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ワンツースリーで踊ろう

マイケル・ジャクソンが死んでから、
バカみたいに踊れるポップ・ソングばかり聴いている。
しかめ面してギターを掻き鳴らすロックなんてアホらしくて聴けない。

“アイ・ウォント・ユー・バック”。
邦題は“帰ってほしいの”。
ジャクソン5の代表曲の、あれだ。

ものすごくシリアスな歌に聴こえてしまうんじゃないかと思った。
でも変わらなかったよ。
ワクワクするポップ・ソングでしかなかった。
大丈夫。
何も終わってないから。


この曲のリリックからは、
マイケル・ジャクソンの有名曲の名前が次々と飛び出してくる。

D.A.N.C.E.
/ Justice

Justice-Dance.jpg
ABCに宿るヴァイブレーション
 ベックは“ハッピー・バースデイ”こそがソングライティングの頂点だと言っていたが、それにタメを張るポップ・ソングがこの世にあるとすれば、それは“ABCの歌”だと思う。そもそもは“きらきら星”のメロディに乗せて歌われたアルファベット学習の歌だが、メロディとの絶妙な親和性もさることながら、「ABCDEFG...」という意味を持たないただの記号の羅列でしかないその軽薄なリリックが発揮するリズム感はちょっと尋常じゃない。日本での“いろは歌”と比べればその差は歴然だと思う(“いろは歌”の解釈の尽きない深さも尋常じゃないけど)。そもそも日本語は抑揚を殺す言語だと思うし、英語は抑揚なしには成立し得ない言語とは言え、よほどのスキルと語彙センスがない限り日本語でのラップが聴くに堪えない悲惨なものになってしまうのに対して英語でのラップが恐ろしいまでにかっちょよく聴こえるのは、言語そのものの内側に秘められた圧倒的なリズム感に因るところが大きいと思う。そういえばティリー・アンド・ザ・ウォールがマイスペで“ABCの歌”のタップ・バージョンの動画をアップしていたけれど、つまりはそういうことなんだよ。
 マイケル・ジャクソンに捧げられたこの曲は、07年、ジャスティスというフランス人青年二人組の名前を世界中に知らしめることとなった。ジャスティスはロックなのか、それともダンスなのか、についての議論はもうすでに消化され尽くしていて、それについて僕が今更言うべきこともないし、明確な答えと言えるものはすでに昨年末に発表されたライヴ・ドキュメンタリー作品『ア・クロス・ザ・ユニヴァース』の中ではっきりと提示されている。ただ今改めてこの曲を聴いて思うことは、世界中のフロアを揺らしまくったこの強烈なヴァイブレーションは、“ABCの歌”とまったく同質のものだということだ。“D.A.N.C.E.”とは機械によって細かく裁断された強引なビートではなく、生身の人間が「ABC...」と呟くところから始まった躍動なのだ。ABCに眠る奇跡のヴァイブレーションを呼び覚ましてしまう、こういう素晴らしいポップ・ソングが稀にポコッと生まれてくる。マイケル・ジャクソンの歌は、そういうものばかりだった。

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01:25 | 音楽 | comments (4) | trackbacks (0) | page top↑

大学生になって一番最初に観た映画だった

A.I.
AI.jpg
まるでコインの表と裏のように
 スタンリー・キューブリックとスティーヴン・スピルバーグという超異例のタッグ作になるはずだったが、本格的な制作に取り掛かる前にキューブリックが他界し、結果としてスピルバーグがひとりで総指揮を務めることとなった本作。五年に一度のペースで映画そのものの力学とその債務を問うような本質のみで構成された作品を生み出す才能と、良質なエンターテインメント・ムービーを数年間で大量生産する才能。そのふたつの才能がそれぞれに生み出す作品は、まるで極端と極端を照らし合わせたかのように、明らかに違っている。スピルバーグは本作で、従来のロボットが決して持つことのなかったある種の「感情」を宿らせたロボットの少年が、それによってこそ限り無く人間に近づくことができたという温かい物語を描いた。あくまでも推論の域を出ない話だが、もしキューブリックが存命だったら、しかしそのあらゆる「感情」、それが例え「愛」と名の付くものであったとしても、そこに猜疑心を抱いてしまうからこそ僕たちは人間なのだと、だからこそ一途な愛を信じたこのロボット少年は限り無く人間に近づくことはできても決して「人間そのもの」にはなれなかったのだと、そんな厳しい作品に本作はなっていたかもしれない。それを想像するのは自由だが、結果的にやや一方の世界観に偏ることとなった本作を語る上で、どちらが優れているかなどという単純な比較評価でくだらないギャップを作り出してしまうことほど愚かな真似はないと思うし、これはただそれだけで非難される謂れなどまったくない素晴らしい映画である。
 キューブリックが本質の映画監督なら、スピルバーグは無駄の映画監督だと思う。しかしそれは決して言葉通りの差異を意味しない。キューブリックは『2001年宇宙の旅』で言っている。すなわち永遠とは一瞬ですらないと。無限と限界、本質と無駄、信じることと疑うこと。そこに、いったいどんな違いがあるだろう。もし僕たちの命が永遠なら、僕たちはきっと「永遠」という概念さえ獲得できずに一瞬ですらない時空の中で凍結してしまっていただろう。ただ、たまたま僕たちの命は永遠ではなかったというだけの話だ。コインを振れば良いんだ。「本当」が出れば信じれば良い。「嘘」が出れば騙されれば良い。それは例えば、本作の人型のロゴがそうであるように、ひとつの輪郭を内側からなぞるか外側からなぞるか程度の「同じ」でしかない。大丈夫。僕は「生きている」から。

00:23 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

レヴューしか載せないブログって書いてる方が一番面白くないんだ

Showbiz
/ Muse

Muse - Showbiz
「僕」という小宇宙について
 ミューズの音楽の持つ特異性とはいったい何かと言うと、それはそこに「マシュー・ベラミー」という他の誰でもないひとりの人間がいる、ということである。99年に発表されたこのデビュー・アルバムを聴くとそれがよくわかる。ご存知の通り、ミューズは特定のシーンの文脈の中から浮かび上がってきたバンドではない。英国メディア特有の過剰包装を施されて登場したわけでもない。初期のチャート・アクションも、他国に比べると本国イギリスでの反応は鈍かったという。今でこそ巨大なスタジアムを丸ごと覆いつくすような圧倒的な世界観を演出している彼らだが、根源的な不安感を呼び起こすエキゾチックなメロディはこの頃から不変と言えどもその世界観はここではまだまだ未完成というか、特にリズム隊が未熟でベラミーのメロディのデカさを低音が支えられておらず、非常に頭でっかちなサウンドに仕上がっている印象を受ける。しかしだからこそここではベラミーのメロディと言葉が映し出す世界観の異様さだけが屹立するように際立っている。「今、ここ」とは、いったいどのような場所なのか。「僕」とは、いったい何者なのか。そんな、そもそも答えなどどこにもないような強迫観念に追い込まれるように自問自答を繰り返し、結局何もわからないままエスケイプする不可解な音楽。そう言うとひどく閉じた個人的な歌のように聞こえるかもしれないが、実際のところミューズの音楽の息苦しいほどの閉塞感とはつまり、ベラミーがひとりで閉じた宇宙と同義なのである。あらゆる事象の狭間で身動きの取れなくなってしまった人間。すべてがあるようですべてがない宇宙の「今、ここ」に生きるということは、すべての人間が「迷子」であるということだ。そして僕たちはミューズの音楽を聴くことで、いつだって、今、自分の立っている場所がいかに脆く、不確定であり、それでいてどれほど強烈な引力を発しているのかということを否応無しに再確認させられる。僕たちは行き先も出発点も同時に失ったまま停滞している。それを暴くその先に未来があるかどうかなんて知らない。でもだからこそミューズの音楽は鳴り止んじゃいけないし、僕たちは生き続けなきゃいけない。絶望するな。

01:11 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

カッチャカッチャ

Four Winds
/ Bright Eyes

Bright Eyes-Four Winds
救世主は多分あなたを救えない
 04年、反ブッシュを掲げブライト・アイズやブルース・スプリングスティーンやパール・ジャムらが共にヴォート・フォー・チェンジ・ツアーを開催するも、ブッシュは結局再選した。その敗北感や9.11以降確実に変わりつつあるアメリカで生きるという事実、人が自らの足元を改めて見つめ直す必要性といった複雑なメンタリティの中で製作されたのが、『カッサダーガ』というアルバムだった。この“フォー・ウィンズ”はそこからのリード・シングルとして07年に発表された楽曲で、同年のローリング・ストーンズ誌の「ソング・オブ・ザ・イヤー」ではなんと栄光の第五位に輝いている(アルバムは全米四位)。
 この曲が画期的だったのは、マイク・モギスのギターやネイト・ウィルコットのオルガンを始め、コナー・オバーストの楽曲が彼の「独白」ではなくあくまで「バンド編成」で鳴らされているということを全面に強調したものだったからだ。聴衆から容赦ないブーイングを受け、やりすぎなくらい物を投げつけられまくるビデオでもそこの部分がよく表現されていてとても興味深い。そもそもこの曲が収録された『カッサダーガ(=フロリダにあるスピリチュアル・コミュニティの名前)』は、そのアルバム・タイトルが示すとおり、人が別の誰かと強く関わり、手を取り合いながら生きていくことを全力で肯定したアルバムだった。“アイ・マスト・ビロング・サムホエア”というタイトルからして素晴らしい歌も収録されているので、そっちも是非聴いてみて欲しい。とにかく、『カッサダーガ』及び“フォー・ウィンズ”の中では、実際に人と人とが出会い、何かしらの繋がりを形成している。「聖書は目が見えず、トーラーは耳が聞こえず、コーランは口が利けない。それらすべてを一度に燃やせば、僕たちは真実に近づけるのに」という印象的な歌詞がこの歌にはある。宗教とかお金とかセックスとかドラッグとか、そしてロックとか、一見自分を救ってくれそうな救世主めいたものが世界には遍在している。信じられそうなものなんて両手に余るほどある。それでも、あなたが本当に寄り添うべき人は、実はいつだってあなたのすぐ傍にいるんだとコナー・オバーストは歌っている。あと、キラーズがシングル“スペースマン”のカップリングでこの歌をカバーしてるんだけど、それめっちゃ聴きたい。

00:30 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

嘘つき

テレビを観ていたら、国営漫画喫茶についての議論が白熱していて、
政治家の人が「日本のエンターテインメントを世界に誇って何が悪い?」
と開き直っていて、ああ、だから世界は平和にならないんだとなぜか納得できた。

漫画や映画や音楽は、言うまでもなく素晴らしい。
でも、僕に言わせるなら、そんなものはただの役立たずだ。
漫画や映画や音楽を作る人々?
そんな人々は世界に誇っていいような人間じゃない。
食べ物とか、着る物とか、住むところとか、
そういった、人間が本来必要とするべきものを、
作れなかった人たちなんだ。そういう人たちは。
そういう大切なことを、放棄した人々なんだ。

でも、じゃあ漫画や映画や音楽に確かに宿るあの喜びはいったい何なのか?
それは、そこに「嘘」がある、という喜びだ。

世界にもし100の真実があるとする。
そのうちの99までは、多分、
食べ物とか、着る物とか、住むところとか、
人間が本来必要とすべき「本物」が語り出す真実なんだと思う。
でもそれでは真実という概念は完成しない。
「本物」だけでは完全な真実は完成しない。
なぜなら、その「本物」だけで構築された真実は、
「嘘」の存在を決定的に肯定できないからだ。
そこに「嘘」がある、という真実を、「本物」は許さないからだ。

人間が本来必要とすべき「本物」を作ることを放棄した人々の「嘘」が語り出す、
100のうちの残りの、最後の1の真実。
それは、そんな間違った人間でさえ、「生きている」という真実だ。

だから、国営漫画喫茶を作るということは、
漫画や映画や音楽という決定的な「嘘」を恥ずかしげもなく世界に誇るということは、
その「嘘」を「本物」とはき違えてしまうということは、
漫画や映画や音楽を作る人々への存在否定以外の何物でもない。
「嘘」という間違った存在の否定以外の何物でもない。
漫画や映画や音楽が99の真実に回っちゃいけないんだ。

政治家、「友愛社会」なんか掲げんな。
国営漫画喫茶や友愛社会は99の真実を肯定できても、
最後に残されたたったひとつの真実を肯定できない。
役立たずのロクデナシがそこに存在することを許さない。
真実という概念は、「本物」も「嘘」も両方同時に内包しなきゃ完成し得ないんだ。

国営漫画喫茶がもし完成したら、
歴史はまた、99の真実のみを作り上げて、積み上げられていく。
でもそれじゃあたったひとつだけ欠けてるんだ。
そうやって、少しずつ、世界は間違ってきたんじゃないか。

だから間違ってることを認めろ。
間違ったものに居場所を与えてやれ。
自分なんか信じるな。
間違った自分が、それでも「生きている」ことを認めろ。
漫画や映画や音楽が本当に伝えるべきことは、
それ以上でもそれ以下でもないんだ。

21:20 | 独り言 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

みんな元気

Don't Be Frightened Of Turning The Page
/ Bright Eyes

Bright Eyes-Dont Be Frightened Of Turning The Page
大丈夫だよ
 ミスティック・ヴァレイ・バンドとの最新作を発表したばかりのコナー・オバーストがブライト・アイズとして01年に発表した六曲入りのEP。「傷ついた天使」とまで絶賛された彼の歌声とその言葉が寄り添うような優しいメロディによって運ばれる、彼らしい素敵な楽曲の詰まった作品だ。今すぐにでも張り裂けそうな繊細なフィルムのように振動する彼の歌声は、やはり思わず立ち止まらずにはいられない、人を強烈に魅了する「何か」を溢れんばかりに湛えている。
 05年にはまったく趣向の違った二枚のアルバムを発表し、そのわずか二年後の07年には全米四位のヒット・アルバムを世に送り出し、08年にソロ名義で一枚、そして今年のミスティック~との最新作、と相変わらず凄まじい生産性を誇っているコナーだが、彼はその膨大な量の言葉とメロディをいったいどこから生み出しているのか。本作には“ノー・ライズ、ジャスト・ラヴ”という印象的な楽曲が収録されている。嘘は吐きたくない、ただただ汚れのない愛がそこにあって欲しいと祈るように歌われるこの曲のピュアネスこそ、彼の歌声に宿る、聴き手の心を強烈に射抜く「何か」の正体ではないだろうか。誰もが、何も知らない赤ん坊のように純粋ではいられない。だからこそ、彼は汚れを知っていく自分の心を拭うかのように言葉を吐き出し、その重ねられた言葉の数々によってなおさら真実の隠れてしまった自分の心を闇雲に探りながら歌声を傷つけていく。そして、永遠に無知ではいられない、イヤでも何らかの物語を語り始めてしまう僕たちの人生に、彼は『ページをめくることを恐れないで』という言葉を宛てたのだ。彼は自分の言葉が単なる嘘でしかないことを知っている。彼の歌がいつだって「答え」を提示しないのは、だからだ。本当に大切なことはいつだって表には現れない。正義とか友愛とかいらないんだ。ただ「大丈夫だよ」って優しく声を掛けて欲しい。元気でいたいんだ。

01:04 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ジャケット・ジャクソン

All For You
/ Janet Jackson

JanetJackson_AllForYou.jpg
人が踊るということ
 ダンスって不思議だ。ダンス部のない高校に通う生徒たちが先生にダンス部作ってくださいって誠心誠意込めてお願いしてもNOの返事が返ってきたりするし、ダンスってなんかちょっとイケナイ感じがする。選択体育の授業のひとつとして他のスポーツと同じ枠に収められていても、なんか居心地悪そうに感じる。なんでだろう。多分、ダンスって、なんかこう、目的とか理由がわかりにくいからだ。人が体を動かすことには意味がある。まばたきひとつにだって歴然とした意味があるんだ。じゃあダンスの目的・理由・意味って何? 体を鍛え上げて、得点を稼いで、最終的に勝利することが目的のスポーツとはまったくの別物だと思う。人はどうしてわざわざダンスなんて踊る? 得点や勝利という明確な見返りを得られないのに、どうしてわざわざ体を疲れさせる? それは多分、ダンスを踊るということが、とてつもなくメンタルな行いだからだ。決してフィジカルなレベルにおける解放ではなく、ひとつのエモーションだからだ。そういえば古来から踊るということは神への祈りと同義のスピリチュアルな儀式だった。ダンスって、そういう意味ではひどく限定的で、閉鎖的で、個人的な行いなんだなぁと思う。
 バイト帰りに久しぶりにこのアルバム聴こうと思ったらiPodには“オール・フォー・ユー”と“カム・オン・ゲット・アップ”しか入ってなかった。でもすごい感動した。ジャネットは本作のひとつ前に、『ヴェルヴェット・ロープ』という良く言えば「アーティスティック」、悪く言えばただ「暗い」だけのアルバムをリリースしていて、そのアルバムのジャケ写には、全作品の中で彼女が唯一逃げるようにしてカメラから顔を逸らしたものが採用されている。そのアルバムは、ジャネットが自身のビートやリズムといった踊るためのグルーヴのすべてを放棄して、メロディと言葉のみに神経を集中させた、ジャネット・ジャクソンというひとりのダンサーが、たった一度だけ踊ることを止めたアルバムだった。そこから四年後の本作で、ジャネットは再びダンスを取り戻し、そして歌のあちこちで高らかな笑い声を上げ、そんな自分を祝福している。ジャネットは出世作『コントロール』でも現時点での最新作『ディシプリン』でも、自分の混乱しがちな感情を律し、制御するために踊り続けてきた人だ。そんな、誰よりも自分に厳しい女性が、本作では大きな笑顔を解き放っている。『オール・フォー・ユー(=すべてはあなたのために)』という個人的な思いは、たったひとりに向けられたダンスという祈りは、かくして多くの人々の心を鷲づかみにしていくのだ。本作が発表された時僕はまだ中学生で、クラスメイトには「研ナオコに似てる」とバカにされ続けたけど、この頃のジャネットがマジで大好きだった。

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人は簡単に消えられる

Phone Booth
フォーンブース
公然と、密室
 公衆電話は不思議だ。ミステリーに出てくる郵便配達員みたいだ。すなわち、数えられない容疑者。見えない登場人物。堂々と設置された、透明な窓に仕切られたたった1メートル四方の空間で行われる会話を、道を行き交う人々は知る術もない。というか、知ろうとすらしないし、そこに人がいること自体に大抵の場合気付かないし、意識さえしない。その会話が例えば、誘拐犯との重大な交渉であったり、一世一代のプロポーズであったとしても。公衆電話は間違いなく屋外にあるにあるにも関わらず、その内側の空間はまるで、世界から隔絶された密室のようだ。内側なのに世界の外側。公衆電話はそんな密かな魔性を秘めている。
 世界は、大きさとか、重さとか、広さとか、そういった単純なはずの比較対象が、ものすごくわかりにくい場所だと思う。内側なのに世界の外側。とてもおかしなことを言っているような気がしてくるが、もしあなたもそう思うなら、あなたはまだ本当にやっかいな密室の存在に気付けていないのかもしれない。まるでファッション・コーディネートでもするかのように、会う相手によって対処する「自分」というキャラクターを使い分け、服を着るように数々の嘘をまとい、当然のように町を出歩くあなた。あなたは、口を開くたびに、自分さえも気付けないほど恐ろしくナチュラルに、密室を作り出している。あなたはただ自分の犯した密室殺人を数えられていないだけだ。その嘘が暴かれる危機に直面した時、あなたはどこまで自分の弱さを公衆に晒すことができる? それまで自分自身さえも完璧に騙し続けたその嘘と対面する恐怖はもしかしたらニューヨークのストリートをパニックに陥れる悲劇と対等かもしれない。

20:40 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ブラック・アイド・ピーズ最新作

これまでのBEPを知っているリスナーを戸惑わせるアルバムだとは思っていたけど、
それでもカスタマーレヴューや海外メディアの余りの評価の低さにビックリした。
“アライヴ”とかどんだけ良い歌だと思ってるんだ。
涙出そうになったけどな。

これはこういうアルバムなのではないか、
と考えながら聴いていたら最後の方でオバマの名前が出てきて
「やっぱり」と思った。

オバマは決して救世主ではないから。
アメリカを変える決定権は大統領なんかにあるべきではない。
オバマが主張していたのは、つまりはそういうことだから。

The E.N.D
/ The Black Eyed Peas

The Black Eyed Peas-The End
そしてBEPは固執さえも肯定する
 日本でも大ヒットを記録した前作『モンキー・ビジネス』は、BEPとはいったいどうあるべきなのか、という意味において、非常に象徴的な一枚だった。人種も性別もバラバラな四人の打ち上げたパーティーにジャスティン・ティンバーレイクからスティングまで各界から大勢のゲストを招集し、様々なジャンルを片っ端から取り込んであらゆる垣根を取っ払ってみせたその「なんでもあり」なアルバムは、見事にワールドワイドな成功を獲得してみせた。来る者をまったく拒まず、自由気ままに踊ることを許してくれる彼らのフレンドリーな音楽は、まさにボーダレスの象徴だったのだ。その熱狂から四年、それぞれのソロ・ワークなども経て、ついにBEPの最新アルバムがドロップされたわけだが、その一枚を印象付ける全体的なトーンは明らかにこれまでと違っている。すでに全米一位を獲得しているオープニング・ナンバー“ブン・ブン・パウ”の歌詞に印象的な言葉が出てくる。「このビート、808が響く」。勘のいいリスナーならカニエ・ウェストが昨年発表した『808’s & ハートブレイク』のことがすぐに頭を過ぎるのではないだろうか。カニエがあのアルバム全編にわたって使用したTR-808というドラム・マシーンはヒップホップ初期時代のサウンドを特徴付ける重要な機材のひとつだったという。僕は音楽的な知識は持っていないので、BEPの新作を聴いてもその808がどれほど使用されているのかはわからないが、ウィル・アイ・アムがカニエ同様に本作でヒップホップの原点に立ち返ろうとしているのならば、本作が持つ意味性は大きく変わってくる。正直なところ、本作に対するメディアやファンからの現時点での評価はとても良好とは言えない。エレクトロニックな性格に偏りまくったサウンドは確かにこれまでの「なんでもあり」な精神からは大きくかけ離れていて、それでいてビートもヒップホップとしか形容できないものになっている。そういう意味ではリスナーを選ぶ作品と言えるかもしれない。要するに、BEPは本作でかつてのボーダレスをかなぐり捨て、特定の「何か」にひどく固執しているのだ。「これはエンドでありビギニングである」というアナウンスから始まるこのアルバム。終わりと始まりが同時に訪れる場所、それは、史上最悪とまで呼ばれた大統領が、「チェンジ」という希望を呼び覚ましたまったく新しい大統領へと生まれ変わった昨年からのアメリカの風景そのものではないか。ジ・エンドの境地から開かれる新しい未来を見据えながら、それでも絶対に譲れないものがあると彼らは歌っている。

04:37 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

永遠とはつまり一瞬ですらないということだから

2001 : A Space Odyssey
Stanley Kubrick-2001
人間から最も遠いもの
 映像と音楽がとんでもない高次元で結びつき、誰にも再現不可能な唯一無比の世界観を生み出してしまったスタンリー・キューブリックの決定打的超大作。とても68年の作品とは思えない革新的な映像美には今観ても圧倒される。しかし、解説としての役割を本来果たすはずだったナレーションが丸ごとカットされたせいで作品は一気に抽象度を高め、観る者を徹底的に篩に掛ける難解なものへと仕上がってしまった。それによって、細長い宇宙船は男性器のメタファーだとか実はまったく面白くない作品だとか様々な意見や解釈が乱立して未だに具体的な居場所を獲得できていない感のある、要するにこれもまた『時計仕掛けのオレンジ』同様に手のつけられない問題作なのだ。
 本作を難解にしているひとつの要素として、物言わぬ黒い壁、モノリスの存在がある。人間の世界に突如として現れるこの不可解な存在はしかし、よく考えてみると、この映画における過去・現在・未来のすべての時間の中で、人間が自身の想像力の限界に辿り着いたまさにその時を示すかのようなタイミングで屹然とそそり立っている。ここがお前たちの行き止まりだとでも言うかのように。そう、僕たち人間には限界がある。僕たちは無限ではないのだ。それは僕たちが「死」という概念をすでに内包していることからしてもそうなのだ。僕たちは永遠ではない。僕たちの命は結局のところ限界と限界の狭間に生まれた一瞬の光でしかない。しかし僕たちは宇宙という無限に続く限界の彼方に思いを馳せることを止めない。宇宙の外側を把握するという無謀な試みに必要なのは、僕たちという小さな限界が宇宙という巨大な無限を呑み込むという、自分よりも小さなものの中で生きるという、究極のパラドックスを通過した圧倒的な思考の飛躍に他ならない。本作の最終章“木星 そして無限の宇宙の彼方へ”では、キューブリックの想像力が奇跡的に宇宙の彼方という現実の無限に追いついてしまった瞬間が記録されている。人間、地球、宇宙、そしてその果てを辿って最後に行き着くのは、人間の想像力なのだ。

02:14 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

手塚治虫のは『時計仕掛けのりんご』

A Clockwork Orange
Stanley Kubrick-A Clock Work Orange
あなたが自分という欺瞞を肯定する時
 71年の公開から現在まで常に「禁断の……」という枕詞と共に語り継がれてきたスタンリー・キューブリック監督の超問題作。ジーン・ケリー“雨に唄えば”を口ずさみながらのレイプを始め、思いつく限りの背徳を体現したような刺激の強すぎる作品である。少なくとも、僕はこんなにも混乱した映画作品を他にひとつも知らない。これが自由だとでも言うかのように、反逆児アレックスは己の肉欲や破壊衝動といった狂気の行方をまったく制御しようとはしない。放蕩する狂気とそれをどうにかコントロールしようとする政府という全体主義。管理された全体がひとつの狂気を恐れる時、そこに表れる構図とは、狂気による正気の侵食であり、すなわち支配である。そして、支配とは言うまでもなく制御であり、秩序の生成に他ならない。あらゆる主義主張と欲望によって混乱した世界を丸々呑み込む巨大な混沌とは、それそのものがすでにひとつの秩序なのだ。そう、僕たちはどれだけ自由を行使したところで、結局のところ、時に自分自身の、狂気や想像力といった実態なき概念によってコントロールされている。あなたは、暴力やレイプが許されるべき行為でないことを知っている。しかし、この映画を観て、ここにいったい何が描かれているのかを理解しないままだったとしても、そこに何か漠然としたカタルシスを感じるのであれば、あなたはもはや自分自身を信じることなどできないはずだ。すでに狂気という抗い難い欲望を自身の中に内包してしまっていることを、あなたはこの映画を通して否応無しに気付かされる。自分がどうしようもなくねじれていることを。間違っていることを。そして僕たちは、暴力を、レイプを、窃盗を、拘束を繰り返し、世界に正しいものなどひとつもないことをひとつひとつ確認していく。「オレンジ」という超天然でさえ「時計仕掛け」であるという激しく倒錯したタイトルが最高に利いている。しかし、だからこそ僕たちはこんな紛い物の世界にたったひとりの「あなた」を求めている。「あなた」という愛すべき偽者を。騙されても構わない欺瞞を。それがたとえ狂気だったとしても。

01:17 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

「密室」と呼んだ人もいる

The Shining
Stanley Kubrick-The Shining
世界は迷路でできている
 スティーブン・キング原作スタンリー・キューブリック監督で80年に公開されたホラー映画の金字塔。非常に断片的な映画である。ひとつの結論に向かって世界が収束していく感動というよりも、随所に散りばめられた強烈なイメージが傷跡のような深い印象を残す作品だ。それだけ密度の高い映画だということであり、本作がただショッキングなシーンが繰り返されるだけの凡百のホラー映画と決定的に違っているのは、その数々のイメージのすべてが、本作の描く世界観を構成するひとつひとつの本質的要素であるという奇跡的なまでの綿密さなのだ。だから、観るたびに新しい発見、それも「何度観ても面白い」という漠然としたカタルシスなどではなく、戸惑うほどに具体的な世界の断片を毎回提示してくれる極めて稀有な作品なのだ。
 そのひとつを挙げてみる。雪山の中に建てられたホテルという閉ざされた設定、つまりは、世界のすべてをそこに詰め込むという強引な試みである。そして、そのホテルの名前は「Overlook Hotel(=展望ホテル)」であり、本作の奇妙な空気感を演出する重要なファクターのひとつとしてホテルの隣に造られた巨大迷路があるのだが、これ見よがしにその迷路の「Overlook Map(=展望図)」が映し出されている。それがいったいどういうことかと言うと、これは本作における閉ざされた「ホテル=世界」そのものを展望しろという示唆でありそこに迷路というねじれた価値観を重ね合わせてみろという暗示である。主人公一家がホテル内を案内された時の「まるで迷路みたいね」というさり気ない一言までもが研ぎ澄まされた意思のように思えてくる。そして、本作がまた通常のホラー映画と一線を画しているのは、ここに映し出される恐怖が、決して人間の言質が及ばない霊性としてではなく、人間の心の奥底に根ざした狂気として描かれていることだ。正気を保ち続ける限り、僕たちは世界という巨大な迷路の入口と出口を最短距離で正しく繋ぐことができる。しかし、出口へと続かない間違った通路に足を踏み入れてしまった時、その先に待ち受ける行き止まりで立ち尽くしてしまった時、僕たちの狂気はついに現出する。「REDRUM(=MURDERを逆転させたアナグラム)」と書かれたこの扉がすべてを語っている。僕たちは、いつもの通りを、扉を、たまたま逆方向に、いつもと違う方向に進んでしまうというただそれだけで、「REDRUM(=殺すな)」という正気から「MURDER(=殺人)」という狂気へと豹変してしまう。世界という迷路には、僕たちを決して出口へと導かない分かれ道や行き止まりが至る所に用意されている。狂気への入口は、いつだって正気という僕たちの日常のすぐそばで大きく口を広げているのだ。


00:58 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

BORN TO WHAT

Full Metal Jacket
Stanley Kubrick-Full Metal Jacket
KILLとPEACEの狭間
 ベトナム戦争をテーマにした87年公開のスタンリー・キューブリック監督作である本作は、大きく分けてふたつの構成から成り立っている。前編となる海兵隊の訓練キャンプは秀逸である。一般市民をひとりの兵隊へと育て上げるということは、いったいどういうことなのか。それは、ひとりの人間に、立ち向かうべき敵を作るということ。仮想敵の存在を認知させることだ。つまりは日常をそのまま戦場へと変換させる洗脳である。そして、本作の前編はそういう意味において、味方の中にでさえ敵を見出してしまう極限の精神状態とその狂気の萌芽を、圧倒的な描写力で描き切ってしまっている。明確にキャラ立ちした役者たちと畳み掛けるように吐き出されるユーモアの効いた言葉の数々と本質のみで構築されたまったく無駄のない映像デザインに宿る独特の温度や手触り。キューブリック映画の真髄が一挙に出揃った前編の一時間は、まさに圧巻の一言だ。
 しかし、一般的に評価が高く、映画的に面白いのは確かに前編かもしれないが、この映画はベトナムの戦場の様子が描かれた後半においてこそ、その痛烈な主張を饒舌に語り始める。多くの血が流れた戦場の果て、ひとつの戦いの終わりとは、それがたとえ武力的な勝利を収めた側の立場であったとしても、「対峙すべき敵の喪失」を意味している。戦争が決して完璧な勝者を生み出さないのは、だからである。それはすなわち、喪失感であり、虚無感とほぼ同義なのだ。しかし、人は、対峙すべきすべての敵を失った後に、そこにただひとり残された自己までは、敵とは見做さないのだ。後悔や贖罪でさえ自己を守るシェルターでしかない。本作のラスト・シーンはきっと忘れられない光景になる。燃え盛るベトナムの市街地を、“ミッキー・マウス・マーチ”を歌いながら練り歩く兵隊たち。その歌の場違いなほどの多幸感は、当然「祝福」などではなく、紛れもない「逃走」である。人は、絶望の淵でなお、恐ろしく楽観的になることができる。『フルメタル・ジャケット(=被覆鋼弾)』とは、殺傷性の高い銃兵器でも鍛え抜かれた強靭な肉体でもなく、国家間の巨大な戦争さえもぶち上げてしまう人間の自己弁護である。
03:01 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

仮面に隠された顔が見える

Eyes Wide Shut
Stanley Kubrick-Eyes Wide Shut
見えないものが見えてくる
 実際に夫婦でもあったトム・クルーズとニコール・キッドマンという超大衆的なキャスティングが話題を呼んだ本作は99年に公開されるやいなや世界的なヒットを記録するが、監督を務めたスタンリー・キューブリックはその公開を待たずして同年に他界している。キューブリックのフィルモグラフィーを辿ることは、革新的な映像美の記録をめくることであり、同時に狂気の歴史を紐解くことでもある。キューブリックは62年の『ロリータ』ですでに偏執的な愛という狂気を取り上げているが、一般的には夫婦間の愛情を描いたとされている本作が暴いた狂気の愛は、『ロリータ』で描かれた「人を愛し求めること」から生まれる狂気とは本質的に違ったものである。そもそも狂気とはいったいどのようなものを指すのだろうか。それは例えば、こちらの生活がどのようなものであるかなどとは関係無しにテレビで公開される戦場の風景、いつも笑顔で挨拶を交わす誰かの表情が突如として鬼のような形相へと豹変する瞬間、などといった、同じ世界の中で発生している出来事にも関わらず日頃は目にすることのない事実が、日常の脈絡など無視して強引に提示される一瞬の戦慄である。すなわち、「見えないものが見えてくる」ということだ。だから、都会の一角のベッドルームで交わされるセックスや町外れの森に建てられた屋敷で行われる乱交パーティーは本来「見えるもの」であるべきではないし、つまりそれはすでに狂気と呼ばれるべきものなのだ。そんな、常に「見えないもの」であるべきセックスという男と女の様々な愛の表情を暴き切った本作は、日本では当然のようにR-18の指定を受けている。当然である。なぜなら、狂気は感染するからだ。しかし、他者から暴力的なまでに与えられる狂気からでさえ、僕たちは瞳を閉じるだけで、自己を閉じるだけで、簡単に逃げることが出来る。狂気は感染するからこそ恐怖なのではない。瞳を閉じれば閉じるほど、より大きく、より明確に「見えてくるもの」がある。嫉妬、猜疑、欲望――。本当に恐怖すべき狂気とは、自ずとあなた自身の中で生成されるものなのだ。『アイズ・ワイド・シャット』。こんなにも精度の高い言葉を僕は他に知らない。

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ファック

The High End Of Low
/ Marilyn Manson

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再び暴かれる世界の理由
 このアルバムがなかったら、前々作『ゴールデン・エイジ・オブ・グロテスク』と前作『イート・ミー、ドリンク・ミー』は切ない思い出に終わっていたかもしれない。両方とも極めて普遍的であり良いアルバムではあったけれども、個人的にはあの二作はマリリン・マンソンという唯一無比のキャラクターにとってはある意味では立ち止まりの作品だったのではないかと思っている。『アンチクライスト・スーパースター』からの三部作を完結させた後の作品となる『ゴールデン~』はそのまま彼の個展にもなっているように、サウンド面でもヴィジュアル面でもアート性を追及した内容になっていてどこか振り切れたものを感じられなかったし、離婚というタフな経験の影響が露骨に表れた『イート~』はこれまでになく個人的でありエモーショナルな内容ではあったものの、酷といえば酷かもしれないが、自己を「生け贄」として演出し続けてきたマリリン・マンソンとしては少々似つかわしくないというか、そこに僕たちが彼に求めるものとの大きなギャップがあったことは否めなかった。そして今年、前作から二年ぶりとなる本作を、マリリン・マンソンはシングル“アルマ・ガッデム・マザーファッキン・ゲドン”に象徴されるような圧倒的終末の風景で埋め尽くした。オバマがアメリカ初の黒人大統領として就任し、アメリカ人がアメリカ人であることへの誇りを再び取り戻しつつあるこのタイミングで、彼は“ウィアー・フロム・アメリカ”を歌い、大統領が誰であろうが社会情勢がどうであろうが終わることのない暗闇が確かにあることを暴いている。彼はこうも歌っている。「俺たちには理由が必要と言わんばかりに俺が理由になってやる」(“ブランク・アンド・ホワイト”)。コロンバインの悲劇が思い起こされる。世界が平和に回るためのすべての欺瞞を背負ってやる、と彼は宣言しているのだ。漆黒のトレンチコートに身を包み、暗闇に溶け込むマリリン・マンソン。十字架に括りつけられたかつての彼の姿を僕たちは絶対に忘れてはいけない。

13:20 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

僕にも何か名前をつけてよ

へび女が燃える家の上で炎に炙られるときの表情が泣ける。
愛だぁ。

大丈夫。
大丈夫だから。
うまくやれなくても妖怪になれば大丈夫だから。
人間としてうまくやれなくても妖怪として生きていけるから。
だから大丈夫。
僕が君をたったひとりの妖怪にしてあげるから。

楳図かずおが言っているのは、そういうことなんだと思う。

へび女
/ 楳図かずお

へび女
妖怪・楳図かずお
 日本には妖怪に関する様々な言い伝えが存在しているが、そのほとんどが江戸時代に始まったものだという。江戸時代には戦乱の終息とそれに伴う社会の安定から多くの文化・学問・思想が急速に花開いた。つまり、価値観が多様を極めた時代なのだ。そんな時代に、様々な妖怪が爆発的な勢いで誕生している。幾多の価値観が交錯し、急速に文化が発展すると、そこに生まれるのはマニアでありオタクである。要するに、良くも悪くも物事の優先順位を間違ってしまった人々である。『小豆洗い』という妖怪がいる。その正体については諸説あるが、僕は、これは小豆を洗うこと、もしくはそれに似た何かに何らかの快感を得てしまった人に対して周囲が気味悪がってつけた蔑称なのではないかと思う。いくら想像力が豊かになった時代とはいえ、特定の「誰か」を指しているとしか思えないほどにこれは具体的過ぎる。すなわち、妥協の余地すらないほどの圧倒的なマイノリティ。社会という全体に馴染めない個人。それはすでにひとりの妖怪なのだ。
 本作は66年に『週刊少女フレンド』という講談社から発行されていた漫画雑誌に連載され楳図かずおをホラー漫画の第一人者として世間に認知させた出世作のひとつ。楳図かずおの描く女性は皆妙に艶っぽい(エロな意味ではなく、爬虫類的な恍惚)と思うのだが、本作に登場する「へび女」はまさにそれの代表といった感じで、笑い顔とかちょっと引くくらい怖い。内容は“ママが怖い”“まだらの少女”“へび女”というひとりの「へび女」を巡る三部構成になっているのだが、時系列を巧みに操る構成トリックには思わずハッとさせられてしまった。しかし、本作のキモはやはり「へび女」と呼ばれる女性が、「自分がへびだと思い込んでいる女性」という設定であるところだ。これはもはや楳図作品のクリシェというかフォルムというか、とにかく本質的で重要なところだ。そう、「思い込み」なのだ。何かを思い込むこと。周りが見えなくなるほど何かを猛烈に信じること。それはつまり、他人が共通して信じるものを信じない、もしくは、他人が信じないものを信じる、ということを必然的に意味している。そしてそれこそを僕たちは「背徳」と呼び、排除の対象とする。自身のトレードマークである赤と白のボーダーシャツを「囚人服」と呼ぶ楳図かずお。妖怪として生きるということは、つまりはそういうことなのだ。

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09年、この一枚

誰が大統領で、どんな宗教があって、
自分の愛する人が誰と寝ているのか。
そんなものさえも置き去りにしてしまっている。

対峙すべきすべてを失って生きるということは、
こういうことなのかもしれない。

ロックを聴いて、初めて、消えたいと思った。
死にたいとは言わない。

“ホワット・ハヴ・アイ・ダン?”
これを聴かないで、いったい何を聴けと言うのか。

Mama, I'm Swollen
/ Cursive

Cursive-Mama Im Swollen
僕は笑いながら堕ちていく
 人と人とが関わり、すれ違う狭間に生じる饐えた感情をテーマにした『ドメスティカ』『アグリー・オルガン』という二枚の傑作を経て06年の前作『ハッピー・ホロウ』ではその向かい合う他者の延長線上にアメリカという余りにも巨大な世界を捉えたカーシヴ。そこから実に三年の月日を越えて発表された最新作である本作『ママ、アイム・スウォールン』で、カーシヴの歌からついに「君」が消えた。“ドンキーズ”のような気まずい夫婦のやり取りのようなダイアローグも残されてはいるものの、カーシヴがこれまで歌い続けてきた他者と関わることでこそ発生する絶望や嫉妬や幻滅といったドス黒い感情が、「もう君を愛することはできないんだ」という有無を言わせぬ「君」への拒絶によってほとんど消え果ている。そして、「君」という身近な他者を通して遠くの世界を射抜いたカーシヴの言葉が行き着いた最果てが、「僕」である。そこには、宇宙という無限の彼方のその先に待ち受けているものが人間の想像力だというキューブリック監督映画『2001年宇宙の旅』の圧倒的な帰結と通じるものを感じる。すなわち、「君→世界→僕」という一連の流れは脈絡の欠落による突拍子のなさではなく、見事なまでに連続した物語なのだ。そしてだからこそここにはすべてを通過した後にこそ残る深みが確かに横たわっている。
 ティム・ケイシャーは本作を製作する過程で、これまでになく「死」を強くイメージしたという。「今というこの時代に存在したくない」から始まり「間違いなく地獄行きだ」とうな垂れ「俺は何をしてきたんだろう?」と虚空をむなしく撫でるように終わるこのアルバムは、今すぐにでも自殺してしまうのではないだろうかと思わせるほどに暗く、ネガティヴだ。このアルバムを聴くと、カーシヴにとっての他者とは、ある意味では言い訳であり逃避だったのだろうなと思えてくる。つまり、それは、己の絶望の理由を他者に押し付ける行為だったのだ。そして、だからこそ前作で世界を暴いたカーシヴが本作で「僕」という自己を標的にしたのは当然の成り行きだった。すべての他者を拒絶し、たったひとりで終わらせた世界の中では、意識と言葉が執拗に自己を責める。そんな閉じた風景を強烈に印象付けるのが最終曲の“ホワット・ハヴ・アイ・ダン?”。この歌を聴く必要のない生活を送っている人を羨ましく思う。僕なんかは、正直な話、涙なしには聴けないけど。
 でも絶対に間違って欲しくないのは、こんなアルバムですら、自殺を肯定できないということ。作中でも「血のように赤い太陽の下で生まれた」と歌われるこのアートワークに描かれた異様な太陽は、実は卵の写真なのだ。血を流す卵。それは部品の足りないプラモデルのようなものだ。完成する前から欠陥品。生まれる前から間違っている。カーシヴは、本作を通じて、そんなイメージを強引に自己と重ね合わせようとしている。僕たちが永久に満たされないのは、つまり、僕たちが生まれる前から傷つき、血を流していたからだと。しかしだとすれば、やはり完璧な絶望などあり得ない。僕たちが根本の部分から間違っているのなら、絶望だけが完結した存在であるわけがないのだ。しかしだからこそ僕たちは苦しい。地獄でさえ甘いからこそ僕たちは苦しい。完成されないから、終われないからこそ辛いのだ。地獄が甘いものである限り、僕たちは永久に「今、ここ」よりも更に救いようのない場所へと堕ちていくことができる。そうやって、それでもまだ生きていくことができる。カーシヴが本作で歌っているのはそういうことだ。ティム・ケイシャーは“ホワット・ハヴ・アイ・ダン?”の中で、終わらない自問自答を繰り返し、自己の存在意義を確実に希薄にさせながら、狂ったような高笑いを上げる。その先に希望があるかどうかなんてわからない。そことは最後の最後まで向き合わない方が良い。

02:52 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

バッド・セクツ

カーシヴの最新作がすごい。
音楽を聴いてあんな気持ちになったのは初めてかもしれない。
お願いだから歌を止めないで。

これは06年発表の前作。
あれからもう三年近くも経ったのか。

Happy Hollow
/ Cursive

Cursive-Happy Hollow
自己から他者、そして世界へ
 アメリカはネブラスカ州の名門インディ・レーベルであるサドルクリークの至宝、カーシヴ。その通算五作目となる06年のオリジナル・アルバムがこの『ハッピー・ホロウ』だ。前年にチェリストのグレッタ・コーンがバンドを離脱したこともあって、『アグリー・オルガン』で完成した過剰なまでの叙情的サウンドはここでは再生されてはいないが、ホーン・セクションの大胆な導入によってこれまでとまたひとつ違ったダイナミックな面白みをサウンドに持たせることに成功している。本作では詞的にも大きな変化があった。カーシヴのアルバムは基本的にはどれもコンセプチュアルなものばかりだが、本作での『ハッピー・ホロウ(=幸福の谷)』と名付けられた町に住む人々の物語は、家庭内の不和といったこれまでのカーシヴのプライヴェート性の高いテーマとはまったく異なる視座を必要としている。それは客観性だ。傑作『ドメスティカ』がティム・ケイシャー自身の離婚経験から始まった作品だったことが象徴的だが、彼は常に自分の抱える感傷や絶望を無理やり歌の中の登場人物に背負わせることで生々しいフィクションを作り上げてきた。しかし、ドロシー、ルーシー、コール神父、ジーニーなどといった自分とは無関係の多くの他者の目を通して改めて世界を見つめることで、彼の歌はここで極めて具体的なものになっている。歌というものは一般的に、具体的すぎても抽象的すぎても共感性は減退するようになっている。本作が以前ほど感情を煽る叙情性を求めていないクールなサウンドに仕上がっているのがそこの部分とも繋がっていると考えるのは深読みだろうか。その詳細な歌で、カーシヴは、神への祈りとレイプはまったく同じ場所で行われるという世界の欺瞞を暴き切っているのだ。ひとりひとりの人間のちっぽけな欺瞞が世界という取り返しのつかない大きな嘘を作り上げる。世界で生きるということは、その嘘を守るという絶対的な契約なのだ。誰一人として例外な人物などいない。自分でさえも、そうなのだ。嘘は、それに気付かなければ、もしくはそれを守りきれば、真実になる。『ハッピー・ホロウ』という多幸的なアルバム・タイトルは、だからこそ強烈なアイロニーとして成り立っているのだ。

02:44 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑
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