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No.01

Hold On Now, Youngster...
/ Los Campesinos!

Los Campesinos!-Hold On Now, Youngster
人間ども集まれ! 僕たちは世界なんて救えない!
 08年は本当にひどい一年だった。こんなちっぽけな島国の中でさえ、ガソリンとか株とか食品偽装とか失業とかころころ変わる総理大臣だとか、いったいどうすればいいのかわからなくさせるような問題が次々と巻き起こっていた。そんな一年を表す08年の漢字は「変」だったわけだが、それは08年をズバリ言い当てると同時に未来への切な願いのようにも思える絶妙な一文字だった。海外でもまるで魔法の言葉のように「チェンジ」が叫ばれていた一年。08年、世界は明らかに、行き詰まり、立ち止まっていた。『モダン・ギルト』のベックが、まさにそうだったように。
 しかし、そんな混沌の渦の中心で行き場を失った世界を、少なくともここではないどこかへ連れて行ってくれるかもしれないある意味でものすごく極端な思想を持ったバンドが昨年登場していたことを、あなたは知っているだろうか。彼らの名前はロス・キャンペシーノス!。スペイン語で「農民」を意味する言葉を音の面白さだけでバンド名に選んだという軽さに無責任なエクスクラメーションをたずさえたこのアホ臭いバンド。ベックやオアシスのような大物を超えるバンドでないことはわかっている。それでも、『Over The Border』が選ぶ08年のベスト・アルバムは、そんなロス・キャンペシーノス!のデビュー・アルバムである本作『ホールド・オン・ナウ、ヤングスター…』である。何も考えていない軽薄さとほとんど紙一重のこのアルバムを選んだ理由は、彼らのエクスクラメーションのその先にあるひどく極端な希望に賭けるというただその一点のみ。誰が何と言おうと、僕はこの希望に騙され続けるつもりだ。

 人が、自分を無力だと痛感する時とはいったいどんな瞬間だろうか。大好きな異性に思いを伝えられなかった時、大切な誰かを守れなかった時、身を粉にして働いてきた会社に首を切られて路頭に迷った時、歌っても歌っても変わることのない世界の景色に立ち尽くした時――いくらでも挙げることができる。そして、そんな絶望感がどこから生まれるのかというと、それは、例えば「世界の景色を変えることができる」、という明るい希望を無効にする挫折感からに他ならない。希望と絶望は隣り合わせ、とはよく言われることだが、つまりはそういうことである。可能性を広げるということは、それと同時に不可能性を広げるということでもある。「最新コンピューターを使いこなせる」ということが「最新コンピューターを使いこなせない」という不全を一部に引き起こすように、「生まれる」という始まりに必ず「死ぬ」という終わりがついて回るように、両者はどうしようもなく引き裂き難い。僕たちが折に感じる無力感とはつまり、いつだって「~ができる」という有力感の裏返しなのだ。
 人間はなぜだか基本的に可能性が増えることを肯定的に捉えるようなっている。僕たちの遠い遠い祖先が転がっている木の棒に何らかの使い道を与えてしまったその時から、人間はあらゆるものに可能性を求め始め、火を起こし、家を建て、文明を作り、文化を発展させ、自分たちの領土を地球の外にまで作り、あらゆる「できること」を次々と増やし続け、進歩していったとされている。しかし、無力が常に有力について回るものならば、人間はその長い歴史の中で「できないこと」もまた次々と増やしてしまったといえるのではないだろうか。木の棒によって獲物が殴り倒されたまさにその時、一部の猿は「動物」を脱却して「人間」へと生まれ変わった。そう、彼らは人間に「なれてしまった」。つまり、動物にはもはや「なれなくなってしまった」のだ。僕たちの過ちはすでにそこから始まっていたのかもしれない。「動物」から「人間」に生まれ変わった彼らはその後も「進歩」という名の下に数々の「できること」と同じだけの「できないこと」を作り上げていく。
 決定的なものは「個人性の確立」だと思っている。巧みな言語力を獲得し、思考を逞しくさせ、プライヴェートというまったく新しい観念を作り出せてしまった時、「動物」を脱却した「人間」は、そこから更に「個人」というそれぞれがまったく別々の生き物へと生まれ変わってしまった。猫とタンポポがお互いに支えあいながら生きていくことなどできないように、僕とあなたもまた同じ世界に立つことなどできやしないのだ。それで、いったいどうして僕があなたを、あなたが僕を救えるだろう。

 ロス・キャンペシーノス!が、本作で「二組のゴスペル聖歌隊でさえ僕らを救えない」とか「この曲は君の恋愛を救えない」とか「ギターを抱えた汗だくの四人組の男の子は僕の人生を代弁しない」とか、とにかくそういった徹底的な「個人」、すなわち「自己」を、片っ端から喚き散らしているのを聴いていて思うことは、そういうことだ。そして、ゴスペル聖歌隊がロス・キャンペシーノス!を救わないのならば、ロス・キャンペシーノス!もやはりまたゴスペル隊を救い得ない。彼らの歌は、もはや当然のように僕やあなたを救い得ない。そんな無力さを認めるような彼らの歌は、しかしなぜこんなにもキラキラと輝いていて楽しげなのか。なぜこんなにも陽気なポップネスが弾けているのだろうか。「この指とまれ!」と声高らかに掲げられた人差し指のように、どうしてこんなにも僕たちをそこに集まらせようとするのか。
 彼らのポップネスとは、この歌を僕たちに歌わせるための引力に他ならない。僕たちというそれぞれの「自己」に、自分たちが無力だということを認めさせるために他ならない。今の世の中を見ていて思うことは、山積みにされた問題の数々は、僕たちが何かを「できる」ようになるために、それと同時に生み出してきた「できないこと」の蓄積なのではないだろうか、ということだ。彼らはそれを認めろと歌っているのだ。僕たちはもはや、「人間」などという立派な生き物ではないということを。

 前にも一度紹介したが、手塚治虫の漫画に『人間ども集まれ!』という作品がある。男でも女でもない、人間の繁殖にまったく関係のない第三の性を持った「非・人間」としての人間を人工的に造り出し戦争に利用するという血も涙もない話なのだが、結局のところ誰一人として満たされることのないあの物語の結末を読むと、科学を極めて未来の可能性を押し広げたところでその分の「できないこと」に僕たちはやはり押しつぶされてしまうのかもしれないと思う。便利な乗り物が、快適な生活空間が、やはりどうしようもなく地球の汚染に加担してしまうように。
 「個人」の問題だってある。「人間」「非・人間」といった単純な二分化を行っても彼らはそれとは違った「自分」の目線からやはり世界を見つめていた。自分だけの確固たる世界をそれぞれが作り上げ、そこに幸せを見出し、しかし誰も自分をわかってはくれないと嘆くのだ。遠い昔だったら食べ物を分けてやるだけでもうひとりの人間を救えたかもしれない。でも、僕たちはもはやそうではないのだ。あなたがくれた食べ物は、やはりどうしようもなく、僕の世界を救い得ない。
 食べてセックスして寝てれば「できないこと」など何もなかったのに、そこに留まることが出来ずに「進歩」と自分たちを正当化しながらここまで来てしまった僕ら。その結果がこれである。自分で自分の首を絞め続けた挙句未だにそれに気付いていない愚かで無力な僕たちを、だからこそ手塚治虫は「人間ども」と呼んだのだ。自分ひとりを救うために、他の誰かを救えなくなってしまった僕ら。僕たちはもう「人間」じゃない。「人間ども」。そんな間抜けな呼称で十分である。

 さあだから! だから人間ども集まれ! もはやひとつの世界を共有してなどいない僕たちは、当然のようにこのおっきな世界を救えない! でも、それの何が悪い!? それでいいじゃないか! 他の誰かを救えない僕たちが、みんなの世界を救えるわけがないじゃないか! 今から何かを始めるなら、まずはそこを認めてからだろう!? 僕が「人間として」ではなく「僕として」生き続ける限り、あなたが「人間として」ではなく「あなたとして」生き続ける限り、僕とあなたを救う希望はこの無責任なエクスクラメーションの先にしかない!
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No.02

Modern Guilt
/ Beck

Beck-Modern Guilt
21世紀はもう完成しない
 ベックは時代を測る物差しだと言われてきた。ベックの動向を追えば時代の最先端を自然に掴むことができると言われてきた。しかし、21世紀を迎えてからだろうか、ベックの最先端をキャッチするアンテナは徐々に錆び付いてきた、とも言われてきた。そして、そんな衰えの見え始めたベックの起死回生を懸けた一枚だった本作は、例えば『シー・チェンジ』のような、あえて先端的時代性に固執することなく内省の深みに沈んでいくような、ある意味では立ち止まりのアルバムとなった、と一般的には言われている。
 でも、本当にそうなのか? 僕には、そんなカテゴライズではひどく居心地が悪いアルバムに思える。これがもし本当に内省のアルバムなら、なぜベックはタイトルに「モダン」という時間的な制約を掛けなければいけなかったのか? これがもしベックの個人的な内省の物語なのだとすれば、そこに時間は必要なかったはずだ。内省の深みを測るものは時間や事象ではない。ひとりの人間が内省の淵に沈むとき、時間は自然と脇に寄せられ、止まるものなのだ。『シー・チェンジ』はまさにそういうアルバムだったじゃないか。だとしたら、本作でベックが語ろうとしたモダン性とはいったい何なのだろうか。どうやら音楽的に新しいことをやっているようではない。心にぽっかりと空いたエアポケットのような虚無の漂う本作。これはもしかしたら、今という時代にこそ存在する「何か」の描写やメタファーではなく、21世紀という最もモダンな時代に、決定的に「欠けているもの」という意味で初めて成立するモダン性なのではないだろうか。いつもの笑顔を捨て去り、静かに凪いだ風のように俯くベックの姿。それはまさに、置き去りにされた空白そのもののようではないか。
 でも、それはあくまでイメージの話でしかない。では本作で実際に歌われていることとはいったい何なのか。一曲目“オーファンズ”の第一声、つまり本作の幕開けを飾る言葉は、「どうやら座礁したようだけど、どこに辿り着いたのかわからない」という居場所の喪失である(タイトルは「孤児」という意味)。続く“ガンマ・レイ”では「今日何を失ったのか、それが知りたい」、“ケムトレイルズ”では「あのたくさんの人は、いったいどこへ行ってしまうのか」、表題曲“モダン・ギルト”では「何をしてしまったのかわからないけど、でもなんだか恥ずかしく思う」と歌われている。冒頭四曲だけですでにこれだけの「わからない」が溢れている。自分が今立っている場所も、これから向かうべき場所も、どこからやってきたのかも、自分が何をしてしまったのかも、ひいては自分自身という存在さえ、ベックは「もう僕にはわからないんだ」と歌う。これだけの情報過多の時代に、すべてがクリックひとつで得られる時代に、ベックは「何もわからない」と歌う。キャッチすべき情報の余りの膨大さを前にして、ベックは本作で確かに立ち止まってしまっている。
 ベックは、「本作を貫いているのは二面性だ」と語っている。それは例えば“ケムトレイルズ”がモチーフにした、化学物質に侵された、でもそれゆえに美しい色を放つあの空の、神秘とその裏側に隠された愚劣な事実というまさにそういった二面性である。物事の裏側にある複雑さはいつだって表に現れる時には驚くほど単純化されている。そういうことは、よくあるのではないだろうか。本作は10曲35分という下手したらペラペラになりかねないほど簡潔なアルバムである。それでも本作が決して軽いアルバムになっていないのは、その表に現れる単純性の奥底で、ベックがやはり「わからない」を繰り返しながら本気で複雑な問いに思い悩んでいるからだ。その逆も言える。自分を取り囲む膨大な情報を前にした時、その選択肢の多さゆえに「わからない」という余りにも単純な回答しか見出さないということ。そして、「達観」はいつだってそんな境地から導き出される。すべてを通過し、すべてを吸収しようとし、それでもそれが不可能だと自覚した時にこそ、「達観」という圧倒的な俯瞰力はこみ上げてくるのだ。つまり、ベックの本作での「わからない」は、さじをポーンと投げ捨てる放棄としての「わからん」ではなく、それが21世紀を生きるということの「達観」として機能しているのだ。そして、その時点で、やはり「達観」とはどうしようもなく二面性を孕むものだということがわかる。なぜなら、それはまさに世界の構造そのものだからだ。すべてがあるように見えて、実は確かなものなど何ひとつ存在していない世界。僕たちが生きている空間は、そういう場所だったのではないだろうか。
 自分も世界ももはや何もわからないベックが、それを「わからない」と歌うことを「現代の罪悪感」と呼んでいる。しかし、ベックが「わからない」ことに対して抱いているその絶妙な感覚は、果たして本当に「罪悪感」と呼べるものなのだろうか? 何もわからないのに、なぜそれを「罪悪感」と言い切ることができる? ベックが語り出す「現代の罪悪感」、それは、ここで恐ろしく不明瞭なものになってしまっている。しかし、それで良いのだ。そうでしか、あり得ないのである。本作におけるベックの苦しみは、そこにこそあるのだから。世界が「チェンジ」をひたすら待ち望む21世紀という時代。何かが変わらなければ苦しい現状は確かに終わらない。でも、刷新にしか救いを見出せなくなってしまった僕たちは、事実として何かが変わってしまう前に、一旦立ち止まってその無力さを認めるべきなのではないだろうか。そう、『モダン・ギルト』とは、「現代の罪悪感そのもの」ではなく、それをすでに失ってしまった僕たちが味わうべき「敗北感」に他ならない。
 そして、ベックとは、やはりそういう人だったのである。“ルーザー”で「俺は負け犬、さっさと殺したらどうだ?」とグランジとジェネレーションXの敗北を誰よりもいち早く認めてみせたあの頃から、ベックはそうだったのである。僕たちが背負うべき「罪悪感」がどういうものかわからなくなってしまった時点で、僕たちはすでにどうしようもなく負けているのだ。「罪悪感」という、どこにも見当たらない21世紀最後のピースは、すでに彼方へと失われてしまったのだ。そして、次に進む前に、まずはそこを認めなければ何も始まらないと、ベックはそう歌っているんだと思う。
 これがベックの最高傑作かどうかはわからない。でも、これがベック史上最大の問題作であることだけは確かだ。当然、自分の敗北をそう簡単に認められる人などいない。これは、残された21世紀をどのように生きるのか、その運命を左右する踏み絵のようにして聴かれるべき作品である。
01:47 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

No.03

Dig Out Your Soul
/ Oasis

Oasis-Dig Out Your Soul
俺は俺自身である必要がある
 オアシスのライブでは、すべての曲をファンが熱唱する。お決まりの一曲、なんて生易しい演出ではなくて、本当に会場中が死に物狂いですべての曲を歌う。“ドント・ルック・バック・イン・アンガー”のイントロが流れ始めると皆、「絶対にノエルには歌わせねえ」と意味もなく意気込む。ブートにはファンの歌声ばかりでバンドの歌声が全然聴こえない悲惨な(?)ものまである。実は、ノエルはそんなファンにキレたことがある。俺が“ワンダーウォール”でしっとりキメてるんだから、お前らちょっとは静かに聴きやがれと。それでも皆歌い続けた。聴きに行くのか歌いに行くのかわからないライブに、それでも足を運んだ。バンドの連中以上に声を嗄らしながら、「これこそオアシスだぜ!」と快哉を叫びながら、皆それぞれの帰路についた。
 そこに、オアシスのすべてがあったと言って良い。「オアシス」という名の下に、無条件に人々をひとつに繋ぐ強烈なユニティ。その大合唱は、公団住まいのしがないキッズに夢を与え、ブリットポップ戦争という労働者階級の一致団結を促し、それはグランジというアメリカ産カルチャーに蹂躙されつつあった英国ロックそのものの復権現象にまで華々しく昇華されていった。そして、その最も中心部にあったのは、間違いなくノエルの書く天下一品のメロディだった。ノエルがあのメロディを書き続ける限り、人々はただそれだけでひとつになることができた。いつだって未来は明るかった。だから、野心的な変化が美徳として高く評価されるロックの世界で、オアシスだけが「変わらないこと」を頑なに強要され続けてきた。オアシスが変わる時、それは、彼らが未来を紡げなくなるまさにその瞬間だったのだ。
 そして、それはオアシスのメンバーたちにとってもそうだったんだと思う。しょーもない喧嘩や騒動で解散の危機に直面したことは何度となくあった。ノエルはソロでやっていたほうが自由も多かっただろう。ヤク漬けの悲惨な状況まで通過した彼らが、それでも最優先してきたことは、あくまで「オアシスとして」バンドを前に進めることだった。そのためには慣れ親しんだメンバーの解雇だって躊躇はしなかった。ノエルは90年代を代表する名ソングライターである。リアムは90年代を代表する名シンガーである。それでも、「オアシス」というユニティは、ノエルやリアムという稀有な存在よりも遥かにデカかったのだ。
 ゲムとアンディが初めて制作に参加した02年作『ヒーザン・ケミストリー』以来、オアシスはバンドの構造を緩やかに、慎重に変化させてきた。それまでオアシスのソングライターはノエルの他にはいなかった。しかし、リアム、ゲム、アンディもそれぞれに作曲をこなし、ノエルの楽曲と拮抗できるレベルにまで鍛えぬくこと。それはつまり、ノエルのメロディにしか宿らなかった「オアシス」という奇跡を、別の形で呼び起こそうとする試みだったのだ。ノエル曰く聴くメロディよりも体感するグルーヴを優先した本作。しかし、本作で「オアシス」はそんな揺らめくサイケデリアに宿ったわけではない。それまで「オアシス」という奇跡の中で自由に暴れまわっていると思っていた彼らが、初めて「オアシス」をコントロールしようとしたことそのものに「オアシス」は宿ったのだ。なぜなら、それこそがロックンロール・バンドというフォーマットの最も本質的な部分であるべきだからだ。
 ノエルが曲を書き、リアムが歌う。そこにしかオアシスの意味はなかった。結成時のメンバーが今やこの二人しか残っていないということからしても、そうなのである。たったそれだけのことで、オアシスは「オアシス」たりえていた。でも、それはもう違うんだと思う。オアシスの本質はもはやノエルのメロディやリアムの歌声には存在していない。なぜなら、「オアシス」とはもはやノエルやリアムのことではなく、「ロックンロール・バンドである」という純然たる事実そのものだからだ。これは、そういうアルバムである。デビュー・シングル“スーパーソニック”の第一節でオアシスは「俺は俺自身である必要がある」と言い放った。だとしたら、オアシスが頑なにロックンロール・バンドであろうとし続けてきたその信念は、やはり間違っていなかったのだ。オアシスにこのアルバムを掴ませたのはまさにその信念以外の何物でもなかったのだから。そこにもまた、別の未来があったのだから。そういえば、本作収録曲の合間に一部効果音が挟まれているのだが、ジャケットはこんなにもギラギラのサイケデリアなのに、そこにはクソ現実的な浜辺を歩く足音とさざ波の音が鳴っていたりする。それはまさに、オアシスというロックンロール・バンドが、ようやく本当のロックンロール・バンドとしての正しい岸辺に辿り着くことができたことを表しているようではないか。
 どうやら『ディグ・アウト・ユア・ソウル』のツアーでオアシスは一曲目に“ロックンロール・スター”を歌っているようだ。たったの一夜だけ、ロックンロールの主役になることを許されたかつての男は、死ぬほど憧れていたまさに本物のロックンロール・スターとして、今夜もその歌を歌う。次はお前たちの番だと。「俺が俺自身である」限り、そこに、未来はあるのだと。
00:16 | 音楽 | comments (4) | trackbacks (0) | page top↑

No.04

All Hope Is Gone
/ Slipknot

all_hope_is_gone.jpg
スリップノットの本質を問う渾身の傑作アルバム
 各国のチャートでトップ3入りを果たしスリップノットの異型の存在感を世界中に知らしめた大出世のセカンド・アルバム『アイオワ』。あのアルバムがスリップノットのキャリアにおける最高の隆盛であり続ける限り、彼らの目指すべき高みは『アイオワ』の「その次」だと言うことができる。そして、『アイオワ』という世界の悪意と憎悪をグチョリとこね回したような混沌の極みが、無意識に「鳴らせてしまった」カオスだったからこそ、ワールドワイドな成功によってそのカオスの凄みと手応えを知り、意識してしまった彼らは当然のようにそこからギクシャクし始めた。解散というバンドの終焉と隣り合わせのままなんとか完成まで漕ぎ付けたサード・アルバム『Vol.3』。それまでバンドの内側に眠っていた多彩なメロディやリフを呼び覚まし『アイオワ』とは違った魅力をバンドから引き出した快作と一般的には評価されているようだが、正直それがいったい何なのかと思う。新しいアイディアは結構だが、バンドの本質的な部分がスッカスカに抜け落ちてしまっていったいどうすんだと思う。初めてあのアルバムを聴いた時の猛烈に裏切られた感じは今でもちゃんと覚えている。
 あれから四年。はっきり言って新作には何も期待していなかった。バンドが空中分解したみたいに九人のメンバーは散り散りになってそれぞれの別プロジェクトに打ち込み始めていたから、新作が発表されるということ自体期待していなかった。もうみんな好き勝手やってくれよ、と思っていた。スリップノットなんてもうどうだって良かった。そんな愚痴めいたことすら考えないようになっていた08年、『オール・ホープ・イズ・ゴーン』は届けられた。
 一言で言うなら、『アイオワ』のカオスが持つ極端なイビツさを意識的になぞろうとしたアルバムである。08年を迎えた今、バンドに『アイオワ』をもう一度作ることができるかどうかを確かめようとしたアルバムである。消極的に聞こえるかもしれない。しかし、本作における彼らの出発点はそこでなければならなかったのだ。『Vol.3』発表以後、解散は免れたもののメンバーはスリップノットを一時停止させてしまっていた。スリップノットを、離れすぎてしまっていたのだ。メジャー・デビュー以来初めて地元アイオワでレコーディング作業が行われた本作。生まれ故郷という原点に立ち返り再びスリップノットを起動させたメンバーにとって、本作は九人がもう一度スリップノットとしての比類なき叫びを上げられるかどうかを懸けた極めて重要な作品だった。『アイオワ』によってこれ以上はない極点を刻んだスリップノットというバンドに、それぞれが一時離脱してしまったスリップノットというバンドに、それでも鳴らさなければならないカオスは残されているのか。世界への憎悪というマグマのような赤黒いエネルギーは未だ残されているのか。本作の製作過程は、その確認作業でもあったのだ。
 本作は、バンドのキャリア史上初めてメンバー全員が曲作りに参加したアルバムだという。始めの構想の時点で、すでにメンバー全員が積極的にひとつのものを作り上げようとしたアルバムだということだ。当然、実演でのバンドの機能性は、高くなる。それぞれのメンバーが生み出すサウンドの噛み合わせは、良くなる。そのことが結果的に一部のリスナーからは気に入らない点になっているようだ。要は、きれいにまとまり過ぎ、ということだろう。『アイオワ』の頃はもっとグチャグチャメチョメチョだったのに、ということだろう。言いたいことはわかる。だから、もう一度グチャグチャメチョメチョになるために彼らがここを一旦通過しなければならなかったということも、わかって欲しい。
 一見、込み上げてくる狂気を制御できなくなってしまった狂人集団のようにも思えるスリップノットだが、その根底にある彼らの思いや思想は意外すぎるほどに健全で、ロジカルで、知的で、そして勇気に満ち溢れている。“ピープル=シット”という人間とクソを同列で並べる気違いじみた叫びの本当の意味は、「世界はクソ、人間はクソ、だからできることといえば、どうにか変わろうともがいてみることだけ」という己の無力さや絶望を放棄しない力強さだ。スリップノットが本当に狂っていて、ただブラッディでヴァイオレンスな叫びを上げて喚き散らしているだけのバンドだったら、『アイオワ』のような傑作アルバムはそもそも作れなかっただろうし、衰退の一途を辿るヘヴィ・ロック界の厳しい現実の中で今日までメジャー・シーンを生き抜くことなんて不可能だったと思う。偽者はすぐに見透かされる。本当に最後まで勝ち残ることができるのは、本物だけなのだ。どこの世界だってそうだろう。どうにも譲れないものを持っている連中は、やはり強い。 
 本作がスリップノットの最高傑作だとは思っていない。ただ、これは彼らがもう一度最高傑作を手にするための必然のプロセスだったということを強く主張したい。すべてがゴチャゴチャでチグハグでギクシャクしたところからスリップノットのカオスは始まらない。なぜなら、彼らのカオスとは、すべての狂気を反転させるためのエネルギーだからだ。こんな世界の中で僕たちが本当に狂ってしまわないために、すべての希望が消滅してしまう前に、スリップノットは再びグロテスクなマスクをかぶり世界の生け贄になることをここに誓ったのだ。多くのロック歌手が生ぬるい場所から真面目ぶった顔して「生と死」を歌い上げるこんなシーンの中で、本当の地獄の底で火を噴くかのように咆哮するスリップノット。その存在と地獄の継続の意味は、やはりとてつもなく重い。
00:51 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

No.05

Viva La Vida Or Death And All His Friends
/ Coldplay

Coldplay-Viva La Vida
ロックンロールにしか描けない美しい景色がある
 これまで何度も言ってきたが、僕は『X&Y』以前のコールドプレイの歌が嫌いである。一時はコールドプレイのファンというだけで、そんな人のことは信用できなかった。あんなにも抽象的でぼやけた歌のどこが良いのかまったくわからなかった。いったいどこに向かうべき歌なのかが理解できなかった。宙ぶらりんの状態で放置されるような、気持ち悪い感覚。人間味のない平熱の低さ。それはオーロラみたく余りにも美しい景色だったけれど、それを違和感もなく「美しい」と認めてしまったら負けだと思っていた。僕たちは、自分たちの想像力を遥かに超越した圧倒的な何かを前にした時にのみ、「美しい」という非日常的な言葉を使うことができる。コールドプレイの音楽について、誰もが「美しい」と形容することしかできなかった。その「美しい」は、結局のところ「何も理解できていない」ということと同じなのではないかと思っていた。騙されたくなかった。
 コールドプレイの08年作『美しき生命』は、タイトルやジャケットが示すとおり、明らかなコンセプト・アルバムである。それがどういうことかと言うと、本作にはひとつの結論がある、という意味でもある。コンセプト・アルバムとはつまり、そこに収まるべくして作られたアルバムのことだ。抽象的な歌には無限の広がりがあるかもしれない。理解は聴き手の自由であり、それ故に普遍的であり、それはまさに永遠そのもののように思える。具体的な歌は、結論がある歌ということは、いつか終わってしまう物語だということだ。その歌には限界がある。無限ではないのだ。そう考えれば、具体性なんて儚いものに思える。答えなんてない方が良いのかもしれないと思えてくる。答えのない、終わらない、永遠に未来を紡ぎ続ける物語。だってそれは、余りにも美しすぎるじゃないか。
 しかし、ロックはそうはなり得ないのである。ロックは青春的な音楽だと言われる。大人の世界に踏み込む直前の、人生のほんの一瞬の猶予期間に芽吹いてしまった違和感を歌ったものがロックだとされるのならば、それはやはり神秘的な永遠などにはなり得ないのである。大人の世界になんら影響力を持たない無力な若者が大人の世界への違和感を嘆いてしまった時点で、ロックは恐ろしく無力なのだ。そこには、残酷なほどの限界があるのだ。しかし、それで良いのである。そんな無力な音楽が、それでも50年後の今もなお同じく役立たずな若者たちによって支持されているのならば、そこには、そこにしかない希望があるのかもしれないのだ。ロックが神ではない限り、究極的に、ロックは生も死も肯定などできない。無力な若者に、世界を始めることや終わらせることなんてそもそもできやしないのだ。それができないから、彼らはロックを歌わずにはいられなかったのだ。だとしたら、ロックにできることとはいったい何なのか。ロックにしかできないこととはいったい何なのか。
 それは、「それでも続ける」ということである。違和感を訴え続けても何も変わらないであろう世界を前にして、それでも歌うことを止めないのである。自分の限界を認めた上で、続けることを止めないことでしか救えない魂を、僕たちは「ロックンロール」と呼ぶのだ。完全な神秘に比べれば随分と頼りないものに映るかもしれない。続ける限り終わらないロックンロールの首の皮一枚の永遠とは、世界を救えない無力な自分が、神秘なんてとうてい描けはしない自分が、それでも最後に描けるかもしれない美しさなのだ。
 未来を遮断する死という圧倒的な恐怖に立ち尽くした後に、それでもまるで希望そのもののような響きで静かに起き上がる音楽がある。コールドプレイがここで初めて導きだした物語の結末は、そんな、紛れもないロックンロールの希望だった。
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No.06

Consolers Of The Lonely
/ The Raconteurs

The Raconteurs-Consolers of Lonely
天才が才能を抑えないとこういうことになる
 ジャック・ホワイトという人を語る時に真っ先に思いつくことは、彼がホワイト・ストライプスの一員であり、彼こそがバンドの本質であるということだ。ベースを一切使わず、ギターとドラムだけを前提としたストライプスのロックに満たない音楽。そんなバンド・コンプレックスを自ら抱え込んだストライプスを実質的にたったひとりで推進してきたジャックの創作エネルギーとプレッシャーが並大抵のものでないことは容易に想像がつく。
 そして、ジャックのもうひとつのプロジェクトであるラカンターズとは、必要以上に集中力を必要とするストライプスの活動から一時的に解放されて、極めて自然で衝動的なロックンロールを楽しむための一種のリハビリだったはずだ。前作発表時には彼自身そう語っていたし、あのアルバムの空気感が肩の力の抜けたイイ感じにグダグダなものだったのは、つまりそういうことだ。それが、本作ではどうだろう。冒頭曲“コンソーラーズ・オブ・ザ・ロンリー”の激しくのた打ち回るような超然としたロックンロールぶりはいったい何だろう。「ダディ、お話を聞かせて」という小さい女の子の話し声に始まり、ある一家の悲劇の物語の結末で幕を閉じる本作は、余りにも明確なコンセプト・アルバムである。本来ガス抜きであるはずだったラカンターズの活動で、膨大な構築力を必要とするコンセプトを意識してしまった時点で、もしかしたら本作におけるジャックはもうすでに狂っていたのかもしれない。
 現在の音楽シーンで、ジャック・ホワイトという才能ほど扱いにくいものはない。ホワイト・ストライプスの核、狂信的なブルース信者、卓越したプレイヤビリティ……ジャック・ホワイトという輪郭を作る断片はいくらでも挙げることができる。でもその断片はやはり、本質にはなり得ない文字通りの断片でしかない。僕たちは、この才能を落とし込むのに都合の良い場所を、未だに見つけられずにいる。存在感は圧倒的なのに、その圧倒的さ故に彼は明らかに居場所を失っているのだ。そして、本作でその引き裂かれた距離はまたしても広がってしまったと認めざるを得ない。まるで突出しすぎた才能の相棒のように付きまとい続けてきた彼の孤独は、その救済のために、誰かの心と共鳴するために、その才能の切っ先を更に鋭く磨き上げてしまった。その先端は、結局のところ僕たちの心をまっすぐに貫くだけで、何かに優しく包み込まれるようなことはないだろう。そう、彼が才能の切っ先を下ろさない限り、彼の孤独は永久に終わらない。世界を超越した天才が、世界から正当に理解・評価されることなどもはやあり得ないのだ。彼が本作で「コンソーラーズ・オブ・ザ・ロンリー=孤独を癒す者たち」なんてものを歌い自分に向けられる不理解を憂いでいるのは、そういうことである。そして、それは彼なりの世界に対する求愛でもあるのだ。もっと僕の傍に寄って、僕の物語を聞かせるから、君も僕に物語を聞かせておくれよとでも求めるかのように、彼は自分だけのブルースを歌う。それはやはり、どうしようもないくらい切実なコミュニケーションなのだ。なぜならその求愛は、結局のところ彼を更なる孤独に追いやるだけなのだから。誰かと繋がるために、誰かの目に留まるために、派手な化粧を施しておどけたふりをする孤独の道化師。たがが外れたかのように本作で才能を爆発させまくっているジャック・ホワイト。彼のやり場なき悲しみは、そこにこそあるのだ。
 ジャック・ホワイトという孤独の天才が、『コンソーラーズ・オブ・ザ・ロンリー』という求愛を叫んでいる。それはまるで、彼の運命そのものを表しているようではないか。そして、ジャックは歌っているのだ。果てしない孤独を引き連れてでも、ブルースを歌うことは絶対に止めないと。
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No.07

Intimacy
/ Bloc Party

Block Party-Intimacy
世界が衝突する時
 賛否両論、というか、明らかに過小評価されているブロック・パーティーのサード・アルバム。高く評価している人もサウンドのデザインとかどうでもいいことばかり言っている。書いて録って出して、という熟考する間を置かずに即リリースの形が取られた本作は、ひとつのコンセプトを基盤にして着実に積み上げていった前作に比べればどうしてもとっ散らかった印象を受けるかもしれない。このアルバムが示しているものは明らかに「完成」ではないし、そういう意味では中途半端な内容のものかもしれない。だが、このアルバムは「過渡期」の一言で終わらせるには余りにも重要すぎるひとつの「始まり」を告げている。そもそも彼らがこのアルバムを手付かずのまま発表することを決めたのもそういう理由からだろう。早く次に進みたかったのだ。つまりこれは、「始まり」として完了することを前提とした物語なのだ。
 冒頭曲“アレス”の時点で、本作でブロック・パーティーに起こった変化の大きさは明らかだ。前作は特にそうだったが、これまでエモーションとして鳴らされていたギター・サウンドが、本作ではあくまで楽曲を構成するための音の要素のひとつというところまでその意味を失っている。響きがエモーションの高まりではなく、荒々しいが無感情に鳴らされているのだ。続く“マーキュリー”ではもはやギターの音は鳴っていない。かと思えば“ヘイロ”でこれまでのギター・ロックとしてのブロック・パーティーがチラリと顔を見せたりするが、それも“ビコ”で再び隠れてしまう。その代わりに表に現れているのは、ダンス・ミュージックとしての激しい変則ビートや機械によるハイ・レベルなプロダクションだ。そう、本作でのブロック・パーティーはもはやギター・ロックのバンドではない。ギターに対してある意味でひどく無責任になってしまっている。なぜか。ギターではもはや、歌そのものの描き出す圧倒的な世界観を内包することができなくなってしまったからだ。
 本作でブロック・パーティーが迎えた変化の最も大きなところはそこである。これまでの彼らの歌は、どれも良い意味で自己完結するものばかりだった。デビュー作『サイレント・アラーム』が抽象的な表現で覆い尽くされていたのはまさにそういうことだったし、前作にあたるセカンド『ウィークエンド・イン・ザ・シティ』はケリーが自分の中に眠る個人的な記憶やトラウマを通して世界を見つめようとする試みだった。だからこそこれまでの彼らの歌は(例外はあるが)どれもギター・ロックの範疇を過剰に超えることはなかったのだ。それが本作ではどうだろうか。本作の『インティマシー=親交』というタイトルは、ケリーが本作の内容を改めて俯瞰した時に、決してコンセプトに沿って作ったわけではないのにここにある歌がそれぞれに何がしかの人間関係を描いているような印象を受けたことから付けられた。
 小説家の舞城王太郎は僕たちひとりひとりの人間がリアリティを持って把握し得るそれぞれの世界観を「密室」と呼んだ。同じく小説家の白石一文はそれを宇宙に浮かぶひとつの「惑星」に例えた。意味するところは同じである。この考えを前提とするなら、密室と密室、惑星と惑星の衝突、つまり、人と人が関わり合うということは、あるひとつの接合点を共有しながらも、その裏側にはそれぞれが他者である限り絶対的に不可侵の領域が広がっている、ということだ。人は誰しも自分だけの世界を持っている。そのひとりの人生を生きているのはまさしくそのひとりの人物本人しかいないなのだから、当たり前である。同じ記憶、思い、バックグラウンドを持って生きている他者などこの世には存在し得ないのだ。人と人が関わり合うということは、それそのものがすでに世界と世界の衝突なのだ。当たり前に聞こえるかもしれない。そして、他者の作った音楽をまた別の他者が聴くという行為もまた、そうなのである。それがコミュニケーションとして成立する以上、それもまた世界と世界の衝突なのである。しかし、その新たな世界観との関わりをしっかりとした実感を持って感じさせてくれるアーティストは実際にはほとんどいない。今思い浮かぶのはベックとレディオヘッドぐらいだ。そして、ブロック・パーティーが本作から描き始めた世界観は、そういうものなのである。ケリーの詞はもう自己完結できる内容のものではなくなってきている。自己の中に求め続けてきた対峙すべき世界を、ケリーはついに他者の中に求め始めた。ケリーは、向き合う他者のその背後に、明らかに世界を見ている。人と人が関わり合うことで発生する世界と世界の衝突。このとっ散らかったアルバムをひとつに結んでいるものがあるとすれば、それはその衝突の瞬間の記録である。それは同時に、僕やあなたという世界が、ブロック・パーティーというひとつの世界と衝突するまさにその瞬間でもあるのだ。これは、そう言い切るに十分すぎる強度を具えたアルバムである。ロックンロールのグルーヴとは、音や言葉ひとつで自分だけのオリジナルな世界観を広げてみせるまさにその圧倒的な強度のことを言うのではなかっただろうか。
 ある有名音楽評論家が「レディオヘッドは21世紀型のモダンなロック・グルーヴを、まったく独自の形で作り上げたバンドだ」と言っていた。そしてそのグルーヴとは、「ただ聴けば一発でそれとわかる不思議なもの」で「しかもアコギ一本とヴォーカルだけで実現可能なもの」と。本作の日本盤ボーナス・トラックには“タロンズ”と“サインズ”のアコースティック・ヴァージョンが収録されているのだが、その内容はまさしくそういうものになっている。とは言えこれはまだ始まりの物語に過ぎない。衝突した世界に広がる新たなる景色を僕たちが目撃する日は近い。
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No.08

Folie à Deux
/ Fall Out Boy

Fall Out Boy-Folie a Deux
星月夜はついに本物の永遠となる
 ゴッホが死ぬ直前に弟のテオに宛てた手紙の一節、「星たちとその高さの無限を感じること、そうすれば人生はほぼ魅力的に映る」という言葉からアルバム・タイトルを引用した前作『インフィニティ・オン・ハイ』で一切の迷いを振り切ってみせたフォール・アウト・ボーイの新作が、極めてポジティヴなアルバムになることはある意味当然だったし、実際にその予想は見事に的中した。しかし、これはそんな期待を遥かに上回るとんでもない作品である。出世作『フロム・アンダー・ザ・コーク・ツリー』から『インフィニティ・オン・ハイ』への飛躍も凄まじかったが、そこから本作へ辿り着いた跳躍力はもっと凄い。「無限の高さ」はやはりその名のとおり限りの無い「無限」であり、彼らは今も上昇することを止めてなどいないのだ。
 前作で、R&Bのリズムを吸収し、メタル魂を爆発させ、ピアノやストリングスにブラスまで取り込みオペラ的な魅力さえも引き出し、格段の音楽的成長を遂げたフォール・アウト・ボーイ。本作でそれは更なる高みに到達していて、演奏もリズムもアレンジもパトリックのヴォーカルも、すべてがそびえ立つ壁をぶち破らんとする正面突破のエネルギーに満ち溢れている。メロディもこれは覚えるなという方がはっきり言って無理である。確実に逞しく大きな全体像へと広がっていくフォール・アウト・ボーイの音楽。前作を聴いたときにも確信したが、もはやエモなんて矮小なタームで括れる代物じゃない。今こそ、正当な評価を下すべきである。
 見事に全米ビルボード・チャートで一位を獲得した『インフィニティ・オン・ハイ』を通過し、ピートはポップ・アイドルのアシュリー・シンプソンとの結婚でゴシップ誌を賑わせる存在にまでなりあがり、フォール・アウト・ボーイを取り囲む環境はここ数年で目まぐるしい変化を見せた。いやらしい鵜の目鷹の目に包囲された世界の中心で一躍注目の的になってしまった彼ら。時として、大きな支持を獲得するということは、それと同時に大きな反感を買うことでもある。彼らが綻びを見せる瞬間を虎視眈々と狙う卑怯な輩の遍在する世界の中心で、そんな世界の愚劣さを暴露し告発するのではなく、本音を自己の中に封殺してしまうでもなく、彼らは「お前がどう思おうと知ったことじゃないぜ。俺次第のことに関してはな」「地獄か栄光か、俺はそれ以外の中途半端なものは何ひとついらない」「自分の問題を世界のせいにしてばかりいられない」「もう二度と、何も信じるものか」という余りにも危うい捨て身の突破宣言を高らかに歌ってみせたのである。
 本作タイトルの『フォリ・ア・ドゥ』とは、「二人狂い」という意味の言わば「感染する狂気」のことである。例えば、メディアが流した情報を真否も確かめずに余りにもすんなりと自分の知識として取り込んでしまい、それがまさに唯一の正解であるかのように披露してしまう受動者の視野の狭さ。そして、そんな歪んだ認識はいとも簡単に世界中に広がり、社会を追い尽くしてしまう。エコなんてそれのいい例だろう。そして、音楽とは常にそんな危険に身を晒す行為である。世界の認める正当性に沿って歌を歌うことなんて簡単である。それがあたかもみんなの歌であるかのように聴かせることも、簡単である。チャートの上位を占めるヒット曲なんて、そんなものばかりじゃないか。狂気は余りにも簡単に、驚くべきスピードで感染する。
 そして、フォール・アウト・ボーイは、俺たちはみんなの歌は歌わない、と歌っているのだ。みんなの歌は、決して俺の思いを代弁しないと。だからこそその歌は危うい。隙がある。ツッコミどころがある。綻びがある。当然、賛否両論が起こる。でも、それで良いのだ。大阪の橋本府知事は「賛否両論あるなら自分の思うようにやる」と言っていた。そうなのである。狂気に憑かれて正義の側からの正論を繰り返すだけの人間の言葉は他の誰の心にも届かない。ひとりの人生を根底から揺さぶることができるのは、「それでも続ける」という頑なな意思と勇気だけである。非難されてもいい。俺は俺の好きな歌を歌う。作りたいアルバムを作る。出したいときに出す(本作はアメリカ大統領選と同日に発表された)。それが本当のロックンロールではなかったのかとフォール・アウト・ボーイは僕たちをなじるのだ。無謀な挑戦かもしれない。それでも、僕たちはそこにしかない未来にどうしようもなく希望を抱いてしまうのではないかと。その「“ほぼ”魅力的に映る」人生を生きる、決してパーフェクトにはなりえない自分は、それでも希望の光を信じることができるのだと。信じる限り続く希望とは、言うまでもなく果てしない道程であり、無限の高さを極める闘いと激しく重なる永遠のような挑戦である。フォール・アウト・ボーイは、このアルバムで、その死ぬまで終わらない闘いの果てしなさを、ついに全力で引き受けたのだ。
 エモなんて、居心地の良い自己憐憫の涙に溺れているふりをするだけの一種のくだらないナルシズムである。それがあたかもみんなの共通の悲しみであるかのように見せる手品である。何度でも言ってやる。フォール・アウト・ボーイは、エモなんていう便利なジャンルじゃない。フォール・アウト・ボーイは、ロックンロール・バンドである。
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No.09

Partie Traumatic
/ Black Kids

Black Kids-Partie Traumatic
ブラック・キッズは自分だ
 コンプレックスの塊みたいな彼らのルックスにまずやられた。特にボーカルのレジー。なんだか、まるで昔の自分を見ているようだった。興味が湧いて聴いてみたら、女の子の甲高いコーラスと手拍子とピアノの軽快な音色が乱れ飛ぶ、最高に楽しげなパーティー・ソングだった。でも、僕の心を最後にぶっ刺したのは、パーティーには不釣合いなくらいの辛らつな言葉たちだった。長年隠していた傷跡を今になってあえて穿り返すかのような、残酷な高笑いを上げる言葉たち。ポップ・ソングとは、孤独な人間が、誰かと繋がることを切実に希求したときにこそ生まれる音楽だ。そのカラフルな虹を越えれば、笑顔の仲間たちが両手を広げて僕を待っているはずなのである。そして、ブラック・キッズのポップ・ソングの重さ、それは、僕の仲間たちの笑顔をビリビリに引き裂いてしまったところにある。レジーは、モリッシー憑依のナヨナヨ・ヴォーカルで執拗に僕をなじる。どれだけ明るく元気なフリをしてみても、結局のところお前の本性はやっかいなコンプレックスを抱えた孤独で無力なガキだろう? お前は俺と一緒だ。俺たちは醜い形で生まれた奇形児なんだよ。俺たちは、絶対的に独りだ――。それでも、やっぱりまた“ボーイフレンド”を聴き始めてしまうのはいったいなぜなんだろう。こんなにも僕は独りなのに。僕は、やっぱり今でも、レジーとなにひとつ変わらないのに。
 人が、歌を歌うということは、そういうことなのだ。人が、ひとりで歌を聴くことの重さとは、そういうことなのだ。まっとうな人間は歌なんて必要としたりはしない。安全で安心で健全で疎外されたことのない人間は、その人生のすべてをかけて歌を歌ったりはしない。歌のその先に、あるかどうかさえわからない希望を求めて、朝から晩まで同じ曲を繰り返し聴き続けたりはしない。ネガティヴな歌を聴いたらすぐに「死にたくなる」とかほざくやつがいるが、そんなやつがロックを聴くな。頭下げたっていい。お願いだから、そんなやつがロックを聴かないでくれ。こんなネガティヴに身を沈めていったい何になるんだと言うやつもいるだろう。この気持ちはもう完璧には理解されなくたっていい。でも、それでも、こんなところからでしか始められない人間だって、世界には確かにいるのだ。強がるのは止せ。あなただって、きっとそうなんだろう?
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No.10

4:13 Dream
/ The Cure

The Cure-413 Dreams
悩み苦しめ、本当に狂ってしまわないために
 ゴス・メイクで表情を作って甘くも暗いサウンドを鳴らしていれば世界観とまではいかなくてもそれなりのムードを作ることはできるだろう。それがたとえどんなにファッション的な表層音楽でしかなかったとしても、魅了される人は少なからずいるだろう。でも、それを20年間も貫き続け常にシーンの最前線の立ち居地を守ることができるか、ということになれば話は別だ。そんなものはほとんど神話に近い。そして、80年代ニュー・ウェイヴ期に一気に狂い咲いたゴシック・ロックに水をやり続け、20年後の08年にも同じメイク・髪型でこの傑作アルバムを届けてくれた実在する神話、ザ・キュアー。その存在がいかに特別なものであるか、わかっていただけるだろうか。本作は通算13作目となるオリジナル・アルバムで、恐れることなく言うならキュアーの最高傑作。アルバムの説明はそれだけで十分だろう。
 キュアーの表現の核には極めて根源的なひとつの不安が根を張っている。それが「自分はいったい誰なのか?」という本自我の迷子に端を発する不安感だということは多くの人がもうすでに知っていることだろう。本作でも揺らいでいないそのダークな世界観が僕たちの心を魅了して止まないのはいったい何故なのか。とりあえず、僕たちも自分がいったい誰なのかわかっていないから、ということにしておく。実際にそういうところはあるだろう。本作のアートワークには「私の人生において、この世に確かなものなど何もない」というゴッホの言葉が綴られている。自分が誰なのかすらわかっていないのだから、自分の存在ですら不確かなものなのだから、ゴッホのこの言葉は至極当然であり普遍的だ。僕たちは結局のところ何もわかっちゃいないのかもしれない。すべてが不確かに思えるこの世界で、それでもたったひとつの確信を見つけるために僕たちは生き続けているのかもしれない。それはわかった。そこはもういい。だとすれば、ゴッホがそのことをわざわざ書き残したことにどんな意味があったのだろう。もう新たな作品を発表しなくたって食うことには困らないであろうロバート・スミスがわざわざそこに憂いでみせることのその先に、いったい何があるというのだろう。「自分はいったい誰なのか」。そんな世捨て人のような自問自答は不毛だ。そんな効率の悪い生き方はない。そんなことに本気で思い悩んでいたら、人は「病んでる」「狂っている」と引いてしまうかもしれない。それでもゴッホとロバート・スミスはその自問自答を止められなかった。「自分はいったい誰なのか」。その問いかけを止めた時、この不安感がどうでもよくなってしまった時、僕たちは多分、本当の自分さえ失ってしまうから。
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No.20~No.11

No.20
Glasvegas / Glasvegas

Glasvegas-Glasvegas.jpg
孤立から孤高へ
 音の密室みたいな音楽。それがグラスヴェガスのロックに対する僕の第一印象だった。世界で巻き起こっているあらゆる出来事や混乱を徹底的に遮断する鉄壁のウォール・オブ・サウンド。外部の空気やトーンに侵されることをひたすらに拒むかのようなその極端に隔絶された空間に取り残されたものは、失われたものに対する、行き場をなくした圧倒的な悲しみと、自分というたったひとりの人間のみ。悲しみと対峙することしか許されないこの密室に、それでも最後の最後に希望と呼べるものが頭をもたげ始めるのは、いったい何故なんだろう。先月グラスヴェガスは本作に最新LPを追加したクリスマス・エディションを発表したのだが、そのLPのレコーディングはとある教会で行われたのだという。そして、そこで歌われたことは、やはりやり場のない失望感だったのだ。涙が出るほど象徴的な話だと思う。逃げ場のない密室の中で喪失の悲しみと真正面から向き合うということ。失われたものはもう二度と帰ってはこないだろう。当然、そこに苦しみはあるのだ。どれだけの月日が必要なのかはわからない。けれど、いつか、すべての悲しみが回収され、解放されるまさにその日が訪れた時、閉ざされた密室は、他の誰にも踏み入ることのできない崇高な聖域へと変わるのだと思う。人が何かを守る、ということは、きっとそういうことなんだと思う。


No.19
Day & Age / The Killers

The Killers-Day  Age
涙を流しながら踊り明かそう
 キラーズ通算三作目のオリジナル・アルバムとなる本作は、これまでになく徹底的な構築を図った大飛躍作である。メンバーの時代錯誤的なあの衣装を見ていただけただろうか。前作のシリアスで重く深い雰囲気から一転してステージ・ダンサーへと様変わりしたような突飛のなさというか思い切りの良さ。それは本作のコンセプトにかける彼らの思いの強さの表れでもある。「僕らは人間なのか? それともダンサーなのか?」という問いかけが印象的なリード・シングルの“ヒューマン”。本作はひとえにその問いに対する回答を求めた作品だった。シンセの軽妙なきらめきが眩しいナンバーとステージを降りた後のような落ち着きと暗さが目立つナンバー。前半から後半に向かうにつれてそんな風に移行していくのだが、そのステージを後にした時にこそ「人間なのか? ダンサーなのか?」という問いかけの重みが効いてくる。「何も言えない。何もできない」と消え入るように傷心していくラスト・ナンバー“グッドナイト、トラヴェル・ウェル”。手のつけられないどうしようもない絶望を前に踊ることしかできない僕ら。踊ることしかできない自分に絶望し、それでも前に進まなければいけない僕ら。あの衣装はギャグなんかじゃない。人間は、結局のところ愚かなダンサーに過ぎない。それでも良いんだと認められた時、そこにしかない希望は生まれた。


No.18
Falling Off The Lavender Bridge / Lightspeed Champion

Lightspeed Champion-Falling Off The Bridge
孤独なオナニーを誇示しろ
 シーンの文脈もアーティストの歴史も関係なしに08年のベスト・ソングを一曲選べと言われたら、僕はきっとロス・キャンペシーノス!の“ミゼラビリア”か、このライトスピード・チャンピオンの“ミッドナイト・サプライズ”のどちらかを選ぶ。“ミッドナイト・サプライズ”は、「精子の臭いを嗅げ」とか「手のひらの快楽」とか「キョウモハッシャシテサワヤカ」とかの言葉が出てくる要するに非常に情けない童貞男の歌で、石原慎太郎あたりから有害指定くらいそうな感じなのだが、恥ずかしい話こんなにも強烈なシンパシーを抱いた歌は本当に久しぶりだった。10分もある大曲で、独りぼっちのベッドの上で悶える童貞男の物語が恥ずかしげもなく繰り広げられているのだが、中盤に少しだけ入る女性ヴォーカル以降、男の情けなさは変わらないのに曲そのものの内側から溢れてくる凄まじい高揚感みたいなものに僕はいつも圧倒される。モテないダメ男子にとって、ある意味オナニーとは死ぬほど好きな女の子と繋がれない自分の情けなさとか悔しさとか虚しさとか全部自分にぶちまける行為である。ライトスピード・チャンピオンは、それがどんなに孤独で恥ずかしい行為でも、その独りぼっちの夜の臭いを強く握り締めろ、手放してはいけない、と歌っている。立ち込めるラヴェンダーの匂いに包まれて落ちていくのもアリだ、と。


No.17
Oracular Spectacular / MGMT

MGMT-Oracular Spectacular
さあ、リアル・ライフにおさらばしよう
 アンドリュー(右)の甘いマスクも手伝ってか08年新人勢の中でもひときわ注目を集めていたブルックリン出身のMGMT。なんとも楽しげなことに、ハロウィンに仮装ライブを行ったそう。バック・バンドのメンバーのプレイヤビリティはまさにプロそのものなのに、前に出てる肝心の二人の腕はド素人に毛が生えた程度のレベルだったそう。大学時代にはキャンパス内でふざけたライブばかりやっていたという彼ら。ナイン・インチ・ネイルズからシリアスさを抜き取ったりブリトニー・スピアーズをエレクトロにしてみたり、とにかくハチャメチャだったようだが、今でも変に気張ったりしないで大学時代の延長のまま自然体でヘロヘロやれるのが彼らの一番の魅力だ。そう、悪魔に魂を売り渡したロック・ビジネスや隙のないパーフェクションから夢は生まれない。MGMTが作り出すサイケデリアは、サイケデリアと呼ぶには余りにもハンドメイドなそのポップ・ソングは、お金では絶対に買えない子どものイノセンス=トトロのように僕たちを神秘の森の奥深くへと誘う。辺境の地に秘密のコミュニティを築き、そこで終わらない一日を踊り明かすかのような“エレクトリック・フィール”のビデオはMGMTの愛と背徳のスウィートネスを雄弁に物語っている。永遠のような夜の到来を待ち焦がれるあなたへ。


No.16
The Bedlam In Goliath / The Mars Volta

The Mars Volta-Goloath
この先には「神性」すら感じる
 本作を制作する過程は、彼らにとってひとつの試練だったという。製作途中で巻き起こった数々の不可解な出来事――パソコンやレコーディング機材の故障、エンジニアの奇行、オマーがエルサレムで買ったボードゲーム(アルバム・タイトルの『ゴリアテ』とはそのゲームの世界での神様)の因縁――は、まるで彼らがアルバム完成へと漕ぎつけるのを阻むかのように、制作を強引に混乱へと導いたという。それらの事件が彼らの燃える創作意欲に油を注いだとも言えるし、集中力と精神力を極限まで高めた彼らの狂ったようなセッションはそういった非科学的な現象さえも引き寄せてしまうほどの力を持っていたのかもしれない、とも言える。どちらにしろ、マーズ・ヴォルタというこの異型のバンドを表すにはいかにもなエピソードであることは間違いない。そう、マーズ・ヴォルタとは、「体験」としての何らかの強烈なイメージを皮膚感覚だけを頼りに音として具現化する、非常にアーティスティックな創作集団である。バンドの全体的な指揮を執るオマーは旅先で学んだ宗教や製作中の不可解な現象といった本作にまつわる無形の体験イメージを有形の音像に変換すべく、その神の手を今回もかざしまくりで完璧なサウンド・デザインを作り上げている。圧巻の“ゴリアテ”で聴けるエネルギー拡大発散のカタルシスが象徴する未知的試練完全突破はマーズ・ヴォルタを確実に「次」に進ませた。世界にただひとつのバンドの実に四枚目の最高傑作と言えば本作の凄まじさは少しでも伝わるだろうか。


No.15
Forth / The Verve

The Verve-Forth
ラヴ・イズ・ノイズ、ディス・イズ・ザ・ヴァーヴ
 「本物のバンドはずっと一緒にはいられないんだ。ずっと一緒にやってるなんてリアルじゃないんだよ」と語るリチャード・アシュクロフト。その言葉通り、リアルの在り処を探るかのようにして何度もお互いを傷つけ合い、お互いを引寄せ合い、解散と再結成を繰り返したバンド、ザ・ヴァーヴ。衝撃のデビューから97年の『アーバン・ヒムス』を経て完全に沈黙すまでの狂気の四年間は、時の経過と共に90年代の神話へと昇華し、次の世代にもしっかりと語り継がれていった。そして迎えた08年。多くの伝説的なバンドが再結成を果たしたこの一年、最も完璧なレベルでそれを成し遂げたのが、このザ・ヴァーヴだった。それは「前進」を意味するアルバム・タイトルにも強く象徴されている。『アーバン・ヒムス』で鳴らされた燃え尽きる直前のピュアネスのような漂白された音像ではなく、どこまでも長大でノイズに満ちた、決して円満具足とは言い難いバンド・サウンド。長いブランクを経ての本当に久しぶりのジャム・セッションでこれが自然と出てきたというのは、それがまさにザ・ヴァーヴというバンドの本質だからだ。彼らの未来は、いつだってこのノイズの「その先」にしかなかった。人と人がリアルに繋がり合うということ。そこには当然のように摩擦が生じる。しかし、それを恐れる必要など何もない。“ラヴ・イズ・ノイズ”。彼らにとって、その摩擦というノイズとは、紛うことなき愛なのだから。


No.14
The Colourful Life / Cajun Dance Party

Cajun Dance Party-Colorful
余りにも、余りにも鮮やかな景色
 アルバム発表前から「08年最大の新人」と各誌で騒がれ上半期新人商戦の話題を完全に独占していたケイジャン・ダンス・パーティーのデビュー作。しかし、これはそのハイプな前評判の期待にパーフェクトに応えたアルバムとは言い難い。派手な包装紙を開いてみたら、そこにあったのは、なんというか、余りにもあっけないものだったのだ。そこにあったものは、やはりパーフェクトとは言い難い、拙いロックンロールの数々だった。08年、ケイジャンよりテクのある新人バンドは数え切れないくらいたくさんいた。ケイジャンより文学的なバンドも、先鋭的なバンドも、難解なバンドも、たくさんいた。それでも僕がケイジャンを評価する理由、それは、冒頭曲“カラフル・ライフ”がそのイントロのギターのタッチ・ラインだけで、“アミラーゼ”がアウトロのギターのメロディとその躍動感だけで「描けてしまった壮大すぎる何か」、としか言いようがない。それまで視界を遮っていたすべてのものが瞬時にサアッと脇に流れていくような、ロックンロールの地平からしか望めない鮮やかな景色が、決してパーフェクトではないケイジャンのギター・サウンドには広がっていたのだ。それは理屈やリアリティの問題ではない。「ロマン」と呼べば一気に陳腐になるだろうか。それなら呼び方はなんでもいい。とにかく、それは多分、とても素晴らしいことだったんだと思う。


No.13
Weezer (The Red Album) / Weezer

Weezer-Red Album
ジャケ写Tシャツ、09年も着まくります!
 『グリーン・アルバム』以降のウィーザーの作品は、どれも『ブルー・アルバム』『ピンカートン』に対する何らかのリアクション、回答のような意味合いを持っていたと思う。『グリーン・アルバム』『マラドロワ』は言うまでもなくリハビリ期間のようなものだったし、リヴァースがこれまでになく素直に心情を独白した『メイク・ビリーヴ』は長かったリハビリ期間がようやく終わりに近づいたことを伝えるアルバムだった。結果論でしかないが、だから本作がポジティヴなバンドとしてのウィーザーの極めてポジティヴなアルバムになることはある意味で当然だったのかもしれない。彼らの00年代は、ここで初めて幕を開くことができたんだと思う。実に三度目のセルフ・タイトル、その意味はやはり今回も大きい。どの作品も常に原点からしか始められない不器用な彼らだから発表時に本作が「原点回帰!」と騒がれていたのには首を捻らずにはいられなかったけど、確かにこれまでで一番自分たちの原点に意識的な作品ではある。だからといってあの頃と同じ悩みに同じように憂いでいるわけではなくて、あの頃の苦悶は受け入れるのにこれだけの時間を必要とするほどものだった、ということだ。ほとんどギャグにすらなってないこのジャケ写も最高。08年のジャケ写・オブ・ザ・イヤーはこいつら。リヴァース、子犬みたいな眼してる。


No.12
We Are Beautiful, We Are Doomed / Los Campesinos!

Los Campesinos!-We Are Beautiful We are doomed
僕たちの隠れたアンセムが詰まってる
 「世界に向かって怒鳴れ、君を愛していないこの世界に。頭を下げるんだ、そうしなきゃ生きていけないから」。“ミゼラビリア”のこの二行で決まりだった。08年2月にイギリスで正式にデビューを果たしたカーディフの男女7人組バンド、ロス・キャンペシーノス!は、現在までにすでに二枚のアルバムを発表している。10月に発表された二枚目が「僕たちは美しく、絶望的」と題された本作だ。「壁を突き破って進む方法」というタイトルの楽曲で幕を開ける本作で彼らが歌っていることは、前述の“ミゼラビリア”や「恋愛で上手くやっていく方法は相手が自分を好きなよりも少なめに相手を好きになること。いつも真剣なのは僕の方」といった、意地やプライドを捨てなきゃうまく生きていけない、壁を突き破って進むこともできない、この醜悪で軽薄な世界への諦念だ。自分に対する責任さえも放棄できた時、僕たちは初めて美しい世界の終わりを迎えることができるのかもしれない。でも、それは余りにも悲しすぎる、絶望的すぎるだろうと。しかしだからこそ、彼らはこんなにもポップで楽しげになれるのだ。みんなここに集まって来いよと。ファイティング・ポーズをとることさえ止めてしまったこの叫びは、それでも君のその息の詰まりそうな人生に亀裂のひとつぐらい作ることができるかもしれないと。何を言っているんだと思われるかもしれない。けれど、そう信じ込まなきゃ一歩も前に進めない人間だっているのだ。だとしたら、やはりそこには切実な希望があるのだ。


No.11
Beautiful Future / Primal Scream

Primal Scream-Beautiful Future
ボビー・ギレスピーとその孤独について
 プライマル・スクリームのヴォーカリストと「孤独」なんて言葉が並んでいたら、大半の人は眉をひそめしまうかもしれない。バンド・メンバーと不仲なわけでもないし世界中に多くの熱狂的なファンを持つこの男のいったいどこが孤独なのかと。実も蓋もない言い方をするならば、それは、彼が本当のロックンロール・スターだからだという一言に尽きる。まるで、何度も転職を繰り返しギャンブルと女に溺れる金の溜まらない生活を送りながらずぶずぶと墜ちていく不行者のように、作品毎にスタイルを激変させあらゆるロックンロールに片っ端から弄ばれる快感とスリルに身を浸し続ける男、ボビー・ギレスピー。彼がそんな自分の浅はかな姿を世界に晒し続ける理由はいったい何なんだろうかと思う。そしてそれは、彼が誰にも理解などされたくないからではないかと。無闇やたらに世界と繋がりたがるロックンロール・スターなんてダサ過ぎる。世界の不条理を訴え、熱い共感と支持を獲得する逞しきスター像も、彼には耐えられなかったのだろう。なぜならそれは、この世界の中で、自分が他の誰でもないという叫びなのだから。そもそも彼には居場所なんてなかったのだ。21世紀というこんなにもノー・フューチャーな世界に向かって、狼少年よろしく「君には美しい未来がある!」と大ボラ吹きまくる本作でのボビーを見ていて思うことは、そういうことである。そして、そんな世界にただひとりのロックンロール・スターの佇まいは文字通りに孤独で、それなのに、いやだからこそ、凄まじくかっこいいのだ。
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No.30~No.21

No.30
808s & Heartbreak / Kanye West

Kanye West-808s and heartbreak
迫真のハートブレイク・ストーリー
 嫌味なほどの高いエリート意識とプライドの象徴だったルイ・ヴィトンのバックパックを肩から下ろし、本作のカニエはスーツ姿でビシッと襟を正している。強い自己主張ラップも止めた。元婚約者との破局と最愛の母の他界という深い喪失感が本作でカニエを誠実にしたのは間違いない。ラップを止めたことで言葉数は減ったが、だからこそここにはカニエの傷心の核心部分に触れる本当に選び抜かれた言葉だけが並んでいる。発表予定日を大幅に前倒して即リリースしたのは、とにかく早くここから前に進みたかったということだろう。全体的にダークでメロウな楽曲が多い気がするが、そういう意味では非常にポジティヴで勇気のあるアルバムだ。09年6月には早くも次のアルバムを発表するというアナウンスもすでになされている。萎んでしまったハートの風船が再び膨らみを取り戻すのにそれほど時間は掛からなさそうだ。悲しみの淵に両足を沈めながらも動きをまったく停滞させず、むしろそこからでさえ自分を更なる高みに引き上げようとする向上心は本当にすごい。しかもそれが独りよがりな悲しみの解放ではなく聴く者がいる前提で作られた完成度の高いポップ・ミュージックになっているところはもっとすごい。プロ根性とはまさにこういう姿勢である。カニエはやっぱり本物。


No.29
All Or Nothing / The Subways

The Subways-All or Nothing
そうだ、ビビッてちゃロックンロールはできない
 06年にヴォーカルのビリーは病気に倒れ、一時は声を発することすらままならない、シンガーとして危機的な状態にあったという。なんとか回復した後にも、デビュー以前からの付き合いでビリーの創作のパートナーでもあるシャーロットとの8年越しの関係の破局があって、少なくとも彼個人としては本当にどん底の気分だっただろう。表現や比喩ではなくて、本作製作中、ビリーは本当に涙を流していたという。それでも、彼らはサブウェイズを止めなかった。ブッチ・ヴィグという運転手を乗せてとにかく未来に向かって加速することを選んだ彼ら。ビリーのギター&シャウトもシャーロットのベース&コーラスもジョシュのドラミングも、すべての音が「突破」への尋常じゃない意志と覚悟の本気さを伝えている。家族や友人がいる居心地の良い場所からわざと自分たちを遠ざけるために、本作のレコーディングはブッチ・ヴィグの住んでいるLAで行われた。タイトルとジャケットも良い。ここには「迷い」というものの入り込むスキが1ミリもない。火を吹きながら、それでも加速を止めず、「今、ここ」から「その先」へと飛び出す捨て身の勇気。これは、どん底からの奇跡の帰還なんかじゃない。これこそが、ロックンロールだということなのだ。そう、このアルバムは奇跡じゃない。このアルバムは希望だ。


No.28
Rockferry / Duffy

Duffy-Rockferry.jpg
音楽は永遠になりうる
 いつの時代にも普遍的に愛されるような強度を持った音楽が極端に少なくなったと思う。ロックの世界でも常に変化と革新が求められ、ニュー・レイヴとかニュー・エキセントリックとか呼ばれる新世代バンドのほとんどがその刷新性を売りにしている。古典的なスタイルのものでさえ、懐古主義ですらないレトロと軽々しくもてはやされ、特にイギリスでは近年のトレンドにまでなっている。しかし、M.I.A.がそんなシーンに対して露骨に嫌悪感を示しているように、それもどう考えたって一過性のブームでしかない。だから、08年、ダフィーの登場はとてつもなく大きな意味を持っていた。現代社会から隔絶されたウェールズの片田舎で、楽器もボイス・レコーダーも使わずに頭の中だけで自分の求めるポップ・ミュージックを鳴らし続けた彼女。レトロとクラシックに明確な定義分けをした上で、クラシックな歌を歌いたいと語る彼女の歌は、まさにそういうものになっている。ギミックもトリックもない普通のラヴ・ソングが、「それ以上」の輝きを放つ時、そこには流行りも時代性も関係のない強力な引力が働くものなのだ。真に優れたポップ・ミュージックとは、それそのものが、すでに特別な存在なのだ。この奇跡のような歌声を聴いていると、永遠は本当にあるかもしれないと思えてくる。


No.27
Strength In Numbers / The Music

The Music-Strength In Numbers
ザ・ヒューマン
 まだたったの二枚しかオリジナル・アルバムを発表していないバンドには致命的とも言える四年という長いブランクを経て発表された、ザ・ミュージックの08年作『ストレンクス・イン・ナンバーズ』。この四年間、彼らは自分たちひとりひとりがザ・ミュージックというバンドのかけがえのない一員だということ、そしてそこからしか始まらないコミュニケーションに集中したという。今更、と思われるかもしれないが、ザ・ミュージックとは、そういうバンドだったのである。音楽好きな仲間でジャムってたら“ザ・ピープル”できちゃった、という極めて偶発的で不定形なバンドだったのである。誰も予想できなかったファーストのそんな成功劇から一転してセカンドで辛酸なめ尽くした彼らは、だからこそここで初めて自分たちの音楽と人間関係に意識的にならざるを得なかった。そうこれは、自らを「音楽」と掲げた四人の若者たちの、再生の物語である。ロブは本作制作を経験し、「他の三人なしじゃ僕なんか何の価値もない人間なんだ」とまで語っている。ファーストは音楽が彼らの過去や人格から乖離して独りでに暴れまくっているようなアルバムだったが、音楽とは本来それを歌い演奏する人間のすべてを背負う切実なコミュニケーションである。このグルーヴを感じろ。その高揚はまるで、人間と音楽そのものの誕生を告げているようではないか。


No.26
Pretty. Odd. / Panic! At The Disco

Panic At THe Disco-Pretty Odd
虚構の世界は自由自在
 リード・シングル“ナイン・イン・ジ・アフターヌーン”で「すべての始まった場所に戻ろう」と決意表明したパニック!アット・ザ・ディスコ。血塗られたウェディングに盛り上がる陰湿な地下劇場から原点の稽古場へと舞い戻った彼らが何度もリハを繰り返し、ようやく手に入れた新たなペルソナがこれ。ここでいう原点とは、デビュー作のことではもちろんなく、「エキサイティングなことがしたい。楽しいことがしたい」という、バンドの最も根源的な部分を支配する極めて単純な欲求だ。前作のダンス・エモをあっさりと脱ぎ捨てて、彼らが本作でビートルズの仮面をかぶっていかにも幸福そうなミュージカルを始めたのは、つまりはそういうことだ。「エモの寵児」と呼ばれ祭り上げられた経験を一切引きずることなく、それでいて眩しい陽の光の打ち付ける表舞台で力強く生きていくことを高らかに宣言するかのような本作のしたたかさには本当に関心。役の性格に呑まれることなく自然体でサラッと演じている様子を見ているとやっぱりエモは彼らの本質ではなかったんだと思い知らされる。そう、前作で彼らが纏ったエモは単なる「衣装」でしかなかったのだ。狂った方位磁針みたいに極端から極端を指し示すこの規格外の才能が今後どんな役を食って育っていくのかとても楽しみ。


No.25
Third / Portishead

Portishead-Third.jpg
虚空を満たさない音楽
 タイトルが良い。通算三作目の本作に、『サード』。一世を風靡したデビュー作『ダミー』から14年、前作『ポーティスヘッド』から11年、その間メンバーは音楽そのものから身を引いた時期もあったという。世紀を大きく跨いで発表された本作で、それでもポーティスヘッドは律儀にあの頃の続きを始めようとしている。「トリップホップ」も「ブリストル」ももはや意味を成さない場所で、自分たちにまだ鳴らすべきものはあるのか。描写すべき闇は残されているのか。21世紀というポーティスヘッドにとっての新時代に、これまでとは違う新機軸をもうけるわけではなく、だからこれは「変化」や「刷新」ではない「進化」であり「深化」である。腹に重く響くダブの要素が軽減したせいで、ちょっと聴いただけでは闇の濃度が薄まってしまったような気がするかもしれない。しかしこれは彼らがヒップホップやテクノのリズムを空白の月日の間に解き明かしたとしか思えない、ポーティスヘッドでしかないグルーヴを保っていて、その質量は変わっていないどころかむしろ増しているぐらいである。何度も発表&延期のアナウンスが繰り返されもう実現しないんじゃないかとまで思われていた本作は、完成が事実となったことそのものが非常に重い意味を持つアルバムである。そして、世界はやはり、今もなお満たされていなかったのである。


No.24
Dear Science / TV On The Radio

TV On The Radio-Dear Science
世界よ、今こそ恐怖から解放されよ
 08年、アメリカには新しい大統領候補が生まれた。「チェンジ」を掲げながら、アフリカ系アメリカ人として初めてアメリカ大統領選挙に勝利したバラク・オバマ。このセンセーショナルな出来事がすべてを解決するわけではないが、本当にこれから何かが変わるんだ、という良い意味での緊張感はこんな極東の島国にいても十分に感じ取ることができた。そして、そんな時代の流れを象徴するかのように、米ローリング・ストーン誌とスピン誌が08年のベスト・アルバムに選んだのは、TVオン・ザ・レディオのこのアルバムだった。時として、変わらないことは美徳だと言われる。そこには変わることによってもたらされる何らかのネガティヴに対する恐れも多分に含まれているだろう。そう、変革には尋常じゃない勇気がいる。それは紛れもない恐怖だからだ。本作に“ファミリー・トゥリー”という印象的な楽曲が収録されている。「家計図」のことである。そこで歌われているTVオン・ザ・レディオのメッセージとは、深い血の繋がりを断ってでも現状を変えようとする強烈な決意と覚悟だ。戸惑っている場合ではない。何かが変わらなければ、このくだらない連鎖は永遠に終わらない。それによってすべてが灰となってしまっても別に良いじゃないか。僕たちはまた一からやり直せる。TVオン・ザ・レディオが言っているのはそういうことだ。終わらない探求の学問である「科学」もきっとそういうものだろう。


No.23
Með Suð Í Eyrum Við Spilum Endalaust / Sigur Rós

Sigur Ros-Med Sud
またここから始まる
 前作『Takk...』の時点ですでに彼らが音楽と向かうという意味が以前のような「逃避」ではなく「祝福」に変わりつつあることは告げられていたから、通算五作目となる本作がある程度解放的な内容になるであろうことは予測できていた。が、まさかここまでとは思わなかった。故郷アイスランドを離れて世界各地のスタジオでレコーディングを行い、初めて正式なプロデューサーを立て、アートワークを外部のアーティストに依頼して出来上がった本作。その完成までのプロセスは、これまで以上に彼らに他者とのコミュニケーションを強要したはずだ。その結果が、外部から身を守るようにして閉じこもるのではなく、外の世界に一歩一歩踏み出していこうとする勇気と躍動感へとちゃんと昇華されていることに驚いた。シガー・ロスと言えば世界一と言っても過言ではないほど内気なバンドである。やはりその変革の意味は大きい。そして、そんな興奮が7曲目の“オール・ボート”で天にも届きそうな絶頂感へと達した以降、僕たちに残されているのは透き通るような静寂に身を沈めることだけだ。外の世界との交わりが彼らにもたらしたものが、混乱ではなく安寧と充実感だったことを告げているかのような感動的なフィナーレだ。シガー・ロスが完全に新たなフェーズに突入したことを意味する重要作にして問題作。


No.22
Conor Oberst / Conor Oberst

Conor Oberst-Conor Oberst
僕たちは独りでは生きていけないから
 ブライト・アイズの07年作『カッサダーガ』からわずか一年という短いスパンで届けられたコナー・オバーストの新作は、実に13年ぶりのソロ名義作だった。新たにミスティック・ヴァレー・バンドを編成し、アメリカを一時離れメキシコ山中で制作された本作がコナー名義になっているのは、ただ単にマイク・モギス(ブライト・アイズのメンバー兼プロデューサー)がプレイしていないからという理由それだけらしいが、実際にブライト・アイズの緊張感から解放されたかのような終始リラックスしたムードが貫かれている。良い具合に肩の力が抜けたバンドの演奏にもほとんど手を加えずに生き生きした感じがそのままシンプルに採用されている。けれども、曲を書いているのはあのコナー・オバーストである。もちろん本質的なところは変わりようがない。ここは本当に自分のいるべき場所なのか、もっと他の場所に行けるんじゃないか、という自分自身に向けられる恐ろしく根源的な問いはこんな文字通りの小休止的な作品でもどうしようもなく行間から滲み出してくる。コナーが歌い続けるということ、それはつまり、その自問の継続と、それこそが「生きる」ということを意味しているのだ。ままならない人生。引き裂かれる関係。自分の居場所で頭まで安心安全に浸れる人間などいない。コナーの震える声と言葉は、今夜もあなたの心の孤独を鋭く射抜いてしまうだろう。


No.21
The Glass Passenger / Jack’s Mannequin

Jacks Mannequin-Glass Passanger
ロックはここから始められる
 発売時のレヴューでも書いたことだが、ジャックス・マネキンことアンドリュー・マクマホンが本作のことを「ひとりの男が、自分が病であることを認められるようになるまでの物語」と呼んでいたその言葉が今でもずっと心の中に居座り続けている。実際に白血病に倒れ闘病生活を送っていた彼だが、ここでいう「病」とは、もちろんそんな文字通りの病気のことではない。劣等感でも無力感でも孤立感でもそんなネガティヴな弱さなら何でもいい。自分の弱さを前にして、これまでの彼は強がることでそこから目を背けることしかできなかったのだと思う。きっかけなんかどうだっていい。自分の弱さをそのまま「弱さ」と初めて認められた時、「僕は生きている」という丸裸なまでに根源的なその叫びは男を解放へと導く恵風に吹き変わったのだ。歩いては立ち止まってを繰り返しながら何とか前に進もうとする僕たちは、それでも足元を見つめ直してみれば結局のところ自己という「ここ」からは一歩も動けていない。弱さは、いつだってすぐそこにある。アンドリュー・マクマホンを取り囲む環境は何ひとつ変わっていない。それでもこのアルバムがまるで若手バンドのファースト・アルバムみたいな瑞々しさで眩しいのは、弱さを抱え込んだ自己という「ここ」からなら何だって始められるということに彼自身が初めて気付けたからだ。個人的な思い入れでは余裕でベスト10入りの大傑作。いつ聴いても泣けてくる。
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No.40~No.31

No.40
Only By The Night / Kings Of Leon

Kings Of Leon-Only By The Night
ロックンロールの正しさを伝えるために
 07年の前作『ビコーズ・オブ・ザ・タイムズ』とまったく同じ制作陣・方法論で作られた通算四作目。自分たちの成功と成長を自覚したバンドがそこから更なる深化を目指したアルバムだ。本作もこれまで通り本国アメリカよりもイギリスの方でバカ売れした。前作よりもアレンジの幅を利かせ、シンプルでオーソドックスなロックンロールを守りながらも圧倒的な広がりを持ったキングス・オブ・レオン節満載の楽曲が出揃っている。ここには、スタジアム・バンドとしての輝かしい未来しかない。多くの観客を一度に引き付ける力を持った彼らの音楽のダイナミズム、それはいったいどこから溢れてくるものなのだろうか。U2やパール・ジャムなどのワールドワイドに活躍するスタジアム・バンドと共にツアーを回った経験が彼らの音楽に大きく作用していることはひとつ間違いない。キリスト教プロテスタント教会の一派であるペンテコステ派の伝道師を父に持つ彼らの幼少期は移住を繰り返す旅のようなものだったという。キングス・オブ・レオンはそんな特異な環境で育った三兄弟と従兄弟で構成された、ある意味でものすごく閉じられたバンドだ。ロックンロールこそが学校だったという彼らにとって、これはそんな閉じられた生活のたったひとつの「正さ」だったのだろう。そして、それはついに「みんなの」共有物になろうとしているのだ。


No.39
Off With Their Heads / Kaiser Chiefs

Kaiser Chiefs-Off With THeir Heads
カイザー・チーフスがカイザー・チーフスたる所以
 元々独特のリズム感を持っているバンドだとは思っていたけど、ここまで「踊る」ことに照準を絞ってくるとは思いもよらなかった。カイザー・チーフスのサード・アルバムはほとんどの楽曲がダンス・ミュージックとしての強烈な躍動感を誇示するアグレッシヴな作品となった。ファースト、セカンドを共に作り上げた大御所スティーヴン・ストリートと袂を分かち、新たにマーク・ロンソン&エリオット・ジェームスをプロデューサーとして人選したことも大きいのだろう。セカンドで楽曲のレベルでは確かな飛躍があったが根本的な変化が何もなかったぶん、本作の意欲的な姿勢には驚きつつも喜ばずにはいられなかった。シンプルながらも大きな広がりを持ったシンガロング必至のメロディはそのままに、ダンス・ミュージックの一体感とグルーヴを手に入れた本作からの楽曲はスタジアムでも強力な武器になるだろう。そもそもがとあるクラブで友情を深め合った仲間が集まってバンドを結成し、長い下積み期間を経て念願のブレイクを果たしたカイザー・チーフス。これまで「第二のブラー」とか「ブリット・ポップの再来」とかなにかとリバイバルの文脈で語られることの多かった彼らだが、このバンドのユニティはやはりこれだったのである。原点回帰が切り開く未来。それは、これがリバイバルではなく、カイザー・チーフスの本当のオリジナリティである証拠だ。


No.38
The Age Of The Understatement / The Last Shadow Puppets

The Last Shadow Puppets-The Age Of The
計算すらされていないパーフェクション
 別に過小評価しているわけではないしアレックス・ターナーの才能にはいつもグウの音も出ないほど圧倒させられてしまうけど、それでもアークティック・モンキーズは僕にとっての特別なバンドではないし、まあ好き勝手やっちゃってよ、ぐらいの遠い立ち位置から無責任に見守っているのが本当のところだ。完璧に構築された破綻のない音楽なんて、正直言って僕にはどうでも良いものなのだ。だからと言って簡単に無視できる才能では絶対にないのでこんなところに入れてしまった。僕のこの煮え切らない中途半端な評価がそのままアレックス・ターナーという破格の才能の手のつけられなさを物語っているとも言える。ちなみに07年のベスト・アルバムではアクモンのセカンドはNo.22に入れました。まあ、そういうことなのです。本作は、アレックスがすでに絶対的な評価を獲得し作品を発表すれば即座に多方面からメスが入れられてしまうある意味で自由を失ったアクモンを離れ、気心の知れた親友マイルズ・ケインと共に再び野放図な自由を手に入れてしまったら、天才の才能はやはり爆発してしまった、というものだ。若干21歳の青年が作った、完璧に構築された、破綻のない、完全な60年代音楽のポップ・スタンダード。それもモノマネに喰われたりはしない、むしろ喰ってやったような、趣味なのにそれを遥かに超越した奇盤。


No.37
Moon Rock / Paul Steel

Paul Steel-Moon Rock
世界にただひとつの魔法
 年間ベストでこのアルバムをこんな上位に入れてるメディアはどこにもないだろうな……なんて思ったりするけれど、僕はUK・ブライトンから現れたこの若干22歳の新星ポール・スティールを全力で支持するつもりだ。何か文句あるか。自分は、劣等感の強い子どもだった。学校の成績は特に良くもない、真面目で大人しいけど面白味のない子どもだった。おまけに何で自分はこんなに変な顔なんだろう、もっとかっこよく生まれれば良かったのに、と毎朝鏡の前で絶望しているような子どもだった。今でも状況は何ひとつ変わっていないけど、考え方だけは変わったと思う。頭が良いとか、イケメンだとか、そんなもんはくだらない魔法だ。金と時間を掛ければ、誰だってそれなりに頭も顔も良くなるさ。そう、本気で使おうと思えば誰にだって使える魔法なんだ。ひとりのちっぽけな男が『ムーン・ロック』だなんて妄想を逞しくしたところで、世界には何も関係のないことだろう。その妄想が生きる上での本質的な行いでないことはわかっている。けれど、『ムーン・ロック』、これは、世界でたったひとりのポール・スティールという男にしか使えない、オリジナルな魔法だ。僕にだってきっと僕だけを救う僕だけのオリジナルな魔法がある。何よりも大事なのはそんな自分を信じる勇気なんだと歌ってくれるこのアルバムが、僕は大好きです。


No.36
Friendly Fires / Friendly Fires

Friendly Fires-Friendly Fires
無限のポップ・ミュージック
 ストロボの閃光が映し出す、万華鏡のような目眩く音世界――。ニュー・レイヴ以降のそんな楽観的なフューチャリズムを鳴らすバンドとしては異例の音楽遍歴を持つ三人組、それがフレンドリー・ファイアーズだ。バンド結成当初はアンチ・ポップの代表格ともいえるポスト・ハードコアから発展し、ポスト・ロックやシューゲイザーやエレクトロニカなどの過剰な変遷を繰り返しながらも彼らが行き着いた場所はここだったのである。どうやら非常にストイックな音楽ばかり聴いていた時期もあったようだが、その経験が彼らをポップに対して厳しく批判的な人間にすることはなく、本人たちはむしろ新たな才能としてポップ・ソングを書くということをポジティヴに受け止めている。そのあっけなさというか臆面のなさが“パリス”などのポップで抜けの良いダンサブルな楽曲を自然に書けてしまう所以か。ポップ・ミュージックを「現実逃避」とスパッと言い切ってしまう彼ら。ポスト・ロックとかシューゲイザーにもそんな一面はあったな、と思う。というか、決して本質ではないが、ロックそのものがそういった要素を少なからず孕んでいることは間違いない。ポスト・ロックとかシューゲイザーが信念を頑なに守り抜くことで手にしようとしたロマンを、彼らは豊かな想像力で掴み取ったということだ。


No.35
19 / Adele

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喪失の歌姫
 このアルバムの収録曲のほとんどは、彼女がかつて付き合っていたひとりの男性に向けられたラヴ・ソングで占められている。収録曲の実に九曲は、相手の浮気が原因で二人の関係が破綻してしまったまさにその時期に書かれている。クリエイションの源はエリック・クラプトンと似ているのかもしれない。悲しみの淵で立ち尽くした彼女は、ギターを抱え、言葉を吐き出すしかなかったのだと思う。イギリスでは当然のように一位を獲得し、アメリカでも大きなヒットを記録した本デビュー・アルバム。特に端正な顔立ちなわけでもないひとりの女性が身を切るようにしてひとりの男性への思いを告白した非常にプライヴェートな内容である本作が、どうしてこんなにも広く世界中で支持されたのだろう。普通の恋愛をし、普通の破局に普通に悲しんだ彼女の普通のラヴ・ソング。でも、そこに普通じゃない歌声が乗せられた瞬間、ここに収められたラヴ・ソングは『19』という消えない傷跡にも似た永遠の刻印としてすべての時を止めてしまった。彼女はすでに20歳になってしまったが、“チェイシング・ペイヴメンツ”は再生ボタンひとつで何度でも彼女の終われない19歳を繰り返し続けるだろう。アデルの歌声を体感してみて欲しい。喪失の雷に打たれたあなたの心はきっと、その膨大な悲しみに感電する。


No.34
Konk / The Kooks

The Kooks-Konk
とにかく“スウェイ”を聴け
 どうしようもなく溢れてくるメロディを、その勢いにまかせてただがむしゃらにガチャガチャ鳴らしていた若く奔放なバンドが、自分たちのメロディに自覚的になり、音の構成にまで磨きをかけようとしたらいったいどうなるか。クークスのセカンド・アルバムである本作は、そんな試みが見事に結実した素晴らしい作品である。ルークは音に空間性を求めたと言っていたが、要はメロディを核に据えたまま、立体的な音の立ち上がりを見せたかったということだ。実際に、曲が盛り上がれば盛り上がるほど音の存在感が高く屹立するような、ギターとベースとドラムだけの極々基本的な組み合わせなのにものすごい高揚感を見せる。でも、空間処理うんぬんなんて本当はどうでも良いのだ。このアルバムが素晴らしいのは、そこにロックンロールの突破の熱さがほとばしっているからだ。ファースト・アルバムの『インサイド・イン/インサイド・アウト』は良くも悪くも大人しいアルバムだった。音が静かとかそういう意味ではなくて、バンドとしての向上面において、彼ら自身がまだ意識的になれていなかったのだ。でもこのアルバムは違う。セカンド・アルバムに付き物のプレッシャーも大きかっただろうが、それを正面から突破する力強い意思が感じられる。クークスが本作で手に入れたロックンロールの本当のグルーヴとは、そういうものだ。


No.33
Melodia / The Vines

The Vines-Melodia
本物の才能は繰り返される
 シドニーが生んだ世界一の無自覚・無意識・無責任ロックンロール・シンガー、クレイグ・ニコルズ。ロックンロールへの欲求のためなら自分を傷つけることさえ厭わなかった彼の、ロックンロールをするためだけに生まれ持ったかのような才能は、その無自覚・無意識・無責任さ故にバンドのキャリアを余りにもはっきりと光と影の極端で塗り分けてしまった。真っ黒に塗りつぶされた内省と暗黒の極点を映し出した前作『ヴィジョン・ヴァリィ』からいつもどおり約二年ぶりに発表された本作は、クレイグ・ニコルズというトゲだらけの才能が見事に返り咲いた華々しい復活作となった。もうとにかくひたすら曲が良い。“ゲット・アウト”や“ヒーズ・ア・ロッカー”のような刹那を更に切り刻む得意の必殺チューン満載、14曲を32分で突っ走る恐ろしく風通しの良いアルバムだ。しかし最も印象的なのは“トゥルー・アズ・ア・ナイト”の存在。ほとんどが2分前後の収録曲の中で唯一6分を消費するこのバラードは、瞬間を生きてきた男がまるでロマンティックな永遠に思いを馳せているみたいで興味深い。とは言えクレイグの才能の本質はまったくと言って良いほど変わっちゃいない。一曲一曲が音楽の破壊と再生。ここまですべてがポジティヴな方角を向いているのはデビュー作以来か。


No.32
Music For An Accelerated Culture / Hadouken!

Hadouken!-Music For An Accelerated Culture
プレイステーションから飛び出した僕たちのヒーロー
 07年に引き続き08年にも多くのニュー・レイヴ系バンドがデビューを果たしたが、その多くが無駄にギャラクシーな雰囲気を纏ってそれらしい音を鳴らしていた中で、ハドーケン!はそんなムードだけの連中とは明らかに違っていた(バンド名とジャケはアホらしいけど)。そもそもニュー・レイヴには言葉の意味がなさ過ぎである。ジェネレーション・ミュージックから言葉がなくなってどうする。そういうわけで、ハドーケン!は本物である(バンド名とジャケには説得力がないけど)。都会の暗がりの奥底から若者の心を狙い撃ちするようなとにかく軽やかで素早い言葉とサウンド。そこにはこんなんで終わって堪るかという反骨精神もちゃんと宿っていて、刹那に散っていく若者文化にムードの共有だけではない意味を持たせようとしているところが良い。ネットの普及によって様々な文化・事象がいとも簡単に驚くべきスピード感覚でクロスオーヴァーを成しえてしまう21世紀というこの加速時代。バンド名とジャケのくだらなさが手伝ってか「突然変異」として扱われがちな彼らだが、これはむしろますますスピードを上げて進み続ける新時代の「正しさ」である。乱雑なクロスオーヴァーは一見節操がなさそうだが、そんな中からでも意識は確かに生まれている。僕たちはただこれにしがみついていくしかない。


No.31
22 Dreams / Paul Weller

Paul Weller-22 Dreams
人生の深まりがひとつの物語を作っている
 ミュージシャンだって年を取れば普通のオヤジである。体のことだって気になる(ツェッペリンは復活ライブで温かい紅茶を飲んでいたらしい)し、若い頃と同じようにはいかないだろう。過去の功績にしがみついて自分を絶対化した挙句に一番惨めな結果に終わることだってある。77年のジャム『イン・ザ・シティ』から31年、昨年5月に実に50歳の誕生日を迎えて枯れていくどころかいっそう色鮮やかに才能を開花させていく永遠のモッド・ファーザー、ポール・ウェラー。08年、彼が発表したソロ9作目となる本作は、めでたく全英一位の快挙を成し遂げた。しかしその内容は過去の栄光の焼き増しなどではなく、「挑戦」の一言が似合う非常にアグレッシヴなものだった。歌モノにこだわり続けた彼にしては珍しくインスト曲が何曲か挿入され、アレンジも幅の利いた多彩でスペクタクルなアルバムになっている。守りに入ったとしてももはや誰も責めないだろうに未だに自分の表現を深めようとするこの姿勢にはホント頭が下がります。オアシスのノエル&ゲムやグレアム・コクソンなど制作に参加した愛弟子たちは今回も錚々たる顔ぶれだが、それも彼の人徳のなせる業だろう。決してコンセプト・アルバムではないが、夢のようなカラフルな音楽体験をした彼が再び家に帰ってくるような、一枚で聴かせる感動的なアルバム。
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No.50~N0.41

お待たせしました、いよいよ『08年ベスト・ディスク50』の発表です。
08年も多くの優れた作品が発表されましたが、僕の思うベスト50はこれです。
選考基準はいろいろとあります。
そんな中でひとつ強い理由を挙げるなら、
それは、「ポップであること」、です。
ここにもいろんな意味があります。
説明すると長くなるので、もう早速紹介。
今日はNo.50からNo.41までの十枚です。

No.50
We Started Nothing / The Ting Tings
The Ting Tings-We Started Nothing
ちなみに僕はラヴフォックスちゃんの方が好きです
 08年も多くの有望な新人バンドがデビューを果たし、新たなシーンを形成しながらロック界を熱く盛り上げてくれた。そんな中にいて、ザ・ティン・ティンズの毛並みは明らかに他と違っていた。超うさん臭そうなムサ男と超キュートな女の子というなんとも言い難い凸凹コンビぶりも印象に残る存在感を放っていたし、モデルの仕事もしているケイティの独特のファッション・センスはそっちの世界からも注目を浴び、日本ではバンド名についての熱い議論が勃発したりして、とにかく08年のエンタメ界で彼らは欠かせないキャラクターになっていた。ローファイでシンプルでフレーズの繰り返しが多くて、エレポップと呼ぶにはいささかチープで、かと言ってギター・ロックでもなくて、CSSのファーストみたいになんとも形容し難くて、どこにも属さないちょっと浮いた感じのするその音楽は、まさに彼らの独特の存在感そのものだ。それが「中途半端」ではなく、歴とした「個性」になっている。シングル&アルバム共にまさかの全英一位を獲得したというのは本当に驚きだが、そのアルバム・タイトルが「うちら何もしてないよ」って。なんだか一杯食わされたような。08年、とにかく浮きまくっていた新人。それでも僕はケイティちゃんよりCSSのラヴフォックスちゃんの方が好きです。


No.49
The Script / The Script

The Script-The Script
どん底からこみ上げるピュアネスの音楽
 マルーン5のデビュー・アルバムなんてそれの最たるものだが、モダンかつスタイリッシュなR&B的リズム感と木漏れ日のようなピアノのメロディが描き出す切なさなんて、極めて表層的な音楽である場合がほとんどである。BGMには良いかもしれないが、ひとつの作品を聴き込んで深い世界観に浸る、なんて代物とは程遠いものだ。08年にデビューしたアイルランド出身の三人からなるザ・スクリプト。N.E.R.D.のサポート・アクトを務めた経験があるだけあって、ヒップホップからの強い影響を受けたその独特のリズム・センスはこのデビュー作の時点ですでに磨きが掛かっている。一聴しただけでコマーシャルなポテンシャルの高さがわかる高純度・高感度な音楽だが、彼らの場合、深奥部でうずく根強い絶望感が一見表層的なそのオシャレ系ミュージックに特別な深まりを与えている。そして、彼らの抱え込んだ絶望は“ウィ・クライ”という普遍の名曲の下に、人々の共有すべき悲しみへと発展する。すなわち、「俺たちは」泣く、と。人と人とを強烈に繋ぐ彼らの音楽は、そのまま彼らの絶望の救済になっているのだ。非常に貧しい地域・タフな状況の中で育ってきた彼らにとって、音楽は文字通りの憧れであり希望だったという。音楽への無償の信頼に満ち溢れた素晴らしい一枚。信じる者はやはりこんなにも強い。


No.48
Ladyhawke / Ladyhawke

Ladyhawke-Ladyhawke.jpg
したたかな魔法
 レディホークとしてはこれがデビュー作となるピップ・ブラウンだが、もともとパンク・バンドやエレクトロ・ハウス・ユニットにも参加していたという彼女は現在27歳と新人女性シンガーとしては決して若くない。ファッションにも音楽スタイルにも80年代からの強い影響が窺えるが、別に多感な10代を80年代に過ごした世代ではない。僕たちには理解し得ない個人的な思い入れ・譲れないものがあるのだろう。小さな頃から極端にシャイで友達もいなくいつも独りぼっちだったという彼女。ネコとゲームだけが友達だったという彼女の幼少期をそのまま絵にしたようなアートワークは印象的だ。そこに描かれている彼女の姿が「かつて」ではなく「現在」であるという事実が、重い。そこで彼女が夢中に遊んでいるゲームは、最新機種などではなく、スーパーファミコンなのだ。これがWiiとかPS3だったりしたら、意味はないのである。言うまでもなく、閉じた世界の中で孤独と共に過ごす時間が長かれば長いほど、人は自己を強固なものへと育てていく。そんな人間が、自分がそんな人間であることを隠すことなく人とコミュニケーションを図ろうとするとき、そこには奇跡が宿るものなのだ。これはレトロとか懐古主義なんていう穏やかな懐かしさとは無縁のものだ。奇跡は、ひとりの少女の時を止めたのだ。


No.47
That Lucky Old Sun / Brian Wilson

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「それでも続ける」ということ
 古巣キャピタル・レコードに戻り、夏、サーフィン、女の子、カリフォルニア、という極めて陽性なビーチ・ワードを散りばめ、66歳を迎えたブライアン・ウィルソンは本作で再び青春を取り戻した。これはブライアン・ウィルソンのソロ作品というよりも、ほとんど『ペット・サウンズ』以前の、ブライアンが壊れ始める前のビーチ・ボーイズだ。このアルバムを聴くと、40年近くも凍結してしまっていた『スマイル』の物語は、ようやく解凍されたのだなと思う。過去をかなぐり捨て、まったく新しい物語をスタートさせるのではなく、一生消し去れない「あの頃」にあえて戻り、そこから再びポジティヴにやり直すということ。ブライアン・ウィルソンの頭の中で音楽は究極的にこう鳴り響かなければいけなかったのだろう。そう、終わってしまったものは、二度と取り返せないものは、もう一度始めからやり直してしまえば良い。もう一度「あの頃」に戻れば良い。それは絶対に後ろ向きな行為ではない。過去を引きずることも、そんな自分に絶望することも、絶対に不健全な行為ではない。引きずることがもしいけない行為なのだとしたら、このアルバムがこんなにもキラキラして瑞々しいわけがないじゃないか。忘却の果てに希望があるのかどうかは僕にはわからない。でも、「それでも続ける」ということ。その先に、ロックンロールの希望はある。


No.46
Christmas On Mars / The Flaming Lips

The Flaming Lips-Christmas On Mars
最高のクリスマス・プレゼント
 オリジナル・アルバムですらない映画のサントラをこんなところに入れてしまって申し訳ない。完全に個人的な趣味です。すんません。ほんとにフレーミング・リップス好きなんです。ウェインが監督を務めメンバーやバンド・クルーもこぞって参加した映画の方はもう笑いが出るほど安っぽかったけど(それでもさすが、内容はめちゃくちゃ良い映画だった)、こっちは本業だけあってやっぱりすごい。そもそもが音の魔法でファンタジーを創造するバンドである。ファンタジー映画のサントラなんてほとんど御家芸のようなものだ。とは言ったものの、もちろんいつものリップスそのまんまではなくて、オーケストラを全面に押し出し幻想的なところを残したままのリップスの音楽から言葉やビートといった具体性を抜き取ったかのようなこの夢見るようなサウンドは、言ってみればリップスが描く銀河の抽象画だ。暗くだだっ広い空間に、今そこで音が鳴っているということそのものがすでに奇跡なんだ、とでも言うかのような美しくも儚い世界観。唯一の言葉である楽曲名は、絶望、孤独、自殺などのネガティブ・ワードで溢れているが、音楽そのものがそんな暗さを片っ端からいとも簡単に逆転させていく。音楽が降り注ぐとき、不可能は可能に変わる。音に、光を感じる。


No.45
Punkara / Asian Dub Foundation

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ADFを繋ぐ強さ
 ディーダー不在の状況でADFならではのグルーヴをいかにして鳴らすか――。00年以降の彼らの創作活動の重大な課題であったそれを、新メンバーを加えあっけないほど鮮やかにクリアーしたのが03年発表の傑作アルバム『エネミー・オブ・ジ・エネミー』だった。そこから一枚のアルバムを挟み、更なるメンバー・チャンジも経験したADF。そんな彼らから08年に届けられた通算6作目となる本作は、『エネミー・オブ・ジ・エネミー』に勝るとも劣らない、楽勝で及第点の快作となった。パンク+バングラ=『パンカラ』というアルバム・タイトルが示すとおり、政治的ステートメントよりも音楽集団としてのADFの特性が強く打ち出された作品である。ドラムンベースやエレロクトロ・ビートなどのレイヴ的要素よりもギターやベースの生音が強く押し出されているのが印象的だ。音楽集団としての、ライブ・バンドとしての自分たちの原点に立ち返り、改めて絆を深め合ったような作品。それは当然、この後に待ち受けている対世界という戦いを再び引き受ける血の契約を交わした、という意味でもある。ADFとはそもそもそういうバンドである。メンバーが変わってもその本質的な怒りが揺らがないのは、彼らを繋いでいるものが世界のクソみたいな現状へのフラストレーションだけではないからだ。彼らの過去と未来を苛烈なほどに結びつけるアジアの「血」が、もたしても熱く脈打ち始めている。


No.44
Donkey / CSS
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それでもロックは十分に重い
 前作のツアーと平行する形で作られたCSSのセカンド・アルバムである本作は、ライブの生の興奮や演奏を重視する非常にロック的な内容のアルバムとなった。そもそもが音楽的な経験など何ひとつない退屈した女の子たちとひとりのおっさんがなんかオモロイことないやろかと始めたのがこのバンドだったわけだが、素人同然の彼女たちは前作でどうしてもコンピューターやシンセサイザーに頼らざるを得なかった。多くのステージを経験しロック・バンドとしての筋力をようやく獲得できた本作ではギターの比重がグッと高くなり、前作よりも遥かにパワフルで躍動感溢れる素晴らしいアルバムに仕上がっている。CSSが面白いのは、そのバンドの変遷が、ロック・バンドとしての成長ではなく、まるでロック・バンドの誕生そのものの物語のようであるところだ。「セクシーでいることには飽き飽きなのよ!」というビヨンセの発言をバンド名に掲げる彼女たち。ライブで下着投げまわったりぴちぴちむちむちキャットスーツで登場したり、とにかく破天荒な彼女たちだが、この単純な倦怠感に責任を果たせなくなったらロックは完全に停止する。世界への危機感や社会への告発なんて立派な問題意識を持たずとも、ロックはどこからでも始められる。これからもどんどん前進していけると思うけど、CSSには彼女たちだけの目的を失って欲しくないなと思う。


No.43
Seeing Sounds / N.E.R.D

NERD-Seeing Sounds
進化する猿
 そもそもN.E.R.Dとは、それぞれにR&Bやヒップホップの深い理解と素養を持った三人のブラック・ミュージシャンが集まってロックンロール・バンドとしてのグルーヴを手に入れるための道程だった。一度完成させた作品を本物のロック・バンドに演奏させて作り直したファースト。彼ら自身が実際に楽器を手に取りロックンロールの本当の肉体性とセクシーさを再現したセカンド。それが、日頃ブラック・ミュージックなんて聴かない白人キッズまで巻き込む大ヒットになった時点で、N.E.R.Dはすでに正真正銘のロックンロール・バンドになってしまっていたのかもしれない。レーベルとのいざこざでバンドは一時活動休止にまで追い込まれたが、それなりに充実感と達成感はあったのではないだろうか。ファレルの無責任な発言からバンド解散の噂が囁かれたりもしたが、個人的にはそのまま解散していたとしても決して不自然なことではなかったと思っている。少なくとも、08年N.E.R.D大復活作となったこのアルバムが発表されない可能性はあった。それでも、彼らが選んだのはこれだったのだ。前作『フライ・オア・ダイ』の明らかな「次」を告げるこの機械によるサウンド・プロダクションの妙。彼らは自分たちひとりひとりの独立した成長よりもN.E.R.Dというロックンロール・バンドの更なる前進を選び取ったのだ。


No.42
Hard Candy / Madonna

Madonna-Hard Candy
標的は僕たち
 マドンナと同じく80年代に絶頂期を迎えた女性シンガーであるジャネット・ジャクソンも08年に最新作『ディシプリン』を発表したが、マドンナの『ハード・キャンディ』とジャネットの『ディシプリン』は、彼女たちが各々に表現へと向かうモチベーションの共通点と差異を図らずも浮き彫りにする作品となった。ダンスであること、セクシーであること、を基本的に共有する彼女たちの表現は、その矛先だけが大きく異なっている。ジャネットの『ディシプリン』が「規律」という自分へと向けられる厳しさなのに対し(ジャネットは『コントロール』のときからそうだった)、マドンナの『ハード・キャンディ』は言ってみればアメとムチを駆使することで、陥穽にはまってにっちもさっちもいかなくなった世界をここからどこかへ導くための怒りとエネルギーだった。ジャスティン・ティンバーレイクがゲスト参加したリード・シングルで「世界を救うには残り4分しかない!」と歌われているが、それぐらいの性急性でもって行動を起こさなければ世界は堕ちる一方だとマドンナは僕たちの尻を叩いているのだ。08年、アメリカでは史上初となる黒人大統領が誕生したが、マドンナは彼への支持を前々から表明していた。この歴史的出来事は、アメリカを、世界を、果たして変えることができるだろうか。新しい歴史は、まだ始まったばかりだ。マドンナの闘いは継続する。


No.41
Pheonix / Zebrahead

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シマウマは君のためなら空も飛ぶ
 ゼブラヘッド。僕が彼らと初めて出会ったのはいったいいつのことだっただろう。それは僕の暗黒時代、中学二年の夏ごろだった。くだらない学校に毎日通って、男子からは苛められ、女子からは嫌がられ、家に帰る前に弁当捨てて、しまいには腸に穴が開いて……本当に、本当に自分はよくここまで辿り着いたなと自分で自分を誉めてやりたいくらいの最悪の生活の中で、下ネタ全開で“プレイメイト・オブ・ザ・イヤー”なんてアホみたいな曲を全力で歌う彼らは僕のヒーローだった。こいつらは僕ひとりのためだけにこんなバカ騒ぎしてくれてるんだ、と本気でそう思い込んでいた。早いものであれから七年も月日は流れていたんだ。僕はとっくの昔にあのクソったれな中学なんて卒業して、最高の高校生活も思い出になって、気付けば大学生活は折り返し地点を過ぎていた。彼らはあれから何枚も作品を発表して、その度にファンを増やして、ボーカリストも変わって、つまりは僕も彼らも、もう七年前とはまったく違う場所でそれぞれに動いているのだ。それなのに、何なんだろう。何故なんだろう。こいつら何も変わってない。かつての僕みたいな14歳のために、「サイコー!サイコー!」「ウォオー!ウォオー!」なんて叫んでバカ騒ぎしている大人がここにはいる。キッズのために、ただそれだけのためにアホになれる大人が、今もここにはいる。
14:16 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

謹賀新年

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挨拶が遅くなってしまいましたが、あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
と普通に挨拶したらもう書くことなくなった。

さてさて、お待たせしています、『08年ベスト・アルバム50』。
次に更新する時からさっそくNo.50~No.41を紹介。
一気に十枚分レヴュー載せます。
45枚分くらいはもう書いたので、始めちゃっても大丈夫だと思います。

今年はNo.1がまだ決まっていない。
本当にわからなくて、ここ数日気に入っている十数枚を繰り返し聴いています。
プライマルのボビーは孤独なんだとか、
ベックは21世紀最後のピースだったんだとか、改めていろいろ思いました。
なんだか自分で楽しみになってきた。

『Over The Border』の下の文字を、
レディオヘッドからザ・スミスに変えました。
僕は、いつかモリッシーにこう言ってやりたい。
09年も頑張る。
00:29 | 音楽 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑
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