スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--:-- | スポンサー広告 | comment (-) | trackback (-) | page top↑

チューズ・ライフ

トレスポポスト
後輩がもうすぐ誕生日だから、
サークルの仲間で誕生日プレゼントを買いに行った。
ついでに買った『トレインスポッティング』のポストカード。
かっこいいなぁ、ユアン・マクレガー。
一緒に行ったやつに『プリズン・ブレイク』と間違われたけど。
憧れだ。

さてさて、またやるぞ、アルバム・オブ・ザ・イヤー。
08年ベスト・アルバム50を選ぶぞ。
そして50枚分レヴュー書くぞ。
というわけで、08年を振り返っています。
今、ブライアン・ウィルソンを聴いてる。
『ザット・ラッキー・オールド・サン』は、本当に今年の名盤だった。
だからとりあえずこれ。

SMiLE
/ Brian Wilson

Brian Wilson-Smile
呪縛は、解かれた
 今年発表された文句なしの傑作アルバム『ザット・ラッキー・オールド・サン』を聴いた後だからこそ言えることなのかもしれないが、ブライアン・ウィルソンにとって本作と改めて向き合うということは、それがたとえあの67年という狂気と破滅の時を残酷なほどに想起させるものだったとしても、それでもポジティヴな行為だったんだと思う。というか、37年間という人生の半分以上を費やして、ようやくそれをポジティヴに受け入れることができたんだと思う。ここから自分が前に進めるということに、彼は初めて気付けたんだと思う。
 66年に全米一位を獲得した“グッド・ヴァイブレーション”を皮切りに制作が開始された『スマイル』。メンバーや制作関係者からは槍玉に挙げられ、当時の革新的な録音技術を必要としたレコーディング作業は暗礁に乗り上げ、ビートルズの『サージェント・ペパーズ』を聴いたブライアン・ウィルソンは『スマイル』制作を打ち切り、ついには正気の人間でいることを止めた。多くのブートが作られ無数の断片だけが世に散らばり、それでも新しい世紀を超えるまで完成という日の目を見ることのなかった本作にまつわるサイド・ストーリーは生々しく、それは彼にとって永遠に忌々しい記憶として残っているはずだ。しかし、99年に復活して以来、第二の人生と呼ぶには余りにも鮮やかなほど凄まじいペースで作品を発表し、ついにはこの『スマイル』を完全にフィニッシュさせてしまったブライアン・ウィルソン。37年間という眩暈の起きそうな長い月日はもう二度と取り戻せないからこそ、このアルバムは彼と過去を足枷のように重く結び付けていた。彼が初めて本当にポジティヴになれた時、それはここからの未来さえも引き寄せたということだろう。ブライアン・ウィルソンの過去と未来を繋ぐ『スマイル』という運命――。それはもはや「呪縛」ではない。
スポンサーサイト
23:25 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

今日の一冊

カテゴリーに「本」なんていうのがあるからビックリした。
いったいいつ作ったんだろう。
そんなに昔じゃないと思うけど思い出せない。
久しぶりに使ってみようと思う。
今日は午前中に授業があったのだけど、
寝るかこの本読むかで全然話聞いてなかった。

ショートショートの広場①
/ 星新一・編 

ショートショートの広場1
魔法使い、広場に大集合
 講談社が一般から作品を募集し、ショートショートの神様・星新一がその中から優れた作品を選出する催しとして79年に始められた「星新一ショートショート・コンテスト」。星新一の死後には作家・阿刀田高が審査員役を引き継ぎ現在も続けられているこのコンテストの、開始当初から83年までの優秀作品全58編が収められたシリーズ第一巻である。
 ショートショートならではの1ページできちんとオチる驚きの作品、長編小説のような深い世界観に浸れる作品、非科学的な空想アイディアに溢れた作品、生活の身近な一場面にしみじみできる作品など、単にショートショートと言えどもそのバラエティの豊富さは果てしない。ショートショートという短編小説よりも更に短く限られた場所にも「ジャンル」と呼べる歴然たるものがあることがわかる(星新一はひとまず大きく「技巧派」と「ムード派」に分けている)。それぞれの作者の豊かな想像力に圧倒され続け興奮しっぱなしで最後まで一気に読み尽くせる一冊だ。
 最後には星新一によるそれぞれの作品に対する軽い選評も収められているのだが、これが面白い。ひとつの作品につき数行の短いコメントのようなものだが、それが時に星新一の譲れない理想論になっている。そこで彼が強く主張していることとは、要約するならつまり「ショートショートに限界はない」ということだ。そんなショートショートの神様によって選定された本作は、当然のようにそういう一冊になっている。不可能を可能に変える魔法としてのショートショート。そこには限界も制約もない。
15:02 | | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

ブリット・ポップ

トレスポ
『トレインスポッティング』といえば
やっぱりアンダーワールドの“ボーン・スリッピー”。
この曲をバックに「未来を選べ」と語りかけてくる
ユアン・マクレガーは最高にかっこよかった。
最近はスーツ着てネクタイ締めてるような役が多い気がするけど、
ユアン・マクレガーはやっぱりトイレが似合う兄ちゃんが良い。

“ボーン・スリッピー”を初めて聴いたのは、いつかの車のCMだったと思う。
中学生の僕には刺激的過ぎる音楽がそのCMでは当然のように鳴っていて、
なんでみんながこれを聴き流すことができるのか不思議だった。
ポップスでもない、ロックでもない、ヒップホップでもない、
今じゃ当たり前だけど、あんな音楽を聴いたのは本当に初めてだった。

誰の曲かなんとか突き止めて、すぐにCDショップに買いに行ったのがこのシングル。
早く聴きたくてどうしようもなくて、
持ち合わせのMDとこのシングルCDを電気屋の売り物のコンポにつっ込んで、
お店の人にばれないようにMDにコピーして、歩きながらすぐに聴いた。
あんな興奮は、もう二度と味わえないだろうなと思う。

なぜ突然『トレインスポッティング』とか
“ボーン・スリッピー”とか言い出したかというと、
今日のCDレヴューがこれだから。
ちょっとだけ関係あるんですよ。
そういえば『トレインスポッティング』のスタッフ・ロールで流れていた歌は
デーモン・アルバーンのソロだった。

Leisure
/ Blur

Blur-Leisure.jpg
さぁ、90年代イギリスを歌おう
 古くから親しくしていたデーモン・アルバーンとグレアム・コクソンを中心にロンドンの大学でロック・バンド、シーモアを結成。フード・レコードのアンディ・ロスの目に留まるがバンド名に難ありと判断され改名。90年3月に「ブラー」として正式に契約。同年10月にシングル“シーズ・ソー・ハイ”のリリースでめでたくデビューを飾った。本作は彼らの記念すべきデビュー・アルバムとなった一枚で、本国では91年8月にリリースされている。発売国によって収録曲の順序がバラバラで、英国盤では離れて収録されている“シーズ・ソー・ハイ”と“ゼアズ・ノー・アザー・ウェイ”の二曲のシングルが日本盤では冒頭に並んで配置されている。最初の二曲の強烈な印象で聴き手を最後まで導くアルバムになっているというわけだ。発表当時はシューゲイザーに影響を受けた一派に過ぎないと正当な評価を得られなかった彼らだが、実際のアルバムの内容としては、デーモンのポップ・センスはすでに開花しつつあるし多くのアイディアが詰め込まれていて非常に面白いものなっている。シングル化はされていない楽曲だが、特に“シング”という曲が素晴らしい。90年代イギリスの若者文化を象徴する映画となった『トレインスポッティング』で使用され、後に高く再評価されたこの曲。子どもを失いどうすることもできない絶望を歌ったこの曲が、赤ん坊の死をきっかけに破滅への下り坂を転がり落ちていく若者の姿を描いたシーンとリンクして、曲と映画の世界観を共に暗く深く染め上げていく。ブラーのデビュー・アルバムというだけでも重要な作品だが、この一曲だけでも絶対に聴く価値がある。
01:27 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

今日のLP

LP-Sweet Dreams
今日のLPは、ユーリズミックスの83年作『スウィート・ドリームス』。
男女のユニットですが、女性ボーカリストのアニーの方が、
片割れデイヴよりもカッコイイしキレイです。息を呑むほどに。
宝塚の男役も女役もできそうなひと。
要は、過剰な美貌を持った女性です。
バレンタインの日に、モテる男子よりもチョコを多くもらえそうな女性です。
もういいか。

前身バンド、ザ・ツーリスト解散後に
二人でドイツへ武者修行に出かけただけあって、
非常に完成度の高いエレポップ・アルバムになっています。
後はレヴューで。

Sweet Dreams
/ Eurythmics

Eurythmics-Sweet Dreams
スウィート・ドリームを信じるな
 シンディ・ローパーやサマンサ・フォックスなど多くのカリスマ女性シンガーが登場した80年代。その中でもやっぱりマドンナが特別なのは、一概にそれだけとは言えないが、“マテリアル・ガール”の存在が大きかったように思う。一連のシーンの中心人物であるひとりからの「自分たちのポップ・ソングは所詮マテリアルな紛い物だ」という内部告発。当事者からの告白は、いつだって衝撃的なものだ。
 デュラン・デュランやカルチャー・クラブを筆頭にイギリスから多くのアーティストがアメリカ上陸を果たした80年代の第二次ブリティッシュ・インヴェイジョン。そんな時代の波に導かれるようにして、セカンド・アルバムとなる本作からのシングル“スウィート・ドリームス”が全米一位を獲得したユーリズミックス。“ゼア・マスト・ビー・アン・エンジェル”など後に80年代の大きな普遍へと発展していく彼らの音楽だが、83年にリリースされた“スウィート・ドリームス”がとにかく衝撃的だったのは、これが当時隆盛を迎えたニュー・ロマンティックにとっての“マテリアル・ガール”だったからだ。当時の多くのニュー・ロマンティック系バンドからその見せ掛けの唯美主義とセクシャリティを剥ぎ取ったらいったい何が残っただろう。ニュー・ロマンティックの旗手と謳われたデュラン・デュランでさえ、後に“オーディナリー・ワールド”を歌わなければならなかったのである。“スウィート・ドリームス”の、「私は七つの海を越え、世界中を旅した。みんな何かを求めている。人を利用したがる者。利用されたがる者。罵りたがる者。罵られたがる者」というこの痛烈なまでに不穏なリアリティ。そういえば、我らがマリリン・マンソン閣下がこの曲をカバーしていたけど、あれはちょっとハマりすぎだった。世界中が安っぽく共有し合うロマンティックな甘い夢――。そんなもんはフェイクに過ぎない、ということだろう。
00:56 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

りんご

りんご
今思えば二日間も更新しなかったのはずいぶん久しぶり。
というか、今思えばこんなに連続で更新してたんだ。
すごいな自分。

先日、我が家でサークル仲間とピザ・パーティーをした。
四年生の先輩が、りんごを置いていった。
CDレヴューも全部書き終えたらこれ食べながら映画観ようと思う。
CDレヴューは、やっぱりりんごと言えばあの人しかいない。

ピザ・パーティーをした夜、後輩がひとり泊まっていった。
夜になると「俺は死に憧れたことはないです。俺は無に憧れたんですよ」
とか言えちゃう面白いヤツだから、やっぱり面白かった。
次の日の朝、いや、昼まで二人で語り明かした。
前には妖怪とかおばけとか死生観とか話したけど、
やっぱり行き着く答えは一緒でもプロセスが真逆だ。
あいつにはあいつだけのオリジナルな悲しみがある。
それは僕も同じだ。

お互いにサークル内ではかなりひょうきんで軽いほうだと思うけど、
それでも人っていうのは人っていうだけでこんなにもディープで、重い。
僕の人生は、僕ひとりしか生きていないのだから、
そこにあるオリジナルな悲しみは、やはり途方もなく重い。

When The Pawn...
/ Fiona Apple

Fiona_apple_when_the_pawn.jpg
絶望とは、「自分」の肯定なのだ
 彼女を一躍「時の人」にした前作『タイダル』から三年後に発表されたセカンド・アルバム。邦題は『真実』。ファンからの手紙を読んだフィオナがそれに対する返事として書いた詩といわれる原題は、実はアートワークを埋め尽くすほど長く、そこで彼女は闘いの場に出向く時に最も向き合わなければならない存在は自分自身なのだと諭している。この詩はフィオナ・アップルというひとりの女性を余りにも的確に語り尽くしている。日本版のライナーには日本語訳が付いているので是非とも読んでみて欲しい。これまでに発表した三枚のアルバム、そのどれを振り返ってみても、彼女にとって「歌う」ということはつまり「闘う」ということだった。そして、そこで歌われていることは、いつだって自分自身の心と体に残された傷跡だ。彼女の歌の中で、世界はその先にしか待ち受けていない。当然だ。僕たちの世界は戦争や恐慌や政治なんかを前提に始まったりはしない。僕たちが把握しなければならない世界のリアリティは、自分自身と自分を取り巻く強烈な何かだけで十分なはずだ。原題の中で、彼女は真実はあなたの中にしかないとも語っている。向き合うべき世界は、闘うべき世界とは自分自身なのだから、その中にしか真実がないのは当たり前だ。音楽的には新たにドラムループやチェンバリンを大胆に取り入れた非常にポジティヴな作品であるにも関わらず、「苦痛こそ私の存在の証」と歌わなければならないほど彼女がここでもがき苦しんでいるのは、それが真実を導き出すことの必然だからだ。すなわち、苦痛を伴わない「自分」など有り得ない、ということだ。

01:22 | 日記 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

間違ってる

YUKIjoy.jpg
久しぶりにYUKIの『joy』を聴いている。
本当に、本当に良いアルバムだ。
何かあると、“ハローグッバイ”を聴くことにしている。
「こんにちわ」と「さよなら」。
この曲で、人は一瞬でも何かと繋がることができる。
僕とYUKIを繋いだのは、そもそもこの曲だった。
僕がYUKIを思う時に胸の中で流れているのは、
いつだって“ハローグッバイ”のメロディだ。

“汽車に乗って”以来のYUKIの新曲が、ついに発表される。
タイトルは“メッセージ”。
これが、実は問題なのだ。
届けられる場所があらかじめ限定されたYUKIからのメッセージ。
そんなもの、誰の心にも届かない。
それがYUKIからのメッセージである以上、
「みんな」に届かなければ、意味はないのだ。

CDレヴューは今朝起きたときに聴いてたアルバムで適当に。

Please
/ Pet Shop Boys

Pet Shop Boys-Please
個人的には80年代エレポップの金字塔
 86年に発表されたペット・ショップ・ボーイズのデビュー・アルバム。邦題は『ウエスト・エンド・ガールズ』。一度は不発に終わったシングル“ウエスト・エンド・ガールズ”を一年後に再発売し、見事にUK・USで共に一位に輝いたペット・ショップ・ボーイズ。ディラン・ディランやカルチャー・クラブらが大挙してアメリカ進出を果たした80年代前半から半ばにかけての第二次ブリティッシュ・インヴェイジョンからは少し遅れての成功となったペット・ショップ・ボーイズだが、当時ニューロマンティックと呼ばれたお耽美ユニセックスなヴェールを彼らも纏っていた。ただ、ほとんどムード先行で中身のないバンドが多かったニューロマンティック系アーティストの中で、ペット・ショップ・ボーイズのサウンド・プロダクションはやはり余りにも洗練されていた。冒頭曲“トゥ・ディヴァイデッド・バイ・ゼロ”のバン!と幕が開いたような硬質なシンセが鳴った瞬間、決まりである。“ウエスト・エンド・ガールズ”では英国風解釈のラップが取り上げられていたり“レイター・トゥナイト”では後のアダルト・ポップ路線を窺わせるミドル・バラードが披露されたりと、ジャケットは異常にミニマムだが彼らの音楽のキャパの広さを堪能できるある意味でダイナミックな作品になっている。
11:56 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

これは傑作

Glasvegas
/ Glasvegas

Glasvegas-Glasvegas.jpg
あなたは何を信じるのか
 ある若者の突然の死、自分だけが置き去りにされる疎外感、父親の裏切りと消失……。グラスゴー出身の四人組で構成されたグラスヴェガスのデビュー・アルバムである本作は、そんな悲痛なネガティヴで埋め尽くされている。歌詞だけをななめ読みしてみても、そこに救済の余地はまったく見当たらない。どうにも抗えない絶望と喪失に打ちひしがれるような彼らの歌は、何故なんだろう、それでも聴くものに力強い希望を与える。すべては、このバンド・サウンドだ。隙間なく吹き荒ぶ嵐のように重く超越的なこの余りにも美しいサイケデリア。これがすべてのネガティヴを轟音の彼方へと吹き飛ばし、見事に回収してしまっている。すべてを葬り去る嵐が過ぎた後の荒野に残るものは、ただひとつの屹立する希望である。それは、絶望の淵に追い込まれながらも最後まで守り抜いた信仰の表出だと言い換えても良い。彼らの音楽の希望、それは、ロックンロールを絶対的に信じる者だけに許された、ほとんど自己欺瞞と紙一重の奇跡だ。ロックンロールとは、それでも自分には一縷の希望があるということを信じる音楽だ。だからこそ、何の信仰も持たないロックはすぐにその安っぽさを見透かされてしまう。自分のすべてを懸けてでも信じ抜くべきものを持っている連中のロックは、最初にギターが鳴ったまさにその瞬間から、やはり違うものだ。
 とあるインタビューで「歌われている内容はあなたの体験に基づいているんですか?」と訊かれたフロントマンのジェームスが「これが誰の体験かっていうのは別にどうでもいいことだと思うんだよね」と答えていたのがとても印象的だった。つまり、聴き手である僕たちが信じるべきものは決してグラスヴェガスのロックである必要はない、ということだ。それは彼らの希望なのだから。君たちは君たちの希望を最後まで守り抜けば良い。ジェームスはきっとそう言っていたんだと思う。
03:47 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

To The End

blur.jpg
ご飯を食べながら何か聴こうと思って手に取ったブラー。
だけど、“エンド・オブ・ア・センチュリー”はダメだ。

「そして僕たちは皆ひとりになりたくないと言う
同じ服を着ているのは同じ気持ちだからさ
そして乾いた唇でお休みのキスを交わす
世紀の終わり・・・別にどうってことないさ」

涙が出そうになる。

Parklife
/ Blur

Blur-Parklife.jpg
「始まり」は終わらない
 オアシスの『ディフィニトリー・メイビー』と共に90年代イギリスのブリット・ポップ戦争を象徴する、ブラー大出世の三作目。当時はガサツさと情熱だけだったオアシスに対して、ブラーの本作は凄まじい容量の情報が落とし込まれた極めてクレヴァーでハイセンスなポップ・アートだった。本作から読み取ることの出来る情報は、イギリスのリアルな社会生活やライフ・スタイルだけに止まらず、音楽的にもビートルズやキンクスなど60年代の正統的なブリティッシュ・ロックから70年代パンクに80年代エレポップと幅広く、また今考えてみると、ブラーの前衛性はフランツ・フェルディナンドへ、偏屈さやシニカルさはカイザー・チーフスへ、生活の独白スタイルはザ・ストリーツへと確実に受け継がれている。まるで本作を中心的な磁場として英国ロックの歴史が大きく広がっているかのような変な感覚がするが、それは本作がいかに本質的な情報を内包していたかを物語っている。
 だけど、今一番強く思うことは、これがブラーの紛れもない「始まり」だったということだ。キャリアのスタート自体はこれ以前だが、ブラーを拘束するブリット・ポップという伝説と呪縛が始まったのは、間違いなくここだった。ブリット・ポップそのものはレディオヘッドの97年作『OKコンピューター』によってすでに完了した物語だ。しかし、ニュー・ミレニアムを迎えてからもデーモン・アルバーンにはゴリラズという覆面が必要だった。現時点でのブラー最新作はブリット・ポップ終焉以降の悲壮感を引きずった03年作の『シンク・タンク』だ。ブラーのブリット・ポップは終わっていない。きっと永久に終わらないだろう。なぜなら、それは一度「始まってしまった」物語だからだ。双六に「ふりだしに戻る」が付き物なように、僕たちを最も強烈に引き寄せる力は、他でもない「始まり」なのだから。


12:56 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

今日のLP

EWF-LP.jpg
昨日、僕の家で、サークル仲間と鍋をした。
EW&Fの音楽は、鍋みたいなもんだ。
みんなで鍋をつつき合うことからでさえ始まってしまうコミュニケーション。
たったそれだけのことで、
そこにいるみんなが繋がっていることを鍋は伝えている。
EW&Fの音楽に合わせてステップを踏むことは、
ただそれだけで一種のコミュニケーションなんだ。
だから彼らの音楽はいつも説教臭くなくて、
それでいて確信的で、ひたすら感動的だ。
だから、僕は鍋もEW&Fも、大好きなんだ。

どうしようもなく「ひとり」になってしまったら、とりあえず踊ればいい。
人はなぜ踊るのか、ずっと疑問だった。
EW&Fを聴いていると、なんだかわかってきたような気がする。

That's The Way Of The World
/ Earth, Wind & Fire

EWF-Thats The Way Of The World
これが本当のブラック・ミュージックだ
 前作でファンキーなブラック・グループとしての存在感を確かなものにしたEW&Fがついに念願の全米チャート制覇を成し遂げた極めてメモリアルなアルバムであり、ここからの怒涛の快進撃の幕開けとなった75年作。様々な意味で非常に高揚感溢れるアルバムだ。日本でも未だに愛され続けている彼らの代表曲“宇宙のファンタジー”や“セプテンバー”が発表される2年以上も前の作品だが、本作の時点で彼らの音楽はすでにひとつの高みに到達していた。「大地、風、炎」という生命の根源的なエネルギーをバンド名に掲げ、世界の回帰と果てしない愛を歌った彼らの音楽はもはや「崇高」ですらあった。それはブラックとしての自分たちのルーツと真剣に向き合った彼らの誠実さの賜物だ。きっと今この瞬間にも彼らの音楽は世界のどこかのダンス・フロアを揺らしていることだろう。雑な言い方で申し訳ないが、彼らの音楽が今でも世界中のフロアで人々を結びつけることができるのは、それが本物のブラック・ミュージックだからだ。EW&Fの音楽は絶対に人を「ひとり」にはさせない。「大地、風、炎」、「愛」、そしてこの「世界」。あなたはきっと、誰かと、何かと、繋がっている。音楽は必ずしも独りぼっちのベッドルームからは始まらない。音楽は、ここからだって始めることができる。ブラック・ミュージックとは、アフリカの広大な大地を仲間と共に駆け、力強くサヴァイヴするユニティから始まった音楽だ。ブラック・ミュージック特有のこの本能的なファンキー・ビートがリズムを刻み始めた瞬間、自然と体が動き出してしまうのはいったい何なんだろう。そう、それはまさに「肯定」だったのだ。
14:27 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

米焼酎

米焼酎
バイト帰りに車に轢かれた。
自転車で走っていたら突如として前方部分がぶっ壊れ、
ハンドルを左にきったのに前輪にそれが伝わらず、
車輪だけが勝手に右に曲がり始めてアレーっと言ってる間にドーン!と。
ちょうど信号前で止まろうとしていた車で、
しかも運転手の人が優しかったからなんとか助かったけど、
本当にもう死ぬかと思った。
雨のせいで、地面がものすごく冷たかった。

写真は今日バイト先で獲得した品。
カウンターの常連さんと「店長(僕)、なんか最近また痩せたんやない?」
「そうですかね~」なんて話をしていたら、
それを聞いた隣に座っていた他のお客さんが同情してくれて、何故か焼酎をくれた。
食べ物じゃなくて焼酎?しかもなんでそんなの今持ってるの?
と?が激しく交錯しながらも、ありがたく頂きました。
バイト上りにはママさんが米をくれた。
ありがとうございます。

家に帰って、あることさえも忘れていた体重計に久しぶりに乗ったら
大学入学当時からマイナス14キロになってた。
まぁ二年半も経てばそれくらい変わるわな。
お腹減ったなぁ。

危うく死に掛け、腹も体重も減るけど、
僕の命はまだまだ萎む気はなさそう。
人生は、それでもやはり美しいものだから。

Life Is Beautiful
Life Is Beautiful
映画には魔法が溢れている
 ナチス・ドイツの迫害によって強制収容所へと送られたユダヤ系イタリア人一家の物語を描いたロベルト・ベニーニ監督主演作。強制収容所の存在も人間の残酷さもまだ何も知らない幼い息子・ジョズエのピュアネスを不安や恐怖から守るために、ロベルト・ベニーニ演じる父・グイドは大きな嘘をつく。「これはすべてゲームなんだよ」と。それからは、さぁ楽しいゲームの始まりだ。グイドがつく嘘はどれも笑えるくらいに巧みで、本当だったら決して笑えない収容所での緊張をゲームの一場面へと変えてしまう。もちろんその裏側に隠されているのは収容所のギリギリの真実だが、ジョズエの見ている世界がたとえ嘘であったとしても、人が前向きに生きるということとそれを最後まで守り抜く姿がいかに美しいかを本作はコミカルに温かく描いている。ひとつの命が笑顔を忘れずに過ごす人生の美しさ。それは、疑いようのないものだ。
 本作についてロベルト・ベニーニは「人生は美しい、しかし現実には人はなかなか幸せにはなれない」と語ったそう。つまり、本作はあくまで「虚構である」という大前提から始まった物語だということだ。色んな人のレヴューを読んだけど、「ナチスの真実を描いていない」とか「本来そこにあるべき凄惨なシーンがなかった」とかくだらないこと言うのいい加減止めろよ。「真実」と呼ばれるものが反吐が出るほど醜悪だから、せめて映画にはこれをやって欲しいんじゃないか。グイドが放つ痛快な嘘はまるで魔法のようにジョズエの世界を鮮やかに塗り変えていく。CGは一切ないが、これはほとんどファンタジーである。これが出来なくなるようだったら映画なんて終わってしまえばいい。ロベルト・ベニーニが映画に夢見た希望も、まさにこれだったんだと思う。
01:14 | 日記 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

まなざし

まなざし
未だかつてこんな鋭い眼差しで見つめられた経験はない。
すべてが見透かされて、見抜かれて、射抜かれてしまいそう。
この眼が無言で語るもの、それがそのままフィオナ・アップルの音楽になっている。

すべての嘘は暴かれる。
彼女はマグマの赤黒さを知っている。
彼女は、真実を見つめている。

Tidal
/ Fiona Apple

Fiona Apple
「私」を殺すラヴ・ソング
 18歳の頃、自分は何を考えながら毎日を過ごしていただろう。自分が歩んできた18年の道程を振り返って、それを「人生」と呼ぶことなんてできただろうか。「だからみんな私を暗い女の子と呼ぶのかしら。私がかつては深く静かな海を渡っていたことを知らずに。だけど彼は私を浜に打ち上げて大切な真珠を奪った。そして私の空っぽの貝殻を捨てていったのよ」。12歳でレイプされたことをこうまで痛々しく告白した少女はそのときまさに18歳。自分の人生に突き刺さった刃で自分を傷つけることでしか癒すことのできない病を抱えたかのような血の滴るリリック。ジャズからの影響を多分に受けた余りに大人びたサウンド。深海の奥底から唸りを上げるような歌声。その歌は、凄まじく圧倒的だった。後に発表された2枚のアルバムでも彼女の表現はこのスタンスからまったくブレていない。彼女が自分を苦しめるトラウマを歌うことに執拗にこだわるのは、心に傷跡という消えない刻印を残すものだけが彼女の把握し得る世界のリアリティだからだ。それは決して視野が狭いということではない。彼女は、若くして「知ってしまった」だけだ。
 全米だけで300万枚を売り上げた本作の破格の成功は、彼女にMTVアワードやグラミーの栄光をもたらした。その授賞式で、彼女はこう言い放っている。「こんな世界は最低よ!」、と。「波の押し引き」と名付けられた本デビュー・アルバム。この時点ですでに彼女は自分が世界という巨大な波に飲み込まれてしまっていることを無意識に自覚していたのだと思う。だから、彼女は何度でも自分を殺す。自分を苦しめる世界に復讐するために、世界を殺すために、どんなに足掻いても世界の一部でしかない自分を、彼女は殺す。だからこそ彼女の闘いはどこまでも果てしないのだ。
01:04 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ポール・スティール

mikawind.jpg
昨年デビューした我らが根暗男といえば、やはりMIKAとウィンドミル。
アートワークを比較するとわかりやすいが、
MIKAは心に根強い孤独を抱えているが故に、
執拗に誰かと繋がろうとする陽気なポップ・ソングを選んだ。
ウィンドミルはむしろ誰かと繋がることを恐れたまま、
それでも外の世界に勇気ある一歩を踏み出そうとした。
このニュアンスの微妙な違いが、それぞれの個性になってる。

そして、今年はポール・スティール。
アートワークを見ると一見MIKAに似たものを感じるが、
彼がMIKAともウィンドミルとも決定的に違っているのは、
孤独なんて抱えてはいないということ。
特に根暗で引き篭もりの情けない男ではないということ。
それなのにこの逃避的なファンタジー・ワールド。
自らを「典型的なイギリス人」と分析する「普通の男」の頭の中だって、
曝け出してみればこんなにも魅力的な世界が広がっていたということ。
普通の人間だって、ただの普通の人間ではないということ。

年間ベスト・アルバムなんかでは選考されないアルバムだろうと思う。
でも、僕は全力でポール・スティールを支持する。
これを「くだらない」とか「幼稚」とか思うようになったとき、
それは多分僕の中で大切な何かが終わった瞬間なんだと思った。

Moon Rock
/ Paul Steel

Paul Steel-Moon Rock
イマジネーションの勝利
 見よ、この最高にぴーひゃらぴーひゃらでぱっぱぱらぱーな世界観のアートワークを。これが若干21歳にしてUK・ブライトンから世界に飛び出したシンガーソングライター、ポール・スティールの頭の中であり、彼の音楽の偽らざる本質だ。なんてったって一曲目から「僕はヒーロー、ヒーロー、ヒーローになった。そして素敵な女の子を救ったんだ」である。星屑みたいにキラキラ光るメロディと夢みたいな妄想の物語を排除すればほとんど何も残らないような音楽。現実世界とは相容れない魅力的な世界観とそれを演出する過剰なアレンジのみで聴き手を最後まで牽引するアルバムだ。子どもだましのおとぎ話に過ぎないと笑いたければ笑えばいい。確かにこの音楽は一種の現実逃避でしかないのかもしれない。こんなもんなくても、現実逃避なんかしなくても、大人になれば現実世界に折り合いをつけることなんて容易くできるようになるだろう。けれど、これは信じる者の音楽だ。厳しい現実世界がすべてではない、ロマンを信じる者の音楽だ。そもそもロックとはそういう音楽ではなかったのか? 真面目に努力して人並み以上に勉強が出来れば食っていくのに困る心配はないだろう。でも、そんなのどうだっていいじゃないか。そんなの、誰にだってできることじゃないか。言うなれば、ポール・スティールは授業も聞かずにノートに落書きばっかりしている困った少年だ。そして、このアルバムは告げている。ひとりの人間の頭の中をありのままに書き尽くした落書きは、方程式なんて楽勝で超えていくのだ。人はそれを「甘い」「夢見てる」と嘲笑うだろう。別にそれでも良いのだ。自分さえも信じられないような連中に、君は絶対に負けない。
10:55 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

Now Playing

petshop7.jpg
ペット・ショップ・ボーイズはもうずっと昔から好き。
一番思い入れのあるアルバムは、
これの次に発表された『ヴェリー』だけど、
批評性という意味ではこれにまさるアルバムはない。

Behaviour
/ Pet Shop Boys

Pet Shop Boys-Behaviour
あなたにも薔薇の花束を
 邦題は『薔薇の旋律』。アートワークを見比べるだけでも一目瞭然だが、通算4作目にしてPSBのアート性が存分に発揮された90年作。ビデオにもそれは強く反映されている。本作がアートとしての表現の深まりを獲得できたのは、これまで痛烈な社会風刺を取り上げてきた彼らが本作でその矛先を内省の深みに向けたことがとても大きい。自己を掘り下げ、省みるときに、過剰な音は必要ない。人がそこにいる、という事実を認めることはただそれだけで深く重い意味を持っているはずだからだ。そのストイックさが本作のサウンドをシンプルながらも重みあるものにしている。冒頭曲“ビーイング・ボアリング”の「僕たちは退屈を感じたことなんて一度もなかった。自分自身を見つけるのに時間が掛かったからね」という言葉に解きほぐされていくかのように、PSBのシンセ・ポップは本作で落ち着きを取り戻し、オーガニックな響きの奥底へと還元されていく。薔薇の花束なんて抱えてる時点でこれは、というものだが、歌詞でもPSBならではのフェミニンな(というかゲイの)魅力が顔を見せていて、内省性とセクシーさと知性が極めて高いレベルで結実した見事なアート・フォームを生み出した作品だ。サウンド面でも歌詞の面でもこれまでの自分たちを積極的に逸脱し、90年代の新たなPSBの誕生を告げた。ジョニー・マーがギタリストとしてゲスト参加した“10月のシンフォニー”は特に秀逸な一曲。
13:14 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

今日のLP

ボズ
本格的に頻度の高くなってきた「今日のLP」。
LPとCDではここの音の膨らみが・・・・・・とかいうマニアックなことはしません。
そもそもそんなこと出来ないし。
ただ僕が最近購入して聴いているLPを紹介するだけ。
うん、とてもわかりやすい。

さて、今日のLPはボズ・スキャッグスの『シルク・ディグリース』。
AORという呼び方は日本特有のものらしくて、
わかりやすく言い換えるなら、アダルトで洗練された音楽、ってとこかな。
ボズ・スキャッグスは特に日本で強く支持されたAORの代表的なシンガー。
名曲“ウィ・アー・オール・アローン”はきっとどこかで聴いたことがあるはずです。
これ聴きながら読書をしていたのだけど、泣けてきてもはやそれどころじゃない。

Silk Degrees
/ Boz Scaggs

Boz Scaggs-Sillk Degrees
AORの神様、永遠のバラード
 恥ずかしい話ではありますが、中学生の頃は付き合ってる人はおろか好きな女の子すらいなかったくせに、ボズ・スキャッグスの“ウィ・アー・オール・アローン”を聴いては毎晩のように枕を濡らしていました。日本でも長く親しまれているこの曲。内気で情けない似たような男子が実は他にもたくさんいることを願っています。
 さてさて、今では完全にボズの代表曲となっている“ウィ・アー・オール・アローン”だが、発表当時は何故かシングルのB面に収録された隠れたナンバーで、それが初めてアルバムに収められたのが76年発表の本作『シルク・ディグリース』。今でこそピアノ・バラードのイメージが強いボズだが、意外にも大学在学時から活動初期には結構荒々しいブルースをやっていたミュージシャンで、本作でもその片鱗を垣間見ることができる(“ジャンプ・ストリート”など)。それと同時に“ワット・キャン・アイ・セイ”などのドライブ感溢れる爽快なナンバーや“ロウダウン”のようなフュージョンにも通ずるソフトなナンバーが収められていたりとなかなか色彩豊かな本作はボズのキャリアにおける十字路のような位置付けのアルバムであり、それまでいまいちヒットに恵まれなかった彼に初めて大きな成功をもたらした記念碑的な作品となった。その勝因は、言うまでもなくラストに収録された“ウィ・アー・オール・アローン”の存在が大きい。未だに自分がこの曲の何に感動するのかよくわからない。けれど、それなりに色んな恋愛を経験した今でも、僕はこの曲を聴いて涙を流すことができる。これから先、結婚したり子どもができたりはたまた離婚したり……なんてことがあったとしても僕はその度にこの曲を聴いてはやっぱり涙を流すんだと思う。外で降り始めた雨の音は窓を閉じて遮ってしまおう。君と僕、世界はそれだけで十分なんだから。ボズが歌うこの甘く切ない情景は、僕の心の中に今でも鮮やかなまま残り続けている。
18:25 | 音楽 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

ほら穴と光

天井
週末になると天井を見上げることが多くなる。
もうすぐ日付が変わる。
何かが終わって、何かが再び始まるはずだ。
自分はいったい何をやっているんだろう。
何をやってきたんだろう。
何をやっていたいんだろう。
これから、どうやっていくつもりなんだろう。
自分は、自分で、自分を、いったいどうするつもりなんだろう。

明日は自分のために暮らそう。
キュアーの音楽は、いつだって僕を「ひとり」にさせる。
「君」さえ、まるで僕の中しか存在しない「君」のようだ。

4:13 Dream
/ The Cure

The Cure-413 Dreams
現実世界を克服するためのロマンティシズム
 前作『ザ・キュアー』以来約4年ぶりとなる通算13作目のオリジナル・アルバム。“ディス、ヒア・アンド・ナウ、ウィズ・ユー”という曲がいい。「これ、ここ、今、君」という余分なものを極限まで排除した世界での「君」との蜜月。この曲に限らずキュアーの楽曲にはこうした閉じられた世界から始まるものが多い。そういう意味で、この曲はザ・キュアーというバンドの世界観を端的に象徴していると言える。それを時に人は現実逃避だなんだと揶揄するが、それはキュアーの真実とは少しニュアンスが違う。大人の化けの皮が次々と剥がれていく終わらない偽装問題、「誰でも良かった」なんて信じられないセリフと共に繰り返される無差別殺人、不透明な政治・経済政策……極東のこんなちっぽけな島国にでさえ溢れかえっている解決を見ない問題の数々。何ひとつ信じられないようなこんな世界で、いつの間にか絶対的な「自分」さえ失ってしまいそうなシステマチックな世界で、それでもすべてを終わらせる「死」を特権化・神格化せずに現実世界を生き延びていくために、ロバート・スミスは「誰のものでもない世界を夢見ればいい」(“ザ・ハングリー・ゴースト”)と歌うのだ。自分の中に外の世界と拮抗できるほどの高い強度を持ったもうひとつの世界を育てることさえできれば、それは実際には起こらないが「起こらない」という形の真実となるのだと彼は歌っている。本作のアートワークには「この世に確かなものなど何もない。だが、それでも星を見上げれば私は夢を見ることができる」というゴッホの残した言葉が綴られている。「これ、ここ、今」という揺るぎない「自己」と「君」という唯一信頼できる世界で見る夢は、それが閉じられた場所だからこそいかに開放的なスウィート・ドリームなのかということをキュアーはやはり本作でも伝えている。学校、試験、入試、就職、昇進、退職、老後、死――自分以外の誰かに用意された当たり前の人生に何の疑問も抱かずに果てるのか、そこから「自己」を守るために単なる役立たずの妄想と紙一重の夢を見るのか――。果たして、本当に狂っているのはどっちだ?

23:55 | 日記 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

今はモンキー

ゴリラ
『デーモン・デイズ』は持っていたけど
ファーストの方は借りたCDをコピーしたものしか持っていなかったので、
ちゃんと買った。

ゴリラズを初めて聴いたのは中学の頃で、
NIKEの靴買ったとか変なこと歌う連中だなぁと思った覚えがある。
当時の僕のデーモンのイメージは、
“カントリー・ハウス”で「たまらねぇ~」と歌っている変なヤツだったから
(ホントに「たまらねぇ~」って聴こえる)
やっぱりこいつは変なヤツなんだと思ったけど、
デーモンは本物の天才だったんだ。

Gorillaz
/ Gorillaz

Gorillaz-Gorillaz.jpg
デーモンのポップ・センスが再び開花した一枚
 アメリカ映画のクラブのシーンなんかでゴリラズが流れていたりすると、本当の本当に成功したんだなと今更ながら妙に感慨深い。我らがデーモン・アルバーンと『タンク・ガール』などで知られるコミック・イラストレーターのジェイミー・ヒューレットが生み出した、2D、ヌードル、マードック・ニカルス、ラッセル・ホブスの四人組からなるギネス認定の「世界一成功した架空バンド」であるゴリラズ。本作は、ブラーでさえも成しえなかったアメリカ進出を見事に成功させ、全世界で700万枚という驚異的なセールスを記録した彼らの記念すべきファースト・アルバム。ここ何年もアフリカやアジアなど世界各地の音楽に対する興味と好奇心からくる凄まじい生産性でほぼ毎年なんらかの作品を発表しているデーモンだが、ザ・グッド、ザ・バッド・アンド・ザ・クイーンなんてバンドを掛け持ちしているところからもわかるように、作品を作る上で彼は自分が「ブリティッシュ」であるという前提をすっ飛ばしたことなんて一度もなくて、だからこそそれはあくまでイギリス人的な視点で再解釈された新しい音楽として成立していた。本作の全体的なムードを作っているメランコリックなメロディも、絶対にアメリカ人には書けないものばかりだ。それに加えてそれまでのデーモンの創作活動の重要な支柱だったグレアムが不在の新しいバンドでここまでワールドワイドなリアクションを得られたことは、ゴリラズのこの作品がこの後に繰り広げられる彼の数々のプロジェクトの第一歩だったという点でも非常に重要な意味を持っていたのではないだろうか。ブリット・ポップという狂騒が彼にもたらしたものが、お祭りの高揚感ではなく紛れもない敗北感だっただけに、本作がデーモンを「次」へと進ませる重要な契機となった意味はやはりとてつもなく大きい。
13:57 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

今日のLP

Heroes.jpg
実は、ジョイ・ディヴィジョンを紹介したときに
「今月のLP」から「今日のLP」に昇格しました。
めんどくさいから記事タイトルは全部「今日のLP」です。
月に一枚ペースだったけどどんどん紹介していきます。

そんなわけで、今日はデヴィッド・ボウイの77年作『ヒーローズ』。
本当は『ジギー・スターダスト』のLPが欲しかったのだけど、
なかったからこれにした。
同じポーズで写真撮って友達に送ったら「雲泥の差」と笑われた。

Heroes
/ David Bowie

David Bowie-Heroes
「ヒーロー」の破壊
 憧れの物語とは、言い換えるなら、コンプレックスの物語である。何度も整形手術を繰り返し、現実世界にネバーランドを創造しようとしたマイケル・ジャクソンをイメージしてもらえるとわかりやすいかと思う。憧れとは、それが少なくとも現状では絶望的に手の届かない存在だからこそ、「憧れ」と呼べるのだ。マイケルはピーター・パンにはなれなかった。でもだから、彼はどうしようもなく憧れてしまったのだ。
 ボウイの写真はどれも息を呑むほどに美しい。日本人写真家の鋤田正義氏によって撮られた本作ジャケットのボウイは特に美しいが、その究極の美の追求は、ボウイのような美男子ですら抱えているであろうコンプレックスと彼が正面から向き合うことを強要するある意味で残酷な行為なのではないか、と彼の美しい姿を見るたびに僕はいつもそう思う。『ヒーローズ』(邦題は『英雄夢語り』)と名付けられた本作で、ボウイは自分がスターとしてあり続けるということがいったいどういうことなのかを赤裸々に明かしている。その一曲目に“美女と野獣”という象徴的な楽曲を持ってきたのは非常に感慨深い。タイトル曲では「僕たちは一日だけヒーローになることができる」と歌っている。ボウイは、それがたった一日だけの物語だったとしても夢は叶うと歌っているのではない。シンデレラという魔法が午前零時に解けてしまうのと同じように、夢は必ず覚める、と歌っているのだ。そう、自分がピーター・パンにはなれないということを、遅かれ早かれ僕たちは気付いてしまう。だから、最終曲“アラビアの神秘”でボウイは歌っているんじゃないか。「ヒロインが死んだとき、僕の目の前に広がっている景色は荒涼たる砂漠なのだ」、と。この言葉を最後にヒーローの物語は終わる。
14:55 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

オレンジがはじけてる

ship.jpg
今はもうやっていないけど、
月曜の昼休みには、いちおう部会をやっていた。
今日部室に行ってみると、やっぱり何人か集まってきた。
気付いたら、ほとんど引退した連中ばっかで現役は二年生の新部長ひとりだった。

昼休みが終わると、何人かはちゃんと授業に行き、
いつもテキトーな連中は授業をサボってしょーもない話ばかりしていた。
しょーもない話に、ちょっとだけ真剣に悩んだりした。
部室にこもって仲間としょーもない話をしていると他のことなんてどうでもよくなる。
こんなくだらない日々も、
いつかなんて曖昧な言い方ではなくすぐに終わってしまうんだと思った。

ブライアン・ウィルソンは、終わるものは終わらせてしまってかまわないと言う。
青春は、そんな単純な「終わり」で回収することはできないと歌っている。
だからこそ青春はこんなにも開放的なのだと、彼は伝えている。

That Lucky Old Sun
/ Brian Wilson

BrianWilson-ThatLuckyOldSun-coverar.jpg
青春は「いつか終わるもの」だと思っていた
 今年実に66歳を迎えた巨匠ブライアン・ウィルソンからの新作。まさか今になってこんな作品が聴けるとは夢にも思わなかった。今から40年近くも前に制作を完全に放棄した作品を60代になってからもう一度始めから徹底的に構築し直した傑作アルバム『スマイル』。あのアルバムが、ビーチ・ボーイズという永遠の呪縛によって彼と聴き手すべてを60年代という遠すぎる「過去」に否応なしに縛り付ける作品だったのに対して、本作は感動的なほどに「今」でしかないブライアン・ウィルソンを鳴らしている。所々に語りを織り交ぜながらの17曲38分というこの極めてコンパクトかつ濃密な瞬間の中で彼は今だからこそ振り返ることのできる自分史を歌い上げていくのだが、そんな彼の背後に広がっていく景色は、「サーフィン」「女の子」「カリフォルニア」という眩しさに溢れた、そう、40年前のビーチ・ボーイズが楽しげに戯れていた、あのキラキラとした青春以外の何物でもない。ビーチ・ボーイズは、紛れもなく若き青春のバンドだった。そして同時に、無力感や虚脱感というあまりに残酷な青春の「その後」まで、正確に鳴らしてしまったバンドだった。ブライアン・ウィルソンは、自らの夢見た青春の煌きを自らの手で裏切った男だった。あの眩しい海に背を向けてしまった男だった。だからこそ彼の罪はどこまでも重く、『スマイル』はその完成までの果てしない年月を遥かに超えて彼を拘束し続ける十字架だったのだ。一度は絶望と狂気の淵で立ち尽くした男が今、「どんな声も、どんな思い出も、僕の心を固く閉じさせる。誰に会っても孤独だった。暗闇に取り残された僕には薄い影さえなかった。それが明日につながる真夜中だと知るまでは」と歌っている。遥か40年前、ひとりの青年が眩しげに見つめていたあの輝かしい景色は、本当の希望だったのだ。
02:46 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

今日のLP

クローさー
今日のLPはジョイ・ディヴィジョンのセカンド・アルバム、『クローサー』。
「閉塞」の意味かな、「近くなる」の意味かな。
とにかく、「閉塞」感はすぐ「近く」にある、ということだろう。
これを制御できなくなったときに人は壊れるのか?
イアン・カーティスは、壊れてしまったのか?
むしろ、壊れないようにするために必死だったような気がする。
だったら、いったい何が彼を殺したんだろう。
心の闇は果てしない。

Closer
/ Joy Division

Joy_Division_Closer.jpg
ヒーズ・ロスト・コントロール
 ジョイ・ディヴィジョンは、例えばオアシスやストーン・ローゼズといったイギリスの表舞台で一時代を築いたバンドたちとはまったく異なる場所に立ち居地を取っている。イアン・カーティスは「ロックンロール・スター」ではなく言うまでもなく「カルト・ヒーロー」として取り上げられる。そしてそれは、彼の死後に語られた、すべてが後になってからの物語だ。しかし、「ママ、信じて、僕は頑張った。精一杯やったんだ。これまで自分がしてきたことを恥じる。僕は自分という人間を恥じる。孤立。孤立。孤立」というほとんど病的にも響く“アイソレーション”の圧倒的な絶望と閉塞感が、決して彼が特別な状況におかれた特別な人間だったから背負ってしまったものではないということが映画『コントロール』を観ればすぐに理解できる。しかも、この曲はバンドがシンセサイザーを新たに積極的に取り入れて、本作から音楽的な面での飛躍を図ろうとしたことを告げる代表的なナンバーだ。それなのに、まるでありとあらゆる感情が凍てついてしまったかのようなこの冷たさはなんだ。結果的に、セカンド・アルバムにしてラスト・アルバムとなった本作の発表とアメリカ進出の直前という通常なら胸を躍らせるような希望を抱いてもおかしくないまさにそのときに彼はこの暗さを抱えたまま自宅で自らの首を吊った。二人の女性の狭間で揺らぐ心とプレッシャーという余りにもありがちな悩みに真剣に苦しんだ「普通の男」は、ただ弱く、不器用だっただけだ。そう、まるで人格が乖離したかのようなこの背筋の凍る孤立感は、僕たちの、こんなにも、こんなにもすぐそばにあるのだ。僕たちは、いつだってこの心の闇に触れながら、それでも生きているのだ。
01:09 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

Photo is

bri.jpg
昔、ものすごく不純な動機で購入したブリトニー・スピアーズのデビュー・アルバム。
生まれて初めて「アイドル」と呼ばれる人のCDを買った。
ブリトニーのアルバムを買うのはサードを最後に止めた。
最新PVがすごかった。
でも、ブリトニーはこの頃のブリトニーをもう永久に超えられない。
別にそれで良いと思っている。
今でもファンかと訊かれたら、CDは買わないけど僕はイエスと答える。

人の写真を撮るのは難しい。
写っている人の可愛さやかっこ良さを超えて、
見る人の目を釘付けにする写真を撮るのは本当に難しいし、
そんな写真は滅多にない。
マシュー・スウィートのこのアルバムのジャケット写真を初めて見たとき、
僕はそこに写る女の子の素性なんてなにひとつ知らないくせに、
「あの子」だ、と息を呑むほど驚いた。
僕は、「あの子」のことを何も知らない。
この写真を見るまでは、顔はおろか、その存在すらも知らなかったんだから。

Girlfriend
/ Matthew Sweet

Matthew Sweet-Girlfriend
名前も知らないガールフレンド
 ビヨンセの新曲が良い。“イフ・アイ・ワー・ア・ボーイ”。「もしも自分が男の子だったら、女の子の本当の気持ちをもっとわかってやれるのに」と歌う名バラードなのだが、それはまぁ実際に男の子が女の子の気持ちをいまいちわかってやれない事実があるからこそ切なく響くのであって、もし何でもかんでも理解できてうまく対処されたらそれはそれでどうなのだろうと思わないでもない。恋愛なんて極端な話がもうひとつの世界との対峙なのだから。二人がピッタリ重なり合うことではなくて、それでも向き合い続けるということなのだから。二人が決定的に違っているということを認めることなのだから、わからないことだらけ齟齬だらけで別に良いのだ。それを恥じたり疎ましく思ったりする必要なんてまったくない。そんなネガティヴを超えるものは確かにあるのだ。もちろんビヨンセが歌いたいのはそういうことじゃないから別にどうでも良いのだけれど。
 マシュー・スウィートが91年に発表したレーベル移籍第一弾作。一部を除けばほとんど全曲で思いを寄せるガールフレンドについてのことが歌われている。「僕の可愛い映画スターになっておくれよ。僕が長い間憧れていた女の子になってくれ。君のことあまり知らないっていうのは事実だ。だけど僕はこの世界でひとりぼっち」なんて歌われたもう感涙モノだ。けれど、僕がこのアルバムを好きな一番の理由は、やっぱりこのジャケット写真。はっきり言って他のことはどうでもいい。名前も年齢もどこから来たのかもわからない女の子。僕が好きな女の子とは似ても似つかない女の子。でも、彼女は確かに「ガールフレンドの顔」をしている。僕には、こんな表情は出来ない。
17:40 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

マメ

ドロップ
今夜は23時から明日の朝7時までサークル会館の夜警。
僕たち三年生は今週で引退した身だけど、
でも三年生が一番多いんだろうなぁ。
昨日、元部長からメールが来て、「三年会をやろう!」と。
絶対に参加する。
今日の夜警も、もちろん。

The Script
/ The Script

The Script-The Script
結晶のような音楽
 デビュー・アルバムとなる本作がめでたく全英一位を獲得したアイルランド出身のスリー・ピース、ザ・スクリプト。勝因は間違いなくマルーン5を彷彿とさせる極めて純度の高い、この切ないメロディだ。濁った瞳を浄化するような透き通ったメロディの根底にあるのは、しかし、意外にも傷心や迷いといった重く暗い感情だったりする。ヒップホップのリズムを取り入れたサウンド・デザインも彼らだけの特別な魅力だが、彼らの音楽がグッド・メロディを武器にする幾多のバンドと決定的に違っているのは、やはりその始まりにある絶望だ。“ジ・エンド・ホエア・アイ・ビギン”という曲がそれを感動的なほどに象徴している。「自分が絶望していたときに、音楽だけが自分を救ってくれた」と語る彼らの歌はだからこそ力強く、音楽への信頼に溢れていて、彼らは音楽に対してどこまでも正直になることができる。ジャケットに描かれているような貧しい工業地域から世界に飛び立った彼らの成功の物語は、絶望という絶対的なひとりから「俺たちは共に泣く」という普遍とそこからだからこそ立ち上がる希望へと昇華する彼らの音楽にそのまま置き換えることができる。個人的には音楽へのその信頼が裏切られ破綻したときの深い絶望とそこからの希望の凄みはもっと強烈なんだぞ、と言いたいところだが、とにかく、成長の余白をまだまだ十分に残したこれからが期待できる良いバンドの登場だ。
20:23 | サークル | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

すごい

Intimacy
/ Bloc Party

Block Party-Intimacy
本当の闘いはここから始まる
 ケリーが現代社会の悪意とリンクする自身のトラウマまで回想、披瀝し、徹底した具体性を描ききった前作『ウィークエンド・イン・ザ・シティ』。約二年ぶりに発表された最新作となる本作は、まるで前作のコンセプチュアルな構築美から解放されたかのように本能的で、ともすればとっ散らかった印象すら受けかねない。ただ、それは「散漫」と同義ではないことを強く主張したい。ファーストのプロデューサーであるポール・エプワースとセカンドのプロデューサーであるジャックナイフ・リーという二人のプロデューサーの下でそれぞれに異なったプロセスを経て楽曲としての具現化まで辿り着いた本作収録曲がきれいに秩序立っていないのは当然のことであり、彼らが本作でやろうとしたことはまさにその模索とバンドの成長過程における「今」という一瞬の記録なのだろうと思う。CD化までの半年が待てずにダウンロードのみでの先行発表という形を彼らがとったのも、だからだと思う。
 だがしかし、である。成長過程の一場面でしかないはずの本作は、それにも関わらず、ものすごい一枚になってしまっている。ブロック・パーティーの歌が描く世界のリアリティ、それは、『サイレント・アラーム』ではひどく曖昧で、まるで曇ったガラス越しに外の風景を眺めるようなぼんやりとしたものだった。だからこそ、それに続いた『ウィークエンド・イン・ザ・シティ』では曖昧な表現など許されなかった。彼らは不器用なほどに自分たちを省みてしまうバンドなのだ。そして、だとしたら、『ウィークエンド・イン・ザ・シティ』という深い内省の後に描かれる物語は、当然『インティマシー(=親しさ)』という何かと関わることについての物語でなければならなかった。そして、ブロック・パーティーが本作で関わろうとした「君」は、決して「隣にいる存在」ではなく、セックスをするときのような「向かい合うべき存在」であり、だからこそその対峙の向こうに待ち受けているのは「世界」という巨大な存在なのだと、本作は歌っている。それはつまり、「君」にとっての「僕」が「向かい合うべき存在」だというのと同じ意味であり、「僕」の背後に屹立するのも「世界」であり、「僕」がどうしようもなく「世界」の一部であるということを伝えている。ブロック・パーティーの歌う世界観は、本作ですでにそんなところまで来てしまっているのだ。これは、実はあのレディオヘッドが辿った「世界との対峙」へ道程と非常によく似ている。人が持て余す興味や興奮の対象が、地上、空、そして宇宙にまで突き抜けて最後には究極的な「自己」へと向かう真実を告げるかのように『イン・レインボウズ』というひとつの達観を導き出したレディオヘッド。ブロック・パーティーの成長過程の途中である本作は、これがまだ「途中」だという意味において、彼らのまだ「この先」へと進む未来の確実さを約束している。どうしてレディオヘッドだけが世界を前に進み続けることができるんだろう?と考えたことがある。だが、それはもう違うかもしれない。このどうにもバカでかく胸糞悪い世界と対峙しているのは、もはやレディオヘッドだけではないのだ。
04:43 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

なんぶ

紅ーに
何か、これは観てみたほうが良いよーという映画はありませんか?
次は『ピノッキオ』と『ライフ・イズ・ビューティフル』の
ロベルト・ベニーニ・ツインパックを買おうかなぁと思っているのだけど、
実はいまいちそそられてないというか、決定打に欠けるというか、
まぁ二枚でこれならという価格だから別に良いのだけど。
コーエン兄弟の作品もちょっと気になるなぁ。
『オー・ブラザー!』、映画観たことないけど何故かサントラ持ってる。

映画は俳優陣よりも監督で選びます。
映画は誰が出てて費用がいくらかかってということではなくて、
何を描いているかのみで評価されるべきだと思うから。
というのはただの屁理屈で、最後は個人的な思い入れだ。
ロックと同じ。
強い思い入れのある監督が四人いる。
ダニー・ボレル、スタンリー・キューブリック、宮崎駿、
そして、やっぱり一番強烈なのは、ラース・フォン・トリアーだ。
この男はすごい。本当に、すごいんだから。

Breaking The Waves 
奇跡の海

奇跡の海2
信じられない、でも、それは確かにある
 世界は間違っている。「正しい」と反義の意味ではもはや追いつけないほどに、どうしようもなく間違っている。世界がもし正しいのなら、地球はあらゆる生命に都合の良い温度を保つことができただろう。僕たちは、病を患うことなんてなかっただろう。僕たちは、力を持て余すことなんてなかっただろう。僕たちは、満たされない虚しさなんて抱え込まなかっただろう。パズルのピースをはめ込むみたいに、すべてはうまくいったはずなのだ。
 事故で全身麻痺になってしまった夫・ヤンを少しでも救うために、その妻・ベスが示した狂おしいほどの様々な愛の形。ヤンの言うことに献身的に従うこと。他の男と関わること。毎日のように神に祈ること――。そのすべては、愛する夫を救うためであると同時にベスが自分自身を救うために貫こうとした信仰にも近いものだ。そして、限り無い愛情という名のその信仰は、結果的にはヤンもベスも救わなかった。人間が人間を前にして余りにも無力なのはまだ理解できる。人間は人間を超越することなどできやしないのだ。しかし、神すらも、全能であるはずの神すらも、人間を救うことはできないのだ。人間を作ったはずの神でさえ、それはできないのだ。そもそも神という概念を作り出したのは人間なのだから、神は人間の内にこそ宿る存在なのだから、それはある意味で当たり前だ。まるでメビウスの輪のように、鶏と卵の関係のように、ねじれたまま永遠の周回を続ける果てしない矛盾にからめとられた世界。間違いはどこから始まったのか、そもそも始まりはいったいどこなのか――。それすらわからないから、僕たちの絶望はいつまでも終わらないのだ。そして、だからこそ、間違った世界の間違った住人である人間を救うことのできる可能性が、それでもたったひとつだけ残されているということを、この作品は伝えている。それは、人間も、神も、世界も、あらゆる前提をも超越するたったひとつの存在。人は、それを「奇跡」と呼ぶ。

11:52 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

テリー伊藤のような

kaiser.jpg
今日はバイトのはずだったけど他の人に「代わってくれん?」と言われ、
別の日に行くことになって今日は急に休みになった。
休みの日は一畳くらいのスペースでほとんど生活するから
すぐそこに枕があったりする。

金髪豚野郎にこだわり続けてる泰葉がまたテレビで何か言ってるみたい。
泰葉みたいな女の人は好きじゃないけど、でもどんどんやっちまえと思う。
テレビはこんくらい無責任で良い。
テレビはひとりの惨めな女性も金髪豚野郎も地球も、
何も救えなくたって良いんだから。

明日はサークルでちょっと遅れて大祭の打ち上げと
僕たちの世代の引退式をかねた飲み会がある。
その前日に僕はカイザー・チーフスの新作を聴く。
“ユー・ウォント・ヒストリー”、最高だ。
どんどんやっちまえ!と思わせる彼らのベタベタぶりが爆発。
「女の子が動けば男の子も動く
女の子が動けば男の子が参加する」
ではちょっとだけ“アングリー・モブ”を思い返した。
うちのサークルはちょっとそんな感じがあったような気がする。

Off With Their Heads
/ Kaiser Chiefs

Kaiser Chiefs-Off With THeir Heads
本当の進化はこれから
 デビュー・アルバムが全英だけで200万枚を超えるヒットを記録し、昨年発表したセカンドも一位を獲得した新世代UKロックの代表選手、カイザー・チーフスからのサード・アルバム。たった一年という短いスパンにも関わらず、確実に自身のロックを前進させた快作である。歌詞は僕たちの日常から少し浮かび上がり、物事を曖昧にするアブストラクトではなく、大きな広がりを見せる抽象的なものが増えた。彼らが世界と繋がるために必要としたベタベタにポップな歌謡的メロディは本作でも健在だが、サウンドは大きな変化を見せている。エレクトリックな要素を多く取り上げ、ダンス・フロア・アンセムのような高まりと躍動感をそれぞれの楽曲が極々自然に手にしているのだ。そもそもがリーズにあるクラブで知り合った仲間同士から始まったカイザー・チーフス。そんな彼らの音楽がダンスとの高い親和性を持っていることはもしかしたら当然だったのかもしれない。けれども、本作の意味はメンバーがバンドの始まりに立ち返った原点回帰に収まらず、同時にカイザー・チーフスの「これから」を示唆する重要なものでもある。前作を初めて聴いた時に漠然と考えたことは、カイザー・チーフスはずっとこの手法を貫くつもりなのだろうか、改めるつもりはないのだろうか、というモヤモヤとした不安のようなものだった。だからこそ、本作がもたらした変化の意味するところはとてつもなく大きい。僕たちの日常を泣き笑い、「普通であること」の魅力を鳴らしてきたカイザー・チーフスは、その「普通さ」からなら、どこにだって行けるのだ。そして、もうその準備は整ったのだろう。そういうことだと思う。

20:18 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

今日のLP

Joy division
今日で大祭も終わり。
飲んで食って寝ただけのような四日間だったけど、
間にはいろいろと、なんだか自分にとっては大切なことがあったと思う。
今年のキャラクター・オブ・大祭にも会えたし、充実した四日間だった。

ただ、外が充実してたぶん家に帰ると集中力が切れて、何も手につかなくなる。
何やるのもめんどくさいし、CDも溜まるばっかで一向に進まない。
結局ロスキャぺ!から一週間近く何も新しいの聴いてないぞ。
今もぼんやりジョイ・ディヴィジョンのLPをかけながら
音を消したテレビを眺めている。

このジャケット、このミニマリズムが、
イアン・カーティスの誠実さと神経質さを象徴している。
ジョイ・ディヴィションを聴いていると、
堕ちていく感覚がどんどんリアルになる。

Unknown Pleasures
/ Joy Division

joy division-unknown pleasures
「大人になりたい」なんて一度も思ったことない
 「早く大人になりたい」とよく言うけど、そこで「大人」と呼ばれる人たちは、本当にいろんなことを知っていて、いろんなことに思い悩んで、思慮深く成長していった人たちなのだろうか。そうやって生きてきた人たちなのだろうか。それは自分の言動に責任が取れるとか何でも自分で手早く解決できるとか、そんな単純なことじゃない。社会に出てもスイスイうまくやっていけるのが「大人」なのか。小さなことでもいちいち立ち止まってるやつは、いつまでたっても「子ども」なのだろうか。
 ロックを聴いていると、自分が日頃漠然と抱えている倦怠や失望に、自分よりももっと具体的に、複雑かつ深遠な世界で、自分と同じように思い悩んでいる大人たちがこんなにもいるんだという震えるような共感を覚えることがある。みんなでただいらないことに立ち止まってるだけだ、と笑いたければ笑え。「新しい夜明け」が“break”ではなく“fade”するという未来への圧倒的な絶望を歌い、23歳という若さで自らの首を吊ったイアン・カーティスは、うまくやれなかったから、救いようのない「子ども」だったのだろうか。「子ども」の彼がうまくやれなかったのは、それでも自分のことを知りすぎていたからだ。自分が自分であることを、必死で守ろうとしていたからだ。だとしたら、僕たちはいったいどんな「大人」に早くなりたいというのだろう。「大人」になったら、いろんなことに思慮深くなれるんじゃなくて、いろんなことが、心の底からどうでもよくなるんじゃないか。このアルバムを聴くといつもそう思えてきて、なんだかものすごくダルい。
23:52 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ウェルカム・トゥ

The Black Parade
/ My Chemical Romance

My Chemical Romance-The Black Parade
命よりも大切なもの
 すべてをそこで終わらせる死。すべてをそこから永遠に変える死。いったい何が違うのかと思う。どちらが正しいという問題ではない。でも、死が僕たちのすべてをそこで断絶させてしまうものならば、それは少し悲しすぎると僕は思う。僕たちが生きるということは、結局は死で区切られてしまうのかと思う。自分を区切ることができるのは、自分自身ではないのかと思ってしまう。だとしたら、僕たちは自分のために生きることなんて究極的にできやしないじゃないか。だって、僕たちを生かすものは自分自身じゃなくて、天から授けられたありがたい命だということになるじゃないか。僕たちは、命なんていう一般論で生きてはいない。それぞれがそれぞれの人生の中で抱え込んだどうにも個人的な思いを守り抜くために生きてるんじゃないか。せっかくこの世に享けた生? 大切な命? そんなくだらないもののために、前向きに生きられてたまるかってんだ!
 だからこそ、マイケミは死に対してある意味で恐ろしく無責任になることができる。このアルバムを聴いていると、死を超越する永遠はある、と僕は本気でそう信じることができる。それは、生死なんかに自分の人生区切られてたまるか!という開き直りに近いものかもしれない。死のその先を信じる永遠、その果てしなさはつまり、生き続けるという力強い勇気なのだとこのアルバムは伝えている。本作の主人公である若くして死病を患ったザ・ペイシェント。人を愛することができず、母親にも見捨てられたまさに絶望的なその少年は、明日命が終わってしまうとしても、それでも自分は続く、生き続けてみせる、という決意を胸に抱いて、今夜も瞳を閉じる。言うまでもなく、死が訪れれば僕たちの命は終わる。それでも「自分」を終わらせることができるのは生きる意志を失った自分だけなのだと、だからこそどんなに絶望的な状況でも生きる勇気と恐怖さえ放棄しなければ「自分」は終わらないのだと歌うブラック・パレードは、本当の希望だ。
23:53 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

忙しや

きのこ
今日からうちの大学の祭りが始まった。青嵐祭。
知り合いの出店でキノコのキーホルダーを買った。
僕らの出店は明後日明々後日の二日間。
明日は買出しやら何やらの前日準備だ。
ホットドッグとフランクフルトを出すのだけど、
今日見ただけでも同じような店が五店ぐらいあって、笑いが出てきた。
フランクフルトはどこにも負けないと思った。

友達の友達に写真部の人がいるし
僕だって写真には興味があるから写真展を観に行ったのだけど、
一枚だけものすごく印象的な作品があった。
他はなんとなく白黒で撮ったり
写真そのものよりも被写体の魅力に頼ったような作品が多かったけど、
『月と不死鳥』と名付けられたその作品は、存在感がまるで違った。
写真は、やっぱり、あるものを撮るのではなくて、想像力だよね。
とその写真は無言で語っていた。
頼んだら好きな写真をもらうことができたみたいだけど、
なんだか恥ずかしいから止めといた。

そんなわけで、あんまり音楽が聴けてない。
ロスキャぺの最新作を聴いてからは、一枚も新しい作品を聴いてない。
だから今日は適当な映画感想文でお茶を濁す。
日本ではあまりヒットしてないのかな?
面白いのにな。

Wanted
wanted.jpg
映画『ウォンテッド』を観て
 おすぎがテレビでギャーギャー騒いでたりDAIGOがやる気あるんだかないんだかみたいなCMしてたり絶対面白くないだろ、どうせ典型的なアメリカ映画だろ、と思いながらも劇場で他に観たいものがなかったから観た映画。逆の意味で煮え湯を飲まされたような気分にさせられて、迷わずもう一度飲まされに行ってしまった。銃撃ちまくりで弾は曲がるわカーチェイスは激しいわ列車は落ちるわネズミは爆発するわヴァイオレンスだらけだわ人は死にまくるわアンジェは綺麗すぎるわで、おっぱい以外の映画にやれるカタルシス全部ぶち込みました、しかも最新の映像技術とアイディアで。そんな、既存のアクション映画を(やっぱり『キル・ビル』は全然超えられないけど)楽勝で乗り越えた面白い作品だと思う。うだつのあがらないダメ男がひょんなことからヤバイ世界に足を踏み込んで段々生き生きし始めてクールに成長していって……というベタな話だが、何と言っても凝りに凝った映像デザイン(“FUCK YOU”“GOODBYE”は最高にクールだった)が本作をオリジナルで特別な映画へと引き上げていた。スローで強調された場面は特にややこしいことは何もしてないけどほとんど全部今まで観たことのないような影像ばかりで、動きの遅さに反して心臓の鼓動は高まるばかりだった。やっぱりアクション映画はこうあって欲しいよね。映画みたいなセンセーショナルな出来事は滅多に起こらない毎日の生活にバキュン!と風穴をぶち開けるような、映画本来の魅力を思い出させてくれた痛快な作品だった。以上、感想文終わり。
03:24 | 大学 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。