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今年一年お世話になりました

Over The Border-Its Up To You
これが今年最後の更新です。
ウダウダと屁理屈こねてるだけの変なブログですが、
こんなのわざわざ見てくれている方も相当に変な人だと思うので、
引き続き来年も変な感じでよろしくお願いします。
言いたいことはこんなことじゃなくて。
本当にありがとうございます。

さてさて、ただ今当ブログのサブタイトル(?)は、
07年レディオヘッド“It's up to you”になっていますが、
新年を迎えたらあるバンドのある曲名そのまんまに変えようと思います。
あと、もう数日で08年も終了と言うことで、
様々なブログで『08年ベスト・ディスク』が発表されていますが、
『Over The Border』では年が明けてからやります。
完全に出遅れてはいますが、
他のブログではできないボリュームでやろうと思うので、お楽しみに。

それでは今年最後のレヴュー。
最後は先日観た映画作品。
最後に相応しい、僕好みのオプティミズムと希望に満ち溢れている映画です。
最高の、クリスマス・ムービーだ。

Christmas On Mars
/ The Flaming Lips

Flaming Lips-Christmas On Mars
火星に降る雪はきっと温かい
 7年にも及んだ構想の季節を経てようやく完成したウェイン・コイン監督映画作。7年かけてこれか!という、ウェイン宅の庭先から始まったシュールでチープな微笑ましい作品である。でも、今の今まで記憶の傍らに常に置いたままにしてきた母親との小さな頃の思い出の「その先」を具体化する試みであった本作が、中途半端な思いで作られた代物でないことはすぐにわかる。ウェインの火星人の特殊メイクもセットも安っぽいしバンド・メンバーを始めクルーに友人や奥さんなど身近な仲間を掻き集めた役者陣は揃いも揃って大根ばかりだが(ドラムのスティーヴンは良い演技してる)、そんなことはまったく気にならない。制作費とか興行収入とか高名な役者とか、映画のダイナミックな魅力にそんなものは関係ないんだと言ってくれているみたいでなんだかものすごく嬉しい。
 とある実験のために火星にやってきた人間たち一行は、乗組員のひとりが操作を誤ってしまったせいで酸素給与装置がイカれてしまい、絶望の境地に追い込まれる。火星でなす術もない彼らの混乱、火星人との邂逅、奇跡……フレーミング・リップスの幻想的な音楽と爆音の効果音をバックに繰り広げられる火星での様々な出来事をファンタジックに描いた本作は、まるで僕たちの人生そのものを宇宙船に詰め込んだかのような果てしない広がりを持っている。記憶は幼い頃から現在まで継続してきたもののようだから、このオブセッションはウェインの成長と共に大きくなっていったものとも言えるし、これがウェインを少年の心を持ち続けたままの大人へと育て上げたとも言える。すなわち、これはウェイン・コインというひとりの人間の人生観のようなものなのかもしれない。生活はままならない。孤独はいつだってすぐそばにある。すべてが不確かなのに、いつか終わりがやってくることだけはわかっている。存在なんて無意味だ。大切な何かがひとつ失われるだけで世界が崩壊するかのように崩れ落ちてしまう不安定な僕たち。そんな、すべてを無力化する運命という宇宙に放り出された僕たちが、それでも全力で信じられるものとはいったい何だろう? ただひとつ言えることは、息も凍る寒い季節、信じる者だけに降り注ぐ奇跡のような温もりと優しさはある、ということだ。僕たちは、それを「クリスマス」と呼ぶのではなかっただろうか。
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03:19 | 音楽 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

おはようございます

森シー
朝っぱらからモリッシー。
目覚めた直後にモリッシー。

濃い。
股間をまさぐられるように、濃い。

『ユー・アー・ザ・クワーリー』。
直訳すると、「あなたは獲物」。
お目覚めは『リングリーダー~』の方にしとけば良かった。
 
You Are The Quarry
/ Morrissey

Morrissey-You Are The Quarry
標的はあなた
 97年発表の『マルアジャスティッド』から実に7年という長いブランクを経て発表された本作。ただ、それまではコンスタントに作品を発表していたものの7年という異例の長さに特別な意味はない。究極的に、21世紀もモリッシーはモリッシーでしかない、ということを伝えたアルバムだ。それ以上でもそれ以下でもないと思っている。そして、だからこそこの男の歌は恐ろしく本質的なのだ。
 本作が発表された04年といえばグリーン・デイの『アメリカン・イディオット』やコンピレーション・アルバム『ロック・アゲインスト・ブッシュ』など、結局のところブッシュは再選することになったが大統領選挙を前にして様々なロック・バンドがアクションを引き起こした特別な年だった。そして本作一曲目は“アメリカ・イズ・ノット・ザ・ワールド”である。しかしやはりこの男に政治的な意識は希薄だっただろう。ただ本作発表までのほとんどの時間をロサンゼルスで過ごしたという意味だけだろう。だとしたら、なぜこの男はこんなにも孤独を憂いでいるのか。なぜ触れるものすべてに愛憎という極端な感情を抱かずにはいられないのだろうか。「お前の腹はでかすぎる」と嫌悪感を露わにしながら、「そして僕はお前を愛している」と告白するモリッシー。誰かを愛するということ、誰かを憎むということ、それは、自分を取り巻く世界に何らかの対象を見出す、ということだ。何かと向き合う、ということはつまり、その間に幾許かの距離が横たわっている、ということである。そう、誰かを愛するとき、誰かを憎むとき、僕たちはどうしようもなく引き裂かれているのだ。セックスとは、言うまでもなく、一方が男でもう一方が女であるということを、二人が絶対的に違っているということを、認め合う行為である。そして、そんな風に引き裂かれているからこそ、僕たちはこんなにも繋がりたいのだとモリッシーは歌う。しかし、世界は、僕たちが自分たちのすぐ隣にいる存在と繋がることを極端に阻む。同性愛は、いかに自由な風潮の中にあっても社会が引き裂こうとするだろう。「あなた」という愛と憎しみの標的を作ってしまったとき、僕たちの終わらない孤独と悲劇は始まったのだ。
10:09 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

F.O.B.

フォリアドゥ
聴いた人はもう承知のことでしょうが、フォール・アウト・ボーイの新作がすごい。
あの大傑作『インフィニティ・オン・ハイ』を、まさか超えてくるなんて。
すごい。すごいぞ!
フォール・アウト・ボーイ!

この最新作を初めて聴いた時、
最初に僕の頭に思い浮かんだことは大阪の橋本府知事のいつかの記者会見だった。
あの人、「賛否両論あるなら自分が思うようにやる」と言っていた。
全国を相手にしてそう言える大人がいったいどれだけいるだろう。

フォール・アウト・ボーイの最新作のすごさは、そこだ。
そうだ、ビビッてちゃロックンロールはできない。
最後に人の心を揺さぶるのは、そこの部分の強さだ。
そういうわけで彼らの出世作をレヴュー。

From Under The Cork Tree
/ Fall Out Boy

Fall Out Boy-From Under The Cork Tree
全身全霊を打ち込んで今こそ再評価すべき傑作
 フォール・アウト・ボーイの音楽が抱えた複雑なエモーションが、普通のエモっ子みたくウジウジ立ち止まったり袋小路に迷い込んだりしないで圧倒的な上昇力でことごとく解放されていくことに関しては、ダイナミックな演奏やキャッチーなメロディなど様々な理由を挙げることができる。しかしそれはあくまでエモの基本的なフォーマットの範疇に過ぎない。フォール・アウト・ボーイの音楽が、他の凡百のエモ系バンドとは比べ物にならない燃焼率の良さを誇っているのは、その独特のリズム感から生まれる疾走感と、その先に待ち受けているジェットコースターのような絶頂感に他ならない。最新作でも“ボクのウィノーナ”などでそのセンスは遺憾なく発揮されているが、それが“ダンス、ダンス”という一大アンセムとして初めて明らかに結実したのが彼らのメジャー・デビュー作となった本作だ。ピートが書いた詞にパトリックがリズムとメロディをつけていくという方法が彼らの定番のソングライティングの手段だが、最新作に関してのインタヴューでパトリックは「リズムをどうしようとかは僕が考え込む必要はないんだ。すでにピートが書いた言葉の中にリズムが宿っている」と語っている。彼らのソングライティングにおける共闘体制が深い信頼によって成り立っていることを物語る良い話だと思う。そして、それが揺るぎない関係であり続ける限り彼らのエモーションは片っ端から解放されていくだろうし、だからこそ彼らのエモは泣かない。というか、わざわざ泣いて発散する必要がないのだ。そして、その泣かないエモは、次第に「無限の高さ」を求める自己との闘いのロックへと強く逞しく昇華されていった。彼らが最新作で手にした徹底された自己の客観視と定型を超えていく音楽の多彩さは、ここからすでに始まっていたのだ。そう、これはそもそもエモなんかではなかったのだ。
03:12 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

『幽遊白書』を超えるもの、を求めて

PLUTO-.jpg
友達に借りた漫画を読んだ。
漫画がこんなに面白いということに21歳になって始めて気付けた。
これから本当にどんどん読んでいこうと思う。
ワクワクすることが見つかって、ものすごく嬉しい。

これ、まだ完結していないけど、相当面白かった。
でも、なんだか作品の内容そのものが描いている凄まじい世界観に、
絵とかコマの流れがついていけてない気がして、
読みながら何度かつっかえる感じになってしまった。
まあそこはどうでも良いけどね。
コンディションはどんなものでも、本物からは何かが伝わってくるものです。

PLUTO
/ 浦沢直樹×手塚治虫

PLUTO.jpg
全能であることはなぜこんなにも悲しいのか
 『20世紀少年』の浦沢直樹が手塚治虫の『アトム』を原作として新たな世界観の構築に挑戦した『PLUTO』。『アトム』の方は読んでいないので「リメイク」という言葉がどれほど正確なのかはわからないし、気持ちとしてはほとんどまったく新しい物語として読んだが、これはむしろ手塚治虫『人間ども集まれ!』の印象と激しく重なるものがあった。

 『人間ども集まれ!』は、男でも女でもない「無性人間」とそれを戦争のために科学の力で作り出した人間たちとの対立と共存を描いた手塚作品である。この時点で、すでに無性人間と『PLUTO』に登場するロボットたちの間にひとつの符合点が見られる。そして、『人間ども集まれ!』の悲劇は、戦争のために生産され個性を奪われた無性人間ですらも結局のところ人間でしかなかった、ということだ。『PLUTO』に登場するロボットたちが懸念している、自分たちが徐々に人間的になっていくことに対する戸惑いは、この「非・人間から人間への接近」という構図の下に、『人間ども集まれ!』と深く共通している。そして、『人間ども集まれ!』の物語が最後の最後まで誰ひとりとして救うことがなかったのは、無性人間が無性人間として生きていくことができないのと同じように、人間もまた人間として真っ当に生きていくことはできないという絶望感だったのだ。
 そう、僕たち人間は、揺るぎのない人間として機能的に生きていくことができない。僕たちには、余りにも無駄が多すぎる。僕たちがもし「人間」という生物学上のひとつの種族として、種を繋ぐことだけに真剣になれたら、僕たちがしなければいけないことはセックスと食うことと寝ることだけである。それこそ『人間ども集まれ!』に出てくるアリの話のように、僕たちは文明の発展に尽力する働きアリならぬ働き人間と、毎日セックスだけを繰り返す女王人間と種人間とに分かれてお互いの責任を果たし合えば良いだけなのだ。それが、ある意味では「人間」として生きる最も真っ当なやり方なのかもしれない。
 でも、そういうわけにはいかなかったのだ。幸か不幸か、残念なのか器用なのか、僕たちにはできることが多すぎた。「動物は笑わないけど人間は笑う」とはよく言ったものだが、「人間」として生きるのならば、僕たちにはもしかしたら笑うことすらも必要のない行為だったのかもしれない。そう、僕たちは笑うことができる。僕たちは悲しくても笑うことができる。僕たちは空腹を満たしてはくれない夢を追いかけることができる。僕たちは本能的な性欲以外の理由で異性を愛することができる。僕たちは、笑いながら、それでも絶望することができる。人間以外の生物にはできないことを、僕たちはいとも簡単にやってのけてしまう。その点において、人間は他のあらゆる生物を超越している。人間は、全能である。無性人間もロボットもいつだってその立場は人間以下だった。その理由は人間のこのあらゆる生物を超越する全能性の存在である。
 『人間ども集まれ!』が描いていた絶望感、それは、この人間の全能性は、そのまま人間の何もできない無能性の裏返しであるという事実だった。あらゆる生物を超越した人間。それはつまり、人間は「人間」すらも超越した、ということだ。それでも人間でしかない僕たちは、「人間」としてのやるべきことを何ひとつできやしない役立たずだったのである。余りにも器用に様々なことができるせいで、僕たちは「人間」として真っ当に生きることができなかった。朝から夜まで24時間365日セックスをし続けるなんて、僕たちにはできなかったのである。そう、僕たちは、地球に生きる「人間」という当事者であると同時に、その器用さによって「人間」でいることさえ放棄して「僕」や「あなた」になれる第三者なのだ。全能すぎる僕たちは「人間」を止める力さえ持っていた。だからこそ、僕たちは愚かしいほどに無能なのだ。何でもできるはずの僕たちが作った法律や社会のルールは、僕たちが「人間」であることを前提にする限り、永久に「僕」も「あなた」も救わない。もはや正論は通用しないのだ。僕たちは、自分たちが「人間」であることにすら無責任になれる生き物。何かを始めるなら、まずはそれを認めてからだ。そして、手塚治虫は、そんな素晴らしく無能な僕たちを、だからこそ、「人間ども」、と呼んだのだ。

 なんだか『人間ども集まれ!』のレヴューになってしまっていて申し訳ない。人間に接近することを簡単に「成長・進歩・完全」とは認められないロボットたちの苦悶は、彼らの精巧すぎる人工知能がもたらした言わば「全能の苦しみ」だ。彼らは、その賢さ故に、ロボットを超越しすぎてしまったのだ。人間に近づくことで少しずつ狂い始めた彼ら。現在まで単行本は六巻まで発表されており、その物語はまだ完結していない。想像力のない僕にはこれからストーリーがどう展開していくのかまったく予測できないのだが、僕に言えることは、彼らロボットがもはや自分たちは「ロボット」でも「人間」でもない、「ロボットども」でしかない、ということを認められない限り、そこに希望はないだろうということ。このロボットたちの苦悶は、本来なら僕たち「人間ども」の苦しみであるということ。賢くて何でもできるのに、だからこそ愚かで何もできない僕ら。そんなどうしようもなく間違っている僕たちは、果たしてそれでも世界の終わりに正しく立ち会うことができるのか――。本当に面白い作品だと思うから、そこの部分の希望は絶対にあって欲しいと思う。早く続きが読みたい。
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今年三度目のライブ

Hiroko Shimabukuro Happy Christmas 2008
hiro.jpg
この歌声はなぜこんなにも強いのか
 これまでにも一夜限りの限定などで何度かメンバーが揃うことはあったが、ようやく今年、実に七年ぶりとなる「完全復活」を果たしたSPEED。復活シングルも発表し全国ツアーへの意志も明らかにするなどますます目の離せない彼女たちだが、メイン・ボーカルのひとりであり最年少メンバー、“hiro”改め“島袋寛子”のクリスマス・ライブが24日、渋谷O-EASTで開催された。
 女の子のファンが圧倒的に多いかと思いきや、意外にも男臭い空気でムンムンとしていた渋谷O-EAST。寛子がステージの中心に現れるやいなや、太い歓声が飛び交っていて微笑ましかった。もともとSPEEDメンバーの中では張りのある良い声を持っている寛子だが、この日もノドは絶好調で立て続けにソロ楽曲をクールにキメて歌いきっていた。SPEED解散後、それぞれ自由に自分のキャリアを再スタートさせ、他のメンバーが母親になったり本格的にジャマイカ人になったりしている中で最も熱心に音楽活動に専念していたのは寛子だったわけだが、ジャズ・プロジェクトであるCoco d’Orの経験は明らかに彼女の実力を底上げしたよう。ライブでは過去にすでに披露済みの未発表曲や今後リリース予定の新曲に加えマライア・キャリーの“恋人たちのクリスマス”を披露するなど寛子は終始ご機嫌で、ファンも熱いがマナーは良く、全体的に非常に空気の良いライブだった。これまでクリスマス・ライブはファン・クラブ会員限定で行われていたようだが、今回は一般にも開かれて行われたというだけあって、惜しげなくソロのヒット曲を連発。彼女の作品は実は一枚もちゃんと聴いたことのない僕のようなド素人でも存分に楽しめる素敵なクリスマス・ライブだった。

 SPEEDにも各メンバーにも特別な思い入れがない第三者としての意見に過ぎないが、SPEEDが当時あれだけ絶大な支持を獲得できたことに関しては、言ってみれば大人のビジネスに過ぎないJ-POPの世界に10代の若い世代が自分たちの等身大の躍動感を求めたような印象がある(歌詞の内容はまったく超越していたけど)。それに対してグループが解散してソロになってからの寛子は、Coco d’Orの活動が象徴的なように、聴き手側の等身大でいることよりも自分の憧れを追いかけることを優先したような印象がある。シングル・コレクションのジャケットとか、僕みたいなSPEED時代しか知らない人には結構イメージの乖離が激しいと思うからよかったら見てみて欲しい。デビュー当時11歳だった小学生の女の子が24歳の女性に成長したのだからそれはある意味で当たり前のことだ。実際にライブの衣装も楽曲もクール&アダルトな雰囲気が貫かれていて、SPEEDの仲間で和気藹々というイメージからは一線を画す成熟さだった。でも、グダグダなMC(どうやらMCはかなり苦手みたい)とかスタッフにツッコミ入れる軽妙さとかひとつひとつのグッズを一生懸命紹介する彼女の姿を見ていると、なんだか結局のところ普通の女の子となんら変わらない人だと思えてきて、良い意味での彼女の親近感が回復する印象的なライブだった。アンコールにはTシャツにジーパンというラフな恰好で登場した寛子だったが、なんだかんだで彼女が一番輝けるのはそんな解放的なムードの中じゃないかなと思った。彼女のハイトーン・ボイスも、そもそもそういうものだったと思う。

 そしてアンコールではなんとSPEEDのメンバー全員が大集合! 「もしかしたら……」とは内心思っていはいたものの実際に他の三人が登場した時には「すげー!」と声に出していた。ライブ全部で18曲くらい歌ったと思うのだけど、一番盛り上がった(男臭かった)のはここでした。僕も生仁絵ちゃんが観られて嬉しかったです。昔からひとりだけ変な存在感だったけどこの日もヘビ女みたいな衣装でダンスもなんだかオリジナルで本当に素敵な人だと思いました。今年発表したSPEEDの復活シングル“あしたの空”はグループの成長を感じさせる半面でかつてのSPEEDとは雰囲気がガラリと変わってちょっと寂しい気もしたのだけど、この日、四人で楽しそうにステージ上を飛び跳ねる姿を観ていると、少しその理由がわかった気がした。
 そう、SPEEDはやっぱりこれなんだと思う。果てしなく伸びる彼方に思いを馳せるのではなく、メンバー四人が集まって「せーのっ!」で紛れもない「今、ここ」を打ち鳴らす躍動感。僕は“Body & Soul”が一番好きだからそう思うのかも。“White Love”とかが好きな人はまたちょっと違った印象なのかな。とにかく、島袋寛子というSPEEDのひとつの存在感とその歌声が向かう場所について考えさせられた二時間だった。
02:36 | 音楽 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

タッチ・ザ・グラウンド

Prospekt's March
/ Coldplay

Coldplay-Prospekts March
言うまでもなくただのEPじゃない
 今年発表された『美しき生命』を聴くまでコールドプレイは本当に好きじゃなかった。それまでの三作は聴きながらいつも眠ってしまっていた。でも、今年の『美しき生命』で、完全に鷲づかみにされた。コールドプレイの音楽がそれまで退屈だったのは、それがあまりにも完璧な本質の描写だったからだ。微塵の狂いも綻びもない、完璧なフォルムで切り取られた本質。それが完璧であれば完璧であるほど、そこから個人性はスルスルと抜け落ちていく。だとすれば、その本質そのものは、いったいどこから表れて、どこへと消えていくものなのか。誰から誰へと向けられた言葉とメロディだったのか。それが、まったくわからなかった。僕とは無関係な遥か上空で、僕に降りかかることないままに美しく揺らめくコールドプレイの音楽。そんな世俗を超越したオーロラを、自らの手で引っぺがし、胸の内で脈打つ激しい鼓動によって粉砕したのが『美しき生命』という大傑作だった。そこには、必死で伝えようとする、コールドプレイからしか生まれ得ない壮大にして明確なメッセージがあった。
 本作はそんな『美しき生命』には収録されなかったアウトテイク集。ジェイZが参加した“ロスト”の新ヴァージョンなんてどうでも良い。とにかく新曲5曲が素晴らしい。“天然色の人生”なんてイントロが鳴り始めた瞬間にあの躍動感が甦る。それだけ音の隅々にエモーションが溢れているということだ。“グラス・オブ・ウォーター”のサビで一気に盛り上がる至高のウォール・オブ・サウンド! 『美しき生命』のイメージを改めて決定的にする一曲だ。ジャケットからしても『美しき生命』と同様のコンセプトを引き継いだEPであることは明らか。生、死、革命、といったテーマがクリスの中でどれほどのリアリティを持って響いたのかはわからないが、これを発表しなければいけないほど溢れる何かがあったということだろう。本盤にまったく劣らない新曲のクオリティの高さが、今までにはなかった思いの強さを物語っている。
13:42 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

We are so miserable

Happy Tree Friends
フォール・アウト・ボーイ“カーパル・トンネル・オブ・ラヴ”のビデオ。
ここで使われているアニメ『ハッピー・ツリー・フレンズ』のDVDを三枚買いました。
キャラがとにかくかわいいんですよね。みんな前歯が出てて。
レストランにやってきたこのカップルがこのあとどうなるのかは子どもには言えません。
鉄パイプが脳天にぶっささるとか、ね。

買ったは良いけど年末の忘年会シーズンでバイトの方がめちゃくちゃ忙しい。
DVDは深夜に観るのが好きなのですが、
疲れて帰ってきてそれどころじゃないのです。
はて、いつ観ようか。

Reservoir Dogs
Reservoir Dogs
ざまぁみろ
 クエンティン・タランティーノ。本当に、無駄の多い人だよなぁと思う。最初のマドンナ“ライク・ア・ヴァージン”についての議論、あれ一体何だったんだろう。え、じゃあその次のチップがどうこうっていうやつは? つーかタランティーノ出てくる意味あった? 死んだだけみたいになってるけど。ちょっとちょっと、耳切り落とさないでよ! 血流れすぎじゃない!? あと時系列無視し過ぎ! どんだけとっ散らかってんだよ……とまぁ、タランティーノ作品に映画の基本的なフォーマットなんてハナから通用しないわけで、じゃあそこには何があるのか、と訊かれたら、意味も意図も必要も必然もナスもクソもヘッタクレもないんじゃボケェ!ともはや開き直るしかない。こんなんでスンマセン、と謝ってはいけない。これでいいんじゃ!と開き直ることが大切なのだ。
 いったいいつから映画はこんなにも特権的な表現になってしまったんだろう。毎年ヒットする映画は愛か友情か何となくな感動か最新の映像技術か大袈裟な終末論か、なんか深そうじゃない?的な内容のものばかりで溢れていて、なんというか、どうしてこんなにも「正しい」んだろう。どうしてこんなにも「意義のありそうな」作品が多いんだろう。そもそも映画なんて巨大怪獣が意味もなく高層ビルを破壊するところから始まってるんだろう? めちゃくちゃやってるアクションものにまで告発的な意味持たせていったいどうすんだ。お前のことだぞ、スピルバーグ!
 そういうわけで、タランティーノの記念すべきデビュー作である本作は、まさに「ざまぁみろ」な一本。放蕩の限りを尽くした挙句、「そんなの関係ないね。映画はこれで良いんだ」と言ってくれるタランティーノはやっぱり最高にかっこいい。今のところの最新作『デス・プルーフ』なんて会話の100%が意味ないんだから。観なきゃ万死に値する。
13:51 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

煙か闇か食い物

Portis.jpg
深夜だし、治安悪いし、寒いし、というわけで、
ついさっきサークルの後輩の家から同期の子の家まで
魔女宅キキのごとく荷物をお届けしたらお礼にお菓子とカフェオレをくれた。
やったね。
深夜の頼もしいお供たちです。

今聴いてるのはポーティスヘッドの『サード』。
08年振り返り中です。
これまたタバコの煙に包まれて、
自分を閉ざしたくなる音楽ですね。
彼らのファースト・アルバムをレヴュー。
そう、こんな世界は「ダミー」だ、とポーティスヘッドは言っている。
もちろん、向こうの世界から。

Dummy
/ Portishead

Portishead-Dummy.jpg
鏡の中のポーティスヘッド
 オアシス『ディフィニトリー・メイビー』とブラー『パークライフ』というブリット・ポップ現象を象徴する双璧が立ち上がった94年のイギリス。しかし、この年のマーキュリー・プライズを獲得したのは、そういった時代の輝かしい主役たちではなく、そこへの反動のようにして国内から現れた、憂いのヴェールを纏ったポーティスヘッドのデビュー・アルバム『ダミー』だった。ヒップホップを基調に置いた深く響くビート、静かに堕ちていくかのような暗いメロディ、そして物悲しげなベスのヴォーカルは、まるで世界の軽薄な表層部を闇で覆い尽くしてその中心にある本質だとか核心だとかいう奥深い部分にまで侵入してすべてを漆黒で塗り潰すかのように、重い。その絶対零度の比類なきメランコリック・サウンドについて語られることが圧倒的に多いが、ベスの言葉にこそポーティスヘッドの本質的な暗さの凄みが秘められていると僕は思っている。彼女が歌う絶望や不安感、それはいつだって「満たされなさ」からくる虚しさや寂しさだ。しかし、それは単に「あの人がいない」という他者との離別や喪失に端を発するロンリネスには納まらない、自分自身のことを“ストレンジャー”と呼ぶしかないほど混乱した自我や、反転した世界観の果てから襲い掛かってくる、もっと恐ろしいものだ。もちろん多重人格などではない。現実世界から自分自身を見つめるのではなく、凍てついた鏡の中からその鏡の前に立ち尽くす現実世界の自分を見つめるような、狂気の世界から現実世界へと向けられる冷たく鋭利な客観性。そして、鏡の中と前で対峙する自己が重なり合うまで永久に満たされないであろうポーティスヘッドの闇は、ここから14年後の08年にもやはり闇のままだったということなのだ。
02:50 | サークル | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ビギナー

Lark.jpg
昨日、サークルのみんなでクリスマス会を開いた。
大学内の会館でワイワイやった後、カラオケに向かい、
その後は今日の夕方ぐらいまでずっと部室で自堕落な生活。

そして、人生初の喫煙。
日頃はタバコなんて吸わない仲間たちと、遊び半分で吸ってみた。
今までタバコは嫌いだったけど、これは吸ってみないとわからないというやつ。
興味本位で始まる大麻・ドラッグ常習もわからないでもないね、と皆で結論。
こうやって、恍惚としたまま転がり落ちていくのか。
でも、僕の生活に煙は必要ない。
ただでさえ視野が狭いのに、モヤモヤでもっと見えなくなる。

でも、こういう音楽聴く時には例外で、タバコも良いかもね、とか思う。
僕は、結構危ないほうかもしれない。

The Cure
/ The Cure

The Cure-The Cure
恐ろしく根源的な病
 本作発表後の05年、メンバー二人の脱退と94年に脱退したポール・トンプソンの再復帰が告げられ、再び変革の季節を迎えたザ・キュアー。新たなライン・ナップに生まれ変わってから初のオリジナル・アルバムとなった今年発表の最新作『4:13 Dreams』は、バンドの核心的な「不安定さ」を安定させたまま更に前へ進もうとする非常にポジティヴで素晴らしいアルバムだった。ロバート・スミスという不治の病を抱え続ける限りキュアーの表現がブレないことはすでにわかっているが、彼らのキャリアにはそれでもハッキリとした隆盛と没落の歴史がある。解散も囁かれた90年代後半以降の苦節の月日を越えて04年に発表された本作は復活宣言と呼ぶにはあまりにも十分すぎる傑作だった。
 メンバーの顔ぶれやジャケットでもわかるとおり明らかに正当・正統な血統でない彼らの音楽が、実に約30年にも渡る長いキャリアを経てもなお一定の支持を獲得し、その立ち居地を不動のものにしている事実はいささか奇妙だ。U2のような、巨大で道徳的で「正しい」バンドとはわけが違うのだ。ザ・キュアーという深く閉ざされた空間で「絶対的な自己」を見出せずに迷い揺らぎ続けるこのダークなイメージを、僕たちが希求するのを止めないのはいったい何故なのだろうか。本作収録の“ラビリンス”という歌にとても印象的なフレーズがある。「ああ、変わってしまったんだ。ずっとこんなじゃなかったはずなのに。きっともう何もかも変わってしまったんだ。それとも、変わったのは僕なのか……」。絶対的な何かを追い求めるということは時としてもうひとつの不安定な何かを探ることでもある。世界が狂っているのは自分が狂っていないからなのか、世界が狂っていないのは自分が狂っているからなのか。どちらが正しいのかはわからない。その判断は狂っているかもしれないし、その正しさはそもそも本当に狂っていないのか? そこに絶対的な答えなどない、ということそのものが、僕たちの悲劇と苦しみの始まりなのだ。

20:01 | サークル | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

精神的停滞期からの脱出を図る

微妙に間隔をあけてブラーのCDレヴューをしているが、
僕はブラーよりも断然オアシス・ファンである。
初めてロックと呼ばれる音楽を能動的に聴いたのは
「ブリット・ポップ」と呼ばれる人たちのものだった。
スーパーグラスとか、好きだったな。

The Great Escape
/ Blur

blur-great escape
ポップとはこの海の向こうである
 ブリット・ポップ最盛期に発表されたブラー四枚目のオリジナル・アルバム。「大脱走」と名付けられた本作は、本来ならタブロイド紙に踊らされる大衆的ムーヴメントなんかとは最も縁遠い価値観を求めたものだった。“チャームレス・マン”、“ザ・ユニヴァーサル”、“アーノルド・セイム”といった滑稽な「ステレオタイプ」のイメージを散りばめ、毎日が同じ業務の繰り返しのサラリーマンをメンバー自身が演じ、皮肉りながら、「もっと違うことができるだろう?」と退屈な日常生活からの大脱走を促す、そんな本作は、しかし、ブラーを一連のムーヴメントの中心へといっそう近づけることになる。収録曲“カントリー・ハウス”とオアシス“ロール・ウィズ・イット”の同月同日リリース事件はもはや関が原級の史実として歴史にクッキリと刻み込まれている。しかし、ブラーとブリット・ポップを繋ぐ要素は「ポップであること」ただそれのみで、そもそもブラーは極めて前衛的なアート・ロック・バンドだったし、本作でもその過剰なポップさはあくまで「逃避行」として鳴らされた、必然的な意味合いと意図を持ったものだった。そう。ポップとは、病める現実社会からの紛れもない「大脱走」であり、それはだからこそ「あっちの世界」と呼ばれるのだ。猿になったりアニメになったり非・現実の世界で放蕩の限りを尽くすデーモン・アルバーンが今でも「ポップであること」にこだわっているのはだからだ。次作『ブラー』ではついにブリット・ポップの狂騒から解放されたところで新たなブラー誕生の産声を上げることになる。
11:22 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

このアルバムのレヴューを書くのはいったい何度目だろう

PRISMIC
/ YUKI

PRISMIC(1).jpg
未だ聴き取れないYUKIの何か
 誰が何と言おうと、たとえ本人が否定したとしても、このアルバムが背負う意味は、YUKIからJUDY AND MARYへの決別宣言である。これは、それほどまでに重いアルバムなのだ。最後の最後に“呪い”という歌が収められている。「ジュディアンドマリーは、私の、愛しい呪いなのです」と語るYUKI。なぜそんなに愛しいものをYUKIは終わらせてしまったのか。その程度の愛しさだったということはまずないだろう。多分、YUKIは、「ジュディアンドマリー」を、守るために、終わらせたんだと思う。美化してるとでもなんとでも言え。YUKIは、「ジュディアンドマリー」を、守るために、それを、呪いに、変えたのだ。
 何かを守る、ということは、いったいどういうことなんだろうと思う。自分は、大切な何かを守ることが、今まで出来てきたんだろうかと思う。自分ではよくわからない。けれど、未だにこのアルバムに帰ってきてしまう僕は、結局何ひとつ守り抜くことなんて出来やしなかったんだと思う。僕が何かを守り抜くことが出来た時、それは多分、僕の中で、このアルバムが終わる瞬間なんだと思う。守り抜くべき大切な何かを前にして、このアルバムへの思いが劣化した、という意味ではもちろんない。このアルバムを終わらせる勇気を獲得出来た時、このアルバムは本当に終わらない僕の愛しい呪いに変わるんだ。だから、このアルバムの最後の言葉は「もう歌えないわ」じゃなきゃいけなかったんだ。心の底からそう歌えた時にこそ、YUKIは本当に歌い続けることが出来たんだから。「もう歌えないわ」と歌えた時、「ジュディアンドマリー」を終わらせることが出来た時、YUKIは、いったいどんな気持ちだっただろう。世界で一番たくさん聴いたアルバム。他の誰のものよりも聴きなれた歌声。でも、その時のYUKIの気持ちを僕は未だに知らない。
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そうだった

Pri.jpg
音楽が鳴り止んだとき、そこに残されたものはいったい何なのか。

それさえ見失わなければ、それさえ手放さなければ、
僕はどこからだって始められるんだった。

そうだ。
それでも、キラキラ輝けるんだ。
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本物の僕が何を望んでいるのかわからない。

僕は、ここに、いない?
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僕は、これからどうしたら良い?

The Soft Bulletin
/ The Flaming Lips

The Flaming Lips-The Soft Bulletin
僕たちは宇宙だ
 フレーミング・リップスの最新映画『火星のクリスマス』ですっかり火星人になりきって喜んでるウェインの姿を見ていると、このおっさんは本当に宇宙からの使者なんじゃないかとか本気で思えてくる。スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』は、落ちていた木の棒から宇宙、そして更に「その先」へ――と果てしなく遠くに伸びていく人間の興味や興奮の対象が最後の最後に行き着くところは極彩色のサイケデリアという人間の精神世界なのかもしれないということを示唆した画期的な映画だった。そして、それはもしかしたらこの世界の成り立ちのプロセスを逆行する試みだったのかもしれない。ビッグバンという脳内爆発がそこに星々を散りばめながら宇宙空間を急速に押し広げ、その中の地球という星に生命を生み落とし、文明やテクノロジーを作り上げるまでの、宇宙規模のマクロから顕微鏡規模のミクロへと徐々に細部を固めて今という時代に行き着いたのかもしれないこの世界。そう、もしかしたらこの世界は誰かさんの頭の中で繰り広げられている夢か理想か妄想か、はたまた人生ゲームみたいな双六なのかもしれない。僕たちはそこに登場するキャラクターのひとりに過ぎないのかもしれない。だとしたら、僕たちの存在はなんと小さいことだろうか。しかしそれは、それでも僕たちが紛れもない人間である限り、ビッグバンは、宇宙は、世界は、ここからだって始められるということだ。ウェイン・コインのオプティミズムが至高のサイケデリック・シンフォニーに揺られ広がる本作で彼は運命、生と死、愛などを、『ポニョ』よろしく音程はずしまくった見事な歌声を披露しながら祝福する。それはまるで、ふと夜空を見上げ、頭上できらめく遠い星々に思いを馳せることしかできないちっぽけな僕やあなたこそが、世界の、宇宙の中心なのだと告げているようではないか。何度聴いても泣けてくる。
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閉じた先にだって解放はある

Boys And Girls In America
/ The Hold Steady

The Hold Steady
視野が狭くて何が悪い、希望はいつだって足元にある
 ブルース・スプリングスティーン直系のオーセンティックなアメリカン・ロックにEストリート・バンドみたいなピアノが軽やかに鳴り渡る。退屈な日々に刺激を求めて出かけたクラブ。そこで出会った異性との行きずりの関係。軽薄なビールの泡が一日の終わりを告げる。そして、朝に目覚めた時、映画にも小説にも到底なりえないありふれた生活は再び繰り返される――。本作発表時フロントマンのクレイグは35歳だが、自分が十代の頃の生活を熱心に記録していたという彼のリリックが描き出すアメリカの少年少女の物語はどこまでもリアルだ。彼の歌に登場する少年少女は、いつだって普段と変わらない風景に立ち返ってしまう。自分の生活というステージから降りることなどできずに、もうひとつの世界に飛び立つことなどできずに、いつの間にか大人になって、すべてが変わってしまったように見えて、実は何ひとつ変わってはいない、そんな少年少女の物語。それでも彼らの音楽が決して後ろ向きではなく、むしろ涙を誘うほどに感動的なのは、それが限界のある若者の生活にも希望はあるんだということを教えてくれる音楽だからだ。元の場所に戻ってきてしまっても別にかまわないと歌ってくれる音楽だからだ。ここより広い世界になど飛び立てなくてもかまわないと歌ってくれる音楽だからだ。一夜限りのセックスはひとりの世界を根本から覆したりはしない。結局のところ何ひとつ変わらない世界で、変われない自分を心から肯定できた時、それはだからこそ「解放」なのだとこのアルバムは告げている。決してアメリカの少年少女だけに向けられた音楽じゃない。今の十代と、かつて十代と呼ばれたすべての大人たちへ。
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僕たちの生活はフラックスだ

bloc party disco
フランツもカサビアンもカイザー・チーフスも、
第二次ブリット・ポップなんて呼ばれた一連のリバイバル・ブームから
飛躍的に飛び出してそれぞれの個性を確立させたけど、
ブロック・パーティーはやっぱり圧倒的だ。
こいつらの厳しさと世界観は本当にすごい。
演奏もその世界観にしっかり追いついてる。
そういうわけで、最新作『インティマシー』は
僕の『08年ベスト・ディスク』で相当上位に入りそうな予感。
年明けたら一気に50枚紹介する予定です。
お楽しみに。

リミックス版聴いて一旦リラックス、
『フラックス』聴いてリラックス、
と思ったけど当然リラックスして聴ける内容じゃないのです。
だってブロック・パーティーだもん。

Flux
/ Bloc Party

Bloc Party-Flux
ワン・サイド・オブ・ブロック・パーティー
 「81年以前の音楽には一切興味がない」と言い捨てるブロック・パーティーのフロントマン、ケリー・オケレケ。81年をひとつの明確な境界にして、音楽史を真っ二つにぶった切るその価値観。それは、一言で言うなら「相対」と表すことができるかもしれない。ニュー・アルバムが毎回前作に対する批評的な視座の元に意識的に作られていることも、そのことを裏打ちしている。そして、彼らの音楽そのものにおいてもやはり「相対」は重要なカギになってくる。意味として、ロックであること。機能として、ダンスであること。その相対が彼らの音楽に独特のグルーヴをもたらしていることは間違いない。07年にネット上でリリースされたアルバム未収録の“フラックス”にセカンド・アルバム『ウィークエンド・イン・ザ・シティ』収録曲のリミックスと“フラックス”のリミックスが収められた日本だけの特別企画盤である本作。11組のクリエイターがそれぞれにブロック・パーティーの音楽を切り刻み、その断片をつぎはぎのように繋ぎ合わせてダンス・ミュージックとしての強度を高める試みである本作は、言い換えるならブロック・パーティーの音楽からそのシリアスな意味性を摘出し、排除する試みでもある。すでに原型を持たないほどケリーのボーカルが大胆にカットアップされた“ザ・プレイヤー”、ダンス・フロアを揺らす“アイ・スティル・リメンバー”など、楽曲本来の意味はここで次々と乖離していく。けれど、それがまったく軽薄なフロア・ミュージックになっていないところが凄い。ブロック・パーティーの音楽がその「相対」を成すために内包していたひとつの要素が、いかに完成度の高いものかを再確認させる一枚。普段それと激しく拮抗している彼らの意味としてのロックも、それはやはり当然のように重いのである。
 ちなみに、“フラックス”は僕らモダン・エイジの生活感に暗い影を落とす危機感を歌った迫真のナンバー。そういう意味では『ウィークエンド・イン・ザ・シティ』ど真ん中な楽曲と言えるかもしれないが、その機械的なアレンジは最新作『インティマシー』に近しいものを感じる。ブロック・パーティーを未来に繋いだ瞬間がここにある。
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どんどんやっちまえ

Kill bill
テレビでチャリティーとかエコロジーとか言ってるのが嫌いだ。
チャリティーもエコロジーも確かに真剣に語られるべき問題で、
どうにかしなきゃいけないのはわかっている。
それは「正しい」行いだということはわかっている。
でもテレビが地球を救うな。
ウザい。とてもとてもウザいぞ。
テレビは地球を救わなくても、テレビにしかできないことがある。

数年前、北朝鮮に拉致監禁された日本人が数十年ぶりに帰国できた時、
朝のテレビの話題はほとんどもうそれっきりだった。
他局が必死で同じような映像と音声と情報を送り続ける中、
フジの『めざましテレビ』だけはしっかりと「きょうのわんこ」をやっていた。

「愛は地球を救う」を高らかに掲げ、24時間テレビを制作する日テレ。
一方フジの27時間テレビは、
「みんな“なまか”だっ!ウッキー!ハッピー!西遊記」とか、
「みんな笑顔のひょうきん夢列島」とか、結構ひどい。
おまけに鶴瓶は局部を露出する始末。

そう、鶴瓶の局部は地球を救わない。
いや、そもそも鶴瓶の局部は世界なんて救えなくても良いのだ。
フジテレビが27時間テレビで言っていることは、つまりそういうことだ。
テレビは地球を救えない。
世界を救う代わりに、テレビにできること。
つまり、「楽しくなければテレビじゃないじゃ~ん!」、なわけなのだ。

『キル・ビル』でタランティーノが言っていたことも同じ。
映画は世界なんかに無責任で良い。
映画は世界なんかになんの義理もないのだ。
映画には、映画にしかできないことがある。

そして、タランティーノ作品の映画レヴュー。

Death Proof
Death Proof
映画にしか見出せない救いがある
 『キル・ビルVol.1』を初めて観たとき、僕は本当に涙が出そうになった。あれは観なきゃ万死に値するレベルの大大大傑作。ラスト30分はもう本当にすごいから、もしまだ観てなかったら絶対にすぐ観て。でも『Vol.2』の方ははっきり言ってかなり幻滅した。どうしたんだタランティーノ、もっとヤッチマエよ、と思わざるをえなかった。そんな『Vol.2』の次に制作された07年公開の作品がこれ、『デス・プルーフ』。またヤッチマッタなタランティーノ、と思わざるをえなくて、また涙が出そうになった。まことに残念ながら、今こんな作品を作れる映画監督は世界中にクエンティン・タランティーノたったひとりしかいない。07年に公開された映画の中で、これを超えられた作品はひとつもなかったんじゃないかと思う。
 60年代から70年代にアメリカで人気を博したグラインドハウス映画に捧げるオマージュ……とかそんな解説じみたことはどうだっていい。だからなんだと言うのだ。『キル・ビル』もそうだったが、これは映画そのものの本質を問う作品である。いったい何のために映画はあるのか。映画が果たすべき役割とは何なのか。ひとりの映画監督が何にも臆せずに自分の映画理想像に的を絞った作品は自然とそういう本質論に行き着くものである。そして、タランティーノはイカれたヒトラーのごとく熱弁をふるう。映画は3Dになる必要も盲目になる必要も物言わぬ貝になる必要もない、そこには歴史的背景も社会的告発も愛と平和の誓いも必要ないのだと。映像にも音声にもノイズ入りまくりだったとしても、訳もなくナイスなギャルが現れて脈絡もなくカーチェイスが始まって意味もなく大量の血が流れるだけで映画はこんなにも楽しくなるのだ。タランティーノの頭の中で、映画は常にこんな風に流れているんだろうと思わせる感動的な作品。どうにもならない恐怖と悲しみを共有する全世界に向かってバァと舌出すマッド・ピエロを演じてみせるこの無責任さ。これは映画の希望である。
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夢を終わらせないで

メッセージ
/ YUKI

YUKI-メッセージ
そこに、僕はいますか?
――YUKIからの、配信限定のメッセージ――

 人生初めてのライブ体験は、05年5月11日、YUKIのjoyツアー大阪公演だった。自分とは人種の違いそうな女の子がたくさんいて内心かなりビビッていたけど、あの日のことは絶対に一生忘れない。細かい部分の記憶は実はかなり薄くなっている。でも、絶対に忘れられないYUKIの言葉が、僕の心の中にはひとつだけある。ステージに軽やかに現れたYUKIは言った。「上手に歌うよりも一曲一曲に心を込めて、体がひきちぎれるまで歌う」と。最初はなんだか無性にむず痒かった。でも、ライブが終わる頃には、あの言葉こそYUKIなんだと思うようになっていた。ガッツポーズのひとつでも、思わずしてしまいそうだった。
 同じツアーの武道館公演が収録されたライブDVD『ユキライブ』でも、それ以降のツアーでも、YUKIはライブごとに毎回そのことを約束していた。一曲一曲に心を込めて。体がひきちぎれるまで。そうだ、これなんだ。やっぱりYUKIはこうじゃなきゃいけないんだ。僕が今でもYUKIの音楽を聴き続ける理由は、やっぱりこれなんだと思う。

 YUKIのソロ第一弾アルバムとなった『PRISMIC』。そこに収録されたYUKI随一の名バラード“プリズム”について、彼女は後にこんな風に語っている。「もう戻れないところまで川を下って来てしまった。でも、それはキラキラしてるんだよ」と。YUKIはもともとJUDY AND MARYのボーカリストである。愛しいバンドを離れ、ひとりになって再びキャリアを歩み始めたYUKIの第一歩である『PRISMIC』は、もう自分がバンドには戻れない事実を彼女が認めたアルバムだった。もう後戻りできない場所まで歩いて来てしまった自分を、それでも良いんだと認められたアルバムだった。それまでずっと一緒に活動してきたバンドを終わらせるということが並大抵の決断でなかったことは想像に難くない。それでも彼女はそのことを「キラキラ」と表現している。決して軽い別れだったというわけではない。別れさえも、彼女にとっては希望でしかなかったということだ。
 そう、実際に“ハローグッバイ”という歌も歌っているが、YUKIの歌にはいつだって何かとの出会いと別れがある。そして、バンドとの別れに涙し、「もう歌えないわ」と嘆き苦しんだその先に『commune』という何かと繋がる勇気が待ち受けていたように、その出会いと別れはいつだってポジティヴな希望へと昇華されていった。それがたとえ別れという形で終わってしまうものであったとしても、音楽の力で人はきっと何かと繋がることができる、コミュニケーションとはそれそのものがすでに希望なんだ、とYUKIの歌を聴いていると僕はいつもそんな気がしてくる。もちろん、別れはいつだってつらいものだ。出会いだって楽しいものばかりではないだろう。けれど、その苦しみと悲しみさえ放棄しなければ、きっとその先に希望はある。YUKIは、ずっとそう歌い続けてきたんだと思う。
 そして、音楽をコミュニケーションとして捉えているYUKIにとって、実際に観客を目の前にして行われるライブはとても重要な意味を持っているはずだ。それは当然僕たちにとっての貴重な時間でもある。CDだったら僕たちはいつでもどこでも自由にYUKIとコミュニケーションをとることができる。けれど、ライブはそういうわけにはいかない。ライブは時間が限られている。それは仕方のないことだ。でもだからこそ、YUKIのライブはいつだってマジだ。YUKIも観客もお互いに、その限られた時間の中で本気で繋がろうとしている。YUKIはステージの端から端まで駆け回って、踊り回って、ギャグかまして、時には真剣に語りかけてくれたりして、そして、本当に体がひきちぎれるまで歌ってくれる。だから僕たちはそれに拍手と歓声で、爆笑で、涙で、あの変なJOYダンスで、応えることができる。会場中が両手挙げてレロレロ踊っているあの光景は、はっきり言って異常である。それでもその時のみんなの笑顔は、やはり疑いようのない希望なのだ。

 12月3日に“汽車に乗って”以来約八ヶ月ぶりのYUKIの新曲がリリースされる!というニュースを知って、僕はもうたまらなく嬉しかった。“汽車に乗って”がYUKIの未来を感じさせる素晴らしい歌だったから、それ以来ずっと新曲が出るのを心待ちにしていたのだ。タイトルは“メッセージ”だという。うんうん、素朴だけど広がりのある、YUKIらしい良いタイトルじゃないか、なんて聴く前からひとりで満足していたら、そんな期待は見事に裏切られてしまった。
 なんとリリース形態は、配信限定――。

 YUKIが配信限定で楽曲をリリースするのは、何もこれが初めてのことではない。過去にも一度、“ビスケット”を配信限定でリリースしている。その時僕はもう怒り狂ってこのブログに「バカバカ」書きまくっていた。僕は、聴きたい音楽はいつでもCDで買う、もしかしたらちょっと古いタイプの人間だけど、別に音楽のデータ配信そのものについては否定的な意見は持っていない。むしろバンバン配信してもらって結構だと思っている。CDで買うか、データで買うか、それは買い手の自由だ。
 だからこそ、「限定」はよろしくない。YUKIがそれをするのはなおさら良くない。というか、そんなものクソである。“ビスケット”の配信限定リリースが決まった時にある音楽誌は「YUKIにしか歌えない歌がある! 配信限定の新曲到着」と喜々として伝えていたが、こんなんで大丈夫か、と思わざるをえなかった。そう、あんなにも愛しくて可愛くてそれでいて芯の強い歌を歌えるのは、今の日本にはYUKIしかいない。でもだからこそ、“ビスケット”は配信限定なんかでリリースされちゃいけなかった。後でシングル・コレクションに収録されたから良いじゃないか、なんていうのは完全なる話のすり替えである。僕の周りのYUKIファンも雑誌もネット上でも誰も言ってくれないからもう一度言うが、パフォーマンスとコミュニケーションの場所を限定してその中だけで完結してしまうYUKIの歌なんて、そんなものクソである。
 YUKIが歌うということはいったいどういうことなのか。普通だったら安っぽいポップ・ソングで終わってしまいそうな歌が、YUKIが歌うことによって魔法でもかけられたみたいにキラキラ輝き始めるのはいったい何なのか。こんなにも可愛い歌声なのに、どうしてその根底にはこんなにも力強いエネルギーが詰まっているのか。すべての答えは、あの言葉じゃないのか? YUKIが「一曲一曲に心を込めて、体がひきちぎれるまで」歌ってくれるからじゃないのか? 誰一人も見逃さない、「みんな」に歌を届けるためのあの意志と覚悟の強さではないのか? 配信「限定」のYUKI。そんなもの、別れは悲しすぎるから出会いだけのコミュニケーションにしときましょ、と言っているようなものだ。そんな中途半端なメッセージが、いったい誰の心に届くと言うのか。

 そして、ロックとは、まさにあのYUKIの言葉のような音楽のことを言うのではなかっただろうか。大人になったらどうでもよくなってしまいそうな問題を真剣に悩み抜いて、それが結局どうにもならなかったとしても、その真剣に悩み抜いたことそのものが一番大切なんだと歌う音楽なのではなかっただろうか。役に立たないことを悩んでいても仕方ないという人もいるかもしれない。そんな無意味さや無力さを承知した上で、それでもあえてそこに真剣に、誠実になれた時、僕たちはそこにしかない希望を見つけられるのかもしれない。ロックとは、それを信じる音楽ではなかっただろうか。だから、YUKIの別れは「キラキラ」でなければいけなかったのだ。結局は別れてしまうものかもしれない。終わってしまうものかもしれない。でも、YUKIのコミュニケーションはそれを恐れてなどいないのだ。そこからしか始まらない希望は、やはりどうしても必要なものだから。前向きに生きられない命は、あってはいけないのだから。YUKIの歌の本当のメッセージはいつだってそこにあった。様々なものとの出会いと別れを繰り返し、あらゆる状況が変わり果てた、ソロになってからのYUKIの五年。それでもたったひとつ変わらなかったYUKIのコミュニケーションに対する思い。それを記録したのが『5-star』というシングル・コレクションとライブDVDだった。そのDVDの最後でYUKIが僕たちに託した「Everyday is My Birthday」というメッセージ。そこにすべてが集約されている。すなわち、毎日生まれ変わることを、様々な出会いと別れによって日々変化する自分を、恐れてはいけない、と。

 配信限定でのリリース。それは、予め届きうる相手を限定した、全力でない中途半端なコミュニケーションである。別に「みんな」に届かなくて良い、と言っているのと同じだ。それでどうして「一曲一曲に心を込めて、体がひきちぎれるまで歌う」なんてことが言えるだろうか。その立派な言葉にどんな説得力が宿るだろうか。いったい、何を勘違いしているのか。
 
 YUKIから届けられた配信限定のメッセージ。
 YUKIが予め限定した場所だけでのコミュニケーション。
 そこに、僕はいますか?
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How to Live

あやこ
やっと読み終わった。
僕はとにかく活字を読むのが遅いので、
三巻で完結の漫画といえでも数時間は消費するのです。

漫画とかあんまり読まない人間なので
これまで家には『幽遊白書』しかなかったのですが、
この前本屋に行った時にちょっと気になったので買ってみました。
『ブラック・ジャック』ですらほとんど読んだことないに等しい僕ですが、
手塚治虫の、『奇子(あやこ)』。

これからは漫画も積極的に読んでいこうと思った。
感想文です。

奇子
/ 手塚治虫

奇子1奇子2奇子3
私は笑いながら世界を生きていく
 東北の片田舎でかつて名を馳せた大地主一族・天外家。その次男が関わったある事件をきっかけに、一族のもはや恥部どころではない腐りきった事実――遺産がらみの近親相姦とそれにまつわる悪意と醜態――が外部に露呈することを恐れた天外家は、近親相姦によって産まれたまだ4歳の幼い少女・奇子を土蔵の中に閉じ込めて表面上は病気で急死したことにして、その後22年間の人生を闇の奥底に葬り去る。奇子を閉じ込めた以降も一族の鬼のような狂気は納まるところを知らず、遺産をめぐる醜い行いも近親相姦も終わらない。それどころか一族で唯一まともと思われていた三男まで闇に暮らす奇子に生きている実感を与えるために腹違いの妹を犯し始める。悲しみと苦しみの終わらないダウンスパイラル。この一族に、正しいことなど何ひとつもない。すべては一族の身勝手な保身に端を発する絶望だ。すべての始まりが狂っているのだから、それはいつか必ず破綻する。そして、その破綻を補足しようとした結果も、当然のように狂う。誰が首相になってどんなに立派な正論を掲げたところで結局のところ何も変わらない今の政治社会を見ているみたいで、というか物語の内容そのものも死ぬほどヘヴィだが、決して軽い気持ちでは読めなかった。ここまでが1・2巻。
 3巻ではそれまで土蔵に閉じ込められていた奇子が外の世界に這い出してからの物語が描かれている。土蔵の中で頭は子どものまま体だけ大人になってしまった奇子が外の世界でうまく生き抜いていくことができないのは想像に難くない。圧巻なのはラストである。物語の本質ではないが、十分に象徴的だった。登場人物は皆、入り口の塞がってしまった洞穴に閉じ込められてしまう。そう、それはまさに奇子が人生のほとんどを過ごした暗闇である。文字通りの一寸先は闇な状況に、ある者は幻覚に苦しみ、ある者は喚き散らし、皆少しづつ狂い始め、命を萎めていく。最後まで元気に生き延びたのは奇子だけという凄惨なラストだが、墓の中のように狭く暗く空気の薄い場所に長時間閉じ込められて狂ってしまうのはむしろその人が正常な証拠で、奇子が暗闇の中で笑っていられたのは奇子が誰よりもずば抜けて狂っているからで、奇子が狂っているのは一族が狂っているからで……と、ここでもダウンスパイラルは起きる。最終的に世界を生き抜くのは、本当の本当に狂っている人間だけなのかもしれない。奇子という他者を通じて世界と対峙した手塚治虫。そこから見た世界は救いがたく、どうしようもなく狂っている。世界に正論など通用しない、ということかな。
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ジャケットからして

blurchiefs.jpg
08年振り返り中。
カイザー・チーフスが今から15年前に現れていたら、
イギリスはもっとすごいことになっていたんだろうなぁと思う。
英国産ポップネスの引力で言ったら、
ブラーよりもカイザー・チーフスの方が一枚上手な気がする。
でもブラーはやっぱり「アート」としての意識が、違うんだなぁ。

Modern Life Is Rubbish
/ Blur

Blur-Modern Life Is Rubbish
ブリティッシュ・ルネサンスの前夜
 グランジの渇いた熱風が吹き荒れるアメリカでの悲惨なツアーからロンドンに帰りついたブラーは、重要な岐路に立たされていた。作風を改めるべきではないかと詰め寄るレーベル・サイドからの圧力をものともせずに制作されたこのセカンド・アルバムで、ブラーは徹底してイギリス、ロンドンを打ち出すことでそこにバンドとしてのアイデンティティを見出そうとした。『モダン・ライフ・イズ・ラビッシュ(=現代生活はゴミだ)』という嘲笑的なアルバム・タイトルだが、ここでいう「ラビッシュ(=ゴミ、ガラクタ)」には現代という時代を構成する過去の様々な「断片」とそれを収集・集積するという意味が込められている。つまり、ブラーは本作で過去のブリティッシュ・ロックを遡りそれらの要素的な断片を切り貼りしながらイギリスにしかない新しいロックを作り上げようとしたということだ。本作発表前にはスウェードが輝かしいデビューを飾っている。それら一連の流れが90年代イギリス最大の復権現象となったブリット・ポップの狂乱を牽引したことはもはや言うまでもない。デーモン・アルバーンのアートに対する基本的な視座を伝える作品。ここで打ち出したロックそのものをモチーフにしたポップ・アートとしてのロック・ミュージックを更に進化・発展させ、ブラーは次作『パークライフ』で大化けする。
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風に語りて

セックスアピールの亡霊
『セックス・アピールの亡霊』。
ダリの画の中ではこれが一番好きだ。
ダリは性的なアンバランスを松葉杖で支えようとすることが多い。
そして、象徴ですらないほとんど化け物に近いダリの描くセクシャリティが、
崩壊しかけてついには立てなくなってしまったのがこの『セックス・アピールの亡霊』。
それを見上げているのが子どもだというところに悪意を感じる。
そもそもが松葉杖で支えてやらなくてはならない存在。
う~ん批評的だなぁとか思えて、僕はこれが好きだ。

でも、ダリのイビツな画を観れば観るほど、
彼の奇行の数々を知れば知るほど、
あの直角に上向いた髭を見れば見るほど、
この男、実はただ死ぬほど退屈だっただけじゃないか、
という素人考えをしてしまう。

プログレッシヴ・ロックの複雑性だって、結局はそこじゃないかと思う。
三分半のポップ・ソングなんて、死ぬほど退屈だったんだろう。
始まりというのは、意外と単純なもんである。
その始まりから何を始めるかが、重要なのだ。

In The Court Of The Crimson King
/ King Crimson

King Crimson-In The Court Of The Crimson King
墓碑に刻まれたロックと僕たちの未来
 ビートルズ『アビイ・ロード』をチャート一位から引きずり落としたとされるキング・クリムゾンの記念碑的デビュー・アルバム。邦題は『クリムゾン・キングの宮殿』。冒頭を飾る“21世紀の精神異常者”。シェイクスピアやウィリアム・ブレイクの詩世界に強く影響を受けたピート・シンフィールドが書いた詞には、まさに彼が21世紀の預言者であるかのように9.11や秋葉原通り魔事件を否が応でも想起させる、怖いくらい鋭く未来を読み取った言葉たちが刻み込まれている。無限の高さから世界を俯瞰し、その有り様に苦悶するかのように「死の種。無知なる者の強欲。詩人は飢え、子どもたちは血を流す。だが欲しいものはなにひとつ得られない。21世紀の精神異常者」と歌うグレッグ・レイク。それはまるで21世紀というニュー・ミレニアムを未だに明るい希望で塗り替えることのできない僕たちのことを歌っているようではないか。かの有名な「混乱こそ我が墓碑銘」という一節の歌われた名曲“エピタフ”も収録されているが、そこでは未来への圧倒的な絶望感が歌われている。愛と平和を誓う理想主義の最たるものであるロックの甘ったるい幻想を打ち砕き、そこに残された瓦礫の上で立ち尽くす絶望をそのまま未来へと投げつけた、ロックそのもののパラダイムシフトが行われたまさにその瞬間である。そして、それが大々的に受け入れられたのだ。本作発表から40年という月日が経とうとしているが、ここに書き連ねられた言葉たちは現実の未来から乖離していくどころかますます真実味を増して僕たちに重くのしかかろうとしているような印象がある。未だにこの恐怖を共有できてしまう時点で、僕たちはすでに彼らの歌うところの21世紀の精神異常者であり、敗北者なのだ。
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マジック・ウィズアウト

うさぎ
08年振り返り中。
ライトスピード・チャンピオンが各誌でどれくらいの順位に割り込むかが気になる。
ひと目見ただけでもわかるとおり、相当にアクの強い作品。
個人的にはかなりのツボだったが。

ウサギを抱えてるつながりということで、YUKIの『長い夢』と一緒に。
性別も肌の色も作風も全然違うが、
見れば見るほどこの二人は似てる。
コンプレックスのかたまりじゃないか。
青赤黒の色だけは一緒だ。

今日のCDレヴューはライトスピード・チャンピオンこと
デヴォンテ・ハインズが在籍していたバンドのアルバム。
早すぎた伝説、テスト・アイシクルズ。

For Screening Purposes Only
/ Test Icicles

Test Icicles-For Screening Purposes Only
紀元前の神話
 「三回ショウを開いたら解散する」というメンバー同士の口約束から04年に始まったバンド、それがテスト・アイシクルズだ。熱烈な支持を受け実際には三回以上ショウを開いているが、まるで置き土産だとでも言うかのようにこのたった一枚のオリジナル・アルバムを残して06年には早々と解散してしまった。それぞれが非常に多彩な音楽的バックグラウンドを持つローリー、サム、デヴの三人組から成るテスト・アイシクルズのサウンドを一言で説明するのは難しい。スレイヤーやらビースティーズやらブロック・パーティーやら時にはバステッドの名前まで引き合いに出されるバンド・サウンドと言えばその尋常じゃないカオティックぶりがわかっていただけるだろうか。一寸先も予測不能なジェットコースター・エンジン搭載で四方八方に眩いプラスチック光線を撒き散らしながら光年を一瞬で駆け抜ける圧倒的なスピード・オブ・サウンド。そう、僕たちはこれを後に「ニュー・レイヴ」と呼ぶことになる。この無形のカオスを「ニュー・レイヴ」として正式に定義し有史のものとしたのがクラクソンズだったわけだが、そもそもの走りはテスト・アイシクルズだったことがこのアルバムを聴けば一発でわかる。自分たちの聴いてきたすべての音楽を片っ端からぶち込んで作られたという本作はしかし、ただの趣味のごった煮アルバムではない。その根底には「面白いものはどっからだって出てくる」という後のニュー・レイヴ思想(ハドーケン!なんて特にそう)の原型を形作ったロックの正しさと本当の自由がある。デヴは今年ライトスピード・チャンピオンとしてソロで新作を発表したが、そこで彼が柔らかいフォーク・ソングに乗せて童貞喪失なんて歌っていたのもその思想があってのことだろう。刹那にすべてを詰め込み大輪の花火のように散ったテスト・アイシクルズ。ニュー・レイヴが憧れた理想郷はその有史以前にあった。
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深読み

オウテカ
『真夜中のピアニスト』という映画のレヴューを書こうと思って色々考えていた。
我が家に何か極端なエレクトロ・ミュージックはないか、
と思い立って、オウテカを聴いている。
オウテカが映画の中で使われていたわけではない。
主人公の男が、エレクトロ・ミュージックを好んで聴いていただけだ。

微細な粒子が無機質に積み上げられたエレクトロニカという構築美。
それは、無機質だからこそ、そこが完璧であればあるほど、
人間的な感情の迷いや綻びを排除する音楽だ。
ある意味でそれは「完全なフォルム」と呼ぶことができる。

主人公の男はブロック・パーティーを聴いていた。
ブロック・パーティーは、厳しすぎるほど自己を省みるバンドだ。
彼らの音楽はだからこそ不完全な自分たちへの批評性と
完全を目指す強い創作意欲に溢れている。
ブロック・パーティーの音楽は、完全と不完全の相対。
今年発表された彼らの最新作は、エレクトロニカの要素を強く取り入れた作品だった。

真夜中のピアニスト
真夜中のピアニスト
ピアニストはピアノを超越できない
 主人公は不動産ブローカーを生業としたひとりの男。ネズミを放したり水や電気を止めたり時には暴力に訴えて物件を獲得する相当あくどい男だが、意外にもピアニストになるというロマンチックな夢を完全には諦められずにいた。そんな男の、プロのピアニストになるためのオーディションへの道程とその後が描かれた本作『真夜中のピアニスト』。この物語の中で行われる数々のコミュニケーション――同僚との共犯関係や仕事上の軋轢、同僚の妻との不倫、父親との不安定な繋がり、中国人女性と言葉が通じない中でのピアノ特訓――は、どれも一口に円滑とは認めがたいイビツなものばかりだ。いつだって齟齬をきたす日常生活。だからこそ男はピアノを前にした時だけは正直にならざるを得なかった。ピアノとだけは上手くコミュニケーションを取りたいとでも願うかのように、完全なフォルムの美しさを求めて男は鍵盤の上に指を走らせる。来たるオーディション当日、結局のところ不全に陥るピアノとのコミュニケーション。主人公の男を演じたフランス人俳優ロマン・デュリスがとても良い表情をしている。彼の見せる焦りや苛立ち、葛藤の表情が本作のムードをほとんど作っていると言っても良い。だがそれは同時に本作が描くコミュニケーション不全の明らかな表出でもある。殺された父親の死体を目の当たりにした時の彼の表情は迫真の一言に尽きる。父親の死の二年後、中国人女性のピアノ・コンサートに向かう途中で仇の男と偶然に出会い襲撃に成功するが、それが何の意味も果たさないことに彼は気付いてしまう。袋小路に迷い込む彼の心を癒すものは、最後の最後までピアノの美しい音色が持つ完全性だけだった。そう、不全によって失われたものはもう二度と戻らないのかもしれない。ピアノだってそうだ。一旦弾き逃してしまった音色を、始めに戻ってもう一度弾き直すことなどできやしない。ピアニストとは、これ以上何も失わないために、常にピアノという「完全」を必死に追い続ける「不完全」のことを言うのかもしれない。
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