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ポーニョポーニョポニョパピプペポ

ポー如
早くポニョのDVD出せー!
遅い、遅すぎるぞー!

『紅の豚』は完全に趣味の作品だから除外するとして、
宮崎駿の作品に出てくる女の子たちはみんな、
他のキャラクターよりも、魔法、自然、全能に近い。

生命と心を通わせるナウシカ、
浮島ラピュタ帝国の血を引くシータ、
大人には見えないトトロと出会うサツキとメイ、
空飛ぶ宅急便屋さんキキ、
森の奥深くで獣に育てられたサン、
迷い込んだ不思議な世界で神と出会う千尋、
ハウルの側で様々な魔法を目撃したソフィーは微妙な立ち居地だったけど、
それがポニョで雲が晴れたようにハッキリした。

魔法の力を失うことを、それもまた良し、としたポニョ。
キキが、一度失った魔法の力を取り戻すことで辿り着いた希望の場所。
ポニョが、魔法の力を捨て去ることで辿り着いた希望の場所。
いい年したおっさんの単なる妄想と思われがちだけど、
それでも少しずつ、どこかに向かっている。

ポニョのDVDがなかなか出ないせいで
不健全な映画観ちまった。

SAW 5
SAW5.jpg
密室の解き方
 シリーズ初期は制作費も少なくどちらかというとアイディアの面白さで勝利した『SAW』シリーズだが、作品を重ねるごとに制作費は激増し、その変質的な世界観を損なわないままにセットやストーリーは手の込んだ刺激的なものへとことごとく更新され、昨年公開されたいつの間にかのシリーズ五作目である本作では、もう初っ端からイタイというかツライというか吐きそうというかとにかく自分の眼を潰してしまいたくなるような、もはや痛快ですらないグロテスクなシーンが展開されるが、本作から監督が変わったことが影響しているのか、やはり頃合を見計らうようにして苦痛の大波が襲い掛かるものの、ただただ残酷無比なシーンが繰り返された全二作に比べるとオン・オフの切り替えがはっきりしていてまとまった印象を受けた。それでも、観終わった時の、体中の内臓という内臓を片っ端から洗浄してやりたくなるようなドロドロした不快感は不変。もーこんなに不快にさせてどーする気ー!?と叫びたくなること必至である。
 でも、『SAW』の一番の理不尽さは、そんな激烈なグロさよりもむしろ巧みなストーリー性の中にこそある。時間軸を無視して自在に切り貼りされた断片的な物語。嘘はつかないが明確な真実は最後まで提示しないという思わせぶりな展開。そんな、計算高く組み立てられたストーリーのトリックによって、僕たちはどれが本物なのかわからない恐ろしく根本的な不安感を抱えたまま、手の届かないところから事件を目撃することを強要される。『SAW』のそんな逃げ出せない理不尽さに、僕はいつも「密室」を感じる。窓ひとつない徹底された密室を、僕たちはいかにして解体することができるのか。密室を解くカギとなるものは、決まってひとつの盲点である。そして、盲点とは、今目の前にある何かを疑うことではなく、いつだって今目の前にない何かを認めることによってこそ導き出される。ジグソウのゲームに強制的に参加させられた登場人物に問われる思考力も、そういったものだ。『SAW』というタイトルには多くの由来があるとされていて、その中には“seesaw(=反転)”というものがあるという。血を見たくなければなんとかして密室を打開しなければならない。これはひとつのヒントである。すべての意味を反転させよ。
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01:17 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

昔から飼いたいのはウサギですが

こんな
今夜はこんな感じ。

ベルカは犬だけど、
マリアは猫みたいだ。

あなたは、犬派ですか?
それとも、猫派ですか?

ちなみに僕は猫派です。

映画『ウォッチメン』のサントラにマイケミが参加してる。
買わなきゃ。

I Brought You My Bullets, You Brought Me Your Love
/ My Chemical Romance

My Chemical Romance-I Brought
僕たちは如何にして自分自身を祝福することができるのか
 顔全体に真っ白な化粧を施しまるで死人のような血色の悪い表情で嘆くように歌うジェラルド・ウェイ。死を楽観視しているとの批判とは裏腹に、実家の地下室で暮らしながらアニメーションの仕事に励んでいた彼が音楽活動を本格的に始めるきっかけとなった出来事は直に目の当たりにした9.11の惨劇だった。歌の方がより多くの人にアピールすることができるというのがその理由だったが、結果として誤解も多く招いてしまったということだ。しかし、マイ・ケミカル・ロマンスのデビュー・アルバムにして唯一のインディー作品である本作を聴くと、その批判がいかに見当違いであるかがこの時点ですでによくわかる。“アワ・レディ・オブ・ソロウズ”という歌に印象的な一節がある。「俺たちは完全に間違っていた。不死という意味が決して死なないことだと思っていたなんて」。死んでいるのに、生きている。彼らはその圧倒的にノー・ホープな状態をいつも「死」として捉え、歌い、叫び、戦ってきた。それは、自殺への憧れなどではなくいつだって突破の対象だったのだ。もちろんゴス・カルチャーの美学なんかとはまったくもって無関係である。生きているのに終わってしまう何かがある。死んでも終わらない何かがある。それを想像以上のものとして実感し、苦しんでしまうのが人間という生き物である。『撃ってやるから愛をくれよ』という激しく倒錯した、絶無に限り無く近い所から始まった彼らの歌は、次作で“アイム・ノット・オーケイ”という苦しみの狼煙としての叫ぶべき言葉を手にし、それは『ブラック・パレード』でついに生きる勇気にまで昇華し、解放されていく。彼らが歌うところの「REVENGE」とはまさにそういう意味だ。全然大丈夫じゃない少年が、新たに生まれ変わったり自殺したりではなく、まったく同じ大丈夫じゃない少年のまま「REVENGE」して掴み取る生きる勇気。待ち受ける景色は変わらないかもしれない。それでも、彼の背負うものは決定的に違っている。

00:44 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ひとりぼっちで始めたロマンス

mychemi.jpg
もう生きることを恐れたりはしない
もうこの世界をひとりで歩くことを恐れたりはしない
ハニー、君がいてくれるのなら僕は許される
何を言っても、家に帰る僕を止めることはできない
(“フェイマス・ラスト・ワーズ”)

マイケミは確かに僕の歌を歌う。
でも、マイケミはブラック・パレードを殺した。

なぜならそれは象徴的な存在だったから。
つまり、抽象的だったから。
抽象は、人を救わないから。

でも、マイケミがブラック・パレードを殺したのは、諦めでも否定でもない。
それは祝福である。
人を救わないブラック・パレードへの祝福。
ブラック・パレードは誰かを救えなくていい。

それはやはり、象徴的かつ抽象的だから。
ロックはここで再び定義された。
ロックは誰かを救わない。

あなたの信じるべきものがブラック・パレードである必要なんてない。
マイケミが教えてくれるのはそういうことだ。

ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ
/ 滝本竜彦

ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ
その切っ先はどこへ向かうのか
 後に作者本人が語っているとおり、大学を中退し引き篭もり生活を始めたダメ男が、その持て余した時間を思う存分に使って書いた壮大な暇つぶし、精一杯の現実逃避の物語である。甘酸っぱい青春恋愛もの、現実感の薄いファンタジー、チープなバトルもの、ひとつに「これ」とカテゴライズしにくい作品だが、その世界観は限り無く閉じている。閉じている、というか、単に狭い。「高校二年生」という誰もが通過する肩書きだけで説明に事足りてしまう普通すぎる少年、制服姿でナイフを華麗に操る美少女戦士、そして、その敵として二人の前に立ちはだかる正体不明のチェーンソー男。彼らが、見て、聞いて、感じるものだけが、この物語のリアリティの限界だと言ってもいい。何度心臓にナイフを突き立てても死ぬことのないチェーンソー男との、決して勝算のない戦いが延々と続く。戦う理由も、その果てに何があるのかも、誰もわからない。要するに、決定的な無駄である。必要が、ないのである。それでも彼らは戦う。あやうく死にそうになっても、次の日もチェーンソー男と戦う。そこに意味があるからではなく、回し車のハムスターみたいに、誰かの敷いたレールを延々と歩き続けるような、未来のわかりすぎる人生に意味がないから。勉強して、就職して、結婚して、子ども作って……それだけやってれば、幸せな人生なんて意図も簡単に手に入る。そこからドロップアウトした人間に希望はないのか。やる必要のない無駄に真剣になってしまった者に、希望はないのか。「真剣だけど無駄ー!」、というその叫びは、いったいどこに回収されていくのか。僕にはまだちょっとわからない。
 ただ、この本を読んで思ったことはたったひとつ。もう二度と取り戻せない、チェーンソーなんて使うまでもなく傷つきやすく、壊れやすかった僕の十代に一番必要だったのは、訳もなく隣で頷いてくれる誰かと、そんな誰かに語りかける、繰り返しのような日常から二人をちょっとだけ乖離させてくれる少しの特別な言葉だった。ちくしょう、とは意外なほどに思わない。
01:17 | | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

読み読み

読書
バイト疲れた・・・。
映画観ようと思ってたけど、
しんどいから読書読書。

BGMはマンドゥ・ディアオ。
個人的には、『オード・トゥ・オクラシー』が一番好きだったりする。

Give Me Fire
/ Mando Diao

Mando Diao-Give Me Fire!
立ち返る場所
 マンドゥ・ディアオにとってセカンド・アルバム『ハリケーン・バー』からここまでのキャリア運びは結構苦しいものだったのではないかと思う。精巧なプロダクションや民族的なユニークなアレンジを施し、自分たちの音楽と必死に向き合い試行錯誤を繰り返しながらも彼らは決してデビュー・アルバムを超えることができなかったのだから。駄作なんて一枚もなかったしどれも優れたロック・アルバムであることは間違いないのだが、これが音楽の難しいところで、優れたロック・アルバムが必ずしも「この一枚」になれるとは限らないのだ。優れたアルバムに、必ずしもそのバンドのグルーヴが宿るとは限らない。彼らは、常にそれが「マンドゥ・ディアオたり得ているか」、を非情なほどに問われ続けてきたのだ。
 マンドゥ・ディアオの通算5作目となる本作についてのインタヴューで、グスタフが何度も繰り返し語っていたことは、ライヴをやるために作った、オーディエンスと向き合うアルバムだ、ということだ。レコード会社との契約やプロデューサーとの関係などから本作制作に関してはそれなりに裁量の自由が利いたらしいのだが、やはりそれがレコーディング作業を「スタジオ内での出来事」以上のものにしている。そして、グスタフは気付いていないかもしれないが、あらゆるロック・バンドにとって、ライヴのため、オーディエンスと向き合うため、という姿勢は、結局のところ自分自身と向き合うことになっているのではないかと思う。だから、ここにはデビュー・アルバムの向こう見ずさや衝動性とは違うが、「マンドゥ・ディアオ」としか言えない特別な何かが鳴っている。1曲目“ブルー・ライニング・ホワイト・トレンチコート”から5曲目の“ミーン・ストリート”までの流れには本当に感動した。マンドゥ・ディアオとはいったい何なのか。その答え、もしくはそれに限り無く近いものを、彼らはついに見つけたのだと感じた。
02:00 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ホッと。

09-03-26_18-33.jpg
ダメかと思ったけど、なんとか通りました。
次はついにロッキング・オン本社に乗り込む。

次は何をするんだろう。
イチローみたいに、決めるべきときに決められる人間になれたら。

学校の一階に、ガラス張りの、
就活センターみたいなところがあるのだけど、
そこに足しげく通っている同学年の人たちを見て思うのは、
特別なことなんて何もしなくていいんだということ。
それがすでに、特別だから。

僕は僕のまま行けば良い。
それでどうして後悔ができると言うのか。


今日、久しぶりに漫画を買いました。
拡散しなくなる、ということは、
ある意味、そこで何かを完結させる、ということ。
自分の世界をそこで閉じること、と言えなくもない。
それで良いと思えるかどうか。
その自覚が、あるか、ないか。

拡散
/ 小田ひで次

拡散上 拡散下
「僕」と呼べる何かを巡って
 どうにも抗えない世界の在り方と自分自身との間でうまく折り合いがつけられずに散り散りに「拡散」してしまった少年、東部克彦。彼は拡散と合体を繰り返しながら世界中を飛び回りたったひとつの「答え」を探して回るが、その「答え」と呼ばれる探し物が果たして何を示しているのか、彼自身よくわかっていない。その「答え」をあえて抽象的に表すならば、それは世界と自分自身に折り合いのつけられる場所、世界と自分自身が拮抗できる場所、と言うことができるかもしれない。「居場所探し」と言えば幾分陳腐に聞こえるが、つまりはそういうことである。
 人はなぜこんなにも寂しいんだろうと思う。極限の寂しさによって自分を殺してしまう人だっているのだ。寂しさというその圧倒的な力は、僕たちの内側で生成されるものなのか、それとも外の世界から僕たちに注入されるものなのか、さっぱりわからない。ただ、誰とも繋がっていない孤独感というものは、みんながあなたのことを相手にしてくれないからではなくて、あなたでさえ「自分」を見つめていないから、という問題なのではないかと思う。僕たちは寂しい。だから誰かと触れ合いたい。繋がりたい。いろんなサークル活動に参加する人がいる。ネットでたくさんのコミュニティに登録する人がいる。カウンセリングに通う人がいる。なぜそんなことをするんだろうと思う。誰かと繋がりたい僕たちは、世界のいろんなところに出歩き繋がれる誰かを求めてはそこに無数の「自分」を撒き散らしている。手元に残るものが充足感ではなく肉の剥がれたチキンの骨のような「自分」の残滓だとも気付かずに。欠けてしまった「自分」が更なる寂しさを増幅させることにも気付かずに。他でもないあなたに見捨てられた「自分」。それはまさに、「拡散」そのもの。胞子のように世界に飛び散った無数の「自分」。どこに向かうのかもわからずに、それが自分の力によるものかどうかさえもわからずに、それでも僕たちはどこかに向かっている。
 世界と自分自身が拮抗できる場所。それはつまり、世界のどこに出歩いても、「自分」を撒き散らすことのない、そんな帰るべきたったひとつの確固とした場所を手に入れることだ。「拡散」がついに収まる場所。もしくは、もし「拡散」してしまったとしても、その果てで必ず再び出会うことができる場所。もしくは、疑う余地もなく、そう思わせる場所。そう、こんな世界で、たったひとつ信じられるもの。自分以外の何か・誰かにでさえ、「自分」を宿してしまうということ。「自分」を見出すということ。
 僕はもう寂しくない。そりゃあもちろん話しかけた相手に無視されれば寂しい。でも、そんなものは、君がいない、僕がいない寂しさに比べれば単なる些事に過ぎない。君がどこかにいてくれるのなら、僕はもうどこに行くのも怖くなんかない。
18:50 | | comments (4) | trackbacks (0) | page top↑

サムシング・ライク・ア・フェノミナン

Eat You Alive
ソーラ・バーチがリンプビズキットの
“イート・ユー・アライブ”のビデオに出演していたと知って驚いた。

“イート・ユー・アライブ”が収録された『リゾルツ・メイ・ヴァリー』は、
傑作『チョコレート・スターフィッシュ~』の次の作品というだけあって
03年当時かなり注目していたし発売延期になったりしてかなり焦らされたのだけど、
ふたを開けてみたらとてもガッカリな内容だったことを覚えている。

“イート・ユー・アライブ”のビデオは当時何度も観たはずだけど、
まさかこの女の子がソーラ・バーチだったとは。
モービーのビデオにも出ていて本当にビックリデス。

レヴューは昨晩バイトから帰ってきて観た映画。
もちろん主演はソーラ・バーチ。
原題は『Dark Corners』です。

Another
another.jpg
背後から迫りくる恐怖を想像せよ
 賛否両論、というかネットでちょちょいと調べた限りでは「否」の声しか聞こえてこない、06年発表で日本では劇場未公開のソーラ・バーチ主演作。確かにまあ議論の余地の多い作品ではある。現実感のない抽象的かつ大きく歪んだ世界観を描写するにはやはり情報が少なすぎるか、という印象を受けた。見る人によっては意味のわからないままショッキングなシーンが続くだけの散漫な映画だと感じるかもしれない。「つまらない」と評価した人の理由もだいたいそんなところだ。僕はソーラ・バーチの演技には絶対的な信頼を置いているので彼女を見ているだけで存分に楽しめたのだけども、残念ながら星5つ中1つ2つというのがどうやら客観的・平均的な評価のようです。
 ゴッホは自画像を多く残した画家として知られている。数十枚にも及ぶ彼の自画像について、よく議論されるものとして瞳の純度の差異が挙げられるが、僕はそこに描かれているゴッホ自身の姿そのものよりもその背後に描かれる何かにいつも強く惹かれる。写真を撮る時にあなたは当然のように後ろの景色を意識するだろう。それと似たようなものだ。ゴーギャンとの関係の悪化が原因で耳を切り包帯を巻いたままのゴッホの背後に描かれた日本の浮世絵。何かを見据えたような屹然とした表情のゴッホの背後から立ち上る不可解な渦。それらは時としてゴッホの姿や瞳それ以上にゴッホという人間を雄弁に語り始める。僕たちは背後の世界なしに物語を語ることはできないのだ。
 眠るたびに入れ替わる人格、カレンとスーザン。どちらが現実でどちらが夢なのか、どちらも現実でどちらも現実でないのか、奇妙に捩れたまま物語の進行する所謂パラドックス・シチュエーション・スリラー。夢の中で目撃する、イメージのまるで違うもうひとりの自分。自分のようで自分でない、自分でないようで自分。その感覚は鏡の世界を見つめる時のそれに近いものかもしれない。決して手の届かない反転した世界でもうひとりの自分に襲い掛かる恐怖。ゴッホは自画像を書くという行為を自己を見つめ直す手段として位置づけていた。そうして鏡を見つめる時に、そこに映る自分の背後に佇むものが無言の悪意だったら――。振り返ることさえも怖い、背後の恐怖を想像する恐怖。それとも狂っているのは自分自身なのか? その背筋の凍るような体験を僕は堪能できたつもりだ。
02:54 | 映画 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

本気の人間をナメてたら必ず痛い目に合う

れザボア
映画の意味って何だろう。
映画が伝えられる最高のエンターテイメント性って何だろう。
タランティーノは、そう考えたことがあるんだろうか。
多分、あるんだと思う。
ものすごく本気で。

それで、気付いたんだと思う。
映画に意味なんてなくても良いということに。
で、傑作デビュー作『レザボア・ドッグス』は完成したんだと思う。

ロバート・ロドリゲスもそうだったのかな。
この二人、『シン・シティ』でも一緒に仕事してます。
ロドリゲス監督の『プラネット・テラー』では、
タランティーノも役者として参加してアホやってます。

Planet Terror
planet terror
テメェだけの正しさを撃ち抜け
 オイルショックとか地球温暖化とかで何度もヤバイヤバイ言いながらも世界がなんとかギリギリの状態で未だに「世界」としての秩序を保っていられるのは、「集中力」がきちんと働いているからだと思う。もちろん勉強やスポーツにおける集中力のことではない。目下最注目の若手芸人が勢い任せの歌手デビューや役者デビューをせずに、きちんと笑いに徹する。そういう「集中力」である。要するに、世の中には、「やらなきゃいけないこと」と「やっちゃいけないこと」と「やってもいいこと」と「やらなくてもいいこと」があって、たとえ「やっちゃいけないこと」と「やらなくてもいいこと」に対して無駄な労力を使わないように注意したとしても、「やってもいいこと」ばかりに手を伸ばして「やらなきゃいけないこと」をおざなりにしてはいけない、ということだ。わかりやすく言うなら、人にはそれぞれその人にしかできない役割がきちんと用意されている、ということだ。だから、腹黒い政治家がきちんと不当な政治献金を募って、金と暇を持て余した有閑マダムがきちんとおフランスに出かけたりお紅茶を嗜んだりして、それぞれの「集中力」を発揮してきたからこそ世界は今日も平和なのである。常識も良識も結構だが、すべての場所にまったく同じ規範が通用するとは限らないのだ。日本の小学生がみんな英語勉強し始めたらマジで世界おかしくなるって。小学生には小学生だけの「集中力」があるんだから。
 だから、別にロック・フェスの収益を恵まれない国の子どもに寄付する必要もスチュワーデスさんのことを「客室乗務員」だなんて回りくどい言い方する必要も、実はそんなものはどこにもないのだ。ロック・フェスは第三世界の心配なんてしないでロック・フェス然としていれば良いのだしスチュワーデスさんはグッド・スメルを振りまいてスチュワーデスさん然としていれば良い。友愛も平等も寄付も公正も正義もどれも正しいけれど、物事には「優先順位」というものが必ずあるのだ。最近あんまり顔を見かけなくなったあの中年女性芸人は100kmマラソンなんてやってる暇があったら次の必殺ネタを考えるべきだった。彼女が「集中力」を発揮すべき場所はそこだったはずだ。そういうことなのだ。そして、ロバート・ロドリゲスは言う。映画の希望を信じる者にとって、スクリーンを赤黒く染める大量の血ノリとナイスバディなねえちゃんのファッキンビッチなケツの穴は常識も良識も友愛も平等も寄付も公正も正義もそれらすべてを圧倒的に超越して「正しい」と。
02:23 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

やべ、書き始めたらついつい長くなった

Sound Of Superman
/ Various Artists

Sound Of Superman
スーパーマンとエモというヒーロー不在の追究
 70年代後半から80年代後半にかけて、宇宙の平和を守るスーパーマンとして映画『スーパーマン』シリーズに主演し映画界のヒーローとなったクリストファー・リーヴはしかし、その栄光の象徴ともいえる大文字“S”マークを胸に刻んだコスチュームと赤いマントを脱ぎ去ることを何よりも望んでいた。詳しくは知らないが、根っからの役者人だったらしい彼にとって、スーパーマンの栄光は時として単なるしがらみでしかなかったのだろう。人々が求めるヒーロー像と本当に追究したい演技との狭間で彼が味わった苦しみについてはもはや想像するしかないが、それは文字通り想像に難くない。吐き捨てられたガムみたいにへばり付いた「スーパーマン」としてのイメージの払拭を目指した彼は他の作品にもいくつか出演しているが、世間の先入観というものは得てして残酷なほどに根強いものだ。他作品でも彼の演技は高い評価を得たようだが、凝り固まったイメージからの完全な脱却にはとても及ばなかったのではないだろうか。人々の目に刻まれた“S”マークは彼の胸に刻まれたそれよりも遥かに強烈だったということだろう。よくある話だと思う。
 そんなクリストファー・リーヴを悲劇が襲ったのは95年。乗馬中に突如として立ち往生した馬の背中から放り出されてしまった彼は、頭から地面に不時着し、早急な手術を受けるも脊髄に重大な損傷を負ってしまう。脊損者となってしまった彼は、意識はあるものの歩くことはおろか息をすることにでさえも人工呼吸器の助けを得なくてはならなかった。鳥や飛行機に見間違えられながら壮健に泳いでいたあの悠々たる大空から動けないベッドに沈んでしまったスーパーヒーロー。役者生命としては、決定的であり、致命的だったはずだ。彼はもはや、マントを脱ぎ去るどころかそれを着ることさえもできなくなってしまったのだから。言うなればそれは、イメージからの脱却どころかその半ばで自分がスーパーマンであるという前提そのものを強奪されてしまったようなものだ。それどころか、呼吸さえもままならない状態で、いったいどうして他の誰かを演じることができるだろう。そんな状態で演技の追及などできるはずがないし、やるべきではない。挫折ですらない断絶された夢。それでも命ある限り人生は続く。生命力の本当の逞しさと冷酷さを思い知る時とはそんな時だろうか。そういえば、小説家・西尾維新が自身の作品の中でこんなことを言っていた。「人生がゲームでないのはリセットボタンがないからではなく、そこにゲームオーバーがないからだ。とっくの昔に《終わっている》のに、それでも明日はやってくる」。クリストファー・リーヴは決して勝算のない明日を何度迎えたのだろう。04年10月、彼は、最後まで車椅子から降りることなく、52歳という若さでこの世を去った。

 06年に発表された作品だが、個人的に気に入っているジャックス・マネキンが参加しているということを知って、スーパーマンをテーマにしたトリビュート盤『サウンド・オブ・スーパーマン』を最近買った。参加アーティストとしてジャックス・マネキンの他にはジ・アカデミー・イズやモーション・シティ・サウンドトラックなどの名前が並んでいて、「エモい」連中を意識してピックアップしていることは明らかだ。
 ではなぜスーパーマンでエモなのか? それについて少し考えてみた。

 銀河の彼方に位置する惑星クリプトン。そこは、太陽への異常接近が止まらない、滅亡の危機に瀕した惑星だった。クリプトン科学の最高権威であるジョー=エル博士は惑星の異常事態を警告するもまったく相手にされず、苦肉の策として自分の最愛の息子を彼の意志を伝えるためのクリスタルと共にカプセルに入れて地球へと送った。カプセルが着陸した麦畑を偶然通りかかった人間の夫婦は、考えられない馬鹿力を発揮する赤ん坊を天からの授かりモノと思い、そのまま自分たちで育てる決心をする。汽車よりも早く走るなど、すでにスーパーマンとしての能力の片鱗を窺わせていた少年はそれでも人間としてきちんと育てられた。しかし、ある日、彼はクリスタルの力によって自分が地球において極めて特別な存在であることを知る。つまり、自らの背負ったスーパーマンとしての運命と正義の意志を、引き受けるのだ。スーパーマンは情報収集のために普通の人間として新聞社に就職する。そして、人々の危機を察知してはあのお馴染みのコスチュームに身を包んで救出に向かうわけだが、スーパーマンの面白いところは、人間として生活を送る彼が、無自覚だが幼い頃からすでにスーパーマンとしての力を内包しているところにある。クリスタルによってスーパーマンとしての力を与えられるわけではなく、ただ“S”マークと赤いマントを持っていないだけで、彼はすでに生まれながらのスーパーマンであり、ただそれを知らなかった、気付いていなかっただけだと。
 それがいったいどういうことを伝えるのか。あの身なりからも分かるとおり、スーパーマンという存在は、なんというか、非常にフィクショナルである。ヒーローとはそもそもがそういうものかもしれないが、とにかく、あんな存在がこの世にいるとはとてもじゃないが考えられない。そう、スーパーマンなんて、いるわけがない。でもそれは、ただ単にみんなが気付いていないだけかもしれないのだ。だとしたら、スーパーマンなんてどこにもいないということは、スーパーマンはどこにでもいるということと、ほとんど同じことを言っているに過ぎない。スーパーマンはあなたの隣の家に住んでいるかもしれないし、もしかしたらあなた自身かもしれない。遠いようで近い存在。スーパーマンの本当の魅力はそこにある。給食をクラスで一番に食べ終わる君のその今は役立たずな能力が、いつかの未来で地球を救わないだなんていったい誰に断言できる?

 「エモ」と呼ばれる音楽の定義は非常に曖昧である。音楽的な性質としては非常に多種多様であって、「これ」とひとつに断定することはほとんどできないに等しい。一般的には、親しみやすい泣きのメロディとその感傷を開放させるダイナミックな演奏、というのがエモ系音楽の共通項だろうか。要するに、自己憐憫、自己完結である。そして、そこでぶちまけられる悲しみは大抵フラれただの自分はイケてないだのといった思春期的なものであり、要するに、世界の脅威に為り得ない、第三者としてはどうでもいいことである。そんな曖昧でどうでもいいまま転がり続けたエモは、思春期的、つまりは誰もが通過する普遍的なものであるが故に大きな支持を獲得する一方で、やはり幾度となく批判の対象にもされてきた。「失恋=世界崩壊」とでも言うような青さからくる大袈裟さ、そして若者の自傷行為や自殺の温床になっている、というものである。そして、そんな風に、明確な定義付けがされず賛否両論のままある意味立ち止まりかけていたエモ・シーンを完全にブレイク・スルーさせた一枚がマイ・ケミカル・ロマンスの06年作『ザ・ブラック・パレード』だった。というか、あのアルバムはエモの定義そのものとでも言うべき本質的な作品だった。そもそもマイケミは「死」をモチーフにしながら「僕は大丈夫じゃない!」と叫んでしまうような、エモ批判者にとっては絶好のカモだったわけで、実際にマイケミのネガティヴなイメージに関する論争も度々起こってきた。そんな中で、『ブラック・パレード』が定義した本当のエモとはいったいどのようなものだったのか。
 『ブラック・パレード』はそのダークな印象とは裏腹に極めてポップな一枚である。21世紀に発表されたあらゆる作品の中でも最高峰にポップな一枚である。ポップとはつまり、第三者を巻き込ませるということ、一緒になって歌わせるということだ。そして、『ブラック・パレード』を歌えばすべてがわかる。気付けば「生きることを恐れたりはしない」とあなたは歌っているはずだから。全然大丈夫なんかじゃない少年が、全然大丈夫じゃないまま、それでも「生きることを恐れたりはしない」と歌う勇気。『ブラック・パレード』はそれをあなたに歌わせる。
 それはいったいどういうことなのか。結局大丈夫じゃないままということは、決して『ブラック・パレード』は僕たちを救ってはくれないということだ。それは決して闇夜に訪れる救世主などではないと。そもそもロックとはステージの上で繰り広げられる何かであって、それを見上げる観客をどうしようもなく本質的に救い得ない音楽である。全然大丈夫じゃないからロックなんてめんどうな音楽わざわざ聴いてるのに、ロックは救いの手なんて差し伸べてはくれないのだ。そして、何よりも救いに近い場所にあると信じていたロックでさえ僕たちを救わないなら、僕たちを救うのは、もう僕たち自身しか残されていない。ロックとはそういう音楽である。あなたがロックにあると思っていた救いは実はここにはないのだと、あなたがロックにこそあると思っていた救いはむしろあなたの中にこそあるのだと。遠いようで近い存在。親しみやすいメロディでダイナミックで普遍的で歌わせる、つまりはポップな「エモ」と呼ばれる音楽は、それをほんの少しだけわかりやすい形で提示してみせただけのことだ。僕たちは死ぬためにロックを聴いてるんじゃない。こんなどうしようもなく負けてる自分でも生きていたくてロックを聴いているのだ。「生きることを恐れたりはしない」。毎秒ごとにそう小さく呟いて、生き繋いでいるのだ。

 要するに、スーパーマンとエモは一緒なのだ。近いようで遠い存在。それはまさに自分自身なのだと。

 クリストファー・リーヴがマントを脱ぎたがった理由が前よりもよく理解できる気がする。スーパーマンはどこにもいなくてどこにでもいる存在だからこそ素敵だった。でも彼は、「彼こそがスーパーマン」になってしまったのだ。その胸に光る“S”マークと赤いマントは、彼をある種特権的な存在にしてしまった。でも、それはもうすでに、本物のスーパーマンではなくなっているのだ。だから彼はヒーローにならなければいけなかった。自分自身という、本物のスーパーマンに。
 
 クリストファー・リーヴは落馬の悲劇からその死までの間、絶望というかむしろ無望の淵に沈んでしまってもおかしくないのに、リハビリを繰り返し、体を回復させ、車椅子に乗ったままだが映画にも出演し、福祉活動にも積極的に参加し、多くの人に感動を与え続けた。もちろん、胸に“S”マークは刻まれていないし、赤いマントも羽織ってはいない。スーパーマン以外の役で大成することもなかった。自分の足で歩けないまま、失礼な言い方になってしまうかもしれないが、そういう意味ではやはりどうしようもなく負けたまま、それでも彼が前向きに生き続けたのは、彼がもう気付いていたからだと思う。かっこよく脱ぎ去ることはできなかったけど、もう“S”マークも赤いマントも本当に必要ないということに。負けている僕たちを救うヒーローなんていなくても別に良いということに。「もう生きることを恐れたりはしない」。彼は多分そう歌えたと思うから。

 何もかも完璧にできる人間などいない。何もかも満たされている人間などいない。僕たちは徹底的に不完全・未完成で、明らかに何かが欠けている。そして、世界にはそんな僕たちを都合良く救ってくれるヒーローも欠けている。僕たち世界はパーフェクトじゃない。僕たち世界はどう見ても負けている。それでも、「生きることを恐れたりはしない」。そこには希望があると思うし、なくちゃならないと思うし、それ以上に、あった方が素敵だと思う。
 生きてるだけで勝利。安っぽいがそれで良いんじゃないかと思う。それさえ否定される世界なら、スーパーマンにもロックにも肯定できることなんてここにはひとつも残されていない。
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You are a singer.

プリズムジャケ
咲くのは
光の輪
高鳴るは、胸の鼓動

YUKIがもっともあっちの世界に近づくとき。
その合言葉はYUKIの完全なアドリブだった。
YUKIは言葉の魔法使い。

僕はいったい何の魔法使いなんだろう。

Spilt Milk
/ Jellyfish

Jellyfish-Spilt Milk
禁断の錬金術の数々
 ジェリーフィッシュを聴こうと思った理由がこれだからやっぱり言わなければ気がすまないのだけど、YUKIのソロ・デビュー作『PRISMIC』に“プリズム”という歌が入っている。非常に特別な歌で、“JOY”や“長い夢”や“ビスケット”がどんなに素晴らしい歌でもやはりYUKIの「この一曲」は“プリズム”でなければならないというか、売上や理屈の話ではなく“プリズム”なしにYUKIは語れないという、とにかく決定的な歌なのだ。YUKIがソロとして大きく売れ始めるずっと前に発表された歌だし、アレンジやイメージに関して言えば“プリズム”以上にカラフルでファンタジックな歌をYUKIは他にもたくさん歌っている。でも、やはりYUKIは“プリズム”を超える歌を未だ発表していない。僕はそう認識している。なぜか。それは、“プリズム”におけるYUKIの言葉選びのセンスもさることながら、それらの言葉を生々しく立体化させるメロディが、YUKIのこれまでの歌の中でも最も限り無く「魔法」に近いものだったからだ。YUKI自身“プリズム”のデモを聴いた時に「光の河が見えた」とそのメロディに想像力を激しく刺激されたことを認めている。そして、そのYUKIの名曲“プリズム”に「魔法なるもの」を宿した張本人こそ、このジェリーフィッシュのソングライター、アンディ・スターマーその人なのだ。
 ジェリーフィッシュにはアンディともうひとり、ロジャー・マニングという天才がいて、二人の突出しすぎた才能を前にして他のメンバーの脱退が相次ぎ、結果的に93年発表の本作はセカンド・アルバムにして早くも実質上のラスト・アルバムとなってしまった。しかしだからこそ本作では二人の天才性が余すことなく発揮されビートルズにビーチ・ボーイズにクイーンまで丸々飲み込んだような珠玉のポップ・ソング満載のとんでもなく過剰なアルバムに仕上がっている。魔法の世界と契約を交わした者のみが作ることを許された崩壊寸前の狂気的ポップ・アルバム。尋常じゃない。
14:58 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

オール・オーヴァー・ザ・ワールド

イエス
ペット・ショップ・ボーイズ最新作『イエス』。

「イエス」、と言われて思い出すのはやっぱり
ジョン・レノンとオノ・ヨーコの出会いの場面。
「イエス」は、無防備なまでの、圧倒的な肯定。
でもそれは何かに「ノー」って言うのと一緒だから、
屁理屈っていうのは難しいですね。

ペット・ショップ・ボーイズと言えばやっぱり
“ゴー・ウェスト”より“サムウェア”より
“ニューヨーク・シティ・ボーイ”でしょう。

ニューヨーク・シティ・ボーイ。
にゅうよーく・してぃ・ぼーい。
にゅうよく・してい・ぼーい。
入浴・したい・ぼーい。

ここ数日風呂入ってないな。
明日は先輩の卒業式だから
朝風呂入ってビシッときめていこう。

ペット・ショップ・ボーイズ過去作から。
“ニューヨーク・シティ・ボーイ”収録。

Nightlife
/ Pet Shop Boys

Pet Shop Boys-Nightlife
ミステリアス・ナイト
 allmusicのHPでなんとなくレヴュー読んでたらこの作品の評価が思ったより低いどころかほとんど駄作扱いされていてビックリした。ペット・ショップ・ボーイズのキャリアにおける唯一にして最大の汚点、みたいな。確かにディスコチックなポップ・アレンジは『ヴェリー』『バイリンガル』を彷彿とさせるし英国風のしまってんだかしまってないんだかなラップに乗せた“ハピネス・イズ・アン・オプション”はかなり“ウエスト・エンド・ガールズ”だけど、それは「焼き増し」とはまったく無関係の、今いる場所から更なるエモーショナルな深みに没入するための足掛かり的な「襲用」なんじゃないかと思う。ダークな世界観も彼らの他の作品と比べて毛並みが違うのは明らかだし、これはこれでしっかりとしたオリジナリティを持っている作品である。音楽的な冒険をしていないというのがallmusicの酷評の理由みたいだけど、だからと言ってそれを「立ち止まり」と評価するのは安易過ぎやしないか。音楽が必ずしも新しかったりチャレンジ精神に溢れていたり好戦的である必要性なんてどこにもないんだから。
 夜は不思議な時間である。昼間ならとてもじゃないけど言えないようなセリフでもただ夜というだけでケロッと言えてしまったりする。で、朝目覚め、恥ずかしや。そこにはほとんど朝昼との繋がりや関係性なんて存在していなくて、昼の次は夜、夜の次は朝、という定説は間違いで、多分夜の時間の僕たちは日中とは違った倫理や制約の働いているまったくの別世界で生活しているんだと思う。「電話ぐらいしてくれればいいのに」とうそぶいてみたり(“フォー・ユア・オウン・グッド”)、「酔ってる時しか愛してるって言ってくれないのね」と拗ねてみたり(“ユー・オンリー・テル・ミー・ユー・ラヴ・ミー・ウェン・ユーアー・ドランク”)、「あんたはゲイよ」「いやそうじゃない」といがみ合ったり(“イン・ディナイアル”)、「君の足音が聞こえるだけでもういい」と孤独を憂いでみたり(“フットステップス)、まるで昼の自分とは違うもうひとりの夜行性の自分が目覚めて次々と恥部を晒していく混乱や戸惑いを一枚のアルバムとしてパッケージしたような本作はペット・ショップ・ボーイズの素晴らしいコンセプト・アルバムである

00:38 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

15周年だそうです

FreshJAM.jpg
ミルククラウンっていうのかな。
こういうの見ると、思考がキテレツ→はごろもフ~ズ(女の人の声)
ってなる。
コーンの粒がしゃべるのもありましたね。


さあ!早く飛び乗って!
あたしは絶対にあなたを置き去りにはしない!

どこからか聞こえたような気がしたそんな声に騙されて
僕は今年で五年目です。

15th Anniversary Tribute Album
/ Various Artists

Judy and mary-15th anniversay
隣のJUDY AND MARY
 敷居低っ。ということで、JAMデビュー15周年を記念してこのたび発表されたトリビュート・アルバム。これでも一応他人の歌なのに、揃いも揃って肩の力抜きすぎてる。手を抜いてるという意味じゃないよ。リラックスしすぎ。自分の領域でやりすぎ。でもだからみんな気持ちいいくらいに思い切ってる。参加アーティストを見てみてもPUFFYや民生からしょこたんHALCALIミドリ大塚愛真心ブラザーズとカオスってるしどういつもこいつも自分の歌だと思ってんじゃねえかというくらい自由なカバーです。ホント。近所のおっちゃんとかねえちゃんがステテコ&セーラーのまま広場に集まってのど自慢なノリなり。
 最近の日本のヒット・チャート見てるとR&Bのホントの意味もわかってないような連中が「これがR&B」ですってな顔して似たような歌ばっか歌いやがってムカつく。それがなんかカフェの照明みたいにちょっとオシャレでイケてる感じになっちゃってるのがもっとムカつく。そんでもってそれなりに悲しみのこもってる感じの歌で「みんなもそう思ってるよね?」って安っぽい共感求めてくるのには殺意覚える。feat.フューチャリングふゅーちゃりんぐ言うな。とまで言ったら言い過ぎごめんなさい。ただ今はやっぱり聴き手がそれぞれに自分の「音楽」を明確に定義しながら聴かなきゃいけないんだと思う。僕が日本のR&Bシーンに不満があるのはだからその選択の結果としての自民党vs民主党なわけでギャーギャー言っても不毛なのは永田町見ろよなわけだけど、このトリビュート・アルバムを聴くとやっぱりこんぐらいやっちまえよとR&Bシーンに小石のひとつでも投げつけてやりたくなる。聴き手がこれは紛れもない自分の歌だと勘違いしちゃうくらいに、人の喜びや感傷に平気な顔して土足でズカズカ上がりこんでくるJAMの大文字ポップ・メロディーと言葉の数々。誰かと本気で繋がろうとするならこんぐらいやらなきゃ駄目だ。
00:45 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ヤー!ヤー--!ヤーーーーーーズ!

ヤーや―
新作が待ちどおしー!
“マップス”はいつ聴いても心臓が張り裂けそうになる。

Fever To Tell
/ Yeah Yeah Yeahs

Yeah Yeah Yeahs
それでも生きてやる、という「愛」
 明らかに口紅厚く塗りすぎて真っ赤に縁取られたその口で、張り裂けるような愛を叫ぶカレンO。彼女のそんなイカれた姿を見るにつけて思うことは、ピート・ドハーティがやはりそうであるのと同じように、彼女の放つ異様なまでの存在感は決して過多ではなく深い欠落に起因しているのだろうなということ。激しく混乱したままの彼女のルックスには、やはり決定的に何かが欠けている。その超個性的なスタイルで他の誰でもない「ひとり」の自分を誇示しながら「私をひとりにしないで!」と胸を掻き毟るその倒錯。それはしかし訳のわからない我がままではなくて、世界にたったひとりの自分をすぐ隣でうんと頷いて認めてくれるやはり世界にたったひとりのあなたがいて欲しいと願う極めて普遍的な欲求である。そして、彼女は自分から去っていこうとする「あなた」に向かって歌う。「待って、誰も私のようにはあなたのことを愛せない」と。その姿は確かに悲痛だが、しかしそれが彼女なのである。何かが足りないまま、何かが根本的に狂ったまま、それでも前に進むしかない。
 ベースレスという音楽そのものがすでにロックの前提に辿り着けていない欠落を孕んだヤー・ヤー・ヤーズの音楽はデビュー当時のニューヨーク・シーンやガレージ・ロックという概念を脇に追いやっても今なお恐ろしくリアルに響く。「何かが足りないのもその人の個性」だなんて優しすぎる言葉かけるな。それはやはり紛れもない「欠落」であり「欠陥」である。それでも、それがカレンOで、それが僕たち。そして僕たちは生きている。その事実の前では「それも個性だから」なんて慰めはいとも簡単に吹き飛ばされてしまう。僕たちに返品は効きません。だからめちゃくちゃに愛して愛して愛して愛して生きてやる。
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独りぼっちになりたくない

Fuck pete
オアシスに夢中だったし、
YUKIは一生聴き続けるだろうなとすでに確信していた。
でも、この歌を聴いた時、僕のどうでもいいような大切な何かは始まったんだと思う。

ファック・フォーエヴァー。
この歌を初めて聴いた時から、
僕は自分の叫び声を見つけなきゃいけなくなった。

ファック・フォーエヴァーですら救えない僕を救う叫びを。


Grace / Wasteland
/ Peter Doherty

Peter Doherty-Grace Wasteland
紛い物の魂だって愛を求めてる
 「知性」と呼ばれるものを、とりあえず、大人の社会で効率的に生きていくための優れた能力、と定義するならば、ピート・ドハーティほどそういう意味での「知性」を致命的なまでに欠いた男はいないのではないだろうか。もちろん彼の文学的な言葉選びのセンスには比類なきものがある。しかし、ここでの「知性」とは決してそういう意味ではないのだ。きちんとした「知性」を持った普通に賢い大人なら、毎日せっせと働いて貯金とか家庭とかマイホームとか、彼らがより良い未来を手にするために力を注ぐことはひたすらに堅実な構築作業である。自分の体の一部をナイフで削ぎ落としてそのまま提示するような、そんな破滅的な引き算式の生き方を、「知性」ある大人は絶対に採用しない。ファック・フォーエヴァー。俺もお前も消えうせろ。ピート・ドハーティは、より良い未来以前に、ただ目の前の「今、ここ」に存在するために、そう叫ばなければならなかった。そうでなければ、呼吸することさえままならなかったのだろう。だとしたら、ピート・ドハーティという男はやはり、ひとりの大人として、猛烈に救いようのない欠陥品なのだと思う。
 ピート・ドハーティにとって初のソロ・アルバムとなる本作に収められた楽曲は、ここ数年の間に作られたものからリバ結成以前にまで遡る。そんな連続性があるようでないような曲群にあえて共通項を見出すならばそれは、どれもアコースティックでジェントルな手触りに仕上がっていて、彼独特の私小説的リリックではなく彼の視線から捉えた第三者が主に取り上げられているということだ。そして、最も重要なのは、それぞれの楽曲に登場する主人公としての第三者が、どれも決まって彼と同じような欠陥品の大人であるということだ。愛、裏切り、喪失、孤独、混乱する様々な感情の狭間で、立ち止まってしまった魂たち。見て見ぬフリをしていればうまくやれたのに、それができなかった出来損ないの魂たち。そして、だからこそピート・ドハーティの歌は今も、叫ぶべき言葉を持たずして己が荒野に立ち尽くしていることに気付いてしまった若者の、ただでさえ不安定な心を揺さぶりまくって止まない。
02:36 | 音楽 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

最強の10本

最強
と言いつつ9作分しかありませんが、
これに『ポニョ』が加わると完璧に完成の最強の10本です。
早くDVD出ないかなー。

映画っていうのは、こうあるべきなんだ。
映画っていうのは、これで良いんだ。
そんな10本。

絶対に損させません。
むしろ見ないと人生の一割くらい損しそうな作品たち。
要するに、10作全部見ない場合、人生の十割くらい損します。

Dear Wendy
Dear Wendy1
「負け犬」を突破せよ
 アメリカの小さな炭鉱町でほの暗い生活を送る五人の少年少女はある日、秘密結社を結成する。銃による平和主義を標榜とする彼らの名前は「ダンディーズ」。ちょこっと古めかしくもイカした銃をパートナーとして懐にしまい込んだ彼らはもう昔の陰鬱な彼らじゃない。廃鉱の中で銃について学び腕を磨いた彼らにはもう怖いものなんてひとつもない。好きな衣装に身を包み、街中だって堂々と練り歩いてみせる。ダンディーズには絶対に守るべきルールがある。それは、銃はあくまで「精神的支柱」であり、持ち歩くだけで決して誰かに向かって誇示するべきではない、というもの。アメリカの歴史を振り返っても明らかなように、銃はいつだって暴力と悲しみの不条理な連鎖を担保してきた。ダンディーズは違うのだ。言うまでもなく、ダンディーズがダンディーたる所以とは、銃を武器として誇示する無法さではなく、ただ静かに携えるその愛と祈りの力強さにこそあるからだ。ダンディーズは逞しくも紳士的でなければならない。もう、誰にも「負け犬」だなんて呼ばせない。彼らは強くなったのだ。
 本当に、そうだろうか。彼らが町を練り歩くのは、いつだって人通りの少なくなった日没後だった。「精神的支柱」と呼べば聞こえは良いが、彼らがパートナーを外の世界で晒さない本当の理由は、それが彼らの強さではなく、他でもない自分の弱さを受け入れられないガラスのようなナイーヴさの証左でしかなかったからだ。だから、だからこそ、それを太陽の下で目覚めさなければならない境地に追い込まれたその時、彼らは実は強くなどなっていない自分との対峙を強いられた。彼らの信じていた強さが完膚無きまで打ちのめされ、すべてが破綻してしまったことは、だからある意味で当然のことだったのかもしれない。他の誰かから向けられた眼差しなら、僕たちはそれに背を向けることができる。でも、羞恥や嫉妬や孤独といった自分の内側で生成される劣等感からは、僕たちはどう足掻いても逃れることができない。彼らがそれぞれのパートナーを愛したのは、結局のところそんな抱えたままの劣等感を忘れさせる一時的な誤魔化し行為に過ぎなかった。永遠に続く夢物語なんてどこにもない。
 それでも、この映画を観ると、信じていたものが打ち破れたその後にも決して終わらない何かがあることが、荒野の最果てで手にした小さな石ころのような自信と確信で、わかる。「信じる負け犬」が最後に立ち尽くす場所は、「信じない負け犬」のそれよりも、ほんの少しだけ希望の光に近い。
01:11 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

輝かしき90年代

ジョージ・M
ワム!の頃、
ジョージ・マイケルは「ウキウキ」だった。

3人兄弟バンドのハンソンは
「キラメキ☆」でした。
「キラ☆メキ」だったかな?

90年代には不景気なんてなかったんでしょう。

Listen Without Prejudice Vol.1
/ George Michael

George Michael-Listen Without Prejudice
これだけのアルバムで勝てない世界というのも悲しい
 ワム!解散後のソロ第一弾アルバム『フェイス』の世界的な大ヒットを通過してポップ・スターとしての揺るぎないポジションを獲得したジョージ・マイケル。しかし、彼はファンやレーベルが自分に求めるポップ・スター像を信じてはいなかった。ワム!解散の理由としては、ジョージ・マイケルが相方のアンドリュー・リッジリーを見限りソロでの活動を強く望んだからとされているが、むしろアンドリューの方が才能のあるジョージの背中を押したという話もある。日本でも無責任につけられた邦題のせいで「ウキウキ」の強烈なイメージが長く払拭されなかったが、いろんな意味で、ジョージ・マイケルのソロ・キャリア初期の時間は、「ワム!=ポップ・スター=ジョージ・マイケル」という根強い紐帯を振りほどくためのひとつの過程だったといえる。大ヒットを記録したデビュー作の次の作品としてはいささか地味な印象の否めないアルバムだが、『偏見なしに聴いて欲しい』と名付けられた本セカンドで、彼はワム!では見出すことのできなかった他の誰でもない「自分」を探るかのように、内省の底から本音を吐き出している。余計な集中力を使いたくなかったのだろう。本作からのシングル楽曲のビデオでは、ジョージ・マイケルは一切その姿を現してない。みんなのポップ・スターから自分のためのひとりへの帰着を目指したこのアルバムはしかし、前作からのギャップも激しくセールス的にはキャリアに影を落とすこととなり、そこから起きたレーベル側との諍いは後に裁判沙汰にまで大きく発展していく。続いて発表されるはずだった『Vol.2』も日の目を見ぬまま空中分解し、収められるはずだった楽曲はチャリティ・アルバムなどに分散されていった。個人的な話だが、“ゼイ・ウォント・ゴー・ウェン・アイ・ゴー”という曲が好きだ。孤独が泣いている。
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間違いなく09年最も重要な一枚

No Line On The Horizon
/ U2

U2-No Line On The Horizon
約束の地であなたと出会いたい
 とても抽象的なアルバムだと思う。日本人写真家・杉本博司の写真を使用したアートワークもそうだが、『原子爆弾解体新書』と名付けられたひとつの具体を小さなパーツ・レベルのたくさんの具体にまで解体した前作から四年半ぶりに発表された本最新作が語り出すのは『ノー・ライン・オン・ザ・ホライゾン(=境界なき地平)』という極限の抽象である。この変化の大きさは凄まじい。熱さと激しさを抑制したボノの歌声は一瞬お経か何かかと思った。ブライアン・イーノ&ダニエル・ラノワによって手掛けられたエレクトロなサウンド・プロダクションも電子という粒のような断片ではなくそれの集合体としての波動のような大きなうねりを感じさせる。ただ、言うまでもなく、ここでの抽象は物事をうやむやにさせる曖昧ではない。希望と絶望、光と闇、過去と未来、僕とあなた。理由や意味に応じて様々な境界線を引くことで成り立っているひとつの世界。しかし、マクロで俯瞰していた明らかな白と黒のコントラストでも、ミクロの単位にまで近づいてみると「あ!」と思わず声を上げてしまうほど、実はそのふたつが出会う境界線は限り無く無境界に等しかったりする。それは何かに似ていないだろうか。昨日と今日とで何も変わらない、変われない自分。そんな同じような毎日を繰り返してきたはずなのに、今日の僕と10年前の僕とではただ単に時の経過以上の明らかな変化がその狭間には横たわっていたりする。『境界なき地平』とはきっと、「愛を燃やす」場所としてかつて歌われた“名もなき通り”のその果てに広がっているはずの景色だろう。それはもっと遠い場所にあるのだと思っていた。それこそ一生かけて辿り着けるか否かとでもいうような果てしない彼方に。しかし、U2は歌うのだ。それはすぐそこにある景色なのだと。遠いようでまったく遠くない場所にあるのだと。境界によってこそ具体的に形作られるこの世界で、U2は今それを歌うのだ。それはつまり、その場所は、「あなた」でかまわない、「あなた」が相応しい、ということだ。そこに、もはや境界線はないのだから。
 U2というバンド名は、この歌は僕でありあなたである(=you too)、という彼らの頑なな思想、というかほとんど切実な願いに近いそれを表しているとされている。国境や性差から身分や個人まで、ひたすらに境界線を引きまくることが大好きなこの世界で、それでも僕たちはもうすでに「約束の地」に立っている。あとはもうそれに気付くかどうかだけなのだ。U2はそれを祈っている。昔の自分はまさにその当事者だったが、これを理想主義者のたわ言とか現実はそうじゃないとか言って口の端で冷たく笑うやつが僕は大嫌いだ。
02:23 | 音楽 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

右上には文字通りの舞城が

フルシアンテ
私たちがやっているのはもはやロックではありません。
私たちがやっているのはアートです。

意識的なアートなんて大嫌いだ。
アートたらんとしてアートしているアートなんて、なんだよそれ。

でも、うん、このアルバムは確かに良かった。
アートワークが最初は気に入らなかったけど、
聴いた後にはこのアートワーク以外にはありえない
と思えたから良かった。

レッチリのことほとんど何も知らないけども。
読書しながら聴くのにいいかもこれは。

The Empyrean
/ John Frusciante

John Frusciante-Empyrean
君と僕とに引き裂かれた世界
 スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』はとても興味深い映画だった。人間の興味や興奮の対象が、手元に転がっている木の棒から果ては宇宙にまで広がっていき、そして最後の最後にその宇宙さえも内包し得るほどの巨大な世界は人間の想像力にこそ宿るという、息を呑むほどの圧倒的な帰結の物語だった。そして、多分に誇大妄想的なその物語は、ひとりの人間の誕生とはそれそのものがすでにひとつの世界の誕生なのだという壮大なボジティヴィズムによって支えられていた。
 ジョン・フルシアンテという人は、一度は人間のその果てしないポジティヴィズムを完全に放棄した男である。人間であることを止めた男である。今年一月に発表されたそんな彼の最新作には、「天と地」「光と闇」「君と僕」といった決して相容れることのない対極のイメージがあちこちに散りばめられている。アートワークや詞を見てみても、彼の中にすでにひとつの明確にして完結した(もちろん続きがないという意味ではない。広がりは圧倒的である)世界観が息づいていることは容易に理解できる。しかし、精巧なアートワークがすべてを語っているとも言えるが、そこで出会うはずの「君」と「僕」は、どうしようもなく引き裂かれているのだ。そして、ジョン・フルシアンテは明らかに、まだ土に半分埋もれたままの「僕」を歌っている。上空で美しく舞う「君」に辿り着きたい、失われた世界の半分を取り戻したいと。そのために、俺はもう二度とギターを手放すわけにはいかないんだ、俺はもう一度誕生しなければいけないんだと。この作品を覆う、静謐にして凶暴的なまでに張り詰めた緊張感に触れて思うことは、そういうことである。
01:19 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

悲しみを燃焼しろよ

クサイハナ
やっぱりポケモンの中ではクサイハナがダントツでかわいい。
ラフレシアに変身させてしまうやつなんて完全にモグリだと思うのだけど、
どうだろう。
ラフレシアにはちょっと、品がないよね。

例えば“ちょうおんぱ”でもやられてポケモンが混乱してしまった時に、
わけもわからず自分を攻撃してしまうことがある。
他のポケモンだと結構キレそうになるのだけど、
クサイハナだけは許せる。
何が悲しくて、クサイハナは自分を責めるんだろう。

花という極限の美しさを誇示しながら、
自ら堕ちていくクサイハナ。


腑抜けども、悲しみの愛を見せろ
/ 本谷有希子

本谷有希子-腑抜けども、悲しみの愛を見せろ
人事だなんて思うな
 音楽にしても映画にしてもそうだが、喜びよりも悲しみの物語の方がよりリアルに感じられるのは何故だろう。喜びなんて嘘っぽいから? いやいや本物の喜びだって世界にはたくさんある。悲しみと真実こそがイコールの関係とか喜びより悲しみの方が割合が高いとかだなんて決め付けるのは早計というものだろう。「これは実話を基に……」というお決まりの宣伝文句がむしろ偽りの臭いをプンプン発しているように、真実だと思っていた悲しみが実はとんだ紛い物だったなんてよくあることだろう。それでもやっぱり悲しみの方がなんだか真実味がある。もしかしたら、僕たちは悲しみをきちんと消化していないのかもしれない。誰だってわざわざ喜びを避けるようなことはしない。でも、悲しみはどうだろう。目の前にある悲しみを、僕たちはやり過ごしてしまいがちではないだろか。喜びはちゃんと食っているから、これ以上は過食気味でもうたくさんってなってしまうのかも。消化すべき悲しみをちゃんと食っていないから、他者の悲しみでそれを補おうとしているのかも。でも、その悲しみは結局のところ他者のものでしかない。きちんと消化したつもりになっていても、僕たちの背後には放置された他でもない自分自身の悲しみがうず高く積み上がっているのかも。その姿はまったくもって喜ばしくない。朝起きてちゃんと鏡は見たか? 
 女優としてなかなか成功しない自分の才能の無さを不理解な世界のせいにして悲しみから逃避し続けてきた女性が、すべてを暴かれ、ほとんど狂い果ててしまうこの残酷な物語は、ここからまた始まれるという希望か、ひとりの人間を徹底的に打ちのめす絶望か、それとも彼女の人生そのものを完膚なきまで否定する無望か、読む人によってかなり印象が変わるのでは、と思えるほど紙一重である。でも、彼女が悲しみから逃避してしまったこと自体は、仕方のないことだ。自分の悲しみをきちんと飲み込めるほど僕たちは図太くできていない。そんな卑屈な僕たちだからこそその情けなさだけは胸にしっかり刻んでおけとでも言うかのような強い憤りをこの挑発的なタイトルには感じる。自分だけが特別で美しいとでも思ってるんじゃないか?と。さぁ、である。腑抜けども、悲しみの愛を見せろ。
02:20 | | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

友愛ではなく、歌わなければならない者のポップ・ソング

モリモリモリッシー
長いブランクを経て00年代に入り完全復活してからというもの、
モリッシーはジャケ写で必ず何かを手に持ってポーズを取るようになった。

復活作の『ユー・アー・ザ・クワーリー』ではトミー・ガンを、
繊細すぎた『リングリーダー・オブ・ザ・トーメンターズ』ではヴァイオリンを、
そして最新作では赤ん坊を抱きかかえて不敵な笑みを浮かべるモリッシー。

なぜ赤ん坊なのか、
モリッシーの説明を読んだけど、
要するに、モリッシーはすべてを拒絶するけど、
自分が人間である、というその点だけは拒絶しないということかな?
拒絶しない、と認め、妥協、と表現するモリッシー。

モリッシーは壊滅的なまでに寂しがりやだけど
結局は誰にも理解なんてされたくないんじゃないかと思う。

Years Of Refusal
/ Morrissey

Morrissey-Years Of Refusal
モリッシーの本質的な強さ
 トニー・ヴィスコンティをプロデューサーに迎え、アートワークではヴァイオリンを手に極端なナイーヴさを演出しながら、時に大袈裟なほど叙情的に神の股間を歌い上げた前作『リングリーダー・オブ・ザ・トーメンターズ』。幼くしてすでに世界の大きさを把握したかのような表情を浮かべる赤ん坊を抱えての最新作となる本作は、そこから大きなシフト・チェンジを遂げている。前作ではオーケストラによるセッションが大々的に取り入れられていたが、一曲目“サムシング・イズ・スクイージング・マイ・スカル”のイントロでギターがうねりを上げた瞬間、本作におけるモリッシーはすでに雄々しく攻撃態勢である。そしてそれに続く「お願いだからやめてくれ!」という拒絶の連呼。「拒絶のお年頃」というアルバム・タイトルからして明らかなように、徹底的なまでの「拒絶」で横溢したアルバムである。本作で、モリッシーは大切なはずの「あなた」さえも拒絶して、石と鋼でできた固く冷たいパリの町だけを抱きしめると歌う。それだけが自分を受け入れてくれるから。モリッシーは常に疎外感と孤独を歌い続けてきた人だが、だからといって彼が求めてきたものは慰めや同情といった悲しみを癒す優しさなどではなかった。彼が求め続けてきたのは、世界から疎外され、居場所も見つけられず、そんな世界に憤り、傷つき、絶望した自分を、そのままで抱きしめ受け入れてくれる「もうひとつの世界」だった。スミスという楽園を失った彼にとってそれ以降のソロ・キャリアのすべては居場所なき自分にも呼吸のできる安全地帯を獲得するためのひとつのプロセスだった。やはり現在も不平不満タラタラの通りモリッシーの歌はそう簡単にはメディアで堂々オンエアというわけにはいかないだろうが、世界の一部として仲良く溶け込むことで孤独を解消するのではなく、「もうひとつの世界」に立ち上がることに拘り続けた結果として、「拒絶」という他の誰にも辿り着けない境地でモリッシーはひとり佇んでいる。世界の埒外から聞こえてくる、すでにひとりぼっちの人間による「僕はひとりでへっちゃらだ! ほっといてくれー!」という叫びの弱さ。つまり、「僕を忘れないでー!」と叫ぶ強さ。5年後には音楽業界から引退か?というニュースも流れているが、とりあえずモリッシーは09年も元気モリモリである。
02:30 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

一周した虚構のリアル

舞城王太郎
ファウスト作家といえば、舞城王太郎。
舞う城の王さま。
覆面作家。
とてもじゃないけど、これで純文学は書けない。

けど、
そこには新しい世界があった。
言葉はどこまで無責任になれるのか。
それは、小さな世界へと収束するシニシズムやニヒリズムではなく、
紛れもない世界との対峙だった。
そこからしか始まれない者の。

そして同じくファウスト作家の西尾維新。
メフィスト賞を受賞した02年のデビュー作です。

クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い
/ 西尾維新

西尾維新-クビキリサイクル
戯言を言います
 舞城王太郎や佐藤友哉らと共に西尾維新が創刊以来筆を執り続けている文芸誌『ファウスト』は、「闘うイラストーリー・ノベルスマガジン」をコンセプトに掲げている。小説家は言葉を武器に、イラストレーターはイラストを武器に、互いの世界をぶつけ合う非常に面白い文芸誌なのだが、その闘争の延長にあるのはもちろん、もっと大きな意味での「世界」との対峙である。それがいったいどういうことかと言うと、つまり、言葉やイラストによって表現された想像力・イメージ・言葉遊び・こじづけなどといった極めて形而上的な思考が「世界」を前にしていかにリアルであることができるのか、への挑戦である。別の言い方をするなら、言葉やイラストによって「世界」はどこまで解けるのか、という意味での、闘争である。
 論理的思考というやつには、いつだってその論理の発意点となるべきひとつの前提が必要とされる。論理とは目の前にある何かを次のレベルに引き上げるための組み立てであり、宇宙空間でレンガが積み上がらないのと同じように、そこには必ず平衡の保たれた確実な地面としての前提がなくてはならないのだ。そして、僕たちはりんごを買いに行く時ですらその論理的思考を働かせながらも、りんごの大きさに関しては、二つ以上のりんごを前にしての比較対照を行わずには知ることができない。僕たちは、「大きい」「小さい」という概念を、ひとつのりんごそのものを前提に生み出すことができない。この物語に登場する多くの「天才」が、やはり「凡人」との比較によって初めて「天才」として証明されるのと同じように。例えばその「天才」のひとり、「スタイルを持たない画家」が、いくらどんなスタイルにも拘泥しないといえどもそれは「スタイルを持たない」というその一点においてやはり間違いのないひとつの「スタイル」でしかないのと同じように。僕たちの前提なんていうものは、いとも簡単に、他でもない論理的思考によって、突破されてしまう。極端な話をするならば、この世に生きる誰一人として、宇宙の前提を知らない。無の前提を知らない。前提の前提を知らない。論理的思考なんていうものは、それを擁護したいものが捏造した都合のいい前提の上にのみ成り立つ屁理屈に過ぎないのだ。そして言うまでもなく、世界はそうやって回り続けてきた。自分が何のために存在するのか、その意味すらもわからずに。ある意味で、すべてが正しくて、すべてが間違っている。だとしたら、世界にはすべてがあって、すべてがないのと同じだ。ビッグバンとかいう大いなる不条理を孕んだ都合のいいひとつの前提の上に「成り立っていることにされている世界」。だとしたら、戯言とはまさに、世界そのもののことである。
 それでも、だ。それでも、僕たちは生きている。

03:33 | | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ドククラゲもいいな

ポケモン
なぜかポケモンしてます。
赤。
ゲームボーイカラー。
イシツブテ!

現在地はオツキミやま。
現在のパーティーは、
リザード、スピアー、パラス、ピカチュウの四匹。
スピアーを残し、パラス→パラセクトに進化、
モルフォン、クサイハナ(ラフレシアに進化させない)、
残り二匹はどうしようという感じで最強パーティーの完成です。
むし・くさポケモンは可愛いですね。

映画も観たよ。

Final Destination 3
FINAL_DESTINATION_3.jpg
シートベルトは締めたかい?
 不可解な「死の力」によって定められた凄惨な運命。それを予知夢によって敏感に感じ取った主人公が、逃げられない運命に果敢に立ち向かっていくホラー・サスペンス・シリーズ『ファイナル・デスティネーション』の三作目にして完結作。邦題は『ファイナル・デッドコースター』。脱線するジェットコースター、超高温のまま開かなくなった日焼けマシン、ひとりでに暴走するトラックなど、それぞれの登場人物に用意された「ファイナル・デスティネーション=最終目的地」では、何の意味もなく人肉が飛び散り必要以上というか始めから必要などないのに大量の血の流れることがしっかりと約束されている。要するに、我が子には見せられないタイプの極めて悪趣味な映画である。中身のないくだらない映画という人もいるかもしれないが、中身のないくだらない映画とはそもそも中身がなくてくだらないことを認める勇気と知性のない映画のことであって、そこにあえて思い切り拘った挙句見事にブレイクスルーしてしまった映画はこんなにもバカバカしくてそれでいてめちゃくちゃにエキサイティングな作品になるものなのだ。おまけに主演のメアリー・エリザベス・ウィンステッド(タランティーノの『デス・プルーフ』にも出てます!)がそれはもうとっても可愛い女の子ですので、何も文句ありません。
 とにかく訳もわからないままに大勢の若者が「死の力」に次々と絡めとられて目の潰れるようなムゴい最後を迎えていく展開にはひたすら痛快の一言。でもただこの映画の本当の怖さとは、「死の力」自体は最初から最後まで掴みどころのない現実感の薄い存在でしかないのだが、それによって演出される「死に様」の方が、決して日常生活ではあり得ないと笑い飛ばすまでもなくぶっ飛んでいるわけではない、というところだ。要するに、ジェットコースターだなんてほとんど死の寸前にまで急降下するスリルと恍惚感にそれでも僕たちが酔い痴れることができるのは、結局のところ、整備がきちんと行き届いている、安全装置が正常に作動している、といったたったそれだけの状況下でのみ成立している極めて紙一重な事実でしかない、ということだ。交通安全や緊急ブレーキに火災報知機から人間の正気まで。日常を平穏に保つそれらの安全装置がひとつでも破綻してしまえば、人は「死の力」によって否応無しに「最終目的地」へと押し流されてしまう。僕たちはそんな世界で生活しているのだ。シートベルトは絶対に締め忘れちゃいけない。
04:46 | 映画 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

鬼才

lars fon
ラース・フォン・トリアーという映画監督は、
「ドグマ95」だなんて映像に関する面倒な原則を唱えているだけあって、
やはり「映像の人」である。

そんな彼の「アメリカ三部作」と呼ばれる
『ドッグヴィル』『マンダレイ』(完結の三作目は現在制作中)は、
まるでステージの上で行われる演劇やミュージカルのように、
作り物のセットが配置され、そして、家には壁や扉がない。
役者はその世界の住人として、自然とパントマイムで動作を行うことになる。
町の外の世界は観ている者の想像力次第だとでも言うかのように、
町の外の風景は果てしない黒、もしくは果てしない白で統一されている。
あらゆる壁や障害物を排除して奥行きを獲得したかのようなその世界は、
しかし、実際に壁や障害物がある世界以上に、閉ざされた空間を演出している。

その壁のない世界では、
女がレイプされる屋内と幼い子どもが集まる通路とが、
やはり壁で遮断されることなくひとつの空気と臭いで繋がっている。
ラース・フォン・トリアーという人は、
その通常相容れないふたつの空間を、ひとつの絵画のように、
同じ画面に映したがるどうしようもない人なのだ。

ラース・フォン・トリアーの映像は、やはり世界を暴きすぎる。


Dogville × Manderlay
Dogville.jpg manderlay.jpg
暴かれる正義
 友達百人できるかな。積極的な国際交流。せっかく外の世界に踏み出すんだから、できるだけ多くの人と仲良くなった方が良い。大人はそんなわけのわからない美徳と呼ばれる理屈をよく口にする。僕はあいにくうまくやれなかった。初対面の人と上手にコミュニケートするフリをすることは、意識的にはできる。結構うまくやれる方だと思っている。でも、その始めの段階を経た結果として、友人だと思っていた人の数が減らなかったことは一度もない。大学生活に至っては激減ともいえるレベルである。自然、内向的な人間になる。友人は減る一方自分は閉じる一方のそんな僕の在り方は、客観的に見なくても、結構救い難い。
 何故かはわからないが、大人は閉じてしまった人間の心を見ると何が何でもそれをこじ開けようと試みる一種の性癖にも似たやっかいな特性を持っているようだ。密室殺人に遭遇した名探偵にでもなったつもりだろうか。違うのだと僕は言う。開放的になることと閉鎖的になること。そこには差など1mmもないのだと。開放的でも閉鎖的でも、そこに何らかの差異を設けてしまった時点で、どちらかを意識してしまった時点で、どちらかに傾いてしまった時点で、その心はすでに「閉じている」のだと。開放的という開かれた言葉に固執することで、その思考はすでに頑ななまでに「閉ざされている」のだと。その時の開放的・閉鎖的はまったく同じ情報量と距離によって存在しているのだと。開放的とは閉鎖的と同等に救い難いのだと。うまくやれなかった自分を正当化するための卑屈な屁理屈だということはわかっている。理解してくれた大人なんてひとりもいない。優しさ、平等、積極性、フレンドシップ。正義はやはり正しくなくてはいけないから。
 そしてそう、人の思考は正しさでも間違いでもとにかく何かひとつに固執したその時点で、否応無しに立ち止まる。人間は考える葦である、と初めて言った人を僕は尊敬する。葦とは根茎を地中に這わせて成長するイネ科の多年草である。なぜ虫や動物や風ではなく文字通りの根強い根っこを持った多年草の植物だったのか。人は、考えながら、どうしようもなく立ち止まっているからだ。開放的になろうとして、自らを閉ざしてしまっているからだ。葦は茎を空に向かって数メートルにまで高く伸ばす。しかし、彼らはやはりどこにも辿り着けはしないのだ。それでも葦が何年にも亘って繰り返し茎を伸ばし続けるように、僕たちはやはり考えずにはいられない。優しさ、平等、積極性、フレンドシップ、そして正義、それらの正しさについて。とんでもない矛盾を孕んだまま、それでも僕たちは生きている。
 ドッグヴィルとマンダレイ。ふたつの小さな集落を蹂躙した偉大なる正義の正しさ。ふたつの作品のクレジットでは、デヴィッド・ボウイの“ヤング・アメリカン”にのせて、自由と平等に固執した国アメリカに集結した矛盾の表出とも言える貧困、暴力、差別、ブッシュ、そして死が、実に生き生きと表現されている。正義の名の下に行われたイラク戦争はまさに火を見るよりも明らかというやつのまたとない実例だったのに、大人はいったいいつになったら認めてくれるんだろう。大人が正しいと信じたがっている多くのもののその先に通じているのは、結構な確率で袋小路の行き止まりだというのに。
08:41 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

Trust Me

ロッキング・オンの試験、昨日受けてきました。
できたところは、100%、できた。
できなかったところは、100%、できなかった。
そこには自信がある。
つまり、試験の出来には、まったく自信がない。
でも、課題の出来には、1%ぐらいは、自信がある。
1%の自信の大きさと、99%の自信のなさの大きさ。
このブログを見てくださっている方々には、
その関係性がいかなるものか、ご理解いただけるかと思います。

今となっては、もう待つしかない。
ただ、自分がいろいろとナメていたことが、わかった気がする。
でも僕はもう大丈夫。
何があっても、ではないけど、ほとんど何があっても、
僕は大丈夫なんじゃないかと思えるほどに、僕はもう大丈夫。

ファック・フォーエヴァーにも、
アイム・ノット・オーケイにも、
もう歌えないわ、にすらも、
もう僕はいないんだとわかったから。
というか、そこに僕はいなくて良いんだとわかったから。

僕はもう自分だけを救うまほうの言葉を知ってるから。
僕はもうどこにでも行けるってわかったから。
僕はもう、どこにでもいるから大丈夫。
21:20 | 日記 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

ファンク・ダ・ギフト・パンク

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サザエさんの四コマ漫画にこんな話がある。

タクシー事故に遭ってしまった主婦とサザエさんの話を聞くホームレスの男。
車に乗る金もない俺は幸せだなぁ、とホームレスの男。
ふと拾った新聞に、栄養不良の者はガンにかからない、という記事。
ホームレスの男、ひとりささやかな祝杯を。

実家に帰ってきて、
僕はホームレスからタクシー事故の主婦になりつつある。
日ごろは摂らない栄養をせっせと摂取しています。
血糖値が少し心配ですな。

ベッドの下のCD-Rの山から十代の思い出を発掘。
シュガー・レイ、フィーダー、ラムシュタイン、ズワン!
そしてこれは別に自分の中で思い出にはなっていないけど、ダフト・パンク。
先日、ダフト・パンクのシングル・ベストと
リミックス・アルバム『ダフト・クラブ』と
松本零士とのコラボ作品『インターステラ5555』のDVDが一緒になった、
ダフト・パンクからのお得なギフト・パックを手に入れたので、
なんとなく聴いています。

Homework
/ Daft Punk

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ダフト・パンクの本質は人間である
 ダフト・パンクを一気にビッグ・ネームへと押し上げた傑作セカンド『ディスカバリー』。ロボット・マスクを被ったユニークないでたち、親しみやすい歌モノ・ダンス、今じゃ誰もが使ってるエフェクト・ボーカル、松本零士とのコラボによるアニメーションなどなど、『ディスカバリー』にはダフト・パンクの内包し得る新たな音楽体験が最高にエキサイティングな形で詰まっていた。ダフト・パンクの存在感を世界中に知らしめる、決定的な一枚だった。名曲“ワン・モア・タイム”は21世紀というニュー・ミレニアムの到来を華々しく告げる打ち上げ花火のような一曲だった。この曲からダフト・パンクの熱狂的なファンになった人は決して少なくないはず。煌びやかに飾り立てられた『ディスカバリー』は新時代へと続く文字通りの入り口だったのだ。
 そんな大成功の遥か四年前に発表されたダフト・パンクのデビュー・アルバム『ホームワーク』。ブックレットを見て欲しい。今ではロボット姿でしかメディアに顔を出さない二人だが、本作のブックレットに掲載されている写真で、なんと彼らは素顔を晒しているのだ。エフェクト・ボーカルどころか歌モノの楽曲自体がほとんど収録されていない。聴き手をダンス・フロアのシンプルな恍惚に溺れさせるかのように延々と続く高性能のシーケンス。『ディスカバリー』のような過剰な開かれ方は、少なくとも本作では見られない。しかし、そのただただ質の良いダンス・ミュージックたったそれだけで、ダフト・パンクは200万枚以上というダンス・ミュージックとしては異例の特大セールスを本作で記録している。映像作品『インターステラ5555』の中で、ダフト・パンクの二人と仲良く席を並べた松本零士は「ミュージシャンはマジシャンである」と語っている。ロボット・マスクを被る前からダフト・パンクは洗練されたマジシャンだった。ヒューマン・アフター・オール。そういうことなのだ。
14:38 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

僕とあなたで世界は完結していれば良かったのに

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実家に帰ってきました。

毎回夜行バスで帰ると目にする光景だけど、
深夜の高速にはトラックしか走っていない。
パーキング・エリアを埋め尽くすのも、トラックばかり。
ほとんど見分けのつかないような何台もの大きなトラックが、
同じところを目指して大行進している。
世界が寝静まった真夜中に。

自分がネットで買い物した商品もこうやって運ばれてきてるんだろうけど、
夜に活発に動くものを見ると、
なんだか大人の秘密を垣間見たような気分になる。
こうやって大人は世界を回してるんだ。
すごいなぁ。

ロックンロールも空を飛ぶのも実は似たようなもの。
大人は地面にしっかりと足をつけて、這うように進む。
森博嗣『スカイ・クロラ』とマンドゥ・ディアオが今朝のお供。
マンドゥ・ディアオ、新作出ましたね。

Bring 'em In
/ Mando Diao

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21世紀の『プリーズ・プリーズ・ミー』
 21世紀は「ロックンロール・リヴァイヴァル」という言葉と共に幕を開けた。ストロークスが鮮烈なデビューを飾り、ホワイト・ストライプスが三作目にしてついにシーンの表舞台に浮上した。他にも世界各地から様々な優れたデビュー作が放たれたわけだが、その一連の流れにあったひとつの共通点は、「シンプリティ」である。派手なプロダクションを排除しロックンロール本来の強度を取り戻そうとした営みとしてのロックンロール・リヴァイヴァル。スウェーデンから彗星のごとく現れたマンドゥ・ディアオのデビュー・アルバムである本作も、そんな時代の流れを象徴する一枚として現在でも語られている。それでは彼らが本作で取り戻したロックンロールの魅力とはいったい何なのか。はっきり言って、ストロークスはなんだか都会的に洗練されすぎていたしホワイト・ストライプスは異色過ぎたし当時も全然リヴァイヴァルだとは思えなかったし実際リヴァイヴァルなんてどこにもなかったのだけど、あえて言うならマンドゥ・ディアオの本作はロックンロール本来の「かっこ良さ」を取り戻した作品だと思っていて、今でも大好きだ。「かっこ良さ」といってもそれはもちろん公権力に拳を突きつけるようなアジテーションでもアートを突き進む前衛性でもなく、ギターの音が「ジャガジャ~ン」と鳴り響いた時の、ものすごく単純な意味での感動である。「バンドってかっけぇ」という、アレである。そして、その感動の最たる要因は何かといえば、それはもうただひたすら曲が良い、の一言に尽きる。90年代後半以降、隆盛するヘヴィ・ロックの勢いと共にロックはひたすら高音圧を求め、21世紀を迎えた頃には極一部のバンドを除いてそれらのほとんどが破裂寸前の風船のようなギリギリの窮地といった状態だった。そんな中で、曲が良いだけでロックはこんなにもかっこ良いということを証明してみせたのが彼らマンドゥ・ディアオだった。バンド活動はスウェーデンの退屈な工業社会からの逃避手段だったと語る彼ら。ストロークスやストライプスがシンプリティのその先にロックの未来を見出し、誤解したメディアが「リヴァイヴァル」を掲げロックの過去を振り返り、そして、マンドゥ・ディアオは誰よりもロックの足元を見つめていた。そういうことである。
09:10 | 音楽 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

That's The Way Thora Birch Goes

thora Birch
YUKIのライブDVD、見事ゲットしました。
が、見る時間がない。
東京に行く前にどうせ大阪通るんだから実家帰ろうと思って、
今日から帰ろうと思うのですが、
こっちにいるうちにやらなきゃいけないことがある。
東京から帰ってきたらゆっくり楽しもうと思います。

春休みになってから、
寝る前には必ず映画を観る生活をしているのですが、
昨晩は『アメリカン・ビューティー』という作品を観ました。
僕の大好きなソーラ・バーチが出てる!

アメリカ社会をコミカルに批判した作品と思われてるのかな?
ノンノン、そんなのはこの作品の描いている希望を
矮小化させる陳腐な評価だ。
間違ってもユダヤ人賛美の映画なんかじゃない。
アメリカ批判はこの映画の「手段」であって「目的」ではないのだ。

要するに、
ファッション・マガジン、ハンバーガー、高級ソファ、スポーツ・カー、
ロックンロール、ナチスの皿、仕事、そしてアメリカ。
そんなところに、「あなたはいない」という希望だ。

American Beauty
American Beauty
アメリカン・ドリームに中指を立てる勇気を
 アメリカ人はその呼称の後ろ四文字を何よりも信じるという。“American”の後ろ四文字。すなわち、“I can”と。そんな圧倒的なオプティミズムを背負った民族であるアメリカ人による最も偉大な発明は、マイクロソフトでもロックンロールでもなくアメリカン・ドリームだと思っている。アメリカという雄大な大地に広がる夢と希望と自由と平等の姿形を実に見事になんとなく実在化してみせた史上最強のイマジナリー・スタチュー。人民の人民による人民のための集団催眠効果によってすべての人民が幸せになれるはずのアメリカで、惨めな毎日を送る負け犬たち。本作における登場人物は、そんな非常に愉快な連中ばかりだ。みんなそれぞれのダメっぷりを時にコミカルに演じているのだが、ソーラ・バーチだけはガチにリアル・ルーザー。もちろん恋愛や学業や仕事についてではなく、人とは違う「自分」を持っている、という意味において。彼女の存在は決定的かつ致命的に孤立している。そして、ただその一点のみにおいて、やはり彼女はひとりじゃない。
 人は、モノの大きさを比べるのがとても苦手だと思う。アリとコンパスのように目の前の何かと何かを比べることは難なくこなせるようだが、自分と遠くの何かを比べる作業はどうやらとても困難なようだ。19世紀ポスト印象派を代表する画家ヴィンセント・ヴァン・ゴッホは自身のある作品の中で、夜空に輝く星々のひとつひとつをまるで一輪の花のように描いている。パラドックスにこそ究極の真実があるだなんてことが言いたいのではない。小さなようで大きなもの。大きなようで小さなもの。人間は、その曖昧な何かの全体像を見定めるのが極めて苦手だと言いたいのだ。自分たち人間自体が、決して確固たる存在でないにも関わらず。いや、だからこそ難しいのかもしれない。曖昧な僕たちが遠くにある曖昧な何を測ることは許されない行為なのかもしれない。だとしたら、僕たちがまずやらなければいけないことは、「測れない」ことを知ることだ。だからこそ自分のちっぽけな「マイ・ドリーム」がみんなのでっかい「アメリカン・ドリーム」を楽勝で凌駕するかもしれないことを知ることだ。何かが変わるとしたら、その後でしかない。

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表現じゃなくて実際に誰かと繋がるためにYUKIの歌を聴いてきた

ランデヴー
/ YUKI

YUKI-ランデヴー
音楽が鳴り止むその時に
 CDショップにて。いつも洋楽しか聴かない僕にはあんまり馴染みのない「JAPANESE」のコーナーで、「Y」ではなく「ゆ」の場所を探し、「YUI」の隣にお目当ての名前を見つける。でも、そこには僕の欲しかったCDが置いてあったのであろう形跡はあるものの、CDそのものは置いていなかった。あちゃー。先に誰か買っちゃったのかどうしよう、と思いながら、それでも勇気を振り絞って店員に訊いてみたらまだ在庫があるという。あんまり知らない人としゃべるの得意じゃないけど勇気出して良かったな、なんて若干浮かれながらも無事に購入し、お店から出てすぐに家に帰ろうと思ったら、邦楽のCD買ったり自分から店員に話しかけたり慣れないことばかりしたせいか思った以上に興奮していたらしく、上りエスカレーターを下ろうとして危うく転げ落ちそうになった。危ない危ない、冷静に冷静に。気持ちを落ち着かせたところで重大なことに気が付いた。CD買って安心していたけどそういえばライブDVDも同時発売だった。再びあちゃー。同じお店にもう一回行って買い直すなんてなんか恥ずかしい。めんどうだけど違うお店に行こう。
 嬉しいことはなかなか続いてくれないのに、嬉しくないことは逆に嬉しくなっちゃうくらい続いてくれたりする。次に入ったお店でも、DVDは店頭に並んでいなかった。でもさっきはうまく行ったし今回も大丈夫、そう言い聞かせて店員に訊いてみた。「すみません、予約分しか入荷してなくて店頭分はないんですよー」。三度あちゃー。仏の顔も三度までとはよく言うけど、あれは三度目で仏でさえも怒り出すという意味だろうか、それとも三度目までは許してもらえるのだろうか。とりあえず、僕にわかったことは、三度目の正直よりは二度あることは三度あるだということだ。その日はもうDVDを買うのは諦めた。もう一度店員に話しかける勇気も体力も残っていないし、なによりもしまたあちゃーをやってしまったら、仏が確実に怒り出す四度目になってしまうし仏じゃなくても僕だって自分のふがいなさに怒り出しそうだ。触らぬ神に祟りなし。そういうことにしておこう。
 そんなわけで、僕はYUKIのニュー・シングル『ランデヴー』を見事にゲットし、ニュー・ライブDVD『YUKI concert New Rhythm Tour 2008』を買い損ねた。天は二物を与えず。もうしつこい。

 “ビスケット”や“メッセージ”などこれまでのYUKIの楽曲と同じように、新曲“ランデヴー”はやはりタイトルが伝えるイメージ通りの、お菓子箱に両手をつっ込んだようなキラキラでスウィートなYUKIお得意のポップ・ソングだ。『joy』以降YUKIが展開してきたポップ・ワールドを更に楽しいものにする素晴らしい楽曲である。こういう歌を歌わせたらYUKIの右に出る人はいないし、YUKIもずっと歌い続けるんだと思う。でも、そう思えば思うほど、昨年発表されたシングル曲“汽車に乗って”が、僕の中でどんどん居場所を失っていくような気がする。華やかなポップ・ワールドで踊り続けるYUKIが、たった一度だけ踊ることを止め、自分の故郷を顧みた“汽車に乗って”。あの歌はいったい何だったんだろうかと思う。YUKIは、なぜあの歌を歌わなければいけなかったのか。
 “汽車に乗って”発表直後のライブでYUKIは、言葉は正確には覚えていないが、「これまでは自分じゃないところでみんなが歌える歌を歌ってきた」と語っていた。そして、“汽車に乗って”はみんなが求めるポップ・スターとして歌い続けてきた彼女が「自分に戻る」ための「リハビリ」なのだと。そんな自分回帰を唱えたYUKIの、そのライブ以来最初の新曲となったのが昨年末にクリスマス・ソングとしてリリースされた“メッセージ”だったわけだが、“メッセージ”は配信限定という僕には思いもよらぬリリース形態がとられた楽曲だった。「自分に戻る」とまでハッキリ宣言したYUKIが、配信「限定」というみんなに届かないスタイルで、“汽車に乗って”以前となんら変わらないポップ・ソングを歌っていた。僕はショックだった。それで良いのかと思った。“汽車に乗って”が最初からなかったものにされた気がした。でも雑誌でもネットでも誰も僕の思いを代弁してくれる人なんていなくて、テレビつけたらチョコレートのCMのバックでいかにも楽しげに“メッセージ”が流れていたりして、僕だけ完全に置き去りにされたような気がした。歌っていうのは楽しげだったらただそれだけでこんなにも簡単に人の心に届いたような気になってしまうのかと思った。欺瞞だと思った。YUKIが配信限定で楽曲を発表したのはまだ二回目だったけど、それでも僕は、心情的に、完全にキレていた。そういえば、ご存知の通り僕はまだ買えていないけど、YUKIの新しいライブDVDは5565円もするらしい。僕が貧乏学生だという分を差し引いたとしても、絶対に高すぎる。配信限定の“メッセージ”なんて200円かそこらだったのに。要するに、ライブDVDなんてファンしか買わないしファンは絶対に買うだろうから高くても良いってこと? だからあの店でも予約してまで買おうとするファンの分しか入荷してなかったってこと? 夢もロマンもないじゃないか。あるのは政治家の汚い腹みたいなエゴと欺瞞ばかり。でもそれが現実なんだ。そうなんだ。YUKIが歌っているのは、そもそもそういう場所だったんだ。
 だからこそ、だ。そうだ、だからこそ、YUKIは“汽車に乗って”を歌わなければいけなかった。スーパーに並ぶトマトみたいに自分が売り物にされる世界で、それでも誰かと出会うために、それでも歌い続けるために。YUKIのような言葉に対して極めて意識的な人が他でもない自分自身を歌うことについて「リハビリ」という言葉を使ってしまった時点で、『joy』以降急速に変化してきた自分を取り巻く環境への戸惑いやフラストレーションが彼女の中に少なからずあったことは否定し難い。広く大きな場所へ踏み出していけば、支持や共感と一緒に誤解だって当然のように大きく広がっていく。しかも、YUKIはJUDY AND MARYとして一度はキャリアの頂点を経験している人である。同じじゃないにしても似たようなストレスはかつてもあったのではないだろうか。でもだから、YUKIは“汽車に乗って”を歌うことで、かつてとは違う未来を手にしようとしたのではないだろうか。海外という新しい世界へ、自分の言い分が通用しない世界へ、不安を抱えながら、それでも今まさに飛び立とうとしている女の子が、搭乗ゲートをくぐった後に、ふとこちらを振り向く時のように。新しい世界への入り口を前にして、自分には帰るべき場所があるということを再確認するかのように。
 だとしたら、僕にできることはいったい何だろう。少なくともそれは、意気地の悪い世界へ中指立てることでも取りやすいところから税金を取ろうとする政治家みたいにファンに高額なDVDを売りつけてくるレコード会社に異議申し立てを行うことでもない。もしまたYUKIがボロボロに傷ついて、「もう歌えないわ」とうなだれて帰ってきたその時に、もっと頑張れと励ますでもなんでそうなんだと叱咤するでもなく、「それでいいんだ、また一から始めれば良い」とただ頷いてやることなんじゃないだろうか。そうさ気持ち悪いさ。なんとでも言えば良いさ。

 新曲“ランデヴー”のビデオの中で、電飾で飾り付けられた幻想的な世界から、YUKIはこんな風に歌っている。

    例え暗い星の見えない夜でも その名前呼ぶから
    目には見えない不思議なサイン 綱渡りのランデヴー
    歓びも哀しみも 人の行く道 寄り添っているから
    笑わせたいな 特別なキスの魔法で 君を守ろう

 ポップ・ミュージックは現実逃避だとよく言われる。僕は、残酷な現実世界に苦悶の顔を浮かべるシリアスな歌なんかよりも、断然ポップ・ミュージックが好きだ。YUKIの“ランデヴー”を聴いて、僕はポップ・ミュージックがまた少し好きになった。電飾というハンドメイドな虚構の世界から歌われるこの言葉を、僕はまだ信じることができる。星も見えない真っ暗な夜に、それでも誰かと出会いたい、君を守ってみせると歌うリアリティ。こんなにも強く自分の現実を受け止めて、顔も名前も知らない無数の「君」に向かって、あなたはひとりじゃないと歌う、こんな真摯なポップ・ミュージックを僕は他に知らない。 
 
 暗い星の見えない夜。厳しい現実の風が吹くところ。
 すべてが打ちのめされるその場所で、それでも終わらない何かがある。
 音楽が鳴り止むその時に、ひとりぼっちは寂しすぎるから。過去でも未来でも彼方でもあっちの世界でもない「すぐ隣」に、誰かがいて欲しいと思うから。僕はただその一点のみにおいて、YUKIと繋がっていたいと思うから。

 明日はDVDを買いに行こう。また買えなくても良いや。七転び八起きだ。
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後悔なんてしない

課題
今週末のロッキング・オンの試験の時に提出しなきゃいけない課題がある。
あんまり時間ないしどうしよう、
と思っていたけど、方向性が定まってきた。

先週、サマソニ09の第一弾アーティストが発表された。
そうか、そろそろフェスの話題で盛り上がってくるころか。

夏。
ロックが「みんなのもの」になる前に、
僕にはやれることがある。

フェスに行ったことがないし行く気もないという、
ロック・ファンらしからぬ僕だから、
ロックを「みんなのもの」にできない僕だから、
できることがある。

「自分」をべっとりなすりつけてやればいい。
やりやすいことをするな。
みんなと同じことをするな。
自分にできないことをやろうとするな。

自分にしかできないことをやれ。
今はきっとそれでいいはず。
「僕のロック」が「みんなのロック」より
大きくて重いときだってある。

おおプロディジー!
僕に勇気を!
なんてね。
近所に迷惑だわ。

Invaders Must Die
/ The Prodigy

Prodigy-Invaders Must Die
破壊神よ、今こそ目覚めよ
 極端な話をするなら、プロディジーとはつまり、リアム・ハウレットのことだった。「頭脳」と呼ばれ続けた彼自身が実は誰よりもそう思っていたのではないだろうか。それこそが彼の揺るぎないプライドであり、それは同時に彼の愚かな思い込みだった。このアルバムを聴くと本当にそう思う。プロディジーのこれまでのキャリアをざっくりとまとめるならばそれは、肉体性としてのレイヴをいかに頭脳的なレベルで再現するか、というひとつの挑戦だったと言うことができる。言葉やヒップホップ的な要素を大幅に取り入れワールドワイドな成功を手にしたサード・アルバム『ファット・オブ・ザ・ランド』。そこから更に音楽的な背景を豊かにさせ、大物ゲスト・ボーカルを招き、あらゆる情報を繋ぎ合わせ、言わば「編集」によってプロディジーのグルーヴとダイナミズムを呼び起こそうとした四作目の制作を巡るプロセスは、必然的にリアムの頭脳のみを必要とし、キースとマキシムの存在は当然のようにそこから排除されていった。しかし、その結果がUSチャート圏外である。本質的存在であるはずのリアムがひとりでどれだけ頑張っても、そこには決して「プロディジー」は宿らなかったのだ。あのアルバムはそもそもタイトルからしてすでに良くなかった。おーるうぇいずなんたらかんたらの夕日だっけ? あんなもんいちいち覚えるバカがいるかよ。
 インベイダーズ・マスト・ダイ。これである。やはりプロディジーはこうでなくてはならない。余計な小細工を一切必要としない、圧倒的な破壊力と大怪我必至のエッジの鋭さ。わかったか。プロディジーのダイナミズムはとてもシンプルだけど、それは絶対に計算なんかじゃはじき出せないほどにデカい。ここには、リアムがいて、キースがいて、マキシムがいる。これである。キャリア20年でマジに最高傑作。愚か者には死を。プロディジーはすべてを押し退けて驀進する。
02:06 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ビバ・ヘイト!成績開示の日

修学簿
おいおいマジかよ成績つけたやつ頭おかしいんじゃないの
と思わず目を疑いたくなる惨憺たる成績の羅列。
これは部室でゲームやろうと誘ってくる同じサークルの連中が悪い。
教師側も他の学生もみんなおかしいんじゃないの。
狂った九人の中にただひとりだけ狂っていない人間がいたとしたら、
狂ってるのはやはり狂っていないはずのただひとりである。
これはまさに世界のメカニズムそのもの。
僕の目から見た世界は、どうしていつもこんなにも間違っているんだろう。

と腐りきった世界を憂う悩める大学生を演じてみせたら余裕で及第点。
すべてを世界のせいにするのは、
簡単なようで難しかったり難しいようで簡単だったりする。
世界に感嘆するのは難しいけどね。

一番悪いのは、
部室行ったら何もやる気がなくなったり
授業があると思うと朝起きれなくなったり
サボりすぎたら授業とってたこと自体を忘れてたり
テスト前になると変に楽観的になったりする、
自分だ。

Viva Hate
/ Morrissey

Morrissey-Viva Hate
憎しみほど耽美なものはない
 ザ・スミスのラスト・アルバムからわずか半年後に発表されたモリッシーのソロ第一弾アルバムである本作は、本当なら『Education In Reverse(=裏返しの教育)』という示唆的なタイトルになるはずだった。楽園追放ともいえるスミス解散後のモリッシーの心境の変化を反映してタイトルを変更したようだが、『ビバ・ヘイト(=憎しみ万歳)』とはあたかもひとりになったモリッシーが憎しみの渦巻く世界に向かってついに和解を申し立てたようではないだろうか。しかし、スミスから引き続いてスティーヴン・ストリートをプロデューサーとして起用した本作ではジョニー・マーの不在を感じさせないほどスミスと地続きのサウンドが展開されている。言葉も、これだけは変わりようがないとでも言うかのように、まるで変わっていない。要するに、スミスの存在抜きには決して語ることのできないアルバムであり、それがモリッシーのソロ・キャリアの揺るぎない第一歩だったということだ。世界はやはり、モリッシーを徹底的に排除し、モリッシーもやはり、そんな絶対的な「ひとり」としての自分を強く抱きしめている。モリッシーは歌う。「僕のこと、別に忘れてくれてもかまわないよ」。それは紛れもなく「僕を忘れないで」という悲痛なまでの切実な求愛と同義であり、「憎しみ万歳」とはもちろんそんな変わらない世界とモリッシーの関係性を彼がひとりになってからも引き続き継続しましょうという意味の気の利いたアイロニーに他ならない。本作における何らかの「和解」がもし本当にあるとするならばそれは、あなたにも油の浮いたお紅茶を、ということになるだろう。
18:46 | 音楽 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

後輩にいつも暇人だと思われてるのが悔しい

文庫
今日は本当に久しぶりに何の予定もない正真正銘の休日としての日曜日。
でも今日も朝早くから起きて音楽聴いて
ブックオフ行って文庫本買ってきてずっとそれ読みながら過ごしている。

今は舞城王太郎の『山ん中の獅見朋成雄』を読んでいる途中。
本を読むのは致命的に遅いから、
今日は三冊ぐらいまでしか読めないかも。

そういうわけでレヴューは今日一番最初に読んだ吉田修一の『パレード』。
対象化して、次に進む。
BGMはモリッシーのソロ作品垂れ流し。

パレード
/ 吉田修一

吉田修一-パレード
「私」、が、「ここにいない」、恐怖
 パレード、と聞いて僕がまず思い浮かべるのはディズニーランドの華やかなアレだったりするのだが、軍事パレードなんかを考えてみるとイメージはだいぶ違うな、というかほとんど真逆だな、と思う。同じ軍服に身を包んだ無数の男達が一糸乱れぬ動きで通りを行進するその姿は、勇ましくもあり、時として怖いほどに美しい。それはまるで道草食ったりせずにひたすら働き続けるアリの大群のようで、そこには間違っても笑顔のネズミは登場しない。そこでは皆が平等に、働きアリになることのみが求められている。笑顔のネズミなんかが混じっていたら、ガァガァやかましいアヒルとかおっちょこちょいな犬とかもそれに便乗して現れて、勇ましさや美しさどころではなくなってしまうから。そしてそれはまるで、交通ルールを無視する車が一台でもいたら交通事故が起こってすぐに混乱が生じてしまう、そんな僕たちの日常生活そのものではないか。ネズミとかアヒルとか犬なんていうのは、結局のところファンタジーでしかない。
 決して自分のすべてを曝け出す必要のない、見せて良い部分だけを見せれば十分にやっていける、そんな居心地の良い空間で共同生活を送る五人の若者たち。要するに、上辺だけの関係。しかし、彼らがそんな生ぬるい関係性を築いてしまったのは、ただ単に僕たち人間はそうでなければ他者とうまく関わっていけないから、というシンプルな理由に収まってしまう。「自分のすべてを曝け出せば相手も心を開いてくれる」なんて熱血教師みたいな訳のわからないこと言う人を、僕はちょっと信用できない。関わる相手によって自分の口調や態度を変えるのは当然のことだし、僕たちが大人から教わってきたことで役に立つことと言えばそういうコミュニケーションにおける巧みなテクニックぐらいのものだ。しかしそれは、自己の言動を決定するのは他者である、という風に言うことができるのではないか。相手や状況によって自己を変えることのできる僕たち。僕たちは、「無数の自己」を持っている。つまり、僕たちは自分の中に「確固たる自己」を持っていない。なぜなら、そんな「無数の自己」はすべて、僕たちの言動を決定する「無数の他者」の中にこそあるからだ。僕たちは、そもそも「曝け出せる自分」なんて持ってはいないのだ。でもだから、だからこそ、自分に「確固たる自己」の存在を感じさせるために、「確固たる他者」としての「たったひとりのあなた」を、僕たちは切実に求めているのだと思う。僕たちは誰も、笑えないアリになんてなりたくはないから。
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