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いったい何回『PRISMIC』のレヴュー書く気だ

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毎日のように更新してるけど、
それは決して僕がぐうたら過ごしている暇人なわけではなく
これでも一応春から大学四年生になるバリバリの就活生なのです。

バリバリと言っても、挑戦するのは一社だけ。
ロッキング・オン。
今日は書類選考の結果がようやく届いて、
来週の土曜に行われる東京での試験をどうやら受けられるようです。
ひとまず、ホッとした。
多分、多くてひとり、該当者がいなけりゃ内定者はゼロになるんだと思う。
自分がそのひとりになれるとはとてもじゃないけど思えない。
けど行けるところまで行ってやります。
ロッキング・オンは、僕の、僕のための、初めての選択なんだ。
他なんてない。
ロッキング・オンが、あるか、ないか。
それだけ。
それだけは譲れない。

ロッキング・オンへの思いを語り始めたらキリがない。
簡単に言うなら、僕は見た目も中身もダメダメなチンポ野郎、
そんな僕を、なぐさめるでもなく、励ますでもなく、鼓舞するでもなく、
「それでいいんだ」、と言ってくれたのが、ロッキング・オンだった。

それと、いるかいないかぐらいの、僕の数少ない友達。
知り合いでも友人でも恋人でもなくて、「友達」。

それと、YUKI。


PRISMIC
/ YUKI

PRISMIC(1).jpg
YUKIはここで「すべて」を抱きしめる
 このアルバムのジャケットは、誰かとの初めての出会いに「やぁ」と手を上げているようにも、誰かとの最後の別れに「さよなら」を告げているようにも、どちらにも見える。このポーズのまま凍てついてしまったようにも、クモの巣に捕らえられてしまったようにも見える。そう、このアルバムをひとつの言葉で完璧に形容し尽くすのは難しい。なぜなら、このアルバムにはすべてがある。出会いと別れですら区切りきれないほどの、人が誰かと関わりながら生きていくことについてのすべてが。誰かと出会い、交し合い、別れ合った後に、人はいったいどこへ辿り着くことができるのか。すべてを通過したその後に、プリズム色の眩しい光を放ちながら大きく流れる河を、「もう歌えないわ」と呟きながら下り歩いたYUKI。「もう歌えないわ」と嘆きながら、それでも歌うことを止めなかったYUKI。河の終わり、YUKIだけが辿り着いた新たなる地平を前に、彼女はひとり、俯けていた顔を上げる。そこで目にした初めての景色は、みんなで仲良く手を繋いで眺めた「あの頃」の景色と同じくらい、もしくはそれよりほんのちょっとだけ、眩しかったのかもしれない。
 それがあなたの選択である限り、人生に取り返しのつかない選択なんてほとんどない。YUKIにはきっと、「もう歌えないわ」と再び涙を流す、そんな時が必ずやってくる。それは辛いことに違いない。でも、それが虚しいことだとは思わない。ほら、YUKIは歌っているじゃないか。もう一度始めれば良いって。始められない場所なんてどこにもないって。YUKIは『PRISMIC』でそんな「すべて」について歌っている。
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04:01 | 音楽 | comments (10) | trackbacks (0) | page top↑

キングラーよりベトベター

プロディジー
ついに発表されたプロディジーの新作を買った!
そこでまずはいつも通り過去作の振り返りから。

プロディジーの挑戦、それを一言で表すなら、
レイヴはレイヴをどこまで離れることができるのか、
ということに尽きると思う。

音楽的に高度な成長を遂げながらも
プロディジーは作品を重ねるごとに
レイヴなりの攻撃性のようなものを減退させてきた。
レイヴのダイナミズムを、それ以外の何かで再現する試み。
そういうことだと思う。

歴史的には『ファット・オブ・ザ・ランド』は
クラブ・ミュージックの鉄壁とも言える傑作だろう。
でも、僕はこのアルバムが一番好きだ。
このアルバムが、一番強いから。

Music For The Jilted Generation
/ Prodigy

Prodigy-Music For Jilted Generation
最強のアジテーション・ミュージック
 80年代後半から英国で異様な盛り上がりをみせたレイヴ・カルチャー。人里離れた土地の倉庫や農場を利用して開催されたフリー・パーティーに、多くの若者がドラッグを持ち込み、夜な夜な乱痴気騒ぎを繰り返していた。羽目を外すそんな若者たちを法の力で統制するために94年に発表されたのがクリミナル・ジャスティス・ビル(=反レイブ法)。時期的にはすでにレイヴ・カルチャーそのものは下火になっていたタイミングで法が完全に出遅れた形になってしまったようだが、同年に発表されたプロディジーのセカンド・アルバムである本作ブックレットには「若者の楽しみを政府に取り上げられてたまるか。屈するな」という言葉が刻まれている。アートワークにも警官とレイヴァーたちの対立が描かれ、政府のやり方を露骨に揶揄する楽曲も収録されるなどして大いに話題を呼んだ。その鋭い攻撃性は音楽にも表れていて、ハンマーを打ち付けるような激しく凶暴なビートは本作におけるプロディジーのアグレッシヴな姿勢そのものだ。次作では言葉も増えてくるが本作ではまだまだ少なく、プロディジーがやはりダンスを基点にしてロック・サイドへと歩み寄っていったことがわかる。ダンスは元来お気楽で享楽的なものだが、そこに「武器」としての機能を必要とした時、彼らはロックの攻撃性を音によって再現することを迫られたのだ。「見捨てられた世代のための音楽」と名付けられた本作は抑圧された若者たちの「連帯」とせめてもの「反抗」として多くの支持を獲得し見事に本国で一位を獲得した。ご存知の通り、それでなくても十分にかっこよくてメンバーのキャラがしっかりしているプロディジーは次作『ファット・オブ・ザ・ランド』でついには世界を征服する。
01:47 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

相手と向き合うということは自分を見つめ直す行為だから

センチ
オノ・ヨーコに興味を持ったのはなぜだろうか、と我ながらに不思議。
YUKIがオノ・ヨーコについて語っているのを何度か読んだことがあるからかな。
他に思いつかないから多分そういうことなんだと思う。

写真はYUKIのシングル『センチメンタルジャーニー』のジャケット。
写真の中のYUKIはいつだって語り始める。

YUKIとオノ・ヨーコ。
受け手を絶対に置き去りにしない二人。
表現とはそもそもそういうものであるべきだけど、
この二人ほどそこの部分に意識的な人はいない。
僕がとにかくポップ・ミュージックを好きな理由も、
もしかしたらそこにあるのかも。

Instruction Paintings
/ Yoko Ono

Yoko Ono-Instructing Paintings
「対話」でアートは始められる
 オノ・ヨーコが62年に行った展覧会の内容を一冊の本にまとめた作品。とは言えここに収められているのは絵画などのわかりやすいアート作品ではなく、例えば「任意の二点に穴をあける。空の見える処にかける(“空を見るための絵”)」といった簡潔なインストラクション(=指示)のみ。そう、絵を完成させるのは他でもないあなた自身なのだ。実際に紙を用意して指示通りに絵を作るのも良いし、頭の中で想像するのも良い。どちらにしてもかなりワクワクの作業である。これを展覧会でやったのだからすごい。この奇抜なアイディアに当時の観覧者たちも相当に面食らっていたようだ。
 オノ・ヨーコは自身のアートを常に「パフォーマンス」として捉えている人だ。ジョン・レノンとベッドの上でイチャついてるイメージしかない人もいるかもしれないが、あれですら「ベッド・イン」という平和を訴えるためのパフォーマンスだったのだ。つまり、彼女の作品はどれも受け手の存在が前提となっているということであり、アートは最終的に受け手の介入によって完成されるべきであるということだ。そこにはもちろん他者と他者がお互いの存在を肯定し想像力を交し合うことで「愛」や「平和」に繋がっていくという彼女のしたたかな平和主義がしっかりと貫かれているし、それが結果ではなく意識のレベルで働いているからこそ彼女の作品はどれも押し付けがましくなく、それでいて力強いのだ。他者に語りかける彼女のアート作品としては、実際に様々な指示を呈する本作にはいささか単純すぎる印象を受けるかもしれない。彼女自身この青き時代の自分を振り返って「痛ましい」とまで語っている。そして、だからこそここにはオノ・ヨーコの原点のようなものを感じずにはいられない。そして、それは同時にアートそのものの出発点とも言えるかもしれない。そう、アートを始める時、そこにはキャンバスも筆も、別に必要ではないのだ。そこにはただ、「私」と「あなた」がいるだけで十分なのだ。なぜならアートとは、「私」と「あなた」による想像力と想像力のコミュニケーションなのだから。難解な図形や奇抜なデザインなだけの作品を僕はアートと認めない。そんなところから希望は生まれない。
02:21 | | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

ソーラ・バーチな夜

ソーラ・バーチ
好きな俳優は?と訊かれることはまずないけども、もし訊かれたとしたら
思い浮かぶのはユアン・マクレガーとソーラ・バーチだけ。
でもユアン・マクレガーはここ数年ジェントルな役柄が多くてつまんない。
彼の魅力は汚いトイレの中でこそ発揮されるということに、
ダニー・ボイル以外のすべての映画監督はいい加減気付くべき。
とは言ったものの、ユアンも歳とったからああいう役の方が今はいいのかもな。

バイトから帰ってきて、ソーラ・バーチ主演の映画を観た。
01年に公開された『穴』という作品。
低予算のB級サイコものって大好きです。
ネットで調べてみたら評価は微妙な映画のようですが、僕は推します。
何が良いって、やっぱりソーラ・バーチの目とか表情とかがすごい。

プライヴェートなときの写真で見たら本当に普通の女の子。
でも彼女が何かを演じる時は、
メイクや衣装だけでなく、演技すらも超越して、
もっと内側から、彼女は孤独になる。

The Hole
穴
ソーラ・バーチの勝利
 イギリスの名門パブリック・スクールに通う四人の生徒が地理の研究旅行をサボった数日間に体験した身も凍るような恐ろしい出来事。親も学校も騙して第二次世界大戦時の防空壕に隠れた彼らを襲った恐怖とは。ガイ・バートというイギリスの小説家の作品を基に制作され01年に公開されたサイコスリラー映画。彼らを呑み込んだ防空壕という深く暗い「穴」。研究旅行が終了する3日後に防空壕の鍵を開けに来るはずだった友人がなぜか現れず、彼らは閉ざされた暗闇の中で18日間もの時間を過ごすことになる。飢えと乾き、病気と狂気、極限の精神状態に追い込まれると人間はどうなってしまうのか。サイコスリラーとしてはベタな設定の作品だけど、先の読めないハラハラドキドキの展開につい目が離せなくなってしまった。
 アメリカ公開時にはタイトルが『After The Hole』に変更されている。そもそもガイ・バートによる原作タイトルが『After The Hole』なのだが、そう、これは元々「体験のその後」のストーリーなのだ。物語はたったひとり奇跡的に生き残った少女の生還から始まっている。穴の中でいったい何が起ったのかとすべての経緯を解き明かすために精神科医が少女へのインタビューを試みるというわけだ。そして、本作の描いている本当の恐怖は、決して穴の中で闇と臭気を吸いながら成長した狂気についてだけでなく、そこから脱出した外の世界における狂気にも触れている、というところだ。太陽の光も差し込まない完全に外部と遮断された孤独な「穴」。それは、僕たちの日常の世界にも存在し得ると。気が狂うほど好きな相手に思いが届かない、こちらに振り向いてくれない、何もかも思い通りにいかない――。そこにはただ物質的な深さと壁がないだけで、誰も手を差し伸べてくれない絶望的な「穴」に違いはないのだと。そんな、悲劇ではなく日常に狂ってしまった少女をソーラ・バーチが見事に演じている。『ゴースト・ワールド』でもそうだったけど、彼女のルックスや空気感は、なぜこんなにも生来的に(?)疎外されているのだろうか。薄いグリーンの瞳、赤く光る髪の毛、ちょっと大きめの胸。それらすべてが彼女の「ちょっと普通じゃない感じ」を主張している。疎外されて本当に狂った者だけが、この醜悪な世界を逞しく生き抜いていくのだ。ソーラ・バーチは笑いながら孤立していく。

02:50 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

おはようございます

カラーボックス
カラーボックスっていうのは本当に文庫本を置くことに関して不向きで
なんだか奥行きがありすぎるしだからといって二列に並べたら
後ろの方が見えなくなっていやだしどうしよう
なんて思ってほいじゃあ後ろの列はちょっと高くすれば良いや
ということでもう聴かないであろうCD-Rで段差をつけて二列にした
という本当にどうでもいい昼の出来事。

Nights Out
/ Metronomy

Metronomy-Nights Out
「終わりと始まり」の向こう側へ
 ニュー・レイヴにはやけに刹那的なイメージがある。ジャンル間を自由に行き来する野放図なまでのボーダレス、きらめくネオン・カラー、ただただ踊れてキャッチーであること。若い世代が求めた本当の解放はしかし、中身のない快楽主義とほとんど紙一重のお祭り騒ぎだったような気がする。実際、クラクソンズ以外に何かを生み出したバンドはいたのだろうか。ニュー・レイヴにはあまりにも実在的な意味が欠落していた。それは、次第に若い世代を示す単なる記号のひとつへと成り変わっていった。
 このメトロノミーも、デビュー・アルバムのリリース当初はタイミング的なものもあってニュー・レイヴの一派としてメディアからは取り上げられていた。メトロノミーの起源は10年も前の話である。当初はフロントマンであるジョセフ・マウントがオウテカやエイフェックス・ツインの音楽に影響を受けて始めた個人プロジェクトだった。時にはバック・バンドを引き連れて、時にはソロとして、ライブを繰り返し腕を磨いたジョセフは、いつしか多くのアーティストのリミックスを手掛けるようになっていた。要するに、ただ面白いことがしたくてとかバンド・コンテストに出場するためとかのニュー・レイヴな連中にありがちなインスタントさとは無縁の10年選手なのだ。メトロノミーの鳴らしているまったく新しい音楽体験は、手軽な刺激を求めてのクロスオーヴァーとはわけが違う。既存のポップ・ミュージックを積極的に逸脱しながら繰り広げられる先の読めない展開とスリル。時に物悲しく響くシンセには、ともすれば崇高な何かすら感じてしまう。
 “ナイツ・アウト”で始まり“ナイツ・アウトロ”で終わるこのアルバムは、伝説的なエアブラシ・アーティストであるフィリップ・キャッスルの手掛けたアートワークと共にひとつの物語を描き出すコンセプト・アルバムである。夜遊びの悦楽と幻滅、そして、夜の終わりと新たな一日の始まり。ニュー・レイヴ~ニュー・エキセントリックと一向に実体を伴わないまま転がり続けたシーンは、ついにその実在の意味を語り始めた。
12:57 | 音楽 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

マーチ・オン

マーチング・バンド
クリエイティヴな夜を過ごすあなたのために、
昨日も今日も、写真とレヴューだけで。

記事タイトルはグッド・シャーロット『グッド・モーニング・リヴァイヴァル』から。
全然関係ないけど。

Spark Large
/ Marching Band

Marching Band-Spark Change
ほら、あなたの町にもマーチング・バンドがやってくる
 バンドの名前マーチング・バンドなのに、だだっ広い草原に二人でポツン。この写真にえらく惹かれて購入を決めた一枚。当然パッパラ賑やかな行進曲なんてできるわけなくて、USインディに分類できそうなカラフルでアコースティックなインディ・ポップ。“メイク・ノー・プランズ”という曲が好き。「今夜君に電話をかけるけど、明日の予定は立てないでおこう」と歌う思わせぶりな歌。決して前のめりにならないこの絶妙な感じがマーチング・バンドの一番の魅力だと思う。草原でのツーショット写真にしても歌詞にしても、共通しているのはそこに不思議な「余白」が用意されているということだ。すべてを埋め尽くすのではなく、端っこには何も提示されていないんだけどそこにはきっと特別な何かがある、と猛烈に想像力を刺激する意味深な空間としての余白。その割にジャケットは結構ゴチャゴチャしてるし二人でほとんどの楽器演奏したにしては多彩な音が鳴ってたりしていてあからさまなほどにカラフルなポップなのだが、彼ら自身のテンションは決して昂ぶったところを見せることなくあくまで平熱でやっているのだ。歌詞も取り留めのないものばかり。ポップは「あっちの世界」なんかじゃなくてこんなにすぐそばにだってあるんだと教えてくれる良いアルバムだ。プロデューサーがクラップ・ユア・ハンズ・セイ・ヤー!のファーストを手掛けた人物だというのもなんとなくわかる気がする。
 順序がおかしくなっちゃったけど、ちなみにこのマーチング・バンドというバンドはUSでもUKでもなくスウェーデンのバンドで、彼らにとっては本作が初めてのフル・アルバム。日本ではスウェーデンといえばなんだかんだでやっぱりカーディガンズだと思うのだが、そういえば彼らのポップネスも過剰なものじゃなくて平熱で坦々としたものだったな、なんて思ったりしました。
02:10 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ショック・ホラー!

ザ・ヴュー
もし自分がバンドをやるなら。
僕はザ・ヴューみたいになりたい。

Which Bitch?
/ The View

The View-Which Bitch
変わったか変わってないかはわからない。でも、ここに嘘はない
 ヴューのロックは思い出である。それは、スタイルが伝統的なロックンロール然としていて懐古的だとか自分がもっと若かった頃に経験したようなことを彼らが歌っているとかそういうことでは決してなくて、もちろんそういう側面も確かにあるのだが、なんというか、ヴューのロックには明日がないのだ。よく聴いてみて欲しい。彼らのロックが輝かしい明日なんて楽観的な未来を描き出したことは一度もない。みんなが着飾る中で、ひとり四日間も同じジーンズを穿き続けている自分に幻滅し、それでも多分また同じジーンズ姿で、前に進もうとする連中である。そこには希望がある。でも明日はない。それがいったいどういうことかというと、彼らが前に進もうとする原動力のようなものが、決して「明日があるさ」的な彼方への思いではなく、自分の中にすでに横たわっている何かに端を発するものだということだ。自分を自分たらしめる何か。それは誇りやプライドかもしれない。はたまたコンプレックスやトラウマかもしれない。絶対に手放せないもの。突破すべきもの。忘れたいもの。何でもいい。とにかく、ヴューの歌は絶対にそんなところからしか始まらない。というか、ヴューはわざわざそんなことを歌う。音楽的には大胆にネクスト・レベルに踏み込んだこのセカンド・アルバムでも、ヴューは未だにそんなことをいちいち歌っている。ストリートというどこでもない場所で歌っていた頃と比べたら明らかに開けた景色を前にした今も。
 本当にリアルな歌はギミックもトリックも何にもなくたってそのリアルさそのものが圧倒的な輝きを放つ。ではいったい何をもってその歌は「リアル」となり得るのか。それは、そこに「人がいる」というたったひとつの事実それだけである。現実社会の暴かれた実態などではないのだ。一発で聴き手をガツンと打ちのめすリアルさとは、歌い手の「自分」を汗も手垢も何もかもと一緒になすりつけた歌のことである。歌うということは、自分の背負っている思い出を燃やし尽くす行為なのだ。もちろん灰に還すという意味ではない。魂を売らずにロックがやれてたまるか、と言いたいのだ。思い出を燃やすだなんて、辛い過去を引きずっているのと実はあまり大差ない。でも、それのいったい何が悪い? 何か勘違いしていないか。人間は、経験値を上げてレベル・アップして次の自分を獲得するだなんてメカニカルな成長は絶対にできない生き物である。明日の自分は次の自分なんかじゃない。明日の自分でさえ今の自分である。明日なんてわからない。何かが変わるかもしれないし、何も変わらないかもしれないし、何も変わらないようで何か変わっているのかもしれないし、何かが変わったようで何も変わっていなかったりするのかもしれない。僕たちが生きているのはそんなどうしようもなく連続した今日である。だから、思いっきり「自分」を引きずってやれば良いのだ。何度だって思い出をめくって喜びなり悔しさなり悲しみなりを噛みしめてやれば良い。飛躍的な作品だがヴューはやはりヴューでしかない。ヴューが歌い続ける限りあなたはひとりじゃない。このアルバムはそういうアルバムである。
00:48 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

My Sweet Revenge

Famous Last Words
最近、久しぶりにオリジナルMDを作った。
MDを使う一番の楽しみは、
いろんなアーティストの楽曲を寄せ集めて
自分だけのオムニバス・アルバムを作ることだと勝手に思っているのだけど、
そこにマイケミの“フェイマス・ラスト・ワーズ”を入れた。
ものすごく感動的なMDに仕上がったと、自分で聴き惚れています。

“フェイマス・ラスト・ワーズ”は『ブラック・パレード』の最終曲で、
僕は彼らの歌の中ではこれが一番好きだ。
何回も何回も聴いて、何回も何回も歌った。
『ブラック・パレード』という大作は、
ひとえにこの一曲を聴き手に歌わせるための壮大な一枚だったと思っている。

「もう生きることを恐れたりはしない」

こんなにもナイーヴで、こんなにも力強い。
ロックとは如何なるものか、という問いに対する答えがあのアルバムには詰まっている。

マイケミの“REVENGE”パーカーはお気に入りでしょっちゅう着てます。
これ着てたら後輩が笑うけど、そんなのは気にしない。

XO
/ LeATHERMOUTH

Lethermouth-XO.jpg
中指下げるにはちと早い
 現在活動休止中のマイ・ケミカル・ロマンスのギタリストであるフランク・アイエロがヴォーカルを務める新プロジェクトとして先月エピタフから発表されたレザーマウスのデビュー・アルバム。マイケミのスウィートネスをイメージして聴くと腰を抜かしてしまうかもしれない。嘔吐のように言葉と音を吐き出しながら転がりまくる危険なハードコア・パンクである。演奏は他のメンバーにまかせてフランクはひたすら何言ってるかほとんどわからないシャウトに専念している。歌詞を斜め読みしただけでもわかるのは、ただただ実直なまでの、だからこそやり場のない怒りである。ドラッグにハマる若者、クソみたいな友人、悪意を含んだプロパガンダといったアメリカ社会の闇を徹底的にあぶり出し、XO(=キスとハグ)の代わりにビシッと中指を突き立てる。
 ブックレットに「ジーザスは誰かの罪のために死んだようだがそれは俺のためじゃない……俺の罪は結局のところ俺のものだ」という意味深な言葉が刻まれている。神にさえ見放された最末端の俺たちが声を上げることすら忘れちまってどうすんだ、何かを変えようとするなら待ってるんじゃなくてまずは俺らから動かなきゃダメだろ、ということだろう。救世主の登場をただ漫然と待つだけでは革命は起り得ない。それはオバマという新たな主導者が誕生した今だからこそ尚のことそうなのである。マイケミのブラック・パレードが決して闇夜に訪れる救世主などではなかったように、その実体が普通に無力な僕たちひとりひとりの心に宿る力強い勇気と同義だったように、チェンジは「起きるもの」ではなく「起こすもの」なのだとフランクはやはり歌っているのだ。
18:15 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ベンジャミン・バトン

睡眠不足と最初は全然期待してなかったのとで
三時間あるうちの最初の一時間は寝てしまったけど、
途中でいろいろ考え始めてからはもう一切眠れなくなってしまった。
ブラット・ピット主演の話題作『ベンジャミン・バトン』はそんな映画でした。

歳をとるにつれて若返る肉体、という過剰な設定は、
本作が描いている「生と死」とか「運命」とかの
スケールが異常に巨大でとっつきにくくて強権的なテーマを
観ている側にとって近づきやすいものにするためのギミックに過ぎないのではないか、
と思えるほど、僕にはどうでもよかった。

ラスト・シーンがもうひたすら良い。
ダンサー、アーティスト、お母さん、シェイクスピア・フリーク・・・・・・。
様々な人がそれぞれに辿り着いた「どこか」と呼べる場所を、全力で祝福するラスト。
それは、決して「運命」などという超然的な何かではないから。

時計の針は動き続ける。

The Curious Case of Benjamin Button
ベンジャミン・バトン
運命なんかにうなだれるな、あなたはすべてを選んでいる
 人は、死とはある日の突然の来訪者のように期せずして「訪れる」ものだと言うが、それは違うと思う。死は人間に突如襲い掛かる不幸ではない。人間は、生を享けたまさにその日からすでに、死を内包している。ゴールのマスがない双六なんてどこにもないのと同じように、僕たちの命は生と死をまったく同等に意味している。それでは僕たちが生きるということがいったいどういうことかと言うと、それは「死の摘出」と言うことができるかもしれない。僕たちは、生まれた瞬間、赤ん坊という名の無力である。無力、すなわち何もできないということはしかしこの場合において、これから何だってできるという無限の可能性と同義である。そして、未来に提示された限り無い可能性の中から、僕たちは自分を自分たらしめる可能性をそれぞれに選び抜いていく。可能性を選び抜くということは、その他の可能性をすべて不可能にするということである。僕たちは、歳を重ねるにつれて、自己を明確にしていくことと同時に自分にはできないことを増やし続けていく。そして、すべての人間に等しく残された最後の可能性が死なのだとすれば、僕たちは、それぞれ掛かる時間に違いはあるとしても、無限の可能性の中から最終的に死を選び抜こうといているのかもしれない。
 これから何だってできるという無力さ。何もないようで、そこにはすべてがある。すべてがあるようで、そこには何もない。つまり、それは何でもない。「何か」と呼べる特定の何かではない。ただ僕たちは便宜上それを「赤ちゃん」「赤ん坊」と呼んでいるだけのことだ。何でもないものから始まった僕たちはそれぞれに可能性を選択しながら自分の中に特定の「何か」を形成していく。「何でもないもの=どこでもない場所」から「何か=どこか」へ。生きるということがしばしば「居場所探し」と言われるのは、つまりそういうことである。それならば、僕たちが探している究極的な居場所は死なのだろうか。僕たちの辿り着くべき約束の地は本当にそんなところにあるのだろうか。心情的に、僕はその答えにどうしても納得できない。
 死が僕たちの辿り着くべき場所であるということ。それは、僕たちが「何でもないもの」のままでいられた時にのみ有効な答えである。他の誰かにも通用するおざなりの呼称のままで死を迎えた時、その答えは真実である。しかし、その可能性はほとんどあり得ない。なぜなら、僕たちは無限の可能性を内包した無力として始まっているからだ。そう、僕たちは「死によって死する」という可能性を選ばないという可能性を内包している。それは「死以外によって死する」という可能性である。特殊な事例を除いて、動物は自殺をしない。それなのにここ日本だけでも一日に80人以上もの人間が自殺をするメンタリティとは、まさにそれである。彼らは本来的な死によって死んでいるのではなく、耐えがたい喪失や絶望や僕たちには想像もできないような何かを理由に死を選択しているのだ。それも、首に縄をはめる前に。遥か眼下に広がるアスファルトに向かって飛び立つ前に。鼓動が途切れる前に。僕たちは、自分の双六の最後のマスを、すでにそれぞれ書き換えているのだ。
 始まりがどこでもない場所ならば、やはり終わりもまたどこでもない場所なのではないかと思う。いや、どこかのようで、どこでもない場所と言おうか。可能性が無限であるならば、結果も当然のように無限である。それを選び抜く行為もまた無限であり、それはどれかひとつを選び抜くこともなにひとつ選ばないことも同時に意味している。人は、「生と死」や「過去と未来」の複雑な繋がりについて、「運命」という言葉の神秘的な響きに頼りすぎである。そんな言い方をするから、そこに時として避けがたい威圧的な重さを感じてしまうのだ。すべてはあなたの「選択」である。それの連鎖である。起らなかったことは、100%起り得なかったこと、あなたが起こさせなかったことだ。これから起るであろうことは、100%起り得ること、あなたが起こさせることだ。選べない運命なんてどこにもない。すべてがあるようで、何もなくて、どこかのようで、どこでもない。そんな場所で、何かを選んだり選ばなかったりするということは、そういうことである。
 ゴッホは言う。「星々の高さとその無限を感じること。そうすれば人生はほぼ魅力的に映る」。人間の想像力が宇宙をも内包する圧倒的な広がりを持っているということをまずは理解しろということだ。時計の針は今も、いつかであり、いつでもない時を指し示している。それが前に進もうと後ろに進もうと、別にたいしたことではない。時はあなたを拘束し得ない。すべては、あなた次第なのだ。
18:33 | 映画 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

休日は楽しまないと

やまだないと
漫画は本当に面白いな。
今のお気に入りはやまだないとという人の作品。
パリとかカフェとか全体的にオシャレな雰囲気が漂っていて、
僕としてはそういうオシャレ・スペースは若干苦手だったりするわけですが、
コーヒーやタバコの苦味を楽しむような余裕が、
休日にはあっても良いと思います。

写真は『コーヒーアンドシガレット』からのなぜかお気に入りの一コマ。
ジム・ジャームッシュ監督映画『コーヒー&シガレッツ』とは何の関係もありません。
実際の写真をいじったものを背景に使ってて面白い。

そんなわけで今日の漫画レヴュー(?)はやまだないとの作品から。
『コーヒーアンドシガレット』は日曜の昼間のようなリラックスした作品でしたが、
こっちはもうちょっと力んだ感じの作品。なのかな。
春休み中にこの人の作品読み漁ろう。

Girl Friday
/ やまだないと

やまだないと-Girl Friday
大人のギリシャ神話
 子どものギリシャ神話。ピュグマリオンという美しい男がいた。女性は皆彼の美しさに憧れ、彼を求めたが、ピュグマリオン自身は女性に胸を焦がすことは一度もなかった。ピュグマリオンは素晴らしく腕の良い彫刻家だった。世の女性に失望した彼は、自分の理想を完全に満たす一体の美しい女性の像を彫り、それにガラテアと名付けた。自分の手で作り上げた完璧な女性に心を奪われてしまったピュグマリオンは、彼女のために食事を用意し、毎日のように話しかけ、片時もそばから離れようとしなかった。もちろん、彫刻は食事もしなければ話し返してくれたりもしない。ガラテアが人間になることを日々願い続けたピュグマリオン。そんな彼の情けない姿を見るに見かねた愛と美の神アプロディテは、ガラテアに人間の生命を与え、彼の願いを叶えてやる。大いに喜んだピュグマリオンは、ガラテアを妻として正式に迎え、幸せな結婚生活を送った――。なんだよ、人間になんのかよ。ピュグマリオンは喜んだかもしれないが、こちとら大いに興醒めである。
 まるで、蜜に引き寄せられる蝶のように、男に狂わされることを求めて女が集まってくる。本作に登場するのは、そんな不思議なフェロモンを親から受け継いだひとりの男。様々な女と体を重ねても決して得られない何かと、ただひとり自分に振り返らない女の子から得たい何か。振り返らない女の子から得たい何かは、その子と体を重ねたとしても決して得られない何かだ。男はそんな女の子を「それは唯一人…僕を傷つけることのできる女の子」と呼んでいる。本作を読んで得た感動はただその一点における幾ばくかの曖昧な共感(?)のみ。男と女の子を繋ぐ何かは、得ようと思っても得られない、得られないことがわかってからでなければそのことに気付けない、どうしようもない何かだ。なぜなら、彼らは過去や未来、手や唇や心、ましてや性器で繋がっている関係などではないからだ。彼らはそもそも繋がってなどいなかったのだから。二人はただ、「出会ってしまった」だけだ。
 絶対に向き合う関係になってはいけない人がいる。それは、関わってはいけないという意味ではなく、自分の世界と対峙させてはいけない世界があるということだ。その人の瞳に映る自分の姿を見たらきっと、やっていけなくなってしまうだろうから。
00:28 | | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

立ち上がれ

リリーアレンハウス
しばらく何もやる気が起きなかったけど、
ふとリリー・アレンの画像検索したら(可愛いのが欲しかった)
なんとエイミー・ワインハウスに扮するリリーを図らずも発見してしまって、
尻を蹴り飛ばされた気がした。
この迷いのない眼差し。
この格好で。


「この恋にはいっこだけ障害がある。ベッドの中のあなたはただただ最悪」

「あたしは金銭感覚の狂った兵器。
でもあたしは悪くない。こうプログラムされちゃっただけ」

「みんなあなたが好きみたいで、あなたに引き寄せられてく。
だからあなたが大嫌いだった。だから徹底的に無視したの」

「ファック・ユー! 超超超ファック・ユー!」


こんな歌を歌うポップ・スターがいるというだけで、イギリスの若者は幸せだなと思う。
日本のポップ・スターは、揃いも揃ってどうでもいいことばかり言って、歌っている。
だから、同世代の人でも、全然そういう感じがしない。
彼らは、決して僕らを代弁しない。
ポップという消費社会で自分が売り物にされる覚悟。
その世界は、言うまでもなく、エゴ剥き出しの反吐が出るような場所だ。

リリー・アレンの新作が今月ついに発表された。
リリーは今年も元気いっぱいである。

It's Not Me, It's You
/ Lily Allen

Lily Allen-Its Not Me, Its You
世界を跨ぐ少女
 MySpaceへの楽曲アップで一躍ネット世代の脚光を浴びたリリー・アレン。そこからとんとん拍子に“スマイル”の全英一位やデビュー・アルバム『オーライ・スティル』の大ヒットが続き、気付けばセレブリティの階段を上り詰めていた彼女は、ガラスの靴ではなくナイキのスニーカーを履いたままの無邪気なシンデレラだった。何の洗練も受けずにいきなり大人の世界に飛び込んだ彼女はその奔放でわかりやすいヤンチャ娘のキャラクターで同世代の若者から熱烈な共感を呼んだが、そんな「ポップ・スター」としての立ち居地は彼女にとって決して居心地の良いものではなかった。事実として彼女を襲ったのは、謂われない誹謗中傷や彼女が最も嫌悪している「言うべきこともないくせにメディアにでしゃばるバカな人間」への強制的な仲間入りだった。
 再び全英一位を獲得したリード・シングルの“ザ・フィアー”ではそんな彼女のフラストレーションが言葉に痛快なまでの鋭さを与えている。前作リリースから本作までの間、流産や破局などポップ・スターとしての悲劇の他にも個人的な悲しみを乗り越えてきた彼女の歌が、まったく臆病になることなく、頼りない男の子やドラッグ・カルチャー、ゴシップ、ブッシュ、神など片っ端から標的に捉え様々な問題意識をぶっ刺していく非常に攻撃的な切っ先を失っていないことが何よりも嬉しい。ポップ・スターとしての理不尽な宿命を真正面から受け止めて、「あたし対世界」の構図を更に大きく広げ、対峙すべき世界へと向かって果敢に乗り込んでいく若干22歳の女の子。「あたしじゃなくてあんたなのよ」という強気なアルバム・タイトルがすべてを物語っている。本作ジャケットのリリーはもうナイキのスニーカーは履いていないが、裸足でも思いっきり踏み荒らしていって欲しいと思う。
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Fuck Forever
/ Babyshambles

Babyshambles-Fuck Forever
誰も辿り着けないアトランティスへ
 ポップ・ミュージックとはつまり共犯関係のことである。観客のひとりをステージに上げて一緒に踊るのもお決まりのフレーズで客席にマイクを向けるのも高いギターをステージ上でぶっ壊すのも、そしてそれに対して狂喜する僕たちも、その間にあるのは「ここで盛り上がる」という一種の暗黙の共犯関係である。そして、そこには幾ばくかの解放感や喜びや高まりといったものが必ず用意されている。なぜなら、それこそが人間の優しさであり慈しみであり空気が読めるということであり、疑いようのない美徳だからだ。ポップとは積極的に他者と関わろうとする姿勢である。全裸で待ち合わせに向かうバカなんていないのと同じように、僕たちはいつだって誰かに向けた言葉には優しさや慈しみや空気が読めているという何らかの美徳を着せて届けてやる。チンポぶら下げて会いに行ったら初デート以前に即行でフラれちゃうから。人と人が関わる時、共犯関係を結ぶ無言の契約は必然であり、言うまでもなくそれが最も自然なことなのだ。
 「ファック・フォーエヴァー」。だとしたら、「俺もお前も消え失せろ」と叫ばれたこの装いされないままの混乱した言葉が意味するところは、間違いなくそんな契約の破棄に他ならない。自分、恋人、友人、親、教師、先輩、上司、大人……自己をも含むあらゆる他者に向けられた余りにもナイーヴなナイフの切っ先。共犯関係だなんて見せかけの甘ったるい絆は片っ端から断ってしまえ。誰にも歌うことの出来なかった「ファック・フォーエヴァー」はピート・ドハーティを文字通りの誰にも辿り着けない場所へと連れて行った。三年半前に初めてこの歌を聴いた時、僕はくだらない人生の答えのすべてがここにあるんだと知った。胸を張って「ファック・フォーエヴァー」と叫べた時、僕は本当に解放されるんだと信じ込んでいた。
 本当にそうなんだろうかと思う。多分、そうじゃないんだと思う。そうだ、僕はピート・ドハーティだなんて会った事もないイカれ野郎と共犯関係を結ぶつもりはこれっぽっちもない。「ファック・フォーエヴァー」。ここには僕を救う希望なんてない。あるはずがない。あるべきじゃないのだ。「ファック・フォーエヴァー」は僕の叫びじゃない。転がる石にすらなれないまま、それでも僕はすぐにでも息の詰まってしまいそうな自分の人生を生きる。まだ名付けられていない叫び声を上げながら。
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Same Jeans

view.jpg
ザ・ヴューはやっぱり良いバンドだとか考えてたら眠れなくなった。
残念ながら新作がまだ手元に届いていないのだけれど、
リード・シングルが素晴らしい出来なのは
もう聴いてわかってるから安心して待っています。
本人たちも言ってたけど、ヴューは簡単に本質がブレるようなバンドじゃない。

二年前にリリースされたデビュー・アルバムは今聴いてもやっぱり涙が出る。
比喩じゃなくて、本当に涙が出る。
こんなアルバムは、他には一枚もない。
僕は平気で一週間ぐらい同じジーンズで過ごします。

Hats Off To The Buskers
/ The View

The View-Hats Off To The Buskers
僕たちには歌えない歌なんてない
 受験でも就活でも何でもいいのだけれど、自分が今まさに人生の重要な岐路に立たされているという実感があって、それでいてどの道を選べばいいのか自分でもよくわからなくて今にも立ち止まってしまいそうになっている人がいたら、押し付けがましくなるのはイヤだから、とりあえずこのアルバムを聴いてみることを控えめに提案する。僕は、最近このアルバムばかり聴いています。
 07年に発表されたザ・ヴューのデビュー・アルバム。このアルバムに登場する主人公は、大人の世界に完全に足を踏み入れる一歩手前の、ほんのしばらくの猶予期間に生きるひとりの若者。四日間まったく同じジーンズ姿で気心の知れた仲間とストリートに集まって、酒やドラッグや盗みを繰り返し、これまであれこれ指図してきた親にも愛想つかされて、家に帰るに帰れなくなってしまった若者の姿は、その歌を歌う彼ら自身の姿と自然に重なり合っていく。そして、そんな若者に託した自分自身に向かって、彼らは問いかける。「どっちに行くつもりだ?」。自分の人生を決めるのは社会でも親でもない。そして、「振り返るな」とも。社会にも親にも選ばせない人生を生きるなら、後悔する余地なんて1ミリもないはずだ。ヴューはそんなアルバムに「ストリート・ミュージシャンに敬意を」というタイトルを付けた。
 彼ら自身、キャリアはストリートから始まっている。道端に佇み、他に何も持たずにギターだけをかたく握り締め、なぜだかどうしても歌わなければならない歌を歌うストリート・ミュージシャン。それはいったいどんな気分だろう。道端というどこでもない場所で、自分の信じられるものを歌うということ。たったひとつの信じられるものがあるということは、たったひとりの自分が間違いなくここに存在しているということだ。どの道を選んだとしても、そこにはその道を選ぶことで得ることのできる幸福があるだろうし失うものもあるだろうし得られない幸福だってあるはずだ。だとしたら、僕たちはどの道にだって進むことができる。大袈裟な夢なんて持たなくてもいいしロック・スターみたいに派手に生きるのもいい。強がったっていいし嘘ついたっていいしごまかしたっていいし時には立ち止まってもいい。ただその頼りない拳に握り締めたたったひとつの信じられる何かさえ守り抜けば、どこでもないここからどこかに向かって一歩でも前に踏み出せたなら、僕たちは世界にたったひとりの僕たちでいることができるから。僕たちには歌えない歌なんてどこにもないから。ヴューが歌っていることは、つまりそういうことだ。

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変に説得力がある

ノーマン
このおみくじ最悪。
ノーマンの恥部を隠すセンサーバーをコインで削ったらあなたの運勢が。
「中吉」ってそりゃまた微妙な。
ここまで自信満々に「中吉」をぶら下げられると
本当に自分の運勢は「中吉」ぐらいなんだろうと思えてくる。
これ考えて企画通した人は偉いと思う。

シングル“トー・ジャム”のビデオも同じ趣向なのでちと恥ずかしいですが
面白いので機会があったら見てみてください。
個人的にはこういうノリで音楽やる人は好きだ。
この人みたいに本当に本気な人に限るけど。

I Think We're Gonna Need A Bigger Boat
/ The BPA

The BPA-I think were gonna need a bigger boat
世界には許されない嘘なんてほとんどない
 ノーマン・クックは嘘つきな人だと思っている。ファットボーイ・スリムという大いなる矛盾を含んだあの名前を初めて知った日、僕は朝まで眠りにつくことができなかった。90年代のロック史を振り返る記事を読んでみても、『ロングウェイ・ベイビー!!』の快楽主義は明らかに浮きまくっている。リアルな音楽にはいつだって溶け切れぬ何らかの逡巡や葛藤や悲しみがその根底に沈殿しているものだ。彼の音楽はそこの部分が徹底的に希薄なのだ。要するに、全然リアルじゃない、嘘っぱちの音楽なのだ。そこには気取ったシニシズムすら存在していない。彼はただ本当にパーティーを楽しみたいだけだ。笑顔を本気で信じているぶん、僕たちを笑わせるためのその嘘は余計にタチが悪い。
 25年前から録りためていたけどいつの間にか紛失してしまっていたテープが今回たまたま見つかったからリリースすることにした、という誠に胡散臭い言い訳をわざわざ用意して(25年前には生まれてすらいないはずの人までなぜか参加してる)、ノーマンと愉快な仲間たち(ノーマン曰く「飲み仲間」)による壮大な嘘っぱち計画が実行された! イギー・ポップにデヴィッド・バーンにディジー・ラスカルまで参加しているといっても音楽的には完全に「歌モノ」に特化したファットボーイ・スリムといった感じだし、「人類総裸一貫化計画」とでも言うような恥ずかしいアー写を見てみても、このいい歳した大人たちが揃いも揃ってやろうとしていることはリアルな悲しみなんて置き去りにしてしまう陽気なパーティー以外の何物でもない。嘘もみんなで吐けば怖くないってことね。ノーマン楽しそう。楽しい嘘ならとりあえず吐き続けてみて、もしかしたらそれはいつか本当のハピネスになるかもしれないから。ノーマンは本気でそう信じてる。
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中指ぐらい立てさせて

春菊
4冊500円で安かったから買った内田春菊の『水物語』。
この前、『ファザーファッカー』という
私小説と呼ぶには無感情な、フィクションと呼ぶには生々しい、
そんな一冊を読んでちょっと興味を持ったので、
他にも何か買ってみようと思います。

さっきブックオフに行って他にも漫画買ってきました。
今日も読むぞー。

レヴューはこの前買った山本直樹の短編集。
サークル仲間でやってる根暗漫画会に今度これ持って行こ。

明日また電話するよ
/ 山本直樹

山本直樹-明日また電話するよ
坦々と、晴々と
 山本直樹の作品に登場する少年少女は皆、別に特別な環境に置かれている若者なわけではない。何かから極端な抑圧を受けているわけでもなく、何かを猛烈に求めているわけでもなく、ただ流れるように同じような日々を過ごして、多分、大人になってからもこうして毎日を繰り返しながら生きていくんだろうな、と思わせるような、そんな若者たち。そして、彼らはドラマチックな展開を経て出会うわけでもなく、何か切実な思いを共有するわけでもなく、それがごく自然のことであるかのように、体と体を重ね合わせていく。それは、読む人によっては、将来を見据えていない、その場限りの手軽な快感に身を沈める、即物的な生き方をする若者たちの、軽薄な物語に思えるかもしれない。しかし、よく読んでみて欲しい。決してそうではないのだ。すべてを終えた後に広がる、何の特別な感情も象徴しない、でもどこか清々しい、風の通り抜けた後のような青さを感じさせる風景。そこに映る解放的な何かは、汗と生温かさの中で果てるイカ臭いカタルシスとはまったくもって無縁のものだ。どれだけ体を交わしてもどこにも辿り着けない毎日に、彼らは少なくともフラストレーションや悲壮感や後ろめたさを抱えてはいない。繰り返される毎日でかまわない。「明日また電話するよ」。そう声を掛けるのと同じぐらい近いところに、魔法やファンタジーは転がっているから。山本直樹のすごいところは、出口の見えない毎日には、それでもこんなに晴れ渡った入り口がすぐ隣にあるんだと教えてくれるところだ。これまでに発表した幾多の短編の中から選び抜かれた秀作をひとつにまとめたこの一冊を読んで、改めてそう思った。定点アングルで描かれた“テレビばかり見てると馬鹿になる”は傑作。

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Back to memories

Nowジョージ
最近、バイトから帰ってきて本を読む時は
いつもジョージ・マイケルを聴いている。

ワム!時代の曲は当然昔から知っていたけど、
ソロの楽曲を初めて知ったのは確か中二の頃。
中古で買った『NOW5』に“ファストラヴ”が入っていて、
ブリトニー・スピアーズとかバックスとかボーイゾーンとかファイヴなんかの
アイドル系ポップ・ミュージックばかり聴いていた僕にはとても刺激的だった。
続く『NOW6』には“スター・ピープル”が入っていて、
いつか絶対この暗闇から覗くジョージのアルバムを買ってやると心に決めた。

中学時代に好きだった音楽について考えてみたら、
ロックはほとんど聴いていなかった。
というか、特定のバンドを除いてはむしろ積極的に聴かないようにしていた時期もあった。
僕の好きな音楽を馬鹿にする連中が、みんなロック・ファンだったからだ。

『NOW5』をよく見て欲しい。
ジョージを挟んでいるのは、ペット・ショップ・ボーイズとキャグネットである。
なっつかしいなー!
“セ・ア・ヴィダ・エー”も“ディーパー・アンド・ディーパー”も本当に大好きだった。
この頃聴いていた歌は、なぜかどれも歌詞を見なくても歌える。
ジョージ・マイケルも、当然じゃないか。

Older
/ George Michael

George Michael-Orlder
苦難の季節を越えて手に入れた大人としての深み
 ジョージ・マイケルにとって90年代前半は長く辛い敗北の季節だった。世界的なヒットとなったソロ・デビュー作『フェイス』に続いて発表されたセカンド『リッスン・ウィズアウト・プレジャディスVol.1』の明らかなセールス不振をレーベル側のプロモーション不足に原因があるとして起訴するも結果はジョージの敗訴。裁判の間は当然レコーディングも行われず、徒労に終わる散々な結果となった。裁判の前にはジョージはブラジルで出会った最愛の恋人アンセルモ・フェレッパをエイズで亡くしている。初めての男性の恋人であったアンセルモとの出会いで、本当の自分を知った、人生が変わった、とまで語り、彼の死後エイズ基金のチャリティー活動に積極的に力を注いでいたジョージの悲しみは筆舌に尽くし難い。
 そして、『リッスン~』発表以降辛酸なめ尽くしたジョージがドリームワークスSKGの協力を得て6年越しの復活を遂げた96年発表のサード・アルバムが本作。夜の帳からこぼれるジョージの湿り気たっぷりの歌声が背中をゾクゾクさせるセクシーでアダルトなアルバムである。ここにはもはやポップ・アイドルとしての面影は微塵も残されていない。『リッスン~』で芽吹いたアーティストとしての自覚が艶花のごとく妖美に花開いた傑作である。アルバム・チャート1位はもちろんのこと、前作の不振が嘘のようにリリースされた6曲のシングルすべてが3位以内にランクインするという鮮やかな勝利を収めている。“フェイス”にも並ぶジョージの代表曲となった“ジーザス・トゥ・ア・チャイルド”は亡きかつての恋人アンセルモに捧げられたという美談も本作にはあるが、98年には公衆トイレで警察官にわいせつな行為を迫ったとして逮捕、00年代に入ってからも居眠り運転や大麻騒動など、本作以降のジョージに関する目に付くニュースは音楽以外の話題ばかり。いったいどうしたんだ。
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突っ走るために生まれてきた

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これは07年『マジック』の時のスプリングスティーン。
かっこよすぎるだろ。
その時その時の自分の「今」を燃焼して生きてきた人の、
これが深みというものか。

僕たちは「明日」に生きることなんてできない。
「明日の僕」は、やはり「今の僕」でしかない。

明日なき暴走。
こんな風に生きられたら、と思う。

Born To Run
/ Bruce Springsteen

Bruce_Springsteen_Born_To_Run.jpg
「今」を燃やし尽くし、希望を得よ
 鬱屈した若者に限らず、すべての人間に「明日」などというものは存在しない。それは単なる想像力の産物か、逞しいまでの錯覚に過ぎない。しかし、僕たちは「今」が袋小路に迷い込んでしまうと、いつだってすぐに「明日」への錯覚によって「今」から目を逸らそうとするか、必要もないのにうまく想像できなくなってしまった「明日」に戸惑い、更なる深みに嵌ってしまう。「明日」なんて想像しなくていいし、別にできなくてもいいのだ。そこには「今」の解決策なんて転がってはいない。僕たちが立っている場所は、「明日」などという「彼方」ではなく、やはり「今」という「ここ」でしかないのだから。
 『明日なき暴走』と題されたスプリングスティーンの一大出世作である本作が発表されたのは75年。ベトナム戦争の敗北感と若者のフラストレーションで鬱屈した都市をスプリングスティーンは愛車に乗って駆け抜けた。しかし、彼もまた、そんな時代の中で「明日」をうまく描けなくなってしまった当事者のひとりでしかなかった。ライブ・パフォーマンスは「ロックンロールの未来」と謳われるまでの評判だった一方で、レコード・セールスは一向に好転せず、それはレーベル契約の見直しという危機的状況を彼に突きつけていた。アメリカン・ドリームという憧れと幻滅の狭間で、彼は少なくとも希望的な「明日」を夢見ることなんてできなかっただろう。でもだから、だからこそ彼は、突っ走ることさえ忘れてどうすんだという捨て鉢な強さを発揮することができた。「明日」を糧にして駆け出すのではなく、「今」のすべてを燃やし尽くし、「明日」を次の「今」に変えるということ。「明日」なんてうまく描けなくても、「今」のすべてをエネルギーに転換すれば僕たちは永遠に走り続けることができる。それはつまり、一秒一分一時間一日一ヶ月一年という限りない「今」を大切に保管するのではなく灰になるまで使い果たしてやるということだ。「今」を捨てる勇気。「今を生きる」とはそういうことだ。「明日」なんていらない。
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ミッドナイト・サプライズ

ミッドナイト
楽しみにしていたものが今日やっと届いた。
ライトスピード・チャンピオン“ミッドナイト・サプライズ”の10インチ。
一生聴き続ける、だなんてチンケな約束を自分の中でした名曲。

ライトスピード・チャンピオンという名前は、
彼が13歳のころに書いていたコミックのヒーローからつけたもの。
自分の手で生み出した虚構のヒーローに、彼が背負わせたものとは。
いろいろと発言を見ている限り彼自身は恐らく童貞じゃないだろうけど、
ルックスといい歌詞といい音楽といい、
彼が作り上げた「ライトスピード・チャンピオン」は、リアルを超越して生々しい。

前に冗談でいきものがかりを08年「裏」ソング・オブ・ザ・イヤーに選んだけど、
これが本物。
この曲を聴きながらならチンケなことだって何度でも言える。
僕は多分、この曲を聴くことを一生止められない。

Midnight Surprise
/ Lightspeed Champion

Lightspeed Champion-Midnight Surprise
約束する、もう君の隣で夢見るようなことは決してないと
 元テスト・アイシクルズのメンバーであるデヴ・ハインズことライトスピード・チャンピオンが昨年発表したデビュー・アルバム『フォーリング・オフ・ザ・ラヴェンダー・ブリッジ』からのシングルであり、アルバム中一番のハイライトとも言える10分にも及ぶ大曲である。大好きな女の子と繋がれない苦しみを抱え、ひとりぼっちのベッドの上でやり場ない欲求を自分で処理し、精子の臭いを嗅いでは絶望している情けない童貞男が、自らを解放へと導く最後の手段を見つけ出す、というひとつの物語をこの曲の歌詞には読み取ることが出来る。孤独とその苦しみを嘆く男は、「すべての意味を入れ替えろ」という悟りにも近い一行の言葉と共に、自らの「情けない生」を「勇気ある死」へと転換する。解放への最後の手段とは、まさにそれである。ただ、ここでの死は肉体の消滅を意味せず、意識の死、つまりはひとつの人格の破壊と再生を示唆している。ティモシー・リアリーという「サイケデリック革命の父」と呼ばれたアメリカの心理学者がいた(本盤にカップリングとして収録された楽曲に登場する。その曲は「ティモシーへの回答」とされている)。前立腺がんに侵されたティモシーは、目前に迫った自身の終焉を前にしてもなお死を「魅力的な体験」として捉え、生と同じように死に接するべきだと語った。それがいったいどういうことかというと、ティモシーにとって、生と死は共に「対象」でしかなく、それは自己の中には存在し得ない、ということだ。「自分」というひとつの意識は、生と死という「体験」を通過するものであったとしても、生によって始まるものでもなければ死によって終わるものでもない、ということだ。そして、だからこそあえて、物語の主人公は、肉体の死では終われない「大好きな女の子と繋がれないことが耐えられない自分」を抹殺し、「大好きな女の子と繋がれなくても平気な自分」への転生を試みる。現実逃避に過ぎないと笑いたければ好きなだけ笑えばいい。でも、彼の苦しみをいったい誰が否定できるだろうか。そうでしか救われなくなってしまった魂を、他の誰かがいったいどうやって救い上げてやれると言うのか。「苦しみは乗り越えるためにある」。そんな綺麗事が言えるのはあなたが第三者でしかないからだ。でも、彼の生き方は多分、苦しみに立ち向かう生き方よりもずっと、辛い。
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ボス

明日なき暴走
スプリングスティーンの新作に感動して、
『リトル・ミス・サンシャイン』の黄色がかわいい壁紙から、
『明日なき暴走』に変えた。
しばらくこれでいこうと思う。

オバマは、選挙運動の資金集めのコンサートの際、
「大統領に立候補したのは、私がブルース・スプリングスティーンになれないからだ」
とミッシェル夫人に語ったと言われている。

オバマがずっと言い続けてきたことは、
「俺は~をする」「俺は~ができる」という自己アピールではなく、
「アメリカは変われる」という、
政治をホワイトハウスから国民ひとりひとりへと受け渡すことだった。
もちろん、「ありがたいだろ」と言わんばかりに
12000円を受け渡すことではないのである。

政治は思想である。
もちろんそれだけではダメだ。
ただ、計算高さや漢字の読めなさでは救えない何かが人にはあるということを、
日本の政治家はそろそろ認めなきゃいけない。
永田町には頭の良い人が集まっているのかもしれない。
それでも、そこでは救えない何かがあるということを、
政治の現場は決してそこではないということを、
彼らは認めなきゃいけない。

Working On A Dream
/ Bruce Springsteen

Bruce Springsteen-Working On Dream
希望なき明日への暴走
 ブッシュが再選した時の大統領選で「ヴォート・フォー・チェンジ」と銘打ってR.E.M.やパール・ジャムらと共にアメリカを回り、積極的に声を上げていたブルース・スプリングスティーン。オバマに対しても早いうちから指示を表明し、就任記念コンサートにも出演していた。英米を含む実に16カ国でめでたく一位を獲得したスプリングスティーン通算24作目である本作からは、オバマに対する応援歌である“ワーキング・オン・ア・ドリーム”がリード・シングルとして発表されている。「夢を叶えるために努力している」と何度も繰り返される熱い歌である。前作『マジック』以降ポップに開花していくクリエイションの勢いを停滞させることなく楽曲を作り続けたスプリングスティーンは、たった一年という短いスパンでこのアルバムを完成させてしまった。そんなアルバムが建設的でポジティヴな内容になることは当たり前だし、何と言っても期せずして歴史的な大統領選と時を同じくして制作された作品である。何かが変わる、今日とは違う明日が来る、という未来への高揚感こそが本作をまっすぐに貫く背骨になっていることは間違いない。
 今日とは違う明日、それは必ずしも希望ではない。明日のことは、やはり誰にもわからない。もしかしたら、明日は今日と同じ一日かもしれない。明日の空は真っ暗かもしれない。しかし、それでも良いのである。本作の背後に広がる景色は、例えば冒頭曲“アウトロ・ピート”が本来的な悲しみの漂うアメリカ西部の荒野を想起させるように、決して楽観的なフューチャリズムに燦々としているわけではない。今日とは違う明日、それを信じて、それに向かって走り続けているというただその一点のみにおいて、俺はひとりではない、とスプリングスティーンは歌っている。僕たちは、いつだって、今であり、今日である。だとしたら、明日に希望なんてあるわけがないじゃないか。希望なき明日への暴走。希望とは走ることを止めないあなたである。あなたはひとりではないのだから。
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おつかれさま

ジョージ
やっとテストが終わってついに春休みー
だけどなんだかスッキリしないなー

とりあえずコーヒーでも淹れて春休みの幕開けをひとり祝おう。
BGMはジョージ・マイケル『オールダー』でアダルトに。
中学の時、“ファストラヴ”を聴いて猛烈にシビれたことを今でも覚えている。
まったく色褪せてない、乾いていない、ツヤっぽさ。
最高だ、スター・ピーポー!

朝まで音楽聴くぞー
マンガ読むぞー

ありがとう
/ 山本直樹

山本直樹-ありがとう
僕はあなたにはなれない、それでいい
 91年に『Blue』が東京都の条例で有害コミック指定を受け当時の有害コミック論争の渦中の人となった山本直樹が手法を変えるどころかむしろ以前にも増して描写を過激にした、と言われている作品(だけど本作は有害指定は受けていない)。山本直樹は基本的には「エロの人」だけど、『Blue』にしても本作にしても議論すべきテーマは全く別のところにあって、それは至って健全で真っ直ぐなものばかりだ。確かに大人になったらどうでも良くなるようなことかもしれない。それでも、有害指定を喰らわせた連中はいったい何を読んでいたんだと首を傾げたくなること必至である。
 人は絶対的にひとりだ、とはよく言われることである。それは、究極的に、僕はあなたではないし、あなたは僕ではない、という言うまでもない公然の真実である。確かに、あなたの中に僕を見出すことはできる。しかしそれを認識することができるのは結局のところ僕だけであるべきであって、あなたはそのことに自覚的にはなり得ないのだ。僕とあなたは、どうにも同化しがたい、分かたれた存在同士なのだ。しかしだからこそ、僕はこんなにも、あなたとどうしようもなく繋がりたいのだ。
 レイプに新興宗教にいじめなど、次々と襲い掛かる災厄から家族を守ろうと孤軍奮闘するがなかなかうまくやれない父親とその一家を中心に繰り広げられるハチャメチャな物語。ギャグ的な要素も挟んで読みやすくしているが、話そのものはダークで重い。家族と言えども、僕もあなたもやはり絶対的にひとりである。家族は人と人を解かし合い同化させる都合の良い器じゃない。厳しい言い方をするなら、それはただ「そこに居合わせたあなた」に過ぎないのだ。そういう意味で、家族をひとつの「個」として繋ぎ合わせようとした父親の努力は当然のように報われないし、実際に家族からはいまいち相手にしてもらえない。それでも、そんな孤独な男の最後の「ありがとう」は「人はひとりでは生きられない」、もしくは「俺は決してひとりではなかった」というすべてを覆す力強い「肯定」である。
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明日でテスト終わる

フランツ
フランツを初めて聴いたのは、高校生の時だったか。
なんで僕は『フランツ・フェルディナンド』のステッカーを
『ユー・クッド・ハヴ・イット・ソー・マッチ・ベター』に、
『ユー・クッド・ハヴ・イット・ソー・マッチ・ベター』のステッカーを
『フランツ・フェルディナンド』に貼ったんだろう。

フランツは僕にとって特別なバンドではないけど、
今回の新作は良い。かなり良い。
僕はやっぱりアートよりエモーショナルなのが好きだ。
一番好きな曲が“マイケル”なのは、ずっと変わりそうにないけど。

Tonight
/ Franz Ferdinand

Franz Ferdinand-Tonight
「ポップ」の更なる高みを目指して
 フランツ・フェルディナンドの一番の魅力はなんと言ってもどこまでがマジでどこまでがジョークなのかよくわからないところだ。“ドゥ・ユー・ウォント・トゥ”なんて下手すりゃただの下世話なパーティー・ソングになりかねない危うい歌なのに、彼らが正気と狂気の交わる一瞬の境界線の上で絶妙なバランス感覚を発揮しているからこそそれは何にも拘泥しないアートと呼べるレベルにまで到達できるのだ。つまり、フランツは恐ろしく理知的に「ポップ」を演出できるのだ。本当によくできた「ポップ」の核心部分は、やはり簡単には認識し難いものである。
 これまで彼らが使ってきたニュー・ウェイヴやポスト・パンクの言語を一旦分解し、テンポを抑え、主導権をギターからベースへと変換し、まったく別の手段で自分たちの「ポップ」を再構築した本作は、シンセや打ち込みなどの新しいプロダクションを耳にしてもすぐにわかる通り明らかな実験作である。パーツのレベルにまで分解したゼロ地点から新しい前提を作るために彼ら自身が「フランツ・フェルディナンド」を一から演じようとした作品とも言える。アレックスは本作について「催眠術のようなサウンドを作りたかった」と語っているが、「夜」という正気と狂気の入り乱れる渦中に聴き手を強引に迷い込ませるこの極めて高性能な「ポップ」をもはや意識的に作り出していることからしてもフランツはやはり末恐ろしいバンドである。夜の街での怪しげな事件の臭いの漂う本作ジャケ写は本当にニクイ。これは正気か? それとも狂気か?
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Boy Meets Man

Boy Meets Man
これまで嫌になるほど比べられてきたU2初期のアルバム二枚。
この二枚について、僕にはもはや言葉は残されていないし、
何も言わなくてもこの二人の顔つきを見ればすべてがわかる。
二人の少年は、同一人物である。

今月、ついにU2のニュー・アルバムがリリースされる。
09年に新作を発表予定のあらゆる大物バンドの中でも、
最も注目すべきリリースであることは間違いない。
今年最初のセンセーション。

09年、ロックがすべきこととは何か。
ロックにしかできないこととは何か。

War
/ U2

U2-War.jpg
U2のロックは祈りである
 72年に北アイルランドで起った「血の日曜日事件」をテーマにした“ブラッディ・サンデー”が、ポーランドの「連帯」という労働組合をモチーフにした“ニュー・イヤーズ・デイ”が、収録されている。日本では『闘』と名付けられた本作は、U2のサード・アルバムにして初の全英一位獲得作。それまでやや内省的であった言葉の矛先は、本作で社会という外の世界へと向けられている。アメリカ人でもないのにオバマの就任式に登場するなど、積極的な社会派バンドとしての現在の彼らの立ち居地を印象付けた初めての作品である。現在のU2というバンドの、ひとつの大きな「前提」を作り上げた非常に重要な作品である。
 しかし、本作制作中のバンドの内情は、とてもじゃないが世界に闘いを挑めるような状況ではなかった。アダム・クレイトンを除く三人のメンバーはこの頃キリスト教に激しく傾倒していた。その要因は、一言で言うならロックへの疑問である。ロックが人を救わないという余りにも残酷な真実に、彼らはこの時直面していた。ジ・エッジは事実として一度バンドを離脱している。そんな、バンドとしての危機的な状況を何とか乗り越えて完成した本作。この時点で、彼らは自分たちの歌が世界を救わないことを知っていた。扇情的な言葉を冠したアルバムだが、ボノは本作発表当時、これは破壊的な作品ではない、否定的な作品ではない、抵抗の音楽ではない、と何度も繰り返していたようだ。本作のツアーで彼が白旗を振るパフォーマンスを行ったことは有名な話。冒頭曲“ブラッディ・サンデー”でも旧約聖書の詩篇を基にした最終曲“40”でもまったく同じことが歌われている。「いったいいつまでこの歌を歌い続ければいいのか」と。世界はこんなにも間違っているのに、それなのに、なぜ自分はこんなにも無力なのかと。あどけない顔をしていたかつての少年が、まるで見過ごせない何かに気付いてしまったかのように、その透明な瞳に鋭さと厳しさと激しさを湛えている。彼が見据えている対峙すべき闘いの敵は、他でもない「自分自身」だ。白旗を上げたところから始まる闘いと音楽。そして、U2は歌うことを止めなかった。たとえそれが、世界を救わないとしても。
00:55 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

レット・ゼア・ビー・ライト

DANCE.jpg
ブライト・アイズの“アット・ザ・ボトム・オブ・エヴリシング”とか
フォール・アウト・ボーイの“カーパル・トンネル・オブ・ラブ”とか
いきものがかりの“気まぐれロマンティック”とか、
気に入ったPVはi-Podに入れて時々楽しんでいるのだけど、
ジャスティスの代表曲、“D.A.N.C.E.”もその中のひとつ。

このPV良いですよね。
ギャスパールとグザヴェイの着ているTシャツの絵柄が自由に動き回るっていう。
写真のは、グザヴェイのTシャツのドリンクの入ったグラスが倒れて、
隣のギャスパールのTシャツのギャルの絵が滲んじゃったところ。
自分のTシャツも動き出さないかな。
動くTシャツ欲しい。

男とも女とも判別しがたいアフロヘアーの人が後ろにわざとらしく写り込んでいますが、
この人は、実は“D.A.N.C.E.”をジャスティスと共作したあの人。
ライノセラスの“ビッチ”でヴォーカルしてたりします。
この人のアルバムでは“D.A.N.C.E.”のグラマラス・ロック・ヴァージョンが聴ける。
ジャスティス・ファンは是非。

そんなわけで、08年ベスト・アルバムに一ヶ月使ったせいで紹介できてなかった作品を。
年末に発表されたジャスティスのライブ作品。
まだ08年を引きずるか。

A Cross The Universe
/ Justice

Justice-A Cross The Universe
ジャスティスというロックンロールの契約
 ここ数年の間に登場した数多くのダンス・アクトの中でも、ジャスティスのエクスタシーははっきり言って格別の上モノだった。他の連中とは意識の覚醒度がまるで違う。チャリンコ乗りながら聴いてる僕でさえそう思うんだから、もうフロアで一発響いた瞬間にその差はきっと歴然なんだと思う。何もジャスティスが特別な技術を使っているわけではない。力学そのものが他の連中とは違うのだ。ジャスティス初のライブCD+08年春のアメリカ・ツアーのドキュメンタリーDVDの二枚組みセットである本作は、ジャスティスのそこの部分を徹底的に解き明かす衝撃の内容である。特にDVDの方。これは問題作である。
 20日間に及んだアメリカ・ツアーの裏側が記録された本作。革ジャンやアンプなどヴィジュアル面ではもともとロック的と言われている彼らだが、DVDに生々しくも収められたジャスティスの一面は、ダンス・アクトとは思えないほど余りにもロックンロール然としているものだった。酒と女を連れ込んでの毎晩の乱痴気騒ぎ、暴力沙汰、行きずりの女の子との結婚式、銃にハマっておかしくなったツアマネ等々、どこから再生してもそこにはロックンロールの典型ともいえる危ない光景が映し出されている。日常的な風景から遠く離れた非日常の世界で人間に野放図なまでの自由を与えるとどうなるのか。あらゆる感情と欲求の抑制が効かなくなって、その突き上げるようなドス黒い衝動に成すがままとなってしまうのだ。そして、それはまるで、ジャスティスの音楽そのものを象徴しているようではないか。逞しき男たちが自らの鍛え抜いた肉体を誇示し、ナイスなギャルがまるでここが世界の中心だとでも言うかのように豊満な乳を揺らす、そんな、ダンス・アクトとしては凄まじく異様なジャスティスのライブ風景。そう、これは心地良いリズムに体を乗せるための機械的な装置じゃない。両親にはとてもじゃないが見せられない、そんなギリギリの世界に身を沈めるためのドラッグである。ドキッとさせるのは、グザヴィエとギャスパールが公演前に必ず行う、シンボルの十字架を間に挟んでのキスの儀式。ジャスティスとは、ロックンロールの危ない「あっちの世界」に両足を突っ込んで、なるがままに狂い果てることを誓い合った二人のフランス人青年による「契約」なのだ。
01:21 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

慟哭の果てに

貫井慟哭
プロフィールには、好きな作家として野沢尚を選んでいますが、
もしお前の「この一冊」を選べと言われたら、僕はきっとこの作品を選ぶ。
貫井徳郎の、『慟哭』。
この作品がなかったら、僕は本を読むなんてめんどくさいことは始めなかったかも。
健全な内容の作品ではありません。
初期の彼の作品にあるのは、ただなす術もなく放置された、絶望だけです。

貫井徳郎の作品は全部持っているつもりだったけど、
一冊だけ持っていない作品を見つけてしまって、早速買った。
本当はテスト勉強したりレポート書いたりしなきゃいけないのだけど、
もはやそれどころではなくなってしまった。
現時点での彼の最新作のようです。
『夜想』。

この読後感をいったい何と言ったらいいのか。
何も見えない果てしない闇の中で、
それでもたったひとつだけ信じられるものの存在を隣に感じるような、
頼りないけど、とても、力強いもの。
そうだ。
これは希望だ。
今「この一冊」を訊かれたら、『夜想』、と答えるのも悪くないかもしれない。

夜想
/ 貫井徳郎

貫井徳郎-夜想
慟哭したかつての自分を心から祝福できたとき
 本人の証言なしにこんなことを言うのも失礼な話だが、貫井徳郎は不幸な作家だった。彼は、どの表現世界にも必然的について回るジンクスにやはり絡みとられてしまった作家だった。読み手の心を厚く重い暗雲で覆いつくすような独特の世界観を持った問題作『慟哭』で衝撃的なデビューを飾って以来、良質な作品もいくつか発表してきたものの、彼は『慟哭』の「その次」を描けない、デビュー作を超えられない作家だった。あえて最悪の読後感を目指したという『愚行録』や近年ではこれまでと違った軽妙な空気感の作品など試行錯誤の見られるものも発表しているが、そこにはどこかエンターテインメント作家としての開き直りのようなものを感じずにはいられなかった。軽妙さはひとつの作品が内包する本質的な明るさや希望とは程遠い、文字通りの「軽さ」と捉えられてもおかしくないものだった。『慟哭』が生み出した圧倒的な闇は、いつしか貫井徳郎のキャリアそのものまでも飲み込もうとしていたのだった。
 でもだから、だからこそ本作には貫井徳郎という作家の新章の幕開けを感じずにはいられない。デビューから14年、『慟哭』とまったく同じ宗教テーマ、まったく同じ手法で書かれた本作は、長かった闇の出口に彼がついに辿り着いたことを明らかに告げている。何かを狂信的に信じるということがいかに人を狂わせていくのか、それを、狂気の侵食がいつから始まったのかまったくわからないほど巧みに描く構成力。なかなか関係性の見えてこないふたつの別々の物話が平行したまま同時進行し、両者が光の速さで交錯する瞬間に読み手を襲う戦慄。それはどちらとも彼が『慟哭』一作のみで決定的にした貫井印のトリックだ。途中までは僕も「『慟哭』の二番煎じか?」などと思っていた。しかし、『慟哭』の信じるが故の絶望は、ここでついに「自分を救うのは自分でしかない」という宗教の本質にまで見事に昇華されている。そう、自分が無心に信じるものでさえ自分を救ってくれなどしないからこそ、僕たちは自分自身を救えるのだ。それは紛れもなく、すべての悲しみを通過した者だけが立つことのできるポジティヴィズムという新たな地平である。居心地の良い絶望感なんて欺瞞に過ぎない。明けることのない夜なんてどこにもない。そんな一筋の光を読み手の世界にもたらすことこそが小説にできる最大のエンターテインメント性ではなかっただろうか。これはきっと忘れられない一冊になる。
01:24 | | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

紅白

うめず
最近は積極的に漫画を読む。
でも最近のはよくわからないので、ある程度名の知れた漫画家の作品を読んでいる。
それで選んだのがなぜか楳図かずお。
そういえば紅白ボーダーのTシャツを大学に着ていった時は
なぜかウォーリーではなく楳図と呼ばれた。

この人の漫画は面白いぞ。
夢がある。
そして言うまでもなく絵が良い。
あの戦慄の表情。
一瞬で楳図!とわかる一筆一筆の存在感はすごい。

漂流教室
/ 楳図かずお

漂流教室
漫画界のロックンロールじいちゃん
 実に70歳を越えた現在でも自宅の改築を巡る一件で近隣住民から起訴されたりして相変わらずの「変なおじさん」的存在感を発揮しているしょこたんの神様は、その事件の発端となった自身のトレードマークである赤と白のボーダー・デザインについて、こんな風に語っている。「横じまっていうのは、囚人服から来ていると思いますね。まぁ、囚人服っていうのは、ある意味、社会に対して少し斜な構え方してる人たちなわけだから。で、ロックンロールの人たちにも繋がっていくっていうところがあって。僕、ロックンロール好きですから」。これは面白い話だと思う。もし彼が着ているあのボーダー・シャツが囚人服なのだとしたら、彼はいったいどうしてわざわざ自ら「囚われの身」にならなければいけなかったのか。というか、彼はなぜそれを止めないのか。終身刑の判決を、彼はなぜ自らに下したのか。
 『漂流教室』は72年から74年までの間に週刊少年サンデーに掲載された作品で、75年には小学館漫画賞を受賞した楳図かずおの代表作のひとつ。ある不可解な現象をきっかけにして、世界の終わる直前の未来へと学校ごと飛ばされてしまった子どもたちが、殺戮や飢餓の恐怖と戦いながらも逞しく生き抜こうとする力であらゆる不可能を可能へと変えていく、力強い大作だ。しかし、子どもたちはどれだけ懸命に苦難を乗り越えても、いつだって同じ風景へと立ち返ってしまう。スモッグが空を覆いあらゆる生命が砂へと化した果てしない暗闇の砂漠のような世界に、絶望は絶えない。それでも彼らはそんな変わらない世界の終わりの風景を、自分たちの始まりと希望の風景へと鮮やかに塗り替えていく。そう、変わったのは子どもたちの方なのだ。子どもたちは、解放されたのだ。それはまるで、ご近所さんから後ろ指さされながら暮らす囚人服の男にも訪れるかもしれない未来そのものではないか。夢を見るのは罪深い。それはまさに、終身刑に値するほどに。それでもその先に待ち受けているかもしれない風景は、やはり息を呑むほどに眩しいのだ。『漂流教室』の子どもたちが最後の最後に辿り着いた光の当たる場所に、この男もきっと立ち会ってみたいんだろうなと思う。
15:58 | | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ソング・オブ・ザ・イヤー

どうもどうも、08年ベスト・アルバム50やってる間に一ヶ月終わりました。
というか一ヶ月で終わって良かった。
No.10以降は本当に見苦しいレヴューばかりで
自分でも何言ってんだか、という感じです。
長いレヴューになると、文章力のなさがバレるので嫌ですね。

何はともあれ僕の選ぶ08年ベスト・ディスクは
ロス・キャンペシーノス!のデビュー・アルバム。
絶対にその年のNo.01になるようなアルバムではないけど、思い切りました。
『Over The Border』の個性として。

i-Tunesの楽曲をふと再生回数順に並べてみたら、
08年に発表された楽曲で一番多く聴いたのは、
当然のようにYUKIの“汽車に乗って”だった。
次がアデルの“チェイシング・ペイヴメンツ”、
ロス・キャンペシーノス!“ミゼラビリア”、
コールドプレイ“ライフ・イン・テクニカラー”、
ジャックス・マネキン“ザ・レゾリューション”・・・・・・
と08年が走馬灯のように頭を過ぎります。

そこで今日は08年最後の振り返りとしてソング・オブ・ザ・イヤーを。
買ったのは実は今年に入ってからだったりするのですが、これです。
あくまで「個人的」な、そして更に「裏」ということにしておきます。

気まぐれロマンティック
/ いきものがかり

いきものがかり-気まぐれロマンティック
2008年裏ソング・オブ・ザ・イヤー
 いきものがかり。どうやら08年にどどーんとアルバム二枚シングル五枚も発表したようだが、最近よく見るなぁとは思っていたもののこれまで興味はまったく湧かなかった。大ヒットした“ブルーバード”も琴線に引っかかることはなかった。しかし、「まさか」は年末にやってきたのである。08年12月に発表された、いきものがかり08年最後のシングルとなったこの『気まぐれロマンティック』。まだこれ以外にちゃんと聴いたことないけど、僕にとってのいきものがかりのイメージは、もっとまっすぐで真面目で堅実な王道を貫いていくタイプのバンドだった。要は、まあ確かにダイナミックではあるけれど、なんだかイイ子ちゃん然としていて面白くなかったのだ。でも、たまたまテレビでこの歌のPVを目撃して、これは買わなければ!という衝動に駆られ、そのまま衝動に身を任せてしまった。実際に観てもらうのが一番てっとり早いのだが、これまで着実に積み上げてきた「いきものがかり像」をちゃぶ台程度にひっくり返す絶妙なPVである。ひとつ前のシングルでは操り人形に化けてひとりの女の子の悲しみを救おうとシリアスな顔をしていた三人が、テレビ局やファーストフード店や病院など様々なシチュエーションに合わせたコスプレに身を包んで変なダンスを踊っているのだ。もうその可愛らしさと言ったら! こういうことをすると大抵「調子乗ってる」とか「売れ線に走った」とか言い出すバカが出てくるのだけど、この愛すべき三人組にはどうやらそんなことはなさそう。「J-POPが作りたい」だなんて今どき珍しいことを言い出す彼らだが、90年代にあれだけ盛り上がったJ-POPがここまで衰退したのは、これがなぜだか恥ずかしい感じになってきたからだろうか。言っておくが、これは「軽さ」じゃない。「破綻する勇気」である。これまでのいきものがかりに足りなかったのは、まさにこれだったのである。これが歌えたならもう大丈夫だ。
20:48 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑
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