スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--:-- | スポンサー広告 | comment (-) | trackback (-) | page top↑

ほんわかぱっぱ

吉本
わー!
吉本新喜劇だー!

福岡では日曜の深夜だと思っていたけど、
時間変わったのかなぁ?

本でも読もうかと思ってたけど止めだ止めだー!

でもレヴューは載せますー。

The Virgins
/ The Virgins

The Virgins-Atlantic
アートは再び上書きされる
 斬新というかほとんどわけのわからないデザインの絵画とか、「アートは引き算です」とか言い出しそうな若干薄暗くてスタイリッシュな感じの写真とか、ただ単に僕の感受性が乏しいというだけの話だけど、そういう「あ~アートっぽいねぇ」とか「なんかオシャレだねぇ」ってついつい言ってしまいそうになるような作品が嫌いだ。キューブリックの映画を観て「やっぱカメラワークが違うわ」としか言えない人はイタイ。構図における美しさ。もしそれをアートと呼ぶならば、だからいったい何?アートって面白くないね、と僕は思うのだけど、どうなんだろう。えーなんかダンボールが部屋の角に置かれてるよー?これもアートなのー?まぁ確かに構図に無駄はないけどねーそんなの見せられても僕は例えば小判を与えられた猫?念仏を聞かされる馬?はたまた真珠を与えられた豚にでもなってニャーニャーヒヒーンブーブー鳴いてるしかないんですけどー。確かに「わかってる感」はあるけど、これ、どーでもよすぎるよねー?
 とてもデビュー・アルバムとは思えない、高いレベルの洗練を帯びたウェルメイドな作品である。NYファッション界の住人やセレブと呼ばれる人種から非常に濃い支持を集めているという話にもすんなり頷ける、ヴァージンズは今かなりイケてるバンドである。80年代ファンクを彷彿とさせるアナクロニズムはしかし決して埃まみれの印象を与えず、ひたすらにポップ・アート的ではある。しかし、これが余裕ある人々の単なる嗜好品に終わっていないのは、ここで歌われているすべてがひとりの人間の生活を縁取るリアルな感覚以外の何物でもないからだ。そこがたとえファンキーかつグラマラスなNYのナイトライフという過剰な場所であったとしても、その煌びやかな景色に佇む自分は物足りない日常とどうしようもなく地続きなのだと歌う説得力である。自分とまったくもって無関係な、ともすればそれを作った当事者にとってすらほとんど意味を成さないと思える美しさをアートと褒め称える必要なんてどこにもない。ヴァージンズが歌っているのはそういうことだ。

スポンサーサイト
01:34 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

カレー作ろー

最近いくら寝ても眠たくて
いくら食べてもお腹が減って
たくさん食べても太らない。

あー今猛烈に世界から無視されてるよー。
世界から猛烈に消されようとしているよー。
って少し興奮します。
世界が無視しても食べるしー!

ゴールデン・ウィーク何しよう。

Evening Out With Your Girlfriend
/ Fall Out Boy

Fall Out Boy-Evening Out
ここからもうすでに始まっている
 シカゴを中心に活動していたフォール・アウト・ボーイが03年にインディ・レーベルであるアップライジング・レコードから発表した初めてのスタジオ・アルバム。ここからほぼ毎年何らかの作品を発表し続け08年のメジャー三作目『フォリ・ア・ドゥ』に行き着くわけだが、その間たったの五年である。一介のインディ・バンドが「注目すべきアーティスト」として誌面で大きく取り上げられ300万枚売ってグラミーにノミネートされて全米ビルボード・チャート一位を獲得してポップ・アイドルと結婚して世界中の注目の的になるまで、たったの五年である。彼らを取り巻く環境が常に激変しまくってきたことは簡単に想像できるし音楽そのものも様々な要素を次々と取り込んでどんどんダイナミックなものへと成長していくしまさに文字通りの狂騒の五年間だったわけだが、それでも本作を聴くと彼らの根本的な部分は一度もブレたりはしてこなかったんだなととても感慨深い。エモ的といわれる青春回帰の内向的な風景を決して切なくではなく声を張り上げ高らかに歌い上げるフォール・アウト・ボーイ。そこには、こんなところで立ち止まってたまるか、俺たちはここから先に進むんだ、そのために俺たちは歌うんだ、という現状を正面から打開していく強い意志が感じられる。そして、この五年間、彼らを転がし続けたエネルギーはそんな極めて単純でそれでいて頑なな意志そのものだったのである。そして、意志とは、徹頭徹尾貫かれて初めて説得力を獲得できるものなのだ。別にファンじゃない人に聴いて欲しいとも聴く必要があるとも思わないし、歌詞もピートではなくパトリックが担当しドラムのアンディもまだバンドに加入しておらず、フォール・アウト・ボーイの勝利の方程式はまだ完成されていない頃の作品だが、後に再レコーディングされる“カーム・ビフォー・ザ・ストーム”の原型や『フォリ・ア・ドゥ』収録の“ピッタリだぜ、ドニー”の中でジ・アカデミー・イズのウィリアムが口ずさんでいる“グローイング・アップ”などが入っているのでファンは必聴の一枚です。

11:28 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

僕は今日も歌うよ

ソラニン
浅野いにおの『ソラニン』読みながらエナミー聴いてたらマジで泣きそうになった。
このふたつが伝えているものは同じだ。

You're not alone, you know
You're not alone, you know
You're not alone at all

“ユーアー・ノット・アローン”のサビがいつも
「君は生きている」に聞こえる。
やっぱこれが一番好きだ。

Music For The People
/ The Enemy

The Enemy-Music For The People
あなたの主人公を呼び覚ます歌
 エナミーの歌がひたすら感動的なのは、それが理不尽な大人社会へ突きつけられた怒りの鉄拳なわけではなく、かといって好きな誰かとの距離を縮めるラブレターなわけでもなく、ただ僕たちが歌うべき歌であるというその一点に尽きる。オアシスのライブで“リヴ・フォーエヴァー”や“ドント・ルック・バック・イン・アンガー”を歌わない者が誰ひとりいないのと理屈は同じだ。それが英国の誇るロックンロールの「本物」であるという確たる証拠なのだ。かつて「俺たちはこの町に生まれ、そしてこの町で死んでいく」と歌い上げた少年は、だからこそそこで感じるものだけがリアルだと歌い、イギリスの典型的な地方都市に世界のすべてを押し込んだ。言うまでもなく、かの国で暮らす彼らも、この極東の小さな島国で暮らす僕たちも、人が輝けるのは必ずしも華々しい場所だけではないことを知っている。慎ましく暮らすことだって極めて困難であることを知っている。困難が夢や希望や本気と同義でないことを知っている。永遠に繋いでいられる手なんてどこにもないことを知っている。楽勝で生きられる人生なんてどこにも転がってはいないことを知っている。でもだからエナミーはそんな時にこそ歌えと言う。劣等感と敗北感による致命傷。死にたくなかったら歌え。生きたかったら歌え。ロックが肯定しなければいけないのはただそれだけだから。確かにエナミーは本セカンドで凄まじい飛躍を遂げた。バラードを歌い、サイケを演出し、デビュー作からたった二年ですでにスタジアム・ロックを完全に支配している。「万人のための音楽」というアルバム・タイトルは彼らの視野をより広い音楽の外側へと立たせている。しかし、全体像を遥かに大きくしたはずのここには、それでもやはり僕たちが歌わなければならない歌しか詰まっていない。なぜなら、ロックはそこからしか始まり得ないからだ。ちっぽけな町の一角から叫ばれたったひとりの人間による思いが、幾つも海を越えた地球の反対側で生きる顔も名前も知らない少年の心を引き寄せていく。人生に悲観するな。君は独りじゃない。その愚直なまでに偽りのない思いは時に、急速に人と人とを繋いでいくものなのだ。


02:12 | 音楽 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

ラ~~~~~~~~~~~~~~ッブ!!

09-04-26_21-43.jpg
よっ!!

サボってんじゃねー!!
アンタの出番だよっ!!

PRISMIC
/ YUKI

PRISMIC(1).jpg
愛を燃やすということ
 多分、この世には大きく分けて二種類の歌がある。誰でもない「みんな」に向けられた歌と、誰かでしかない「ひとり」に向けられた歌。どちらが多いかと訊かれたらわからないけど、心情的には、本当は、誰でもない「みんな」に向けられた歌なんて、この世にはひとつもないんじゃないかと思う。なぜなら、歌なんていうのは、そもそも「みんな」に届く必要がないものだからだ。歌は、絶対的に、本質的に、どうしようもない嘘を孕んでいる。なぜならそれは、人間が作り出したものだからだ。もう少し細かく言うなら、人間が作り出す必要のなかったものだからだ。作り出す必要があったからこそ人間は歌を作った、という予定調和なるものではないのだ。人間が本当に作り出す必要がなかったからこそ、誰かは歌を歌わなければいけなかったのだ。このニュアンスの違いがわかっていただけるだろうか。それはキスやセックスの快感と同質のものではいけなかったということだ。他の誰かにも与えられる喜びではいけなかったということだ。世界にたったひとりの誰か=「あなた」だけに届けるために、世界にたったひとりの「わたし」は、歌にとてつもなく大きな嘘を込めた。世界中がその歌に疑いの眼差しを向けるような重大な嘘を。もしくは、世界中がその歌に騙されていることに気付けないような鉄壁の嘘を。それじゃあ、世界が怪しんでいるその時に、世界が呆けているその時に、「あなた」はいったい何をしているんだろう。「みんな」とはまったく逆のリアクションを取っているのかな。それとも「みんな」とまったく同じなのかな。ただひとつ言えることは、誰かが歌に込めた嘘が本当に騙さなきゃいけなかったのは、多分、「わたし」だということだ。「あなた」だけは、気付くとか騙されるとかじゃなくて、その歌が実は真実でしかないということをわかってくれると信じている。何かを信じるということは、「あなた」になら裏切られても信じることを止めないということだ。僕が自分の人生に望んでいるのはただひとつ。死ぬほどシビれるような嘘の歌を歌いたいよ。それで君と二人で感電死できたらホント最高なんだけどね。

00:11 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

安いハートが良いね

後輩との激しい論争の結果、
世界で最も美しい女性は永作博美に決定しました。

劇団、本谷有希子。
めっちゃ面白いんだから。
永作さんきれい。

幸せ最高ありがとうマジで!
/ 劇団、本谷有希子

幸せ最高ありがとうマジで
病むなら病むで元気に病めば良いじゃない!
 専属俳優を持たないフラックスなプロデュース・ユニットとして活動する「劇団、本谷有希子」。以前は比較的小さな劇場での公演が多かったようだが、初のパルコ進出となったこの『幸せ最高ありがとうマジで!』で、これまで何度もノミネートはしてきたものの一度も受賞には至らなかった岸田國士戯曲賞をついに受賞した。面白すぎる!の一言に尽きる。本谷有希子独特のユーモア・センスが最高に効いていて爆笑必至、キャラクターはみんなハッキリとキャラ立ちしているし、特に永作博美が主演を務めた元気な人格障害者は誰が見てもその斬新さと痛快さに心を打たれると思う。最高の脚本と最高のキャストと最高の舞台が揃ったとなるとやはり話は変わってくるものなのだ。「劇団、本谷有希子」のひとつの集大成として祝福された記念すべき舞台公演である。
 小説にしても脚本にしても、本谷有希子の作品には彼女自身の性格が幾分色濃く投影された、自意識が過剰で性格の激しく破綻した女性がいつも登場する。たったひとりで世界を閉じた女性は、いつだって周りの世界=世間と対峙した時の摩擦と軋轢によって自分をすり減らし、傷つけられ、打ちのめされる。そんな女性は時に狂い果て(『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』)、時に居場所を失い(『遭難、』)、時にこれまでと変わらない日常の景色へと帰っていった(『江利子と絶対』)。あらゆる理不尽な絶望を通過した女性に残されたものとはいったい何なのか。本谷有希子はデビュー以来常にそんな絶望の「その先」を追求し続けてきた。そこでそれでも「幸せ最高ありがとうマジで!」と叫びたいと望むのは我がままですか? いやいや、明るい人格障害者が壊れた世界の最果てで叫ぶ「ファーーーーーック!」は「生きろ」と同義である。モテたり金持ってたりじゃなくて「私は生きているーーーーー!」って誰よりも大きな声で叫べるやつにこそより力強い救いの手は差し伸べられるんだよ。


00:34 | 日記 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

スノウ・パトロール最新作

最初は、これはただの抽象なのでは?と思った。

でも、スノウ・パトロールの意識の高さはその抽象を、
抽象という具体にまで引き上げている。

え?何言ってんの?
別にこれで良いんだよ?
って。

A Hundred Million Suns
/ Snow Patrol

Snow Patrol-A Hiundred Million Suns
自由とはあなたの見上げる太陽である
 世界各国の子どもにクレヨンを渡して太陽の絵を描かせたら、日本人のように赤色を使うのは少数派だという。虹を見て、「七色だ」と言う国の人がいれば、「いや四色だ」と言う国の人がいる。まったく同じものを見ていても、それを認識するためのイメージや語彙や世界観は実に多種多様である。そのひとつひとつを僕たちは「主観」と呼ぶ。そして、そんな無数の主観を掻き集めた集合体としての視野を「客観」と呼ぶのなら、様々な色の折り紙で作られた様々な形の太陽が美しいこの写真をジャケットに供した本作でスノウ・パトロールが新たに獲得した視座とは、まさに「客観そのもの」なのかもしれない。隙間ない構築的なサウンド美学、魂を浄化するような良質なメロディ、決してエモーショナルな方向に狂うことのないリリック。更なる客観力によって一層ガッチリ強力に噛み合ったようにも思えるスノウ・パトロールのそんな「外さなさ」を退屈に感じる人もいるかもしれない。しかし、「ひとつの太陽は無数である」という明らかな矛盾さえも抱き込んだ本作の視野の広さにはそれでも深い感慨を覚えずにはいられない。王道とは決して無数の主観の最大公約数=妥協点を導き出す近道ではない。それと同じように、個性的という言葉は必ずしも少数派であることや何かをあえて犯す危うさを意味しない。要するに意識とそれに基づく選択の問題なのだ。だから、人と違っていることが美徳でありスペシャリティであると安易に受け取られがちなこのロックの世界にあってスノウ・パトロールの音楽はここまで愚直な王道なのに、ここには「これでいいんだ」と大きく頷いてみせる祝福と救済の圧倒的な重みがある。本作でスノウ・パトロールが歌う自由の本当の中身。多様な人生と世界中から注がれる無数の太陽の光がそれを肯定している。
15:52 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

僕は生きている。

ああ、こうやってみんな何処かに辿り着いて、
何者かになっていくんだと思った。
僕は毎日、
何者でもない何かにすらなれなくて消えていく自分を灯し続けるのに必死だ。

世界は僕を殺そうとするけど、
僕は歌うんだ。
誰にも届かなくたって。
世界に思いっきり抵抗してやるんだ。
いやがらせしてやるんだ。
僕はそう簡単には殺せないぞって。

これは「それでも生きてやる」という僕の愛なんだ。
希望を見失っちゃいない。
僕には信じなきゃいけないものがある。
僕はどこにだって行けるって知ってんだ!
イイだろー!

草なぎ剛!
俺は前より好きになったぞー!
笑えない世界なんて見放してやれ!

MIRACLE DIVING
/ JUDY AND MARY

JUDY AND MARY-Miracle Drive
ロックはどこまでも軽薄になれる
 そもそも恩田快人を中心に置いたプロジェクトとしてスタートを切ったジュディマリにとって、通算三作目のオリジナル・アルバムである本作は、バンド・ケミストリーに大きな変化をもたらしたという意味で極めて重要な一枚である。それがいったいどういうことかと言うと、TAKUYAと五十嵐公太のソングライティング面における飛躍、すなわち恩田快人の役割の後退である。しかしそれがまったくネガティヴや危うい方向に向いていない。本質的な部分が一切ブレていないのだ。もともと紛い物臭かったジュディマリがバンドとしての大きな変化を経てもなおこの良質なポップ・ソングを鳴らすことが出来たということは、ジュディマリが間違いない「本格」であることの証左となっている。それではジュディマリの本質とはいったい何なのか。それはもちろんYUKIの言葉である。本作には“あなたは生きている”というジュディマリ随一の名曲が収められているのだが、これがとても印象的な一曲になっている。これは近年のYUKIのソロ楽曲でもまったく変わっていないことだが、YUKIは基本的に、自分のことしか歌わない人である。というか、はっきり言って自分のことしか歌えないのだ。YUKI独特の風景や色彩の優れた描写力と親しみ易い言葉選びのセンスによって聴き手はそれがあたかも自分の歌であるかのように錯覚してしまい、その言葉の「近さ」こそがジュディマリの楽曲のポップネスにも直結しているわけだが、YUKIはいつだって自分が指や唇で直に把握し得るリアリティだけを歌い続けてきた人だ。“あなたは生きている”と聴き手を鼓舞するようなタイトルだが実際聴いてみるととても個人的な内容の歌であることは明白である。ラスベガスの煌びやかなネオンの前で特別大きいわけでもないおっぱいをやたらと強調するこの頃のYUKIと残りのズッコケ三人組の写真を見ていて思うことは、こいつらはそもそもジュディマリというバンドに人生の訓示とかそんなシリアスなものを求めちゃいないということ。聴き手ひとりひとりにとって、どうしても信じなきゃいけないものがジュディマリであったりロックであったりする必要なんてないんだということ。そしてだからこそあなたはどこにだって行ける、と彼らは歌っている。そこに希望はあるのだ。
02:04 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

あたたかくなるよ。

最近は漫画を取り上げることがやけに多いですが、
わたくしとしましては、音楽が中心のブログのつもりでございます。


Tesoro オノ・ナツメ初期短編集
/ オノ・ナツメ

オノ・ナツメ-Tesoro
イイじゃんと言ってくれる
 イタリア語で『宝物』と名付けられた、オノ・ナツメの短編作品14話と年代別のギャラリーがセットになった満足なヴォリュームの一冊。オノ・ナツメといえばローマのレストランを舞台にした『リストランテ・パラディーゾ』が有名だが、この初期短編集でもやはり画がひたすらに良い。作者は漫画家としてのデビュー以前にイタリアへの語学留学を経験しているようだが、実際に自分の肌で吸収してきた西洋的なオシャレな空気感がとても効いている。特に入念に描き込まれているわけではないシンプルで細身な輪郭のキャラクターは、例えば「わびさび」などというある種の深まりとは程遠いが決して「のっぺり」とか「ペラペラ」といった軽薄なイメージを与えない、コーヒーとタバコにストロークスの『イズ・ディス・イット』、みたいなサンデー・モーニングな穏やかさと温もりを表情に湛えている。決して気張って読んで満足感が得られる作風ではない。むしろ、そうやってひたすらにリアルの手応えを求めることで擦り減らしてしまった日々に、何か置き忘れてしまったものがあるんじゃないか、ということを思い出させてくれる、日常に優しく寄り添った話が詰まっている。タイトルにもお弁当やコーラやクリスマスといった誰にでも許された幸福が散りばめられている。特に大きなドラマや事件が起きるわけではない。すれ違いや誤解でさえ誰にでも心当たりのあるような普遍的なものばかり。でも、ご飯がおいしかったり占いが当たったりといった些細な喜びはもちろんのこと、悲しかったり嬉しかったり複雑でゴチャゴチャしてわーってどうしようもなく涙が流れてしまうような時でさえ、君はイイ顔をしているよ、とすべてのキャラクターが静かに笑いかけてくれる、そんな愛すべき作品ばかりだ。退屈だと思っていた日常と、ほんの少しだけ、和解をするのも悪くない、と思わせる一冊だった。

01:54 | | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

もーたまらん。

まるで卵を握りつぶすかのように、
ヤー・ヤー・ヤーズはあなたのラヴ・ソングを粉砕する。

切ない。切な過ぎる。
涙が止まらん。

It's Blitz!
/ Yeah Yeah Yeahs

00-yeah_yeah_yeahs-its_blitz-2009-c3.jpg
ラヴ・ソングの欺瞞が暴かれる
 時として、欠落は人を特別にする。目の見えないシンガーソングライター。耳の聞こえないスポーツ選手。足を骨折して松葉杖をついている同じクラスのアイツ。でもそんな欠落も、それを承認してくれる誰かがいなければ特別でも何でもない。欠落した自分をそのまま肯定してくれる誰か。だとすれば、欠落が幾ばくかのスペシャリティを担保していたとしても、僕たちには絶対に失ってはいけないものがある。「あなた」である。しかし、所謂「失恋ソング」と呼ばれる歌の中で失われる「あなた」でさえ、欠落のクリシェのひとつとしてその唯一絶対性を失い松葉杖と何ら変わらないリアリティしか発揮できなくなった今、ヤー・ヤー・ヤーズが歌うラヴ・ソングはやはり破格であると認めざるを得ない。去っていった「あなた」に向かって「愛しい人よ、泣かないで。私を骨にしてよ」と歌うカレン。自分を承認してくれる誰かの存在が約束されている居心地の良い欠落感などではなく、「あなた」不在の場所で、誰も見ていない場所で、それでも「あなた」のために私はすべてを失ってみせると歌うカレンのラヴ・ソングはひどく狂おしい。ベースレスという明らかに欠けたロックから音楽を再定義してみせた彼らのサウンド・フォーマットは、前作の生音回帰から本作のダンス・ミュージックへと凄まじい変容を見せた。しかしここにはそんな表層を簡単に置き去りにしてしまう本質的にして決定的な何かがある。人はなぜ歌を歌うのか――。言うまでもなく、完全な人間などこの世にはたったのひとりとして存在しない。誰もがどうしようもなく欠け、壊れながら生きている。そして僕たちは、そんな欠落感を抱えた自分をそれでも認めてくれる「あなた」と繋がるただそのために、歌を歌い、踊り、そして物語を語ることを止めない。ラヴ・ソングとは、それほどまでに重いものなのだ。かの名曲“マップス”で歌われた、届くべき「あなた」に決して届かないあの叫びがここでもやはり打ち震えている。すなわち、「誰もあなたのことを私のようには愛せない」、と。

02:26 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

無視してください

漫画読んでは変なこと考えてたけどこれで最後。

『PRISMIC』が聴きたいなぁ。

もったいなくてしょっちゅう聴けるアルバムじゃなかったけど、
こういう気分な時にこそ聴きたい。
今は封印中だけどね。
いや、むしろ今こそ解くべきなのかな。

あのアルバムで、
僕は生まれて初めて「自分」って呼びたいものを見つけて、
その「自分」を騙した。

平凡ポンチ
/ ジョージ朝倉

平凡ポンチ
僕が壊した世界と君という僕の欲しかったすべてに愛を込めようと思ったんだ
 三十歳独身彼女なしニキビ面小太りダサメガネ涎止まらない一応映画監督のダメ男。男はひょんなことから巨乳女優に憧れる貧乳美少女を主役に映画を撮ることになる。ダメ男じゃどう見てもまともに張り合えないイケメン系のライバル監督も登場。みんながそれぞれに自分だけの「本物」を求めてる。本物の映画。本物の自分。本物のあなた――。女の子はみんな生まれながらの嘘つき名人。その嘘は自分を含めた世界全部を翻弄する。女の子は嘘つきのプロ。どれだけファインダーを覗き込んでも、そこに本物は映らない。化けの皮すら剥がれない嘘。何が本物で何が嘘か。どれだけカメラを回しても、誰もどこにも辿り着けはしない。
 でも、果てしない海の上でいつまでもプカプカ浮いているわけにはいかない。どこかに辿り着かなきゃいけない。本物を見つけなきゃいけない。自分の嘘に気付いたとしても僕には嘘しか話さないと言った君。女の子は謎を作り男の子は秘密を作ると言った君。そう、男の子は謎を作れないから秘密ばかり作ってしまう。男の子は嘘つきのプロじゃないから、謎じゃなくて秘密っていう危ういものしか作れないんだ。でも、君は女の子だから知らないかもしれないけど、男の子にはたったひとつだけ、女の子の嘘に負けない必殺の嘘が使えるんだよ。男の子だけが、女の子の嘘を本物に変えられるんだよ。99%の嘘に紛れた1%の本物を見抜く力とかじゃなくて、男の子は、女の子の100%の嘘をそのまんま100%の本物に変えられるんだよ。男の子だけが、女の子の完全無欠の嘘に完膚なきまで騙されてやれるんだよ。他の誰ひとりも騙すことなんてできないくせに、自分だけは騙せるんだよ。極稀にね。一生の間で、ゼロ回か一回かニ回ぐらい。もしくはそれ以上かも。それが今よりももっと自分を救いようもどうしようもないところまで貶める行為だってわかってても。だから僕に中途半端な嘘ついたら殺す。本谷有希子じゃないけど、俺の悲しみの愛を見ろよ。
06:18 | | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

わー!

わー!
わー!

ゲロゲロプースカ
/ しりあがり寿

しりあがり寿-ゲロゲロプースカ
社会世界みんなファック!僕は君だけを守るヒーローになりたい
 子どもは魔法を使える。水泳が速いあの子。絵が上手いあの子。ピアノが弾けるあの子。ゲームをいっぱい持っているあの子。みんなキラキラ輝いている。ホームランを打った! マラソン大会で一位だ! ポーズをとって「えいっ!」と叫ぶあの子は誰にも負けないヒーローだ。でも大人になるとそんな魔法はすぐに使えなくなってしまう。大人の世界では足が速いだけじゃスターにはなれない。その上手なピアノでお金を稼げる大人だけがスターになることができる。大人の方がいろんなものを持ってるはずなのに? 大人の方が何でもできるはずなのに? 大人は何でもできるその代償として魔法の力を失う。何にもできない子どもの魔法はやはり社会を回さない。世界を作らない。無敵のヒーローに変身したあの子はただの役立たずでしかない。役立たずでしかないのに、しりあがり寿は「ゲロゲロプースカ♪」と歌う。キラキラの純粋魔法を使える大人がいるとすれば、それは結局何も手に入れられなかった、世界に役立たずな大人だけだから。社会にうまく仲間入りできなかったとしても、そこにはきっとお金やセックスでは得られない圧倒的な救済がある。だから大丈夫だってしりあがり寿は歌ってるんだと思う。子どもと老人という本来的には社会構造の外側にいるはずの住人でしか生きることができない、現実世界を反転させたようなこの現実逃避の物語は、でもだからこそ「生きろ」というクソ現実的な最後に収束されなければいけなかったんだと思う。
 だから僕もクソ以下に役立たずな下らない嘘っぱちを物語ろうと思う。もしある日突然悪い奴らが現れて、君がそいつらのアジトに囚われてしまったら、僕は僕と君を救うただそのためだけに僕の魔法のすべてを使う。ゲロゲロプースカゲロプープー♪ 馬鹿みたいな嘘っぱちにだってたったひとつの真実がある。
18:34 | | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

マディーナ・レイク

そうだったそうだった。
最近忘れかけていたけど
僕はロックのこういうところに魅了されたんだった。

出た。
今のところの、
今年のマイ・ベスト。

Attics To Eden
/ Madina Lake

Madina Lake-Attics To Eden
涙でも叫びでもない血と肉と魂というエモーション
 「時々、俺は違う世界からやってきたような気がする」という変に大袈裟な疎外感の一行から始まるマディーナ・レイクのセカンド・アルバムである本作。多くのメタル系バンドを輩出してきたロードランナー・レコードの中ではこんなにも臆面なく美メロを押し出したマディーナ・レイクはどちらかと言うと異色な方だと思うのだが、メロディ良ければすべて良しなエモ/スクリーモの形骸化による空白感を見事に埋めてみせるこの傑作セカンドを聴くと、そんなことはどうでも良くなってくる。
 最終インストの一曲前、“フレンズ・アンド・ラヴァーズ”で過去の深い喪失を歌いながらも「俺は友達も恋人も失ったけど魂は今も残っている」と屹然と前を向こうとする彼ら。すべてを失ったと感じている人間が、その苦悩の見返りにではなく、ほとんど捨て鉢になって世界に果敢に立ち向かう時のメンタリティ。俺の背負うものが世界に負けるはずがない、というまったくの勘違いでしかない頑なさ。それは「君はこの世の中のためにいるんじゃない、世の中が君のためにあるんだ」と歌われる“ノット・フォー・ディス・ワールド”でも見受けられる。もはや言うまでもなく、この世界にエデンなどという解放された楽園は存在しない。だからこそ僕たちはそれぞれに自分の世界を完結させ、外の世界に飲み込まれない拮抗関係を作り出そうと思想を逞しく鍛え上げるわけだが、もちろんそれで世界に打ち勝てるのなら良い。それは文句も間違いもない勝利だ。でも、ほとんどの場合、僕たちが自己の中に築き上げる世界は無残なまでに破綻される。外の世界というやつは、どうしようもなくでかく、冷たいものなのだ。世界に飲み込まれ、仕舞にはもういろんなことがどうでもよくなってしまうかもしれない。真っ白になってしまうかもしれない。これまでエモ/スクリーモは涙や叫びといったカタルシスに自己を浸すことで世界との妥協点を見出してきた。言い換えるならそれは恐れだ。でもマディーナ・レイクは違う。ここには恐れも躊躇もない。すべてが終わってしまった後にも、それでも何かが続くべきだと彼らは信じているからだ。何かを信じる力強さとは破綻する勇気である。その紙一重こそがロックンロールの希望なんだ。
00:50 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

僕の親もセンセーなんですけどね

失礼なこと言います。

小一の頃、ひらがなの練習で、僕は「ゆ」がうまく書けなかったから、
宿題では1ページだったけどいつもより多く2ページ分「ゆ」の練習をして
ノートを提出したら、次の日に1ページ分の僕の「ゆ」が消しゴムで消されて返って来た。
1ページの宿題なのに2ページやってきたから担任の先生が消したらしい。
そりゃないよセンセー!

小二の頃の担任は、ホームルームの時間に、
正式な名前は忘れたけど「チクリ合い」みたいなことをさせるのが好きで、
「今日悪いことした人はいませんか~?」と楽しそうにクラスのみんなに訊いて、
「幸大君に髪の毛をひっぱられました~」とか言う女の子がいると、
僕はみんなの前で叱られて、みんなの前で「ごめんなさい」と頭を下げさせられた。
それも毎日だよセンセー!

小三の頃の担任は、
休み時間にクラスのみんながグラウンドでドッジボールをしているのに、
僕ひとりだけ教室で毎日迷路を描いているとかいって本気で心配していたらしい。
通知表はどうして明るい人だけを評価するんだろうとその時から疑問だった。
僕を明るく壊してよセンセー!

一番嫌いだったのは
僕を罵ったり暗いとか捻くれてるとか言ったりするのと同じ口で
友情とか道徳を語り始める小六の頃の担任だった。
まぁそんなこと当時は考えてなかったけど。
このやろうコイツなんでこんなに明治天皇に似てるんだよ
って社会の本見ながら思ってたと思う。
僕のキレイな気持ちを返してよセンセー!

センセーって不思議だなぁ面白いなぁって思います。

鈴木先生
/ 武富健治

鈴木先生
漫画を疑え、教師を信じるな
 最初はとても面白かった。げりみそに酢豚。「うちのクラスは議論が活発です!ただしテーマは給食だけー!」なしょーもないところが気に入った。『鈴木先生』の魅力について、多くの人が「どこまでがギャグでどこまでがマジかわからない」ということを挙げている。「ギャグ」と「マジ」。しかしそれらの要素は並列関係で使い分けられていたのではなくて、少なくとも個人的には、給食や恋愛における危機をまるで世界の崩壊のように憂い、真剣に悩み抜き、最後には「新たな夜明け」なる大袈裟なものまで迎えてしまっている、その「ギャグ」みたいなどーでもいいことに「マジ」になってしまう異様なまでの過剰さが面白かった。僕の知っている「教師モノ」のイメージを鈴木とげりみそが打ち砕いていく――。それは多分、とてもラジカルなことだったんだと思う。
 でも、巻を進めるにつれて、なんかキナ臭くなってきた。中学校を舞台に巻き起こるシリアスかつデリケートな様々な問題の核心を、正論や良識さえも押し退けて抉るその手法は新しいと思うし、描写の過剰さはむしろどんどん増してきていて刺激的だ。でも、僕にはどうにもこの漫画、今はひどく読み心地が悪い。文化庁メディア芸術祭の漫画部門で優秀賞を受賞した時の作者のコメントを見たのだけれど、要するに、この漫画における「ギャグ」はあくまで読者との親和を図る手段であって、目的は「マジ」なのだと。問題提起が悪いことだとはもちろん思わない。心情的過ぎて申し訳ないけど、でもだからいったい何なのか、と思う。芸能人がカンボジアに学校を作ろうとするのといったい何が違うんだろう。芸能人や漫画や教師から人生の重さや命の大切さや誰かを思いやる優しさなんて教えてもらいたいとは思わない。そんな、マジで冷めますって。世界はおろか、ひとつの教室さえも、ひとりの読者さえも救わない、時に救おうとさえしないからこそ漫画は面白い。そして、とても個人的なことを言うなら、漫画がそうであるのと同じように、教師なんてとことん間違っていて良い。生徒からの信頼が厚い教師? そんなもん腹黒くない政治家と同じくらい胡散臭い。少なくとも僕の世界では。
16:44 | | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

言わなくていいことばっか言ってる

僕はいつもそうなんだ。
何やってる自分。

男の子は魔法を使える。
女の子は嘘つきになる。

じゃあ、嘘つきな女の子が、
自分を含めた全人類を騙し続けたその完全無欠の嘘を、
たった一度だけ、無意識の内に封じ込めたらどうなるんだろう?

僕は、それをやってみせた女性を知ってる。
YUKIとジャネット・ジャクソン。
その時の二人に共通していたのは、
すべての時間を止めてみせた、ということ。
それすらも、嘘なんだろうか。
僕にはさっぱりわからない。
でも、その一瞬、女の子は、魔法そのもの、
もしくは、魔法に限り無く近い特別な嘘を、使うことができるんだと思う。

男の子だって、みんながみんな魔法を使えるわけじゃないんだ。
誰でも彼でも使える魔法なんて魔法じゃない。
魔法を使えるのは、
結局何も手に入れられなかった男の子だけなんだ。

変なこと言ってる。
変な漫画のせいだ。

空飛ぶアオイ
/ 福島聡

空飛ぶアオイ
僕は僕の魔法を見せたい自慢したい抱き締めたい
 最近、あるテレビ番組を観ていたらスプーンを曲げる超能力者なんて懐かしいキャラクターがチラッと出てきて、え?と思ってしまった。今更?という疑問ではなくて、なぜ超能力者はスプーンを曲げるのか、というその手段について。なぜ超能力者が曲げるものは揃いも揃ってスプーンなのか、と。時空とか東京タワーとか爪楊枝なんかでも良いのに、なんで皆スプーンなの? スプーンと爪楊枝の差って何なのさ? つまり、とても捻くれた考え方をするなら、超能力者がスプーンを曲げる、そこにあるのは気とか波動なんてたいそうなものではなくて、単なる「模倣」でしかないのではないか、ということ。実際に念を込めるだけで何かを曲げることができたとしても、みんながみんなスプーン曲げててどうすんだ。自称超能力者たちがよってたかって同じスプーンを曲げる。それのいったいどこが特別な力なのか。
 アオイちゃんは好奇心が旺盛で元気な女の子。想像力がとっても豊かだ。おまけにその想像力を具現化させる不思議な力を持っている。だから飛べると思ったらホントに空飛べちゃう。すごい。それはまさに魔法そのもの。アオイちゃん本人は、それに気づいてない、自分では普通の女の子のつもりだけどね。そう、魔法の正体っていうのは、人間の想像力なんだよ。いつもひとりぼっちだけど、僕はいつだって僕の魔法で君をすぐそばに感じることができる。だから怖くもないし寂しくもない。今の僕にはできないけど、スプーンなんてその気になれば誰にだって曲げられる。でも、世界にたったひとりの君を、今、ここに呼び出すことができるのは、世界にたったひとりの僕だけなんだ。それは、超能力なんかじゃ百億年かかっても無理なことなんだ。想像力の魔法は超能力なんて楽勝で超えていく。超能力者なんて全然たいしたことない。ちくしょう。誰か僕をテレビに出しやがれ。
02:01 | | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

でもどっちか訊かれたら迷わず幸せなんだよ

judymary.jpg
バイトからの帰り道、
“小さな頃から”ばかり聴いていた。

自分はいったい何をやってるんだろう。
最近そんなことばかり考えている。
周りのみんながどんどん、どこか、と呼べる場所に、辿り着いていく。
僕は、どんどん、なんでもない人になっている気がする。
そのうち僕は名もない場所に消えていくんじゃないかとさえ思えてくる。

“小さな頃から”は、もうホント泣かす。
今年発表されたジュディマリのトリビュート・アルバム。
とても肩の力の抜けたカバー集なのに、
スネオヘアーの歌う“小さな頃から”だけが明らかに別格の輝きを放っていた。
この歌は、そういう歌なんだ。

ORANGE SUNSHIME
/ JUDY AND MARY

JUDY AND MARY-Orange Sunshine
「みんなの歌」なんて歌えなくて良い
 初のオリコンTOP10入りを果たしたJUDY AND MARY大飛躍のセカンド・アルバム。一曲一曲の完成度が凄まじく高い。音楽的な背景も豊かになり、どの曲もポップ・ソングとしての洗練を素晴らしく帯びていて、全体的にデビュー作からの大きな飛躍を感じる。収録曲11曲のうち実に7曲がシングル・リリースに堪えるクオリティを保持していたという事実からも、アルバムの強度の高さを窺い知ることが出来る。でも個人的なことを言わせてもらうなら、そんな形式的な評価は本当にどうでも良くて、“小さな頃から”が収録されているというただそれだけで僕は涙が出そうになる。YUKIは、基本的には常に前を向いて、どこかに向かって転がっていこうとする人だ。どうしよー!と叫びながらピザ食べて元気出して自転車漕いで前に進もう!と歌う人だ。でも、YUKIはたまに、ふと立ち止まって、そんな自分の歩んできた道程を振り返るような歌を歌う。“小さな頃から”で歌われる景色がYUKIにとっての実際の、実在としての過去であるかどうかは僕にはわからない。でもそんなことは実はどうでも良いのだ。人の心を本当に揺さぶることができるのは、「自分」を燃焼させた歌だけだから。「自分の歌」を歌える人だけなのだから。ジャケ写がニセモノっぽくてキャラが胡散臭くて歌詞にどれだけ嘘があったとしても、「ただ 歩く ひとごみにまぎれ/いつも なぜか 泣きたくなる」というYUKIの言葉と共に静かな絶頂を迎えるこの歌が、それでも誰かの心を震わせるのなら、ただそれを伝える言語がフィクショナルなものだというだけで、やはりJUDY AND MARYは彼らにしか語れない「真実」を歌っていると認めざるを得ない。YUKIは果たしてロックか否か――。僕は今までそんな疑問を何度となく耳にしてきた。そんな人たちは“小さな頃から”を聴けば良いと思う。それでもわからなかったら、お願いだからロック聴くのなんてもう止めてください。
01:07 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

一度で良いから本気で生きてみたい

ロック聴くと罪悪感がすごい~。
言葉のひとつひとつが僕を責める~。
てめぇはそんなマジで生きてねぇって。
僕はいっつもそうなんだ。
本気出す前に疲れてる。

でも少しずつ回復させる。
どうしようもないやつに救いがあるとすればそれは、
それでもどうしようもない自分を続けるってことだ。
怠慢ではなくて。
しがみ付いてやる。

とりあえずレヴュー載せる。
ロッキング・オンの面接の前日に聴いて
レヴュー書いてたアルバムだぁ。
今の僕ならこのアルバムは聴けない。
こういう実験音楽は余裕かましてる時しか聴けないから
実はあんまり好きじゃないんだ。


High Places : 03/07-09/07
/ High Places

High Places-High Places
神々の遊び
 個人的には、こういう現在のNYシーンを体現するような、サイケでトライバルな要素を多く含んだ実験音楽にはどうもアブストラクトすぎる印象を持ってしまっていていつもそれほど楽しめないのだけど、このブルックリン出身の男女デュオ、ハイ・プレイシズには予想以上に楽しませてもらった。アートワークのおどろおどろしい雰囲気からもっと張り詰めたものを当初は予想していたのだけど、まったくの正反対でむしろ水中で息を吹き出してブクブク泡立てるような、実にクラムボンな遊び心に満ちた精神の穏やかさを感じた。水面の曖昧な輪郭を撫でるように流れ、次々と変形する幻惑的な音の表情にはピュアネスを通り越して無防備さすら感じられる。そして、でいだらぼっちさえも凌駕するこの存在感に満ちたアートワークがすでに語り始めているように、二人の男女が想像・創造した内なる遊び場には、もはや当然のように「神」の降臨が約束されている。
 神を名乗りながら夏の子どものように遊ぶ。それは一種の冒涜ではないか?と思われるかもしれないが、ここはまず神とはいったい何なのかを改めて明らかにする必要がある。言うまでもなく、それは「全能性」である。神に不可能はない、ということである。それではなぜ、神は現世に生きる僕たちの苦しみを取り払ってはくれないのか。世界に暗い影を落とす数々の苦しみを、悲しみを、絶望を、決して拭い去ってはくれないのか。それでもなぜ、人は神の存在を認め続けるのだろうか。そう、神はまだ何もしていない。そして、もしかしたら、それこそが、神が全能たる所以なのではないか、とは思わないだろうか。何でもできる、のではなくて、何もしなくて良い、ということを、息の詰まるほどの数々の役割や理由で横溢したこの世界で公然と認められた、たったひとつの特別な存在。それを僕たちは「神」と呼ぶのではないだろうか。何もしなくて良い、つまり、何もできなくて良い、つまり、たったひとつの「可能」さえもないが故にそれと相対するはずの「不可能」もない、という、これはある意味で究極の「全能性」である。選択肢という前提がまったくないからこそ「選べない」という状況や概念さえも発生しない、という不可能性の不在。神は貧困を抹消しなくて良い。神は戦争を排除しなくて良い。神は世界を救わなくて良い。故に、神は遊ぶ。ハイ・プレイシズはもしかしたら神の本質に限り無く肉薄しているのかもしれない。そう思うととても楽しかった。
00:27 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

帰ってきた!

封印
復っっ活!!

ロッキング・オン落ちて俺どーしたらいーんだろー!ってなって
わけわかんなくなってた一週間だったけど、
とにかく帰ってきた!

とりあえずYUKIの『PRISMIC』を封印した。
僕にはこのアルバムは聴けないって思い知らされた一週間。

結局のところ僕はどうしようもなく嘘つきで負け犬だったけど、
正直な勝利者には絶対に語れない真実を僕は語ってやると決めた。
嘘つきの負け犬の語る真実は時として正直な勝利者を凌駕するんだ。
魔法っていうのはそういうもんだろう。

また自分の魔法を感じられたら封印を解く。
それまでは眠れ『PRISMIC』。

僕は帰るべきところを見失ってなんかいないぞ。

君がどこかにいてくれるなら僕はどこにだって行ける。

それだけは嘘じゃなかった。

僕はどこにだって行ける。

ガオォー!
01:06 | 音楽 | comments (1) | trackbacks (0) | page top↑

絶対

poiuytrfd.jpg
最近、自分の中で変なことが起きてる気がする。

終わった?
『PRISMIC』が終わった?

僕の時間を、
まるで氷みたいに止めてしまっていたあの愛しい呪いが、
ついに終わったのかな。

こんな時に?

明日はロッキング・オンの面接。
こういう時は雑誌とか新聞とか読み漁ったりした方が良いのかな、
なんて思わないでもないけどそんなことしなくて全然良いと思う。

こういう時だから、自分を燃焼させれば良い。

『PRISMIC』が終わったなら
僕はどこにいれば良いんだろう。

どこにでもいるか。

信じてる。
15:06 | 独り言 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

No One=

No One = Safe
高一の時に席替えで近くの席になった女の子と仲良くなって、
お互いに音楽好きだということでやっぱり「何か貸して」という流れになって、
僕はジュディマリの曲が70曲ぐらい入ったMDを借りて、
でも僕が貸したのはスリップノットの『アイオワ』だった。

傑作とは言え、僕はいったい何がしたかったんだろうかと思う。
女の子とちゃんとしゃべるのなんて初めてだったから動転していたんだろうか。

とにかく、そんなこんなで、
スリップノットはどうでもよくて、ジュディマリは、
僕史上最強にエポックメイキングなバンドであって、
もちろんそこからYUKIの世界へ繋がっていくわけだけど、
でも僕は何故かジュディマリをちゃんと聴いてこなかった。

多分、YUKIが強烈過ぎて、
僕がYUKIを聴く時に、
ジュディマリという物語性が必要ないほどに、
自分でYUKIの背後に感傷的な物語を作っていたからだと思う。

それとも、ただめんどくさかったのか。

J・A・M
/ JUDY AND MARY

JUDY AND MARY-JAM
つぎはぎの魔法
 一枚のインディー作品を経て94年に発表されたJUDY AND MARYの記念碑的デビュー・アルバム。実にまとまりのないヴィジュアルの四人組である。なんかデタラメ臭い。自分たちの在り方については当時から彼ら自身疑問に思っていたらしく、TAKUYAは後に「余りに華やかで本物なのか偽物なのかわからなかった」と語っている。YUKIに言わせるなら、当時のキャッチコピー「夢を追い続ける全ての人へ」に関しては、「意味がわからなかった」、そうだ。デビュー・シングル“POWER OF LOVE”には、函館から上京したYUKIがデビュー直前まで付き合っていた彼に対する思いが込められているとされている。「独りぼっちのこの街で」、それでも「明日世界が終わっても歌い続けてみせるから」と誓ったこのひとつの出発点は、少なくともドリーム・カムズ・トゥルーな充実した達成感ばかりで迎えられたものではなかったのだろう。YUKIのバイオ本を読んでみても、そこに書かれていることは念願のデビューを果たすことへの躍動感よりもむしろ、バンドへの期待が高まる一方で忙しい日々に追われ何ひとつうまく回らない灰色の生活だ。それはもちろん、あくまでも全体の一部でしかないのだろうけども。
 そんな、ある意味で混乱した状態のまま発表された本デビュー・アルバムに救いがあるとすればそれは、恩田快人のずば抜けてポップなメロディ・センスとYUKIが紡ぎ出す色彩と風景に富んだリリックに、ロックへの疑いが微塵もないことだ。忙しいし人間関係もうまくいかないし色々大変だけどもでもだからこそあたしたちは歌わなきゃいけないんだここで立ち止まるわけにはいかないんだ前に進まなきゃいけないんだ歌い続ければあたしたちはきっとどこかに辿り着けるはずだから! このアルバムは僕にはそんな風に聴こえる。限りなくシンプル。しかし頑なな祈りは洗練され、いつかきっと魔法に変わる。YUKIを現在の場所まで導いたのは、もちろん彼女のキュートさだけじゃなくて、そんな底抜けに力強い祈りだった。
13:46 | 音楽 | comments (3) | trackbacks (0) | page top↑

ラブフール

結婚します。


とか適当に嘘つこうかと思ったけど、
オネスティーな少年なので嘘の続きが思いつかなくて止めました。

4月1日。
今日はエイプリル・フールだぁ!
ひとりだけどなんか楽しい。

Fortress ‘round My Heart
/ Ida Maria

Ida Maria-Fortress Round My Heart
世界と決着をつけてみせる
 女性にしか作れないアルバムだと思った。少なくとも、これをすぐに女性差別とか騒ぐバカには作れないアルバムである。“アイ・ライク・ユー・ソー・マッチ・ベター・ウェン・ユーアー・ネイキッド”や“ドライヴ・アウェイ・マイ・ハート”や“ウィーアー・オール・ゴーイング・トゥ・ヘル”など、ノートの端っこに書き殴った言葉をそのまま歌ったようなそれら収録曲には、男性特有の悪く言えばナヨナヨしたナイーヴさとはまたひとつ違った機微を感じる。繊細だけど、「あたしは土足厳禁よ」と突っぱねるような力強さ、プライドの高さも感じる。M.I.A.のような闘争へのあからさまな意志はここにはないが、初めて聴いた時には「女戦士」という印象を受けた。その自己の強さゆえに、決して世界と相容れることのない存在へと成長した女性。戦うか逃げるか、ふたつにひとつ。イーダ・マリアは、結果として、後者を選ばなかったということだ。
 人は、内に籠もれば籠もるほど、自己を強固なものへと育て上げていく。『フォートレス・ラウンド・マイ・ハート(=あたしのハートを囲う要塞)』という非常に象徴的なタイトルに、彼女の強さの秘密があると思う。自分の周囲に要塞を築き、他からの侵食を阻止しなければいけないほどに、譲れないもの。内に籠もるという行為は、ただそれだけでは世界から身を隠す単なる逃避手段でしかない。そこでどれだけ深く世界を憂いでみせたところで、それは所詮安全地帯からの戯言に過ぎない。内に籠もり、守ろうとしたまさにそれによって、世界といかに対峙するか。譲れないものを、本当に守るべきなのはそれからだ。魂を売らずにロックはできない。ビビらなかったロックには、だからこそより力強い救いの手が差し伸べられる。まだ転がり始めたばかりだが、イーダ・マリアはこれからが非常に楽しみな新人である。要塞を捨て、自己を解き放て。
14:03 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。