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「自分」が始まった場所

PRISMIC
/ YUKI

yuki.jpg
夢ならば、覚めないで
 久しぶりにこのアルバムを聴きながら町を自転車で走っていると、毎日眺める景色なのになんだかやけにキラキラと懐かしいような気がした。これはきっと、ちょうど今頃の季節だった「あの頃」の景色なんだろうと思った。そう気付いたときに、このアルバムが僕にとってのたったひとつの永遠であり続けているのは、これが終わらないアルバムだからではなく、「あの頃」で完全に時を止めてしまったアルバムだからなんだと思った。そして、このアルバムがYUKIの「新しい始まり」であると同時にだからこそひとつの「終わり」をここに永遠に封じ込めているように、それはつまり僕の中で何かがすでに終わってしまったことを告げているのだと思った。いったい何年前の話なのだろう。それはもう4年以上も昔の、まだ意識は10代の少年には遠すぎる過去の話だ。今なお僕を縛り付けるこの呪いは、それでも嘘みたいに鮮やかに僕を「あの頃」へと引き戻す行為を、止めてはくれない。だから、だからこそ、YUKIが“汽車に乗って”を発表したことは僕にとって凄まじく大きな出来事だった。そう、僕には懐かしい汽車に乗り込んで向かう、帰るべき場所がある。辛くなったら、どうにもこうにもいかなくなったら、いつだって帰ってしまえば良いんだ。「あの頃」という過去に凍りついたように存在する終わってしまった出来事は、もう二度と始めることなどできやしないから、だからこそ何度でも終わらせてやれば良いんだ。何度も何度も「あの頃」に帰って、何度も何度も終わらせてしまえば良いんだ。そうすれば、何度だって始めることが、前に進むことができるとYUKIは歌っているのだ。泣きながら、それでも「ただいま」と言って帰れる家は、やはりどうしても必要なのだから。僕を「あの頃」に縛り付ける永遠の呪いは、だから、こんなにも、どうしようもなく、愛しい。
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02:19 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ロスキャぺ!

loscape.jpg

「自分の体に魅力がないなんて嫌になるほどわかってる
弱っていく急所をかくまってるだけの出来の悪い入れ物だって
僕の心が先に死ぬことを願う」

「実用主義者じゃない私は価値のない人間
どうかご心配なく
自分たちで何とかしますから
あなたにも、誰にも頼らないことを私たちは学びました」

「彼女は言った“教えてダーリン、私たちに未来はあると思う?”
“まあ、たぶんね。僕らの間に2つの未来があることは確かだよ”」

「元彼女の部屋に入っていったら(ちなみに僕はまだ彼女を愛している)
どこかのイケメン野郎の顔にキスしまくってる彼女
僕の大好きなバンドの一番人気の曲をBGMに
どっちが気に食わないのか決められない僕はおかしい?
僕の心の中の最前列を支配しているのは
君じゃなく、ひどい顔で部屋を出てくる僕の姿」

ロス・キャンペシーノス!の最新作から。
一曲一曲に込められた言葉の精度は凄まじく高い。
泣ける音楽はたくさんあるが、
音楽を聴いて実際に涙を流したのはいつ以来だろうか。
僕は、こんなにも、こんなにも、無力だ。
ダサくて、情けなくて、役立たずで、
それでも、キラキラ輝きたいんだ。

We Are Beautiful, We Are Doomed
/ Los Campesinos!

Los Campesinos!-We Are Beautiful We are doomed
僕たちは美しく、そして、役立たずだ
 今年二月にデビュー・アルバム『ホールド・オン・ナウ、ヤングスター……』を発表したばかりのロス・キャンペシーノス!から早くもセカンド・アルバムが届いた。八ヶ月という性急さもあって音楽面で特に目立った成長はない。相変わらず七人みんなでガチャガチャと楽しそうに楽器と戯れている。しかし、リリックの面では、まるで文化祭のノリの延長のようだった前作から明らかな飛躍を確認することができる。ここに一部を書き連ねたくなるくらい、言葉に明確かつ鋭い目的意識の萌芽が見られるのだ。
 ロスキャぺが歌っていることは、いわゆる普遍的な一般論とは少し違う。例えば、就職を目前にして対社会・対世界の構図のど真ん中にいる若者、その中でも特に社会・世界の一部として取り込まれていく自分に疑問を感じている者、違和感や息の詰まりそうな閉塞感に押しつぶされそうになっている者、早い話が自意識だけ無駄に立派な社会不適応な人間が生きていくことについて、だ。みんな一緒に仲良く「せーのっ」で世界に飛び込んで、平凡だけどささやかな幸せのある安定した毎日を繰り返す。僕たちは、そんな人生を送りたいんじゃない。僕たちが欲しいのは、誰にでも未来は平等に訪れることを告げる眩しい朝日なんかじゃない。好きな女の子と裸で寄り添いながら落ちるように眠る、そんな、明けることのない永遠のような夜が、僕たちは欲しいんだ。そういえばロスキャぺは前作でこう歌っていた。「真夜中はいつだって最悪な一日へのカウントダウン」――。だからこそ、僕たちの願いは絶望的だ。そんな僕たちがそれでも生きていくために、ロスキャぺは歌う。「世界に向かって叫べ。この世界は君を愛してなどいない。自分を下げるんだ。そうしなきゃ生きていけないから」。やり方次第で世界はいくらでも捏造できる。終わらない夜を造り出す魔法を僕たちは持っているのだとロスキャぺは歌っている。この究極の現実逃避の果てに待っているものは、希望なのか、それとも絶望なのか。それについて考えるのは、今はとりあえず止めといた方が良い。「ポップ」と呼ばれる魔法がこの世界で役立たずなことを僕たちはもう知っている。僕たちは、その役立たずな魔法を、それでもただ奪われたくないだけなのに。
01:21 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ラビット

絵日記2
へたくそな絵日記でお茶をにごす。
今日は、こんな一日だった。
ロスキャぺの新作、これは本当にすごいから聴いてみて。
明日は学校休むっきゃないと思った。

近いうちにロスキャぺのCDレヴューも載せます。
今日はとりあえず違う最新作で。
モグワイの最新作とかオーディナリー・ボーイズのファーストとか
ブラックマーケットとかのジャケットで動物園の写真を撮ろうとしたけどやめた。

Snowflake Midnight
/ Mercury Rev

mercury_rev-snowflake_midnight-album_art.jpg
そうだ、「ここ」以外にも世界はある
 実はマーキュリー・レヴの作品はこれまで『オール・イズ・ドリーム』しか聴いたことがなくて(『ディザーターズ・ソング』ですらまだ未体験です……)、本当に、偉そうなこと言える立場ではないのだけど、「すべては夢」だなんて超甘ったるい印象しかないせいで彼らがかつては地鳴りのような轟音を呼び寄せるバンドだったという話を聞いても未だに実感が湧いてこない。ただ、その轟音が彼らを世界から遠ざけるための、遠い遥か彼方に思いを馳せるための手段だったのだとしたら、それは「すべては夢」という現実逃避と本質的に通じていると言えるのではないだろうか。世界との繋がりを拒絶し、自分たちを守るために彼らが必要としたもの――それが、サイケデリックという音楽だったのだ。
 実に通算7作目となる本作。今にも地面に溶け出してしまいそうな甘く美しい歌声とシンフォニーは健在。けれど、本作がこれまでのマーキュリー・レヴのイメージと決定的に違っているのは、ここには、エレクトロニカという曖昧を許さない機械のビートが起動されているということだ。そして、サイケデリアとエレクトロニカという通常相容れないふたつの要素が絡み合って生み出された空間は、決して居心地が悪くないということ。多分、マーキュリー・レヴはサイケデリアの薄膜をついに破ろうとしているんだと思う。ここで激しく打ち鳴らされるビートは、揺らめくサイケデリアの結界に亀裂を入れるための鼓動だ。早く外に出たいとでも言うかのように子宮の中で暴れまわる生命の力強さ。この音楽は、そんな何かが閉ざされた空間からついに誕生する直前のような高揚と、その希望を歌っている。
03:37 | 音楽 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

煉瓦とモルタル

スタンリーロード
ポール・ウェラーにはものすごく洗練されたファッション・センスがある。
デビューした時からすでにそうだったけど、
でも、彼みたいに本当に渋くてかっこいいオヤジには、
自分の人生の深みを噛みしめてきた人しかなれないんじゃないかと思う。
雑誌とか流行とか追いかけるのも良いと思う。
でも、ファッションが当人の意識に関係なく常に人に見られるものである限り、
そこには「その人」がなくちゃならない。
人やものと関わりながらも自分が自分であることを
おざなりにしてこなかった人のファッションは、
何も語らなくたってその人の存在感を際立てるものなんだ。
ポール・ウェラーのオシャレさは、そこだと思う。

そんな彼に憧れる僕は、
高い金出してマイケミのパーカーを買いました。
でっかく「REVENGE」と書いてある。
「そのお金でもっとオシャレな服買えただろうね」と呆れられ、僕もそう思った。
まぁ、僕はそんな感じで良いんだと思う。

In The City
/ The Jam

The Jam-In The City
モッドファーザーだってかつては若く、青かった
 今年発表したソロ9作目『22ドリームス』がめでたく一位を獲得したポール・ウェラー。イギリスで最も成功したロック・スターのひとりとして今も現役活躍中の彼が初めてシーンに登場したのは今から実に31年も昔の話。フロントマンでありソングライターとしての彼を中心に結成されたバンド、ザ・ジャム。当時のパンク・ムーヴメント以前の60年代ロックを原型としたアグレッシヴなナンバー。当時まだ19歳という若さにしてすでに渋みを滲ませたボーカル。ジャムの記念すべきファースト・アルバムとなった本作は、ポール・ウェラーの名を世に知らしめた傑作アルバムだ。しかし最も重要なことは、『イン・ザ・シティ』と名付けられた本作が、彼の紛れもないスタート地点だったということだ。『22ドリームス』収録曲である“シー・スプレイ”で「僕を故郷に連れ帰ってくれ」と穏やかに歌っているポール・ウェラー。彼がUKロック界の永遠の兄貴として今なお多くのシンガーからリスペクトされ続けているのは、郊外の貧しい労働者階級出身という自らの前提を、そこへの帰属意識を、彼が一度も忘れたりはしなかったからだ。「都市には輝ける顔をした25歳以下のキッズが溢れている」「アメリカには海があるかもしれないが、イギリスのキッズにはストリートがある」と彼は『イン・ザ・シティ』で歌っている。若者は『イン・ザ・シティ』という「ここ」できっと繋がれる、とポール・ウェラーは歌っているのだ。そして、彼自身もまたその若者の一人なのだ。階級社会や企業といった「大人の世界」に彼が明確な怒りと目的意識を持って曲を書き始めるのは、もう少し後の話だ。
15:18 | 音楽 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

すごかった

Clover Field
cloverfield_galleryteaser2.jpg
世界をも変える映像の説得力
 9.11が世界を変えたのは、二機の飛行機がビルに突っ込んだまさにその瞬間の出来事がきちんと映像で「記録されていた」、ということが大きいのではないかと思う。僕は、朝起きてテレビを観たときに初めてあの事件を知ったのだけど、ビルに飲み込まれる巨大な鉄の塊と人々の悲鳴が生々しく記録された映像は映画のワンシーンなんかよりも全然リアルで、「今、世界は変わったんだ」という信じられない事実を裏打ちする一番の説得力を持っていた。
 とあるパーティーの撮影のために回されていたビデオに記録された、夜のニューヨークを突如襲ったパニック。事件の一部始終をダラ撮りしたビデオ映像には、平穏だった日々、事件の始まり、人々の混乱、撮影者の息遣い、最後……すべて記録されている。言ってしまえばそのビデオ映像を最初から最後まで垂れ流しにするだけの映画なのだが、だからこそ僕たちは自分が事件のまさにその現場に居合わせてしまったような錯覚と興奮と恐怖を、エグイくらいに体感することになる。そして、映画の中でビデオ映像が事件の重要な資料として扱われているように、それが「記録されていた」という事実こそが最も恐ろしいということをこの映画は伝えている。人ごみに車で突っ込んで刃物を振り回したりとか母親が公園で子どもを殺したりとかが決して極めて異例な事件ではなくなってしまっているこの世界で、僕たちは鮮やかな映像を通してその事件の瞬間を「まだ目撃していない」に過ぎないのだ。地獄のようなパニックも人間が何者かに殺される瞬間の戦慄も尋常じゃない狂気も、それらは紛れもなくこの世界に存在しているし毎日のように発生しているが、それはただ「記録されていない」だけだ。だからこそそれが「記録された」とき、僕たちは変わってしまった世界から目を逸らすことのできない耐え難い恐怖を感じるのかもしれない。エンターテインメントとしても新鮮で面白い作品。ビデオが終わる3秒前になったら画面右側に全神経を集中させてください。
11:47 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

絵日記

絵日記
無印で買った文庫本ノートに、
今日から絵日記を描いていくことにした。
幼稚園児が描いたみたいになっているが、
21歳の大の男が描いた絵日記最初のページである。
ちなみに真ん中にあるのはプリンで、「手振れ」と書いてある。
はっきり言ってヒドイというかイタイというか、とにかくツライ絵日記だが、
これから毎日描いていくつもり。
楽しくなってきた。

12月にフォール・アウト・ボーイの新作が出る。
今日はこのアルバムを久しぶりに聴いた。

Infinity On High
/ Fall Out Boy

Fall Out Boy-Infinity on high
月は欠けてもなお美しい
 アルバム発表当時のインタビューで、パトリックが本作のことを「個人的なアルバム」と何度も繰り返していたのが印象的だった。個人的な思いから引き出された特別なメッセージという意味ではなくて、本作に詰め込まれた実に多種多様な音楽的要素がそれぞれ個人的だと語っていたのだ。実際、本作におけるエモ的な要素といえば前作から更に磨きのかかった感傷的なメロディぐらいのもので、彼らの個人史のサウンドトラックとして響くR&Bやらクラシックやらメタルの要素まで貪欲に飲み込んだ楽曲たちは、これまでのように「エモ」と簡単に成分表示のできる代物ではない。ここまで思い切って音楽面での雑食ぶりとその個人性を作品として具現化させられた理由について、パトリックは「無理に気張ったり自分を抑え込んだりしなくても良いんだということに気付いた」と語っていた。当然のことを言っているように聞こえるかもしれないが、前作の大ヒットがバンドにもたらした状況の変化は、オタク気質で内向的な性格の彼らを少なからず当惑させたはずだ。ピートに至ってはこれまでまるで無関係だったゴシップ誌まで図らずも賑わせてしまったほど。そんな中で彼らが「解放」にも似たひとつの悟りに本作で辿り着いたことを、ゴッホが死ぬ直前に書いた手紙から引用したという本作アルバム・タイトルが何よりも象徴している。ゴッホ曰く「星たちとその高さの無限(Infinity On High)を感じること、そうすれば人生はほぼ魅力的に映る」。パトリックは、「『ほぼ』というところが良い」と言う。つまり、無限の高さから人生を俯瞰したとしてもそれはそう魅力的に映らないこともある、ということだ。決して完全ではないのだ。このアルバムがパトリックの言うとおりの「個人的なアルバム」なのだとすれば、それは彼ら自身が不完全であるということを受け入れたという意味でも非常に個人的な、そして感動的なアルバムだということになる。不完全とは、だからこそ無限の可能性であり彼らの音楽宇宙の探求が永遠であるということを、このアルバムはこんなにも輝かしく伝えている。
02:48 | 日記 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ファックト・アップ

FUCK.jpg
最近、何をやってもいまいち集中できない。
音楽がちょっとうるさい。活字はめんどくさい。
もうすぐ大学祭があって、
サークルでの出店企画に関する仕事も探せばたくさんあるのはわかっている。
でも、全然積極的に関わろうとしてないし、関われてない。
ダメだダメだこのままじゃダメだ。
こんなの全然前向きじゃないし、こんな自分は嫌だ。

ピート・ドハーティの“ファック・フォーエヴァー”は、
初めて聴いた時から僕の心の叫びだった。
ファック、ファック、ファック・フォーエヴァー。
全部消えちまえば良いのに。
憧れと劣等感のジレンマ。
飲み込まれて押しつぶされてしまえば楽か。
消えることすらできないから、ファック・フォーエヴァーと叫ぶんだ。

ハードコアは、いつもはあんまり聴かない。
なんだかリスト・カットみたいな音楽だなと聴くたびに思う。
好きなバンドはいるけど、好きな音楽ではない。
でも今はこういうやつが良い。

The Chemistry Of Common Life
/ Fucked Up

Fucked Up-THe Chemistry Of Common Life
切っ先に宿るピュアネス
 「音楽にはもう興味がない」と公言する、トロント発の六人組ハードコア・パンク・バンド、ファックト・アップ。この大胆な発言の裏側には、ネットやデジタル・プレイヤーなどの急速な隆盛に飲み込まれて今やそれら魅力的なツールの一部でしかなくなった音楽に対する強烈なシニシズムがある。「音楽を聴く」という行為に対する根本的な再確認の必要性や音楽の新たなパフォーマンスの場所を鮮やかに提示したネット上ならではの数々の可能性は、その上にちょこんと乗っかった音楽そのものの本質的な発展とは絶対に違うのだ。音楽は、もはや「音楽を聴く」という行為の本質ではなく、様式のひとつでしかないのだ。ファックト・アップは、そんな行儀良く様式美と化してしまった僕たちの音楽を、徹底的にデフォルメするバンドだ。叩きつけるように繰り出されるバンド・サウンドとピンク・アイズの巨漢から放たれるシャウトは、渦巻くような底深いフラストレーションに満ちている。音楽的に特に新しいことはなにひとつやっていない。狂気的なギター、野獣の咆哮のようなボーカルに加え、十代から三十台後半まで揃ってますというメンバー構成の秩序の無さやマスタード・ガスとかミスター・ジョーとかふざけたあだ名を付け合っていたりとかバンドの名前とか、存在感はとにかくイビツで変な形をしているが、その切っ先は氷を打ち砕くアイス・ピックのように恐ろしく鋭い。ほとんどのロック・バンドがマイスペースにページを設けて時にはそこをオフィシャル・サイトにまでしている中で、ファックト・アップは今でも非・マイスペ住民を貫いている。本当に変なのだが、面白いバンドだ。“ブラック・アルビノ・ボーンズ”という曲がべらぼうに良い。初めてフガジを聴いた時の、血の滴るような戦慄を思い出した。
17:35 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ホームカミング

アメリカンイディオット
バイトの帰り道、今日はグリーン・デイの『アメリカン・イディオット』を聴いていた。
写真の中で再生中なのは“ホームカミング”。
どれだけ背伸びをしても、どれだけ手を遠くに伸ばしたとしても、
僕が帰るべき場所は、「ここ」だ。
変な顔したこの「自分」に帰ることを本気で嫌悪した時、僕は死ぬんだと思った。

そして、グリーン・デイは、「死ぬな」と歌っている。
結局、僕たちは「ここ」を抜け出せないのかもしれない。
何も変わらないのかもしれない。
帰るべき場所は、それが帰るべき場所である限り、
出発した場所よりも美しくなったりはしない。
それを嫌悪するな。死ぬな。
だからグリーン・デイは9.11という悲劇を契機とした
こんなアルバムでも相変わらずポップだ。
自分を取り囲む、変わらない世界。
それでも、人はこんなにも前向きに生きることができる。

American Idiot
/ Green Day

Green Day-American Idiot
あなたの「ホームカミング」を問うアルバム
 一大コンセプト・アルバム。一曲で五部構成九分を超える壮大なロック・オペラ。パンク史上初となるグラミー最高賞まで獲得した本作で、グリーン・デイは説明不要の凄まじい飛躍を遂げた。しかし、このアルバムが生まれた背景は、深刻さにこそ差はあるものの、メジャー・デビュー作『ドゥーキー』を発表した頃と実によく似ている。つまりはアメリカの衰退と絶望であり、その状況の当事者だからこそのアイデンティティ・クライシスだ。「今、アメリカに生きる」ということは、いったいどういうことなのか。大飛躍作と呼ばれる本作で彼らが選んだ歌うべき場所は、またしても、他でもない、荒んだ郊外だった。90年代であろうが、21世紀であろうが、「アメリカに生きる」ということは、つまりは「郊外に生きる」ということなのだとグリーン・デイは歌っている。独創的なアイディアと辛辣なメッセージを楽曲に持たせながらも本作がかつてのグリーン・デイらしさをまったく失っていないのは、彼らの立っている場所が今でも変わらない郊外だからだと思う。というか、自分たちが帰るべき場所はそこしかないということに誰よりも彼ら自身が意識的だからだと思う。そう、世界は変わらないし、僕たちの帰るべき場所はいつだって僕たちが出発した場所だ。だからこそグリーン・デイは言う。僕たちは、世界なんて救えないし、救わなくてもいいんだ。僕たちが救わなきゃいけないのは、自分自身と、自分の大切な人だけでいいはずだろう? 君が始まった場所は、世界なんかじゃないはずだろう? どんなにうだつのあがらない自分だったとしても、そこがどんなに荒れ果てた郊外だったとしても、自分にだって帰るべき場所はあるんだという希望の手応えが、僕たちは欲しいんだろう? それを僕たちは「ロックンロール」と呼ぶんだろう? 「アホなアメリカ人にはなりたくねぇ」となじりながら、グリーン・デイは問うているのだ。君が本当に守らなきゃいけないものはいったい何なのか、と。
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清水の舞台から

LPPlayer.jpg
大奮発して念願の自分のレコード・プレイヤーを買いました。
本当は父親から譲り受けた高価なものがあるのですが、
なにぶん古いせいで中のゴム部品が切れてしまって
盤を回せなくなってしまいました。
レコード、買うのは良いけど、ずっと聴けなかったんです。
これからは、特に古い作品はレコードで買っていこうかなぁと思っています。

今回っているのはカーシヴのシングル『バッド・セクツ』のレコード。
やっぱりCDで聴くよりも音の輪郭が曲線的かな?
ズバズバとストレートに音を差し込んでくるのではなく、
音が膨らみながら近づいてくる感じ。
カーシヴは、どちらかというとズバズバの方が真骨頂のような気もするけど、
この曲はちょっと例外。

Bad Sects
/ Cursive

BSCover.jpg
新曲が早く聴きたい
 USネブラスカ・シーンの重鎮、ティム・ケイシャー率いるカーシヴの現時点での最新作である『ハッピー・ホロウ』(06年)からのダウンロードとアナログ盤だけの限定セカンド・シングル。アメリカの罪と悪意を苛烈なまでにシニカルに告発する14の賛美歌によって構成されたアルバムの中では4番目の賛美歌として収録されている。副題は“司祭の情欲”。敬虔な教会司祭と修道士の青年との禁断の関係と、その後の後悔と葛藤の物語を生々しく描いたこの楽曲は、カーシヴが得意とする戦慄と虫唾が同時に走るような激情的なナンバーではないが、静かに、足元からゾワゾワと這い上がってくるような不快感と紙一重のカタルシスは、確かにある。そしてもちろん言うまでもなく、その不快感は決して楽曲を包む不穏なムードからのみ感じられるものではなく、つまりはそれが僕たちの生きる世界のリアリティの偽らざる一面だということだ。
 このシングルが画期的なのは、オリジナルとインストゥルメンタルの通常トラックの後に、ネット上で一般からリミックスを募集して開催されたコンテストからの最優秀作を収録しているところだ。Crude Mechanicalというアーティストによるデジタル・リミックスが採用されている。ネット上でのアーティスト側からのアクションに関してやたらと目に付くのは無料配信とかの派手なものばかりだが、シングルのB面というはっきり言ってコアなファンのための小さな領域でしかない場所でもネットの力は存分にその面白さを発揮している。
13:51 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

もぐもぐ

モグワイー
バイトの帰り道、モグワイを聴こうと思ったらiPodに一枚も入ってなかった。
そういえば、外でモグワイを聴こうと思ったことはこれが初めてかも。
夜だから魔が差したのかな。

モグワイほど他人と共有したくない音楽はない。
今年の最新作は違ったけど、
シガー・ロスも僕にとってはそういうバンド。
彼らのライブには、死ぬまで行きたいとは思わないだろうな。
ひとりでしか聴けない音楽は、やっぱりどうしても必要だから。

CDレヴューは、一応写真だけセカンド・アルバム。
前作からの変化とかイギー・ポップのインタビューのサンプリングとか、
そんなの実はどうでもいいんだといつも教えてくれる気がして、
僕はモグワイ作品の中ではこれが一番好きだ。

Come On Die Young
/ Mogwai

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本質を射抜く音楽
 一発聴くだけでもすぐにわかることだが、モグワイの音楽の方法論は、僕たちが日頃聴いている通常のポップ・ミュージックのそれとはまるで違うとよく言われる。それはつまり、極端に言うのなら、モグワイの音楽はポップ・ミュージックではないということを意味している。だからこそ当然のように、メッセージを届けて聴き手から何らかの感情を喚起させるような、ポップ・ミュージックとしての大前提の動機が、モグワイの音楽にはない。それはどこまでもクールで、張り詰めていて、何よりも本質的だ。あるインタビュー記事で10年後もモグワイとして活動しているかという質問に対してスチュアートが「たぶん……やめる理由も見つからないしさ」と答えていたのが興味深かった。どこまで本気で答えていたかはわからないが、それは「モグワイを続ける明確な理由も特にない」と置き換えることができるのではないだろうか。僕はモグワイの音楽を聴いても特定の感情が湧いてきたりとか気持ちが高揚したりとかいう風にはならなくて、なんで自分はわざわざこんな音楽を聴いているんだろうという終わらない自問が始まってしまうのだけど、それはもしかしたらスチュアートがモグワイのメンバーの一員として楽器と格闘する瞬間と似ているのかもしれないと思った。僕を押し流すこの理由なき轟音の行方は、いつだって「自分はなぜ音楽を聴くのか」という究極の本質論だ。スチュアートがモグワイを通して対峙している問題も、そこなのではないだろうか。モグワイが作品を作り続ける最も根源的な動機は、それなのではないだろうか。もしもポップ・ミュージックが誰かと繋がるための音楽だとしたら、自問を繰り返すモグワイの音楽は、自分がひとりであることを確認するための作業なのかもしれない。そしてだからこそ、押し寄せる津波のようなモグワイの轟音に身をゆだねているとき、それでも僕はいつも圧倒的なまでの「静寂」を感じている。
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イン・レインボウズ

夜道
レディオヘッド『フロム・ザ・ベースメント』を買った。
『イン・レインボウズ』は夜に聴く音楽だなと思った。
何かが生まれる、夜。
歴史は夜に作られる。

ここはどこだろうと思った。

In Rainbows
/ Radiohead

Radiohead-In Rainbows
レディオヘッドが「レディオヘッド」になった一枚
 レディオヘッドは、これまで常に世界のあらゆる事象・存在を否定し続けてきた。レディオヘッドは、これまで一度も何かを否定したことなんてない。これは、実はまったく同じことを意味している。つまり、レディオヘッドが世界を否定するということ、それは彼らにとって、否定すべき世界は紛れもなくここに「ある」じゃないか、という肯定だったということだ。しかし、昨年発表された本作『イン・レインボウズ』が彼らのキャリアにおける特異点であると同時にひとつの到達点として屹立しているのは、世界を否定するために、唾棄すべきものの存在を肯定するために、これまで歪ませてきた必然のノイズが、ここで徹底的に濾過されていることからも容易に理解することが出来る。すべての音が、まるで深海の奥深くで手を漕ぐような滑らかさで耳から心に滑り落ちていくのだ。ここでのレディオヘッドは心に引っ掻き傷を残すノイズをもはや必要としていない。否定を通過するという、肯定に向かうためのプロセスを飛び越えてついに辿り着いた達観こそ、『イン・レインボウズ』という無限の高みだったのだ。例えば『OKコンピューター』に「90年代」という永遠の制約がかけられているように、『パブロ・ハニー』から『ヘイル・トゥ・ザ・シーフ』までのレディオヘッドのすべてのアルバムは、その時々の彼らを取り巻くあらゆる状況と密接にリンクしてきたがために、そこで完全に時を止めてしまっていた。『イン・レインボウズ』は、そうはならない気がする。現に、発表から約一年が経った今も、『イン・レインボウズ』だけはまるで初めて聴く作品と向き合うようにして聴くことが出来る。地上からだと半円にしか見えない虹は、宇宙から見ると実はひとつの完全な円を描いているのだという。虹の周回に、終わりはないのだ。肯定すべきすべてと終わらない永遠。それを内包する果てしない自由。「あなた次第」。レディオヘッドの世界は、22年の時を超えて、ここに初めて完成したのだ。
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奇才

奇跡の海
観たい!
観たいなぁラース・フォン・トリアーの『奇跡の海』。
三時間弱かぁ。
バイトで疲れたし多分眠くなっちゃうだろうなぁ。
決して派手な顔ではない。
でも、なんだか、なんだか、すごい表情。
この先が気になる。
とりあえず観るのは明日で、
別のラース・フォン・トリアー作品をレヴュー。

Manderlay
manderlay.jpg
人民の人民による人民のための間違い
 過去にも何度か「三部作」として作品を発表しているラース・フォン・トリアー。主演のニコール・キッドマンを執拗なまでに苛め抜いた『ドッグヴィル』から始まった、完結の第三部が現在も制作中である「機会の土地・アメリカ三部作」の第二部が本作『マンダレイ』だ。人々の集まる場所、コミュニティとは、それそのものが本質的な悪意を孕んだ間違いなんだということを描いた『ドッグヴィル』。だとしたら、その次に描かれるべきはその間違ったコミュニティの在り方を正すために人々が作り上げる規則や法律についての物語であるはずだ。黒人差別が公然と行われる町、マンダレイ。ひとりの果敢な白人女性の手によって差別からついに解放され同時にそれまでの「すべきこと」を失った黒人たちは、しかし、まさにその瞬間から、能動的な生活を送れなくなってしまう。この冒頭部だけで、規則というものが人間本来の生き方をいかに不自然な形に歪めてしまうかということがわかりすぎてしまう。でも、この作品が本当に恐ろしいのは、差別という理不尽な契約を破り捨てて、人々が本当の自由と平等を手に入れるための、コミュニティとしてうまく機能するための、民主主義という素晴らしいアイディアが、結局はこの町を崩壊へと導いていることだ。ラース・フォン・トリアーに言わせれば、コミュニティという前提そのものが間違っているのだから、そこから生まれた民主主義が間違っているのはもはや当たり前だ。9・11以降のアメリカは、自分たちの足元の再確認を余儀なくされてきた。自分たちの立っている場所は本当にあの「自由の国」なのだろうか? ここは、正しい場所なのか?と。しかし、ラース・フォン・トリアーからの「アメリカ三部作」という告発がどれも果てしなく重いのは、それがそんな9・11を契機にした混乱についてではなく紛れもないそれ「以前」についてのものだからだ。そして、その恐ろしく根本的な人間の間違いは、だからこそこんな極東の島国にでも当てはまってしまう。「嘘つきは政治家の始まり~」なんて誰かが言っていたが、自由で平等で便利で仲良しな多数決が作り上げてしまったものは、結局はそれだったということなのだ。
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レオン

レオン
初めてキングス・オブ・レオンのCDを買ったとき、
僕は、きっと彼らは昔のバンドなんだろうと思った。
昔のバンドの作品を間違えて買ってしまったんだと思った。
だって、こんな連中が21世紀に生活しているわけがないだろう。
しかも男三兄弟に従兄弟って。
どんなファミリー・バンドだ。
あり得ないと思った。
音はもっとあり得なかった。
それは、ロックンロールだった。

Only By The Night
/ Kings Of Leon

Kings Of Leon-Only By The Night
アメリカン・ロックの至宝
 シーンの文脈と照らし合わせて誰もが彼らに「ガレージ・ロック」のレッテルを押し付けていたデビュー期から早五年。彼らがこんなにも芯の強いロックンロールを鳴らすバンドにまで成長するなんて、いったい誰に想像できただろうか。田舎町の小さなガレージから数え切れない大衆の歓声に揺れる巨大なスタジアムへ――彼らのそんなアメリカン・ドリーム的大飛躍は、そのまま彼らの鳴らすロックンロールの成長の物語に集約されている。U2やパール・ジャムといった世界的なスタジアム・バンドの前座に度々抜擢され大舞台を踏んだ経験とその手応えから「キングス・オブ・レオン」という自分たちのバンドが放っている存在感の程と生み出すべき世界観を自覚した作品が前作の『ビコーズ・オブ・ザ・タイムズ』だった(“マクフィアレス”とか“ファンズ”とか、本当に最高のロックンロール・ソングだった)。そんな『ビコーズ・オブ・ザ・タイムズ』からたったの一年という短いブランクを挟んで発表されたこの最新作は、自分たちの成功を自覚したひとつのバンドのその後の成長の記録として、再び素晴らしいロックンロール・アルバムに完成している。地にしっかりと足の着いたその大陸的なロックンロールは、やはりオールド・スクール・ロックンロールにも深く精通したまま、前作とは比べ物にならないほどアレンジの幅が利いていて、今回も本国アメリカよりイギリスでバカ売れしているという話を聞くとアメリカ人はいったい何やってんだとちょっと怒りすら湧く。この若さで、こんなにもシンプルなのに、こんなにも太いロックンロールを出来るバンドは、残念ながら今の世界にはキングス・オブ・レオンしかいない。なんだかんだ言ってもやっぱアメリカのロックンロールはすげぇんだと思い知らされる。
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機会の地

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ラース・フォン・トリアー監督「アメリカ三部作」からの
『ドッグヴィル』『マンダレイ』のツインパック。
完結の三作目は現在制作中のもよう。
何でもいいから衝撃的な映画を観たいという方は、
是非一度観てみると良いとお思います。
一瞬で、「異質」だということが理解できると思います。
でも、映画を観て不快感を味わいたくない人は絶対に観ない方が良いです。
心が底なし沼に沈むみたいに、不快なドロドロが続きます。

Dogville
Dogville.jpg
アメリカ、という月の裏側
 ラース・フォン・トリアー監督の名を世界に知らしめた傑作『ダンサー・イン・ザ・ダーク』で彼が描こうとしたものは、他の何でもない絶望だったという。絶望としか言いようのない、絶対零度の圧倒的なまでの絶望。あの作品が奇跡だったのは、そこに、ビョークが居たということだ。ビョークのクリエイティヴが、追い詰められた絶望の境地で、希望の扉を開いてしまったということなのだ。
 だからこそ、彼が本当に描きたかったものはこれだったんじゃないかと思う。ひとりの美しき逃亡者が迷い込んだ世界から隔絶された村(ドッグヴィル)は、そこが住人たちにとってのただひとつの運命共有の場所だったからこそ、まるで野犬のように保身と欲求に対して恐ろしく愚直だった。そして、何よりも罪深きは彼らの存在が実際の野犬ではなく狡猾な人間であったということに尽きる。ドッグヴィルというコミュニティの平穏を保つための、ひいては住人ひとりひとりが自分の生活を守るための保身と欲求についての愚かしい正論が、その裏側にある住人の脅えが、それが彼らのどうしようもない「弱さ」だからこそ、それは絶望の悪循環を呼び込む本質的な悪意なのだということを、ラース・フォン・トリアーは本作で描ききっている。そしてそれは、相撲界とか食品偽装とか政権交代とかが喧しく騒がれる「今」というこのときにも、企業とか派閥とか政党とか国家とか社会とかいう、大小の規模に関係のないあらゆる人間のコミュニティの中で発生している果てしないダウンスパイラルなのだということを告げている。何ひとつ残さずにすべてを終わらせる以外、コミュニティに救済の余地はない。この映画に、未来はなかった。
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サイエンティスト

TVRADIO.jpg
TVオン・ザ・レディオの最新作。
歌詞読み難っ!
気付いたらさっき読んだところと同じ行を読んでたりする。
聴きながら同時に読むから、
一度迷子になると歌にもう二度とついていけなくなる。
たまにありますよね、こういう読み難いの。

決して目立つ曲ではないけど、
“ファミリー・トゥリー”という曲が良い。
初期コールドプレイみたいで面白い。
こんな曲もできるんだという、
彼らの音楽的な振れ幅の広さを窺い知ることができます。

Dear Science
/ TV On The Radio

TV On The Radio-Dear Science
変わり続ける音楽の宿命を背負って
 端的に言って、本作でTVオン・ザ・レディオが歌っていることとは、終わりであり、始まりであり、つまりは変化であり、刷新だ。ロックを含むあらゆる総称としてのアートとは、何度も変化を繰り返しながらそのスタイルを更新し、加えてその変化のみによって自身を向上へと導くことのできる、言わば「変態」的な体質を持ったフォルムである。アートにとって変化とは常に前向きな刷新でなければならないし、変わることを恐れて無変態という怠惰に陥ってはいけない、ということだ。コールドプレイはかつて人間の果て無き精神を、終わらない追究の学問である科学に例えた。TVオン・ザ・レディオがここでいう「サイエンス」とは、追究の彼方にこそある刷新としての「科学」であり、言うまでもなく、その延長上にはロックが、アートが、そして僕たちの存在がある。
 TVオン・ザ・レディオのロックは、要素のひとつひとつを切り取って検証すればそれは決して真新しい音楽とは言えない。彼らのロックがそれでも最先端の音楽として響くのは、サウンド配列という卓越したデザイン力によるところが大きい。しかもそれはどこまでもシンプルで、ポップだ。通算三作目となる本作は、そんな方法論を更にストイックに磨き上げ、自身のロックをもう一段階上のレベルへと更新した見事な快作となった。そして、「親愛なる科学へ」と書き始められたこの手記の中で、彼らは滔々と語り始める。深い内省に沈んで物事を深く掘り下げることも時には必要かもしれない。だがしかし、科学を、ロックを、アートを、僕たちを、最終的に向上させるものは変化でしかないのだ、と。変化とは革命なのだ、と。そして、来るべき時は来たのだ、と。
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ドゥーキー!

アートワーク
海外ロックのアートワークっていうのは、
いちいちコンセプチュアルで面白いですよね。
深読みしたくなるポイントがたくさんあります。
「アート」というからには、やはりそこには意図があります。
それを探るだけで作品の理解がグッと深まったりするので、
アートワークは結構細かく見ます。

写真はグリーン・デイの言わずと知れたメジャー・デビュー作。
ちょっと『ウォーリーを探せ』みたいで、好きなアートワークです。
犬が良いよね、犬が。
モンキーは戸惑っていますが。

Dookie
/ Green Day

Green Day-Dookie
パンクをやってうなだれるな
 グランジ&オルタナの絶望ですらも状況を変えられないという行きの場ない諦念がアメリカのロックを覆い尽くした90年代初頭。グリーン・デイのメジャー・デビュー作であるこのアルバムが発表されたのはそんな薄暗いアメリカの空気が一層重苦しさを増した94年。この年、カート・コバーンは自分の頭にショットガンの銃口を向けた。アートワーク左上に描かれた飛行船のボディに“BAD YEAR”と書かれているとおり、90年代のアメリカのロック最悪の年だった。そんなところに空気も読まずに投下された本作は言うまでもなく苛烈なまでのパンク論争を巻き起こし、一部大批判を食らったものの異例のロング・ヒットを記録、最終的にはグラミー賞まで受賞してしまった。しつこくなってしまうが、この能天気なポップ・アルバムが発表された時点で、アメリカを覆う分厚い暗雲がすでに吹き飛ばされていたわけではない。その証拠に、本作でグリーン・デイが歌っている場所は鬱屈を抱えた少年の満たされない生活の一場面だ。それを実に楽しげに歌い上げたズッコケ三人組。あちこちで繰り広げられる醜い争いは終わりを見ず、自由が溢れているはずの空を飛行船が浮かない顔して泳ぎ回り、神さえも人間の営みに無関心な、混沌の極みとも呼べるクソみたいな世界。そこに文字通りの犬のクソ放り込んでやるだけで世界はこんなに愉快になるじゃねーかという、イタイぐらいのアイロニーをくわえ込んだグリーン・デイのロックだけが、結局はアメリカのロックを救えた。
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イーニド

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『バーバー』という映画を観ていたらスカーレット・ヨハンソンが出演していて、
ふと、『ゴーストワールド』が観たくなった。
僕はいったい何をやっていたんだろう。
「この映画を観ろ」の記事を書いたときに、
なんでこれを入れて全部で十作品にしなかったんだろう。
と激しく後悔しました。

Ghost World
GhostWorld.jpg
すべての虐げられた者たちへ
 高校の時、メジャーとかマイナーとかいう意味不明な「階級」にやけにこだわる連中がいた。スポーツができて、おもしろいことが言えて、それなりにお洒落でかっこよくて、それを自分たちで自覚しているおめでたい連中が自分たちのことを「メジャー」と呼び合って、僕みたいにダサダサな恰好しかできなくて(私服校だったからなおさら)、球技大会とかでもいつも足引っ張って、気の利いたことのひとつも言えないダメな連中は「マイナー」と呼ばれ明らかに見下されていた。その自称・メジャー連中の一人がある日、「メジャーなやつはNIKEしか履かない」とか大声でしゃべっていて、僕は、本当に、本当に、ぶっ殺してやろうかと思った。お前のそのありがたいNIKEシューズは新興宗教の奇跡の壺かよ。みんながそれに憧れて買い求めるとでも思ってんのかよ。ただビビッてるだけじゃねぇか。優越感ばっかり逞しくして、みんな同じファッションで自分のこと守って、仲良く群れてるだけじゃねぇか。疎外されないための価値観、「せーのっ」でみんな仲良く始まる予定通りの就活、誰かに用意された安全な人生……それを受け入れることが愛で幸せでフレンドシップでメジャーで大人で安心で立派で正しいの? そんな単純なところに押し込められたら息が詰まりそうな僕の叫びは、どうしてこんなにも簡単に淘汰されてしまうの? 僕が感じているこのどうしようもない孤独は、どうしてこんなにも簡単に無視されてしまうの? 僕がまだ小さかった頃は、大人たちはみんな「将来の夢は何?」って楽しげに訊いてきたじゃないか。何も答えられない僕に残念そうな顔を向けたのはどこの誰だ? お前らが訊いてきた「将来の夢」って何だったんだよ。「公務員です。やっぱり安定が一番ですね」って答えたら喜んだのかよ。僕はただ、愛と幸せとフレンドシップに溢れるメジャーで大人で安心で立派で正しいこのクソったれな世界で、それでも力強く生きていきたいだけなのに。
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クラシック

ビートルズ
ビートルズに関しては、
自分が語ることなんて何ひとつ残っていないような気がする。
写真は、
左が67年の『サージェント・ペパーズ』で、
右が68年の『ザ・ビートルズ』。

『サージェント・ペパーズ』の凝縮されたカラフルから、
『ザ・ビートルズ』の果てしないホワイトへ。
高密度と圧倒的な奥行き。
この両極は共にビートルズが内包していたリアリティであり、
だから、ビートルズの作品が描き出す世界観には、終わりがない。
ビートルズが今でも愛されているのは、
聴き手にはその作品を終わらせることができないからだと思う。

The Beatles
/ The Beatles

The Beatles-White Album
ビートルズ解体絵巻
 68年発表のザ・ビートルズ唯一の二枚組みオリジナル・アルバム。俗に言う『ホワイト・アルバム』。『サージェント・ペパーズ』という徹底的に複雑化された「構築」の世界の次にビートルズが示したものは、真っ白なキャンパスへの帰結というバンドの「解体」の物語だった。セルフ・タイトルにも関わらず、ここまでメンバーが「バンド」を意識していない作品は、これの他には聴いたことがない。ここでビートルズはバンドとしての共同体性をほとんど完全に失っている。収録曲の中にはリンゴが一時的にバンドを脱退していた頃のものもある。四人のメンバーが、ビートルズというバンドの一員としてではなく、それぞれがひとりの優れたミュージシャンであるというバラバラの立場から自由にクリエイティヴを発揮させた結果として三十曲二枚組みという圧倒的なヴォリュームを必要とした本作。詞世界は愛犬や子守唄からアメリカの人種観まで果てしない広がりを見せ、サウンドはここまでのビートルズ・ディスコグラフィーの総括だと言っていい。つまり、ここにはありとあらゆる音楽が出揃っている。真っ白なアートワークに浮かび上がる“The BEATLES”の文字は、これらの様々な音楽を内包するデノテーションとしての記号でしかない。彼らにとっての絶対はもはや決して単純な意味での「バンド」ではなかったのだなとこのアルバムを聴くたびにそう感じる。まさに『サージェント・ペパーズ』の対極として存在するアルバム。ビートルズが奇跡的に保っていた絶妙なバランス感覚を窺い知ることが出来る。
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弱さを知れ

マネキン
王さんが世界にただひとりの野球選手になることができたのには、
ひとつの理由がある。
あなたは、『巨人の星』を読んだことがあるでしょうか。

王さんは、身長もそれほど高くなく、体重も重くなく、
筋力も、強打者としては致命的なほど、なかった。
それは王さんの努力でどうこうという問題ではなく、
生まれながらにして王さんが背負った残酷な宿命だった。

そして、だから王さんは吹っ切れた。
「それでも、自分はここからしか始まらない」、と。
伝説の一本足打法は、王さんが抱えた劣等感との、
果てしない闘いの賜物だった。
死ぬまで終わらない自分との闘いを決意した男の重く力強いスイングに、
いったいどうして他の誰かのスイングが勝つことができるだろうか。

そして、ロックが歌うべき場所も、いつだってそこにあるはずだ。
ロックも、スポーツも、最後に問われるのは、何を背負っているか、である。
最後には、それがすべてを決める。
「自分」を背負えない人間の歌は、
絶対に他の誰かの気持ちを背負うことなんてできない。
そんな歌は、誰の心にも響かない。

ジャックス・マネキン。
個人的に、ものすごく思い入れのある、大切なバンド。
今月発表されたばかりの新作が、涙が出るほど素晴らしかった。
ここから、また新しい物語が始まる。
アンドリュー・マクマホンは、もう大丈夫だ。

The Glass Passenger
/ Jack’s Mannequin

Jacks Mannequin-Glass Passanger
病を乗り越えて手に入れた強さ
 アンドリュー・マクマホンという稀有な才能を持ったひとりのピアノマンにとって、音楽とは文字通りの自由であり解放の場所でなければならなかった。そして、19歳という無防備な若さで世界に飛び出した彼の成功の物語は、だからこそ不幸としか言いようがなかった。アンドリュー・マクマホンという破格の才能を抱えたバンド、サムシング・コーポレイトが、ファーストの大成功から一転してギクシャクし始めたのは、ある意味当然だったと言える。そこにあったのは、数え切れないファン、プレッシャー、締切……というありとあらゆる制約であり、まったくの解放的な自由ではなかったからだ。
 ジャックス・マネキンという04年から始まった彼の新たなプロジェクトは、そんな不自由な世界から自らを隔絶して本当の自由と解放を音楽に見出すための追求の旅だった。そのはずだった。しかし、ジャックス・マネキンの素晴らしいデビュー・アルバムで彼が手に入れたものは、サムシング・コーポレイトのそれとなんら変わらない「成功」だったような気がする。そこにさらに追い討ちをかけた急性リンパ白血病との闘い。少なからず、このアルバムがうまくいかない可能性はあったと僕は思っている。このアルバムの出発点は、決して自由や解放と呼べる彼の追い求めた至福感ではなかったはずだ。しかし、ここで鍵盤を生き生きと叩きながら高らかに歌うアンドリュー・マクマホンの姿は、これまでと明らかに違う。彼は本作について、「一人の男が病を克服する物語……と同時に、自分が病であることを認められるようになるまでの物語でもある」と語っている。それはつまり、「罪は自分の中にこそあった」ということを初めて認められた物語だと置き換えることができる。あれほど追い求めた自由は、解放は、すなわち、彼の他でもない「弱さ」だったのだ。それをついに自覚した男の歌は、だからこそ、こんなにもまっすぐで、そして、何よりも強い。
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秋の夜長に

はかい
芸術の秋、読書の秋ということで、
バッドリー・ドローン・ボーイを久々に聴きながら、
島崎藤村の『破戒』を読む。
食欲の秋がないのが寂しい。
最近は夜になると、もう随分寒いですよね。

「破戒」とは、つまり、「戒めを破る」ということ。
まだ前半部しか読めていないので何かが破られる予兆はありませんが、
破られる戒めがもしアレならば、やはり放逐ということに・・・・・・?
とにかく読み進めるべし。

バッドリー。
初めて聴いたのは確か三年前の今頃だったような。
高三で、受験生なのにテストで一ケタとか普通にとってた。
駿台全国模試で一部全国ビリになったのはもうちょっと前の話かな・・・・・・。
勉強は本当にできないヤツだった。
こういうアルバム聴いて、それを正当化するヤツだから、
余計にタチが悪い。

The Hour Of Bewilderbeast
/ Badly Drawn Boy

Badly Drawn Boy-The Hour Of Bewilderbeast
切ない秋色に染めよう
 音楽、恋愛、家族、勉強……自分史のあらゆる断片を掻き集めたアートワーク。「どこで川に落ちたかなんて訊かないでよ。君はきっと僕のことをバカだと思ってるんだろう」という何ともいえない情けなさ。「川辺にキャンプに来たけど、ここでは誰も僕と一緒に感じてくれはしない」という疎外感。「僕を置いていかないで。君にはずっと死なないで欲しいから」という単純な欲求。すべてを頑なな「自分」として誇示することで通常のストーリー・テリングや憶出のインナー・ミュージックとは一線も二線も画す感動的なデビュー・アルバムを作ってしまったのはマンチェスター出身のバッドリー・ドローン・ボーイことデーモン・ゴフ。ダメダメ男のどうでもいいようなどうでもよくないような取り止めのないストーリーを綺麗な包装紙で包んで手渡すような、信じられないほど脆く繊細な一面を秘めた歌の数々は、聴き手をひどく感傷的にさせること間違いなし。フレンチ・ホーンの美しい音色が切ない季節の到来を告げるかのような冒頭曲“太陽の輝き”からアコギと口笛と小鳥のさえずりでシンプルに聴かせる最終曲“僕の碑”まで全編にわたってデーモンの音楽への深い理解と愛情の伝わってくる丁寧で温かいアレンジ・センスも、本当に良い。こういう音楽を聴く時は、一旦暑苦しいロック魂は自分の中に封じ込めてやるのが嗜みというものではないでしょうか。いつまでたっても風采の上がらないダメ男にだってきっと輝ける場所はあるんだということを教えてくれる気がして、僕はこのアルバムがとても好きだ。
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UK女子

UK女子
「UK女子」と呼ばれる代表的な女性たちのデビュー・アルバム。
みんなそれぞれに独自のキャラをしっかりと持っていて、
誰かの二番煎じのようなアルバムはひとつもない。
しかも、デビュー・アルバムなのに、どれもクオリティがすごい。
アルバム全体としての力はまだまだこれからのような気がするけど、
一曲一曲はすでに完成し切っているといった感じ。
日本でも、YUKI、Chara、林檎ぐらいなら
この中でも個性を埋没させずにやっていける気がする。
つまり、それぐらいのレベルの女性シンガーが、
この数年だけで次々と出てきてるということ。
いや、ケイト・ナッシュには勝てるかもしれないけど、
他の5人には、YUKIとCharaと林檎でも勝てないかもしれない。
とにかく騙されたと思って聴いてみてください。
特にエイミー、アデル、ダフィーの3人。
僕は、こんな歌声今まで一度も聴いたことがなかった。
本当に、本当にすごいから。

Rockferry
/ Duffy

Duffy-Rockferry.jpg
奇跡を起こす少女
 前作からの飛躍的な進歩だとか、現代社会に巣食う悪意を象徴しているだとか、類を見ない画期的なアート性だとか、そういう偉ぶったロック・ジャーナリズムを完膚無きまでに無効化する歌は、やっぱり本当に存在するんだということをエグイくらいに思い知らされた。音楽情報の収集手段がラジオしかないという21世紀には信じられないような片田舎の女の子なのに。何度も歌われてきたような極々普通のラヴ・ソングなのに。でも、その歌声の存在感は、圧倒的に破格だ。自分とこの歌声以外のあらゆる存在が漂白されていくような、自分とこの歌声の存在のみが世界だとでもいうような感覚。何でもかんでも「リアルなリアルでリアルである」と乱射されているが、この感覚こそが正真正銘の「リアル」の手ごたえなんだと思う。この歌声が響いた瞬間、たとえそこが一人暮らしの狭苦しい部屋の中だったとしても、小宇宙は広がる。どれだけの美辞麗句を並べても追いつけないような、奇跡としか言いようのない歌声は、それが本当に本当の奇跡だったとしても、ここに確かに存在しているのだ。そして、その奇跡としか思えない奇跡は、これまた奇跡的に連続してイギリスから発生している。エイミー・ワインハウス、アデル、そしてこのダフィー。誰一人として聴き逃して欲しくない。こんな充実期って本当にあるんだ。「UK女子」なんて矮小な枠組みじゃ、もうどう考えても狭すぎる。この3人の歌声は、本格派とか個性派とかそんなレベルじゃない。普通ならあり得ない才能の、奇跡の邂逅である。
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休日の午後に

休日
といっても本当は午前中に大学で授業があったし
夕方からはバイトだから休みでもなんでもないのだけど。
ザ・バンドの68年作。
今聴いています。
食後のちょっとしたリラックス・タイムです。

Music From Big Pink
/ The Band

The Band-Music From Big Pink
音楽という結束の力
 ボブ・ディランがフォークからロックへの大胆なスタイルの切り替え行いお堅いフォーク・ファンから痛烈な揶揄を飛ばされている時、そのバック・バンドとして彼と共に苦心を重ねていたのがザ・ホークス、つまり、後のザ・バンドだった。そんなボブ・ディランとザ・ホークスはウッドストックにある一軒家の地下室でセッションを重ね、様々な楽曲を生み出していった。そして、その一軒家の壁はピンク一色で塗装されていたという。通称「ビッグ・ピンク」である。ザ・バンドのデビュー・アルバムである本作には、そのタイトルが示すとおり、ピンクの家の地下室で紡がれた彼らの友情と信頼の結晶のような珠玉の名曲が収められている。もちろんボブ・ディランが手がけた楽曲も収録されている。創作集団というよりもどちらかというと玄人寄りなバンドだけあって、演奏レベルの高さは息を呑むほどだ。しかし、ソングライティング力にもすでにかなり磨きがかかっていて、“ザ・ウェイト”“ウィ・キャン・トーク”“悲しきスージー”“アイ・シャル・ビー・リリースト”など、次から次へと素晴らしい名曲が溢れてくる傑作アルバムだ。完璧な演奏、完璧なサポート、完璧な作曲センスによって鳴らされるアメリカのルーツ・ミュージック。それは、音楽の持っている本来的な魅力を見事に物語っている気がする。「ザ・バンド」というそのまんまなバンド名も象徴的だし、そこには同時に強い意志を読み取ることができる。すなわち、音楽とは、ユニティなのだ、と。
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オアシズ

オアシスCD
一番上の段は全部オアシス。
シングル、アルバムはもちろん、ボックスセットとか、インタビューCDもある。
他にも世界各国のライブのブートレグとか、マッシュアップとか初期デモとか、
ザ・レイン時代の音源をコピーしたCD-Rとか、オアシスものならたくさんある。
『ドント・ビリーヴ・ザ・トゥルース』のCDは四枚持っている。
あのアルバムがオリコン一位になったのは、多分僕が四枚買ったからだと思う。
二位とは、三枚差ぐらいだったんじゃないだろうか。

このブログの『Over The Border』という名前も、
オアシスのある楽曲の歌詞の一部からとったもの。
05年に僕が行った大阪公演のブートレグのタイトルも、
まったくの偶然だけど実は『Over The Border』というのです。

高校の時は、
僕と言えばオアシス、
オアシスと言えば僕、だった。
学校の机に書いた「oasis」のロゴが、
いつの間にか「osusi」に書き換えられていたことがある。
オスシは・・・・・・じゃなくてオアシスは、
今でも、僕にとってたったひとつの特別なバンドです。

今月一日に発表されたばかりの最新作、『ディグ・アウト・ユア・ソウル』。
『ドント・ビリーヴ・ザ・トゥルース』がバンドに与えた充足感が
どれだけ大きなものだったかを物語るような、意欲的なアルバム。
正直、『ドント・ビリーヴ・ザ・トゥルース』の後にいったいどうするのか、不安だった。
でも、そう、これなんだ。
もう一度、一からやり直せば良いんだ。
これは、新しいスタートだ。

Dig Out Your Soul
/ Oasis

Oasis-Dig Out Your Soul
世界にただひとつのロックンロール・バンド
 94年に『ディフィニトリー・メイビー』でデビューした時から常に様々な場面でビートルズへの狂信的な崇拝ぶりを見せつけ、ロックンロールへの愛を吐き出してきたオアシス。しかし、たとえ全世界のメディアから「第二のビートルズ」という惜しげない賛辞を送られた輝かしい歴史を持っていたとしても、彼らはそんな自分たちが目指すべきロックンロール・バンドに、なれなかったバンドだ。歴史的名作『モーニング・グローリー』がビートルズの記録を抜いたとしてもノエルは「中身では勝っていない」と言い放ちオアシスとビートルズの間に横たわる格差の存在を頑なに認め続け、リアムはギターを手にしてからずっとジョン・レノンになろうとしている。いや、そもそもオアシスは、『ディフィニトリー・メイビー』という自身のデビュー・アルバムでさえ、超えられないということを自分自身で認めてきたバンドだった。そして、そんな死ぬほど憧れたロックンロール・バンドになれないオアシスは、巨大なステージの上で数え切れないファンを前にして、ギターを抱え、立ちしなうマイクの前でガニ股に構えたその時にのみ、「今夜、俺はロックンロール・スター」と歌うことが出来た。それはつまり、言葉の意味が示すとおり、夜が終わってしまえば、彼らはもはやロックンロール・スターではないことを告げていた。朝目覚めた時には、彼らはビートルズに憧れるただの熱心なロック少年と、なにひとつ変わらなかったのだ。
 前作の『ドント・ビリーヴ・ザ・トゥルース』を聴いた後にこの最新作を聴くと、これが本当に同じバンドの作品なのかと耳を疑ってしまうのと同時に、逆立ちしたってオアシスにしか聴こえないロックンロールのような気もする。本作でオアシスは変わったけど、オアシスはオアシスであり続けている。つまり、本作でオアシスが遂げた変化とは、新たな作曲スタイルへのチャレンジとか得意技を封印とかいう表層との戯れではなく、オアシスは、ようやく、ロックンロール・バンドに、なれたんだと思う。「オアシス」という地平から、「ビートルズ」という、「ロックンロール」というロックンロールを鳴らすバンドではなく、もちろん「『ディフィニトリー・メイビー』」というロックンロールでもなく、「ロックンロール・バンド」という地平から、「オアシス」という世界にただひとつのロックンロールを鳴らす、そんな場所に、初めて辿り着けたんだと思う。すべての始まりだったデビュー曲“スーパーソニック”で彼らが歌っていた「俺は俺自身でなければならない」という言葉が照らしていた未来は、ビートルズに憧れる彼らと同じようにオアシスに憧れたロック少年を魅了して止まなかったその揺るぎない決意は、ここで初めて結実したんだと思う。他の誰でもない「俺」を信じることで、それを守り抜くことで、初めて掴むことのできるロックンロールの希望は、たとえそれがどんなに独りよがりな幻想であったとしても、終わってしまってはいけないのだから。
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ファンタジーは現実逃避じゃない

星新一
今日ブック・オフで買ってきた本。
星新一の作品は昔から大好きだったけど同じ本ばかり繰り返して読んでいたので、
今まで読んだことのない作品を買ってみた。
『ブランコのむこうで』。

ひょんなことから、人々の夢の中に入り込んだり、
その人の実生活を覗くことができるようになってしまった少年のお話。
ブランコをこいで前に揺れたり後ろに揺れたりするみたいに、
少年は夢の世界と現実世界を何度も行き来しながら、
夢とはなんなのか、現実を生きるとはどういうことなのか、
という難題に、ひとつの答えを見出していく。

ブランコに乗っている時は、前にこいでも後ろに揺られても、
結局は同じ場所からまったく動いていない。
夢と現実もそうなんじゃないか、と星新一はこの作品で言っている。
夢も現実も、結局は僕たちを前に進めることなんてできないのだ。
「ブランコのむこう」へは、連れて行ってはくれないのだ。
だからこそ僕たちはブランコを降りて、自分たちの足で地面を踏みしめて、
「ブランコのむこう」に向かって、歩いていかなければならないのだ。

夢を捨て、現実逃避をする、という意味ではもちろんない。
現実があるからこそ夢であり、
夢があるからこそ現実なんだ、
と両方を等しく肯定することで得たある種の「達観」が、
あっちへこっちへ揺れるブランコから少年を降ろさせた。
もう大丈夫だから、と。
少年は、もう夢と現実の狭間で戸惑ったりはしない。
もうブランコに揺られなくても、少年は夢も現実も、自分のものにできる。
自分の足で、生きていける。
星新一のファンタジーが伝えてくれるのは、いつだってその希望だ。


もちろんCDレヴューも書く。
今日は昨日に引き続いてザ・ヴァインズの最新作。
ナンバー・ワンかどうかは判断しがたいが、
ヴァインズ史の中で最も重要な作品であることは間違いない。

Melodia
/ The Vines

The Vines-Melodia
これがヴァインズのロックンロールだ
 ザ・ヴァインズ4作目のオリジナル・アルバム。前作『ヴィジョン・ヴァリィ』以来2年ぶりとなる本作は、“ゲット・アウト”という曲で幕を開ける。その名のとおり、バンドを取り囲む数々の障害――どん底からの復活だとかアスペルガーだとか本作制作にまつわるあらゆるプレッシャーだとか――から飛び出して、まさに「解放」されたような風通しの良いアルバムだ。“トゥルー・アズ・ザ・ナイト”という6分にも及ぶ大曲がべらぼうに良い。ヴァインズ史上最長となるこの曲ではストリングスを大々的に取り入れて新スタイルの「構築」に力を注いだと思えば、メランコリックなメロディから不意を衝いて暴力的なエネルギーを爆発させる“メリーゴーラウンド”のような得意の「破壊」行為も好き勝手やっている。14曲32分というこの小さなフォーマットの中で「構築」と「破壊」を自由自在に繰り返しながら転げ回る予測不可能のロックンロール。やはりヴァインズはこうでなければならない。“A.S III”という楽曲も収録されていて、これは言うまでもなく“オータム・シェイド”の第3進化形態である。初期作を共に作り上げたロブ・シュナフと再び袂を連ねて制作にかかった本作だが、『ハイリー・イヴォルヴド』を初めて聴いた時のあのとんでもない感じが完全に復活している。それもぐるりと一周してもとの場所に帰ってきたという単純な原点回帰ではなく、デビューから6年にわたるキャリアを通して他の誰でもない彼ら自身が発見してきた様々な「ザ・ヴァインズ」を全面的に受け入れることで「深化」したような、バンドがひとつの峠を越えたことを物語る素晴らしい快作だ。アートワークも、内省を黒く塗りつぶした前作とは打って変わって「俺が俺が」な感じのするものに仕上がっていて、現在のバンドの状態が非常にポジティヴであることがヒシヒシと伝わってくるところが嬉しい。
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ブドウの木

ヴァインズ
最新作の帯に未だに「完全復活!」なんて書いてあって驚いたのだけど、
ヴァインズはたったの一度だって中途半端な駄作なんて発表したことはない。
安全なアルバムなんて一枚もなかったし、
でもだからこそプリズム体みたいに、
あちこちに向かってイビツな光を放っていた。
今のところの印象では、
最新作はこれまでで最も振れ幅の大きい作品かも。
ヴァインズは、今でもヴァインズを貫いています。
今日のCDレヴューは「失敗作」として有名な彼らのセカンド・アルバム。
ライド・ウィズ・ミー!
ファック・ザ・ワールド!
僕は大好きです。

Winning Days
/ The Vines

The Vines-Winning Days
勝利の日々は過ぎた
 デビュー作で異例の喝采を博したヴァインズが04年に発表したセカンド・アルバム。なぜあまり評価が高くないのかよくわからない。NMEのこき下ろし方なんて本当にひどかったんだから。確かに前作から飛躍的な成長があったとは認めがたいし、手クセが露呈した感はある。でも、“ライド”“TVプロ”“F.T.W.”など、前作の名曲“ゲット・フリー”を超える瞬間があちこちにちりばめられていて、僕はこのアルバムが好きだ。そもそも、クレイグ・ニコルズというこの不安定な心を持った男に僕たちが感じていた魅力はいったい何だったのか。ビートルズみたいなコーラス・ワークのセンス? カート・コバーンみたいなナイーヴさを秘めたシャウト? それも確かにあるだろうけど、決してそれだけではないはずだ。ジェットコースターに乗り込んで急降下するみたいなロックンロールのスピードに、そのきらめきの刹那性に、殺される寸前まで自分を追い込むような命知らずのスリルではないのか? 死の一歩手前でこそ生の確かな手ごたえを感じることができるとでも言うような、ギリギリのところで駆け出す最速のロックンロール。アスペルガー症候群だからどうのこうのというものではなくて、クレイグの心の繊細さは、うまくやろうとしてもなぜだか危険の境地に自分を立たせてしまう破滅衝動と同義のはずだ。ゴミみたいな世界に「ファック・ザ・ワールド!」と中指立てながら坂道を転げ落ちるロックンロール。勝利の日々なんて過去のものだろ? これがヴァインズじゃなくて何なのか。
00:50 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑
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