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海は変わる

beck1.jpg
リモコンでビビッとやっている無邪気な方がいつものベックだとしたら、
『シー・チェンジ』のジャケットのベックは明らかに別人。
かわいい笑顔で踊りまわるいつものYUKIが、
『PRISMIC』だけではあんな表情をしているのと同じだ。
ロック・シンガーがこの表情を見せた時、
世界はそのロック・シンガーだけを見逃して、回転する。
僕たちは、きっと、立ち止まりながら、それでもいつか笑うことができる。

ちょっとある人に影響されすぎたかもしれない。
それにしても、海外のロック・アルバムのジャケットは
いちいちコンセプチュアルで本当に面白い。
一時やたらとジャケ買いに凝っていた時期があったのだけど、
一回たりとも外れなかったのは、
奇跡でも偶然でもなくて作り手がジャケットにも意識的だからなんだろうな。
中学の頃、生まれて初めてのジャケ買いで買ったのは、
ブリトニー・スピアーズの『ベイビー・ワン・モア・タイム』だった。
ジャケ買いの意味が、少し違うような気もするが。


Sea Change
/ Beck

Beck-Sea Change
人は、それを「永遠」と呼ぶ
 時代を超越した奇抜な編集センスでガラクタをアートに変えるベックという才能。長年付き合ってきたガールフレンドとの失恋で失意の底に沈んでしまった自分をなんとか救い出すために、ベックはここでその才能の一切を封じ込め、時代の寵児でも稀有なロック・スターでもなくただひたすら「ひとり」としての自分と対峙した。時が止まってしまったかのように呆然としたこの表情が好きだ。すべての時の流れを止めて、ベックはここで一度立ち止まった。
 彼を一躍スターダムにのし上げた“ルーザー”や大傑作『オディレイ』などで音楽と楽しげに戯れる一般的なイメージとしてのベックらしさはここにはない。突飛なアイディアやリズムではなくたったひとつのアコースティック・ギターからでも始められるシンプルなフォーク・ソング集。歌詞にも「近頃はどうにか毎日をやり過ごしている/頑張ってみようなんて思いもしない」「朝へと続く道がある~けれど君へと戻る道はどこにもない」「どうしてこの愛は絶えず移ろいゆくのに/僕の気持ちを変えてはくれないんだろう」といった悩める言葉達が並んでいる。グレイハウンド・バスでのアメリカ横断が何よりも物語っている気がするが、ベックは感動や刺激をいつも外の世界に求め続けてきた。本作は、それを初めて内の世界で探ろうとした作品なんだと僕は思っている。「海は変わる」というこの悟りきったようなアルバム・タイトル。波は絶えず流れ続け、海は常にその表情を変える。時の流れは町並みを変え、生活を変え、僕たちは歳をとる。すべてが変わり果てるこの世界で、それでも変わらない「何か」を求めて――。そんなアルバムだと思って高く評価している。そして、その変わらない「何か」は自己の中にこそある、という答えにベックは辿り着いた。ベックが『グエロ』で再び顔を上げて歩き始めたのは、きっとそういうことなんだと思う。
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17:03 | 日記 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

立ち上がれ

YUKIP.jpg
YUKI、『PRISMIC』。
「体がちぎれるまで歌う」「うまく歌うより一曲一曲に心を込めて」と
自分に言い聞かせるように真剣に語って、YUKIはいつもライブを始める。
同じ空間を共有するすべての人を、
自分の音楽を聴いてくれるすべての人を、幸せにしてみせる。
YUKIが自分自身に課したそんな使命を、たった一度だけ放棄したアルバム。
でも、後に続いた『commune』~『WAVE』を聴くと、
このアルバムは決してYUKIが内省の端で立ち止まっただけの
後ろ向きな作品ではないことがわかる。

ロックには、こういう作品がたまにある。
そして、ほとんどのロック・シンガーがその次に
本当に芯の強いロック・アルバムを叩きつけてくる。
確信と自信のみに裏打ちされたような首の皮一枚のポジティヴなアルバムを。
世界との繋がりを拒絶し、自分自身を見つめ直して、
彼らはそこで自分の「前提」を見つけ、肯定する。
そこから立ち上がる、「俺はここから始められる」という希望。
僕は、それを「ロックンロール」と呼ぶことにしている。

『PRISMIC』は、僕が立った時の目線と同じ高さに置いてある。
僕は、嬉しいことでも、悲しいことでも、
何かあるといつも立ち上がってこのアルバムと向き合うようにしている。
そこで、立ち止まっている。
僕を取り巻くすべての動きや流れを止めてしまう力が、このアルバムにはある。
それがロックンロールの力だ。
だからこそ、ロックンロールは意図ではできない。
ロックンロールは、自分の意地とプライドと、情けなさでやれ。


今日のCDレヴューはビートルズの66年作。
『サージェント・ペパーズ』前夜の昂ぶりが、このアルバムには封じ込められている。

Revolver
/The Beatles

The Beatles-Revolver
「アート」を定義するロック
 きれいにオシャレにまとまった料理とか奇抜というよりとっちらかっているだけのグラフィックとかがただそれだけでアホみたいに「アート」と呼ばれ賞賛を浴びてしまう安っぽいご時勢だけど、本当のアートっていうのは、このジャケット・デザインみたいなもののことをいうのだ。メンバー四人の顔イラストとその隙間を埋め尽くす写真の数々。たくさんの顔で溢れかえっているがなぜか左端には手付かずのままの空白が残されている。この空白は、ただの白じゃない。否が応でも想像力を喚起する圧倒的な奥行きをもった空間。それがアートの本当の中身である。このジャケット・デザインは僕たちの想像力の限界を更新した。66年度グラミー賞でこれがアルバム・デザイン賞に選ばれたのは、僕に言わせれば当然のことである。
 そんなジャケットからもわかるように、ビートルズはすでにアイドル・バンドとしての佇まいを拒否している。ロックであることに、何かを表現するということに凄まじく意識的になっていた時期だ。レコーディングではサウンド・エフェクトが多用され、“トゥモロー・ネバー・ノウズ”のような極めて実験的な楽曲も収録されている。ライブでの再現もすでに難しくなってきていて、本作以降ビートルズはコンサート・ツアーを停止した。アイドル・バンドでもなく、ライブ・バンドでもなく、「考える」バンドとしてのビートルズ。実験精神を高め自身の想像力の限界を打開したビートルズは、本作発表の翌年についに『サージェント・ペパーズ』を発表する。ロックそのものを更新した大傑作である。
12:44 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

徒然と

大人
う~ん、なんとも大人な構図だと思う。
わかっていただけるでしょうか。
黄金色に光るビール。
モッド・ファーザー、ポール・ウェラーの新作。
そして、落ち着いた青色で屹立する大人グリコ(ほろにがビター)。
またとない大人トライアングル。
これは渋い。
僕は、大人だ。

さっきまで今月中に提出のレポートを書いていました。
レポートの内容説明のプリントにテーマが七つ書いてあって、
それぞれに言及しながら書くんだろうなと思って書き始めて、
「よし!そろそろ終わるぞぉ!」と喜んでいたら、
どうやら七つのテーマの中からひとつに絞って書くみたいです。
ガッカリしています。
あんまりショックだったので特に書くことなけど書いてます。

CDレヴュー。というかただの感想文。
カールはやっぱりピートほどうまくやれない。
そこが好きなんだけどさ。

Romance At Short Notice
/ Dirty Pretty Things

Dirty Pretty Things-Romance At Short Notice
それでも、カールは進もうとしている
 カールにいったい何を求めるかで聴く人によって評価の分かれる作品だと思う。つまり、「元リバ」という決して変えることのできない彼のロック・スターとしてのアイデンティティとどう向き合うかだ。前作ではカール自身がリバへの未練と再出発に折り合いをつけられていない状態で、そんなしっかりと固まりきらない思いを引きずった葛藤として、あの錆び付いたナイフの切っ先のような音は響いていた。本作を聴いて、自分はカール以上に「元リバ」に固執していたんだろうなと改めて思う。そして、そういう人は結構多いのではないだろうか。
 前作のようなブリティッシュなパンクではない。エモいなぁ。それが第一印象だった。二回目にはこれはこれで結構良いんじゃないかと思い始めた。三回目にはこれがダーティ・プリティ・シングスとしてようやく前を見て歩き始めた第一歩なんだろうなと思った。カール得意のメロディを大切にするジェントルさを取り戻しつつある。ライブでも最近はもうリバの曲をやっていないようだし、やっとケリをつけられたか? 前作のザラついた攻撃性は、立ち止まりそうな自分自身に向けられた切っ先だったんだろうな。そういうわけで、ついに吹っ切れたセカンド・アルバム。これが極めて優れたロック・アルバムであることは間違いない。カールの才能はやっぱり本物だった。でも、こんなくだらない話はあまりしたくないけど、じゃあ前作と比べてどっちが良いかという話になったら、聴いていると心臓がキュッと収縮してもう本当にたまらなくなってしまうのはどう考えても前作だ。そして、それは聴き手側の「元リバ」への勝手な切なさ以外の何物でもない。立ち止まっているのはカールじゃない。自分だ。
02:49 | 日記 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ポップ原体験

PetShopBoys.jpg
ほとんど「懐かしい」という思い入れだけで
ペット・ショップ・ボーイズの『ヴェリー』を聴いている。
小学生の頃、“ゴー・ウェスト”が大好きだった。
もしかしたらピンとこない人もいるかもしれませんが、
日本でもめちゃくちゃ有名な曲なので聴いたらすぐにわかると思います。
ヴィレッジ・ピープルという人たちのカバーです。
西城秀樹の“YOUNG MAN”の原曲もヴィレッジ・ピープルですよ。
Y.M.C.A.ってやつ。

“ゴー・ウェスト”。西へ。
ただひたすらフロンティアを探し求めるかのように西へ、西へと歌うこの曲。
当時は歌詞の意味なんて全然わかんなかったけど、
西にはきっと何かがあるんだと思っていた。
何か楽しいこと、嬉しいこと、つまり、希望があるんだと思っていた。
“リベレイション”は永遠に音階を上り続けて、きっと空まで届くんだと思っていた。
とにかくけたたましいシンセが印象的な“ア・ディファレント・オブ・ヴュー”。
シンセサイザーがどれだけ音楽をグラマラスにするかを物語るかのような曲。
それは確かに、初めて聴く、未経験の「音」だった。
まだ見ぬ西へ。頭上の遥か彼方へ。知っている音楽の、その先へ――。
このアルバムには、「未来」が詰まっていた。

ニール・テナントの男っ気のないソフトな歌声。
音の隙間をことごとく埋めまくるプログラミング。
このレゴみたいな立体ジャケットがダメダメすぎるという理由で
NYの美術館に展示されているというマヌケな話。
すべてがなんだか作り物みたいで、でもだからこそ魅力的だった。
学校のグランドにも自分のおもちゃ箱にもない、
僕の身近にはない何かが、このアルバムにはあった。
今思えば、これがポップの魔力なんだと思う。
ポップという名の、デタラメ、幻想、そして、夢。

何が起こるかなんて誰にもわかりゃしないのに、
未来に対して恐ろしく楽観的に希望を約束する音楽。
未来そのものこそが希望だと断言できる唯一の音楽。
ポップは、未来と希望は同義だと言う。
ゴー・ウェスト。
だから僕たちは未来に進まなきゃいけない。
前に進むことを恐れちゃいけない。
それがどれだけ無責任な約束であっても、
それでもポップは、こんなにも美しい。
こんなにも、僕たちの気持ちを高めて、ポジティヴにしてくれる。
だから、ポップは素敵なのだ。

中学生になったらみんないきなりかっこつけだして
ボン・ジョヴィとかエアロスミスみたいなロケンローな音楽を聴き始めたけど、
「ポップなんてクソだ」とバカにされながらでもペット・ショップ・ボーイズとか
スパイス・ガールズとかを聴くのを止めなくて本当に良かった。
「ポップすぎる」とかいう理由で好きな音楽を選ぶやつが大嫌いだった。
男子にいじめられ、女子に嫌がられ、
ひたすら暗かった僕の中学生活は、ポップのおかげでそれでも進み続けた。
そして、僕は高校生活の中でYUKIに出会い、
ロック街道をひた走ることになるのです。
オアシスやスリップノットは大好きだった。
それでも僕の音楽体験の根源にあるのはロックじゃない。
そこにあるのは、ポップへの無条件の信頼である。
ポップには、きっと希望がある。
それを信じて止まない力である。
01:54 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

はさみ

シザーズ
「踊りたくない!」と言いながら踊り始めたシザー・シスターズ。
僕は「勉強したくない!」と言いながら実際してません。
これはまずい。実にまずい。
明日は英詩のテストがあるのだけど、
こんなのそもそも一日で理解しろというのが無理な話だ。
こちとら前期中まったく話聞いてなかったんだぞ。
止めだ止めだ。

お昼ごはんに思い切り脂っこいラーメンが食べたい。
でもまぁひとりで食べに行く勇気なんかないからソーメンでも食べよう。
もう我が家にはもうソーメンと米しか食べるものがありません。
助けて。

うちの大学の近辺にはちょっとこれはというラーメン屋があって、
そこには「あじゃばあ」の愛称で知られる明らかに元ヤンな名物キャラがいます。
個人的には魚フライ弁当が一番だと思うのだけど、
いちおうから揚げ弁当が人気の弁当屋(名前は喫茶だったか?)もあって、
そこには電話でやる気のない対応しかしない「メグばあ」と
「メグばあ」にこき使われて弁当を配達する「メグじい」という最強コンビがいます。
シザー・シスターズは、
僕とあなたとあじゃばあとメグばあとメグじいのみんながひとつになって、
朝まで踊り明かすことこそが本当の幸福だと歌う。
ブラック・アイド・ピーズと並ぶボーダレスのシンボル。

Scissor Sisters
/ Scissor Sisters

Scissor Sisters-ScissorSisters
シザーズのフリーダム・ライド
 ピンク・フロイドの“コンフォタブリー・ナム”のカバーで本国アメリカよりも先にイギリスで火のついたシザー・シスターズ。本作は彼らのデビュー・アルバム。イギリスでは「04年もっとも売れたアルバム」として認定されているが、日本では『いいとも』にも出演したけど全然盛り上がらなかった。実は僕も『いいとも』で初めて彼らの動く姿を観たのだけど、見てくれとか佇まいがすでになんだか下半身的で、明らかにキワモノというかクセモノというか、こりゃあまぁ諸手で歓迎って感じじゃないよなとか考えていた気がする。
 そんな彼らの明らかに下世話なセクシャル・コンセプトは、ゲイ・カルチャーやバイセクシャルといった狭義な意味には収まらずあらゆる事象におけるボーダレスの象徴にまで大きく広がっている。どんな境界線をも乗り越えようとする底知れぬバイタリティがライブでも定評な彼らだが、そんな風に極めて積極的に自分たち以外の何かと繋がる喜びや幸福を追求する彼らの音楽にはどうしてこんなにも「死」の臭いが漂っているのだろうかと聴くたびに考えさせられていた。快楽の背後で滅びゆく退廃性のようなものを、感じないだろうか。今ひとつ思うことは、彼らの追及するその野放図なまでの自由は死後の世界でしか成り立たないのではないだろうか、ということ。残念ながら現実社会は、特に性の問題に関してはとてもじゃないが寛容とは言えない。でもそれ故に彼らは異端としての立ち居地を獲得できたわけだし、彼ら自身それを理解しているんだと思う。それでも彼らは死ぬまで手の届かないその自由こそが真の幸福だと歌い、セレブレーションの鐘を打ち鳴らす。だからこそ彼らの歌はどれもひどくポップに響くのだと思う。
11:53 | 音楽 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

お昼ですね

08-07-26_11-48.jpg
おはようございます。
今から何聴こう。
今日はついにプライマル・スクリームの新作を聴きます。
あとベック復習用の『シー・チェンジ』。
ストーンズの『アフターマス』も最近聴いています。

そして、タトゥー。
僕が生まれて初めてリアルタイムで経験したセンセーション。
実は最近ある授業で「パーミッシヴ・ソサイエティ」、
つまり「容認社会」についての言及があったのだけど、
そこで登場したのがタトゥーだった。
それについてのレポートも書かなきゃいけないし、
久しぶりに懐かしんで聴こうと思います。
でも、「容認社会」なんてどこにもない。
21世紀にだって、そんな場所はどこにもない。
でもだからこそタトゥーは強烈だった。
タトゥーを容認できない社会は、明らかに彼女たちのことを恐れていた。

200 Km/H In The Wrong Lane
/ t.A.T.u.

TATU-200kmH In THe Wrong Way
もう二度とこんな経験はできない
 中学三年の冬、相変わらず友達のいなかった僕はみんながアヴリル・ラヴィーンに夢中になっている中で、当時の唯一のロック仲間と二人でこればっかり聴いていた。まだ日本盤も発表されていなくて、彼女たちがテレビであんなことやらかすなんて誰も想像すらできないような頃だった。今はもう無理だけど、当時はロシア語でだって歌えた。その年の春に僕は高校生になって、年末に英語の授業で「今年最も印象的だったニュース」みたいなものの発表をやらされたのだけど、僕が選んだニュースはもちろん「タトゥーの登場」だった。その頃にはもう彼女たちのことを知らないやつなんて一人もいなかった。後で先生から聞いた話だけど、ほぼ満点に近い僕の発表のスコアは、実は学年でトップだったらしい。とにかくそれぐらい(?)、あの頃のタトゥーの存在感は凄まじかった。あれから五年が経つけど未だに彼女たちのレベルで日本中を震撼させるようなポップ・スターは、国内外合わせても登場していない。タトゥーは世界最後のポップ・スターだ。
 「事件」後の日本公演は怒りが湧くほどガラッガラの客入りだったみたいだけど、どれだけメディアが糾弾しても若いファンが彼女たちを支持し続ければ本当に素敵だったのにと思う。タトゥーは、ポップ・ミュージックが「パパ、ママ、ごめんなさい」という置手紙を残して世界から隔絶された深い森の中へと駆け出す逃避手段であるということを示し、いつまでも友達とか愛とかしか歌わない良い子ちゃんポップなんてフェイクだと暴き切り、大人が自分たちの都合で子どもに信じ込ませようとしてきたものを、明確に否定した。みんなが欲しがるものなんていらない。ただ自分が欲しいものだけを手に入れたい。どうして自分の好きなように生きてはいけないのか。自らの首を絞めることになった数々のスキャンダラスな言動は、「こんばんは、私たちタトゥーです」と行儀良く挨拶するよりよっぽど彼女たちのそんな違和感に満ちたアイデンティティを言い尽くしていた。タトゥーの疑問に明確な答えも持てないくせに開き直って否定するような人間になることが大人になるということなら、僕は大人なんかにならなくていい。五年前も今も、タトゥーを否定するやつなんて死んだも同然だと思いながら聴いている。成長してないな。
12:05 | 音楽 | comments (1) | trackbacks (0) | page top↑

ロックンロール・ライズ

razor.jpg
シャッフルで聴いていたら突然“ゴールデン・タッチ”が流れてきたので
レイザーライトのアルバムを取り出してみる。
明日はテストがふたつあるのだけど、勉強に全然集中できない。
でも、別にそれでも良いと思っている。今は。
テスト前日は、今までどれだけ授業を適当に受けてきていようが、
まったく勉強していない状態であろうが、
不思議と「いや、これは案外いけるんじゃないか」という
テスト前日の危ない自分を肯定してしまう不思議なエネルギーがどこからか沸いてくる。
そしてろくに勉強もしないで床につき、
次の日、目覚めた瞬間から後悔が始まる。
あんなことをしている場合ではなかった、と。
明日の自分の姿が読めすぎて怖い。

Up All Night
/ Razorlight

Up All Night
UKロックかくありなん
 オアシスのノエル・ギャラガーにライブ・パフォーマンスを誉められた時、ジョニー・ボーレルは恐縮するでもなく、照れるでもなく、「あんたに誉めてもらおうとは思ってないんだ。ただひとつ聞きたい。ネブワースではどう仕切れば良い?」と言い放った。こんなロケンローな話はないよな。大先輩にこんな大口を叩いてしまうほど、レイザーライトの勢いはデビュー当時からすごかった。キャリアの凄まじい隆盛そのものに強烈な魅力を感じる、そういうタイプのスタートの切り方だった。とにかくイギリスで売れまくった彼らのデビュー・アルバム。04年から本格化したUKギター・ロック復権現象をひとつに繋いでいたのは、フランツのファーストでもカサビアンのファーストでもなく、このアルバムだったと思っているし、それがシーンとしても一番健全な在り方だと考えている。
 レイザーライトのロックにはフランツのアート性もカサビアンのスリリングな中毒性もない。ただ、“リーヴ・ミー・アローン”の最初のギター・リフ四小節が鳴り響いた瞬間、“ダルストン”のサビ部分で性急性を増す演奏をバックに「僕のところに帰っておいで」と叫ぶジョニー・ボーレルのあの荒々しい歌声が耳朶を打ちつけた瞬間、足すことも引くこともできないほどシンプルにも関わらずそのメロディの良さのみで僕たちを黙らせてしまう名曲“ゴールデン・タッチ”を知ってしまった瞬間――。その一秒一秒の瞬間に僕たちが感じてしまうこのどうしようもない高揚感の正体は、キンクスやフーが登場したあの時代から絶えることなく脈々と受け継がれてきた英国が誇る紛れもない王道のロックンロールである。フランツもカサビアンも良いけど、これを鳴らせなくなったらイギリスのロックは完全に腐敗する。大飛躍のセカンドを発表した今も、レイザーライトがやっているのはそういうロックだ。このままどんどん突き進んでいって欲しい。
01:11 | 音楽 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

ポップへの信頼

7月22日
実に九日間連続の更新。
どれだけ一人で引き篭もってるんだ。
友達いないオタクの本領発揮です。

それでも今日はテスト勉強ほっぽりだしてチャリで外をブラブラしてきた。
出発する時にうちのサークルのかわいいかわいい後輩と出くわして、
「せんぱ~い!現実から目を背けないでくださ~い(笑)」と言われた。

そんな後輩の言葉にも手を振って、モノレール沿いにひたすら南下。
今日のサウンドトラックはずっと今月発表されたMGMTのデビュー作だった。
このアルバム、最初は全然期待してなかった。
なんかジャケットの二人が胡散臭いし、
泥臭いロックンロールを愛して止まない僕の趣味とは明らかに違う感じがした。
まあ実際にツボではないのだけど、でもこれが良いのです。
今日はなんだかポップについていろいろと考えさせられた一日だった。

毎日、両肩に自分のやっかいな意地と劣等感の重みを感じながら生活している。
ポップは、その意地と劣等感の重みをどこかに吹き飛ばして、
僕を「あっちの世界」へと浮上させてくれる。
体を軽くしてくれる。そんな感じがしないだろうか。
だから、とにかく陽気で楽しいポップな音楽を聴き終わった時、
なんだか虚しかったり悲しかったり寂しかったりしないだろうか。
自分の体が、重くないだろうか。
両肩に意地と劣等感の重みを、感じてしまわないだろうか。

それで、あなたは、どうする?
つまるところ、ロックもポップも、
最後の最後は「あなた次第」なのだ。

Oracular Spectacular
/ MGMT

MGMT-Oracular Spectacular
ポップには夢がある
 ジャケットの写真を見て「M.I.A.みたいなトライバル戦士の一族か!?」なんて思っていたけど、全然違った。サイケであること、ダンスであること、そして、ポップであること――。それが絶妙なバランスで結びついて、どこか異境の地から流れ込んでくるかのようなカオティックかつドリーミーなサウンドスケープを描き出す不思議なポップ・ミュージック。学生時代はブリちゃんのカバーをやってふざけていたらしいが、そんな彼らのポップに対する臆面のなさは、僕たちが忘れかけていたポップ本来の魅力を鮮やかに思い出させてくれる。
 ロック幻想が「それでも前に進んでみせる」というオプティミズムを喚起するものであるとすれば、ポップ幻想とはこのMGMTみたいな音楽のことをいうのではないだろうか。めくるめく日々の中でその重みを増していく意地と劣等感を肯定して、解き放って、僕たちをユートピアへと導く奇跡。辺境の森の中でコミュニティを形成し、みんなで踊り狂う“エレクトリック・フィール”のビデオを是非一度観て欲しい。ポップが甘く魅力的である理由も、それに溺れる後ろめたさも、あのビデオはすべてを映し出している。それは逃避かもしれない。アルコールやドラッグに溺れるのとなんら大差のない、苦しみからの安っぽい回避手段かもしれない。それでも、ロック幻想が「前に進む」という強烈な意志その一点のみによって未来を約束するのと同じように、ポップは、そのくだらない逃避のみによって未来を約束できる。その逃避という一時的な安息のみによって、僕たちはきっといびつな形のままでも転がり続けることができる。そして、MGMTのそのレベルは、凄まじく高い。
 ポップを聴く上で一番本質的な部分は聴き終わった後にこそやってくるといつも思う。自分の意地と劣等感の重みを両肩でもう一度引き受けて、再び日常に放たれた瞬間にこそ、ポップはその夢の力を発揮することができる。それでもやっぱりその重みに耐え切れないでうなだれてしまうようなやつなら、ポップを聴くのなんてさっさとやめちまえばいい。
00:06 | 日記 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

レポートもせねば

テスト前
今週から本格的にテストが始まる。
この時期になるといつもどうにかこうにかテスト勉強から逃げようと必死になるのだけど、
勉強しなきゃいけない教科書&レジュメと今月中に聴きたいCDを重ねて比べてみたら、
CDの方が三枚分ぐらい高かった。
今日新たに二枚増えたし、明後日にはもう二枚ほど増えるから、もっと高くなるぞ。
これが高くなれば高くなるほど、僕は追い詰められていくのです。
まぁ教科書の数が明らかに少ないことからもわかるように、
お金もったいなくて教科書買ってない授業がいくつもあるので、
それを足したら教科書の方が高くなるのでしょうが。
教科書買わなかった授業のテストどうしよう。
そんな不安はとりあえず脇に置いといて、今から何聴こう。
そうだ、勉強しながら聴けば良いのか。
両方徐々に低くしていこう。

とりあえずCDレヴューを書いて、何か聴きながら英文学の勉強でもしよう。
英文学の数作品を通して「幸福」を定義するものです。
僕の名前は「幸大」だぞ。本名です。
小学校の頃には「不幸大」なんて呼ばれていじめられていたが、
僕はそれだけ「幸福」の感覚に関しては人一倍、いや、人三倍ぐらい敏感だし、
自分なりの確固たる意見を持っているつもりだ。
でもだからこそ、多くの作家がそれぞれに定義した「幸福」は、
どれも僕にはひどく居心地が悪いなあ。
相手も同じこと思うんだろうけどね。

今日は古い作品から。
ビーチ・ボーイズの66年作。
60年代は本当に改めて聴きたい作品が多い。
ビートルズもいればドアーズもいればツェッペリンもいるしピンク・フロイドもいる。
言ってみればロック創世記である。
本作発表の次の年にはビートルズの『サージェント・ペパーズ』がリリースされる。
ロックの背負うものが一気に重みを増した時期だ。
青春期の終わりは、こんな重みをロックにもたらすことになる。

Pet Sounds
/ The Beach Boys

The Beach Boys-Pet Sounds
陽性ポップ・バンドが作った陰性ロック・アルバム
 本作制作当時、ブライアン・ウィルソンの意識は前年に発表されたビートルズの『ラバー・ソウル』と過酷なツアーからくる疲労をごまかすために使用されたドラッグの強い影響下にあった。つまり、ロックがただ「聴く」だけで終わらない、それ以上の何かであるという一種の強迫観念と下降する精神の狭間で揺らぐ自己と向き合うことを強要された本作は、結果として凄まじい「ねじれ」を生み出すことになる。
 自宅にこもっての作曲が中心になったブライアン・ウィルソンは「サーフィン」や「車」といったかつての陽性なビーチ・ワードを一切排除して本作を作った。レーベルがリリースをしぶるほど従来のビーチ・ボーイズのイメージと激しく乖離した本作は、ブライアン・ウィルソンというひとりの男の存在証明をかけた一枚であり、だからこそひどくコンセプチュアルであり、翌年に発表されるビートルズの大傑作『サージェント・ペパーズ』の大きな礎となった。ビーチから家庭に帰りついた男のように、「ずっと一緒にいられたら素敵だろうな」と歌う冒頭曲“素敵じゃないか”のささやかな希望は、しかし、後半で見事に裏切られ、最終曲“キャロライン・ノー”の「いったいどうなっちゃったの? ああ、キャロライン、こんなのってないよ」という悲痛な叫びに沈んでいく。希望が地面に叩きつけられる様子に背筋が凍りつきそうになるが、これでもあくまでポップ・ソングとしての体裁は保ったままだ。狂っている。白々とした風景をバックに汽車が通り過ぎ、犬が空しい鳴き声をあげるこの意味不明なエンディングに漂う絶望的な何かは、まさに絶望そのものだった。
01:51 | 日記 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ダンス、ダンス

バイト帰りによく買物に行く24時間営業のスーパーに行ったら、
毎度のことだからもうどうでもいいといえばどうでもいいけど、
中に入ろうとしたら入り口にたっている警備の人に呼び止められた。
「未成年の方の深夜の立ち入りは・・・」と入店を拒否され、
「あ・・・い、いや、もう21歳です」と言い返してやった。
このスーパーの警備の人とこの会話を交わすのは今日で五回目である。
毎回同じ人、同じタイミング、同じ会話内容である。
いい加減覚えてくれればいいのに。
自分の年齢言うのがこんなにも申し訳なくて後ろめたい時はない。
まぁ「また言われるかな」と若干楽しみにしている自分もいるのだけれど。

一昨日から今日まで、僕の住んでいる町ではお祭りが開かれていた。
あちこちで太鼓がドンドコ打ち鳴らされていて、人が集まっていて、
おかげでバイトがものすごく忙しかった。
今日、お客さんの流れがいったんおさまった時に
チラッと祭りの様子を見に行ったのだけれど、
まさに老若男女、いろんな人が太鼓を叩いて、
盛り上がって、幸せそうな顔をしていた。

太鼓ってやつは、不思議な楽器ですよね。
ただ物と物がぶつかって音を発しているだけなのに、
どうしてあんなにも、こう、ハートと共鳴するのでしょうか。
しかも打楽器そのものはずっと昔から、
文明なんて立派なものが完成するもっと前から、この世にあったんだ。
ずっと昔から、人は物と物をぶつけ合って音を作り出して、リズムを刻んでいたんだ。

どうして強いビートを感じると体が勝手に動き出すんでしょうかね。
そうやって考えていると、ドラムとかビートとかリズムとか、
そういうドンドン響くやつは、ものすごく本質的なものに思えてくる。
なんというかこう、一撃で根源をとらえるような、
うまく言えないけど、地に足の着いたというか根っこがあるというか。
そういう感じのもの。

そして、ベックがヒップホップとフォークにこだわる理由はそこにある。
刹那のきらめきが許された消費社会という80年代に多感な青春期を過ごし、
そういった時代性を直反映した特定の音楽に懐疑的な意見を持っていたベックは、
だからこそヒップホップとフォークが持つ本質の力を選び抜いた。
けっしてコマーシャルな意図から生まれたのではない、「本物」として。

今日のディスク・レヴューはまたベックの過去作。
99年発表の三作目です。
新作に向けて順調に復習中。
このアルバム、実は大好きなんです。

Midnight Vultures
/ Beck

Beck-Midnight Valtures
素晴らしきロサンゼルスの日々
 ふざけた顔したおっさんの股間から隣の股間へと伸びる光。「ミッドナイトの強欲者たち」という下世話なタイトル。そしてこのペラッペラに安っぽい色彩感覚。いやぁ、好きだなぁ。ベックのポップ・センスがある意味一番煌びやかに開花した作品だと思う。音楽面でも一部ではファンクの享楽性を強く打ち出して最高にくだらない感じに仕上げている。アホな勘違いはしないで欲しいのだけど、ベックはあくまで意識してこのセクシャルかつプラスチックな世界観を構築している。言ってみれば、極めて知的な狂歌のようなものだ。だから、「帰り道の途中から僕は立派な大人」なんて歌う“セックス・ロウズ”はホント最低な曲だけど、実はベックの楽曲の中ではこれが一番好きだったりする。
 肝心なのは、これらすべてのくだらないファクターが極めて高度かつ的確なメタファーとして機能しているところだ。アメリカ中で様々な音楽を拾い集めた放浪のシンガーであるベックは、その生い立ちの原点でもあり、彼の幼少期には当たり前のようにそこにあったノスタルジアが今や開発という波に完全に侵食されてしまったロサンゼルスの街を、もうケチョンケチョンにけなしまくっている。ジャケットもアルバム・タイトルも各楽曲も、ロスのアーバンな煌びやかさと共にその裏側に隠された大都市特有のいやらしい表情を徹底して暴き切っている。ベック特有の「言語変換能力」も相変わらず冴え渡っていて、“ニコチン&グレイヴィー”“ピーチズ&クリーム”“ミルク&ハニー”など、ロスを形容するにはあまりにも鋭すぎる言葉がどんどん飛び出してくる。と言ってもロスに行ったことなんて当然一度もないんですけどね。映画で観たロスの摩天楼を勝手に想像しながら聴いています。
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PRISMIC
/ YUKI

PRISMIC(1).jpg
俺のお前の、「この一枚」
 「そんな程度の絆なら絶ってしまえ」。そう歌ったのは誰だったか。ピート・ドハーティだっけ。俺もお前も、みんな消えちまえ。ファック・フォーエヴァー。なんなら全部終わらせてやろうか。全部終わらせて身軽な体になったら、いろんなことが、もっと楽になるだろうか。すべてがうまくいくだろうか。いっそのこと、青山テルマの大ファンにでもなってやろうか。ジェンダー・フリーでも高らかに掲げてみようか。エコ活動に没頭してみようか。なんだこのひどい倦怠感は。倦怠のやってくる周期としてはちょっと早すぎるんじゃないか。こんな自分なんて、もうやってられない。もう前になんて進めない。俺は、ダメだ。
 それでも、今お前が手に取ろうとしているのはその新作でもあの話題作でもなく、この一枚じゃないか。まだ何も始まっちゃいない。お前はまだ、一歩も前になんて進んじゃいない。そもそもビビりなお前にこの一枚を置き去りにするなんて思い切ったことができるのか。いったい何のために今までしつこくこの一枚にしがみついてきたのか。お前が認めなきゃ、この一枚へのその情けない思いは、「夢」なんかに変わりやしない。他の誰にも認めることなんてできない。理解することなんてできない。お前が肯定しなきゃ、その思いは何の役にも立たないガラクタ以下のゴミだ。それ以下だ。お前をお前たらしめているものは何だ。お前がお前でいる意味とは何だ。成績表か。履歴書か。髪型か。服装か。今までに付き合った女の子の数か――。勘違いするな。お前のロックンロールは、ここからしか始まらない。お前は、この一枚からなら、何だって始めることができる。
02:28 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

If You Love A Woman

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レポートでも書こうかと思ったけど、止め止め。
だって、ダーティ・プリティ・シングスの新作を買ったんだ。
レポートなんて後回しでファースト・アルバムを復習中です。
良いアルバムだったよなぁ。
僕の大学生活の、最初のサウンドトラックだった。

ちなみにレポートはアメリカのミュージカルとかポップ・ミュージックについて。
テーマのひとつに「80年代の女性のロックとポップス」なんていうのがある。
マドンナ・ファンの僕にはたまらないテーマですね。
それにしても、これを教えてくれる教授が本当にくだらないんです。
多分、ただ好きなだけなんだろうなぁ。
マドンナとシンディ・ローパーとサマンサ・フォックスの
当時の学生間での人気率なんてどうでもいい。
良いとか聴きやすいとかそんな話じゃないだろバカ。
マドンナのデビュー曲は“ライク・ア・ヴァージン”じゃないよ、このアホ。
どうしてあんなのに大学教授が務まるんだろうか。
やつも口利きとかコネかなんかで教授になったんだろうか。
というか、そもそも大学教授ってどうやってなるんだろうか。

80年代のマドンナを中心とした女性シンガーの台頭は、
ロック&ポップス界のひとつの「事件」である。
ロックに根強く残る男根主義を脅かしたマドンナ、
女の子だって好き勝手やって楽しみたい!と訴えたシンディ・ローパー。
彼女たちの音楽に共通するのは
ある種の常識とか規範を振り切る自己主張の強さだが、
それをアジテーション系の激しい音楽に載せて歌うのではなく、
アイドル歌手が歌ってもおかしくないあのてらいのないポップ・ソングで
歌ってしまったところが、とても重要なポイントである。
つまり、ポップとは、こんなにも背徳感に満ち溢れている表現なのだ、と。
マドンナの場合は特に確信犯的で、
彼女はポップそのものを汚らしいものとして冒涜するために、
“ライク・ア・ヴァージン”なんてポップ・ソングを歌ったのだ。
80年代は音楽の商業性が食い尽くされた時代でもある。
音楽が、灰色に染まった時代である。
そんな時代の中にあって彼女たちの表現は極めて過激でありながら
ポップの本質的な問題を暴く鋭さを兼ね備えていた。
ポップの甘さの正体は、背徳なんだ。
よし、ちゃんとまとめて今回のレポートはこの方向性で行こう。


さてさて、ダーティ・プリティ・シングスですが、
一年生の頃は、“バン・バン・ユア・デッド”ばかり聴いていた時期があった。
ファーストの頃のカールは、まだリバの解散から全然立ち直れていなくて、
その怒りとか戸惑いとかに何とかケリをつけようとしたのが、
新たなバンド、ダーティ・プリティ・シングスとしてのファーストだったわけです。

「いったい何を期待してたんだ?~バンバン、お前もう死んでるよ」

ここのフレーズに、たまらなくしびれていた。
リバへの複雑な思いを錆び付いたナイフで削り落とすみたいなギターと
このフレーズが絡み合って、
その中で葛藤しているカールが大好きだった。
このファーストは今聴いてもアガるなぁ。
「愛してる女性がいるなら、殴っちゃだめだぜ」、だって。
かっこいい。
女の子に優しくできないやつは史上最低のアホだね。
カール・バラーは本当にかっこいいロックンロール・スターだ。
リアム・ギャラガーよりも、アレックス・ターナーよりも、
僕はカール・バラーになりたい。
セカンド、めちゃめちゃ楽しみにしてるからな。
もうすぐ聴いてやるからな。


長くなっちゃうけどレヴューを載せないと終わらせられない。
ここでダーティ・プリティ・シングスのファーストを載せればまだまとまるんだろうけど、
突然にベックを登場させてしまうのがこの『Over The Border』というブログです。
いろいろ平行して聴いているとこういうことになるのです。
ベックも新作に向けて復習中。
これは96年発表のセカンド・アルバム。

Odelay
/ Beck

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ガチャガチャ、ガチャガチャ
 この作品を聴くといつも、別にベックはシンガーソングライターじゃなくても良かったような気がしてくる。もちろんネガティヴな意味でそう言っているのではなく、画家はもちろんなんなら書道家みたいな気難しそうなものでも、ベックはベックでいられたような気がするのだ。この男には、捉われというものが一切ない。従来のロックのモラルとかマナーとかをすべて自分の中でいったん無効化して、ベックは音楽と向き合っている。“ロード・オンリー・ノウズ”の意味不明シャウトが耳をつんざく奇天烈なイントロ、“ザ・ニュー・ポリューション”の「ドゥルッドゥルル」コーラス、“ホェア・イッツ・アット”の実に楽しげな手拍子と合唱――挙げ始めたらキリがないが、ダスト・ブラザーズとの共同作業でいっそう強く打ち出されたその独特の編集センスは、ベックの才能の性格を、本来なら一番わかりやすいはずのサビや歌詞よりもひどく雄弁に物語っている。随所に遊び心満載、恐ろしくポップでマジカルな一枚。ロックそのものをポップ・アートのアイテムとして乱用し、かろうじで「音楽」と呼べるものを作り出したという感じだ。オルタナの存在感の強さを示した決定打のような立ち居地で語られることが多い本作だが、ここにはすでにオルタナなんて矮小でひねくれた価値観は存在していない。ゼロ地点よりももっと低いところから始めたら、音楽はこんなにも奇抜で面白い表現になりうる。ベックの表現における凄まじく単純な意味での自由が、本作には集約されている。もちろんその自由の意味は今でもまったく失われていない。だからこそ、デビューから現在まで、ベックの音楽は比類なきラジカルな表現として常にそうあり続けている。「モップ犬」とでもいうようなジャケットも最高。
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世界を塗り替える音

シガー
毎日、授業→バイト→音楽の単調な生活だけど、
最近はなんだかなぜだかこまめに更新できて嬉しい。
ついに、このアルバムを聴いています。
シガー・ロス(「勝利の薔薇」という意味らしいです)の最新作、『残響』。
今まで特別に好きなバンドではなかったけど、
これはすごい作品が出てきてしまった。
明日も朝から授業があるけど、今晩は眠れないぞ。
来週からはテストも始まるけど、勉強なんてやってられっかってんだ。

ロックは、ありがたい単位も社会でうまくやり抜く処世術も教えてくれないけど、
それでも、こんなにも、こんなにも、感動的なのだ。
ロックは、誰の命も、生活も、救わない。
それでも、ロックは、人の生き方を変える。
ロックが求めるのは答えじゃない。ゴールじゃない。
ロックが求めるのは、始まりである。
「今、ここ」という揺るぎない大前提の上で、あなたはいったい何を始めるのか。
僕は、自分の「今、ここ」の上に、チョコンと行儀良く座って、
時間の流れが自分を未来に運んでくれるのを待つ気なんて、ない。
自分の足で踏み出すのだ。自分の力で切り開くのだ。
それを続けるのがロックの力だ。
永遠を求める力。
それは、未来を自力で開き続けるロックンロールの勇気だ。

シガー・ロスだって、そうだろう。
シガー・ロスは、自分たちの揺るぎない「今、ここ」の上で、全力疾走するつもりだ。
しかも丸裸の自分たちを太陽の下に曝け出して。
“ゴーブルディゴーク”の激しく脈打つ生命力。
“フェスティヴァル”中盤~終盤の、
元気なマーチング・バンドが通り過ぎるような前進力。
そして、圧巻の“オール・ボート”。
このアルバムは素晴らしい。
ジャケットはほとんど笑いのネタになっているが、
これほど的確に、明確に、本作でのシガー・ロスの在り方を示す絵はない。
このアルバムを聴くか聴かないかで、
人の人生は大きく変わるような気分さえしている。
まだ一回とちょっとしか聴いてないけど、いきおいでレヴュー書くぞ。

Með Suð Í Eyrum Við Spilum Endalaust
/ Sigur Rós

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この「慶び」こそが、「勝利の薔薇」色だ
 シガー・ロスの音楽に、初めて景色を見ることのできる作品だと思っている。これまでだって濃い霧のかかった森に迷い込んだかのようなイメージはあったが、こんなにも悠々と広がる景色を眺めることができるのは初めてである。霧で視界を遮られたかつての青白い森の中は、つまりはシガー・ロスとしての心象風景であり、妄想の世界であり、世界から隔絶された庵室のような空間だった。それが、何だろう、この大地の奥底から突き上げてくるような圧倒的な力は。「閉塞感」とか「内省」とか「逃避」とか、これまでシガー・ロスについて語る時に必要だったそういったキーワードとは見事なほどに正反対の意味を持った言葉しか出てこない。シガー・ロスにとって自分たちを突き詰める自問と空想の場所であったはずのこの音楽は、世界と対峙する場所へとその意味を急速に変質しつつある。何かと話題のジャケットも象徴的だ。是非ともこれまでの作品と見比べてみて欲しい。シガー・ロスはついに自己という森を離れた。新たな景色が、拓かれようとしている。
 “オール・ボート”がとにかく素晴らしい。はっきり言わせてもらうが、シガー・ロスの最高到達点である。もはや「ロック」のものですらない荘厳なオーケストラと迫真の合唱が急上昇して凄まじいカタルシスを駆り立てるこの曲は、本作におけるシガー・ロスのメンタリティを何よりも雄弁に物語っている。世界を拒絶することでしか得られなかったかつてのカタルシスはここで徹底的に漂白され、世界と繋がることに対するカタルシスへと鮮やかに塗り替えられる。すごい。この曲は本当にすごい。その絶対的な「正しさ」を振りかざしながら世界の特等席で威張り散らすあらゆる愛と祝福の歌を、この曲は一気に白々しいものへと劣化させる。こんなにも純度の高い「慶び」の表現を、あなたは他に知っているだろうか。衝撃的なジャケットも、本作で迎えた劇的な変化も、すべての理由はこの曲の中に集約されているような気がする。もうしばらくこの「慶び」に身を浸していようと思う。今はここまでしか言えなくて本当に悔しいし申し訳ないのだけれど、僕は、何かを掴めそうな気がする。シガー・ロスも、どこかに辿り着こうとしているんだと思う。
01:43 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

スピリチュアル

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これ、ジャケットが立体仕様になっているのがわかっていただけるでしょうか?
90年代に『宇宙遊泳』という大傑作を発表して
最強最大のスペース・ロックを完成させたジェイソン・ピアース率いる
スピリチュアライズドの『レット・イット・カム・ダウン』という作品なんですけど、
この不気味な女の子の顔が内側にへこんでるんですよね。
まぁ一言で言えばひどく悪趣味なデザインなわけですけど、
これ、手前とか奥に傾けて見たら影の具合で女の子の表情が変わるんですよね。
頭の方を手前に傾けたら顔全体に影がかかって怒りの表情になったり、
逆に奥に傾けると光が差してニマッと笑ったりするのです。
本当に薄気味悪いのですが、これが案外バカにできないんですよ。

『宇宙遊泳』以降の作品はほとんどすべてに当てはまるんですけど、
ジェイソン・ピアースの曲ってアレンジも歌詞も過剰の極みに到達しているんですよね。
大聖堂がピッタリのゴスペル・コーラスとオーケストラ・アレンジに
天国に浮かび地獄に沈むような極端な歌詞世界。
その落差の激しさに毎回貧血を起こしそうになるのだけれど、
これはまさに表情の激変する女の子なのです。
鬼の形相からエビス顔へ。
それに、この女の子は決して生身の人間じゃ背負えない「あっちの世界」の感覚、
「神秘」とか「畏怖」とか「崇高」みたいな、
都合の良い言葉で言っちゃえばとにかく「スピリチュアル」な感覚を、
見事に表現していると僕は思うのです。
まさにスピリチュアライズドの世界なのである。
そこまで意識してデザインされたのかどうかはわかりませんけどね。

この『レット・イット・カム・ダウン』は一番好きだな。
ホント、バカみたいにバカでっかいスペース・ロックなんですよ、これ。
キャリアの隆盛そのものと相俟って激しい興奮を誘うのは『宇宙遊泳』だけど、
『レット・イット・カム・ダウン』の、このやりすぎな感じがとても好きだ。
ジェイソン・ピアースはこれで思い切り突き抜けることができた気がする。
僕は、政治家には、政治家だったら、表では偉そうに正論を唱えていても、
裏では思い切り悪さをして欲しい。
本当に、胸を掻き毟りたくなるようなタチの悪い悪さをしていて欲しい。
クリーンな政治家なんて、反吐が出る。
政治家だったら、思い切って悪に全身浸かっちまえよと思う。
それと同じような感覚だ。
ジェイソン・ピアースなら、思いっきりイッちゃえよ。
背徳感なんて振り切って、ハイになっちゃえよ。
『レット・イット・カム・ダウン』は、そういう意味で本当にやっちまった作品である。
好きだなぁ。

というわけで、今日はもちろんスピリチュアライズドの作品。
まだ発表されて一週間のホヤホヤの最新作です。
タイトルの“A & E”とは「緊急救命室」のこと。
実はこの男、ずっと病魔で倒れていました。
死の一歩手前まで踏み込んだ男の奇跡の復活作です。

Songs In A & E
/ Spiritualized

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スペース・ロックは手術中
 百人以上のオーケストラ&ゴスペル隊をスタジオにそのままぶち込んで大胆に製作されたキャリア史上最大規模の『レット・イット・カム・ダウン』が象徴的だが、ジェイソン・ピアースの本来の作曲スタイルとは、ゼロ地点からピアノと頭の中だけで試行錯誤を繰り返して一発で巨大オーケストレーションを組み立てる極めて突飛な手法であり、だからこそこれまでのスピリチュアライズドの作品はどれも宇宙の果てまで届くような凄まじい過剰性を伴ってきた。肺炎に倒れ一時危篤状態にまで追い込まれたこの男は、実に5年ぶりとなる本作でその方法論をかなぐり捨てて、これまで意図的に避けてきたアコースティック・ギターによるシンプルかつ基本的な作曲スタイルを選び取った。
 だがしかし、その方法論の激変が楽曲に結果としてヴィヴィッドに結びつくことはあまりなく、シンプルな弾き語り曲も収録されているもののゴスペル調コーラスの高揚感や壮大なオーケストラのアレンジは本作でも健在である。ジェイソン本人はベッドの上での臨死体験と本作の内容の因果関係をかたくなに否定しているが、僕はあながちそうとも言い切れないような気がしている。ベッドの上で生死の狭間を行き来する自分を目撃した彼の意識は、少なくともこれまでになく内に向かったはずである。アコースティック・ギターという「ひとり」から始まり壮大なオーケストレーションという「みんな」に少しずつ近づいていった本作と向き合うことは、そんな彼にこれまでの自分の作曲作業のプロセスをひとつひとつ細かに分析しそれを積み重ねる、一種の「批評力」を必要としたのではないだろうか。自身の方法論をいったん批評し、ここから更なる高みに踏み出そうとしているのではないだろうか。正直、まだまだパワー全開ではない。「こんなもんじゃない」と思うが、まだジェイソンは前に進める気がするし、彼にその意志はある。とにかく、そういう意味でも復帰作という意味でも重要作であることだけは間違いないです。聴くべし。
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08年上半期ベスト・アルバム

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08年ベスト・アルバム最有力候補、コールドプレイの『美しき生命』。
そういえば、今年は上半期ベストをやらなかったなぁ。
一ヶ月かけて行った『07年ベスト・アルバム50』の
張り切り具合を見てもらえればすぐわかりますが、
僕は結構こういうランキングものが好きです。
08年の上半期は、正直な話、随分とスロー・スタートだったと思う。
マーズ・ヴォルタ、アデル、ロスキャぺなどが優れた作品を発表してくれたけど、
どれもロックのど真ん中をぶち抜くようなタイプのアーティストじゃなくて、
08年を鋭く示すには、少し弱かったと思う。
春にようやくやってきた決定打、それがケイジャン・ダンス・パーティーだった。
そこからはもう毎年恒例の夏前のリリース・ラッシュで、
若手から大御所まで多くの作品が続々と発表された。
コールドプレイの『美しき生命』は、
そんなリリース・ラッシュの中でも、明らかに秀でていた。
僕が選ぶ、遅すぎる08年上半期ベスト・アルバムは、コールドプレイの『美しき生命』。
これしかないでしょ。

これがコンセプト・アルバムだとか今までで一番ギターが激しいとか
一曲の中にまったく違うコンセプトのチャプターがあるとか、
そんなことは今はもう本当にどうでもよくて、僕が言いたいことはひとつだけ。
最終曲、“生命の幻影”について。

本編がいったん終わって、同じトラックの中で
再び一曲目の“天然色の人生”に帰結するしくみになっているこの曲。
“天然色の人生”が再び始まることはわかっていても、
何度でも、何度でも、僕はここで凄まじい高揚を覚える。

「始めから終わりまで戦いなんて嫌だ
使い古しの復讐を繰り返すなんて嫌だ
死とその仲間たちの後をついていくなんて嫌だ」

僕たちは、誰ひとり「死」へと向かうことを避けることなんてできない。
クリス・マーティンは、それでも最後の最後まで「死」を否定し続け、
「嫌だ嫌だ」と永遠に繰り返しながらしだいに果てていくかのように、
この曲は終わる。
そして、すべてが終わった「死」から
再び生命力を注ぐ“天然色の人生”へ。

この流れが意味するのは、「再生」とか「転生」とか「輪廻」じゃない。
本作にはなぜ「生」と「死」という対極が共存しているのか。
それは、コールドプレイの音楽が常にその両方を内包する、
すべてを見下ろす圧倒的な高さからの俯瞰力を伴っていたからだ。
つまり、コールドプレイの音楽は、これまで完璧なまでに「すべて」を描ききっていた。
その音楽を聴いて、そこから何を掴み取るかは、
つまり、聴き手の個人的なエモーション次第だった。
逞しい生命力を感じ取る者然り、人生の諦念を認めてしまう者然り。
本作ではそんな聴き手のリアクションにバンドが意識的になったことで、
誰の目にも明白な両極端を共存させて、聴き手に選択をさせる意図があった。
そして、今までのコールドプレイだったら、
それこそ残酷なぐらい冷静に「生」と「死」を同等に扱って、
そこにメンバーの意見なんて介在させずに、聴き手に提示したのではないだろうか。
コールドプレイのその冷たさが、僕はずっと嫌いだった。

演奏や構成などは本作で大きな飛躍を見せたが、
実は、言葉の方はそれほど劇的な変化があったとは思わない。
ただ、最終曲の“生命の幻想”の一連の流れだけは、違う。
テーマのひとつであるはずの「死」を否定し、
「生」というたったひとつの可能性で、すべてを塗り替えようとしている。
ラストに「僕たちは皆、逃避の夢を見る」とクリスが小さく歌っているように、
彼らは「死」から逃げるという行為が幻想であることを知っている。
そこを避けられないなんてことは、とっくの昔にわかっている。
それではなぜ最後の最後に“天然色の人生”なのか。
意味もなく随分じらしてしまったが、
それが本作での、コールドプレイのメッセージである。

「生きろ」
それが本作のすべてだ。
マイケミが『ブラック・パレード』でやってのけた逆転の理論よりもっと真っ直ぐな、
「それでも生きろ」というメッセージ。
あらゆる可能性を描き出し、
「死」から逃れることはできないと伝え、
コールドプレイは、「それでも生きろ」と言う。
両極端が存在するはずなのに、
逆立ちして聴いたって本作から感じ取れるのはそのメッセージのみである。
コールドプレイにとって初めての、
そして今のところ08年最大の「ロックンロール・アルバム」だと思っている。

「生きろ」
ロックが肯定できるのは、ただその姿勢ひとつのみである。
首吊ったりマンションから飛び降りたりを肯定するようなロックを、
僕はロックと認めない。
「生きる」ことを認めないで、他に認めるべきものなんてありゃしない。
「生きる」ことにビビッてちゃ、何ひとつ始めることなんてできやしないさ。
自分と未来を繋ぐ唯一の方法論としての、「生きろ」。
これが、ロックンロールの夢と希望である。


見切り発車で始めたからかなりとっちらかってる。
いつもみたいにちゃんとレヴュー形式にすれば良かったか。
それにしても、夜中にこんな写真をひとりで撮ってる姿を客観的に考えたら、
なんだかとても間抜けだ。
写真と言い中身と言い、随分と散漫な記事になってしまった。
まぁいつものことだけど。
こんなの書いたら余計に散漫か。
あぁ、なんだかこの書けば書くほど散漫な感覚が一生続く気がする。
01:28 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

CSS

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先日セカンド・アルバムを発表したばかりのCSS。
実はこの機会に初めて聴いたのだけれど、良いね。
ラヴフォックスというボーカルの女の子が、実に良い。
メンバーは芸術学校出身とかみたいだけど、こんな人、いるんだ。

僕はなんだか美大生・芸大生とか専門学校生みたいなのに
変な先入観というか、ひどく懐疑的な気持ちを持っていて、
自分でもよくわからないのだけど、
でもこんな連中にわかってたまるかという勝手なライバル(?)意識がある。
なんというか、絶望してないもん。

まさに服飾系の専門学校に通っていて、
いつの間にか「服なんて嫌い」とかいうわけのわからんメンタリティで
服飾と向き合うようになって、
それでもアパレル関係の企業に歩を進めた知り合いがいるのだけど、
CSSは、そんな感じじゃないかと思う。
僕も、ロックが「好きだから」、聴いているんじゃない。
「本当にロックが好きなんだね」、とよく言われるけど、
そう言われると僕はひどく気分が悪い。
もっと複雑に絡み合った思いがある。
僕のロックへの思いは、希望も絶望も内包している。
CSSにも、似たようなものを感じるのだ。

これは彼女たちのデビュー・アルバム。
収録曲の“ミュージック・イズ・マイ・ホット・ホット・セックス”は
iPod touchのCMに使われていたので知っている人も多いと思います。
なんだか最近は過去作ばかり紹介して
肝心の最新作については何も書いていないような気がする。

Cansei De Ser Sexy
/ CSS

CSSS.jpg

ダンス・ミュージックを批評するダンス・ミュージック
 YUKIとかPerfumeとかの、理解のないアホなロック・ファンにはなめられてしまいそうな衒いのないポップ・ソングを聴いていていつも思うことは、「個性」は絶対に「人と違う」という意味ではないということ。何ら特別な教養も人生経験もつんでいない十代の女の子でも気軽に歌える楽しいポップ・ソングをやっていても、YUKIやPerfumeがやはり特別な存在感を放っているのは、YUKIの実年齢と反比例した可愛さやPerfumeの独特のサウンド・エフェクトといった表層的な差異が決定的な理由ではない。YUKIの場合は普通のポップ・ソングじゃ受け止めきれないほどの噴出する表現意欲が有無を言わせぬ説得力を作品にもたらしているし、Perfumeの場合はそこの部分の欠落がそのまま彼女たちにしかない魅力として光っている。要は、人と同じようなわかりやすいことをやっていても、YUKIみたいにそこに向かう強烈で明確な意志と理由があれば、それは個性として十分に成り立つのだ。Perfumeの場合は、そこに引き算的な面白さがあるのだ。「個性」とは、「強烈な意志・明確な理由」である。
 日本盤の帯に「00年代最狂の愉快犯」と書いてあるが、こんなもん嘘っぱちである。ロッキング・オンでも「お転婆ちゃん」と書かれていたが、違う。間違っている。CSSに「愉快」とか「お転婆」とか「パーティー」とか「ズッコケ」みたいなキーワードは、おかしい。オペレーター・プリーズとかビー・ユア・オウン・ペット!みたいなただ楽しみたいだけの連中とは違う。ラヴフォックスのボーカルは、明らかに満たされていない。ダンス・ミュージックには向かないぐらいの重い憂鬱が声にまとわりついている。CSSというバンド名は、本作タイトルの各単語の頭文字を並べたものらしい。そして、これはビヨンセが発言した「セクシーでいるのには疲れちゃった」という言葉のポルトガル語訳である。そう、CSSは、ダンス・ミュージックで能天気になんてなれないと言っている。ただ楽しく踊るだけなんてつまらないと言っているのだ。そして、そのダンス・ミュージックへの違和感こそがこのバンドを一層ダンス・ミュージックへと向かわせている。この究極のパラドックスこそが、CSSの「個性」である。バンドのバックグラウンドも何も知らないくせに感覚だけでこんなこと書くの僕だけだろと思ったので書きました。
13:28 | 音楽 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

ちょっとしたメモ

今日のバイトは忙しくて大変だった。
明日は日曜日。
今、これ聴いてます。
新作に向けて予習、予習。

( )
/ Sigur Rós

sigur.jpg

そして、シガー・ロスは僕たちを圧倒する
 青空の下を全裸で走り出す最新作(実はまだ聴けてない…)のジャケットに、僕たちが強烈なインパクトと共にこれまでのシガー・ロスとの明らかな違いを揃って見出しているのは、彼らにはこういう作品があるからだと思う。タイトルは『()』、収録曲8曲はすべて「無題」、歌詞は僕たちにはどうあがいたって理解不能なアイスランド語と独自の造語で組み立てられている。本作において、シガー・ロスの世界は激しく閉じられている。聴き手の理解の自由を尊重した結果ではない。シガー・ロスの、音楽へと向かうエゴが思い切り内側に爆発した作品である。ロックという音楽、いや、そもそもの音楽という表現が持ちうるあらゆる「意味」から次々と乖離して僕たちの頭上に降り注ぐ、ひとまず「音楽」と分類するしかない「何か」が、ここにはある。前作では子宮内の胎児だったが、本作には、盲目なのか夢遊病なのか、目をつむったまま両手を前に差し出して歩き回る少年の絵が描かれている。「視覚」という世界との絶対的な「接点」を持たずに生きる少年。やはり、本作においてもシガー・ロスの表現は「想像力」なのだなと唸らされる。世界との繋がりを何ひとつ持たずとも、想像力というエゴの刃で精神を深く抉り出した音楽は、こんなにも美しく、そして、こんなにも激しい。前にも書いたが、シガー・ロスの音楽に僕たちが覚える高揚は、「神秘的」ではあるが決して「神秘そのもの」ではない。これを「神秘」と言い切るやつは、何もわかっちゃいないアホである。明らかに異質であっても、それでもこれはヨンシーという生身の人間が自己の深奥部で探り当てた、紛れもない人間の一部分であるというシガー・ロスのラジカリズムに対する「恐怖」だ。世界からまったく孤立したあなたの頭の中の妄想が、増殖を止めない細菌みたいに、ブクブクと際限なく膨らみを増していく感覚を想像してみて欲しい。それがシガー・ロスの音楽であり、そもそもが妄想であるはずのそれに身も心も飲み込まれてしまうかのような圧倒的な冷たさこそが、僕たちがこの音楽に感じてしまう「神秘」――「恐怖」の実態なのだ。
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怒りに火をつけろ

聴かなきゃ
今週はバイトが忙しい。
ほとんど休みの日はなしである。
明日もバイト。明後日もバイト。
日曜は休みだ。頑張れ。

バイトが忙しいだけなら別にしんどいことなんてない。
写真は、プライマル・スクリームの新作発表までに、
つまりあと正確には6日のうちに、自分の中で「聴くのだ!」と決めたCDたち。
スピリチュアライズドやベックの過去作など、もうすでに聴いたことのあるCDもあるし、
サントゴールドのデビュー作やポール・ウェラーの新作など、
これから初めて聴く作品もある。
もちろん、ただ「聴く」だけで終わらせるつもりはない。
自分の中で、なんとか対象化しようと思っている作品である。
6日でこれ全部に自分の明確な意見を持つのは難しいな。
しかも明日にはここに更に3枚ほど増える。
最近は睡眠時間も減ってきた。
眠気なんて、ビールと一緒に腹の底に沈めちゃえ。
僕の生活には、「暇な時間」など一秒たりともないのだ。
あくびをしている暇があったら、半歩でもいいから前に進め。

大学の授業だってあるし、そろそろテストの時期がせまってきている。
日々が忙しくなると、それだけストレスが増える。
このストレスの正体は何か。
これは、いったい何に向けられたストレスなのか。
それは、「自分」である。
いつまでたってもうだつのあがらない自分への、一種の怒りである。
そして、その怒りは間違いなく自分をポジティヴな方向へ進めてくれる。
ガソリンみたいなものだ。怒りに火をつけろ。
世界にでもなく、ロックにでもなく、
この自分に向けられる怒りを感じられる間は、僕は大丈夫だ。
アイ・キャント・ゲット・ノー・サティスファクション、である。
もちろん、俺はまだ自分に満足なんてしていない。
だったら、前に進むしかないだろう。

ロックとオシャレは似ている、とか思ってしまった。
オシャレをする、ということは、
自分のコンプレックスを乗り越える、ということである。
オシャレをするということほど、
残酷なまでに自分と向き合わなくちゃならない行為はないと考えているのだけど、
でも普通はそんなこと考えてオシャレしないわな。
でも、そうだと思うのだ。
だから、オシャレって、なんか、見た瞬間にその人がわかる。
本当に自分と向き合った人のオシャレだけは、圧倒的に存在感が違うのだ。
なんとなくだけど、でもそうなのだ。
ロックも、オシャレも、「自分」を置き去りにして前になんか進めない。
「自分」を置き去りにしたオシャレは、アイテムひとつひとつは魅力的でも、
でも、なんだかひどくかっこ悪い。
あなたが一番見つめなきゃいけないのは、ファッション雑誌や流行りなんかじゃない。
「自分」だ。

ロックする時は、オシャレする時は、かっこよくなろうとなんてするな。
ロックする時は、オシャレする時は、情けなくなれ。
ロックする時は、オシャレする時は、自分に怒れ。
そして、そんな自分を超えろ。
そうやって、僕たちは初めて前に進めるのだ。
そうやって進み始めたロックが、オシャレが、一番かっこいいと思うのであります。
ただ、ことわっておきますが、僕はロックには熱心ですが、
オシャレの「オ」の字も知らないダサダサな男である。
なんで僕はこんなんなのだろうか。


ところで、写真のCDの山の一番上に置いてあるのは、
おそろく08年ナンバー・ワンの印象的なジャケットであるシガー・ロスの新作。
早く聴きたいので、過去作を焦って聴いています。
そんなわけで、今日のCDレヴューはシガー・ロスの作品。
シガー・ロスの音楽は、言葉にするのが難しいよね。
ほろ酔い気分でシガー・ロス聴いたら頭おかしくなりそうである。

Ágætis Byrjun
/ Sigur Rós

しがーろす

「神秘」と紙一重の「恐怖」
 最新作はどうやら大きく違っているようだが、シガー・ロスについてのテキストに「壮大」という言葉が使われていると、僕はひどく居心地が悪い。本作のジャケットが示している通り、シガー・ロスの音楽とは、まだ世界を目撃していない胎児の想像力である。子宮の中で、まだ目も開かない胎児が「見えないもの」を想像する激しい内向性。それがシガー・ロスの音楽である。だから僕は、「壮大」さではなく、いつも重くのしかかってくる「閉塞感」と戦いながらシガー・ロスの音楽を聴いている。
 よく言われる「未知の~」というやつも嫌いだ。シガー・ロスの世界は、決して未知の世界じゃない。僕たちみんなの心の内に常に居座り続けながらも誰もが目を向けようとすらしない、シガー・ロスが照らし出すのは、そんな無意識のうちに潜在する、「本質」である。極端に閉じて、閉じて、閉じまくったその先で、シガー・ロスだけが辿り着いた人間の森の極地。多くの人がシガー・ロスの音楽に感じる「神秘性」とは、そこを照らし出されることに対する「恐怖」だと僕は考えている。だからこそシガー・ロスの音楽は美しくも獰猛で、静謐ながらも激しく、世界が終わる直前に鳴り響く鐘のような危機的な啓発として成り立っている。人間の最も本質的な部分をさらけ出すその音楽は、明確な言葉と意図を持たずとも、その「本質」そのものが圧倒的なメッセージ性を孕んでいる。そして、まだ誰も、この「恐怖」を克服できていない。このセカンド・アルバムで僕たちはその内なる「恐怖」の存在に否応無しに気付かされ、今もなおシガー・ロスの音楽に慶びとは程遠い畏怖の念を抱き続けている。
02:02 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

これがエレカシだ

STARTING OVER
/ エレファントカシマシ

エレカシ

これがロックンロールでなくて何なのか
 あなたは、なぜロックを聴くのか。僕は、未来が不安だから、日々を送ることがどうしようもなく不安だから、ロックを聴いている。そんな不安を自分の中で少しでも誤魔化してやるために、毎日飽きもせずにロックと呼ばれるものを聴いて過ごしている。将来、自分はどんな人間になっているのか。大好きな女の子からメールの返事が急に来なくなった。そんな単純でくだらない、でもちっぽけな自分にはとてつもなく絶対的な不安に押しつぶされないように、そんな不安から身を守るシェルターとして、ロックを聴いている。逃避手段である。しかも、その場しのぎの、絶望的な。ロックを聴いても僕の将来の夢は叶わないし、大好きな女の子からのメールが返ってくることもない。最後に残るのは、最初から最後まで独りぼっちの自分だけだ。

 最近、僕と深く関わったある人に、「音楽がこんなに孤独だとは思わなかった」と言われた。ここでいう「音楽」とは、もちろんロックのことである。そのとおり。ロックは、そういう音楽である。誰かと必死に繋がろうとしても、結局自分は引き裂かれた「ひとり」でしかないということを認め、だからこそ悲しくなるほどに自力でそんな自分を乗り越えていかなくてはならない音楽である。やる側にとっても、聴く側にとっても、絶対にそうだ。誰も見ていないところで血が吹き出るほどにもがき苦しんで、「自分を乗り越える」だなんてよくわからない曖昧な感触を探し求めて、果たしてその行為にどんな意味があるというのか。不安を振り払うどころか更に自分を追い詰めて、絶望のどん底に連れていって、未来の光なんて、いったいどこにあるというのか。

 勘違いしないで欲しい。ロックは、本当のロックンロールは、それでも、そこから始めることができる。自分がどうしようもなく無力であり、負け犬以下のクソであり、でも、「それでも生きている」というたったひとつの揺るぎない事実に直面した時、あなたはその時に、いったいどうするのか。ロックが聴き手に求める答えは、そこだ。そこで、「それでも俺はすべてを乗り越えてみせる」と宣言するのが、ロックンロールである。それにビビッて夢を停滞させた大人なんかになってたまるか。俺の、目と、耳と、口は、いったいなんのためにこの情けない顔にくっついているのか。夢を諦めた自分に同情の眼差しを向けてやるためなんかじゃない。自分のボヤキを自分で聞き入れてやるためなんかじゃない。週末にビールを飲みながらバカな上司の愚痴をこぼすためなんかじゃ、絶対にない。俺は、自分の情けない姿なんてこの目で焼き尽くして、ゴチャゴチャうるさい自分の嘆きなんてこの耳で叱咤して、いつまでも付きまとう人生の不安なんかこの口でいつか噛み殺してやる。自分の力で自分自身にも打ち勝てないようなやつが、いったいどうやって他の人間を乗り越えられるというのか。そんなやつにロックンロールができてたまるか。そんなやつに本当の夢が見られてたまるか! そんなやつに、この俺が負けてたまるかってんだ!!

 そんなわけで、“俺たちの明日”は最高である。08年、この曲以上のロックンロールはありえない。「さあ がんばろうぜ!」「負けるなよ そうさ」「でっかく生きようぜ!」。思いの丈をそのまま言葉にしたような、どストレートな歌詞がすべてを押しのけて聴き手の心を直撃するこの曲。宮本浩次、実に42歳。今年でデビューから20年を数える大御所ロック・バンドのフロント・マンとして叫ぶには余りにもガサツでダサいこの歌詞は、何回も繰り返して聴くと、このCDを手に取ったみんなだけではなく、歌い手本人にも強く向けられていることがよくわかる。言い訳だけうまいような男にはなりたくない。負けることから逃げるような生き方はしたくない。夢のためなら死ぬまで頑張ってやる。熱苦しいって? ちょっとそこの君、ロックンロールを甘く見てるんじゃないかい? 熱くならずにロックンロールなんかできやしねーんだよ! ビビッてなんかじゃ夢なんて見られやしねーんだよ!! ロックンロールの夢と希望をなめるな!!と言いたい!!!

 僕は、これまでのエレカシを無知といっていいほど何も知らない。でも、この曲は、僕がイメージしていたエレカシそのまんまの姿だった。ファンに言わせるとどうやら本作からエレカシは少し変わったらしい。それは僕にはまだよくわからない。このアルバムは、どうやら当初は『エレファントカシマシ』というダサいセルフ・タイトルになる予定だったらしい。「これがエレファントカシマシだ」、と。20年のキャリアを経て、ついに丸裸の自分たちを曝け出そうとした中年オヤジたち。それが今のエレカシだ。だから、「頑張ろうぜ!」なんて歌えたのだろう。ここまで究極に単純な言葉に、夢と希望とロマンを詰め込んで、思いっきり聴き手が受け取りやすい形で、今のエレカシはロックンロールをやっている。ロックンロールの夢をここまでおおっぴろげにこじ開けて熱く歌うバンドが他にいるだろうか。僕は、ちょっと思いつかない。
 
 ロックは孤独な音楽だと書いた。このアルバムを聴いた今も、その意見はまったく変わっていない。ただ、でもだからこそロックには果てしない夢がある。未来がある。誰が何と言おうと、絶対にある。それがないなら、ロックなんてこっちの方からおさらばである。孤独な自分を乗り越えられた時、ロックは、きっと何かと繋がれる。誰かと繋がれる。未来を切り開ける。だから、“「俺たち」の「明日」”、なのだ。その未来が実際にやってくるかどうかを検証する必要はどこにもない。ただ、そんな未来を信じる勇気を少しでも多くの人に伝えるために、いい歳こいて未だに「頑張ろうぜ!」なんて叫んでいるオヤジたちがここにいるということに、僕は猛烈に感動している。これが肯定できないような自分なら、俺はロックンロールを聴くのなんてキレイさっぱり止めてやる。
03:27 | 音楽 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

幽遊白書名言集 そのに

桑原 「飛影が包帯をとるぞ
     おい蔵馬!! イジュタイホウってなんなんだよ!!」
蔵馬 「武威の鎧と同じさ…呪符で自分の力を抑えつけているんだ
     出したら自分でも止められないほどのすさまじい力を
     そんな力が ふたつ ぶつかりあったら…
     こんな会場はけしとぶぞ………!!」
武威 「むっ」
ひえー

堂々と写真を載せながら画質がよろしくなくて申し訳ない。
ちなみに、飛影は「もう後もどりはできんぞ 巻き方を忘れちまったからな」
と言っています。
これはいつか真似してみたい最高にかっちょいいセリフ。
でも、なかなか良いタイミングを見つけられないまま数年たっています。
暗黒武術会決勝戦、浦飯チームvs戸愚呂チーム。
次鋒、飛影と武威の戦いで飛影が言い放った名台詞。
忌呪帯法を外した後、飛影は圧倒的なパワーで武威を完膚無きまで叩きのめします。
飛影はとにかく速い。一瞬で敵をぶちのめす。
瞬間で敵を乗り越えることそのものに飛影の魅力が詰まっている。
僕の腕からも黒龍波が出ないものかと、
授業中によく消しゴムを敵に見立てて「はっ」と手を向けていた小学生でした。
次は誰の名言にしよう。
素晴らしいキャラクターが多すぎて、
「そいつをやるならこいつも!」的な感覚が一生続きそうで怖い。


今日のCDレヴューはロック界のズッコケ三人組の別プロジェクト。
ズッコケといってもビースティ・ボーイズじゃあありません。
ジャケット見ただけでもかなり60年代を意識してるなぁ。
裏側にはわざわざ日焼け加工まで施してあるし、
トラック・リストもA面とB面とにわける徹底ぶり。
これは完全なる趣味作品だな。

Stop Drop And Roll!!!
/ Foxboro Hot Tubs

Foxboro.jpg

やっぱり嘘のつけないやつら
 本性を明かさずネット上にフォックスボロ名義で音源をアップしていたが、「こいつらまんまグリーン・デイじゃん!」と即バレしたグリーン・デイのサイド・プロジェクト。いや、メンバー全員揃ってるんだから「もうひとつのグリーン・デイ」と言った方が正確かもしれない。でも鳴らしているものは、「もうひとつの」というよりも「かつての」という言葉が相応しい陽性ポップ・ロック。60年代ロックへのオマージュを中心に趣味音楽を好き勝手やっているという意味で、グランジ終焉期に空気も読まずにメロコアで楽しげに登場したデビュー期みたいな、あの何も背負わない感じが気持ち良い。“アリゲーター”って、キンクスの“ユー・リアリー・ガット・ミー”じゃないよね?
 そうだった。ここ最近、本来のグリーン・デイがこういう連中だったことをすっかり忘れていた。そもそもがヘラヘラ笑いながら平気でロックを冒涜する連中である。力強くもシリアスな超大作の『アメリカン・イディオット』は、長いキャリアを持つバンドのイメージすらも一掃してしまうほどのスケール&存在感&批評性を持ち合わせていたということだろうか。ファンがグリーン・デイに求める価値観も、激変してしまったのだろう。この作品をもし今のグリーン・デイがやっていたら、ファンは許さなかったような気がする。だから、このただの趣味音楽がやりたいというシンプルな思いに憑かれた時、彼らには「もうひとつの顔」がどうしても必要だったのだろう。内容に限ってはそれだけのことだが、『アメリカン・イディオット』の影響力を婉曲的にだがヴィヴィッドに感じるということもあって、決して単なる趣味として割り切ることのできない作品でもある。リハビリみたいなもんだろう。
01:59 | 独り言 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

幽遊白書名言集 そのいち

戸愚呂兄 「くそォォ なぜだァア なぜくたばらねぇ~~~~」
蔵馬    「邪念樹はエサが死ぬまで離さない
        しかし再生を続ける戸愚呂は死ぬことさえできない
        永遠にオレの幻影と戦い続けるがいい」
くらま

僕の少年期の人格形成に多大なる影響を与えた傑作漫画、『幽遊白書』。
15巻の最後で繰り広げられる戸愚呂兄との苛烈な戦いに
余りにも鮮やかに勝利した蔵馬が最後に言い放ったセリフは、かっこよすぎた。

幽遊白書には、やたらと名言が多い。
その名言はいったいどこから飛び出してくるのか。
もとを辿れば、それは作者である冨樫義博の、
幽遊白書にかけるロマンに行き着くような気がする。
そう、幽遊白書はただの漫画ではない。
ひとりの男の、ありったけのロマンがギュウギュウに詰まった、
夢のような漫画なのである。
面白い漫画を描こうとしているだけじゃ絶対に生まれない名言・名シーンが、
幽遊白書には溢れているのだ。
それは、キャラクターひとりひとりの圧倒的な存在感にも繋がっている気がする。
幽遊白書の余白には、いたるところに冨樫義博のどうでもいい落書きがある。
でも、それを見るたびに、僕は彼の幽遊白書に対する思い入れの強さというか、
強烈な愛情に、なんだか熱くなるものを感じてしまう。
面白い漫画は、文字通り山ほどある。
でも、幽遊白書ほど作者の思いの丈がそのまま描き尽くされた作品を、僕は知らない。
今回のはあくまでも「そのいち」である。
次は絶対に飛影だ。

今日はひょんなことからゼミでセーラームーンの話題で盛り上がった。
セーラームーンの作者の旦那は、冨樫義博ですよね。
僕は幽遊白書が大好きで、姉はセーラームーンが大好きだった。
姉がセーラームーンをテレビで観ている横で、
僕はなんだか照れ臭い気持ちもあって、違う方を見ながら、
それでもチラチラとテレビ画面に視線を向けていた。
セーラーマーズこと火野レイに、密やかな恋心を抱いていた幼い頃を思い出す。
大抵の人は亜美チャンかヴィーナスが良いと言っていたが、
断然マーズである。火野レイである。
あの腰までまっすぐに伸びた艶やかな黒髪が目に入らないのだろうか。
言っておくが、僕は、本気で萌えていたのだ。

今日はロックもクソもない。
ただの気持ち悪いファンと化して、好き勝手やってやる。
と思っていたけど、今日もCDレヴュー。
しかも今日はローリング・ストーンズの作品。
幽遊白書、セーラームーン、そしてローリング・ストーンズ。
自分でもわけがわからない。
とにかく、最後はイッツ・オンリー・ロックンロールに終わるのだ。
夜中にブログなんて書くもんじゃないね。
めちゃくちゃである。
でもレヴューは真面目に書きます。

Out Of Our Heads
/ The Rolling Stones

ストーンズ

ロックンロールは永久に不滅だ
 ストーンズが初めて全米で1位を獲得した記念碑的アルバム。アメリカでの成功の理由としては、今や日本でもロックンロールのひとつのスタンダードとして認知されている“サティスファクション”の存在が大きい。シングルとしても全米1位に輝いている。「満足なんてできやしない」というシンプルすぎる言葉だが、だからこそ一撃で若者の心を鷲づかみにしてみせたこの曲。これほど多くのロックンロール・ファンに愛され、多くの同業者の手によってカバーされてきた曲はない。バンド結成当初からブライアン・ジョーンズのヴィジョンとしてあった「白人に本物のブルースを見せる」というバンドの基本的な指針の向きを大きく変え、ストーンズとしてのオリジナルなロックンロール・ナンバーの端緒を開いた一曲でもある。
 全然関係ない話で申し訳ないが、YUKIもライブでこの曲の有名なフレーズを歌うのが好きだよな。“WAGON”のアウトロ部分で絶対に歌ってる。“WAGON”のもともとの曲調のせいでYUKIの場合は「あたしゃ満足なんてできないわよー!」的な微笑ましいノリになっているのがおかしいけど、YUKIほどの言語アーティストが何も考えずに口にできるフレーズじゃないよな。アイ・キャント・ゲット・ノー・サティスファクション。俺は、まだ満足なんかしていない。これは、ロックンロールの基本原理に渦巻く最も根本的な怒りである。たらふく食い散らかして嬉しそうに腹をさすっているロックなんて、誰の心も動かせやしない。世界はおろか自分の人生にすら、誰ひとり満足なんかしちゃいない。だからこそ、ストーンズが歌ったロックンロールの魂は今も僕たちの心の奥底で、静かに、でも熱く燃え続けているのだ。
02:40 | 独り言 | comments (4) | trackbacks (0) | page top↑

今月のLP 7月

フレーミング
レコード収集をしたいのですが、
さすがにしょっちゅう買っていては家計が火の車というやつで、
毎月一枚ペースでゆっくりと買うことにしました。
そんなわけで、今月のレコードがこれ。

フレーミング・リップスの『ヨシミ・バトルズ・ザ・ピンク・ロボッツ』。
大好きな一枚。
滅多に開くことはなくても、一生そばに置いておきたい、そんな一枚。
ベスト・アルバムを十枚選べ!と言われたら、確実にこれは入る。
ずっとずっと大切に聴いていきたい音楽が、詰まっています。
特に、“ドゥ・ユー・リアライズ??”という曲が、素晴らしい。

“イン・ザ・モーニング・オブ・ザ・マジシャン”という曲で、
「ああ 何が愛で 何が憎しみなのか
なぜそんなことにこだわるのか
愛することはただの無駄なのか
なぜそんなことにこだわるのか」
とウェインは歌っている。

どうせ終わってしまうものならば、
誰かを必死で愛しながら生きることすらも無駄なのだろうか。
彼らはここで恐ろしく根源的な問題に向き合っている。
自分の存在意義にすら懐疑的な目を向け、
生きる意味を定義しようとしている。

“ドゥ・ユー・リアライズ??”は、
この問題に対する答えとして鳴る、ウェイン・コインのオピニオンである。
「わかるかい? 君の知っている人は皆、いつか死ぬ
別れの言葉を何度も繰り返すより みんなに伝えてやれ
人生は短く いいことは長続きしないものだと
太陽は沈まないとわかっていても
地球が回転するからそんな感覚に陥る」
ウェインは、今にも泣き出しそうな実にナヨナヨとした声でこう歌っている。

時の流れは頼んでもいないのに僕たちを未来につれていく。
昨日まで握っていたあの手は、今日には突然に、
もうここにはなくなっていることだってある。
そうやって僕たちは大人になって、歳を取って、いつか死ぬ。
それでも太陽は明日もまた昇り、日々は終わることなく続いていく。
そして、「わかるかい? 君は一番美しい顔をしている」、と。

わかってもらえるだろうか。
ウェインは、僕たちは運命とでも言うべき見えない不思議な力の前で、
絶望的なまでに無力であり、結局は与えられる「今」を生きるしかない、と歌う。
そして、そんな「今」を生きる僕たちは、「一番美しい顔をしている」、と。
これは運命に対する諦めじゃない。
「君は一番美しい顔をしている」という一行は、
運命に巻き込まれて生きる僕たちをただポジティヴにさせるためにのみ、
ただそれだけのために、ここで歌われている。
この一行で君が少しでも前向きになれるのなら、僕はそれを歌おう。
いや、もちろん本人から話を聞いたことなんてないから妄想でしかないのだけど、
でも、ここはそんな思いで歌われていると僕は考えている。
そうじゃなきゃイヤだし、そうだったら嬉しい。
そして、それが一番ウェインらしいと思う。
生きることは無駄かもしれない。君はいつか必ず死ぬ。
それでも、僕はその美しい顔をした君を、全力で大肯定する。
“ドゥ・ユー・リアライズ??”は、いつもそう思って聴いている。

いつ寸断されてもおかしくないフラフラと揺らめくサウンド・スケープ。
泣き出す寸前、泣き止んだ直後のようなウェインの歌声。
そして、「君は一番美しい顔をしている」という一行。
たったそれだけで、フレーミング・リップスは聴き手の心を満たそうとしている。
ジャケットのバンド名の上に、小さい字で何か書いてあるのが見えるだろうか。
そこには、
「ザ・フレーミング・リップスは、あなたが人生と、
このレコードをエンジョイしてくれることを願っています」
と、実は書かれているのだ。
フレーミング・リップスは、
結局は無駄になってしまうかもしれない僕たちの人生を、それでも祝福している。
そのためなら、ウェインは何度だって
「君は一番美しい顔をしている」と歌ってくれるだろう。

落ち込んだときでも、ただなんとなくでも、
久々にこのアルバムを開いて“ドゥ・ユー・リアライズ??”を聴くと、
初めて聴いた時とまったく変わらない感動で、
この歌は僕の心を満たしてくれる。
僕は、こんなにも優しい歌を、他に知らない。

ひ弱すぎると笑うか?
こんな女々しい音楽は聴けないと強がるのか?
もしそうなら、あなたはもうロックを聴くのなんてやめるべきだ。
ひとつの強い思いを伝えるために、
ミュージシャンは決死の覚悟で無責任な嘘をつく。
ウェイン・コインは、顔も名前も知らないような何万人もの赤の他人に、
それでも「君は一番美しい顔をしている」と歌う。
僕たちは自分の胸に刻まれたその嘘の言葉を何度も何度も指で撫でて、
それで自分がいつだって前に進めることを知るのだ。
それが、ロックを聴く、ということではないのか。
かっこいいだけのロックならいらない。
強いだけのロックならいっそ全部消えてしまえばいい。

ロックとは、指で触れるだけで弾けてしまうシャボン玉である。
言っておくが、僕は大真面目である。
その脆く壊れやすいシャボン玉を守り抜くための強烈な意志。
その強烈な意志のみによって、
僕たちは自分自身をポジティヴな方向へと導くのだ。
何の役に立つかわからないシャボン玉でも、
何の役にも立たないシャボン玉でも、
いやまあ、シャボン玉なんて最初から何の役にも立たないのだけれど、
僕は死ぬまで守り抜いてやる。
それだけで、僕の人生は素晴らしくロマンチックなものになる。
フレーミング・リップスのこのアルバムは、僕にロックのロマンを教えてくれた。
絶対に、誰にも否定なんてさせはしない。
17:46 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

おめでとう。

週末だけあって今日のバイトは本当に忙しかった。
明日も朝から授業があって、午後はサークルの12周年記念パーティー(!)、
バイト、次の日の朝まで学校で夜警の過密スケジュールである。
ゼミの宿題だってやらなきゃいけない。
音楽だってもっと聴かなきゃいけない。
7月も怒涛のリリース・ラッシュである。
僕は、まだまだ動きを止めるわけにはいかない。
今の僕は、底抜けに、死ぬほど、ポジティヴである。

バイトが終わったら高校時代の知り合いから電話がかかってきていた。
夜も遅いからメールで返事をしたところ、
どうやら就職が無事に決まったらしい。
しかも第一希望で、目指していたところに。
すごい。
やっぱり。やっぱり。やっぱりだけど、あの人は、すごい。
あの人の夢を見るエネルギーはすごい。
僕だって負けてはいられない。
俺の人生は、冗談じゃなくて、本気で狂ったんだ。
おかげで、僕は今もまだ生きてる。
僕の生きるエネルギーだってすごいんだぞ。
俺だって絶対に負けない。
このエネルギーは、まだまだ終わりそうにないのだ。
本当に果てしない道程だけど、あの人がまだ進み続けるなら、
僕だってまだまだ進める。
夢、叶えてやる。
俺の夢は、でっかいんだぞ。


ベックの新作が8月に発表される。
今はプライマル・スクリームと平行してベックの過去作を聴いている。
今日のCDレヴューは、ベックの記念すべきスタジオ・アルバム第一弾。
かの有名な「負け犬ソング」の収録されているこのアルバムである。

Mellow Gold
/ Beck

beck.jpg

「オルタナティヴ」の本当の中身
 自給4ドルの低賃金バイト生活を送る正真正銘のワーキング・プアだったベック・ハンセン。斜陽を極めお先真っ暗のそんな男が、屋上から地面に急降下する自分をケラケラと嘲笑うかのように「俺は負け犬、さっさと殺しちゃえばー?」と歌ったその時、世界は変わった。この歌は、ベックが他でもない自分自身に向けたジョークだった。ただ、同時にこの歌は、消費社会という一方的な大人の事情によって進められた80年代を過ごし、そんな時代という不可逆な流れに対する閉塞感を露わにしたニルヴァーナに共鳴し、それでも根本的には何ひとつ救われなかった当時の若者の厭世観を、見事に言い当てていた。たとえそれがジョークであっても「今、ここ」でしか成り立たない言葉、新しいおもちゃを手に入れた子どもみたいに思いつくアイディアを片っ端から無邪気に採用する奇抜な編集センス、誰の耳にも明らかに新しいこの音楽を、人はとりあえず「オルタナティヴ」と呼んで対処することしかできなかった。ベック自身は、「オルタナティヴ」なものを作ろうとか、時代の空気を言葉にしようとか、そういうことには恐ろしく無頓着だったのだと思う。何にも縛られることなく、勝手気ままに自分のやりたいことがやりたかっただけだろう。ベックにとっての「自由」には、きっとそういう単純な意味しかないはずだ。そういう意味では、彼はまだまだ救いがたい子どもだった。だからこそ、ここで図らずも背負ってしまった、次第にただの便利な言葉として形骸化する「オルタナティヴ」という価値観をぶち壊すために、ベックは傑作セカンド『オディレイ』を作ることになるわけだが、『メロウ・ゴールド』~『オディレイ』の流れには、本来は「オルタナティヴ」を破壊する営みであるはずが、そこで本当の中身を伴った本物にしてただひとつの「オルタナティヴ」をベックが生み出してしまったような奇跡的なパラレルを、個人的には感じている。
02:22 | 日記 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

Tシャツ

hard rock cafe
母親から荷物が届いた。
なんでも仕事の付き合いで大阪のハード・ロック・カフェに行ったようで、
そこで買ったTシャツやら缶バッジやらのハード・ロック・カフェ・グッズを、
これでもかというほど送ってきてくれた。
写真はTシャツのデザイン。
やわらかいアコギの絵の下にある名前は、
なんと、我らがロック界のボス、ブルース・スプリングスティーン。
この名前を見ただけで一発でしびれてしまったのだけど、
これはバックのデザインで、フロントにはしっかりとハード・ロック・カフェのロゴが。

うーん、ハード・ロック・カフェかぁ。
高校の時の英語の先生がよく着てたなぁ。
授業中に眠ってるやつの名前を、
まるで2kmぐらい先にいる人を呼ぶようなよく通る声で呼んでしまう面白い先生だった。
友達の間でも、その先生のハード・ロック・カフェ・スタイルは、頻繁に物議を醸していた。
そんな訳で、ハード・ロック・カフェは、高校時代の、ある種のトラウマである。
これは着にくい。
実に着にくい。
さて、どうする。

ちなみに、今日の僕のスタイルは、
カゴメのロゴがしっかりと入ったケチャップTシャツである。
これもある意味ハード・ロックか。


久しぶりにパール・ジャムのアルバムを紹介。
02年発表の7作目。
新生パール・ジャムは、初のセルフ・タイトルとなった8作目ではなく、
ここから始まったと僕は信じている。
内容もジャケットも良い。

Riot Act
/ Pearl Jam

Pearl Jam-Riot

確信は、自己の中にこそある
 『ノー・コード』以来、深く暗い内省の海の中で必死に何かをつかみとろうとしていたパール・ジャム。何も見えない真っ暗な海の中で、彼らはついに光を手にする。だがしかし、このアルバム発表時のバンドの状態は、決して良いものではなかった。前作『バイノーラル』時のヨーロッパ・ツアーで、ライブ中に観客9名が圧死するという深い悲しみに包まれながら製作された本作。収録曲“ラブ・ボート・キャプテン”の中で、エディはその事故について「知りもしない友達を9人失った」と触れている。それでも、“ラブ・ボート・キャプテン”はもちろんのこと、アルバム全体を覆う空気そのものが決してネガティヴな重みを帯びていないのは、なんだろう。果てしない苦しみと悲しみに溢れた海の中で、パール・ジャムをポジティヴな方角へと導いたのは、たったひとつの確信である。「既に歌われた言葉だが、言い尽くすことはできない。お前が必要としているのは愛だけ」「俺は自分の思いだけを知っている。俺は俺自身のもの」「それでも俺は走り続ける。向かう先は、すべて、もしくは、無」など、本作から引き出される言葉の数々が持つ精度の高さは尋常じゃない。先天的な才能や偶然だけでは決して生み出すことのできない、心を焼き尽くすほどの絶望を経験したものだけが語ることを許された確信。言葉の持つ凄まじい説得力が、その確信の芯の強さを裏打ちしている。各メンバーがそれぞれに、これまで以上にソングライティングに積極的に関わり、バンドとしての結束をより高めたことも大きかったのだろう。長きに亘る彼らのキャリアに最も力強く屹立する傑作アルバム。このアルバムが一番好きだな。本作でのあくまでポジティヴな重さが、次作『パール・ジャム』での10年越しの闘争の目覚めへと繋がることはもはや言うまでもない。
01:26 | 日記 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

この本を読め

 数ヶ月前に『この映画を観ろ』をやったが、今回は『この本を読め』、である。前回に引き続き、これをやる動機はできるだけ多くの人に読んで欲しいというシンプルな願い。ただそれだけである。決定的な数作品だけを選び抜いて『この音楽を聴け』もいつかやりたいのだけど、音楽の場合は選び始めたらキリがないだろうし、いつも紹介してるから十分かなとも思ってしまう。とにかく、僕はこういうことをするのが好きだ。こういうことなら、どこからでもコミュニケーションを始められるような気がする。逆に言えば、これ以外からはなかなか会話の糸口すらも見つけられない。この情けない性分だけは、実に悔しいがなかなか変えられない。
 本を読むのは好きだけど、僕は日頃あまり読書をしない。今までに読んできた本の数も、高が知れてる。でも、僕は同じ本を何度も読む。特に気に入った作品は本当に何度も何度も読む。もしかしたら、だからこれまでに読んだ本も多くないのかもしれない。今日紹介するのも、偉そうに『この本を読め』なんて言いながらもたったの二冊である。貧相な読書体験の中から選びぬいた二冊。というか、二人の作家について。この二人の作家の作品は、片っ端から買いまくって読み漁った。今でも読み返している。一人は、非常に文学的なレベルの高い流麗な文章を書く人で、でも作品に込める思いは、毎回毎回途方もなく、熱い。もはや言うまでもなく、僕は熱いのが好きな人である。もう一人は、文学として正当とは言えないタイプの、要はエンターテインメントとしての立ち居地で活躍する作家。正直エンターテインメントなんてタームじゃこの人について語るにはぬるいと思うのだけど、でも一般的にはそうなんだろうな。とにかく僕には特別な存在感の作家さんです。これをきっかけにこの二人の作家の作品を読んでくれる人がいたら、僕は素直に嬉しい。前置きはこれで終わり。
 この本を読め。


烈火の月
/ 野沢尚

烈火

燃える虚構、冷める現実
 身も蓋もないことを言ってしまえば、野沢尚の長編作品ならどれでも良い。ただ一番最近読み返した作品がこれだった。ただそれだけである。野沢尚は、僕が知る数少ない作家の中で、最も真っ当に本の世界で「生きようとした」作家である。真っ白な世界を溢れ出る言葉で埋め尽くして、その中から「生きる意味」を必死で探し当てようとした作家である。野沢作品はどれもジャンルやカテゴリーといった形式的なタームを徹底的に無効化して、最終的にはそこに行き着くようになっている。「生きる」という究極的に答えの見えない問いに意味を与え、たとえどんなに悲しい過去を背負っていたとしても「それでも生きる」という姿勢を全力で肯定する。でもだからこそ、野沢作品はとても重い。自分の未来を自分の力で約束して生きるという希望は、とてつもなく重いのだ。本作では、野沢尚が作品を書くことで形にしようとした夢と希望の在り方が、直接的すぎるぐらいの彼の言葉で語り尽くされている。ぜひストーリーの中で、彼の熱いロマンに触れてみて欲しい。でも彼は、本の世界では一切迷いを見せずに自身のロマンをほとんどすべての作品で貫いているにも関わらず、実生活では、それができなかった。自分の中のありったけのロマンを投射した作品を書くことは、それを実践できない自分の現在位置を否応無しに認めなきゃいけない行為にいつの間にか発展して、その残酷な刃は彼を攻め立てたんだろうな。自分の現在位置とロマンの間に横たわる果てしない落差に、彼は負けた。04年6月28日、野沢尚は自身の事務所内で首を吊り、未来を約束することを完全に放棄した。バカヤロウ。


慟哭
/ 貫井徳郎

慟哭

貫井徳郎は、最悪だ
 本作の文庫版のタイトル・ページが好きだ。ページの中心を独占する「慟哭」の二字。文字そのものがドス暗いベールを纏っている。次のページをめくることに抱いてしまう背徳感。でもその文字には、すべてを吸い寄せるブラック・ホールのイメージと激しく重なる、絶望的なまでに強烈な引力がある。つまりこれは、貫井徳郎の世界である。はっきり言って、貫井徳郎の作品には生きる糧になるような健全な魂は、ない。彼の作品は、暗く残酷な世界観で読み手を背徳の端っこまで引きずり込む危うい刺激と、時系列を巧みに操って読み手をだます構成力のみによって成り立っていて、それを「実体がない」と否定するのは簡単だ。でも、本作に抱いたあの特別な、一種のカタルシスを越える読後感を、僕は未だに感じられずにいる。なかなか関連性の見当たらない複数の話が同時進行し、それらが突如、光の速さで交差する瞬間のなんともいえない絶頂感。それに作品全体を包む背徳の空気が相俟って、本当に、最悪なのだ。僕、悪いことしちゃった。お父さんお母さん、こんな本読んじゃって、ごめんなさい。そうなったらもう最後である。イケナイこととわかっていながら、貫井徳郎の作品を読むことは秘密の快感になる。本作は鮎川哲也賞をなぜか取り損ねた彼のデビュー作。今後の作品では早くも手癖が露呈してしまってマンネリな感じが否めないが、それでも『プリズム』や『愚行録』など、独自性を活かした良い作品を発表している。それにしても、『プリズム』はまだしも『慟哭』に『愚行録』なんてタイトルはないよな。やっぱり、貫井徳郎は、最悪だ。
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