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24時間

24.jpg
うちの姉は実家の近所の駅で例の黄色いTシャツを着て
募金活動に参加したりしていたけど、
僕は24時間テレビがずっと苦手だった。
なんだか、なんだかひどく正しすぎて、息が詰まりそうだった。
「正しすぎる」なんて言ったらただひねくれてるだけじゃないかと思われそうだが、
実際、僕はひねくれているんだろうと思う。
芸能人が汗水たらして走る意味がわからなかった。
アイドルがこの時になっていきなり身体障害者の人たちのところへ
訪ねていく意味がわからなかった。

エコも、チャリティーも、ボランティアも、僕は嫌いだ。
実際にエコを研究している人。
恵まれない世界の子どもたちのために募金活動をする人。
ただひたむきに人の役に立ちたいという思いを持った人。
そういう人たちがいることそのものを否定するつもりはないし、
本人たちが良いと思うなら別にそれで良いと思うし、僕にはどうでも良い。
ただ、そのエコ、チャリティー、ボランティアそのものを、
無条件に「正しい」と受け入れてしまうことに、違和感がある。
地球のために、人のために、
役に立つことをやってるんだから正しいことに決まってるじゃないか
とでも思い込んでいるかのような姿勢は、はっきり言ってウザイ。

僕にとってロックは、地球なんて救わなくて良いと歌う音楽だった。
ロックにとって何よりも大事なことは、
地球を救うことでもなく、人の役に立つことでもなく、
ロックがロックであり続けるということただひとつのみである。
彼らは時にアフリカの子どものことを歌う。
劣化する地球環境について歌う。
そして、彼らは自分ひとりがそんなことを歌ったところで、
世界は何ひとつ変わらないということを知っている。
にも関わらず無責任にそのテーマを取り上げ、
せめて何ひとつ変えられない自分だけでも救うために、
ギターを掻き鳴らし、歌っているのだ。
ただ自分が自分であり続けるために、彼らは歌うのである。

Fasciinatiion / The Faint
THe Faint-Fasciinatiion

人間の間違い、フェイントの正しさ
 ブライト・アイズやカーシヴなど、非常に感情的である意味人間的な特徴を強く持ったバンドが多いサドル・クリーク・レーベルの中で、エフェクトを多用したボーカルとエレクトロ・ロックという余りにも非・人間的なスタイルをとってきたフェイントの存在は明らかに異質だったが、本作はそのサドル・クリークに別れを告げ、新たに立ち上げた自主レーベルからのセルフ・プロデュース作となっている。だからといってサウンド面にも歌詞世界にもこれといったドラスティックな変化があるわけではない。ゴシップから宗教や教育にちょっとした人間関係まで、世界の様々な闇にリンクした退廃的なリリックを無感情・無機質に歌うエフェクト・ボーカルを聴くと、僕にはなんだか機械からの警告のように思えていちいち興味深い。実際に、収録曲の“マシーン・イン・ザ・ゴースト”の中で彼らはこう歌っている。「この機械の中にゴーストは潜んでいない。間違いを犯すのは僕たちのせいだ」、と。人間は、生まれた時から、本質的に間違っている。どうしようもなく間違いを犯してしまう救いがたい動物である。自分たちが作り上げた機械にすら知能的な成長や客観的判断やスピードといった点で明らかに劣り、今ではそんな機械の監視下で行動しなければ安心な生活も送れないという落ちぶれようである。タイトルの『ファシネイション』とは「魅了・魅惑(的な力)」という意味だが、いつだって人間を間違いに導くこの言葉に現代のデジタル情報社会を象徴する“i”の文字が多用されていることが皮肉に思えて仕方がない。こじ付けだけどね。
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17:56 | 音楽 | comments (1) | trackbacks (0) | page top↑

ザ・ヴァーヴ

ヴァーヴ
初めて聴いたヴァーヴの曲は、
チャンバワンバ目当てで買った『NOW8』に入っていた
“ビター・スウィート・シンフォニー”だった。

ヴァーヴの現時点での最新作『アーバン・ヒムス』が発表されたのは、
今から実に11年前にあたる97年のこと。
来月3日に、僕にとってリアルタイムで初めてのヴァーヴの作品が発表されます。
最近はアシュクロフトのソロ作も含めて復習中です。

ひとりで家に閉じこもりがちな人間ほど、
自分の中に強固な(頑固な)自分像を作り上げてしまう。
自分はこうじゃなきゃいけない。
こんなのは自分じゃない。
ひたすら悩み倒した挙句、生き難い世界を否定して、
絶望して、鬱になる。
アシュクロフトは、まさにそんな感じの男だ。

そして、だからこそ彼が世界から逃れるために掻き鳴らしたギターには、
言葉には、自分が自分であり続けるためのロマンが輝いている。

Urban Hymns
/ The Verve

The Verve-Urban Hymns
ロマンを持たずにロックンロールはできない
 やはり名曲“ビター・スウィート・シンフォニー”について語られることが多い作品だが、ここでは“ウィーピング・ウィロウ”と“ドラッグス・ドント・ワーク”の描き出すストーリーについて書きたい。「朝が来たなら、僕は両目を覆う」という逃避的な言葉で幕を開ける“ウィーピング・ウィロウ”。絶望に打ちひしがれた男の「もっといい時間/やり方/日なんてない。僕を救ってくれ」という悲痛な叫びがこだまするこの歌は、「僕の枕の下の錠剤」という危ない匂いのする一行で締めくくられている。そして、薬の効力によって「あっちの世界」への逃避を図ろうとしたこの男のその後が、“ドラッグス・ドント・ワーク”では語られている。つまり、「薬が効かない」、と。目を背けることすらできない圧倒的な絶望を歌いきったこの作品が、それでも美しく、感動的なのは、例えば「薬が効かない」の後に続けられる「きっとまた君に会える」という言葉のせいだと思う。ありったけの絶望の中で掴み取った、一握りの希望の手応え。それはもしかしたら薬以上の現実逃避なのかもしれない。ただ僕たちを待ち受ける未来に対して恐ろしく楽天的に、無責任になっているだけかもしれない。しかし、ロックとはそもそもそういう音楽ではなかったのか? 本人の意思に関係なくもいとも簡単にひとりになれてしまう「都市」に暮らす僕たちには、孤独や不安や絶望といった一人称の脅威が常にまとわりついてくる。だからこそ僕たちには薬なんかよりも遥かに強力な効果をもった希望が必要なのだとリチャード・アシュクロフトは歌い、それを「都市の聖歌」と名付けた。何度聴いても、彼のロックに対するそんなロマンに、僕は体が震えるぐらい感動してしまうのだ。
02:11 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

親愛なる

Dear Wendy
『ディア・ウェンディ』。
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のラース・フォン・トリアーが脚本ということで、
期待と不安が絡み合った複雑な気持ちで観ました。
夜中なのに、ギンギンに意識が覚醒しています。
これはもう本当に眠れそうにないわ。
なんなら今からもう一回観ようかな。

やっかいな劣等感を抱え込んだ少年。
ひとつの銃を手にした時から「強くなった自分」を捏造し始めた少年。
銃を手にしても本当はなにひとつ強くなっていない自分に幻滅する少年。
弱い自分を受け入れられない少年。
他でもない自分のために自分の強さを証明しようとした少年。
この先は、言えない。
ラスト15分(わかんないけど多分15分ぐらい)を観ている時、
僕はずっと『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のラスト・シーンのことを考えていた。
眩しかった。
絶望のその先は、やっぱり眩しかった。

どれほど強力な武器を懐に隠したとしても、
どれほど強堅な鎧を身に纏ったとしても、
どれほど堅牢な要塞に閉じこもったとしても、
僕たちは、本質的に、どうしようもなく弱い。
外から撃ち放たれた銃弾なら、僕たちは避けることができる。
でも、僕たちは、例えば孤独や嫉妬や羞恥といった、
自分の内側から放たれる劣等感からは、逃れることができない。
どこに行っても付きまとう影みたいに、
それらの劣等感はうつむけばいつも足元から僕たちを嘲笑っている。
自分を嘲笑う自分から、僕たちは逃れることができない。

僕たちは、荒野に立っている。
攻め立てるような太陽の光は、僕たちの足元にありありとした影を作る。
自分の影を誤魔化す遮蔽物なんてどこにもない。
僕たちは、絶望的な荒野に立っている。
自分と、真っ黒い不気味なもうひとりの自分以外には何もない。
僕たちは、そんなもうひとりの自分を引き連れて、
荒野の先へ、荒野の先に続く新たなる地平に向かって、
ひたすら歩き続けるしかないのだ。

荒野に立ち尽くした少年は、その先に何かを見た。
確かに見た。
地面に叩きつけられる直前に、
真っ黒いもうひとりの自分と重なり合って、初めて自分が「ひとつ」になる直前に、
少年は、付きまとう劣等感から守り抜いた唯一の「強さ」を見た。
果てしない絶望の先にこそあるはずの、希望を見た。

ロックが歌うべき場所も、この荒野であるはずだ。
何もない場所から捏造と破壊を繰り返しながら、
荒野のその先へと進み続ける旅であるはずだ。
そして、そこにあるはずの光は、僕たちの影すらも完全に消し去ってしまうほど、
果てしなく眩しいのだ。
04:37 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

今日もほろ酔い

ぜぶら
エミネム、リンプ・ビズキット、コーン、そしてゼブラヘッド。
中学の時、同じクラスの男子何人かに「貸してくれ」と言われ、
貸してやったら結局一枚も返ってこなかった。
ミスター・ビッグもだったかな?
コーンは今もないままだけど、他は買い直した。
買い直すまではCD-Rで我慢していた。
ゼブラヘッドのこのアルバムは、新作発表に合わせて最近買い直しました。
「お帰り」という感じ。なんだかやけに手に馴染む。

歴史に鎮座する大傑作や、
愛と平和を祈る賛美歌ですらどうにもできない僕の心を、
『プレイボーイ』のモデルさんがジャケットのこんな安っぽいアルバムが
いとも簡単に救ってしまったりすることがある。
僕は、いつもそれを「ロックンロールの希望」と呼ぶことにしている。

あなたにはそういう音楽がありますか?
世界を救うどころか変えることすらできない役立たずな音楽。
それでも、自分ひとりの心だけは確実に救う音楽。
「ロックを聴く」ということは、
そうやって、「自分を救う」ということです。
あなたの人生の断片を背負ったその音楽は、
どんな鋭いジャーナリズムや歴史的に重大なドキュメントにも絶対に負けない。

卒業式に友達から渡されたMDに入っていた歌。
昔付き合っていた人とよく一緒に口ずさんだ歌。
それがどんなに安っぽいポップ・ソングであったとしても、
その歌はきっと歴史に残る偉大な平和の歌よりも、
圧倒的な有効性でもってあなたの心を全力で救う。
それが、「ロックンロール」ということである。

Playmate Of The Year
/ Zebrahead

Zebrahead-Playmate Of The Year
14歳のサウンドトラック
 久しぶりに聴いた。アルバムを通して聴くのは6年ぶりぐらいなのに、“アイ・アム”も“プレイメイト・オブ・ザ・イヤー”も“ナウ・オア・ネヴァー”も“ワッツ・ゴーイン・オン”も、今でもほとんど完璧に歌える自分にビックリした。中学の頃、下校時に当時の唯一の友達と二人で、ジャスティンとアリのそれぞれのボーカル・パートに分かれてよく大合唱していた。友達の方は中学時代からすでに英語がペラペラで、男の僕から見ても明らかにかっこよくて、スポーツもできて、実際に女の子からモテまくっていた。僕は、席替えで近くの席になった女の子から露骨に嫌な顔をされるようなやつだった(嫌がる声も聞こえた)。僕の触ったものは不潔だとでも言うかのように、僕から渡されたプリントを毎日嫌々受け取っていた後ろの席の女の子の汚物でも見るかのような表情は今でも忘れない。なんであいつがいつも一緒にいてくれたのか、今考えてもよくわからない。ただ、お互いがロックの話を真剣に語り合える唯一の友達だったことだけは間違いない。それだけで繋がっていた友情だったし、ロックの話以外は、ほとんどしたことがなかった。
 小学校低学年のヤンチャな男の子が意味もなく「ちんこ」「うんこ」を連発して爆笑しているのと大差ないノリで音楽をやっているゼブラヘッドを、「軽い」「明るいだけ」「中身がない」と批判するのは簡単だ。ジャスティンが脱退して「これからどうなるんだろう」と不安になったこともあるけれど、新しいボーカルを入れても相変わらずの芸風で突っ走っている彼らを見ていると、僕はなんだか希望みたいなものが体の奥の方から湧いてくるのを感じる。たいした知識も教養もない中学男子が何も考えずに口ずさめる彼らのお気楽な歌が教えてくれた「ポップ」の意味は、絶対に間違っていなかったと今でも断言することができる。クラスのほぼ全員を見下すことでただ耐え続けた憂鬱な中学校生活の帰り道にゼブラヘッドの「ポップ」を口ずさむことは、僕の首の皮一枚の「生命力」だった。少し大袈裟だったかもしれない。でも、思春期ってやつはそもそも大袈裟なものだと思っているし、僕はいつになく大真面目だ。
01:25 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

酒、好きだけどホント弱い

whisky.jpg
先月はお給料いっぱいもらったし、
今月も結構もらえるし、今週末は給料日だし、
「良いや!」と思ってウィスキーのちょっと大きめのボトルを購入。
コーラで割って、飲みやすくして飲んでます。
ウィスキーのつまみはやっぱりチョコレート(ビター)に限りますね。
そして、BGMはヴェルヴェッツ。
なんて、なんてアダルトな夜なんだ。
もうホントに大人なんだから、困っちゃいますよね。
やっぱり、ロックはこうやって聴く音楽なんだな。
こもって、閉じて、酒をなめながら聴くロックが、一番良い。
でもなんだか最近酒を飲むと寝る頃になって体の節々が痛む。
ベッドに横になっても、なんだかひどく体がダルイのです。
年取ったなぁ。

The Velvet Underground & Nico
/ The Velvet Underground

Velvet_Underground_and_Nico.jpg
ハイセンス・アートとしてのセクシャリティ
 すべての曲で過激な性描写がされているわけではないし、そういった背徳的なテーマをロックが初めて取り上げた作品でもない。ただ、大きなレベルでロックの歴史を俯瞰した時に、アートとしてのセクシャリティを初めてロック・フィールドで完成させたのは間違いなくこのアルバムだった。同年にはドアーズの『ハートに火をつけて』、ビートルズの『サージェント・ペパーズ』、ラヴの『フォーエヴァー・チェンジズ』、ピンク・フロイドの『夜明けの口笛吹き』といった作品も発表されている。67年は、ロックの新たな可能性が次々と急速に花開いたすごい年だったんだな。ちなみに、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドというバンド名は、道端で偶然拾ったSM小説に由来している。
 SMや同性愛をテーマにした過激なリリックに加え、ルー・リードのボーカル曲の間に絶妙なタイミングで挟まれる、当時女優としても活躍していたニコの気だるいボーカルも印象的だ。このアルバムでは、実際に男と女が出会っている。そして、やはりなんといっても余りにも有名なこのジャケット・デザインである。今ではCDショップよりもTシャツや額入りで壁に掛けられているものを目にすることの方が多いが、それがある意味本作のアート性の高さを何よりも象徴している。ところで、CD版では細かく再現されていないことだが、LPでの発表当時はこのジャケットのバナナの皮が実際にむけて、その下にピンク色の果肉を見ることができたらしい。「ピンク」色の「バナナ」である。わかっていただけるだろうか。
00:57 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ビョークの世界

DancerInTHeDark.jpg
僕の中でずっとオンリー・ワンの存在感を放ち続ける映画。
ビョーク主演・音楽の『ダンサー・イン・ザ・ダーク』。
この作品ひとつで、僕の価値観は地球が引っくり返るぐらい大きく変わった。
この作品が映画にもたらした新しい表現力。
それは、暗闇の中で、それでも僕たちは笑うことができるという、「観念」だった。
メタファーや具体性ではない、「観念」。
この作品を理解するには、そんな三次元の理解力がいる。
描かれていない「何か」を見る理解力。
ビョークがエンディングで歌っていた「新しい世界」とは、
まさにそんな、見えないものが見える世界だった。
閉ざされた「その先」を、こじ開ける力だった。
この作品に出会ってから、僕にとって、ビョークは特別な女性になった。

Debut
/ Björk

Bjork-Debut.jpg
ビョークにとって(僕たちにとっても)初めての人間体験
 世界という人々が木々のように立ちしなう人間の森に迷い込んだ妖精、ビョーク。彼女のどこか浮世離れしたような特別な存在感は、奇抜なメイク・衣装や独自のサウンド理論によるものではなく、ビョークという女性そのものの佇まいから放たれる恐ろしくナチュラルな魅力である。ほとんどノー・メイクに近い状態のビョークをとらえたこの飾り気のないジャケット写真が、彼女の内に秘められた「魔性」を何よりも雄弁に物語っている。
 すべての始まりを告げた“ヒューマン・ビヘイヴィアー”。今振り返ってみると、この歌はビョークのこれまでの15年間を見事に貫いている。「人間に関わったことがある?」と人間以外の何かの立場からビョークが問いかけ始める時、彼女の背後に人間の森が形成され、僕たちは否応無しにその奥深くへと解き放たれる。このアルバムは、ビョークが経験した人間の説明しがたい原初的な興奮と戸惑いの追体験である。地図も磁石もその役目を果たさない、感情と本能のみを磁場にして広がる人間の森の中を「迷子」と化してさまよい歩いたビョークの軌跡を辿るかのように、僕たちは“ライク・サムワン・イン・ラヴ”に、“ビッグ・タイム・センシュアリティ”に、身を任せていくのだ。彼女の意識に呑み込まれながら、彼女が始めて体験した「人間」の機微の輪郭をなぞるかのような不思議なトリップ感。それが再生ボタンひとつで永遠に再現され続ける、世界にただひとつの文字通りの「デビュー」なのである。
03:25 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

黙示録の風景

modernguilt.jpg
ヴァイオレット・カラーの美しい夕焼け空。
ベックは、これを『モダン・ギルト』と呼んだ。

Modern Guilt
/ Beck

Beck-Modern Guilt
世界への危機感
 世界に再び意義を申し立てていく決意を明らかにした前作『ザ・インフォメーション』に続く、ベックからの新しいステートメントが届いた。その名も『モダン・ギルト(現代の罪)』。本作の着想の出発点になったとベック自身が語る“ケムトレイルズ”という曲があるのだが、ここで彼は一見美しく見える空とその美しさの真実としての大気汚染について歌っている。表層部の喜びと深奥部に隠された欺瞞という二面性。楽しげな広告の背後に秘められた意図、ネオンの煌びやかな光に包まれた都会の喧騒、商業的な悪意の透けて見える名ばかりのエコなんかと同じようなもんだ。表題曲でベックはこう歌っている。「何をしてしまったかわからないけど、でもなんだか恥ずかしく思う」。人間の狡猾な知性から始まった全世界同時進行の化かし合いと、生きているだけで知らず知らずのうちに自分自身もその化かし合いに加担してしまい、気付けば状況の共犯者になってしまっているという現代の不可逆的な構図そのものを、ベックは「現代の罪」と呼んだ。「生きているだけで罪」、「でもそれが今を生きるということ」という抜け出すことのできないダウンスパイラルなのである。
 デンジャー・マウスが手がけたビートはもちろんどれもやりたい放題なのだが、そこに歌をのせるベックはこれまでになくダークでシリアスだ。「現代の罪」を暴きだす二面性がここにも!というのは明らかに考えすぎである。もっと聴きこまなきゃ。
01:21 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ゆきらいぶ

YUKI LIVE “5-star” ~The gift will suddenly arrive~
/ YUKI

YUKILIVE.jpg
変わり続けたYUKIの五年と、変わらない何か
 「YUKI」としての五歳の誕生日会というコンセプトの下に行われた07年11月の武道館公演。『ユキライブ』で観られる前回の武道館公演(“joy”ツアー)の時に比べると、巨大なバック・スクリーンを除けば随分と地味なステージングといった印象。バンド・メンバーはほとんど黒子みたいに背景に溶け込んでいる。その中心にヴィヴィッドなピンクのドレス姿で登場し、のっけから“長い夢”を歌い始めたYUKIは、まるでどこかの国のおとぎ話に出てくる小さくて可愛い魔法使いみたいだった。まるで魔法の杖を振り回すかのように、YUKIが言葉を綴り、元気に飛び跳ねるだけで、たったそれだけのことで、僕たちの世界は瞬時にカラフルな色に染め上げられ、ノドを爽やかに弾く炭酸水みたいに、楽しげに躍動を始める。そう、これなんだ。この瞬間こそが、YUKIのライブなんだ。

 このDVDを観ると、YUKIの表現は未だに正当な理解と評価を得られていないなと断言せざるを得ない。あの変な“JOY”ダンスを相も変わらず夢見るような笑顔で踊り狂うオーディエンスの姿。当時の最新作であった“ワンダーライン”を披露する時のあの照れ臭いような、誇らしいような、YUKIの表情。このDVDに確かに記録されているそんな一瞬一瞬にこそ、YUKIの世界は鮮やかに広がっている。だから、本作には後付のCG加工なんていらなかったんじゃないかと思う。ペラペラで白々しいCGで煽ろうとしても、誤魔化そうとしても、あんなものはYUKIの本当の魅力の前では、簡単に見透かされてしまう。もっと思い切って言うなら、間にちょこちょこ挟まれたインタビューやショート・フィルムも、本当はいらなかった。公演を最初から最後までダラ撮り垂れ流しで良いとは言わないが、会場にいたら同じような笑顔で“JOY”ダンスを披露するであろうほとんどのファンは、あんなものより大幅にカットされた本編の方が観たかったのではないだろうか。少なくとも、僕はそう思う。だって“ハローグッバイ”も“スタンドアップ!シスター”も“WAGON”も“Rainbow st.”もカットされていて、MCなんてほとんど全部カットだ。果たして、これがYUKIのライブと言えるのか。妥協はしない。音楽で会場全員と繋がる。ギャグ飛ばしてみんな爆笑させてやる。それがYUKIの思い描くロックンロール・スター像ではないのか。みんな、いったい何を勘違いしているのか。
 一年以上も前のことなのにこいつはいつまでウダウダ言ってるんだと思われそうだが、このDVDを観て、“ビスケット”の配信限定という発表スタイルはやっぱり間違っていたんだと僕は確信した。後でシングル・コレクションに収録されたからいいじゃないかというのは完全なる話のすり替えである。YUKIは、いったいなんのために「体がひきちぎれるまで」歌うのか。その強烈な意志は、なぜ、いったいどこから、湧き出てくるのか――。「みんな」に届けるためではないのか。自分のCDを買ってくれた「みんな」に、ライブ会場まで足を運んでくれた「みんな」に、誰一人置いてきぼりにさせない「みんな」に、歌を、思いを、届けるためではないのか。僕の周りのYUKIファンは誰も言わないから言うが、パフォーマンスとコミュニケーションの場を限定してその中だけで完結するYUKIの歌なんて、クソである。僕たちの抱えた思いはどれもビスケットみたいに脆く壊れやすいものだから、だからこそみんなで共有しようと、みんなで守り抜いていこうと、いつもYUKIはそう歌ってるのではないのか。もう一度言う。みんな、いったい何を勘違いしているのか。

 Everyday is My Birthday.
 「毎日が誕生日」という印象的な言葉をバック・スクリーンに焼き付けて、今回のDVDに収録された武道館公演は終わる。日々何かが死に絶え、新しい何かが生を享け、常に表情を変えながら地球が今まで回り続けてきたように、日々変わり続ける勇気を祝福しようとYUKIは言う。新しい自分に生まれ変わることを、恐れちゃいけないとYUKIは言う。みんなが求めるYUKI像から本来の自分に戻ると宣言した今年のツアーで、彼女はそれを「リハビリ」という言葉で表現していた。言うまでもなく、YUKIは極めて言語的なアーティストである。言葉に対する意識の極めて高い女性である。そんなYUKIが「リハビリ」なんて言葉を選んでしまった時点で、彼女の中に正当な理解と評価を得られていない自分に対する何らかのストレスやフラストレーションが漠然と存在していたことは間違いない。そして、今年のツアーで自己に還るプロセスの始めの一歩だと語ってから歌い始めた“汽車に乗って”は、小さくて可愛いポップの魔法使いからひとりの普通の少女へと再び生まれ変わる決意をした自分自身のために歌ったバースデイ・ソングなんだろうなと思う。

 そして、このDVDを観て「五歳の誕生日会」に参加しながらYUKIのこれまでの五年間を振り返ってみると、彼女は変わり続ける自分を、変わり続ける思いを、変わり続ける歌と言葉でいつだって祝福し続けてきた。ひとりぼっちになって立ち止まりそうになってしまう自分をなんとか前に進めるために、これからも歌い続けるために「もう うたえないわ」と歌った“呪い”。そんなひとりぼっちの内省から頭をもたげて、誰かと繋がる勇気をみんなで共有するために「立ち上がれ」と鼓舞した“スタンドアップ!シスター”。「死ぬまでドキドキしたいわ/死ぬまでワクワクしたいわ」と歌い人生は謳歌するためにこそあるんだと語りかけた“JOY”。そして、“汽車に乗って”。他の曲もすべて、YUKIの何らかの思いを背負っている。そこから前向きに生きるために、それがどれだけ辛く苦しい思いであっても、彼女は、それを祝福する。
 そして、実際に観客と正面から向かい合うライブというものは、YUKIにとってその「祝福」を「みんな」に委ねるための場所である。「毎日が誕生日」という自分の信念を、「みんな」のものにする場所である。「毎日があなたの誕生日」なのである。「毎日が僕の誕生日」、なのである。

 デビュー・シングルである“the end of shite”から今のところの最新作である“汽車に乗って”までの全作品を通して聴くと、その変節の激しさからこの五年間のYUKIを取り巻く環境と彼女の心の激動がすぐに理解できる。変わり続けるYUKIの思い、歌、言葉。ただひとつ変わらないのは、それを伝える先にいる「みんな」の存在である。変な“JOY”ダンスを未だに楽しげに踊ってくれるような、「みんな」である。そんな「みんな」が、変わり続ける自分をそれぞれに祝福できるように、今夜もYUKIはロウソクの炎をそっと吹き消す。
 いつも「誕生日の匂い」と呼ぶことにしているのだけど、ケーキに挿したロウソクの炎が消えた瞬間の、あの甘く焦げた匂いが好きだ。YUKIの歌を聴き終わった瞬間のなんだかどうしようもなくワクワクして前向きになってしまう感覚と似ているのだ。ロウソクの炎が消え、YUKIの歌が終わり、部屋に暗闇と静寂が訪れた時、ほのかに漂い始める「誕生日の匂い」――。毎日の僕を祝福するこの匂いは、こんなにも甘く、そして魅力的なのだ。
03:29 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ザ・キラーズ

キラーズ
特に深い意味や新しいニュースはなし。
バイトの行き帰りで聴いていただけ。
恥ずかしい話、初めて聴いたのは大学に入ってからだった。
ちょうどセカンドがリリースされた頃。
音楽を聴くと、どうもその頃の思い出にタイムスリップする癖があって困る。
だから僕はひとりでしか「ロック」を意識しながらロックを聴けないし、
「線」で聴けなくて、「点」で聴いてしまう。
「点」を繋げよう。

今日もNIKEのCMを観た。
高校の時に同じクラスだったやつが「メジャーなやつはNIKEを履く」的な発言をしていて、
それを聴いて以来NIKEが大嫌いになった。
明らかにマイナーな僕はビーサンかadidasしか履かない。
All Day I Dream About Sex.
スニーカーは(頭文字をとって)adidasしか履かない。
勘違いしないで欲しいのですが、これはKornのネタです。
わかる人にわかればいいです。


Hot Fuss
/ The Killers

Killers-Hot Fuss
「アイ・ガット・ソウル、バット・アイム・ノット・ア・ソルジャー」ってやつ
 こういうシンセの煌めくポップ・ソングを聴くと僕はどうしてもデュラン・デュランとC-C-Bが頭に思い浮かぶのだけど、要するにこのスタイルは80年代の産物なのだ。キラーズが本作を発表したのは04年。本国アメリカよりもイギリスで先に火のついた彼らだが、当時のイギリスはフランツを筆頭とした空前のギター・ロック復権現象の真っ只中だった。ギターを主体にしたロック・バンドが溢れる中、キラーズの存在感はやはり特別だった。“ミスター・ブライトサイド”や“サムバディ・トールド・ミー”などの覚えるなという方が無茶な最高にメロディアス&キャッチーな楽曲を80年代のスタイルながらも現代的な強度を持たせて演奏し、今の時代にシンセサイザーの有効性と正当性を再び明らかにした記念すべきデビュー・アルバム。
 でもキラーズが面白いのは決してそれだけではなくて、ダンサブルなサウンドとほろ苦い歌詞世界の絡み合いも魅力のひとつ。嫉妬と幻滅をお供にディスコで踊り明かすみたいなやけくそな絶頂感。ラストに“エヴリシング・ウィル・ビー・オールライト”を置いているところにも何らかの意図が見える。今までありそうでなかった新しいカタルシスを生み出すことに成功した本作は英米両国で売れに売れ、最終的に700万枚を超す異例の特大ヒットを記録した。余談ですが、収録曲の“オール・ディーズ・シングス・ザット・アイヴ・ダン”は現在NIKEのCMで使用されています。Just do it!!
02:01 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ジョイフル・クオリティ

新
某ファミレスで、と言いながら堂々とタイトルにしているが、
明日行う後輩の誕生日会の計画をサークル仲間と練っていた。
もう細かいことは書かないけど、今日のあの店は本当に凄まじかった。
店員も客も、いろいろとやらかしてしまっていた。
あの店員にしてこの客。
そして、僕たちもそんな客の一味にすぎなかった。
ひとつひとつは「事件」と呼ぶには小さすぎる出来事だったけど、
すべてが同時多発テロ的に行われたあの衝撃はすごかった。
誕生日会なんて、しばらくのあいだ頭から吹き飛んでいた。

この間の抜けた写真は、
僕たちが何時間もかけて捻り出したサプライズ企画の重要なアイテム。
彼が明日は大活躍するのです。
サークルの仲間の誕生日には必ず何かサプライズを仕組むのですが、
今回は久しぶりに大掛かりな企画です。
明日が楽しみ。
ヴァーヴの復習をしながらそろそろ寝ようかな。


A Storm In Heaven
/ The Verve

The Verve-Storm In Heaven
時に、ギターは言葉よりも雄弁に真実を語る
 長年ロックを聴き続けていると、ギターの音が「ジャ~ン!」とひとつ響いただけで、そこに込められた思いや感情からその音が持つ奥行きや温度、鋭さや矛先に至るまで、あらゆる情報を瞬時に理解することができるようになる。こうだから・ああだからという理屈ではなく、完全にただの勘なのだが、これが不思議とその通り理解した方がシックリきたりするもんなのである。本作は来月に実に11年ぶりとなる待望の新作を発表するザ・ヴァーヴのデビュー・アルバム。今でこそ“ビター・スウィート・シンフォニー”の協奏曲的なイメージと『アーバン・ヒムス』のアコースティックな佇まいの印象が強いが、デビュー当初はフィードバック・ノイズが印象的な所謂シューゲイザーの一派だった。時に穏やかに、時に激しくうねるそのギター・サウンドは極めて憂鬱な表情をしているが、孤独が肥大させた独りよがりな狂気を常に孕んでいる。強い内向性と内に秘めきれない激しさという両極端の二面性が絡み合いながら押し寄せるサウンドは、だからこそ軽く聴き流すことのできない重さを持っている。リチャード・アシュクロフトのボーカルも、気だるいような気もするが今にも死にそうなほど切実である。ジャケットの洞窟は子宮のイメージである。その出口には光に照らされ両手を掲げながら喚起の産声を上げる小さな人影が描かれている。墓地の写真がそのまま採用されたバック・カバーは、言うまでもなく「死」を表している。つまり、本作は「生」と「死」という相容れない対極のイメージによってパッケージされたアルバムであって、実際に引き裂かれた両極の間を揺らめくような実に酩酊したサウンドスケープを描き出していた。
01:57 | サークル | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

とびら

扉
ザ・ドアーズのデビュー作。67年。
エレカシの『扉』というアルバムのジャケットは、
確かにこのジャケットを意識している気がしますね。
タイトルもそのまんま『扉』だし。
エレカシが新しい扉を開いた記念すべきアルバムだったらいいな。

そういえば、昔、僕も友達と遊びでバンドを組んでいた。
バンド名は「フィジカル・リミテッド(=肉体の限界)」だった。
いや、本当に。
アンドリューW.K.に是非ともパロッていただきたい。
ははは、面白いな。
わかる人にわかれば良いです。
わかられたらわかられたで恥ずかしいけど。

Strange Days
/ The Doors

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まぼろしの世界へようこそ
 ドアーズが拓いた世界、それは音楽的要素としての幻惑的なサイケデリアに止まらない。聴き手の知性とイマジネーションを刺激する終わりなき無限の奥行きを音楽に与えるための類を見ない試み。それはまさに「知覚の扉」を開く挑戦だった。前作の成功とビートルズの『サージェント・ペパーズ』を聴いてしまったことがメンバーの創作意欲に完全に火をつけ、スタジオという実験室で見事なマッド・サイエンティストに成り切っている。“放牧地帯”なんて、聴いていると本当におかしなところに連れて行かれるんじゃないかと思ってしまうほどで、奇妙というより怖い。“ハートに火をつけて”のような派手なヒット曲は入っていないが、本作をドアーズの最高傑作に挙げる人は多い。邦題は『まぼろしの世界』。
 ドアーズの究極的なテーマは「終わらない終わり」だと考えている。出口の扉を開いたら、また扉――そんな、死ぬまで出口の扉を開き続けるような途方もない永遠。前作の最終曲“ジ・エンド”と本作の最終曲の“音楽が終ったら”を聴いてもらえれば僕の言いたいことがわかってもらえると思う。どちらも、ロック史に残る名曲である。音楽が終ったら、明かりを消してくれ――。なぜなら、終焉を包み込む暗闇の中にこそ、真の始まりはあるからだ。ジム・モリソンの文学的な才能が爆発する超大作である。これが、あの天才トム・ヨークが死ぬほど憧れたロック・スター像だ。そう、ギターなんて誰だって弾ける。でも、誰もがジム・モリソンになれるわけじゃない。もしこのアルバムを聴いてあなたがロック・バンドを組むことを決意したと言うなら、あなたは絶望的なまでに救いようのない愚か者だ。
03:01 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

エレベーター・ミュージック

The Information
/ Beck

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魂は情報なんかに負けない
 『ミューテイションズ』に『シー・チェンジ』というベックにしては比較的おとなしめな作品でこれまで共演してきたナイジェル・ゴッドリッチの「ヒップホップ・アルバムを作ろう!」の一言から始まった本作だが、ヒップホップを原型としながらもそこからくねくねと派生して最終的にベックらしい異型ロック・ミュージックとして仕上がっている。しかし歌詞の方は内省的、というか案外シリアスで、本作のキモはやはりそちら側だと思う。
 三曲目の“セルフォンズ・デッド”が好きだ。ベックの楽曲の風景には彼の故郷であるロスの街並みが設定されていることが多い。しかも、懐かしさではなく変わり果てた故郷に対する批判的な視線で描かれることの方が、圧倒的に多い。開発の波に呑まれ急速に都市化が進められ、摩天楼が天に向かって屹立し、大都市として象徴的な街にまで発展した故郷に実際に思いを馳せながら作った楽曲かどうかはわからないが、「携帯電話が通じない。僕たちは砂漠で途方に暮れている」と歌い、携帯電話がないだけで不安に駆られ孤立したような錯覚すら覚えかねない現代社会の在り方に強く訴えるこの曲の風景は、そのままロスの街並みと重ねることができるだろう。同じ曲の中で、ベックは「10セントでジュークボックスが心の鏡みたいに鳴ったのは遥か昔のこと」とも歌っている。今じゃもう10セントぽっちの金で夢を買うことなんてできやしない。このままで良いのか? 開発と発展を繰り返して僕たちの生活は確かに便利になったかもしれない。でも、その代償として失われたものは余りにも大きすぎやしないか? ベックはアルバム全体を通して、そういった目に見えない切ない価値に対して余りにも意識の希薄な現代社会に意義を申し立てていく。『シー・チェンジ』はもちろん『グエロ』もその表現の向かう先は突き詰めればベック自身に行き着くような印象があったが、本作からその矛先は世界へと移行し、それが最新作の『モダン・ギルト』へと引き継がれていくんだと思う。
 そういえば、本作のジャケットは方眼紙に同封のシールを自由に貼って買い手が世界にひとつのオリジナル・ジャケットを作れるというなんともベックらしい茶目っ気タップリの面白いアイディアが採用されているのだけど、アマゾンの中古販売で購入した僕の本作のジャケットには、前の持ち主が喜々として作ったのであろう見事なまでのカオスを体現した恐ろしく奇抜なデザインがすでに完成されていた。自分で作れなかったのは残念だけど、ここには前の持ち主とベックとの間接的だけど濃密なコミュニケーションがあったんだろうなあと思う。もしベックがこれを見たら、「な? 僕たちを繋いでいるものは携帯の電波とか電子化されたメッセージなんかじゃないだろ?」と笑ってくれるような気がして、僕にはそれが何よりも嬉しい。
12:49 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

狂気の人

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スタンリー・キューブリック監督の62年作、『ロリータ』。
ウラジーミナル・ナボコフという作家の小説を映画化したものみたいです。
もうずっと目が離せなかった。
なぜかって、ロリータ役の女の子が可愛すぎて。
なんなんだあの目つきは。
子悪魔っていうのはあの子みたいな女の子のことを言うんだろうな。
本当に可愛いんですよ。可愛すぎるんですよ。
それしか言ってなくて説得力ないけど、本当に、死ぬほど可愛いんですよ。
そりゃああんな女の子がそばにいたら狂う男もいるわな。
男の愛情は、純粋といえば純粋なんだけど、高慢で身勝手で、狂っていた。
狂っていたけど、まるでダダをこねる子どもみたいだった。
男は、子どものまま大人になると、狂う。
そして、実は、男はみんないつまでたっても子どものままだ。
僕だって、あなただって、きっとそうだ。
幼さと狂気は紙一重。
キューブリックはやっぱり映画に狂気を持ち込む人だった。
今日は、『バリー・リンドン』を観るか。


CDレヴューはベックで。
まだ最新作の『モダン・ギルト』が聴けてない・・・・・・。
『ザ・インフォメーション』のレヴューも書いたら聴くことにします。

Guero
/ Beck

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ヘイ、グエロ!
 『シー・チェンジ』がベックにとっていかに重要な作品だったかを物語るようなアルバム。南米のスラングで「白人の男の子」を指すこの言葉をアルバム・タイトルにしたというスタンスが当時のベックのメンタリティを明確に表している。自分を「負け犬」と称してケラケラ笑っていたあの頃の印象と激しく重なる。白人なのにそれらしくない変なことばっかやってる自分を自分で「おもろい」と笑えなくてどうする? そこから始まるいかにもベックらしい自由さが本作では取り戻されている。『オディレイ』を発表してからというものいまいちパッとしたキャリアの描けなかったベックが自分の未来と真正面から向き合うためにあえてその歩みを止めたのが『シー・チェンジ』だった。このアルバムを聴くと、ベックが『シー・チェンジ』の「立ち止まり」を極めて前向きに位置づけていることがわかる。ダスト・ブラザーズと組んでもう一度『オディレイ』の方法論をなぞるなんてことができたのは、ベックが「もう何をやってもいいんだ」という開き直りにも似た吹っ切れ方をしているからだろう。それでもこのアルバムが『オディレイ』の滅茶苦茶なポップネスをまったく発していないのは、ベックが自分の音楽と極めて冷静に向き合えている証拠だ。個人的に、このアルバムはベックがこれまでの自分のキャリアを冷静に分析し、そして肯定した作品だと思っている。これまでのベックの軌跡を辿るかのようにディスコグラフィーのすべてを内包した作風になっているのは、きっとそういうことだ。『シー・チェンジ』でひとりの人間としての自我を探り、本作でミュージシャンとしての自己を認めたベックは、続く『ザ・インフォメーション』で独自のパフォーマンスとコミュニケーションの在り方を提示しながら世界と積極的に関わり続ける決意を明らかにする。
17:30 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

海くらい行きたい

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実家にはもう帰っちゃったから、
夏休みだというのにもうバイトとサークルしか予定がない。
ロック・ファンの皆さんがあちこちのフェスのレポートなどを書いていますが、
僕はフェスやライブに行く予定もない。
日焼けとは無縁の生活をしております。
でもロック・ファンって案外コミュニケーションの苦手なネクラな人が多いんですよ。
みなさん勇気を振り絞ってフェスに出かけているんでしょう。

さてさて、引き篭もりアイテムに本、CD、DVDは欠かせません。
今日はあいにくの雨ですが、ブックオフに本を買いに行ってきました。
阿部和重の『グランド・フィナーレ』を購入。
これ、ずっと読みたかった。
雨雲が出ているせいで部屋が暗いので、
これから窓際の際の際にまで移動して読みます。
蛍光灯の明るさは嫌いなんですよね。
音楽はリチャード・アシュクロフトで。
ヴァーヴの新作が出ますからね。
アシュクロフトは“チェック・ザ・ミーニング”が好きだったなぁ。
夜になったらスタンリー・キューブリックの『ロリータ』でも観ようかな。

とまあ特に書きたいことも書かなきゃいけないこともありません。
要はいつもどおりです。はい。

Fantasy Black Channel
/ Late Of The Pier

Late Of The Pier-Fantasy Black Channel
ニュー・レイヴとは何ぞや
 雑な言い方をするなら携帯小説みたいなもんだと思う。物書きでも何でもない素人だってネットワークを通じて自分の作品を発表できて、時にはとんとん拍子で映画にまで発展しちゃったりする。ニュー・レイヴは、そんなネット世代のなんでもできちゃう感とスピード感が直反映された音楽的な営みなんだと考えている。使い方次第でどんな壁だって越えられるし、誰とだって繋がれる。「1」と「1」のアイディアでしかなくても、組み合わせ次第で「5」にも「6」にも、「10」にだってしてみせる。今じゃ踊れるロックは何でもかんでもニュー・レイヴの文脈で語られちゃってるけど、クラクソンズが提唱したニュー・レイヴには自分たちのそういうポテンシャルを瞬間で爆発させる凄まじい玉砕精神みたいなもんがあったんだよ。その刹那性は、とっくに下火になってる携帯小説のそれとは少し意味が違うけどね。
 チープでペラッペラなくせに開き直ったみたいな勢いの良さ、繰り返される転調・変速(最初と最後で違う曲みたいになってる)、シンセを主体に組み立てられた音像はニュー・レイヴのまさにそれ。正直変な曲ばっかだけど、これは確かにアガる。ポスト・クラクソンズ最右翼の呼び名もあながち間違っちゃいない。07年はクラクソンズの完全な独壇場だったけど今年に入ってからはフォールズ、ハドーケン!、そしてこのレイト・オブ・ザ・ピアとなかなかの顔ぶれである。当初はすぐに終わると考えられていたニュー・レイヴは、定義の曖昧さ故に良くも悪くもここまでダラダラと続いてきた。しかしここにきて「本物」とそうじゃない連中との間に目に見える落差ができ始めた印象がある。これは一般的に言われている「ポスト・ニュー・レイヴ」じゃない。中途半端なまま進み続けてきたニュー・レイヴの本当の中身をビシッと決定付けるための、「再定義」である。
15:16 | 日記 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

帰宅

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下宿先に帰ってきました。
毎度のことだけど実家よりもこっちの方が「帰ってきた~」という感じがする。
実家からマライアやらピンクやらヴァーティカル・ホライズンやら、
実にロック的でないCDばかり持ってきてしまった。
2アンリミテッドのベストも懐かしくて、つい。
ジュリアナ世代じゃない人で、果たしてわかる人がいるんだろうか。
他にはマイケル・ラーンズ・トゥ・ロックとか、ブルーとか、
サム41とかバイオハザードのサントラとか。
ブルー、間違えて買ったんだよなぁ。
Blueじゃなくて、僕は本当はBleuが欲しかったんだ。
それでも一時期気に入ってましたけどね。
久しぶりに聴くのも悪くないなと思う。

今日は帰ってきたばかりなのに、さっそくバイト。
頑張ってきます。

Riot City Blues
/ Primal Scream

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酩酊するロックンロールの夢
 神経過敏なほどに研ぎ澄まされた鋭いサウンドを武器に体制への反抗心を剥き出しにするのと昼間から酒飲んでひょろひょろ歩き回りながら口笛でも吹いちゃうのだったら、そりゃあロックンロール的なのは圧倒的に前者だ。前者とは、もちろん『エクスターミネーター』であり『イーヴル・ヒート』のことだ。そして、本作は呆れるほど圧倒的な後者だ。エレクトロ・パンクに傾倒した前作・前々作から一転、ストーンズを彷彿とさせるブルース・ロックンロールにいきなり身を包んだロック界のコスプレイヤー、ボビー・ギレスピー。「プライマル流の解釈」や「原点回帰」なんてかっこいい理由からではない。意味も必然もほったらかしにして「カントリー・ガール!ほら、頑張り続けなきゃ!」と実に楽しげに歌うボビーは僕の知る限り最高に開き直った最低のロックンロール・スターだ。本当にそんなこと思っているのか、この男は。しょーもないスーツ着てノリノリで手拍子して挙句のはてに腰まで振っちゃう“カントリー・ガール”のビデオを観る限りではとてもそんな風には思えないし、ボビーも思っちゃいないだろう。しかし、これこそがボビー・ギレスピーだ。今、この瞬間にのみ自分の中で強烈な光を放つロックンロールを掴み取ること。ボビーは常にそのスリルを追い求める人であり、その一瞬の光だけで永遠を約束する男である。本作でのボビーはただの開き直りのアホだが、彼をそうさせるのはこの世でロックンロールだけだ。

15:50 | 日記 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

ありがとう、ブラック・パレード

The Black Parade Is Dead!
/ My Chemical Romance

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そして、希望が残った
 そうだ。やっぱりこれだったんだ。これがマイケミだったんだ。「ブラック・パレードは死んだ!」。グランド・フィナーレである“フェイマス・ラスト・ワーズ”を見事に歌いきった直後、ジェラルドは高らかにこう叫ぶ。悩める若者の身代わりのごとく彼らの孤独も恐怖も絶望も一身に引き受けて「死」へと向かうはずだったあの妄想のパレードは、若者からの歓迎と大人からの誤解と揶揄を同時に浴びながら世界中を練り歩き、この日、メキシコシティでついに終焉を迎える。
 歓声の中を無感情に鳴り響く心電図の音。“エンド”から始まり、“デッド”へ。パレードはやはり今夜も「終末」と「死」から始る。「俺たちはブラック・パレードだぁ!」とジェラルドは名乗り、バンドは自分たちの生み出した架空のパレードを忠実に再現していく。「死」を「生」に、「闇」を「光」に、「絶望」を「希望」に転換させるための壮大で苛烈で過剰なエネルギーを爆発させながら、ブラック・パレードはまた若者を救おうと、若者は救いを求めようと、互いに声を張り上げる。そして、クライマックスに達し会場中が絶頂感に酔いしれる中、歓声に見送られるようにして、ブラック・パレードは死んだ。
 不安と疎外感を抱くすべての若者に居場所を与える幻のパレードは、その瞬間、幻のまま僕たちの目の前から消え去った。ジェラルドは、ブラック・パレードは、再び僕たちに孤独と恐怖と絶望を引き渡す。そう、ここなんだ。ここは終わりじゃない。ここから始まるんだ。“ウェルカム・トゥ・ザ・ブラック・パレード”でジェラルドが何度も何度も繰り返し歌っていたあの言葉は、ここで初めてその有効性を発揮することができるんだ。その言葉とは、つまり、「僕たちは続く」、である。
 そう、「僕たちは続く」。これが揺るぎない前提なんだ。何を始めるにしても、何を終らせるにしても、僕たちはこれだけは変えられないんだ。ブラック・パレードが死のうが死ぬまいが、それでも「僕たちは続く」。孤独も恐怖も絶望も、終らない。幻想から、夢から覚めて、僕たちはまた現実の自分を取り戻した。ブラック・パレードの死は、現実の夜明けである。
 幕開けの「エンド」で早くも最高潮に盛り上がっている若者が必死で「セイヴ・ミー!」と叫ぶ姿を見て、大人はまたいかがわしい新興宗教みたいな印象を受けるんだろう。ジェラルドの最後の宣告を聞いて、また「死」を売り物にしているとかいうとんでもない勘違いをするんだろう。ここに集まった若者はマイケミに本気で救いを求めている。マイケミがブラック・パレードを作り出した理由も、学校でいじめられていたかつての自分のような弱い若者を、安っぽい慰めや同情心ではなく、本気で救い出すためだった。ブラック・パレードという幻は、絶望した若者に、大丈夫なんかじゃない少年少女に、本気で希望を与えるための渾身の妄想だった。
 「ブラック・パレードは死んだ!」。自殺を助長しているように聞こえるか? 軽い気持ちで「死」を連発して、売り物にしているようになんて聞こえるか? 僕には、「君たちはもう大丈夫だろう? もうブラック・パレードがいなくたってやっていけるだろう? また君たちに孤独と恐怖と絶望を返すけど、それを受け取る君たちは、かつての君たちとは違うはずだ!」というファンへの絶対的な信頼の雄たけびに聞こえる。これが、マイケミの思い描いた希望だ。
11:41 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

最強のコンピ②

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僕の実家の勉強机の引き出しの中は、
鉛筆や消しゴムやはさみのような筆記用具ではなく、
大英帝国が誇る世界最強のコンピ・シリーズ、『NOW』で埋め尽くされている。
UKポップ・シーンの動向は、これ一枚(中身は二枚組)で瞬時に読み取ることができる。

例えばこの『NOW1997』。
97年の年間ヒットのようなセレクションなわけだけど、
オーシャン・カラー・シーン、スーパーグラス、
そしてオアシスの“ドゥ・ユー・ノウ・ワット・アイ・ミーン?”の次に
なんとレディオヘッドの“カーマ・ポリス”が入っているという
実にイギリス人らしいというかシニカルというかいやらしいというか、
本当に皮肉屋さんなコンピなのです。
しかもレディヘの後はブラーの“ビートルバム”だよ。
そう、これが97年という年だった。
ブリットポップはもう終ったんだよ。
オアシスが「過去の人」になった瞬間がここに記録されている。

他にもボーイゾーンとかバックストリート・ボーイズとか
スパイス・ガールズなんかのアイドル(?)グループから
U2にロビー・ウィリアムスにR.ケリーといった大物まで多数収録。
普通のコンピとはボリュームが違う。
中学生の頃、このシリーズのおかげで僕の世界は急激に広がったんだ。
この引き出しは懐かしい場所だ。


...Baby One More Time
/ Britney Spears

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心の恋人、ブリトニー
 どうしてうちの中学にはブリトニーがいないんだろうと真剣に失望したことがある。どいつもこいつも、ブリトニーの魅力と比べたらケーキとうんこの差ぐらいのくだらない女子ばかりだった。教科書忘れてもこのアルバムだけは毎日学校に持っていってひとりになる隙があれば取り出してこっそり眺めていた。ブリトニーのことについて他の人が知っていて僕が知らないことがあるのがどうしようもなく耐えられなくて、自転車で三十分ぐらいかかる遠くの本屋さんに、学校の連中に見つからないようにコソコソと足しげく通っていた。ブリトニーのことが書いてあれば、ロック誌なんてほったらかしてほとんどゴシップ誌みたいな音楽雑誌だって片っ端から読み漁っていた。ブリトニーが表紙の号は、当時はCD買う金すら持ってなかったくせになんとかして二冊買うようにしていた。家族に知られるのがイヤでイヤで堪らなくて、机の引き出しに押し込んでは頻繁に取り出して家でもこっそりと眺めていた。トイレに行く時は雑誌を隠して不自然な感じになった服の中を家族に見抜かれやしないかと毎回冷や汗ものだった。ブリトニーが欲しくて欲しくて、堪らなかった。僕の懐かしき中学時代。ブリトニーは僕のすべてだった。今でも、僕の中のブリトニーは時が止まったみたいにこの笑顔のままです。テレビとかで報道されてる彼女は、きっと偽者じゃないかな。
 容量の問題でi-Podに曲がもう入らなくて、いつも新しいのを入れるたびに何か消していかなくちゃいけないのだけど、ビートルズのアルバムが消えてもこのアルバムはずっと消さずに残している。もちろんよく聴くのはビートルズの方だしビートルズのアルバムの方が素晴らしいことも明白なのだけど、でもそれで良いと思っている。僕の中学時代の歪んだ恋心よりビートルズがロックの在り方を根本から覆した余りにも重大な歴史的事実の方が大切だ、なんてことがあってはいけないのだ。例えば、音楽と恋人、どっちを取りますか?という究極の質問をされたときに、堂々と「音楽」なんて答えるロック・ファンは完全なモグリである。そんなアホなやつにロックは聴けない。どちらがロック的か、と訊かれたらそりゃあ大切なものを振り切ってでも音楽を追求するアグレッシヴな姿勢の方が一見ロック的だ。でもそれは違う。ロックとは、大切な「思い・思い入れ」を守り抜く勇気である。大切なものを守り抜くために、ロックンロールであるために、ロックンロールすらも裸足で踏みつける勇気である。あなたが守り抜かなきゃいけないものは、なんですか?
16:38 | 音楽 | comments (4) | trackbacks (0) | page top↑

最強のコンピ

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無敵のノンストップ・ダンス・コンピレーション・シリーズ、『ダンスマニア』。
僕の実家の勉強机の本棚は参考書ではなくこのシリーズで埋め尽くされている。
僕の音楽原体験は間違いなくここだった。
今じゃ名前言うのも恥ずかしいかつて一世を風靡したダンス・ゲームの『ダンレボ』。
その『ダンレボ』で使われた曲はほとんどすべてが『ダンスマニア』収録曲だった。
ノーマル・シリーズにスピード、クラシックス、ベース、サマー、ウィンターなど、
シリーズも多岐に亘り様々な種類のダンス・ミュージックが
どのシリーズでもノンストップで収録されている。
プロディジーやケミカル・ブラザーズなんかの大物も時どき顔を出している。
ビートルズやストーンズは歌えなくても
キャプテン・ジャックやパパヤにバス・ストップなら今でも完璧に歌える。
僕の昔の夢は東芝EMIに入って『ダンスマニア』シリーズの制作に関わることだった。
中学生になって、実はアイドルものやダンス系が好きだとバレてしまって
かっちょいいロック以外はアホらしくて聴けないとでも言うような
同級生の理解ないロック・ファンたちにいじめられることになりましたが、
今では懐かしい思い出です。

ですがですが、しばらく使っていなかったコンポがぶっ壊れたようなので聴けません。
『ダンスマニア』なんて恥ずかしくて自室でこもりながらじゃなきゃ聴けない。
だから今はi-Podでこれ聴いてます。
ダンスは僕を明るいどこかへ連れて行ってくれた。
それからしばらくして僕がロックに夢中になり始めたのは、
ロックだけが結局はどこにも行けない僕を認めてくれる音楽だったからだ。

Pablo Honey
/ Radiohead

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美しくなりたい
 知り合いに「最初の頃のレディオヘッドって結構普通のロック・バンドじゃない?」と言われて、後ですぐに否定したけど一瞬でも「そうかも」と思ってしまった自分が恥ずかしい。“クリープ”が入っていて“エニワン・キャン・プレイ・ギター”が入っていて“プルーヴ・ユアセルフ”が入っていて“アイ・キャント”まで入っている。こんな破格のデビュー・アルバムが他にあってたまるかってんだ。今聴いても凄まじいデビュー・アルバムだよな。
 「俺には居場所なんてない」「俺なんて死んだほうがマシだ」「頑張っても俺にはできない」といった数々の自己否定でトム・ヨークはこのアルバムを埋め尽くした。死ぬほどなりたいものにもなれず、死ぬほど手に入れたいものにも触れられず、かといって開き直ることもできない無力な男のやり場ない諦念から生み落とされたロック・アルバム。絶望的というより絶望そのものとでも言うべきこんなアルバムがみんなのロックの名盤であるわけがない。でも、無力なのは彼だけか? 美しくないのは、彼ひとりなのか? 一般的な評価はまだまだ中身に相応しいものでないような気がする。少なくとも僕は、「怪物」と化し時代やロックの在り方を含むあらゆる物事に懐疑的な目を向け本当の「正しさ」を追い求めた後の巨大なレディヘ像より、美しくない自分に絶望し窒息しそうになりながら、そんな自分を嘆くことでしか存在の自己申告すらできなかったこの頃のトム・ヨークが好きだ。むしろレディヘの作品群の中ではこれが一番好きなぐらいだ。そして、この男を絶望から連れ出して「その先」へと導く唯一の救いとして鳴り響いた収録曲の数々は、だからこそ切なく悲劇的であり、余りに美しかった。

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ただいま

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実家に帰ってきました。
自分の部屋に入って、
スリップノットとブラーのポスターが並んで貼ってあるのを見て、
聴く音楽は変わらないけど聴き方はずいぶん変わったなと
変に実感してしまいました。
ただなんとなくね。

実家に置いたままだったスリップノットのデビュー作とか
ブラーの『パーク・ライフ』とか、久しぶりに聴こうと思ったけど
コンポの調子が悪くてCDの取り出し口が開かない。
しかたないのでいつもどおりi-Podで聴いています。

ブロック・パーティーのデビュー・アルバム、『サイレント・アラーム』。
セカンドで「ある町の週末」という具体性を描き出した彼ら。
今このファーストを聴くと、
この白く冷めきったジャケットは、
何かがおかしいこの世界に完全に醒めきったケリー・オケレケの
寒々とした心象風景だったんじゃないかと思えてくる。
内容も、自分の頭の中の思いを切り取って、
言葉で具体化せずにそのまま聴き手に突きつけるような、
ある意味抽象的でわかりにくいものが多かった。

とまあ実家に帰ってきたのにやってることはいつもと変わりません。
自分の部屋にはパソコンがなくてリビングで打っているので、
家族に見られる前に止めます。
今日の夜は高校の友達と飲みだ。
どんな顔して会えば良いのかよくわからないけど、
ものすごく楽しみです。
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いよいよ夏休み

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やっとテストが終わりました。
まだ提出しなきゃいけないものがあるけど、
それも明日中に提出できそうなのでなんとか一件落着です。
明日の夜に小倉を出発して実家に帰ります。
明後日には高校の時の仲間との飲みがある。
長期の休みがあるたびに集まっているメンバーだけど、
今回はひとりだけ高校卒業以来初めて会う友達がいる。
電話では何度か話したけど、直接話すのは三年ぶりぐらいじゃないか。
友達と久しぶりに会うのは、なんだか緊張しますね。

今、YUKIの『PRISMIC』を聴いています。
そんなにしょっちゅう聴くアルバムじゃない。
今じゃ年に数回しか通して聴かない。
でも、これを聴くだけで、僕は凄まじく前向きになれる。
凄まじい高揚と共に、凄まじい希望が僕の中で脈打つ。
このアルバムにはロックンロールの究極的なメッセージがある。

あなたが本気でロックンロールに救いを求めるなら、
ロックンロールはそのうち無言に語り始める。
「私はお前を救わない」、と。
「それでも、前向きに生きれない命があってはいけない」、と。
だとしたら、僕を救うことができるのは、そうだね、この世にひとりしかいない。
“プリズム”は、僕にとっての、
この世でただひとつのロックンロール・ソングだ。
あなたの、あなただけの、ただひとつのロックンロール・ソングはなんですか?

プリズム
/ YUKI

YUKI-プリズム
YUKIは、こうして立ち止まって、うずくまって、そして、再び歩き始めたのだ
 YUKIの楽曲はどれも素晴らしくて、ナンバー・ワンを選ぶのなんて本当は死ぬほど難しいはずなのだが、それでもどれかと訊かれたら間違いなくこれである。“JOY”がどれだけ鮮やかにYUKIのキャリアを塗り替えた歌だったとしても、“長い夢”がどれだけ特別な存在感を放っていたとしても、YUKIの「この一曲」は“プリズム”でなければいけない。理屈ではなく、これはそういう歌である。一般的なYUKIファンとは彼女に対する思いとか喜びをいまいち分かち合えない僕だけど、これは結構わかってもらえるのではないかと思っている。
 初めて聴いた時は、ものすごく純度の高い所謂ただのラブ・ソングなんだと思っていた。でも、『PRISMIC』を制作する過程で、もう引き返すことのできない場所までひとりで歩いてきてしまった自分を、YUKIが「それで良い」と認めた瞬間に生み落とされた曲だったというエピソードを知って、僕は涙が出そうになった。“プリズム”は、YUKIに向けられたラブ・ソングだった。愛しいバンドを解散させたYUKIがただ自分ひとりのみを救うために作った『PRISMIC』の中で、この歌だけが無限と思えるほどの圧倒的な包容力を持っている理由が、そこで初めて解き明かされたような気がした。
 『PRISMIC』は川だったとYUKIは語っている。もう引き返せないほどの下流にまで歩いてきてしまった、と。それでもその川はキラキラ輝いているんだ、と。――ハッキリ言おう。「川」はYUKIだ。「キラキラ」は希望だ。YUKIは言う。他でもない自分自身に。今自分の立っている所がかつてとどれだけ遠く離れた場所であっても、もうそこには二度と戻れないとしても、それがどれだけ辛く悲しいことであっても、「君は希望そのものなんだ」、と。
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小休憩

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ダフト・パンクの『ディスカバリー』(01年)とPerfumeの『GAME』(08年)。
日本と海外の時差がここにある。
ただPerfumeが全然ダフト・パンクのモノマネみたいに聴こえないのは、
彼女たちのポップ・シンガーとしての恐ろしいほどの自我の欠落が原因だと思う。
Perfumeのメンバーが全員19歳だと知ってショックだった。
2歳も年下ってことはないでしょ。
絶対に歳ごまかしてる。
どこまでも無責任なやつらだ。
あと一時間もすれば大学でテストがあります。やばい。

Discovery
/ Daft Punk

Daft Punk-Discovery
ポップは扉を開く
 今じゃPerfumeが大ブレイクしてチャートで一位も獲得してCMでも見かけるようになってロック・フェスにまで出演しちゃって本当にすごいなぁと感慨深いのだけど、彼女たちが出てくる七年以上も前からすでに“ワン・モア・タイム”は洋楽ファンの間で欠かせないアンセムになっていた。僕は当時中学生で、聴く音楽の幅が急速に広がっていた時期だったわけだけど、あの独特なエフェクト・ボーカル、ダンスとロックとポップの境界線を限り無く曖昧にしたサウンド理論、そして素顔を見せないロボット・マスク姿で佇むダフト・パンクは明らかに異質な存在だった。それでも彼らがキワモノ扱いされなかったのは、これが未知の音楽だったにも関わらずポップとしての機能性に極めて優れていたからだ。ここまで意識してポップに徹したダンス・アクトは未だにダフト・パンクしかいない。“ワン・モア・タイム”を、『ディスカバリー』を初めて聴いたあの日から、僕はダンス・ミュージックやクラブ・ミュージックをギター・ポップと並列で聴けるようになってしまっていた。ダフト・パンクみたいにPerfumeが日本の音楽の最新型の「前提」になってそこからどんどん可能性が広って、リスナー側により強くアピールできるようになれば良いなと思っている。ポップというだけで少しバカにするような理解のないやつも時々いるけど、ポップは実はすごいんだ。
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今月のLP 8月

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実はTシャツはYUKIなのですが、今月のLPは民生です。
奥田民生が98年に発表した三枚目のアルバム『股旅』。
最終曲として“イージュー★ライダー’97”が入っている。
民生が自分のロックンロールについてダラダラと語った、良い歌である。

もうほとんどわかっていると思うけど、
僕はロックに関してはとことん汗臭い根性主義である。
ミニマムに、スタイリッシュに削ぎ落とされた知的なロックや
流麗なストーリー・テリングには、例外もあるけどあまり食指が動かない。
ロックンロールは夢を見続ける根性で勝負である。
小手先の技術やセンスじゃ、夢見るド根性には絶対に追いつけない。
そして、そういうド根性ロックは、どんどん少なくなってきている。
ここ数年の間に登場した若手の中で、
根性で僕を動かしたのはザ・ヴューだけだった。
もしかしたら“イージュー★ライダー’97”みたいな歌には、
これからはほとんどお目にかかれない時代なのかもしれない。

この歌は、ドライブの歌だとよく言われる。
それは確かに間違いないのだけど、この歌がドライブを連想させるのは
あくまでそういう「風景」が後ろにあるということに過ぎない。
奥田民生がこの歌で言っているのは、
自分がなぜロックンロールにこだわり続けるのかということ。
「終わらないロックンロールについて」である。

「僕らの自由を 僕らの青春を」
というフレーズが有名だけど、
ここだけでこの歌はすべてを言い切っている。
自由だったあの頃を、若くおろかだったあの頃の自分を、
思い出しながらこの男はこう歌っているのではない。
自由も、青春も、まだ終わってなんかいない。
僕らのロックンロールは、終わらないのだ。

時を止めるロックンロールというものがある。
YUKIの『PRISMIC』なんてまさにそれで、
いつだってそこにすべてを引き寄せ、時間さえも吸い寄せ、
聴き手をその作品の「始まり」に引き戻すような奇跡。
すべてをその「始まり」の時点で止めてしまうから、
そのロックンロールは、いつまでも、永遠に、終わらない。

奥田民生のロックンロールは、時を止めなかった。
ただ気の知れた仲間としゃべりながら車に乗り込んで、
向こうへ、向こうへと走り続けただけだった。
時が流れるのなんて気にもしないで、走り続けただけだった。
そして、今も走り続けているというただその一点のみによって、
奥田民生のロックンロールは、終わらない。
ロックンロールは、多感な十代を生きる若者だけの特権じゃない。
僕たちがそうさせない限り、僕たちのロックンロールは永遠に終わらないのだ。

「気持ちのよい汗を けして枯れない涙を
幅広い心を くだらないアイデアを
軽く笑えるユーモアを うまくやり抜く賢さを
眠らない体を すべて欲しがる欲望を」
これが全部揃えば完璧なのに、とでも言うように、
奥田民生は最後にこう歌う。
でも結局、そんなもんひとつもなくたって、
俺のロックンロールは終わらないとこの男は歌う。
全盛期なんかとっくの昔に過ぎた中年オヤジが
今でも相変わらずダラダラとこの歌を歌っているのは、
ロックンロールに対する絶対的な信仰以外の何物でもない。
だから今でも奥田民生がギターを抱えて己のロックンロールを謳歌する姿は、
「うまくやり抜く賢さ」にすぐに頼りそうになってしまう僕たちには、
眩しい。
15:15 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ハロー

YUKIhello.jpg
生まれて初めて買った日本の音楽のCDは、YUKIの『ハローグッバイ』だった。
ハローグッバイ。出会いと別れ。
当時の僕には、嫌味にしか聞こえないタイトルだった。
YUKIの歌の中心にある言葉を冠したこのシングルが
初めて買ったYUKIのCDだったのはある意味運命的だったなと自分で少し美化する。
YUKIの歌には、誰とも関わらない内容のものがほとんどない。
そこにはいつも「ハロー」と声をかけ、「グッバイ」と手を振る「君」の存在がある。
ライブで会場にいる全員の心に向かって歌うことを心がけていることからもわかるように、
YUKIは音楽をコミュニケーションの場として位置づけている人だ。
そして、YUKIは実生活でも大きな出会いと別れを経験してきた人でもある。

バンドの仲間との、家族との、出会いと別れ。
それは、大きく見れば誰もが経験する極々ありがちなことかもしれない。
でも、個人としては自分の生き方を変え得る凄まじく重大な意味を持ったものでもある。
YUKIの経験した出会いと別れは、
どれもが必ずしもポジティヴに受け入れられるものではなかったはずだ。
理不尽に押しつぶされそうになったことも、絶対にあるはずだ。
それでも、YUKIは今でも最高の笑顔で最高のポップ・ソングにのせて
出会いと別れを祝福するために歌い続けている。
その姿に、僕はなんだかいつも希望みたいなものを感じてしまう。

YUKIは、出会いと別れが、そのまま希望なんだと歌っている。
それがたとえ終わってしまうものでも、
いつか「グッバイ」と手を振らなきゃいけないものでも、
それでも「ハロー」と声をかけて誰かと関わることは、
人と繋がることは、コミュニケーションを取り合うことは、
それそのものが希望なんだと歌っている。
すべてが終わり果てた後にも、
出会いと別れはきっと終わらない「何か」を残してくれる。
目にも見えなきゃ実態も何もないその「何か」を信じる力。
僕は、いつもそれを「ロックンロールの希望」と呼んでいる。

このブログを読んでくれている人の中には、
「YUKIってそもそもロックなの?」と疑問に思う人もいるんじゃないかと思う。
僕は今まで数え切れないくらいその質問をされてきた。
極端なことを言えば、絶対的なロックなんていうものは、どこにもない。
その音楽がロックたりえているかを決めるのは、聴き手であるあなた次第だ。
どれだけ個人的な理由で聴いていても、
その音楽とあなたを繋ぐものが「ロックンロール」であれば、
それはきっとあなたのロックンロールなんだろう。

色んなサイトや色んな雑誌を読んでいつも僕は違和感を感じている。
こいつは一体何を考えて音楽を聴いて、それについて書いてるんだろうと思う。
ロックは、ジャーナリズムじゃない。ドキュメントじゃない。
愛と平和を祝う聖歌じゃないない。スタイルじゃない。
意味、意図、前作からの変化、馴染みやすいメロディ、良い歌・・・・・・。
そんなものを理由にロックンロールは聴けない。
そんなくだらないものを理由に、僕とYUKIは繋がっていない。
ロックンロールは、「希望」でしか聴けない。
他の誰にも通用しなくても、ただ僕ひとりを救うためだけの「希望」でしか、
ロックンロールは聴けないし、できない。
YUKIの出会いと別れに対する絶対的な信頼は、
出会いと別れに押しつぶされそうになる自分を救うための希望である。

出会いと別れに対するYUKIの希望は、YUKIをここまで進ませてきた。
でっかいスプーン頭に乗っけて笑顔で語りかけてくるYUKIは、
誰かと繋がることなんて恐れちゃいない。
YUKIが本当に可愛くて魅力的なのは、だからなんだ。
生まれつき可愛いからじゃない。オシャレだからじゃない。
『PRISMIC』で無表情に立ち止まったYUKIにも強い思い入れはあるが、
僕は、笑っているYUKIが一番好きだ。
YUKIのこの笑顔は、紛れもないロックンロールの希望である。
誰にも否定なんてさせない。
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マイ・ケミカル・ロマンス

マイケミ
数時間前にレイヴとカニエについて書いたところだけど、また更新。
マイケミのライブ盤が出たので、聴く前に復習です。
オリジナル・アルバムはこの二枚しか持っていないけど、
マイケミは自分の中では結構大きい存在だったりする。
僕がロックをいまいち客観的に語れないのは、
こういうバンドがいるからなんだ。
僕がロックを聴くのを止められないのは、
ロックには、こういう希望があるからなんだ。
精神(妄想?)論者の戯言だと笑われてもかまわない。
ただ言えることは、
夢を見られないやつには、
ひとりの女の子を本気で愛せないやつには、
ロックなんて聴けないということだ。
ロックとロマンスは、紙一重なのだ。
ロック聴くなら、恋しろよ。
夜中にブログなんて書いちゃいけないね、ほんと。

Three Cheers For Sweet Revenge
/ My Chemical Romance

My Chemical Romance-Sweet Revenge
ロックの鏡に「死」は映らない
 マイ・ケミカル・ロマンスは、ロックに殺されることを望んだバンドである。理由は何でも良いが、大好きな女の子がいるけどその子は他に好きな人がいるとか、スポーツも勉強もできなきゃ女の子に気の利いた言葉もかけられないとか、学校でいじめられてるとか、なにかそういう思春期特有の、自分のダメさ加減を思い知らされるようなことがふさわしい気がする。感傷的なメロディとネガティヴな言葉を総動員してジェラルドは自分の絶望的なまでのダメっぷりをおとぎ話よろしくロックの鏡に語りかける。こんな負け犬の俺なんてさっさと殺してくれ、と。鏡はそのメロディと言葉を正しく映し返し、ジェラルドはそこに佇むやっぱり負け犬でしかない自分の姿と対峙する。ジェラルドが本当に救いがたい男だったのは、彼がどうしようもない負け犬だったからじゃない。ロックに殺されることで、自分が本気で救われると信じていたからだ。残念ながら、ロックの鏡はひとりのダメ男の情けない姿をそのまま映し返しただけで、後は何もしなかった。ロックは人を救わない。殺すこともない。ロックのそんな役立たずな真理に立ち尽くしたジェラルドは、だからこそ自分の足で歩き始めることしかできなかった。「僕は大丈夫なんかじゃない!」というこのネガティヴな叫びが、全然大丈夫じゃない自分をそれでも僕たちはこの身に引き受けて前に進まなければいけないというポジティヴな希望を無性に駆り立てるのは、ジェラルドにとってロックが自分を殺す場所ではなく、「生かす」場所へとすでに変わっていたからだ。ジェラルドが死や絶望を歌う時、それは彼が死ぬほど絶望的な自分を改めて見つめ直す時間であり、そんな自分がそれでも前に進めることを自分自身で認める決意の瞬間なのだ。
 “アイム・ノット・オーケイ”を聴くと、僕はいつも高二の頃の自分を思い出す。死ぬほど大好きだった初恋の女の子にフラれた僕は、毎朝何度も何度も頭の中でその子を殺しながら学校に向かい、本当に死ねばいいのは自分だと思いながら家路についていた。それでも僕が今を前向きに生きているのは、ロックが、ロックだけが、僕を「生かす」唯一の手段として心の中にいつだって横たわっているからだ。ロックは救いの手なんて差し伸べてはくれない。マンションから飛び降りる自分の姿も、そこには映らない。ロックはただ、僕たちの姿をそのまま映し返し、僕たちが紛れもない「今、ここ」にまだ「生きている」ことだけを、大丈夫なんかじゃない僕たちが、それでも「生きる」ことのみを、ロックは肯定するのだ。
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新世代の息吹き

RAVE.jpg
クラブ・ミュージックとしては異例の米英同時一位を達成し
見事なまでのグローバル・サクセスを手に入れた
90年代レイヴの最高傑作、プロディジーの『ファット・オブ・ザ・ランド』。
そして、新世代レイヴ(ニュー・レイヴ)発起人であるクラクソンズと、
クラクソンズに続いて今年デビューを果たしたハドーケン!。

今こうやって聴き比べてみると、一連のニュー・レイヴ・ムーヴメントは、
かつてプロディジーが鳴らした、洗練されたプロダクションによるマッシヴな音の「力」を、
それによってもたらされた興奮と感動を、
編集センスやアイディアの奇抜さという
ハンド・メイドなレベルで再現しようとした営みなのかなと思う。
だからこそニュー・レイヴでは経験や知識ではなく
ほとんど先天的な皮膚感覚の鋭さが求められるのであって、
ニュー・レイヴという雑なくくりで語られる多くのバンドが
表面上のカルチャーな部分でしかその責任を果たせていないのは、
きっとそういうことなんだと思う。
そして、クラクソンズとハドーケン!のデビュー・アルバムは、
そんなほとんど中身を伴わないニュー・レイヴ・ムーヴメントの中で、
明らかに秀でていた。
ただ踊れてノレるだけではない、
自分たちだけのアイディア構築論を持っているのは、この二組だけだ。
クラクソンズ、ハドーケン!に続くレイト・オブ・ザ・ピアは決定打になるか。
ニュー・レイヴは、プロディジーを超えられるか。
すぐに終わっちまう動きかと思ったけど、案外面白いことになってます。

とまあ一旦レイヴ・シーンを自分の中でまとめ上げて、CDレヴューへ。
ここでハドーケン!のレヴューでも載せれば気の利いたブログになるんだけど、
僕はそんなにうまくやれません。
今書きたいものを、書きます。
というわけで、今日はカニエ・ウェスト。
今日ある映画を観て、9.11以降のアメリカについてまた一層考えさせられた。
カニエは、9.11以降の僕たちの生活を、
作品として細かく具現化してきた数少ないヒップホップ・アクトのひとりだ。

The College Dropout
/ Kanye West

kanye west
ヒップホップ新時代を拓いた傑作アルバム
 イギリス人の先生に「NAS、ジェイ・Z、エミネム、次は誰なんだろうね、コウダイ」と聞かれたことがある。「今はカニエがいるよ」と言ったら「でもカニエは前からプロデュースとかしてたしスキルもあんまりだし、なんか違わない?」と言い返されてその時は「まあ確かに」と思ったが、それでもカニエのこのラッパーとしてのデビュー・アルバムほど21世紀を生きる僕たちの目線を強く意識して作られたヒップホップ・アルバムはない。意味を失いカネとオンナと車の自慢しか歌わなくなったまがい物のヒップホップが氾濫する中で、カニエの登場はあまりにも画期的な事件だった。
 実際に学校を中退した者でなくても、未だに分離的な扱いを受ける黒人でなくても、きっとこのアルバムはあなたの心に届く。学校でも職場でもどこでもいいのだが、集団生活に埋もれパッとしない存在としての自分を知っている人なら、きっと感動すると思う。うだつのあがらない自分にイラつきながら、それでも歩き続けるしかないというポジティヴィティをあなたと共有するために、カニエは笑いも皮肉も落胆も織り交ぜながら自らのバイオグラフィーを饒舌に語り始める。今じゃクマさんはカニエのトレード・マークのひとつだが、ジャケットでその着ぐるみをかぶって彼が顔を隠しているのは、このうなだれたクマさんは「あなた」でもあるからだ。そこの部分に何よりも意識的だからこそ、「もう神に祈るしかない」と歌いアルバム中で明らかに異質な空気を放つ“ジーザス・ウォーク”のシリアスな緊張感でさえ、9.11以降のにっちもさっちもいかない世界を生きる僕たちのシリアスだった。ルーツも有効性も一切知らない日本のヤンチャな中高生だってなんの気負いもなくヒップホップを聴く時代である。だからこそ、ヒップホップは今こうやって響くべきなのだ。
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ゾンビー・マン

NHK.jpg
土日の朝っておもしろいテレビやってないですよね。
まあ平日も九州では料理か阿蘇か温泉かスポーツしかやっていないのですが。
こんな時は教育テレビが頼りになる。
ちなみに写真は「怪力紙コップ(?)」とかいうもの。
ヘッドホンして音楽聴きながらだから何を言っているのかはまったくわからない。
そこは想像力を働かせて観るのだ。
どうやらこれも慣性の法則らしい。
耳元でカニエが「エバエバ」言いながら上昇していく。
ジェイZまでからんできた。
“ダイヤモンドは永遠に”。
情報力が多くてちょっとパンク気味だ。

今はカニエ・ウェストだが、
最近毎日プライマル・スクリームの新作を聴いている。
あれは良いね。実に良い。
だってCSSのラヴフォックスちゃんが参加している。
クラクソンズのサイモンと婚約しているようだけど、
お似合いのカップルだと思う。
いつか共演して欲しいな。

Beautiful Future
/ Primal Scream

Primal Scream-Beautiful Future
僕たちの未来は明るい
 世界を否定するニヒリズムから一転し、ボビーは『ライオット・シティ・ブルース』でいきなりふざけ始めた。本作はその延長だと言っていい。サウンド面ではギター・ポップからエレクトロまで、つまりはこれまでのプライマル・ディスコグラフィーを総括するようなバラエティに富んだ楽曲が揃っているが、アルバムの全体像としては『ライオット・シティ・ブルース』がそのまま大きくなった感じだ。この男はまた、無責任にも「美しき未来」なんて巨大なテーマを掲げながら、へらへらとおどけている。本作におけるボビーのメンタリティはそんなところだろう。
 愛、消費社会、国家、あらゆる絶対的な権威に「No!」を突きつけることで、ボビーはいつまでたっても僕たちに「美しき未来」がやってこない理由を明かしていく。「ギミックに騙されるな」「兵士になるな」とありがたいアドバイスを垂れながら、それでもボビーが終始へらへらしているのは、「美しき未来」なんてものに最も懐疑的な人間が他でもないこの男だからだ。冒頭を飾るタイトル・トラック“ビューティフル・フューチャー”でボビーは楽しそうに「君には美しき未来がある!」と歌っているが、これがまったく現実感の伴わない異様な軽さで響くのは、僕たちがまだそれの片鱗すらも手にできない状態にいるからである。この男はすべてわかっている。ここまで意識してこの馬鹿げたスラップスティックを演じられるのは今のロック界にはボビーしかいない。そして、その「無責任さ」一点のみを理由に、このアルバムはロックンロールたりえている。「美しき未来」というなんともおめでたいこの反語は、僕たちの希望と絶望である。
11:27 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ジャケット・ジャクソン

ジャネット
たった一度だけ見せたジャケットの表情シリーズ(?)。
YUKI、ベックに続き、今回はジャネット・ジャクソン。
右側のセレブ感溢れる『オール・フォー・ユー』の前に発表されたのが、
左側の暗くうつむいた『ヴェルベット・ロープ』だった。
信じられない変わりよう。
大人の世界では、『ヴェルヴェット・ロープ』の頃のジャネットは、
どうやら「アーティスティック」の一言で片付けられるらしい。
『ヴェルヴェット・ロープ』は、そんなに美しい作品ではない。
恋人ともうまくいかず、
アーティストとしていつまで経っても兄に勝てないジャネットは、
最高に情けなかった。

ジャネットは、自分に厳しい女性である。
今年発表された最新作でも必死に自分を律しようとしていたが、
ジャネットの表現の矛先は世界ではなくいつも自分に向かっている。
踊り続けること、セクシーであり続けること、人を愛し続けること。
ジャネットは常に自分自身にそれを求め続けてきた。
そして、なぜ自分がそれを追い求めるのかという
根本的な疑問と向き合ったのが『ヴェルヴェット・ロープ』だった。
その答えが、『オール・フォー・ユー』の笑顔だと思っている。
『ヴェルヴェット・ロープ』で自分の情けなさを認められたから、
『オール・フォー・ユー』で再び彼女は弾けられたんだと思う。
「私はこのままでいい」。
『オール・フォー・ユー』のでっかい笑顔は、
そんな開き直りと紙一重の希望だと思っている。
二枚とも素晴らしいアルバムです。
中学生の頃、この二枚を何度も何度も聴いて、僕は元気を振り絞っていた。


CDレヴューはCSSの新作で。
ラヴフォックスかわいい。
サブウェイズのシャーロット嬢以来のロックンロール・クイーンだ!

Donkey
/ CSS

Css-Donkey.jpg
死ぬほど退屈なのよ!
 演奏がタフになった。本作発表に辿り着くまでの道程にはメンバーの脱退やマネージャーが金を持ち逃げするなど結構大変な出来事があったようだが、一聴しただけで確実な成長を確認できる良いセカンドだ。音の強度が前作とは比べ物にならないぐらい高い。楽器なんて持ったこともないようなド素人集団が「とにかく何か面白いことをやりたい!」という単純な欲求を満たすためだけに結成されたこのバンド。もうただのバンド活動をするだけでは今の彼女たちの欲求は満たせないような気がする。ネクスト・レベルへと意欲的に踏み出そうとする気概が本作からは感じられる。そして、これは相変わらずだが、ラブフォックスのボーカルが良い。めちゃくちゃ良い。どんな風に歌おうが、その歌声には怒りとか退屈とか憂鬱なんかがしつこくまとわりついてくる。
 とにかく楽しくてノレるパーティー・ソングやダンス・ロックはごまんとある。CSSの音楽がそれらをいとも簡単に振り切っているのは、もはやバンド名の由来を説明するまでもなく、「面白いことがしたい!」という単純極まりない欲求の根底に渦巻くこれまた極めて単純な退屈や憂鬱といった「違和感」の存在が大きい。そして、その「違和感」を実感として持って音楽をやっている連中は以外に少ない。何に怒っているのかわからないアジテーション・ソングなんか、誰の心も動かせやしない。それと同じだ。楽しくなる理由のないパーティー・ソングなんて、場違いな雑音と同じだ。ほとんどのパーティー・ソングやダンス・ロックがそんな「理由なき快楽」としてやかましく響く中、CSSはそんな既存の、作り物の楽しさに「そんなの死ぬほど退屈なのよ!」と拳を振りかざし、その退屈越しに自分たちの思い描くダンス・ロックの理想の形を伝えてくれる。ラブフォックスのキャットスーツだってライブで男性用下着を投げ飛ばすのだって、死ぬほど退屈だからだ。その退屈さがそのまま彼女たちの音楽の説得力として、聴き手のテンションを確かに高めてくれる。好き。
15:49 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑
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