スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--:-- | スポンサー広告 | comment (-) | trackback (-) | page top↑

あおもり

泡盛
昨晩は我が家でサークルの飲み会をしたのだけど、
一晩でお酒が爆発的に増えたような、増えてないような。
そのままうちの近くのカラオケに向かい、
「ヤパパー、ヤパパー、イーシャンテン」と歌いながら朝を待ち、
再び数名で我が家に帰りスーファミで遊んだら
並んで寝転んでしりとりという過酷な半日だった。
お酒は、そこにあると、ついつい飲みたくなってしまいますよね。
ひとりだけど、今日の夜も長い。

Conor Oberst
/ Conor Oberst

Conor Oberst-Conor Oberst
終わらない旅の途中で
 ブライト・アイズのコナー・オバーストによるソロ・アルバム。ソロ名義によるアルバム発表は実に13年ぶりとなるコナーだが、どうやら本作は実験でも検証でも批評でもなく、ブライト・アイズの果てしない旅路の途中でふと足を止めたような、文字通りの小休止なのかもしれない。ブライト・アイズ名義で発表しても違和感のなさそうなフォーク・ソングが並んでいるが、そこにブライト・アイズの切実さのようなものはなく、全体的にリラックスしたムードが貫かれている。違いと言えばそのゆったりとしたモード・チェンジぐらいのもので、歌詞もやはり彼独特の語り口で歌われる人々の物語だ。旅の途中で目に入った風景のイメージを散りばめながら歌われる「僕・君・彼・彼女」のとりとめのないような物語。それは、どれだけ風景が移り変わろうがそこには人が居て、生活があり、ひとまず「居場所」と呼べるものが存在することを告げている。ただ、コナーの声を震わせてきたのは、いつだってそこが自分にとっての「必然・運命」であるのか、という答えの見えない自問だった。そして、「ここには自分にも居ることのできる場所がある」「ここは本当に自分の居るべき場所なのか?」という「居場所探し」のせめぎ合いこそが、混乱した21世紀を生きるという葛藤としてコナーの歌を普遍へと導いてきた印象がある。それは、9.11をきっかけにしてアイデンティティの再確認を強いられたアメリカ人のみに限定された葛藤ではないはずだ。先ばかりを求めてしまいがちな視線を一旦下に向けて、自分の足元をもう一度見つめ直しながらあなたにも大切に聴いて欲しい楽曲が詰まっている。ブライト・アイズとしての次の作品が一層楽しみになった。
スポンサーサイト
01:23 | 日記 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ポニョっとしてるから

ポニョぽ
ついに、ようやく、今になって、
『崖の上のポニョ』を観に行ってきた。
ひとりで映画館なんて初めてだからめちゃくちゃ緊張したけど、
そのぶん集中できたような気がする。
近くに座っていた幼稚園児の女の子が、
一緒に来ていたお父さんに「この映画怖い?」と訊いて、
お父さんが「怖くないよー。子どもの観る映画だからねー」と答えると、
その子は僕の方をチラッと見て、「でも子どもいないよー」と嘆いていた。
エンディングは、もちろん「ポ~ニョポ~ニョポニョ」と熱唱していた。

崖の上のポニョ
ポニョ
魔法を超える存在を求めて
 自然という圧倒的な魔力を前にして立ち尽くすことしかできない人間の無力さと、そうだからこそ解放できる何かを描き続けてきた宮崎駿。そこで彼が表現しようとしてきたことは、告発と警告であり、それでもあらゆる生命は生き続けなければいけないという彼の個人的な理想論であり、ひっちゃかめっちゃかな世界から子どもたちを守るファンタジーであり、それらすべてをリアルなものへと引き上げるための全能的な魔法だった。本作『崖の上のポニョ』で、それはひとつの到達点を迎えた、と断言してしまってかまわないと思う。本作が最後の長編作になると本人も洩らしているようだが、実際にそうなると残念な気持ちと同時にそれがある意味最も自然な着地なのではないだろうかとも思えてくる。これの後に、いったい何が描けるというのか。
 これまでの宮崎作品の中で闘争というイビツな形で浮き彫りにされてきた自然に対する人間のジレンマは、「好き」という名の約束の下、ついに生命の根源的かつ普遍的な欲求に辿り着いた。ふたつであろうとみっつであろうとたくさんであろうと、生命が集まる場所はそれそのものが運命的なコミュニティであり、お互いがそこに寄り添いながら生きていく決意はただそれだけで未来を創る希望なんだ、と宮崎駿はこの作品で言っている。そう、いつだって「半径三メートル以内に大切なものはぜんぶある」のだ。だからこそ、ポニョに魔法はもう必要なかった。恐らく宮崎駿にとってもそうだろう。ポニョと宗介の嬉しそうな笑顔が、眩しかった。半漁人と人間。あの二人を繋いでいたのは、もはや奇跡でも魔法でもなんでもない。この映画には、無邪気なぐらいの未来しかなかった。魔法だっていつかは解けてしまう。永遠に消えない光は、すぐそこにある。
00:32 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

奇跡の歌声

だフィー
ショウビズ系の番組では日本でも結構プッシュされてるUKからの新人、ダフィー。
今初めてちゃんと聴いているのだけど、歌詞カードを見るのを放棄してしまった。
声に、耳を傾けたい。
凍てついた心をじわじわと溶かすような、
ゴチャゴチャした頭の中を静かに浄化するような、
時を止めるような、空間をそこにギュッと圧縮するような、
奇跡の歌声は、ある。

日本では、徳永英明とか平井堅みたいな
「美声」系の歌声がそのまま「歌唱力」として捉えられやすい。
あとはEXILEのATSUSHIみたいなギャップ系か。
アメリカでは、広大な土地柄のせいかどうかは知らないが、
マライア・キャリーみたいな
ダイナミックさで圧倒させるような力強い歌声が、「歌唱力」になる。
イギリスの「歌唱力」は、かなり奥が深いような印象がある。
それを一言で表すなら、まさに「ソウル」だ。
僕は、イギリス派だな、と思う。
いや、もちろん僕の歌声が、ではなくて。

エイミー・ワインハウス、アデル、そしてこのダフィー。
みんな、素晴らしくソウルフルな歌声の持ち主だ。
立て続けにこんなにレベルの高い歌手が
イギリスから次々と現れてくるなんて、僕は少し戸惑っている。
そして、なんでみんな日本では盛り上がらないんだろう。
この歌声は、本当にすごいのに。
決してパーフェクトな歌声ではない。
乱れがある。魂が震えるような、綻びがある。
そう、これが歌唱力なんだ。
言葉の意味すらも無効化する説得力。
それは、魂の擦り付けられた歌声だけが持つ、奇跡だ。

とかなんとか言いながら、
CDレヴューは歌声なんてまったく関係のないワン・デイ・アズ・ア・ライオン。
こちらはザックの声が聴けることが、そしてセオドアのドラムが、すごい。
演奏の主導権を握っているのは完全にセオドアのドラムだ。
それぐらいシンプルに削ぎ落とされてる。
余計なものは何もない。
なぜなら最も優先すべきはザックの言葉だからだ。

One Day As A Lion
/ One Day As A Lion

One Day As A Lion-One Day As A Lion
獅子は放たれた
 「機械に対する怒り」を封印した後も音楽活動は続けてきたものの、新しく、明確なステートメントをなかなか発信せずにいたザック・デ・ラ・ロッチャ。昨年再結成を果たしたレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンからも、未だ新しい声明は届いていない。ある意味そんな「眠れる獅子」と化していた彼から、本当に久しぶりの肉声が届いた。元マーズ・ヴォルタの天才ドラマー、ジョン・セオドアとの、嘘みたいな、夢みたいな新プロジェクトによるミニ・アルバムである。レイジ解散以来、実に八年越しの「今」の言葉による明確な意思表明となる作品である。しかし、ザックのラップ・スタイルは、八年という不在がまるで最初からなかったものだったかのように、なーんも変わっていない。もちろん成長していないという意味ではなくて、正確に言うなら、ザックは未だにこれにこだわっている。例えばレイジの一員としてのザックにとって、ラップ・メタルというものがただの音楽スタイルのひとつに過ぎないとすれば、レイジの音楽性はもっと大胆に振れ幅を広げることができただろう。それなのにザックがラップ・メタルにこだわり続けたのは、トム・モレロの独創的なギター・スタイルの存在と、彼が「歌う」という意味こそが、レイジというバンドの必然だったからだ。ザックにとって「歌う」という行為の最も根本的な動機は、言うまでもなく「主張」である。思いを正確に主張できなければ、彼の中に渦巻く灼熱の怒りは、説得力もリアリティもその熱ささえも失ってしまう。だからこそ、ザックにはラップという膨大な言葉と情報を駆使するハイレベルな言語能力が必要だった。それが、やはり変わっていないのだ。セオドアのドラムは今のザックにとってトム・モレロのギターにもかわる、自己を闘争のど真ん中へと放つゲリラ戦車なのだろう。ザックは、終わりの見えなかったかつての闘争の果てしなさを、その変わらない言語スタイルと鋭い言葉によって、再び引き受ける決意を表明した。マイクを固く握り締め、世界に拳を突きつけるロックは、やはり今というこの時代の必然でもあるからだ。世界よ、今こそお前の敵を知れ。
01:10 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

Singing in the Rain

かさ
バイトが終わって、家に帰る頃になって大雨。
こんなちっちゃい傘じゃほとんどその役目を果たしきれず、
ジーパンもリュックもびちょびちょのぐちょぐちょ。
無事に家に帰って、お風呂から上がったら止んでるし。
いじわる。

雷まで鳴り始めたときにはもうホントどうしようかと思った。
雷、苦手なんです。
最近はさすがにないけど、昔は「ピカッ、ドーン!」てなると、
反射的に傘を投げ捨てて走り出していた。
ビョークの『メダラ』を聴いていろいろ考えながら帰ろうと思ってたのに、
雷の音がもれて入ってきて怖いから、
急きょワン・デイ・アズ・ア・ライオンに変更。
光だけで、音が聞こえないほうがよっぽど怖かった。

最近、ビョークのディスコグラフィーをざっくりと振り返っています。
理由は自分でもわからないけど、
きっかけはラース・フォン・トリアーの衝撃的な映画を立て続けに観たからだった。
明日はバイトも休みだし、また『ドッグヴィル』『マンダレイ』を観るか。
久しぶりに『ダンサー・イン・ザ・ダーク』でもいいな。
ラース・フォン・トリアーは、
ビョーク曰く「今まで会った中で唯一理解不能な人物」、らしいです。
今日は今聴いている作品のCDレヴュー。
ビョークで、『メダラ』。

Medulla
/ Björk

Bjork-Medulla.jpg
本質的なるもの
 「山みたいな作品にしたかった」。ビョークは本作についてそう語っている。何千年も昔から世界の「そこ」に存在し、文明が発展しようと、テクノロジーが更新されようと、そんなことにかまわず「そこ」に屹立し続ける山。あらゆるものが変化し続けるこの世界で、ただひとつ変わらずに「そこ」にあり続けるもの。つまり、「本質」という意味を込めて、ビョークは本作に「メダラ(=骨髄)」という名前を付けた。そして、だからこそ、文明にもテクノロジーにも影響されずにどの時代にもそのままの形であり続けるただひとつの本質的な楽器、すなわち「声」のみによって、本作の音は構築されなければならなかった。あらゆるバック・トラックが人間の声によって鳴らされるという恐ろしく革新的な、ビョーク五枚目のオリジナル・アルバム。
 山は、僕たちが生まれる何千年も昔から世界の「そこ」に存在している「本質」であるにも関わらず、現代社会という一元的な世界の中では、同時にひどく隔絶された場所でもある。そして、この「本質が失われる」という構図こそ、本作『メダラ』が最も深く追求しているテーマなんだと僕は思っている。9.11の強い影響下で制作された本作で、ビョークはついに露わにされた人間社会の欺瞞や恐怖や猜疑といった薄暗い風景を歌っている。隔絶された山から見下ろした人間の世界は、想像以上に混乱していた。人間の声によって、他でもない人間に向かって鳴らされる警告の鐘は、その奇妙な矛盾こそが世界のねじれであり、屈折であり、混乱だということを生々しすぎるほどリアルに告げている。人間は、いつの間にかその身をまっすぐに貫く「本質」を抜き取られてしまったのだろうか。いや、違う。人間は、生まれた時から、それこそ「本質」的に、間違っていたのだ。
01:22 | 日記 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

マイ・ネーム・イズ・ジョナス

King.jpg
同じクラスで同じゼミの友達から珍しくメールが来た。
「JAPANにまた載っとるね。今本屋で見つけた、すごいな~」。
ありがとう。
「地味にバンドのHPができたから覗いてみて」。
おお、そっちこそおめでとう。早速覗かせてもらうよ。
というわけで、見てみたら着うたなんて配信してるからビックリしてしまった。
掲示板にもファンの人からのコメントが多数。
いやいや、俺なんかより全然すごいよ。
三人組のバンドで、友達はギター。
彼らのライブには行ったことないし、曲も聴いたことない。

その友達は、二年生の頃に「俺、もっと軽くならなきゃ」と言い出して、
その時入っていたサークルを止めて、突然バイクで九州一周し始めた。
意味がわからん。
でも、意味がわからんことをしなくちゃいけなかったんだろう。
僕には、少しわかる気がする。

ロックは反抗の音楽だ、とはよく言うけど、別にそれに異論はない。
そう、ロックは、入試とか就職とか出世とか、
あまりにも巨大な絶対的かつ社会的な奔流に、逆らうためのものかもしれない。
夢とか自由とか青春とか、そういうのがひとつひとつなくなって、
それを受け入れていくのが大人なんだ、なんていう、
「大人」側からの正論に反抗するためのものかもしれない。
そんなもんに飲み込まれたくなくて、丸め込まれたくなくて、
開き直りたくなくて、そのために、僕たちはロックにのめり込むのかもしれない。
こんな状況からロックになんとか救い出してもらいたくて、
でもロックですらも救い出してくれないから、
余計に僕たちは救い出してもらわなきゃならないのだ。
なんだかもう、わけがわからなくなるのだ。
ガチガチの正論で固められた世界なんて間違ってると思っている僕たちは、
だからこそそんな世界に、正論では太刀打ちできないのだ。
ロックって、そんなジレンマとしてのノイズのことを言うんだろう?

だから、いろんなもん切り捨てて突然九州一周を始めた彼の行為は、
わけがわからないけど、わけがわからないからこそそれは「異論」だった。
こんなところ俺のいるべき場所じゃないだろう。
「自分」は、いったいどこにいる?
だから、彼のバンドの歌が、できるだけ多くの人の心に届けば良いと思う。

三年生になって、やっぱりみんな就活を意識し始めて、
「そろそろ始めなきゃ」とか「イヤだなぁ」とか、毎日飽きずに言ってる。
そう言いながら、僕の周りの人たちがイヤイヤ就活するのを、
僕は見たくない。
履歴書なんて、何回書いてもそこに「自分」はいない。

僕はただ逃げてるだけだ。
でも、僕の精一杯の「異論」は封じ込めないで欲しい。
正しくても間違っていてもいいんだ。
むしろ間違ってるだろう。
でも、僕が呼吸できる場所を奪わないで欲しい。

マイ・ネーム・イズ・ジョナス。
僕は、ここにいるんだから。
00:54 | 独り言 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

サウンドトラック

ブラック・キッズ
最近聴きまくっているアルバム。
ブラック・キッズの『パーティー・トラウマティック』。

毎年、数多くのデビュー・アルバムが発表されるけど、
決まって一枚だけ、自分の個人史のサウンドトラックにしたくなる作品がある。
一昨年だったらダーティ・プリティ・シングスのデビュー作。
去年だったらザ・ヴューのデビュー作。
今年は、これだ。

Partie Traumatic
/ Black Kids

Black Kids-Partie Traumatic
しかもスウェードのバーナード・バトラーがプロデュース
 ジャケットが好きだ。変な耳とか角とかつけてふざけてるだけかと思っていたけど(いやまぁ実際そうなんだろうけど)、聴いた後には自分の中ですっかり意味が変わっていた。そう、僕たちはみんな生まれながらの奇形児。余計に尖った角とか必要以上にでっかい耳をつけたままで、きれいな姿かたちで生まれることができなかった。そんな「どうして自分だけ」な死ぬまで克服できない劣等感を抱えながら大きくなって、それでも僕たちは前に進んでいくしかないのだ。そうじゃない人なんているんだろうか。もしいるなら、僕はそんな人のことなんて信じない。向こうも、多分僕のことなんて相手にしないだろう。
 フロリダ州ジャクソンヴィル出身の五人組であるブラック・キッズのデビュー・アルバム。「ひとりぼっちのトラウマ」と名付けられた本作で歌われていることは、そのほとんどが、というかすべてが男の子と女の子が関わることに端を発する嫉妬や幻滅や喪失の物語だ。それ一辺倒でヴァラエティに欠けると思われるかもしれないが、でもこれが現時点での彼らが最も直に感じられる世界のリアリティなんだろう。そして、それは実際に世界なんて大きな場所ではなく僕たちひとりひとりの小さな生活の中でさえ、至るところに遍在している。僕たちは、究極的に独りなのだ。十代の頃はウィーザーの『ブルー・アルバム』ばかり聴いていたというフロントマンのレジー・ヤングブラッド。生まれて始めて「あの子」のことを苦しいくらい好きになってしまう十代。成長してしまった自意識が、否が応でも自分の生まれ持った劣等感に気付いてしまう十代。美しき十代? そんなこと、誰にも言わせはしない。
18:20 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ダメだ

JAPAN10.jpg
ロッキング・オンからJAPANが届いた。
う~ん、今回のは、自分で読んでもスッキリしない。
前回YUKIのことで載った時は自分でも結構満足な出来だと思ってたけど、
今回は自分でもまさか使ってもらえるとは思ってなかった原稿なだけに、
自分の名前が載っていることがすごく不可解だし、なんだか違和感が拭えない。
回転寿司で寿司と一緒に回ってる唐揚げみたいな原稿だ。
多分読めば読むほど、自分の劣等感が膨らむ。

そもそも、ロックを聴いて、それについて書くこと自体が、
自分の今立っている場所の情けなさを思い知らされる行為なんだ。
でも、これを拭い去れない間は、僕は大丈夫だと思っている。
自分を絶対化した状態で鳴らされたロックなんて、耳障りなだけだ。
後ずさってどんどん小さくなって消えていくだけのようなロックもしょーもないが、
大きなまま自信満々で近づいてこられるのはもっとしょーもない。
というか、はっきり言ってウザい。
ロックほどナーバスな音楽はないんだ。
劣等感から逃れられない自分との、戦いなんだから。
15:31 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

タカさん

モグワイ
モグワイの最新作、『ホーク・イズ・ハウリング』。
このジャケットは、はっきり言ってナシじゃないのか!?
ここまでの駄目ジャケは久しぶりだ。
タイトルも、まんますぎるだろう。
でも、タイトルもジャケットもテキトーな分、
音への集中力は相変わらず凄まじい。
バイトですっかり疲れてしまったところにこのジャケットでかなり脱力したのに、
背筋をピン!と伸ばされる気分だ。

そんなわけで、今日のCDレヴューはモグワイの作品。
97年発表のデビュー・アルバム。
ジャネット・ジャクソンに憧れた安室奈美恵が、
ジャネットの真似なんて何ひとつしていないのと一緒だ。

Young Team
/ Mogwai

Mogwai.jpg
誰も真似できない「始まり」
 モグワイは、言葉に意味を求めなかったバンドだ。言葉に自我の居場所を与えなかったバンドだと言ってもいい。最新作の楽曲タイトルの由来の話を読んだが、そこには呆れるほどの言葉に対する自我の欠落が見えた。一部の楽曲にこれまでフィーチャーされてきたボーカルも、モグワイにとっては音の隙間を埋めるインストゥルメンタルの一部でしかない。本作は、ポスト・ロックにおけるインスト・ミュージックの不動のモノリスとして90年代に屹立するモグワイのデビュー・アルバム。静寂の彼方から堰を切ったように膨大なノイズを放出し、引き潮のごとく再び静寂へと帰結するこの独特なサウンドと楽曲構成は、「言葉に自我を託さない」という前提から始まったモグワイだからこそ言葉以上に具体的な説得力を持ちえているし、それゆえに圧倒的にリアルだ。音そのものと自我の歯車を噛み合わせることは可能なんだということを、言葉を使わずしてもパーソナリティやエモーションを音に丸々託すことは可能なんだということを実証して見せた作品である。本作以降モグワイからの影響を明らかに受けたインスト・バンドの連中が世界各地から次々と現れているが、未だに誰一人として「モグワイ」になれていないという事実が、モグワイの功績がこの新たなインスト・ロックの発明というよりもむしろその「概念」のひらめきだったということを物語っている。そして、モグワイに憧れた彼らは別に「モグワイ」になれなくてもいいんだと僕は思っている。トム・ヨークが、死ぬほど憧れたジム・モリソンに自分はなれないということを自覚したからこそ「トム・ヨーク」になりえたように、ロックの未来はいつだって他者ではなく自己の中にこそ眠っているからだ。
01:26 | 音楽 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

コクーン

びょーく
映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』で、
真っ暗で絶対零度の徹底的な絶望を描こうとしたラース・フォン・トリアー。
その絶望的な脚本を受け取ったビョークは、
悲劇の運命に翻弄される女性の、眩しい希望を表現することに徹した。
希望を持てない生命があってはいけない。
ビョークの表現はいつもそこから始まる。
そして、そのためにはケチケチ生きていてはいけない、と。
金なんて使えるだけ全部使っちまえ。
生命力なんて、使えるだけ全部使っちまえ。
ビョークが実際にそんなことを言ったことはないけど、
いつもそう言っているみたいに僕には聴こえる。
すべてを使い果たし、最終的にお前の手にはなにひとつ残らなかったとしても、
お前の中にはきっと、お前だけの愛しい希望が芽生えているはずだ。
そう言ってくれるビョークが、僕は好きだ。

Vespertine
/ Björk

Bjork_-_Vespertine-front.jpg
魂を燃やせ
 『デビュー』から『ホモジェニック』まで、そしてラース・フォン・トリアーとタッグを組んだ主演映画のサントラ『セルマソングス』においても鮮やかなほど自由にオリジナルの世界を想像・創造することで実世界と対峙してきたビョークが、ここではそれを完全に停止させている。彼女のボーカルの魅力のひとつでもある一種の野生的な激しさは夜更けのように静まり返り、自己の中に横たわる核心を穏やかに呼び起こそうとしている。『ホモジェニック』からの踏襲であるデジタル・ビートも、まるで内省の扉を叩く鼓動のようだ。本作で海のような広さと深みを獲得したビョークの歌声とそれが放つ言葉は、テーマとして掲げられた「内気な人々」のまさにその当事者である彼女自身の内向きに閉ざされた核心部分を、ゆっくりと紐解いていく。常に世界への明確にして強烈なステートメントを発し続けてきたビョークが、そのキャリアの中でたった一度だけ、世界ではなく「自分」に表現の矛先を向けた作品だ。そして、「内気な人々」が自己という殻に閉じこもることで守ろうとする内なる扉の向こう側には、こんなにも優しく芳醇な世界が広がっていた――。このアルバムは、そういう作品である。本作におけるビョークはもはやアイスランドの妖精などではない。何かと関わることに戸惑い、だからこそ心を許した「あなた」とだけは今夜ひとつになりたいと切望する、僕たちと何ひとつ変わらない「内気な人々」のひとりでしかないのだ。これまで彼女が誇示し続けてきたあの余りにも鮮やかな世界でさえ、奇跡や魔法や神秘などではない、想像という自己との闘争であり、そこからこぼれた内向の滴のきらめきだったのだ。
01:58 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

倦怠感

rockinon.jpg
サークル活動がある日以外はほとんどバイト。
一日フリーな時間が欲しい。
「暇」、とか、「退屈」、とか思える時間が欲しい。
ストレスストレスストレスがたまるたまるたまる。
ファック、ファック、ファック、ファック、ファック、ファック、ファック・フォーエヴァー。
全部消えちまえばいいのに。

やけくそでベビシャンとシステム・オブ・ア・ダウンを爆音で聴きながら、
というよりほとんど熱唱しながらバイトから帰ってきたら、
郵便受けに届いた大量のCDと一緒に一通の封筒。
ロッキング・オンから届いた原稿料の明細&請求書。
請求書に口座を記入して送り返せば原稿料が振り込まれるわけです。
倦怠なんて、一瞬で吹き飛んでしまうものなんだ。
今から朝方まで、僕の酒とロックと読書の時間が、また始まる。

Toxicity
/ System Of A Down

System Of A Down-Toxicity
テロリズムとしてのロック
 初めて聴いたシステム・オブ・ア・ダウン(SOAD)の作品がこれだった。ザクザクと切り込んでくる容赦ないギター・サウンド、叫びながら早口言葉を発するみたいな変なボーカル、破壊的なテンションの高さ。今まで一度も聴いたことのない異型の変態ロックなのに、これがこいつら固有の「言語」なんだなということが瞬時に理解できた記憶がある。誰が聴いても明らかに変なロックなのに、同時に凄まじく普遍的であるというSOAD節が炸裂したセカンド・アルバム。邦題は『毒性』。アメリカに暮らすアルメニア(西アジアに近接する国)人という特異なアイデンティティによってほとんど宿命的に膨張していった彼らのマイノリティ意識がSOADのロックを極端に異端へと押し進めている。そして、本作で彼らが歌っていることとは、というか、SOADがそのキャリアにおいて常に格闘し続けてきた不変のテーマとは、マジョリティの常識とか社会的規範とかデモクラシーとか資本主義社会とか、ハリウッドとかハリウッドとかハリウッドとかアメリカとかアメリカとかアメリカみたいな絶対的かつ抑圧的な、彼らの言語で言うところの「プリズン・システム」という既に出来上がった構造の中でマイノリティが臆面なく自己を解放するという行為がいかに破滅的であり終末的であるかという世界の恐ろしく根本的な歪みに対する告発に他ならない。01年9月11日にアメリカで発生した同時多発テロを予知するかのように「飛行機が空高く/その目を解放したら/永遠に残る褒美を与えられる」と歌った“エリアルズ”を最終曲として収録した本作は、なんとその歴史的事件のちょうど一週間前に発表され、全米一位を獲得していた。この「数えられない者」からの狂気は、決してSOADだけが分かち合っていた特別な怒りではない。
03:08 | 日記 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

夜酒

かぼすヴぁーヴ
ヴァーヴの新作を聴きながらかぼす酎を嗜む。
かぼす酎を飲みながらヴァーヴの新作を嗜む。
多分後者が正しい。
このかぼす酎あんまり美味しくない。
でも、ヴァーヴの新作は、良いぞ。
酒もロックも、ついついおつまみが欲しくなっちゃうなぁ。
残念ながら食べるものなんて米以外に我が家にはないけど。

Forth
/ The Verve

The Verve-Forth
ラヴ・イズ・ノイズ
 “ビター・スウィート・シンフォニー”や“ドラッグス・ドント・ワーク”などのヒットを放ち、かつてのノイズを真っ白に濾過した前作『アーバン・ヒムス』から実に11年ぶりとなる最新作にして完璧なバンド復活作。自由なセッションの中から感情と感情の摩擦のように生じたノイズが、本作では大々的に解禁されている。しかし、そのノイズの動機は、子宮という洞窟から這い出て「生」を掴み取ることでもなく(『ストーム・イン・へヴン』)、果てしない暗闇を切り裂いて光を手に入れることでもなく(『ノーザン・ソウル』)、大地を揺るがしながら天空へと飛翔する圧倒的なダイナミズムへとドラスティックな変貌を遂げている。溢れ出るノイズを放出しながら、ここにきてヴァーヴはその意味を大胆にも再定義しようとしている。いや、これこそが、『ストーム・イン・へヴン』の、『ノーザン・ソウル』の、本当の「答え」だったのだ。あそで鳴らされていた身を切るようなノイズの究極的な行き先は、まさにここだったのである。暗闇からしか光の存在を認められなかった、絶望越しにしか希望を信じられなかったかつてのリチャードとは違う。バンド解散後もソロ・ワークを重ね、希望をただ「それ」としてそのまま肯定できるようになったリチャードが今鳴らすべきノイズとは、正真正銘の「それ」でなければならなかったのである。ギターを掻き鳴らし、膨大なノイズの中心に身を沈めながら、彼らがそこで必死に守り抜こうとしてきたものとはいったい何なのか。ヴァーヴにとってのノイズの意味とは、そしてそれが向けられる場所とは、いったい何であり何処であったのか。それは、ロックンロールという甘ったれた幻想とくそったれな現実を放擲する比類なき轟音への、絶対的な信頼という「愛」だったのである。
00:07 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

Wanted

福岡空港
ウズベキスタンへ発つ彼女を見送りに(兼・荷物持ち)、今日は朝から福岡空港へ。
一週間もひとりで海外だなんて、なんとも頼もしい子です。
今はまだ多分途中で経由するソウルで再出発待ちかな。
本当は僕に輪をかけて内気な子だけど、僕よりも人当たりは良いから、
言葉は通じなくてもまぁなんとか上手くやるだろうと思っている。
元気に帰ってきてくれたら僕はそれでいい。

お互いにバイトが忙しくて日頃でさえあんまり会えないのに、
一週間も海外かぁ、とひどく感傷的になった僕は、
空港から家にひとりで帰る間ずっとウィーザーを聴いていた。
『ブルー・アルバム』をリピートで。
このアルバムのレヴューを書くのは、もう何回目だろうか。

音楽を聴き始めて約十年。
本当に数え切れないくらいの歌を聴いてきたけど、
体中の毛穴という毛穴が塞がるほどピッタリ僕に重なる「共感」は、
未だに“オンリー・イン・ドリームス”ただ一曲にしかない。

Weezer (The Blue Album)
/ Weezer

Weezer-weezer.jpg
誰だって“オンリー・イン・ドリームス”だった
 勘違いされては困るので言うが、ウィーザーの歌はダメなあなたを勇気付ける応援歌なんかじゃない。ダメなウィーザーとダメなあなたの、ダメの舐め合いではないのだ。ウィーザーの歌は、ダメなあなたを救わない。自分ひとりすらも救えない惨めな男の歌が、赤の他人のあなたを救えるわけがないだろう。素晴らしすぎるこのデビュー・アルバムを聴いて体が震えるほど感動した後でも、僕はジャケットに写る四人がかっこよく見えたことなんて一度もないし、憧れたことも当然ない。ウィーザーは、ダメな僕を救う救世主にはなれなかった。いつ見ても、この四人は救いがたい「ダメ」そのものだった。最終曲“オンリー・イン・ドリームス”で「夢の中じゃなきゃあの子を抱きしめることができない」と絶望していたリヴァースは、この究極のラヴ・ソングを歌い終わった後でも、その子を抱きしめることなんてできなかっただろう。伝えたい気持ちもろくに伝えられず、地球が引っくり返ってもイケメンにはなれないダメなウィーザーの歌が聴き手に与えた「共感」という「居場所」とは、死ぬほど大好きな「あの子」に、ウィーザーの四人と同じく、触れることすらできないダメな聴き手の、「苦しむべき場所」だった。“オンリー・イン・ドリームス”の、無言のラスト三分半に響き渡るギター。それは、「慰め」でも「痛み分け」でもなく、紛れもない「苦痛」の音だった。そして、誰一人救わないその「苦痛」の音は、その一点のみにおいて、素晴らしく感動的なロックンロールだった。イケメンになんて無理になろうとしなくてもいい。そんな安っぽい努力はさっさと放棄してしまえばいい。でもだからこそ、お前はもがき苦しむことだけは放棄するな。それでも前向きに生きるために、絶望することだけは放棄するな。その先にしか、本当の希望は、ロックンロールの希望は、ありえないのだ。“オンリー・イン・ドリームス”の最後の「苦痛」のギターが無言で歌っていることとは、すなわちそういうことである。世界にふたつとない、僕の、「この一曲」なのである。
17:21 | 日記 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

熊の場所

舞城
ここ最近はもう読んだことのあるものを読み直していたけど、
久しぶりに本を買った。
舞城王太郎の『熊の場所』。
初めて読む作家さんです。
「熊の場所」って、いったい何処だろう?
ザ・ヴァーヴの新作を聴きながら読むのだ。
“ラヴ・イズ・ノイズ”、「愛は轟音」。
ギターを掻き毟り、「轟音」を響かせながら、
彼らは「愛」を吐き出していたのだ。
「愛」という全能的な「肯定」によって、彼らは、自分たちを生かしたのだ。
でも、ザ・ヴァーヴの新作のレヴューはもっと聴きこんでから。
今日はまた違うバンド。

Highly Evolved
/ The Vines

19c7f5c672b9b41fe55c79b31bd9e051_full.jpg
少年みたいなピュアネス
 今月末に待望の四作目を発表するザ・ヴァインズが02年に発表した記念すべきデビュー・アルバム。隙間を埋め合うように重ねられた美しいコーラス・ワークで聴かせるミドル・バラードがあったと思えば、喉を焦がすような荒々しいシャウトが耳をつんざくロックンロールがある。その両方が居心地悪そうに同居した楽曲もある。シングル・カットされたタイトル・トラックはたったの95秒しかない。自由奔放に変速を繰り返す楽曲もある。ロックにおけるポップネスとスウィートネスとヴァイオレンスのすべてが交錯し一瞬の光を放ったまさにその瞬間を記録したようなこのアルバムは、「ビートルズとニルヴァーナの出会い」と称され本国オーストラリアよりも先にイギリスで高い評価を得た後、その余波は世界へと着実に広がっていった。もしかしたら、ギリギリのところでなんとかひとつの「アルバム」として完成している本作は、初めて聴く人にはひどくとっちらかった内容に思えるかもしれない。しかし、このアルバムの持ついびつさや不完全性こそまさに、ザ・ヴァインズというバンドをかたどる本質的なフォルムなのかもしれない。一種の自閉症的な発達障害と言われるアスペルガー症候群を患ったクレイグ・ニコルズというフロントマンを中心としたこのバンドは、コミュニケーションの苦手な彼の奇行・暴言・暴力に始まる幾多の解散の危機を乗り越えながらこれまでそのキャリアを歩み続けてきた。もちろん、すべてを障害のせいにすることはできない。乱暴さと常に背中合わせであったクレイグの弱さが、激しいシャウトの後ろ側で震えているのが聴こえる。
20:50 | | comments (2) | trackbacks (1) | page top↑

エピデミ

えぴでミック
今から観ようかなぁと考えていたけど、明日は午前中からバイトだし
そろそろ寝てこれを観るのはまた今度にしようと決めたDVD。
ラース・フォン・トリアー監督初期作の『エピデミック』。
昨夜観た『メディア』はまさに映像の映画でした。
今じゃ当たり前の技術だけど、20年前はまだ斬新だったんだろうと思う。
そして、やっぱりラース・フォン・トリアーらしく、喪失の物語だった。
すべてを失った時、人間に未来はあるのか。
『メディア』と『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の共通点ともいえるテーマ。
命だけは失わなかったメディアには、未来はなかった。
命すらも失ったセルマには、しかし、未来があった。
それは、ビョークの今自分が置かれている状況から前向きに進まなければ、
表現でもアートでも解放でも何でもないという一種の個人的な思想による未来だった。
これは楽観主義とは全然意味が違う。
後ろ向きな自分なんてクソ喰らえという、
ボロボロの両足を引きずりながらでも前に踏み出してやるという、
自分との果てしない戦いの決意だ。

Homogenic
/ Björk

Bjork-Homogenic.jpg
今こそ目覚めよ
 現在のところの最新作である『ヴォルタ』はその極みともいえるアルバムだが、ビョークの作品はどれも、メイク、衣装、アートワーク、ビデオなどのあらゆる視覚的要素が有機的に結びつけられることによってより効果的に彼女だけの世界を僕たち受けて側に提示し続けてきた。ビョークは、優れたミュージシャンであると同時に、優れたヴィジュアル・アーティストでもあるのだ。そして、僕はこの『ホモジェニック』のアートワークが一番好きだ。凍てついた空間に封じ込められたような、感情を持たない人形のような不可解な表情で固まった女性。『ホモジェニック』とは、ガラス玉のような彼女の瞳(つまり人間や動植物以外の「何か」)に、再び生命の炎を呼び起こすための営みだった。それは神秘や奇跡なんていう単純で都合の良い言葉には決して落とし込むことのできない、ビョークの格闘だった。ストリングスの奏でるオーガニックで流麗な音色と耳朶を激しく打ち付けるデジタル・ビートという対立構造が、生命の美しさと野蛮さが背中合わせの真実であることを告げているようで面白い。最終曲“オール・イズ・フル・オブ・ラヴ”のビデオは、生命の力さえあれば機械ですらも愛し合えるというファンタジーにも見えるが、その世界は限り無く閉ざされている。生命ほど素晴らしく、そして残酷なものはないということを伝えながらも、ビョークの歌声が決して後ろ向きではなくむしろ「解放」へと向かっているのは、その残酷さすらも全身で受け止める強烈な覚悟が彼女の中にあるからだ。レディオヘッドの『キッドA』やオウテカ作品などが代表的なように、概してガラスの冷たさのような印象を与えるデジタル・ビートが本作では例外的に、生命のすべてを受け止めようとしたビョークの情熱的な歌声の背後で、血の鼓動のように熱く脈打っている。
02:48 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

名監督

メディア
今から観ようかなぁと考えてるDVD。
ラース・フォン・トリアー監督初期作の『メディア』。
こうやってラース・フォン・トリアーの作品を観ていると、彼の目指したものは、
映像そのもので皮膚感覚を刺激する戦慄なんじゃないかと思えてくる。
彼が中心になって提唱した「ドグマ95」の10のルールは、
ほとんどが映像に対する執着的なこだわりだった。
壁を一切排除したセットの中で作られた『ドッグヴィル』。
子どもが遊ぶところと「見えない壁」によって隔てられた部屋で
欲情男にレイプされるニコール・キッドマンを観るのは、
強烈な「不快」以外の何物でもなかった。
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は、奇跡的というか、運命的な作品だったんだと思う。
ビョークが、あの映画の、たったひとつにして最後の希望のピースだった。
ビョークがいなかったら、あの映画はただの胸糞悪い作品で終わっていた。
ビョークがいなかったら、映画が、こんな面白いものだと思わなかった。

ビョークの話になってしまいそう。
ラース・フォン・トリアーは映像の監督としてのイメージが強いみたい。
僕は、ラース・フォン・トリアーこそが誰よりも優れた語り部だと思っている。
映像だけじゃない。
この男の書く脚本は、どれもすごいんだから。
初めての方には『ディア・ウェンディ』をオススメしておきます。
最後にCDレヴューも。
映画とは関係のない、今年発表されたばかりの最新作です。

Scars On Broadway
/ Scars On Broadway

Scars On Broadway-Scars On Broadway
引っ掻き傷を残す
 システム・オブ・ア・ダウンのダロンとジョンの新プロジェクト。唸りを上げるギター、早口で何度もしつこく反復される言葉、不可解だけどキャッチーなメロディ、正体不明のまま駆け抜ける変なグルーヴ。つまり、これはシステム・オブ・ア・ダウンの狂気である。まるで世界が狂っていることを象徴するかのように、ここにしかリアルはないだろう、と聴き手に迫る威圧感とスピード感はサージがいなくともまったく失われていない。システム・オブ・ア・ダウンが休止中の今これを自然にやってくれるところが、ダロンが前向きでいる他でもない証だ。意味もなく一曲を十数分にまで引き伸ばしたり無理やり音を詰め込んだりした形式的な革新や実験の音楽のほとんどは、シンプルかつミニマムを追求しながら本当に必要な音だけを正確に選び抜き、それなのに強烈なまでに個性的でどこか変態的なダロンの楽曲に、初めて耳にしたときの戦慄の傷跡の深さという点で明らかに負けている。ダロンの把握している世界のリアリティが、「歪み」という形でそのままこのアルバムでも提示されている。感じている「フリ」で音楽はできないし、そんな音楽では説得力など持ち得ない。音楽をリアルな表現へと高めるものは、ひとりの人間の中ではどうにもならなくなった怒りや混乱なんだということを、この作品では言葉だけでなく音そのものまでもが雄弁に物語っている。
01:39 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ギターの正しさ

Zepp.jpg
実は10日はウィーザーのライブの日でした。
ウィーザーのライブに来る人なんてダメ男ダメ女ばっかだろう、
と思っていたら案外普通の人ばっかで、
ウィーザーのライブなのにベックのTシャツ着てYUKIのタオル持ってる僕が
むしろ一番ダメなんじゃないだろうかとか不安になってしまいました。
一枚だけTシャツを買ったのですが、一番ダサいのにしました。
めっちゃ着てやる。本当にめちゃダサいけど、ダサく着こなしてやる。
それがウィーザーだろう。
それでも前向きなのがウィーザーだろう。
僕が唯一「共感」という理由で聴けるバンド。
リヴァースは自分なんだと、聴くたびに心が燃えている。

ライブの記憶は、ほとんど残っていません。
充実のセットリストで、パフォーマンスも最高だったし、
オーディエンスもみんな素晴らしかった。
良いライブだった。

今日、久しぶりに『ブルー・アルバム』を通して聴いた。
ジャケットのダサさが、愛しい。
ズッコケ四人組。
ダサくて、女の子にもてなくて、ダメダメな男子。
それでも、「俺はここにいるんだ」という証明を鳴らしたアルバム。
だからこそ聴き手がそこに求めたものは、ダメな自分の「居場所」だったはずだ。

「俺なんてダメだぁ」の次にバーン!と耳を打つギター。
ネガティヴな、内気な、情けないリヴァースの言葉を、
ギターだけがいつも受け入れていた。
“オンリー・イン・ドリームス”の最後のギター・パートを聴いてください。
本当に、僕がウィーザーについて言いたいことは、結局はそれだけなんだ。
“オンリー・イン・ドリームス”を聴いて欲しい。
誇れるものなんてなんもない情けないひとりの男を、
いつだってギターだけが「それでもいい」と、認めていた。
ダメ男集団ウィーザーがロックに求めた「居場所」、
リスナーがウィーザーに求めた「居場所」は、いつだってこのギターだったんだ。

実は“オンリー・イン・ドリームス”はライブでは聴けなかった。
でも、ウィーザーのギターは、今でも正しかった。
“ピンク・トライアングル”、“アンダン”、“セイ・エイント・イット・ソー”・・・・・・・。
ウィーザーのギターは、今でも僕が求める「居場所」だった。
これなんだ。
ギター・ポップの夢はこれなんだ。
そう思わせるライブだった。
よくわからないことばっかですいません。
01:58 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

トラヴィス

トラヴィス
昨年発表された『ザ・ボーイ・ウィズ・ノー・ネーム』と
今月発表される最新作のジャケット。

眼か。
なんだか重厚感のないパール・ジャムみたい、というのが第一印象。
少なくともこのジャケットにこれまでのトラヴィスらしさはない。
『ザ・ボーイ・ウィズ・ノー・ネーム』で深い内省から抜け出したトラヴィス。
今は、変革の季節か。

ちなみに最新作のタイトルは『オード・トゥ・J・スミス』。
「J・スミスに捧げる叙情詩」といったところか。
わけがわからん。
J・スミスって誰だろう?
冒険家のジョン・スミスしか思いつかない僕は無知だろうか。
ロック界の高名な人だったらどうしよう。

新作が出る時は実際に聴くまで
インタビューもレヴューも読まない主義なので、
いつもタイトルとジャケットだけでどんな内容なのか想像するのが楽しい。
でも今回はちょっと予測不可能だな。
それがトラヴィスなだけに、なんだかモヤモヤして気持ち悪い。
とにかく復習、復習。

The Man Who
/ Travis

Travis-The Man Who
ロック90年史のスライド・ショウ
 トラヴィスがデビューした97年当時、オアシスのノエル・ギャラガーは自身がトラヴィスのファンであることを公言し、ツアーの前座でも彼らを抜擢していた。そこでトラヴィスはオアシスにも負けないパワフルな演奏で観客を魅了し、まさにオアシスの後継者としての存在感を放っていたらしい。ブリットポップが終焉を迎えつつあった97年、トラヴィスは文字通りの「最後のブリットポップ」だった。それから二年後の99年に発表された本セカンド・アルバムは、ロック調のデビュー作から一転して今後の彼らの作風を決定付けることになったアコギがしっとりと馴染むやわらかいサウンドスケープを描き出していた。99年と言えばブリットポップはすでに化石化していたが、大変貌をとげた本作一曲目に収録され、「ラジオでは馴染みの曲ばかりかかってる/それにしてもワンダーウォールってなんだ?」と歌う“ライティング・トゥ・リーチ・ユー”は言わばトラヴィスからの「ブリットポップ決別宣言」だろうか。最終曲“スライド・ショウ”では“ワンダーウォール”の他にもマニックス“デザイン・フォー・ライフ”やベック“デヴィルズ・ヘアカット”などの90年代ロック史を代表する名曲が皮肉っぽく捩られていて、輝かしき過去に別れを告げているようで面白い。降り注ぐ雨の中に佇むような切ないメロディと地面を静かに覆う粉雪をなでるかのような手触りで聴き手を優しく包み込んだ本作は結果的にコールドプレイという00年代UKロックの巨大なシンボルへと繋がり、図らずも90年代がすでに終わったことを美しく告げていた。
02:10 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

今月のLP 9月

LP-Black Parade
パジャマでオジャマ。
この前このパジャマ姿で外に出かけたら珍しくうちのサークルの部長と遭遇して、
何か言われる前に「今日パジャマなんよ~」と言い訳したら
「いつもそんなんじゃん!」と言われ、ワハハとふたりで笑った。
その日の夜、部長は自分の体の臭いに吐き気がしたらしく、
来るはずだったサークルの飲み会に来れなくてなんだか悔しがっていた。
それを聞いて、みんなガハハと笑っていた。

そんなことはどうでも良いのだけど、今月購入のLPはこれ。
外面のデザインがいまいちだったから内面にしたけど、わかりにくいか。
マイ・ケミカル・ロマンスの『ブラック・パレード』。
ここ一ヶ月ぐらいかけて改めて聴きまくっている一枚。
もはや生活のサウンドトラックになってる。
06年に発表されたアルバムで一枚選べと言われたら
僕は迷わずこのアルバムを挙げるし、
00年代に入ってから発表されたアルバムの中でも
優れた五枚に入ると思っている。

写真で見るとかなりダークだが、
かつての“ヘレナ”のような暗くシリアスな曲は、実はあんまり入っていない。
このアルバムを埋め尽くしたのは、“デッド!”や“ウェルカム~”や
“ママ”や“ティーンエイジャー”や“フェイマス・ラスト・ワーズ”といった、
過剰なほどのポップネスをばらまく楽曲の数々だった。
そして、だからこそこの作品は素晴らしかった。

本作は、テーマに「死」を掲げながらも、
その過剰なポップネスによってそれを「生」にひっくり返す挑戦だった。
ポップであり続けるテンションとエネルギーを、
そのまま勇気と希望と生命力に置き換える試みだった。
ポップな歌は、ついつい口ずさんでしまう。
このアルバムも、一回聴いたら全部覚えられたし、
今だって聴く時はいつも歌いながらだ。
ポップは、何もできない「死」とは遠く離れた
「歌う」という場所に僕たちを連れて行ってくれる。
ポップに死ぬことは、不可能なのだ。
そして、このアルバムはその聴き手を巻き込む強烈なポップの力によって、
実際に聴き手の喉の奥から決定的な言葉を引き出してしまう。
最終曲“フェイマス・ラスト・ワーズ”のサビのフレーズ。
つまり、「もう生きることを恐れたりはしない」、と。

試しに最初から全曲歌ってみたら、
このアルバムのすべてがこの一言に集約されていく感動が
ありありとわかってもらえると思う。
苦しいこと、辛いこと、無力なことの究極的な象徴としての「死」を歌い、
その恐怖を振り払えないことを認めながらの、
「もう生きることを恐れたりはしない」。
この飛躍はいったい何なのか。

実は、マイケミがこのアルバムで歌っている象徴的な「死」は、
僕たちが逃れられない「宿命」というか、
僕たちの揺るぎない「前提」を歌っているに過ぎない。
僕たちは生まれた時からすでに無力で、
世界を変えることもできずに、死んでいくしかない。
でも、マイケミはだからこそ、
もがき苦しんで絶望することすら放棄しちまってどうすんだ!と歌っている。
人間が絶望するのも死ぬのも当たり前だろう、と。
だからこそうなだれてないで必死であがいてみろ、と。
そこにしか希望はないだろう、と。
要するに、本作の本当のテーマは「生きろ」である。

これ聴いて未だに自殺がどうこうとか言ってるやつがいたらそいつはアホだ。
そういえばどこで見たか忘れたけど誰か軽いとか言ってたぞ。
グッド・シャーロットの方がマシだみたいな。
ふざけんな。
逃げられない現実を直視して、
それに絶望しながらも、こんなにも死ぬ気で前に進もうとするロック・アルバムが
他にあってたまるか!

プロの評論家でさえマイケミについては勘違いしているアホが多い。
何をかっこつけているのか。
自分は別に絶望的な人間なんかじゃないとでも思っているのだろうか。
そんなおめでたいやつなら、
本当にお願いだからロックを聴くのなんてやめて欲しい。
無力で愚かでボコボコにへこんだいびつなフォルムをした自分が、
それでも前に転がり続けるために、僕たちはロックを聴くんだ。
資本主義とか社会のルールとか大人の常識とかいう
単純な図式にすでに押し込められた人間にロックはできない。
マイケミは、全然大丈夫じゃない自分を守るためにロックをやっているし、
自分と同じような大丈夫じゃない僕たちをなんとか前に進めるために
ブラック・パレードという道化を演じていたんだ。

すべては「生きる」ためなんだ。
僕たちはブラック・パレード。
「死」に向かって行進している。
でも、俺はまだ生きてるんだ。
ザマアミロ。
僕たちは、生きてりゃなんだってできるんだから。
01:56 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

カラフル・ライフ

チロル
ゴールデン・エッグスのチロルチョコ。
ゴールデン・エッグスもチロルチョコも好きだし色がきれいだから買っちゃった。
ローソンの店員に変なやつだと思われてなきゃいい。
ヤンチャそうな中高生が店内にいっぱいいたので緊張しました。

チロルチョコといえば、
やっぱりホワイト&クッキーが最高傑作だと思うんですけど、どうでしょう。
バニラチョコの甘さとクランチクッキーのサクサク感がたまらないのです。
たった20円30円の至福の時ですね。

ゴールデン・エッグスはトリゾーが良いですよね。
あの、絶妙にうざいと言うかつらい感じのダジャレがもう、ね。
そういえばこのチロルチョコ、GUSHIケンバンドがないじゃないか!
最高なのになぁ。
民族音楽の可能性の模索。
まぁ、ゴールデン・エッグス界のビョークですね。
というわけで今日はこの人。
レヴューは真面目です。

Post
/ Björk

Bjork.jpg
想像力という内なる秘境
 映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の中で、ビョークの演じたセルマは自分の頭の中に音楽とダンスの溢れるもうひとつの世界を創造し、誰も触れることのできないそのイマジネーションの世界を全力で肯定することで、終わらない希望を手にすることができた。セルマの創造したイマジネーションの世界とその希望を終わらせることができるのは、他でもないセルマ自身だけなのだ。もうひとつの世界を創造する、なんて言えば仰々しいだろうか。セルマは、もうひとつの世界を想像し、捏造し、自分を騙すことで、自分自身を救った。こんな言い方をすればネガティヴな希望に聞こえるかもしれない。しかし、この映画は僕たち人間の持つ想像力の奥行きと可能性がどれほど果てしないかということを見事に描ききったという意味において、紛れもない希望そのものだった。それと同時に、人間の想像力の限界を更新したという意味において、恐ろしく高次元なアートだった。
 ビョークのセカンド・アルバムである本作は、彼女のそんな世界を想像する力が独特のポップセンスと絡み合いながら急速に花開いた作品である。崖から物を投げ落とすことで安心を得られる世界(“ハイパー・バラッド”)。車などの近代発明が実は太古から山奥に潜んでいて、自分たちの出番を持ち続けていたという世界(“モダン・シングス”)。ビョークの展開する自前の物語に、僕たちが絵本の次のページをめくるようなワクワク感を抱いてしまうのと同時にそれが凄まじくシリアスなのは、ビョークにとって世界を想像するという内向的な行為がただそれだけで「解放」という意味合いをはらんでいるからだ。そう、僕たちは自己の中に新たなる世界を想像するだけで、時として無防備なほどポジティヴに生きることができる。だからこそ、セルマは自分の死のまさにその直前にも、笑うことができた。
18:42 | 日記 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

憂鬱とロマンの人

Alone With Everybody
/ Richard Ashcroft

Richard Ashcroft-Alone With Everybody
リチャード・アシュクロフトの世界
 棘みたいに心に突き刺さって、すっかり抜けなくなってしまった。「この世界はお前なしではあり得ない」。収録曲“クレイジー・ワールド”の中で歌われているこの言葉が妙に気になって、いったいどういうことなのかずっと考えていた。一見愛する者に「お前なしでは生きていけない」と歌っているように思えるかもしれないが、その解釈だと歌詞全体の文脈といまいち合致しない。たとえその通りであったとしても、ザ・ヴァーヴというバンドのフロントマンとして、生と死、希望と絶望といった引き裂かれた対極の間を何度も彷徨ったこの男の口から発せられたとなると、話は少し変わってくる。ヴァーヴにとって、対極を行き来することとはその間に横たわるすべてを受け入れようとするがむしゃらな旅だったのだと思う。生と死も、希望と絶望も、紛れもなくここにあるじゃないかという宿命を、不可避の諦念から祝福にまで昇華させる長い道のり。その果てしない距離感と不確実性は彼を幾度となく疲弊させ、バンドは何度も解散と復活を繰り返した。ヴァーヴ最後のアルバムと思われていた『アーバン・ヒムス』から三年後に発表されたリチャード・アシュクロフトのソロ第一弾である本作は、そんなヴァーヴの旅にひとつの決着をつける、三年越しの「回答」としての意味合いを期せずしてはらんでいた。それが、この言葉である。差別も犯罪も戦争もいつまでたってもなくならず、いったい何を信じれば良いのかすらわからない「混乱した世界」。嘘も裏切りも絶望も、間違いなくこの世界には存在している。そんな荒れ果てた世界の中で最も美しいものとは、劣悪な環境にも屈することなく芽を出そうとし続ける生命の力強さなのだとこの男は歌っている。この言葉は、万物に向けられている。すべての生命が共に希望と絶望を共有しながら回転し続ける世界。それを内包しようとした彼の歌には、だからこそ凄みと深みがある。
13:33 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ピープル=シット

スリップノット
中学時代の僕の、バイブル的な一枚。
スリップノットの『アイオワ』。

中学生の頃、僕は放送委員で、
毎週木曜日の昼休みになると放送室をひとりで占拠して、
当時まだ日本でデビューしていなかったタトゥーとか、
オアシス、ブラー、スーパーグラスとかのUKロック特集とか、
アンドリューW.K.特集とか、
とにかく好き放題やっていた。

この『アイオワ』を流した時には、
二曲目の“ピープル=シット”が終わる前に先生が放送室に駆けつけてきて
「変なの流すな」「そんなの家で聴け」と散々に言われ
ひどく傷ついたことを覚えています。
放送室に置いてあった“君が代”のテープを流した時ほどは怒られませんでしたが。

ピープル=シット。
人間なんてクソだ。世界なんてクソだ。
だからこそ、もがき続けることすら止めちまってどうするんだ?
これが、スリップノットのメッセージである。
そして最新作のタイトルが『オール・ホープ・イズ・ゴーン』。
なんというか、いかにもなタイトルだが、これには
「もがき続けることすら諦めてしまったら」という言葉が前につく。
「もがき続けることすら諦めてしまったら、最後の希望すらなくなってしまう」。
スリップノットみたいなバンドは理解のない大人からは
不健全な連中と勘違いされることが多いが、
彼らの歌はいつも、極めて健全な希望のメッセージになっている。


All Hope Is Gone
/ Slipknot

all_hope_is_gone.jpg
九つの憎悪が再び交錯する瞬間
 前作を聴いた時には「お前らやる気あんのかよ」と心底失望しただけに、本作を聴いた時には本当に快哉を叫びたくなった。演奏陣が、昔のテンションを確実に取り戻しつつある。マスクの下でニタニタ笑っているメンバーの顔が見えてきそうで嬉しかった。今のところファンからの評価はあまり良くないようだが、僕はこのアルバムが好きだ。年が暮れるころにはファンの人にもちゃんと評価しておいて欲しいなと思う。
 九つの憎悪が牙を剥き威嚇しあうことで凄まじい戦慄を生み出してきたスリップノットには、そのギリギリの力学ゆえに特別な事情があった。それは、ただ怒り狂うだけではいけない、ということである。かつて名を馳せた数多くのヘヴィ・ロック・バンドがもはや息も絶え絶えのこの状況下にあって、スリップノットだけが今もメジャー・シーンで勝ち続けている(本作は瞬間的に安室奈美恵のベスト・アルバムを抜いた)のは、ただ怒っているフリさえしていればどんなバンドでもそれなりに注目された当時から、スリップノットだけが常にそのことのみを目的としてこなかったからだ。スリップノットにとって最も重要な問題とは、バンドとしてきちんと機能する、という基本中の基本でありながらも九つの自我がなかなかそうさせなかった彼らだけの特別な命題なのである。それが奇跡的にも実現されたのが『アイオワ』という大傑作だったし、解散という深刻な危機を乗り越えながら制作された前作は、まさにそのジレンマの表出だった。そして、僕は本作ほど「バンド」として生き生きと演奏しているスリップノットを聴いたことがない。ただそれだけのことだが、それこそが何よりも本質的なのだ。本作がこの音でなければならなかったのは、この数年間スリップノットを離れそれぞれのプロジェクトに専念していた九人が、今再びスリップノットの一員でいることを何よりも前向きにとらえているからだ。
12:31 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

希望

PRISMICX.jpg
今聴いているCDの写真。
今はやっぱりこれしかないだろう。
僕の、すべての時間を止めてくれ。

バイトが終わって携帯を見たら知らないアドレスからメールが来ていて、
「何だ」と思ったらロッキング・オンからでした。
今月発売のJAPAN10月号でまた掲載してもらえるみたいです。
やったね。
嬉しすぎて、なんて言ったらいいのかわからない。

家に帰って送った原稿を読み直してみたら、
誤植はあるわ流れは悪いわ構成はなってないわのひどい原稿だった。
このブログには載せていないものなので、
機会があったら読んでみて欲しい気もしますが、
読まれたら読まれたでものすごく恥ずかしい気もします。
でもやっぱり読んでもらえたら嬉しいです。

僕には、文章力がない。決定的にない。
語彙も少ないし、構成力もまるでない。
毎日レヴューを書くたびに実力なさを痛感しています。
でも、「自分にしか書けないもの」を書くことに関してだけは、絶対的な自信がある。
今回の原稿は、文章はほんとうにダメダメなのだけど、
中身はいかにも僕らしいというか、僕にしか書けないものだと自負しております。
やっぱり「希望」という言葉がやたらと出てきます。
僕にしか背負えない思いです。

すべては、このアルバムから始まったんだな。
01:17 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

生きろ

白石
白石一文、『私という運命について』。
そう、僕たちは、宿命を変えることはできない。
でも、僕たちは、運命なら変えることができるかもしれない。
運命とは、意志であり、決意であり、選択である。
あなたがその強固な意志でもって決意したすべての選択は、運命なのである。

僕たちの人生には、「運命的なるもの」がそこらじゅうに転がっている。
ひと目惚れから衝動買いまで、
それにまつわるあなたの思いを自分自身で心から信じられた時に、
その選択は運命になる。
「運命的なるもの」は、あなたがそれを守り抜けた時に、
初めて正真正銘の「運命」になる。
運命は突然あなたのもとに舞い降りたりはしない。
選べない運命も、どこにもない。
「運命的なるもの」は、いつもあなたの選択によってのみ、
本物の「運命」へと成り得るのである。

だからこそ、最も究極的な選択は、「生きる」という決意である。
まっとうに「生きる」ことを選択できれば、
それがどんなに短い生涯であっても、
傍目から見れば不幸に映るものであっても、
その人生は、あなたのかけがえのない「運命」なのである。
「生きる」という決意は、あらゆる選択を可能にする選択なのだ。
「生きる」という選択は、ただそれだけで「運命」であり、
果てしない「希望」なのだ。
この本が伝えているのは、そういうことである。

ついでに今聴いてるCDのレヴュー書きます。
ザ・キラーズのセカンド・アルバム、『サムズ・タウン』。

Sam's Town
/ The Killers

The Killers-Sams Town
ポップな人間になろう
 こういうアルバムを聴くと、ポップであることは、ただそれだけで「勇気」であり「希望」なんだと思い知らされる。一瞬で覚えられて、ついつい一緒になって口ずさんでしまう過剰なまでのポップ感。そんな聴き手を巻き込んで歌わせる力とは、「生命力」以外の何物でもないんだ。ポップは本質的に死と結びつかない。僕たちは、歌いながら生きることはできても、歌いながら死ぬことなんてできやしないのだ。歌えるのなら、あなたはきっとまだ生きることができる。「ポップすぎる」なんて難癖付けて選り好みするようなやつは、僕に言わせればただの臆病者だ。何を知的ぶっているのか。かっこつけながらロックなんて聴けないんだから。
 キラーズがクイーンに憧れて作ったセカンド・アルバム。そういえば、クイーンのポップネスもそういう類のものだったような気がする。言わずと知れた名曲“ボヘミアン・ラプソディ”があそこまで過剰な構成と圧巻のメロディを必要としたのは、それが、タイツ姿で熱唱しちゃう伊万里焼コレクターの男が絶望しながらも前に進もうとする爆発的なエネルギーだったからに他ならない。記憶の片隅に眠っていたアメリカの郷愁の風景を放浪しながら、ブランドンが「ひとり」としての自分をもう一度始めからやり直そうとした傑作アルバム。荒野に生み落とされた少年が走り続ける勇気を手に入れたみたいな後半の高揚感はまさにクイーンのそれ。ポップでありロックであるというこのスケール感溢れるダイナミズムは、ひとりの人間が果てしない荒野に力強く生きていくことを全力で肯定している。
02:25 | | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

徹底検証 第7弾

 『王様は裸だと言った子供はその後どうなったか』という本がある。『裸の王様』『桃太郎』『蜘蛛の糸』などの誰もが知っているお話を独自の理論で再解釈して新しい切り口から解き直した一冊なのだが、これがべらぼうに面白い。森達也というドキュメンタリー作家の人の作品なのだが、機会があれば是非一度読んでみて欲しい。
 「愚か者には見えない不思議な衣装なんだ」と煽られてすっぽんぽんで町中を練り歩いた王様は、結局一番の愚か者だった。愚か者だったのだが、あるひとりの子どもが「王様は裸だ!」と言うまでは、そうではなかった。国民は、「愚か者には見えない」という衣装を、見えないという意味において、その衣装が「見えていた」。そう信じていたから、すっぽんぽんでも王様は王様で、国民は褒め称えるしかなかった。誰もが自分を騙していたその中で、真実を解き明かしてしまった少年は、果たして人一倍勇気のある少年だったのだろうか。ただ絶望的なまでに空気の読めないアホな子供だったのではないだろうか。森達也はそんな解釈から繋がった「少年のその後」を面白おかしく空想している。
 でもまあ、実はこの本のことは今は別にどうでも良いのだ。

 「王様は裸だ!」。この一言をなんの躊躇もなく言い放つことができたら、世界には思っている以上に「愚か者・愚かな行為」が蔓延しているということがわかるのではないだろうか。極端な例だが、オリンピックで以前以上に世界各国の注目の都市になった北京では、緑化制作が進んでいないことを誤魔化すために、ひとつの山を丸々緑のペンキで塗りたくっていたという。「愚か者にしか見えない緑」を、植林していたわけである。ペキンでペンキである。いくらなんでもアホすぎやしないか。
 最近流行りのエコバッグも、「愚か者にしかわからないエコ活動」である。というか、「愚かであることに気付かないエコ活動」である。友達からの受け売りだが、エコバッグなんてわざわざ新しく作っている時点で、エコでもなんでもないのである。「これまで使ってきたバッグをこれからも使おう!」で良いのである。疑問を持つということを知ってほしい。「エコ=正しい」なんていうのは、「愚か者の理論」である。

 でも、僕たちはそれが愚かであるということになかなか気付けないときも確かにある。そんな誰もが自分たちの愚かさに気付かない中で、「王様は裸だ!」とたったひとりで叫ぶ勇気は、きっと凄まじいものだろう。今回の久しぶりの『徹底検証』で取り上げるのは、愚かな行為で塗り固められた世界という巨大な「裸の王様」に、実際にたったひとりで声を上げた男、エミネムである。
 エミネム。ただの危ない男だなんて考えてやいないだろうか。ドラッグと暴力に溺れた自堕落の典型だなんて思ってやいないだろうか。もしそう思っているのなら、エミネムの音楽と一度きちんと向き合ってみて欲しい。彼の言葉に、真剣に耳を傾けてみて欲しい。エミネムが「王様は裸だ!」という叫びに辿り着いた理論を、解読してみて欲しい。この誤解されやすい才能に気付いていない人がいるならば、僕たちはこれを徹底して再評価すべきである。愛ですら地球を救わないということが公然の事実になった今(と僕は思っているのだけど、じゃああの偽善とマラソンとサライの番組はいったい何なんだろう?)、地球を、世界を救うことができるのは、エミネムの理論かもしれないのだ。
 『徹底検証』です。


The Slim Shady LP
Eminem-Slim Shady LP
マイ・ネーム・イズ
 勘違いした似非ヒップホップにいちゃんはドラッグきめてオンナとヤッたとか自慢しているが、簡単に言うならラップとは自己紹介である。大袈裟に言うなら、自分が自分である意味の自己申告、生きざまの証明である。いちいち言うまでもなく、昨日誰と寝ましたなんて自己紹介は聞きたくないのである。エミネムのデビュー・アルバムである本作。「邪悪な世界が俺を生み出した」。これが、エミネムの自己紹介だ。腐りきった醜悪な世界が生み出した「スリム・シェイディ」という狂気を演じながら、エミネムは地球の表層をベリベリと引き剥がし煮え滾るマグマを取り出すかのように、現代社会の罪と欺瞞を暴露していく。ひとりの人間の人格を丸々背負い、絶望や殺意までもを巧みなストーリー・テリングに織り込み、更に「スリム・シェイディ」「マーシャル・マザーズ」「エミネム」という多数の人格を使い分けることで表現を極めて完成度の高いエンターテインメントのレベルにまで引き上げながら世界中に展開するという知性。ヤバいリリックばかりが取り上げられることが多いが、僕がエミネムを聴いていつも思うことは、決して悪ふざけではない、世界の悪意を一身に引き受けることへの、いつ殺されてもおかしくない生き方への、迷いのなさだ。人生のすべてを懸けた、エミネムという世界への「回答」。本作はその第一声である。


The Marshall Mathers LP
Eminem-The Marshall Mathers
エミネムを理解するなら、エミネムを信じちゃいけない
 オアシスのノエル・ギャラガーが、若者の犯罪行為増加の責任はエミネムにある、と発言したことがある。確かに、デビュー作で早くもエミネムのヤバさを認知したアメリカでは彼のリリックは若者に明らかな悪影響を与えるものとしてすでに苛烈なまでの非難の的だった。エミネムは、子どもに見せられない背徳の象徴であると同時に「愚か者にしかわからない」ヒーローだった。本作は、自分を非難するエリート意識の高い大人たちに対しては類を見ないハイレベルのアート性をもって、エミネムこそ正義とする狂信的なファンに対しては警告をもって答えた、エミネムの並外れた才能とストレスの結晶である。そういう意味で、エミネムと狂信的なファンとの手紙のやり取りを歌った名曲“スタン”は象徴的だった。まるで映画を観ているかのような圧巻のストーリー・テリングと奥行きを伴った“スタン”は、今でもその衝撃性を失っていない。ところで、正当な理解を得られないことに対するストレスを露わにした最終曲の“クリミナル”は、僕には「俺の言葉を額面通りに受け取るな。俺の言葉を信じるな」とエミネムが歌っているように聴こえるのだけど、どうだろう。だとしたら、エミネムが歌っているものとはいったい何なのか。ヤバい言葉の限りを尽くし、世界の中心で咆哮するエミネム。エミネムのそんな狂気とは、世界の本質的な悪意である。その悪意の象徴としてマッド・ピエロを演じ続けるエミネムは、だからこそそんな自分を「クリミナル(犯罪者)」と呼んだ。そういえば、“スタン”で歌われた狂信的なエミネム信者の男が迎えた最後は最悪だった。そういうことなのである。


The Eminem Show
Eminem-Eminem Show
渾身のセルフ・パロディ、開幕
 ジャケットやタイトルを見れば一目瞭然だが、本作以降エミネムは自分の表現を一貫して「ショウ」として位置づけている。ステージの上で繰り広げられるスラップスティックと定義することでエンターテインメント性を一層高め、大胆かつ自由に動き回れるようにしているような印象がある。ここ日本で彼の名前が一般的なレベルにまで急速に浮き上がってきたのも本作から『8マイル』までの時期だったように思う。表現そのものはデビュー作の時点ですでに円熟していたし、セカンドではアートとしての完成形にまで見事に仕上げきったエミネムだが、そこから更に戦略的勝利を奪いにいったのが本作だ。しかし、だからといって本作の世界観がまったくの作り物ということにはならない。言うまでもなく、エミネムはという男は超私実主義のラッパーで、本作においてもその根底にあるのはジャケットが示すような彼の心に巣食う根強い孤独や怒りに他ならない。ひとりぼっちのステージの上から苛烈な言葉を叩きつけるエミネムの背後で、ショウを個性付けるセットの一部かのように次々と展開される彼の個人的な歴史・感情・人間関係。ひとりの人間が背負うあらゆる情報を片っ端から飲み込んだエミネムのショウは、だからこそやはりどこまでもリアルだ。


Encore
Eminem-Encore.jpg
エミネムの答え
 未だにエミネムが有名人の悪口言ってるだけとか放送できない言葉連発してるだけとか思っている人がいたら、ただひたすら“モッシュ”を聴いて欲しい。大統領選挙の一週間前にネット上で突如発表されたビデオも、できれば観て欲しい。誤解なんて入り込む隙のない世界への強固たるステートメントとしての強度と普遍性を兼ね備えたこの曲は、ある意味エミネムのひとつの到達点だ。この曲が象徴するように、本作はエミネムが僕たちに何らかのアクションを本気で求めたアルバムだった。そして、そんな本作では“モッシュ”と娘への無償の愛とクソとゲロが同列で扱われている。「混沌」の一言で終わらせることは簡単である。だがそうではないだろう。何かを変えるために、何かがおかしいこの醜悪な世界から愛する人を守るために、僕たちは一致団結して立ち上がるべきなのに、それでも毎日クソしてゲロ吐くことしかできないという、9.11以降の一小市民の生活のリアリズムなのである。そして、世界とはそんなひとつひとつの生活の集積によって成り立っている。誰もが世界の一員であり、誰もが世界の腐敗に加担している。それなのに、自分は世界を作る十分条件であるはずなのに、世界を変えるための必要条件にはそれこそ世界が引っくり返っても成り得ないという不可解な矛盾。世界が狂っているのは世界の成り立ちの前提そのものが狂っているからなんだということを、エミネムは歌っているのだ。
22:56 | 徹底検証 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。