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Over The Border

というブログ・タイトルには、
「境界を取っ払って、すべての世界がひとつに」
などという思慮深い意味が、
見事なまでに1ミリも込められていません。

オアシスのある曲の歌詞の一部であり、
僕の思い入れ深いオアシスのブートレグのタイトルからとったものなのです。
あ、あれだ。ってすぐにわかった人は、ちょっとすごい。

「俺は俺自身でなければならない」。

デビュー曲“スーパーソニック”の記念すべき第一声。

この言葉から始まったバンド。
それがオアシスというバンドだ。


Falling Down
/ Oasis

oasis-Falling Down
「俺様」不在のオアシス
 改めて言うまでもない話だが、オアシス初期のシングルはすごい。何がすごいって、B面収録のカップリング曲が、カップリングとしてのささやかな佇まいではなく、「なぜ俺様をA面にしなかった」とでも言うような堂々たる風格で仁王立ちしているのだ。初期シングルからの名作カップリング集『マスタープラン』を聴けば一発でわかる。“アクイース”“ロッキン・チェアー”“ステイ・ヤング”“マスタープラン”……と本当に異常なまでに錚々たる選曲なのだ。オアシスの斜陽期であった『スタンディング~』の時期でさえ、カップリング曲のクオリティの高さは尋常じゃなかった。メインのA面曲を平気な顔して押し退けてしまうほど我の強いB面曲たち。それこそが、ファンにとって、オアシスのシングルCDを聴くということの最大の興味と興奮の対象であったことはもはや間違いない。
 昨年発表されたオアシス大変革のアルバム『ディグ・アウト・ユア・ソウル』からの最新サード・シングル。『ディグ・アウト~』からのシングルでは、もはやかつての仁王立ちカップリング曲は一切採用されていない。というか、もう書けないのだろうし、書く必要もないのだろう。その立ち居地に取って代わったのは何種類にも渡るリミックス曲である。本シングルのカップリングも、まったくの新曲が一曲に対して表題曲のリミックスが三曲という割合になっている。オアシスのリミックスという事実には未だに「!?」な心境を正直隠せないのだが、それも『ディグ・アウト~』でバンドが採用した新機軸のことを考えると当然の成り行きのようにも思える。竹を割ったように明確な、メロディとサウンドと言葉。過去のオアシスの歌は、それ故に「誰にも渡さない」とでも言うような強固さ、すなわち「俺様」を宿していたわけで、同時にその頑固さが彼らを身動きのできない場所で立ち止まらせていたわけだが、『ディグ・アウト~』はその「俺様」をきれいに抜き取り、その殻を剥いた卵のような無垢な状態をバンドに馴染ませるためのアルバムだった。「俺様」のいないオアシス、という前代未聞の状態を、打算や妥協ではなく、「祝福」するためのアルバムだったのだ。だから彼らはここで自分たちの歌をリミキサー陣に手渡すことが出来た。自分のことを「俺様」と呼ぼうが「僕」と呼ぼうが「お前」と呼ぼうが「彼」と呼ぼうが本質的な部分は揺るがない。それは自分自身を失うことと同義ではない。僕たちの愛している本当の「オアシス」は、そんな薄っぺらな表層よりも遥かにデカイのだ。本当に素晴らしいバンドだ。

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19:21 | 音楽 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

ダメだダメだ

来年の春に公開予定の映画『すべては海になる』で、
柳楽優弥とサトエリがダブル主演を務める。
二人とも大好きな人だ。
絶対に観なきゃと思う。

秋深き
秋深き
愛だけは永遠でいて欲しいのに 
 もちろん本来はそういう意味ではないけれど、「僕と一緒のお墓に入ってください」という今や滑稽でしかないこの古典的なプロポーズは、ある意味では「僕と一緒に世界を終わらせてください」と言い換えることができるのかもしれない。「世界が終わるその時に立ち会ってください」と。仏壇屋のひとり息子(八嶋智人)が人気ホステス(佐藤江梨子)に向かってお揃いの位牌を渡してプロポーズするシーンを観てそう思った。モリッシーはかつて「もしも二階建てバスが僕らの車に突っ込んできたら。あなたの側で死ねるなんて最高に素敵だな」と歌った。大好きな誰かと二人きりで終わらせる世界。それは確かに甘くロマンチックな最期なのかもしれない。
 秋の深まりとは、枯れ果てる草木の茶色であり、消失する寸前の灯火であり、つまりは喪失である。失われる風景に切なさや侘しさやといった情緒と呼ばれる絶妙な感情を託すことで、ひとつの重大な喪失さえも僕たちは感動的な何かへと変換しているのだ。この映画における秋の深まりは愛するあなたとの別れと同義である。だが、当事者はその深まりの部分に気付けない。当たり前である。去っていく愛する人を前にして「切なさと悲しみが……」なんて呟いて悦に入っているやつはただのバカである。当事者はいつだって全てが終わった後に真実を耳打ちされる。愛する人をなんとかここに繋ぎとめるために自分が新興宗教の奇跡の壺にまで頼り始めていたその時に、本当はもっと大切にすべき何かがあったということを。ただ足元を見つめるだけで良かったということを。そこには本当の愛しさがあったのだと。しかしすべては後の祭り。二人で終わらせるはずの世界はロマンチックな終焉を迎える前に破綻する。なぜなら愛とは狂気そのものだからだ。二人きりで終わらせられる世界などそもそも最初から存在し得ない話なのだ。しかしだからこそ人は、崩れ落ちた世界の瓦礫の中から、それでも続くべき何かを捜し求めようとする。すべての青葉がやがて地面に揺れ落ちるのと同じように、すべての愛はいつか必ず引き裂かれる。でもそれで良いのだ。愛だけが完全無欠である必要なんてどこにもない。愛は秋と同じくらい深いし優しいし嬉しい。ただ秋よりも愛の方が欲しい。だからこの映画は哀しい。

02:54 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

入り口はどこにでもある

素晴らしい映画を観た。
ブライト・アイズの名曲“アット・ザ・ボトム・オブ・エヴリシング”を思い出した。
コナー・オバーストは、その震える声で、ひとつの物語を語る。

墜落する飛行機に乗り合わせた男女。
パニックを起こす女性に向かって、
男性は「君のバースデー・パーティーに向かってるんだよ」と語り始める。
「僕たちは君のことを愛しているよ」と。
たまたま乗り合わせた初対面の女性に。
自分も死に向かって落ちているその時に。

人生はわかりやすいようで難解で、
明確な答えなど存在していなくて、
死は決して晴れやかな出口にはなり得ない。

でも、始まりは、いつだってすぐそこにあるのだ。

Stay
stay.jpg
すべてを黙らせる絶対肯定
 最初は、意味もわからず、断片的かつ示唆的なシーンが次々と展開される。他の誰にも聞こえない声が聞こえてしまう青年。死んだはずの人間が生きて現れ、生きている者は自殺願望を抱えている。バラバラのパズルのピースを手渡された時のような、全体像の掴みにくい不可解な印象を受けるかもしれない。背景に紛れるエキストラにあえて注目して欲しい。二人以上の人間が並んで歩いていたら、その複数人はまるで双子のように、まったく同じ服装に身を包んでいる。最初はその意味のわからないモヤモヤ・ユラユラした感覚から、人が「自分は何者かである」と確固として証明するのは難しいなぁなんて思っていたのだけれど、ラストに近づくにつれてすべてが明確に、鮮やかに、紐解かれていった。特典映像を観た限りではどうやら臨死体験を強くイメージした作品のようだが、はっきり言ってそれ以上のものに出来上がってしまっている。
 生と死、過去と未来、夢と現実、デジャヴとジャメヴ、私とあなた……そんなすべてが出揃う「現在」という揺るぎなき揺らぎの場所を、ここまで真に迫った演出で描ききった映画作品はそうないのではないだろうか。シーンとシーンを強引かつ急速に繋ぐモーフィング技術やジャンプカットを多用しコンマ何秒すらも巧みに駆使する映像美に加え、ユアン・マクレガー&ナオミ・ワッツという二大スターに挟まれながらもライアン・ゴズリングが精神の不安定な青年という難しい役を好演している。圧巻は、幻想的な映像デザインで、継続する具体でありだからこそ究極の抽象である「今、ここ」という場所を感動的に描いたラスト・シーン。ひとつの命が「今、ここ」から解放される直前に交わされるプロポーズとはいったい何だろう。「あなたは生きている」でも「あなたはひとりじゃない」でもない、そこが生の世界であろうと死の世界であろうと僕が私であろうとあなたであろうと、「そこに居て良いんだ」と認める『ステイ』はすべてが真実でありすべてが嘘である世界にただひとつ佇む絶対的肯定である。これは疑いようのない傑作。絶対に観た方が良い。

01:57 | 映画 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

エミネム、再発

Relapse
/ Eminem

eminem_relapse_cover_art.jpg
嘘の中の真実
 エミネムの表現の持つ生々しさとはつまり、リリックに込められた濃密なパーソナル性である。自分の半径5メートル圏内に横たわるものだからこそ切実になれるテーマと、その切実さ故に海をも越えた世界中のリスナーの心を射抜くことができるという究極のパラドックスである。オリジナル・アルバムとしては04年の『アンコール』以来実に5年ぶりの新作となる本作でも、母親や愛娘やドラッグといった身近な現実を取り上げつつも、多くの著名人に向けてゲップと放屁を繰り返し自ら不愉快極まりないマッド・ピエロを演じることで、現実でしかない私情でさえもエンターテインメントに押し上げて普遍性を獲得してしまうその唯一無比の手法は鋭さをまったく失っていない。しかし、個人主義は当然のように全体から疎外され、圧倒的なまでに孤立する。オバマが大統領になろうとも、アニマル・コレクティヴやフリート・フォクシーズがどれだけ音楽の向こう側に桃源郷を映し出そうとも、まるでそんなものは俺には関係ないとでも言うかのように、息を吸って吐くように次々と生み出される狂気の数々。エミネムの歌は、やはり相変わらずエミネム対世界という限り無く勝ち目のない崖っぷちへと彼を向かわせている。それでもエミネムは再びマイクを握り締め、「他人に『お前なんか美しくない』なんて言わせんな。他人なんてクソ喰らえ。ただ自分に正直であればいい」と歌うのだ。年内には『リラプス2』と題された続編が早くもリリースされる予定だという。『アンコール』~『カーテン・コール』という舞台の絶対的閉幕後に披露される『リラプス(=医学的・病理学的な意味での「再発」)』とはいったい何を意味するのか。俺の怒りと悲しみは永久に終わらないとエミネムは歌っているのだろう。ファンはリード・シングル“クラック・ア・ボトル”発売一週間ダウンロード数最多記録という熱狂でひとまずエミネムに応えた。たったひとりの人間の狂気が世界中に感染し得る事実と彼がそうならざるを得なかったことの根底に眠る更に巨大な本物の狂気こそ、世界は真剣に恐れるべきなのだ。

01:06 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

パラサイト!

“シーナ・イズ・ア・パラサイト”のビデオって
なんで放送禁止になったんでしょうか。

クリス・カニンガムのビデオ集欲しいなぁ。
ビョーク“オール・イズ・フル・オブ・ラブ”のビデオは有名ですよね。

Primary Colours
/ The Horrors

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本当に面白いのはこれから
 ポーティスヘッドのジェフ・バーロウをプロデューサーとして召喚している時点でこのようなサウンドになることはある程度予想できたが、一曲目“ミラーズ・イメージ”での、曲名が示すとおりの揺らめく音像を捉えた瞬間にはまったく別のバンドなんじゃないかとさえ思った。前作におけるマッチ箱を振った時のようなスカスカなサウンドはジェフ・バーロウの手によって見事なまでに構築的かつ重層的なものへと変質し、極彩色のサイケデリアは黒と白のみで描かれた単調なモノクロームというホラーズのある意味で固定的だったイメージからことごとく乖離していく。前作収録曲“シーナ・イズ・ア・パラサイト”のビデオ監督を務めた、つまりは、本来は音楽を生業としていない人物であるクリス・カニンガムがプロデューサーを務めた楽曲も二曲あるということで、そんな実験的な姿勢にも強い意欲を感じる非常に面白い作品である。二分前後の短い楽曲も収められていたタイトな前作から一転しての長大な楽曲だが、八分にも及ぶラスト・ソング“シー・ウィズイン・ア・シー”は絶対に聴く価値がある。面白いものはどこからでも生まれ得るし、それを受け取るだけの容量をロックは持っているのだと証明するようなアルバムだ。タイトルに関しても彼らは非常に意識的であり、『プライマリー・カラーズ(=原色)』という言葉には、ここからまだまだ深みを増していくことができるという燃える野心が秘められているのだ。陰気なヴィジュアルとそのサウンドから「ゴス」「ガレージ」を一方的に押し付けられてしまった彼らだが、そんな表層的なイメージの内側には決して形式では語ることのできない血肉がきちんと宿っているのだとこのセカンドで証明できたのではないだろうか。デビュー当時にはガレージ・ムーヴメントの終息と共に消えるのではないかとまで言われていたホラーズだが、まだまだ魅力的な「この先」が待ち受けているような予感がする。クライマックスはこれから。

01:50 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

時代よ、我が側を歩け

なんだかこう、字の感じがいつもと違う?
漲る感じ? 昂ぶる感じ?

そう、何を隠そう、私、
携帯が壊れたのをこれ幸いと、本日、
iPhoneとやらに機種変更をしてきまして、
今、大変、興奮しておりまする。

わからないことだらけ(さっきまで絵文字の使い方もわからなかった)、
電話帳の登録件数たった二件、
という恐ろしく低いスタート地点からですが、
彼と共に頑張っていこうと思っています。

なんか今すごい前向きで良いなー!

Burst And Bloom
/ Cursive

Cursive-Burst And Bloom
そして、物語は河になる
 ティム・ケイシャー自身の実際の離婚経験を基に作られた男女の絶望的なまでのすれ違いと破滅の物語である00年作『ドメスティカ』の翌年に発表されたカーシヴの5曲入りEP。包丁の刃のように極限まで張り詰めた世界観はまったく揺らいでいないが、05年にはバンドを離脱してしまうチェリストのグレッタ・コーンがこのEPで初めて登場している。カーシヴの楽曲本来の息が詰まりそうな気まずさをグレッタのチェロの不穏な音色が気持ち悪いほどにあおり、ティム・ケイシャーが時に囁きながら、時に唾を撒き散らしながら歌うその物語の絶望感を、更に救いようのない暗闇の奥底へと落とし込んでいる。アートワークには死者に手向けられたような気味の悪い花束が描かれているが、カーシヴはまさにネブラスカ・シーンに屹然と咲き匂う孤高のあだ花である。グレッタの参入によって作品は明らかに深みを増している。そしてグレッタの存在ともうひとつ、このEPで注目すべきはティム・ケイシャーのストーリー・テリングの手法についてだ。本作のイントロダクションとなる一曲目“シンク・トゥ・ザ・ビート”の中で彼はこのEPの経緯やソングライティング中の自分の姿を描いている。この手法は03年発表の大傑作『アグリー・オルガン』の中でも踏襲されているのだが、すなわち、カーシヴの物語で描写される主人公とは、まったくの第三者としての誰かではなく、まさにティム・ケイシャーその人なのだ。ストーリー・テラー本人が物語の当事者なのである。そしてだからこそカーシヴの歌はどれも内臓を丸洗いしたくなるほどに胸糞悪く、生々しすぎるのだ。冷静に物語るべき人物が、感情移入しまくっているのだ。悲劇の物語を披露しながら、誰よりも語り手が一番泣き叫んでいるのである。それが実話であるかどうかなど関係ない。人物を容赦なく呑み込む物語。それがカーシヴの戦慄の本質である。そして、ここで激しくうねりながら逆流を始めた膨大な感情の波は、『アグリー・オルガン』、そしてその収録曲“シエラ”という凶暴な河へと、多くのリスナーを呑み込みながら急速に収束していくのである。

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ハンソン・ブラザーズ

いや実に懐かしい。
当時は911とかS Club 7とかボーイゾーンとか
スパイス・ガールズとかローナン・キーティング(!)とかよく聴いてたなぁ。
911とか同年代で知ってる人いるんだろうか。
どれも僕の中学生の頃とは時代のずれた人たちなのですが。
もちろんあの9.11テロとはまったく関係ありませんよ。

理解ない人々によく馬鹿にされたものですよ。
アイドル・グループ好きだとかなんとか。

だって僕はアイドルに憧れていたんだ。
ちやほやされたいじゃないか。
汗流して声を張り上げるロック・スターなんて馬鹿だと思っていた。

Middle Of Nowhere
/ Hanson

Hanson-Middle Of Nowhere
パーティーが終わらないかもしれない場所
 “キラメキ☆ンーバップ”と“ホエア・イズ・ラヴ”は中学生の時に気に入ってよく聴いていたのですが、次男坊のテイラー・ハンソンがボーカルを務めるティンテッド・ウィンドウズがアルバムを発表したこのタイミングで久しぶりに聴いてみました。というわけで、平均14歳という異常な若さでデビューを果たし、世界中でナンバー・ワンを獲得し、グラミーにまでノミネートしちゃったというとんでもないサクセス・ストーリーを持つ97年発表のハンソンのデビュー・アルバム。まだ変声期も迎えていないような無邪気な歌声で歌われる“キラメキ☆ンーバップ”は確かに「カラッ☆キラッ☆恋っ☆ラブッ☆」ってな感じで実際のところどうなんだろう?な邦題にも目をつぶってやりたくなりますが、とても十代半ばとは思えない湿っぽい歌もたくさん歌っています。実は今回、冒頭曲“シンキング・オブ・ユー”の「フェンスの外側に立ったことがある? 透けて見えるのに中に入れない時の気持ちがわかる?」という出だしの歌詞だけでガツンとやられてしまったのですが、そんな僕はまだまだ青二才なんでしょうか。とは言ったものの、このアルバムで彼らが歌っているのはどれもこれも恋愛のことばかり。決して多様な楽曲が収められているわけではありませんが、まぁ青春真っ盛りの十代の若者が肌で感じられるリアリティなんてそもそもの話それが限界でしょう。作家・舞城王太郎も自身のデビュー作『煙か土か食い物』の中でこのアルバムについていろいろと語っていますが、やっぱりこの『どこでもない場所』というアルバム・タイトルが良いです。社会や未来や様々な事象に対して恐ろしく無責任でいられる青春期・思春期なんていうのはまさにそれそのものでしょうし、振り向いて欲しい、認めて欲しい大好きな誰かに見てもらえない自分自身というのもそうでしょう。そしてなにより、本作におけるアイドル的イメージが強烈過ぎて(今でもハンソンと言えば“キラメキ☆”だし)後々苦労することになるハンソン兄弟ですが、それがたとえ呪縛であったとしても、本作はそれによってこそ時空を超えた「どこでもない場所」に彼らを永遠に立たせているのです。

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この「等身大」野郎め

ずっとほったらかしにしていた車校に久しぶりに行った。
なんで、なんで初対面の人間にあんなことが言えてしまう!
このかぼちゃ野郎め!
でも僕はかぼちゃは大好きだから、
大嫌いな「等身大」野郎と呼んでやる!

「等身大の自分」なんていうものを持っている人間は信じない。

Gold Against The Soul
/ Manic Street Preachers

Manic Street Preachers-Gold Against Soul
地獄でさえ甘い
 マニックスが注目される大きなきっかけとなった「世界中で一位になって解散」宣言を撤回して93年に発表されたセカンド・アルバム。飛び交う揶揄を完全に黙らせることはできなかったが、結局ナンバー・ワンを獲得できなかったデビュー作よりも本国では上位にランクインし、好意的なレヴューで迎えるメディアも多々あった。前作から約一年と比較的短いスパンで発表されたわけだが、音楽面では明らかな成長、と言うより飛躍とでも呼ぶべき素晴らしい進歩を遂げている。豊富な音楽的要素を含みながらもどこか前のめりな印象を拭えなかった前作から一点、抽象的な言い方で申し訳ないが、マニックスは本作で自分たちのグルーヴやリズムといった絶妙な感覚を獲得している。ロックのタイミングでマニックスを鳴らすのではなく、マニックスのタイミングでロックを鳴らすことに成功しているのだ。名曲“哀しみは永遠に消え去らない”や“失われた夢”を聴けばそれは一目瞭然だ。しかし、やはり心を揺さぶるのは、太宰治を愛読していたというリッチーの、今すぐにでも自殺してしまいそうな、ナイーヴかつネガティヴな言葉たちである。人を愛するということ。それは、言い換えるなら「狂気」だ。何かを信じるということは、人を決して安寧へと導かない。なぜならそれは紛れもなく「破綻」を意味する行為だからだ。アルバム・タイトルがすべてを物語っている。『欲望と理念は相反する』。そのふたつが出会う場所で、人生はまるで地滑りを起こしたかのように、どこまでも果てしなく沈んでいく。自分が、それまで最も嫌悪していたものにしかなることができないという耐え難い屈辱感。もちろん、そんな、例えば自分はいったい何者なのか?などという愚かな自問自答を必要とさえしない人々は総じて元気で明るい。しかし、決して答えの出ることのないそんな疑問を少しでも解放させようとするかのようなこの暗くも爽快なロックには、確かな「生命力」の手応えを感じ取ることができる。「人間になんてなりたくない」とまで歌うマニックスの歌はどれも実に悲観的だが、それは決して自殺を肯定するような卑怯な逃避手段ではないのだ。

01:42 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

世界め!お前なんかに僕は消せない!

携帯がぶっ壊れて、
あー携帯ぶっ壊れたのに案外困ってないーっていう自分がいて、
そしたらパソコンの調子が悪い。
大学に授業に行ったら、
僕以外の全員を当てて、
「はいもう当たってない人いませんねー」っていう先生がいる。
今日だけじゃない!毎週!ひどい!
僕は消えていない!

僕は消えてなんかいない!

WARP
/ JUDY AND MARY

JUDY AND MARY-WARP
愛すべき「ひとつだけ」
 約一年間の活動休止期間を経た後もバンドとして上手く機能できなかった(スタジオにはオリジナルのバンド・メンバーが揃うのではなくそれぞれの知り合いの外部ミュージシャンが出入りしていた)JAMは本作の制作に取り掛かる直前に解散を決意する。解散する前にデカい一枚を作ろうという目標を共有することで製作時には皮肉にも久々にJAM本来の雰囲気を取り戻すことができたアルバムであり、ひとつのバンドが「このアルバムは自分たちにバンドとしての未来をもたらさない」という認識を共にしながら作った、非常に重い意味を持つ一枚である。「解散」という燃料を燃やしながらひとつのアルバムにしゃかりきになる、という行為が彼らにとって現実を受け入れることだったのか、それとも逃避を意味するものだったのかはわからない。恐らく、どちらでもあったのだろうと思う。まさにそれを表すかのように、ここにはJAMのキャリアを総括する様々な手法・アイディアが集結している。イマジネーション溢れるYUKIの断片的な言葉と機械との戯れが想像力を刺激する“Rainbow Devils Land”から恐ろしく個人的な心情を歌い上げた“あたしをみつけて”まで、収録曲は実に多種多様である(JAMのトータル・イメージを維持しようとしたTAKUYAの反対をYUKIが押し切る形でここには様々な言葉が集められた)。ただ、それが単なる散漫なパスティーシュに陥っていないのは、アルバムのラストに収録された“ひとつだけ”が、これまでバンドの歩んできた長い道程を感動的なまでにまっすぐに貫いているからだ。この地球上に、永遠に変わらぬものなど存在しない。木は確実に年輪を重ね、海は常にその表情を変える。終わらぬものが存在しないこの世界で「生きる」ということは必然的に「劣化」を意味する。解散を提案し、TAKUYAに「YUKIはわかってない」と言われた時、それでもYUKIは、JAMの歌をもう二度と歌えなくなることさえも祝福した。そうだった。JAMが、YUKIが歌うのは、いつだってそれだったのだ。何かを信じるということは、それ以降の人間としての成長の一部を放棄すること。その信仰は、浅はかだけど、でもだからこそ底抜けに力強い。変化とは未来であり、未来とは希望なのだ。そろそろ歩き出そう。立ち止まるのはもう終わりだ。

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ダニー・ボイル

ダニー・ボイル映画の何がすごいって、
何かを信じる力強さもそうだけど、
音楽もとても良いんだ。

『トレインスポッティング』でのアンダーワールド“ボーン・スリッピー”。
『ザ・ビーチ』でのオール・セインツ“ピュア・ショアーズ”やモービー“ポルセリン”。
『スラムドッグ・ミリオネア』でのM.I.A.“ペーパー・プレーンズ”も素晴らしかった。
どれも、ここ以外のどこで流すんだとでも言うような
絶妙すぎるタイミングで映画を彩るんだ。

あと、初期作『シャロウ・グレイヴ』『トレインスポッティング』『普通じゃない』
でのユアン・マクレガーの使い方も最高。
続く四作目『ザ・ビーチ』でもユアン・マクレガーを起用するつもりだったらしいが、
配給会社から「もっと金になる役者を」と言われて
結局レオナルド・ディカプリオになったらしい。本当かどうかわからないけど。
でも実際に観てみたら、そんなことどうでもよくなるような傑作だった。

『トレインスポッティング』以降は『28日後・・・』以外には
パッとしなかったらしいのだけれど、
最新作の『スラムドッグ・ミリオネア』は完全にブレイク・スルーした作品だと思う。
これ観なきゃ始まりません。
サントラも面白いよ。

Slumdog Millionaire
/ Various Artists

Slumdog Millionaire-Soundtrack
ここでは何もかもが起こりうる
 現在も絶賛上映中のダニー・ボイル監督の最新映画『スラムドッグ・ミリオネア』の舞台となったインドは非常に多言語な国家である。方言を含めると言語数は実に1600を超えるという。インドでは、最もスピーカー数の多いヒンズー語が公用語に指定されているが、準公用語は英語である。もちろんかつてイギリスの植民支配下にあったという史実の影響もあるが、その選定の理由には英語が「どの民族にとっても母語ではない」という中立的立場にあることも重要視されている。そう、インドは他民族国家でもあるのだ。特定の部族を特権的な存在にしてしまわないために、英語は準公用語に選ばれたのだ。インドという国家の混沌ぶりを物語る面白い話だと思う。多民族であれば、当然のように多宗教である。そして、ご存知のとおり、インドには未だにカースト制度という理不尽な身分制度が公然と残されている。世界第ニ位の人口を誇るこの巨大国家は、様々なカテゴリーや成分表示によって制御されることで成り立っているのだ。そして、分類という制御が生成するものは他でもない混沌である。そして、混沌こそが究極の秩序なのだ。「国」ではなくひとつの「大陸」とまで呼ばれるかの地には、すでにひとつの「世界」がまるまる呑み込まれているのだ。
 本作の音楽をほとんどひとりで支えたA.R.ラフマーンというミュージシャンは、インドではカセットをすでに二億個以上も売っているちょっと考えられない人である。彼の作る音楽は、単なるトライバル・ダンスとは言い難い、生音もヒップ・ホップもトランスも内包した非常にバイタリティ溢れる素晴らしい楽曲ばかりである。本作でラフマーンと共演している我らがM.I.A.(インドではなくスリランカ系)も、そういえば少女時代に頭に銃を突きつけられ、叔父を実の父と教えられながら育てられ、赤ちゃんを出産するたった四時間前までグラミーの舞台でパフォーマンスをしていたというちょっと信じられない人である。そして、彼らの楽曲が本作において最も主張しているのは、他でもないビートである。このビートが、鼓動が、躍動感が、映画を常に力強く支えていた。現在のインドは経済発展も目覚しい。インドが内包する、混乱しながらも圧倒的に力強いそのエネルギーは、そして、不可能を可能にさえしてしまったのである。まだ観てなかったら絶対に映画観てください。

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パワー・ポップなめんな

ホント、レディオヘッドとかナイン・インチ・ネイルズとか
トゥールとかアイシスばっか聴いてちゃダメだよ、と言いたくなる。
今月発表されたティンテッド・ウィンドウズのデビュー・アルバムは、
そんな一枚だ。
すでにそれぞれのキャリアで高い評価を得ている大人たちが、
これを、今、大真面目にやろうとしているのである。

パワー・ポップといえばやっぱりマシュー・スウィートでしょう。
このブログでも一度紹介したことがあるけれど、
アルバム『ガールフレンド』のジャケ写は、
パワー・ポップが誇る奇跡の一枚だと思う。

あそこに写っていた女の子こそが、
パワー・ポップが恋をする女の子なのだ。


Tinted Windows
/ Tinted Windows

Tinted Windows-Tineted Windows
男の子は大好きな女の子がいなきゃ絶対に輝けない
 ティンテッド・ウィンドウズ。ハンソンのテイラー・ハンソン、ファウンテインズ・オブ・ウェインのアダム・シュレンジャー、スマッシング・パンプキンズのジェームズ・イハ、チープ・トリックのバン・E・カルロスという未だにわけのわからない組み合わせの四人組がパワー・ポップだなんていい歳した大人がやるには恥ずかしすぎる音楽に明確なヴィジョンを持って真剣に取り組んでいる、というちょっと信じられないバンドである。歌詞がかなり好きだ。「彼女は絶対に手放したくなくなるような女の子、アッアー、アッアー、ウォウウォウウォー」「愛なしでは前に進めないんだぜぃえぃいぇーカモーン!」などなど、聴いてるこっちが赤面必至の恥ずかしいセリフが次から次へと飛び出してくる。それにしてもパワー・ポップってなんでこうボーイ・ミーツ・ガールな甘酸っぱい恋愛ソングばっかりなんだろう。それは多分、パワー・ポップという音楽がそのことのみを伝えるための特別な言語だからだ。
 ポップ・ミュージックには魔法がある。それは、「君はひとりじゃない」という日頃口にすることのない恥かしい言葉がなぜか言えてしまう、そんな思いを自然と乗せることができてしまうメロディのことである。パワー・ポップにも同じことが言える。それはつまり、「君のせいで僕の頭はグチャグチャだよ、もうこれ以上我慢できないんだ!」なんていう罰ゲームとしか思えないセリフでさえ平気な顔して、時には砂糖てんこ盛りのあま~い声まで使って言えてしまう、という摩訶不思議なものである。どれだけお金持ちで容姿が完璧で頭脳明晰でも「あの子」を振り向かすことはできない(できる場合も大いにある)、という宇宙の真実とまったく同じだ。聴く者すべてを涙させるリリック、音楽史をひっくり返すような壮大なギター・リフ、先の読めない奇想天外な展開、それらすべての素晴らしいアイディアを掻き集めたとしても、「君は僕の愛しのチャ・チャ、チ‐チ‐チ‐チャ」というパワー・ポップの必殺の一行が伝える真実には遠く及ばないのである。これは、そんな素晴らしくマジカルなアルバムだ。

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Jealousy

なんて、なんて、甘く、危うい響きなんだろう。

今月は、すでにグリーン・デイやマニックス、
イギー・ポップ、ティンテッド・ウィンドウズなどの新作が発表されていて、
これからはまだマリリン・マンソンやエミネムの最新作が待ち構えている。
まさにリリース・ラッシュ。
そんな中で、僕が密かに一番楽しみにしているのは、
今月27日についに発表されるカーシヴの最新作。

カーシヴの歌を聴くと、いつも、高校の頃を思い出す。
僕の怪物は、あの頃に置き去りにされたのかな。


8 Teeth To Eat You
/ Cursive & eastern youth

8 Teeth To Eat You
ジェラシーの怪物
 あのコナー・オバーストも憧れるネブラスカ・シーンの精神的支柱であるティム・ケイシャー率いる重鎮カーシヴと、海外でも評価の高い日本のエモ/ハードコア・シーンの先駆者eastern youthの二組による02年発表のスプリット盤。本作発表後に両者は共にUSツアーを敢行し、その後もティム・ケイシャーの別プロジェクトであるグッド・ライフの作品の中でeastern youthの楽曲をカバーしたり、カーシヴの作品のアートワークをeastern youthの吉野が手掛けたりと友好的な関係を続けている。で、この作品、両者が四曲ずつ持ち寄って非常に濃密な世界観を作り上げているのだが、カーシヴ寄りの人間の個人的な感想でeastern youthには申し訳ないけれど、これは完全にカーシヴが主導権を握っちゃってる。eastern youthも独特の味のある良い歌を歌ってはいるが、カーシヴの歌の毒素がちょっと強すぎる。もちろん良い意味で。オリジナル・アルバムとしては本作の一年後に発表されたカーシヴの最高傑作『アグリー・オルガン』でしか聴けないグレッタ・コーン(01年にカーシヴに加入。05年に脱退)の狂気的なチェロの旋律が猛威を振るっているというだけでも極めて価値のある楽曲が並んでいる。特に圧巻は恋人の浮気と強烈な嫉妬心を歌った“アム・アイ・ノット・ユアーズ?”。ヒソヒソと耳打ちするかのような薄気味悪いティム・ケイシャーのボーカルがいきなり「ジェ~ラスィ~!」の咆哮に一転する瞬間の、残酷な月の裏側が瞬時に表側へ反転するかのような戦慄は、何度聴いても体中に鳥肌が浮かび上がる。カーシヴがそんな誰もが裸足で逃げ出すような悲劇的な歌を歌う一方で、eastern youthが“ぶらぶら節”“無用ノ助”“二足歩行小唄”“何時でも此処にいる”なんていう達観的な歌を歌う。その構図がちょっと笑える。考え方ひとつで景色は随分変わるもんだと改めて思い知らされたような気がします。

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愛と勇気とロマン

21st Century Breakdown
/ Green Day

Green Day-21st Century Breakdown
世界の果てで君と出会いたい
 僕は以前、グリーン・デイの『アメリカン・イディオット』について、「あなたの“ホームカミング”を問うアルバム」だと書いたことがある。いったい誰のために戦うのか、と。人には国家よりも優先して守らなきゃいけないものがあるだろう、と。今でもあのアルバムが伝えることはそういうことだと思っている。あれから実に五年。長いブランクを経てついに発表されたグリーン・デイの最新作は『21世紀のブレイクダウン』である。ここでいう「ブレイクダウン(=崩壊)」とはいったい何を意味するのか。壮大なオープニング・ナンバーの中で彼らは歌っている。「マイ・ジェネレーションはゼロ。ワーキング・クラス・ヒーローなんかになれやしない」。そう、これが僕たちの生きる21世紀の出発点である。僕たちはすでに知っているのだ。人生はいつだって儘ならない。夢は破れ、愛は引き裂かれる。戦いは勝者を生み出さない。僕たちはいつか必ず楽園を追われる。世界を救うヒーローなんてどこにもいやしない。すべてが崩れ落ちた後の瓦礫の山から始まった時代。今という21世紀における余りにも重大な崩壊とは、すなわち、「“ホームカミング”=帰るべき場所」の喪失である。幼い子どもでさえ世界には欺瞞が溢れていることを知っている。そもそも僕たちには守るべきものなどなかったのだ。振り返ってみても帰るべき場所なんてどこにもない。信仰を持たないのではなく、ただ信じられるものがないのだ。それでもグリーン・デイはまるで、魂を前へ前へ生きろ生きろと鼓舞するかのようなポップでキャッチーなサウンドを忘れなかった。これはもちろん現実を無視した無責任なオプティミズムなどではない。全米屈指の犯罪都市であるオークランドで今なお生活を送り、「郊外で生きる」ということを他でもない実感で理解している彼らは、僕たちの人生がどうしようもなく連続した物語であることを知っている。ジャケットが好きだ。燃え上がる世界を背後にキスを交わす二人。燃え上がる世界とは世界の終わりと同義である。世界が終わり、僕たちが本当の意味で崩壊するまさにその時に、君に「愛してる」と伝えられたら良いなと思っている。帰るべき場所、守るべきもの、信じられるもの。それが未来にあったって良いじゃないか。それが希望でなくていったい何なのか。

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世界と対等なんて幸福じゃない

Holly Wood
/ Marilyn Manson

Marilyn Manson-Holly Wood
死ななければ生きられない
 前作で遂げた音楽的な変容と四部構成に及ぶ長大な作品に仕上がった影響からか、ビルボード13位と商業的にはいまいち振るわなかった本作だが、それは数字の話でしかない。これは疑う余地のない大傑作である。『アンチクライスト・スーパースター』『メカニカル・アニマルズ』と共に壮大なトリロジーを織り成すその序章にして最終作という非常に重い意味を持ったアルバムである。時系列を遡る形で構成されたその物語は、ここから始まり、そしてこの始まりが明かされることで終焉を迎えるのである。だから本作は当然のように、詞的にも音楽的にも視覚的にも、キャリアにひとつの楔を打ち込むような集大成的要素を色濃く含んでいるし、マリリン・マンソンという狂気の人格の誕生の秘密さえも明かしてしまうような、彼の表現の核心部分を抉りまくる言葉が並べられている。更に、コロンバイン高校の一件で政府や親といった強権的な存在から一方的にスケープゴートに仕立て上げられたこともあって、拳銃や政府やキリスト教原理主義をテーマに取り上げるなど、世界観はここで確実な広がりを見せている。ここまでの作品に常に共通してきた何者かになりたいと祈るその欲望は、もはや地層の奥深くでとぐろを巻くに留まらず、表面部分にまで沸々と浮かび上がってきている。世界はなぜこんなにも理不尽なのか。自分が求めているものと、自分が対峙すべきものとは、なぜこうも絶望的に食い違っているのか。この地獄は、なぜ自分を何者にもならせてはくれないのか。マリリン・マンソンは、そんな抗い難い矛盾のど真ん中で自らを磔刑に処し、腐り果てることによってこそ、世界が恐怖する何者かになり得たのだ。しかし、彼が本当になりたかった「何者か」とは、こんな姿ではなかったはずだ。彼が自らのことを「生贄」と呼ぶのは、社会から敵視されることを意味するのではなく、そういうことなのだ。本作のグロテスクなアートワークは、だからこそ背筋が凍るほどに迫真的なのである。

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時代を置き去りにして

携帯ぶっ壊れました。
以前からボタンを押す衝撃だけで電源が切れたりしていたから、
そろそろ危ないとは思っていたけどついに。

データが完全に消えたのがつらい。
大学はともかく、地元の知り合いの連絡先、
どうやって手に入れたら良いの?
町ですれ違ったりなんて、あり得ないしなぁ。

とは言ったものの、携帯なくてもそんなに困らなさそーという、
ちょっとどうなんだろうという気持ちもある。
僕に連絡くれる人なんて、きっとどうしようもない物好きなんだろう。
なんか笑える。


マイケミ、フォール・アウト・ボーイ、パニック・アット・ザ・ディスコ。
これと似たようなことができるエモ系バンドはこの三組しかいないのでは。
というか、この三組が今やっているのは、もはやエモですらない。
個人的には、ジャックス・マネキンのピアノソロなんて、聴いてみたいなぁ。

モーション・シティ・サウンドトラックのサード・アルバム
『イーヴン・イフ・イット・キルズ・ミー』は、
これがエモでなくてなんなのか、とでも言うような、
もうひたすらにエモい作品です。文句あんのかって。

嘘つきのまま、それでも自分の求めてるものに限り無く近づきたい。

Even If It Kills Me Acoustic EP
/ Motion City Soundtrack

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嘘つきが嘘を止める時
 未だに定義が曖昧なまま、しかしロック界で目下最強無敵の言語となっている「エモ」。いつになってもその輪郭が定まらないのは、エモが自身の不透明さを必然的に肯定してしまう音楽だからだ。それはつまり、エモが明確にして的確な認証行為を経て存在を肯定された音楽ではないということを意味している。エモの基本構造とは、ざっくり言うなら、歌い手の「嘘」と聴き手の「誤解」が手と手を取り合った「共犯関係」に他ならない。「ここにはみんなの歌があるよ!」とオオカミ少年のごとく声を張り上げ、過剰な演出を施し聴き手の感傷を揺さぶりまくる歌い手。「ホントだ! これは僕の歌だ!」とそれに勘違いし、手を振りかざしながら大合唱する聴き手。エモは、あくまで基本的に、そしてだからこそ恐ろしく根本的に、そんな明らかなすれ違いに目をつぶることで両者が築き上げた「共犯関係」の上に、ちょこんと座ってしまった音楽である。道端に置き去りにされた仔犬のような感傷。それは果たして「本物」なのか?とエモは何度となく疑いの眼差しを向けられてきた。これからもそれは変わらないだろう。
 今年3月に発表された本EPは、07年に発表された彼らの傑作サード・アルバム(ビルボード・インディー・チャート一位)の収録曲5曲を新たにアコースティック・バージョンで録り直した企画盤。肩の力を抜いて聴けばいい作品だとは思うが、彼らのサウンドにおける強烈な魅力のひとつだったムーグの音が一切鳴り止み、音そのものに絶頂感や解放感がなくなったここでのアコースティック・ナンバーはどれも、もはやエモの必然である「共犯関係」を必要としてはいない。「みんなの歌」がその全体像を小さくすることで、ものすごく「個人的な歌」に完全に成り代わっているのだ。聴き手をほとんど必要としていないのだ。しかし、その音楽が伝える悲しみや切なさの質量は、まったくと言って良いほど損なわれていない。ここまで虚飾を取り払ってもなおリスニングに堪える強度を備えているエモ系バンドは恐らく数えるほどしかいないのではないだろうか。ダンサーがダンスを放棄する時、そこでは時間が止まり、時代の革新者がエクスペリメンタリズムをかなぐり捨てる時、そこには永遠が生まれる。エモっ子という嘘つきが嘘を吐くことを止めた時、そこにはとにかく名曲が残ったのだ。

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始められる始められる始められる!

Generation Terrorists
/ Manic Street Preachers

Manic Street Preachers-Generation Terrorists
ロックンロール・スターなんていないし、いらない
 「アルバムを一枚出して、世界中でナンバー・ワンになって、解散する」という大胆不敵な勝利宣言とリッチーの「4REAL」事件によっていかに自分たちが「本気」であるかを世間にアピールしていたマニックスだが、92年に発表されたこのデビュー・アルバムは結局のところナンバー・ワンを獲得できず、バンドも解散しなかった。ここで解散しなきゃロックンロールじゃない、という当時集中砲火のように浴びせられた揶揄もわからないでもない。まるで雷のように生き急ぎ、一瞬を駆け抜けるロックンロール・スター。それは余りにかっこよすぎるから。
 言うまでもなく、世界は醜悪である。ひとりひとりの人間はそれほど悪人とは思えないのに、それが企業や国家レベルの集団になったとたんにいきなり地獄からの使いのような残酷な顔を見せる。マニックスは歌う。腐りきった世界。そこでしか生きられない自分。自分でさえそんな世界の一員でしかないという屈辱感。みんな、イイかっこなんてできないのだ。ドラッグの過剰摂取やショットガンで頭を撃ちぬいて死んだロック・スターなんて信じるな。あっちの世界に逃げただけじゃないか。こっちの世界から手の届かないところでお高く留まったロックンロールなんて全然素敵じゃない。死んだやつらの真実なんか真に受けるな。生きてるやつらの嘘に騙されたいと思え。本当のロックンロールはそこからしか始まらないんだ。この十字架と乳首と刺青に宿る破壊力とピュアネスは、あなたがかつて吐いてしまった嘘と何ひとつ変わらないんだから。僕が生きれば何人かの世界は変わるさ。君が笑うのだって同じだ。ロックンロールとは、つまりはそういうことだ。

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反則

前回実家に帰った時に母親が言っていた。

ずっと会社人間だったうちの父親は、
なぜか最近、音楽を、映画を、読書を嗜み、
「味」のわかる男に今更なろうとしているらしい。
なろうと意識して、なろうとしているらしい。

更に、「どうすれば素敵な男になれるのか」、
などと訪ねてきたらしい。
「自分の妻にそんなん訊いてる時点で無理じゃアホ」
と言い返した母親も、かつては「おんなのこ」だった。
・・・・・・今も?

おんなのこの正体
/ 安彦麻理絵

おんなのこの正体
秘密の隠し場所はスカートの中じゃない
 このタイトルを見て、後ろ髪を引かれん男がいたらそんなやつは完全なるモグリである。ズバリ『おんなのこの正体』。こ、これは、男の子が絶対に開けてはならぬ、パンドラの箱……。嗚呼! しかし私、愛の人になるために、この禁断の箱を、今こそ開けまする……なんていう大袈裟な気持ちでドキドキしながらページをめくると、正直なところ、ふーん、なぁんだ、そんなたいそうなもんじゃないやー、という感じ。要するに、女の子は案外顔で男を選んでないし、女の子だってエッチだし、うなだれるなよ男子諸君!ということ。『おんなのこの正体』だなんて危ういタイトルだから、男の子の僕は見ない方が良いのかな……とか買う前にかなり悩んだのに、どの話題も男子をガッチリ射程に捉えてる。というかそもそもこれの連載されてた『CIRCUS』ってめちゃめちゃ男性誌じゃん! しかも30代向けじゃん! 僕の覚悟の時間を返せよ! 綺麗な気持ちを返せよ! てかもしこれに励まされたり頼っちゃったりしたおにーさんがいるならもうその時点で全然ダメだよ……。僕はもちろんそんな下心ありませんでしたけどねー。はっはー!
 とりあえずこれ、女の子の「正体」までは明かされていません。基本ほとんどが夜の営みについてで、女の子が潜在的に秘めている魔性のようなものは、ここでは一切解き明かされません。これは「正体」というよりむしろ「生態」と呼ぶ方が相応しいと思う。『おんなのこの生態』。そんな、ちょっとカブトムシっぽい臭うテーマ全24編(“女の性欲は発酵する”“ココロに男根を持った女”などなど、ひどい……)。だからある意味では安心して読めるけど、だからこそ別に知るべきようなことも皆無。幻想とか持ちたい人は、読まない方が良いかも。そもそも女の子に関することで自明の事実なんていうものはこの世にあり得ないわけで、それをあり得ないと思っている時点で僕はすでにいろいろ騙されちゃってるわけだけど、でも騙されてなんぼでしょう。笑顔の素敵な女の子を見つけましょう。

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ロックンロールを信じるな

ホラーズ
色がいろいろ入り乱れてるよ。

そう、ロックというキャンヴァスには、
何だって描ける。

何だって描けるのは、
ロックンロールという音楽がニセモノだからだ。
ロックンロールはどんな嘘だって吐ける。

Strange House
/ The Horrors

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様式に溺れることなかれ
 バンド名=ザ・ホラーズ、デビュー・アルバムのタイトル=『ストレンジ・ハウス』、サブタイトル=『変人奇人のための催眠サウンド』、目を覆い隠す前髪、目元を黒く塗ったメイク、猟奇的殺人鬼・切り裂きジャックをテーマにした冒頭曲“ジャック・ザ・リッパー”、クリス・カニンガム(新作にもプロデューサーとして参加)が手掛け話題を呼んだ“シーナ・イズ・ア・パラサイト”のショック&ホラーなビデオ……とヴィジュアル・イメージはあまりに「いかにも」なホラーズだが、サウンドに関して言えば、背後に付きまとうようなやたらと不安感を煽るコーラスとオルガンの音を除けばいたってオーソドックスな、むしろ擦り切れそうなくらい研ぎ澄まされたソリッドなガレージ・パンクである。今月リリースされる最新作のセカンドではどうやらこの漆黒のイメージを払拭するかのようなカラフルなサウンドが展開されているようだが、そうやって彼らがいとも簡単に自身のキャリアの新たな上書きに踏み込めたのは、本作における半ば滑稽とも思える「ゴス」というイメージがあくまで「様式」であって「本質」ではないからであり、彼ら自身がそこの部分に意識的だからだろう。そう、この漆黒のヴェールに隠されたホラーズの本当の中身とは、固定化されることで形式的に美化された「様式」などではなく生きている「バンド」なのだ。スノッブ気取りでアート志向の高い彼らだが、ロックを含むあらゆる総称としての「アート」とは常にそうあるべきだと知っているのだ。07年に発表されたこのデビュー・アルバムは、ホラーズのひとつの明確な出発点にして、ここからは何が始まってもおかしくないという魅力的な変節を予期させるまだ何色でもない可能性として、そのディスコグラフィーに佇んでいる。
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僕から目を離さないで

ロウソク
キャンドル、なんていう代物ではなく、
正真正銘の、蝋燭、を揺らめかせて遊ぶ。
マリリン・マンソンを聴きながら。

四方八方に「アンチ」を打ち放ちながらも、
激しく刺激的なショック・ロック、インダストリアルを鳴らしながらも、
マリリン・マンソンの音楽が恐ろしく聴き易いのは、
それが聴き手を前提のひとつにした機能的なポップ・ソングだからだ。

「アンチ」でしか説明できない何かがある。
それでしか承認できない何かがある。
あなたは履歴書運転免許書健康保険所戸籍成績表
その他で説明し尽くしてしまえるような存在じゃない。
マリリン・マンソンの「アンチ」が、ただひとつ肯定するのは、
彼自身という存在であり、だからこそそれは僕でありあなたなのだ。

Antichrist Superstar
/ Marilyn Manson

Marilyn Manson-Antichrist Superstar
何者にもなれないという恐怖
 マリリン・マンソンというショッキングな存在を世界の表舞台で決定的に印象付けた記念碑的作品であり、96年のリリース当時キリスト教団体からの不買運動や裁判沙汰などの様々な問題を引き起こした文字通りの問題作であるセカンド・アルバム。個人的な解釈だが、このアルバムを聴いて僕の頭に浮かぶイメージは、カニバリズムである。「憎悪するものを憎み、強姦者を犯す」「お前は俺の心臓を喰らい、すべてを喰らってしまった」「虫けらがその少年を食い荒らす時、それがレイプだとは思われない」「月が太陽を侵食する」など、本作には何かが何かを飲み込み、体内に取り込むことに何らかの意味を与えようとするかのような、カニバリズム的なイメージを聴き手に思い起こさせる危うい言葉が無数に並んでいる。だがしかし、そんな歌の中で彼は「俺はそいつ自身にはなりきれないアニマル」「俺は自分自身になれない間抜け野郎」とも歌っている。いくら喰っても喰われても何者にもなれず、腹の底で膨れ上がっていくものはドス黒い虚無感だけ。世界と同化したその先に待ち受けているものがすべてをスーパーフラットに無効化する圧倒的な闇だと気付いてしまった彼が創り上げた「アンチクライスト・スーパースター」という生き物は、だからこそ取り込むことではなくすべてを拒絶することでしか自己を証明できなくなってしまっている。そういえば、次作『メカニカル・アニマルズ』で彼が再び創り出す「オメガ」という生き物も、男であることも女であることも拒絶したまったく新しい無性の「ポストヒューマン」だった。そして、マリリン・マンソンという汚れた異型のロック・スターによるグロテスクな表現の根底にあるのはいつだって剥き出しの欲望である。そう、人が何者かになりたいと切実に願うその欲望は、こんなにも生々しいものなのだ。本作が、大人の社会に取り込まれることでしか生きていくことのできない郊外に暮らす若者の心を鋭く射抜いたのは、まさにそれ故なのだ。

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ああ

感受性も想像力も貧相で
屁理屈もこねられない根暗なんてホント最悪だよ。

POP LIFE
/ JUDY AND MARY

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JAMの良識
 YUKIの喉の手術とそれに伴う停滞感から製作の難航した五作目のオリジナル・アルバム。メンバーの人間関係もギクシャクしていたというし事実本作発表後にバンドは一旦活動休止期間を設けることになるが、収録曲がTAKUYAとYUKIの共作曲に極端に偏っている点を除けば別段綻びのようなものは感じられない非常に普遍的な魅力を持った素晴らしいアルバムであると同時に、音楽的なバラエティも遥かに豊かになり様々な顔を見せてくれる刺激的なアルバムでもある。ジュディマリ随一の破天荒ソングである“ミュージックファイター”で始まり名バラード“LOVER SOUL”で終わるという極端から極端への帰着も面白い。“イロトリドリ ノ セカイ”や“散歩道”を聴いていてすごいなぁと思うのは、YUKIの選ぶ言葉にはひとつひとつの単語そのものにすでに鮮やかな色彩が宿っているということ。四季それぞれの情感溢れる景色も泡のような幻想的な世界も雨上がりや夕暮れといった日常も、YUKIはまるで魔法の杖を振りまくるようにして言葉を紡ぎ出し、僕たちの頭の中に風景を想起させる。そして、これら多種多様な収録曲をひとつに結んでいるものがあるとすれば、それは、タイトルが示している通りのただひたすらに「ポップ」であろうとする頑なさに他ならない。元も子もないことを言うなら、夕暮れに早く気付いたことのない僕はYUKIの歌からはあまり「共感」の類の感動はいつも得られないのだけど、それでも僕が彼女の歌を聴き続ける理由はその強固な意志にこそある。YUKIのソロ曲にしてもジュディマリの楽曲にしても、そのポップ性は、あなたはどんな景色の中にだっていることができるという力強い肯定として大きく両腕を広げている。それは、バンド崩壊寸前の危機的状況にあった本作においてもやはりそうなのである。
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マソソソじゃないよ

ボウリング
中三だったか高一だったかにこの映画を観て
マリリン・マンソンを聴こうと思った。

『メカニカル・アニマルズ』はそれまで「カルト的」だった
マリリン・マンソン人気を初の全米一位という記録で
見事に更新したアルバム。
映画に登場するのはこのアルバムです。

ここからコロンバインの悲劇や続く傑作『ホーリー・ウッド』など、
マンソンは戦いの場を更に苛烈なところへと展開していく。

もうすぐ新作が出るからおさらいしておこうと思って聴いてたら、
後輩に「これ、マソソソソソ・・・・じゃないですか~!」と言われた。
・・・・・え?

Mechanical Animals
/ Marilyn Manson

Marilyn Manson-Mechanical Animals
真実が創り出した怪物
 映画『ボウリング・フォー・コロンバイン』の中で「なぜ俺が攻撃されるのかわかるよ。俺を犯人にすれば簡単だからだ」とマリリン・マンソンは語っていた。ライブ公演は中止に追いやられるのに銃の擁護を唱える大会はしっかりと開催される、そんな何かが決定的に間違っているアメリカという国を冷静かつ的確に分析する彼の言葉には知性と説得力が溢れていた。神を世界の特等席から引き摺り下ろすような歌を歌い、暴力やドラッグのイメージを散りばめ、奇抜なメイクと衣装に身を包んだマリリン・マンソンは確かに狂気の人である。だがしかし、本物の狂気が「狂う」という概念そのものを必要としないのとまったく同じ理屈で、彼の狂気を正確にコントロールしているのはいつだってその根底でしっかりと機能している正気の方なのだ。映画中のインタヴューを観ればそれは一目瞭然だし、本作を埋め尽くした「俺たちは虐待が好きなんだ。だって自分が必要とされているような気がするから」を始めとする極めて精度の高い言葉の数々からも読み取ることができる。マリリン・マンソンは明らかに悪者だが、それでも「わかっている」のだ。収録曲“アイ・ドント・ライク・ドラッグス”のビデオの中で彼はテレビを重ねて作られた巨大な十字架を背負っている。メディアを通して恐怖が散布され、銃に弾を込めなければ安心を得られず、ドラッグの虚しさの中にしか逃げ場を見出せない、そんな激しくねじれた世界から回されたツケを一身に引き受ける生贄を自ら演じるマリリン・マンソン。軽い響きになってしまうかもしれないが、そう、これは狂気という皮を纏った一種のコスプレなのだ。果たして本当に狂っているのはどちらなのか。子どもはそれがわからないほど馬鹿じゃない。大人が本当に対峙すべきなのは、この手のつけられない才能の殺し方などではなく、僕たちはマリリン・マンソンが勝つべくして勝つことの出来る場所に生きているという事実、その恐ろしく根深い世界という本物の狂気についてである。

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怖いよー

口裂け
はいサトエリ映画ー!
こうして映画作品を順番に観ている間は良いけど、
出演映画全部観終わった後に、
僕は果たして残された他の種類のDVDを買うのだろうか・・・・・?
とにかく今回も良かったよー。
毎回役柄がバラバラで、振れ幅が広いな。


口裂け女
口裂け女
「矛盾」を切り裂く女
 「口」とは、その漢字の佇まいからしても極めて構築的でありバランスが取れているものである。偏と旁とに別けられる構造でもない。僕たちは他でもない口によって誰かと言葉を交わし、距離を縮め、時にはその距離を限りなく無に近づけようとする。口とはそんな、ある意味でとても建設的な場所である。しかしその一方で、口は禍の門、という言葉もある。そう、嘘を吐くのはいつだってこの口という場所なのである。物を飲み込む場所であり、吐き出す場所であり、愛を囁く場所であり、罵詈雑言を浴びせる場所である。お母さんに「おやすみ」と言ったその口で、誰かの股間を舐めるのである。言い出したらキリがないほどの役割を背負った口は、もはや当然のように果てしない矛盾を孕んでいる。
 そんな激しく倒錯した場所を白いマスクで覆い隠し、「ワタシ、キレイ?」と問いかける女は一度「キレイ」と答えたその口から違う答えが返ってくることを許さない。耳まで大きく裂けた口――それがいったいどういうことを示しているかというと、それは、矛盾を孕みながらも混乱をなんとか制御し続けてきたその秩序の最終的な破綻である。70年代に日本列島を席巻したという口裂け女に関する都市伝説はこれまで何度も題材にされてきたが、佐藤江梨子、加藤晴彦、水野美紀らが出演し07年に公開された本作に登場する新たにデフォルメされた口裂け女は、ひとつの興味深い特徴を持っている。それは、ある共通点を持った複数の母親に順番に取り憑いていく、というところだ。そして、口裂け女に取り憑かれる母親たちの共通点とはいったい何かというと、それは、愛しているにも関わらず我が子に暴力を振るってしまう、という救い難いひとつの「矛盾」に他ならない。矛盾はいつか必ず破綻する。人間の矛盾の象徴とも言えるその口は、裂かれなければならない――とまあ、こんな屁理屈だらけの観方もできると思います。でもホラー映画はやっぱりシンプルに怖がりながら観るのが良いよ。キャー!

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車といえば

PunkRockDrive.jpg
こんなの持ってました。
SUM41とかハイヴスとか入っててノリノリです。
でもほとんどオリジナルで持ってるのになんでこれ買ったんだろう?

車はやっぱり助手席が一番良いですよね。
車から足出しちゃダメです。

Fork In The Road
/ Neil Young

Neil Young-Fork In The Road
分岐点はここだ
 ブルース・スプリングスティーンはかつて、75年の傑作アルバム『明日なき暴走』を発表する前年に、57年型シャビーというクラシック・カーを買った。アメリカの大地をお気に入りの愛車で疾走する。それはやはり栄光の証なのだろう。しかし近年、音楽の世界では車を取り上げた歌やドライブを連想させる作品が極端に減ったという。一時のガソリン価格問題や地球温暖化の認識が一般化した今、車に付きまとうイメージは決して爽快なものではなくなってしまったのかもしれない。というわけで、問題意識のアンテナを常に研ぎ澄まし、00年代に入ってなお凄まじい生産性で社会的な意味合いの強い作品を発表しているニール・ヤングが今回の最新作で取り上げたのは、ズバリ「車」であり「エコ」である。二年前に実際に愛車の59年型リンカーン・コンチネンタルを電気モーターとバイオディーゼルの併用できるエコ・カーへと改造した彼は、本作で「ただ歌ってるだけじゃ世界は変わらない」と歌い、ちゃんとエコしてるかい?エコバッグは持ってるけど家ではガンガンにエアコンつけてるとかそんな中途半端なことしてないかい?と僕たちに問いかけながら、自ら問題の最前線に立とうとしている。まぁ、いくらニール・ヤングが車やエコを歌ったところで僕はエコバッグを持たないしゴミの分別もちゃんとやらない。はっきり言ってそんなことを歌うロックを聴いていてもただひたすら退屈なだけである。どーでも良いテーマだと思う。しかし、『フォーク(分岐点)・イン・ザ・ロード』というタイトルや歌詞のイメージが伝える本作の風景は、地球温暖化のみに収まらない現代社会の抱える諸問題や急速に変わりつつロックを取り巻く現状とも片っ端からリンクしていく。大御所と言えども自らの生み出した「型」のコピーを繰り返すのではなく、常に「今」という時代性を必要とする新しい作品を作り続けるその創作意欲にはやはり感嘆すべきものがある。
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今日のところはウルトラサイダーで我慢してやる!

自販
わー!
僕の大好きなミルクセーキがマンションの下の自販機から消えた!
缶に『ヒヨコの宇宙大冒険』物語が載っていて、
全8ストーリーあるそれを密かに集めていたのに・・・・・・。
ひどい、ひどすぎるよ。
まだ全部揃ってなかったのに。
もう自分で想像するしかないじゃないか!
「かわいいヒヨコの女の子」っていう名前なのに
実際はめちゃめちゃぶさいくな女の子とか、
そんなの僕には想像できないよ・・・・・・。
てかチップ・スターに場所取りすぎだろバカヤロー!

昨日の夜、なぜか全然眠れなくて、
「どうせ眠れないならなんか映画でも観よう」と思って、
う~んどれにしようかなぁとDVDを選ぶ。
眠れないならこれだ!と選んだのは『恋愛睡眠のすすめ』。
前観た時より楽しめた。
かくして、僕は幸せな夢を見ることができたのだとさ。

君は今どこにいるんだろう?

恋愛睡眠のすすめ
恋愛睡眠のすすめ
ガラクタの恋をしようよ
 洋題は『The Science Of Sleep』。エッチなカレンダーの編集というつまらない仕事に飽き飽きしていた主人公のステファンはある日、隣に引っ越してきた女性・ステファニーに恋をする。ステファンは、現実世界ではうまく気持ちを伝えられず、時に誤解されるような行動さえも取ってしまうダメ男だが、夢の中ではなんでも思い通り。自分の夢を自在に操る術を知ったステファンは、眠るたびに現実世界とはかけ離れたステファニーとの理想的な恋の物語を展開させていく。しかし、次第にステファンの中で夢と現実世界の境界線が曖昧になっていく……というアカデミー脚本賞の受賞経験を持つミシェル・ゴンドリー監督による脚本も秀逸だが、ビョークのビデオ・クリップも多く手掛けてきた監督の生み出すこだわりの世界観が何といってもたまらない。セロファン、綿、卵のパック、ダンボールなどといった誰にでも手にすることのできるチープなアイテムによって構築された、脆弱ながらも微笑ましい『つくってあそぼ』なワクワクさん的世界観は想像力に溢れていて、観る者の心を優しく包んでくれる。それが、ステファンの夢の世界をとても鮮やかに彩っていくのだ。そして、その世界はステファンの想像力そのものとも言うことができる。ステファンは伝えているのだ。僕はお金や名誉は持っていないし、君に「安心」は与えられないかもしれない。それでも、誰にでも見られる夢の世界の中で、誰にもできない方法で君のことを愛しているよと。ステファンの同僚がセックスのことしか考えていないムサ男だというキャラ設定も効いている。君のことをこんなにも優しい世界で抱きしめようと想像しているのは僕だけだよとステファンは伝えている。「僕と――70歳になったら結婚してくれる? もう損しないよ」というステファンの台詞が最高に良い。二人でガラクタの恋をしようよ、と彼は言っているのだ。その役立たずな恋は多分、とても温かいんだと思う。

00:47 | 映画 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

「想い」はなんか実感できなくて使いたくないんだ。

アントニー&ジョンソンズ
これがアントニー・ヘガティのプロジェクト、
アントニー&ザ・ジョンソンズ。
今年一月に最新作を発表しました。
一番右のやつです。

僕が一番好きなのは、
真ん中にある『アイ・アム・ア・バード・ナウ』というセカンド・アルバム。
イギリスのマーキュリー・プライズを獲得したアルバムです。

ジャケットは、ピーター・ヒュージャーというエイズで他界した写真家の作品。
その名も『キャンディー・ダーリングの死の床』。
モデルのキャンディー・ダーリングは性同一性障害を抱えた女装のスター。
決して誰も訪れることのないベッドルームで、
ひとり化粧を施し、自分に美しさを見出そうとする男性がいる。

アントニー・ヘガティは自分が歌を歌うことを「パフォーマンス」と位置づけている。
そう、それは、こちらを見てくれる、
「自分以外の誰か」がいなくては成立し得ない行為なのだ。
だからこそこのアルバムはひどく悲しい。

この漫画読んで急に聴きたくなったんだ。

ハピネス
/ 古屋兎丸

古屋兎丸-ハピネス
あなたを思う時に私が流すこの涙は愛です
 八つの物語が収録された古屋兎丸の短編集。教師と女生徒の禁断の愛を描いた冒頭作にソフトコア・ポルノ映画の金字塔『エマニエル夫人』からのある台詞が登場する。「エロスは第三者の目があってはじめて完成する」。なるほど、と思ってしまった。欲望の当事者から距離を置いた客体的な視点はそこに幾ばくかの奥行きを与え、単なるエロを「エロス」へと昇華させる。僕たちが悲劇的な愛の物語に魅了される理由はそこにあるのではないかと思った。ロミオとジュリエット。織姫と彦星。理不尽にも引き裂かれる当事者たちの絶望感に共感しながらも第三者はそこに一種のカタルシスを見出している。なぜならそれは物語だからだ。フィクションだから安心、という意味ではない。引き裂かれた愛の背後にある物語性がそれをただの離別では終わらせない深まりを与えているということだ。そう、エロを「エロス」へと深める奥行きとは物語性である。当事者の現実を背負わないそれ以外の誰かにしかできない試みがあるとすれば、それはそのエロなり絶望なりを物語ることなのだ。それはもしかしたら無責任な行為かもしれない。しかし、そこからしか生まれ得ない救いもやはりあるのだ。彼ら当事者の打ち砕かれた愛を「悲しみの愛」と呼ぶことができるのはそれを物語る第三者だけなのだ。
 アントニー・ヘガティという歌手がいる。両性具有者である彼は、自分は完璧な女性になれなかったからこそこんな中途半端な姿かたちで独りぼっちにされてしまったのだと嘆き、そんな紛い物の自分をそのまま受け入れてくれる誰かが側にいてくれさえすれば、と“ホープ・ゼアズ・サムワン”という歌で切実に歌っている。そう、当事者の現実はやはり違うのだ。彼が本当に欲しいのは「悲しみの愛」などという情感溢れる代物ではないのだ。古屋兎丸が『ハピネス』というタイトルに希望を託しながらここで描いたことは「悲しみの愛」でしかない。しかしだからこそそこで少女の頬を濡らす涙は「あなたがいてくれるだけで良いのに」という当事者の現実の重さを強く訴えかける。そんな狂おしい物語が詰まってます。
00:24 | | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

笑わば笑え

サトエリ
僕は気付いてしまった。

そうだ!
僕はサトエリが好きなんだ!
サトエリこと佐藤江梨子が大好きなんだ!

こんなミーハーな気持ちは中ニの頃のブリトニー以来だぜ!
まだこんだけしか持ってないけど他のDVDも買うぜ!
サトエリブログ『サトエリタイムズ』をブックマークしてしまったぜ!

嗚呼!
『キューティーハニー』
めっちゃ楽しんでしまったぜ!

CUTIE HONEY
キューティーハニー
ハートがチュクチュクしちゃいます
 「正義は必ず勝つ」的なこういう所謂特撮モノには「クリシェ」と言うよりもむしろ「型」とでも言うべき一種の厳粛さをその典型性の中に感じてしまう。実写でもアニメでもない「ハニメーション」という03年制作当時の最新CG技術を駆使しているものの、本作は特にその「型」を大きく逸脱したラジカルな作品なわけではなく、要するに『キューティーハニー』という国民的キャラクターの名の下にサトエリのキュートさとナイスバディをこれでもかとアピールする、まぁ非常にたまらん映画なのである。なんかコスプレ・シーン多いな……あれ?これサトエリのイメージ・ビデオじゃないよね?てかなぜに意味もなく倖田來未登場?で歌う?そしてなぜミッチーまで熱唱?え、なんで?とツッコミたくなるシーン満載で終始ハイテンション!な一時間半。もちろん観ている者の価値観を激しく揺さぶるような作品ではないし、自由に観たり観なかったり楽しんだり楽しまなかったりすれば良い映画だと思う。
 ただ個人的に、やっぱり特筆すべきはサトエリの胸の谷間……ではなく演技の方で、彼女の出演作はこれの他には『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』(07年公開)しかまだ観ていないので他作品に関してはほとんど無知な状態なのだが、この人の演技はなんか良いのだ。少なくとも「味わい」とか「深まり」を感じさせるタイプの演技ではなく、あえて言うなら「イキが良い」という感じだろうか。とにかく思い切りが良くて観ていて気持ちが良いのだ。眉間にシワ寄せて口元ひん曲がらせながらの『腑抜け~』での演技だって共演した永作博美の百戦錬磨の「技」の演技に全然負けてなかった。やっぱりグラビアアイドル出の人って根性あるんでしょうか。しばらくはサトエリ出演映画を追っていきたいと思っています。ちなみに本作でサトエリは実に二十近いコスプレに挑戦したようなのですが、個人的に一番好きなのはダントツでゴミ袋でした。その次はOLかチャイナかな。まぁ、そんな映画がひとつくらいあっても良いと思います。
01:48 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ニンジャじゃないよ

アズベリー
ブルース・スプリングスティーンの記念すべきデビュー・アルバムの
LP版のアートワークは、
こんな風に中段部分がスプリングスティーンからのポストカードみたいになっている。
僕はCDでしか持っていないけど、
ヴェルヴェット・アンダーグラウンド&ニコのアルバムでは
ジャケットのバナナの皮がむけたらしいし、
ストーンズはジーンズのファスナーの開け閉めができたらしい。
これはやっぱりLPならではの遊び心ですよね。

ここ数年のデジタル・ダウンロードの領域では、
レディヘやNINを始め様々なアーティストが
ラディカルな価格設定や発表方式を実践して、
「今音楽をどう聴くべきなのか?」という本質論を
聴き手に突きつけたわけだけど、
こういうこだわりのアートワークみたいな、
実際のところ音楽を聴く上ではどうでもいい場所に
手間をかけている作品は少なくなっているような気がして、
ネットの普及でいつでもどこでも音楽が手に入る時代だけど、
LPっていう聴く場所を限定しまくるこっちの方が、
それでも聴き手の距離は近いのかな、なんて思ったりしました。

Greetings From Asbury Park N.J.
/ Bruce Springsteen

Bruce Springsteen-Asbury Park
走り出す前に立ち止まるなよ
 CBSのバラエティ番組『エド・サリバン・ショー』に出演するエルヴィス・プレスリーを観て初めてギターを手に取ったブルース・スプリングスティーン。当時彼は9歳で、まだ手が小さすぎたためコードを押さえることすらできなかった。エルヴィスにひどく憧れていた彼にとって、デビュー当時の「第二のボブ・ディラン」という売り出し方はやはり不本意だったに違いない。73年に発表されたスプリングスティーンの記念すべきデビュー・アルバムである本作には、彼にディランの後追いをさせようとするレーベル側の思惑が透けて見えて、アコースティックな弾き語り曲がいくつも収録されているのだが、そもそも彼が評判だったのは力強いライブ・パフォーマンスであったわけで、決してアコギをポロロンと爪弾きながらのストーリー・テリングという器用な技ではなかったのだ。そのことを裏付けるかのように、本作は発表当時チャート・インすることすらできなかった。後にビルボードで最高60位まで上がってはいるが、これは出世作『明日なき暴走』がリリースされた75年の記録であり、スプリングスティーンのデビューは実際のところ世間を騒がせることなく静かに迎えられていた。続くセカンド・アルバム『青春の叫び』も不振に終わり、サード・アルバム『明日なき暴走』で一躍脚光を浴びるが、その間彼はレコード契約の見直しを迫られていた。でも、今聴いてみてもなぜこれが発表当時ヒットしなかったのかよくわからない。“光で目もくらみ”なんてどんだけかっこいいんだ。堤防が決壊したかのように次々と溢れ出る言葉の数々。「ママがいつも言ってた。太陽を見つめるんじゃないよって。でもママ、そこにこそおもしろいものがあるんだ」。スプリングスティーンはこの時すでに走り出す準備が出来ていた。このアルバムが発表された数ヵ月後、スプリングスティーン一行はとある公演でチャック・ベリーのバックバンドを務めている。その時ベリーはバンドに向かって「金のために演奏しなよ」と言ったそうだ。それでもスプリングスティーンは走ったのだ。
01:18 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

愛の人になりまする

「ステージに愛をちょうだい!」

今までYUKIが言った言葉で一番忘れられないのは、
かのライブCDに収められたこれだったりする。

THE POWER SOURCE
/ JUDY AND MARY

Judy and Mary-The Power Source
人は独りでは生きていけないから
 パンキッシュでアグレッシヴな女の子=JUDYとナイーヴで内向的な女の子=MARYというまったくバラバラなふたつの人格を背負ったバンド名がすべてを象徴している。メンバーのルックスもちぐはぐである。そう、ジュディマリはある種の対立関係によって成り立っていたバンドである。それは「私とあなた」や「天と地」などの引き裂かれた関係性を強く連想させるYUKIの詞にも表れている。まったく違う属性を持ったふたつ以上の何かがひとつの世界で邂逅を果たし、お互いが違っていることをそれぞれが認めながら、出会いと別れを繰り返していく。つまり、ジュディマリの歌にはいつだって「自分以外の誰か・何か」の登場が約束されている。ジュディマリの歌を主体としての「私」とするならば、ジュディマリはいつだってその歌が届くべき客体としての「あなた」を必要としてきた。聴き手が歌を求めたのではないのだ。歌が聴き手を求めたのだ。同じことを言っているようだがこのニュアンスの違いは実は非常に大きい。なぜなら、それこそがまさにジュディマリの歌が内包する異様なまでのポップ性の本質そのものだからだ。
 恋人とお揃いのストラップ。左手の薬指を独占する結婚指輪。誰も知らない太ももの内側で笑うガイコツのタトゥー。そういった愛情表現は、少し重い言い方をするなら、契約の証である。「私は何がしかである」という約束の証明である。それは時に呪縛や束縛といった煩わしさを感じさせるかもしれない。しかし、人と人とが関わって生きていくということは、つまりはそういうことなのだ。この世はまさに十人十色。誰もが誰とも違っていて、まったく同じ人間なんてたったのひとりすらも存在していない。そんな混乱した世界の片隅で交わされる「私は何がしかである」という約束は、無数の他者ではない世界にたったひとりの「あなた」による承認がなければ成立し得ないものなのだ。「私」とは、無性に「あなた」を連想させる存在でなければならないのだ。「私」が「あなた」なしに「私」たり得ることなどあり得てはいけないのだ。
 “そばかす”“くじら12号”“クラシック”などの今なおジュディマリの代表曲として語り継がれる名曲が出揃った通算四作目となる本作で彼らは初のオリコン一位&ダブルミリオンを獲得している。愛しているから私を証明してー!という彼らの叫びはまるで、高い空!青い海!澄んだ空気!暑い太陽!黒い雲!濡れる雨!儚い夢!切ない恋!淡い思い出!のように日本列島を駆け巡り、そしてきっと「あなた」と呼べる誰かの心に届いたのだ。
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卑屈は鬱で痛いからもう止めたんだ

Slumdog Millionaire
Slumdog+Millionaire++Poster.jpg
物語とは、それそのものがすでに希望なのだ
 僕たちの人生は、たいていの場合、劇的なものにはなりえない。むしろ、欠伸が出るほど平坦な道程だと思っていたのに、気付いた時には以前と比べて随分と低い場所で立ち尽くしていたりする。変化に乏しい退屈な毎日の繰り返しだと思っていたのに、気付けないくらいのゆったりとしたスピードで、ジワジワと追い詰められていたりする。僕たちの人生には明確な起承転結なんて配置されてはいない。いつの間にか始まっていて、振り返れば終わっている。始まる前に終わってしまうことだってある。小説やドラマになんてなり得ない人生。それは単なる表現の話ではなく、事実としてそうなのだ。僕たちがそういったあらゆる種類の物語に魅了され続けるのは、やはりそれこそが僕たちの人生に決定的に欠ける要素だからだろう。
 『クイズ$ミリオネア』。その舞台がいったいどういう場所かと言うと、それは僕たちの人生に物語を作る場所である。全問正解を果たした時の震えるような喚起は、それがたとえ金銭的な話でしかなかったとしても、間違いなく「ここで何かが変わった」と思わせる、人生に重大な楔を打ち込む決定的な出来事だろう。ご存知の通り、ダニー・ボイル監督最新作のこの映画では、そんな華やかな場所には半ば場違いとも言えるスラム街出身の無学の青年が現れる。当然博識なわけがない。しかし彼は、多くの難問に、運でもカンでもなく、人生で答えていくのだ。その時、彼の背後では、どこに続いているのかわからない長く大きな河がそれでもやはり最終的に海というひとつの結論に辿り着くように、断片的でしかないと思われた人生がひとつの物語へと結晶化されていく。彼はクイズに答えながら、他の誰でもない、自分のものでしかあり得ないひとつの物語を語り出していくのだ。そして、そこで語られる物語とは、インドの極貧スラム街で生まれ育った少年にとっては何ら特別な風景さえも感じさせない、出口の見えない日々のひたすらな繰り返しでしかない。彼の人生に特別な何かがあったとすればそれは、大好きな女の子がいた、というそれでさえ究極なまでに普遍的な出来事以外の何物でもないのだ。だとすれば、この映画が伝えることはたったひとつである。そこにたとえ人を狂わせるほどの金額が書き込まれていたとしても、ひとりの人間が自分のすべてを懸けてでも肯定する誰かへの思いが、一枚の小切手なんかより薄っぺらなわけがないじゃないか。そんなことが、あっていいわけがないじゃないか。
 そして、ダニー・ボイルが、その名を世に知らしめた90年代の傑作『トレインスポッティング』で描いていたことも、やはりそういうことなのだ。セックスとドラッグとアルコールと暴力に身を沈めた90年代半ばのスコットランドに生きる少年少女の常に絶望と隣り合わせの日常を描きながらも、多くの当事者たちから絶大な支持を集め、彼らがそこに希望を見出せたのは、やはりそういうことなのだ。退屈で絶望的で屈辱的でクソったれな負け犬の人生にだって、始まりも終わりも見えないような人生にだって、明確な分かれ道なんてない行き止まりだらけの人生にだって、物語はあるのだと。ミリオネアに挑戦するまでもなく、そうなのだと。それはもしかしたら、社会に何ひとつ利益をもたらさない役立たずの物語でしかないかもしれない。しかし、あなたにはあなたにしか語れない物語が絶対にあるべきである。そして、そこには希望が約束されていなくてはならない。なぜなら、僕たちは生きているのだ。物語とは、あなたが今間違いなく生きている証拠である。
00:07 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑
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