目のオリジナル・アルバムとなるマーズ・ヴォルタの最新作。前作のようなパンクっぽい性急性は失われていてかつてないほどにメロウ。ファンの中でも好みが分かれそうな作品のような気がするが、彼らには彼らなりのトーンやモードがあるということだろう。結局のところやっていることは同じだから、僕はあんまり気にならないけど。みんな、マーズ・ヴォルタを語るときに「カオス」って言葉を簡単に使いすぎている。なぜならそれはマーズ・ヴォルタが創り出している抽象的で観念的で具象ではなくイメージによって支配された独特な世界観を表すのにその言葉が余りにも便利だからだ。あんまりわかってないけどとにかく圧倒される、ってことだ。じゃあ彼らが生み出すその「カオス」っていったい何なのかというと、それは「音楽」であり、「世界」ってことだ。それそのものではない。それに限り無く近いものだ。なんかしょぼい例えで恐縮だけど、めっちゃ迫真のエア・ギター・プレイをする人の手元に実際には存在しないギターが見えるような気がしてくる感覚にちょっと似ている。目に見えない、実態のない「音楽」の正体、その手応えを、サウンドと言葉とイメージだけでひたすらに掴もうとしてるってことだ。マーズ・ヴォルタは毎年何らかの作品を発表してる。この凄まじい勢いからすると、多分五・六年後辺りには、集中して聴いてたら「あ、今の音見えた! ほら、そこ!」って感じの作品にマジで出会えるんじゃないかな。

20:18 | 音楽 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

愛の人

楳図漫画に出てくる女の人って、
異様に可愛かったりきれいだったりするんだ。

最後に『闇を背負った漫画』って解説が寄せられていたけど、
楳図漫画のいったいどこに闇がある?
愛だ、って思うよ。

蟲たちの家
/ 楳図かずお

蟲たちの家
君だけに届かない
 一般的にはホラー漫画界の巨匠として知られている楳図かずおだが、彼の作品には、実は幽霊やおばけといった霊的なキャラクターはほとんどの場合登場しない。本短編集の表題作に登場する蜘蛛に変化してしまった女性も、「自分で、そう思い込んでいるだけだ」、なのである。本作に収められている別の話には、思い込みだけでたったの三時間のうちに老け込んでしまった男も登場する。昏睡した意識の中で愛する妻を看病した男も、要するにそう思い込んでいるだけだ。彼らはなぜこうも強烈に何かを思い込まなければいけないのか。自らの姿かたちを変化させてまで、自分を取り巻く世界のリアリティを歪めてまで、彼らはいったい何を思い込むのか。
 三十歳を過ぎた童貞男は魔法が使えるという。二十五歳という人もいるし、早ければどうやら二十歳でも使えるらしい。彼らが使う魔法とはいったいどのようなものなのか。それは、その言葉の響きが感じさせるようなファンタジー的な何か、などという魅力的なものでは決してない。童貞男が使う魔法とは、自分が童貞のままでも生きていける世界を捏造する力である。叶わなかった恋を、叶わないままどこかに封じ込めてしまう情けなさである。大好きだった女の子を、もしくは自分自身のどちらかを、無理やりフィクションの世界に落とし込めて、そもそもそれは叶うはずのものではなかったと自らに思い込ませる力ずくの想像である。楳図漫画の登場人物たちはだからこそ頑固なまでに思い込む。失われた愛に直面する勇気なんてどこにもないから。でも、そんな現実逃避は、本当に稀に、奇跡みたいな確率で、人々の心に深々と矢を突き刺してしまうことがあるんだ。届けられなかった思いが、不意に感動的な何かを生み出すことがある。彼らにとっての最高の幸福とは、もちろん大好きだった女の子を抱き締めることだろう。それはもう絶対に叶わない。でも思い込むんだ。それでも自分は生きられるって。そしたらきっとどっかに傷がついて、世界なんて楽勝で変わる。

02:25 | | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

らーいらい

やった!
今月末には単行本化される!

そして夏には新作の舞台で僕の住んでる町にも来る!

あの子の考えることは変
/ 本谷有希子

群像
騙されてもいい嘘がある
 第141回芥川賞候補作。昨日の発表で、結果的に今回の芥川受賞作は磯崎憲一郎の『終の住処』に決定したわけだけど、講談社の『群像09年6月号』(写真)に掲載された本谷有希子の本作は選考会では二番手につけていたほどの高評価だったらしい。『群像』を買って読んだ時にはもうべらぼうに面白いと思ったし、以前『生きてるだけで、愛』で候補作に選ばれたものの受賞を逃しているだけに是非とも今回は、という気持ちもあったのだけれど、やっぱり無理だった。でも、「直木賞はエンターテインメント、芥川賞は純文学」とはよく言われるけれど、もしその選考基準が本当なら、本谷有希子はそもそも芥川賞を受賞するべきではない。「純文学」という言葉が具体的に何を意味するのかは知ったことではないし、個人的な意見でしかないけれど、脚本家を生業とする彼女はむしろ純文学とは明確に隔たれた外野の作家だ。それは、そんなプロフィール的なものよりも、実際の作品を読めば一発でわかる。芥川賞選考委員の山田詠美も本作には「小説でやるべきではない」という的確な辛口コメントを寄せているけれど、猛烈にユーモラスで人の笑いのツボを完全に押さえた彼女の作品は小説よりもやはり舞台の脚本としての機能性の方が確かに抜群に高い。でも、彼女がやはり正当な小説家ではない、そうあるべきではない、と判断せざるを得ない理由は、彼女は自分の作品の中で、結局のところ、同じことしか書けていないというただその一点に尽きる。捨て犬に「絶対」と名付け絶対服従を誓わせた江利子(『江利子と絶対』)、女優を目指したわがまま娘の澄伽(『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』)、鬱で生きてるだけで疲れてしまうダメ女の寧子(『生きてるだけで、愛』)そして本作の主役である自分を臭いと思い込んでいる日田と好きな男を独り占めするために怪物に仕立て上げようとしている巡谷というふたりの女の子は、創作と呼ぶには余りにも本谷有希子その人すぎる。この人は、フィクションで、私小説を書いているのだ。そしてそこに登場する女の子は皆、本谷有希子自身が恐らくそうであるように、バカなくらいに自意識過剰で、救い難い女の子ばかりだ。でも、そんな救いようのない彼女たちは、必ず最後の最後で、厚かましくも、いじましくも、「希望」と呼べるものの手応えを手にして帰っていく。「親なら子どものために苦しめ!」とまで言ってイイ気になろうとする本谷有希子。そんな明らかに間違っている彼女はだからこそ嘘をつく。どんなに間違って失敗した人間だって物語を持っている。それは、「純文学」と呼ぶにはやっぱり陳腐過ぎるけど、とても狂おしく愛しいものなんだ。

00:57 | | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

最後は(笑)って感じで

14歳
/ 楳図かずお

14歳
傷口から捻り出された希望
 世界の終末を描く大作漫画として『漂流教室』とテーマを共有するとも言われている、楳図かずおによる現時点での最後の長編作品。進歩とは名ばかりで実際には自分たちの生きる地球を終末に向かって追い詰めているだけ人間が、世界のあらゆる情報を宇宙船に詰め込んで、新たな生活の場所を求め宇宙に飛び立つ。未来版の『ノアの方舟』のような話。ただし、すべての人間は「14歳」までしか生きられない。本作における「14歳」という言葉は、実年齢としての14歳も意味するし「未熟」ということでもあるし「人間」そのものを示すものとしても使われている。要するに、「限界」ということだ。僕たちは限りある世界に生きているということだ。だとしたら、その限りある世界の必然としての行き止まりに対する悲観さえも超えて、僕たちは如何にして前向きに生きることができるのか。終末の風景に強引に希望を持ち込む楳図かずおらしいパワフルさに満ちた素晴らしい作品。
 表現者がその表現の受け手を圧倒させる瞬間とは世界を捏造するまさにその一瞬に他ならない。「楳図ワールド」とかそんなペラペラな意味じゃない。想像力で現実の世界に追いつこうとしたその一瞬、ということだ。それはある意味では、単なる屁理屈、都合のいい妄想、事実の上書き、といった自分勝手な世界の修正でしかない。その何の裏づけも根拠もないデタラメは、しかしだからこそその世界を捏造した本人でさえ取り返しのつけられないほどに力強い。実際には存在し得ない風景を平気で造り上げそこに無理やり深みを持たせようとした太宰治。誰がどう見ても間違いまくったその嘘で自分を騙し踊り続けたマイケル・ジャクソン。彼らが嘘をつかなければいけなかった理由は、他の誰もが大人しく受け入れていく青春期的な苦しみにいちいち立ち止まり、結局そこに留まって本を書いたり歌を歌ったりだなんてくだらないことしかできなかった彼ら自身がそもそも救いようがないほどに間違った存在だからだ。本来なら存在するべきじゃなかった「嘘」が、間違った自分にでも存在できる場所を作り出すために強引に世界を歪ませる時、しかしそこには息を呑むほどに圧倒的な何かが生まれる。楳図かずおは、本作で、世界を傷つけるそのペンの切っ先を、もはやまったくコントロールできていない。楳図かずおの屁理屈と妄想と上書きが、制御されずにもうとんでもないことになっちゃってる。ちょっと。宇宙は一匹の虫だったって。とにかくすごいんだ。そして、そのすごさの正体こそが、間違ったひとりの人間がそれでも全力で生きようとする生々しさで、僕が「希望」って呼びたいものなんだ。でも、「視聴率200%越え」はさすがにちょっとやりすぎだと思うよ。

02:07 | | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

上々だね!

ポニョを「メス」と呼ぶな。

ポニョは、「おんなのこ」だー!

バッカみたいだ。


崖の上のポニョ
崖の上のポニョDVD
夢を覚めさせなくした女の子
 女の子は魔性を秘めている。女の子は「謎」を創り上げる生き物でありそれは理屈や統計ではなく強固なまでのひとつの真理である。宮崎映画での女の子の立ち居地はまさにそれを物語っている。特に、個人的な趣味世界の『紅の豚』を除く、『風の谷のナウシカ』から『もののけ姫』までの五作。ナウシカ(『風の谷のナウシカ』)、シータ(『天空の城ラピュタ』)、サツキとメイ(『となりのトトロ』)、キキ(『魔女の宅急便』)、そして、サン(『もののけ姫』)。彼女たちは誰よりも魔法に近く、自然という息吹に近かった。そしてそれは、彼女たちが同時に他の誰よりも全能に近かったということを意味している。宮崎映画における魔法や自然とはつまり、そういうことである。そしてだからこそ、そこに登場する全能から程遠い男性的なキャラクターは、彼女たちに畏怖と憧憬の眼差しを送りながらも、ただただ圧倒される他なかった。魔法、自然、全能とは、いつだって僕たちの望む夢そのものだ。本作に登場するポニョは、もちろん言うまでもなく、そんな宮崎映画の一連の系譜を再び引き継いだ、魔法を使う魚の女の子である。しかし、本作で、宮崎駿が描き続けてきた全能への憧れは、見事なまでに鮮やかに反転している。『魔女の宅急便』は、キキが、一度は失いかけた魔法の力を最後に再び取り戻すからこそ、希望の物語だった。『崖の上のポニョ』は、ポニョが、最後の最後に魔法の力を失うからこそ、これもまたやはり希望の物語なのだ。これは妥協や打算ではない。まさに息を呑むような圧倒的反転である。そう、僕たちはもちろん魔法なんて使えない。僕たちは自然と対峙すべき場所に佇んでいるし、そこはやはり全能とも程遠い。だからこそ僕たちはそれに強く憧れるわけだが、憧れとは、つまりは不可能ということだ。ファンタジーは、リアル・ライフではあり得ないということだ。だとすれば、僕たちはそんな手の届かない夢を見てしまう自分たちをどのようにして祝福することができるのか。宮崎駿は言っている。それは「夢を夢のままにする」ことだと。全能にはなれない自分自身を「それでいい」と認めてやることだと。そう、魔法なんていらない。だってそうじゃないか。僕たちは、顔も名前もわからない、置き忘れられたガラスの靴の持ち主を探し求めているわけじゃない。「僕」が求めているのは、いつだって「君」なんだ。だから世界を救うヒーローなんて待ち焦がれないで。そんなにも悲しいことはないから。かっちょいい救世主なんかに「君」を救わせたくないよ。

02:46 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

いやだからもうお願いだからブライト・アイズ聴いてって

First Day Of My Life
/ Bright Eyes

Bright Eyes-First Day Of My Life
君がいるから僕がいる
 いきなりカップリングの話で悪いが二曲目に“ウェン・ザ・プレジデント・トークス・トゥ・ゴッド”が入っている。04年のブッシュ再選による敗北感を引きずったままの状態で05年の初めに無料配信された、「大統領が神と話すとき、次にどの国を侵略するべきかを選びながらビールを飲んだりゴルフをしたりしているのか?」とまで歌い、むき出しの言葉でブッシュを批判したあの忌々しい楽曲である。コナー・オバーストという青年はいつだって、今を生きるとはいったいどういうことなのか、を自身のフォーク・ロックに落としこんで、僕たちに言葉と感情をぶつけてきた。日本でも誰かやってくれないか。国家情勢よりも政権奪取を目的化した政党、縮小する経済、破綻する国民生活。国家の保障なんて何のアテにもならない。いったい何を信じればいい? 信じられない国家が発行する証明書でしか自分を証明できないなんて寂しすぎる。表題曲の“ファースト・デイ・オブ・マイ・ライフ”は、だからこそこの男によって歌われたのだ。「君の顔は僕が生まれて初めて見た顔」「君と会うまで僕は何も見えてなかった」としきりに「君」を「僕」の始まった場所として位置づけようとするこの歌。何もかもが信じられない世界では、人々は拠り所をなくし、帰るべき場所をなくし、行き着くべき場所をなくし、迷子になってしまう。世界にたったひとりの「君」を愛し、信じられるのなら、そこには紛れもない世界にたったひとりの「僕」がいるということだから。これは単なるラブ・ソングじゃないよ。ラブ・ソングというスウィートネスの形を借りた、ひとりの人間の誕生と存在とそれ以降についての切実な宣言だ。そんでもってアートワークみたいなでっかいリボンをつけて、たったひとりの「君」に何かプレゼントできたら、「君」も「僕」に何かプレゼントしてくれたら、もっと素敵になるって歌ってんだ。僕は僕が僕であることを祝福するときにしかこの歌を聴かない。

02:02 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

自分探しの旅とかムカつく

The Beach
The Beach
パラダイスはここだ
 『シャロウ・グレイヴ』『トレインスポッティング』『普通じゃない』と初期三作すべての主演に当時まだ若手俳優だったユアン・マクレガーを起用していたダニー・ボイル監督が、レオナルド・ディカプリオといういわゆる売れ線の俳優を使った四作目。ダニー・ボイル自身は本作でもユアン・マクレガーを使うつもりだったらしいが、それがディカプリオに変更された背景には配給会社からの「もっと金になる役者を」という要求があったとされてはいるものの、本作でのこの起用は個人的には成功だったと思っている。だってなんかユアン・マクレガーにビーチとかパラダイスとかのイメージないもん。もし彼が主演だったら、オール・セインツの“ピュア・ショアーズ”がバックに流れる、プランクトンが星のように光る海でのキス・シーンはこんなにもロマンチックにならなかったと思う。ユアン・マクレガーにはきちゃないトイレの海を泳いで欲しい。意味わかんなかったらとにかく『トレインスポッティング』観てください。
 バンコクで噂される伝説のビーチ。強固な現実世界から隔絶されたその美しいパラダイスを目指す男女のその後。ものすごく印象的なシーンがある。夜の浜辺で、空に広がる無数の星を眺めながら交わされるさり気ない会話。そこでディカプリオ演じる主人公のリチャードは「パラレル・ユニヴァース」という言葉を口にする。本当になんでもない会話だが、実はこれが最後の最後に効いてくる。言うまでもなく、僕たちは永遠に楽園にはいられない。急速に流れゆく世界の中で、ただひとつ時間が止まってしまったかのようなその理想郷は、やはりいつか残酷にも現実の時を刻み始める。それでも、確かに希望はあるのだとダニー・ボイルは言う。彼の映画はいっつもそうなんだ。自分のそんな強い思いを肯定するためなら、ダニー・ボイルは平気で世界を切りつけてみせる。楽園にいたり、いなかったりする僕ら。ダメになった時こそ、余裕がない時こそ、足元なんて見つめていないで、空を見上げてみるべきだ。大丈夫。僕たちはいつだって、あの虹と太陽と、月と星の真下にいるから。「平行した世界」。絶望の淵でなお、あなたは圧倒的な希望の光に照らされている。

01:59 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

無学無知丸出しで

やっぱり『シャイニング』は比類なきホラー映画なんだって思ったよ。

The Exorcist
エクソシスト
トラウマとしてのキリスト
 一応、一般的には、悪魔祓いという様式を借りて、少女の肉体に取り憑いた悪魔とキリスト教の神父との対峙、思いっきり単純に言うと、「悪魔VSキリスト教」、みたいな映画になっているみたいだけど、えー?僕にはキリスト教批判の映画にしか思えなかったけどな。神父のセリフにも出てくるけど、キリスト教ってつまり、こんなこと言ったら理解浅すぎるのバレちゃうけど、パンをキリストの肉、ワインをキリストの血として体内に取り込んで、自己の中に神を見出す宗教でしょう? それって、悪魔に取り憑かれるのと何が違うの? この映画に出てくる悪魔に憑かれた女の子は、自己の中に、それが悪魔であれ神であれ、他者を見出すという行為がどれくらい生々しいことなのかを伝えてるよ。肉を喰らい、血を啜り、他者を自己の中に呑み込むっていうことは、ブリッジで階段駆け下りちゃうくらい超ヤバイことなんだよ。完璧にぶっ飛んでて生臭くてクレイジーな狂気なんだよ。しかもキリストってみんなの罪を背負って死んじゃった人でしょう? それってつまり、厄介ごとしょい込んだ生け贄でしょう? 世界の悪い部分任された人でしょう? それって悪魔じゃん。しかもしかも、何かを信じるってことは、それを自分の行動原理の最優先部分にするってことでしょう? 要するに、理由でしょう? 要するに、言い訳でしょう? 信じてるそれがそうだからそうするんでしょう? ほら、やっぱり取り憑かれてんじゃん。何かを信じるってことは、その対象を、神であり悪魔にするってことなんだよ。そのふたつに差なんてない。敬虔なキリスト教信者と心に悪魔を宿した狂人は同義なんだよ。この映画が伝えていることはそういうことだと思うよ。っていうか、想像すらできないくらい遠い過去の遠いどこかで死んだ誰かなんて信じられないし、そんなやつに取り憑かれたくない。どこにも差なんてないなら、笑顔が素敵な女の子を神にして悪魔にして僕は狂うよ。

02:52 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑
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