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夜中でも僕は熱い

All or Nothing
/ The Subways

All or Nothing



これがロックンロールだ
 トリックもギミックも意図もなければ変哲も屈託もないロックンロール。「ロックンロール」としか形容しようのないロックンロール。それを今やってのけてしまう勇気はすごい。もっともっとかっこいい音楽はいくらでもあるのだ。デビュー作から実に三年越しとなるサブウェイズのセカンド・アルバムである。タイトルが素晴らしく良い。ロックンロールは、やはりこうでなくてはいけない。
 本作の発表に至るまでの三年の間に、サブウェイズは余りにも重大なひとつの問題にぶち当たっていた。ボーカルのビリーの声帯がイカれてしまい、もう二度と声が出せなくなるかもしれないという最悪の診断を受けていたのだ。それは、メンバーにサブウェイズとしての音楽活動の終焉を突きつけていた。それでも彼らが曲を書き溜め、リハーサルを繰り返し、本作発表までなんとか漕ぎつけた理由を、僕は「ロックンロールに対する信頼」としか答えることができない。そういえば、サブウェイズは最初からそういうバンドだった。デビュー作で彼らがあんなにも力強く前のめりになれていたのは、人生がどれだけ重たくて苦しいものであっても、それでも揺るぎない「何か」を内に秘めていたからだ。自分の中に最後まで信じ抜けるものさえ持っていれば、人はどんな時でもポジティヴに生きることができる。「待っている人がいる」という信頼のみをガソリンに転化して、満身創痍の状態になっても走り続けたあの男と同じだ。夢も見られずに、希望も抱けずに、ロマンも持てずに、ロックンロールがやれるか。当人以外には絶対に理解し得ないこのありがた迷惑なほど無責任なポジティヴネス。これは、ロックンロールの奇跡である。
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03:27 | 音楽 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

本日二度目

カレー
冷蔵庫があんまりにも寂しいありさまだったので、
買物に出かけて、今日はカレーを作ってみました。
なんだか変にツヤがあって気持ち悪いですが、
それは決して僕の料理の腕が悪いということではなくて、
絶対にカメラの性能が悪い。
実物はもっとおいしそうなんだけどな。
ルウは甘口、具は小さいのが好き。
カレーと一緒にビールを飲むのは良いですね。
これにらっきょうがあれば文句はないのですが、それはわがままというやつです。
福神漬けより断然らっきょう派。
食べ物の趣味は結構オヤジです。

さてさて、今日のCDレヴューは新作を発表したばかりのサブウェイズ。
最新作のセカンドではなくて、高校の時によく聴いていたファーストです。
一度書いたことがあるけど、書き直します。
当時はシャーロット嬢に萌えてただけだったな。
いや、ほんと、それぐらい可愛いんですよ。
でも、内容は、熱い。
なんせ「若さよ、永遠に」である。

Young For Eternity
/ The Subways

Young for Eternity




かつて、ロックンロールはここから始まった
 一発KO確実の“ロックンロール・クイーン”や“オー・イエイ”も良いが、誰が何と言っても“シティ・ペイヴメンツ”である。「町の歩道を歩いていると、まるで頭の中で引き金が引かれる気分/でもそれは俺にとって唯一の救い/それだけで十分だ/歩道に座り込む」。この歌は、これとほとんど同じことしか言っていない。しかしこのたった数行の主張は、あまりにも的確にロックンロールを言い尽くしている。サブウェイズが05年に発表した本作は、デビュー・アルバムかくありなんとでも言うような衝動的なエネルギーと荒々しさですべてをなぎ倒しながら駆け抜ける実にアグレッシヴな一枚なのだが、どの楽曲も根底に居座っているのは、単調で先の見えすぎる人の流れからフラフラと外れて歩道の隅に座り込んでしまうようなダルさ、つまりは若者特有の倦怠感だったりする。心に重くのしかかるそんな倦怠感に風穴のひとつでも開けてやるために、無心にギターを掻き鳴らしたり、必死で言葉を喚き散らしたり、レコード買って聴きまくって自分を正当化したり、なんて不器用なのか安っぽいのかわからない紙一重の救いを求めて、それでも僕たちはロックンロールという価値観を必要としたのではなかっただろうか。僕なんてギターすらろくに握ったこともなく、いつも部屋の一角に小さく座り込んで「ロックってなんだろう」と考え込んでいる根暗の引きこもりである。かっこよくてなんとなく「ロケンロー!」なやつ聴けりゃ満足、なんて訳にはいかないのだ。そんな男にでも一瞬の居場所を照らしてみせる“シティ・ペイヴメンツ”の光。これこそが正真正銘のロックンロールの原石、ラフ・ダイアモンドの輝きである。
21:03 | 日記 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

お腹減ったな・・・

冷蔵庫
そうだ、買物に行こう。
味噌でも舐めておけと言うのか。
13:35 | 日記 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

世界を変える

このブログでは何度も言っている。
これからも、何度だって言うつもりである。
ロックは、前に進み続ける指向性を定められた音楽である。
今、自分がこれまで聴いてきたすべてのロック作品を振り返って、
唯一断言できることは、前に進まないロックなんてひとつもなかったということである。
前に進めないロックになんて、用はない。
前に進めない自分なんて、クソ喰らえである。
俺は今でも、こんなにも前に進んでいる。
ざまぁみろである。進めないと思っていた自分に。
バイバイ。俺は、まだ進むのを止めない。

今月はなんだか訳のわからないことばかり書いている。
そういう月なのだ。
もっと大人になって、例えば自分の子どもなんかができたりして、
その子が今の自分ぐらいの歳になった時、
僕は、ロックに夢を見ていた年頃だったなぁと
自分の若い頃を思い返したりするのだろうか。
それとも今以上に、ロックに、自分に、何かを見出しているだろうか。
「夢と希望」なんて恥ずかしい言葉を、照れながらも、
堂々と口にすることができるだろうか。
これはロックの幻想である。
薄っぺらくて、脆くて、打ち砕くことなんて容易い。
これを置き去りにして歳を取るのなんて、取るに足りない。楽勝である。
幻想は、いつだって捨てられる。

ただ、ロックが前に進むことを運命付けられている以上、
それは自分にも例外なく当てはまるということである。
「夢と希望」を鳴らすことができなくなった時、
それを内省の奥深くに完全に封印してしまった時、
ロックは、ロックでなくなる。
前に進むロックは、終わる。
「夢と希望」というロック幻想を捨て去った時、
前に進むはずの自分は、壊れて、立ち止まる。
僕は、まだまだ進める。
前に進むことを止めた自分なんかが、
他の誰かのことも自分自身のことも幸せにするなんてこと、できてたまるかってんだ。
最後の最後に人の心を打つのは、前に進み続ける強烈な意志である。
それを失ったロックなんか、自分なんか、誰の心にも届きやしない。

今日はサブウェイズやフラテリスを、過去の作品も振り返りながら聴くのである。
夜食買いに行こ。
甘いものが欲しい。
23:29 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

プライマルな夜に乾杯

プライマル
プライマル・スクリームである。
来月の16日に、06年作『ライオット・シティ・ブルース』以来の、
プライマル・スクリーム待望の新作が発表される。
その名も『ビューティフル・フューチャー(“ピーポー”ではない)』。
08年も早いものでもう約半分が過ぎ、
マーズ・ヴォルタ、マドンナ、コールドプレイ、ウィーザー、R.E.M.など
多くの大物たちが素晴らしい新作を発表し、
この先にもベックやオアシスなどの決して見逃せない重要作の発表が予定されている。
そんな中でもプライマル・スクリームの新作は特に注目度の高い作品である。
これだけの数のオリジナル・アルバムを発表してきた、
もはやUKロックの大御所的なビッグな存在感のバンドである。

だがしかし、恥ずかしい話だが、
実は僕は今まで彼らの音楽をあまりちゃんと聴いてこなかった。
90年代ロック史を語る時に必ず名前の挙がる『スクリーマデリカ』でさえ、
僕はまだ聴いたことがない。
なんだか面倒くさくて、比較的最近のアルバムしか聴いてこなかった。
でもやっぱり聴きたい。これはどうしても抑えられない。
そこで思い切ってオリジナル・アルバムを全部買い揃えて、
今夜はプライマル・スクリーム・マラソンでもやってしまいそうな勢いです。
もちろん右手にはビール。そして梅酒が待機中。
今夜は長くなりそう。

先ほどセカンド・アルバムの『プライマル・スクリーム』を一旦聴き終えて、
いたく感動したのでキーボードを叩いています。

プライマル・スクリームは、作品ごとに、
カメレオン的に自身のサウンドの色を変質させてきたバンドである。
それは時にブルージーなブルース・ロックの模範であり、
エレクトロニック・サウンドに求める鋭く尖った刺激であり、
その路線変更の柔軟さが彼らの大きな魅力であることは間違いない。
しかし、僕みたいなまずは「言葉」からロックを始めようとする者は、
そういうややこしいサウンド理論の細かいところは数回聴いただけでは
いまいちピンとこなくて、要はそういう部分には非常に鈍いのだ。
やはりロックは「言葉」である。
「言葉」を封じ込めたロックなんて、いったい何が面白いのか。
だから僕は、最高にカメレオンなプライマル・スクリームの作品を聴くことが、
これまでずっと億劫だったのだ。

でも、僕はもうひたすら頭を垂れるしかない。
プライマル・スクリームは最高の「音」のバンドであり、
また、最高の「言葉」のバンドであった。
僕は今さっき、それに気付いてしまったのだ。
いや、ロック・ファンとしては気付くのが恐ろしく遅いんですけどね。
本当に今更。お恥ずかしい。

セカンド・アルバムの『プライマル・スクリーム』には、
“ユア・ジャスト・トゥ・ダーク・トゥ・ケア”という曲が収録されている。
以下はその曲の歌詞からの抜粋。

「こんなにも堕ちてしまったら誰もおまえを救えない
こんなにも堕ちてしまったら誰もおまえを救えない
誰もおまえを救えない 誰もおまえを救えない
こんなにも堕ちてしまったら
おまえ以外には誰も
おまえ以外には誰も
自分自身でやらない限り
おまえを救うことはできないんだ」

これは、僕が最近ようやく、生まれて初めて実感した、ロックの夢と希望である。
何も変えられない、誰も動かすことのできない、
どうしようもなく無力な自分を救うことのできる唯一の存在としてある、自分。
そんな究極的な矛盾に身を沈めながら、
それでも全力で前に進むことを選び抜く勇気。
それが、ロックというものが示す唯一にして最大の夢と希望である。
CDを買ってその音楽を実際に聴いたものだけにしか与えられない、
決定的に普遍性に欠ける自己満足の押し売り。
つまりは、ロックという、嘘である。
もはや「信じている」のか「騙されている」のか、わからない。
ただ、その音楽を再生している間だけは、嘘でも夢と希望なのである。
全身全霊をささげて、騙されてやるのである。

現在のところ、このセカンドから6作目に当たる『エクスターミネーター』まで、
僕のプライマル・ディスコグラフィーはスッポリと抜け落ちている。
だからこの間の彼らの変化や動向は、僕はまだつかめていない状況にある。
だがしかし、8枚目の『ライオット・シティ・ブルース』で、
実に12年の時を経て、彼らが“ユア・ジャスト~”で歌ったロックの夢と希望は、
思わぬ形でひとつの実りとして鳴り響き、バンドは大躍進を見せている。
それを象徴しているのが、『ライオット~』の一曲目に収録された、
リード・シングルでもある名曲“カントリー・ガール”だ。
以下は“カントリー・ガール”から。

「カントリー・ガール 俺の手を取って
この病んだ土地から連れ出してくれ
俺は疲れて 弱って やつれ果ててる
盗みも働いたし 罪も犯した
ああ 俺の魂は汚れている
カントリー・ガール だけど持ちこたえて行かなきゃいけないんだ」

「持ちこたえて行かなくちゃ
ずっとめげずに
頑張り続けなくちゃ
ライオット・シティの憂鬱に
取り憑かれても」

ブルース・ロックの享楽的な部分だけを強調して歌い狂うこの曲で、
プライマルはロックの夢と希望、はたまた嘘を、祝福している。
開き直って楽観的に騒いでいるわけではない。
ただ、ひたすらロックであり続けるために。ロールするために。
それだけのために、ボビー・ギレスピーという男は、
ロックの夢と希望、そして嘘を、どうしようもなく信じている。
ローリング・ストーンズの系譜なんて素足で踏みつけて、
礼儀もマナーもビリビリに破り捨てて馬鹿騒ぎする男。
ロックのためなら毎秒アホになれる、世界のギレスピーである。
ロックなんて、所詮は薄っぺらい嘘っぱちである。
それでも、ここには中年オヤジになってもその嘘に全力で騙されている男がいる。

偉そうなこと語っても実生活ではそれを何ひとつ反映できないヘタレな僕も、
ただのアホでしかないのだろうか。
でも、僕は今、ものすごく嬉しい。
プライマル・スクリームに、猛烈にしびれている。
ロックンロールに感電している。
新作、めちゃくちゃ楽しみにしてやる。
これまでの作品、全部めちゃくちゃに聴き漁ってやる。
もう本当に、ロックはこれだから止められないのである。
03:53 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

言葉にし難い傑作

Seeing Sounds
/N.E.R.D

シーイング・サウンズ


音楽に最も求められるものの存在について
 テレビで某大手音楽会社の株主優待ライブの映像を何となく観ていたら、しばらく活動を自粛していた歌手はステージの上で歌いながら涙を流し、アメリカで音楽の勉強をして帰ってきたかつてのアイドル歌手は「これからも歌を皆さんに伝えていきたい」と感極まっていた。初めて思ったことではないけど、それを観た時、なんだか音楽はあまりにも美しいものに図々しくも成り上がってしまったような気がして、僕はとても居心地が悪かった。二人のやったことは絶対に間違っていない。誰も責めることなんてできるはずがない。でもだからこそ、僕はそのあまりの「正さ」に息が詰まりそうになった。人々に愛される音楽は、その根底に渦巻く複雑な何かをすっかり失ってしまったような気がした。今更、だけどね。
 先週、大学のある授業で、アメリカのメインストリームにおける黒人音楽の歴史を簡単に振り返ることがあった。それで改めて実感したのだけど、ちょうどMTVが台頭し音楽のエンターテインメント性が強調され始めた80年代から、黒人音楽も御多分に漏れずその意義を急速に変質することを求められたような印象を受けた。それまでは、「黒人が歌う」ということそのものにどうしようもなく必然的な「悲しみ」が含まれていたのだ。その「悲しみ」の正体とは、アフリカから強制的にアメリカに運び込まれた黒人たちがもう故郷には帰れないことを自覚したその瞬間から脈々と受け継がれてきた、黒人だけが共有できる黒人音楽の本当の中身であり、そんな歴史の延長上に今もなお鎮座し続けている黒人差別から生まれる、黒人が歌を歌わなければならない根底の意味だった。今はどうだろう。現代の黒人音楽を代表するスタイルであり、メインストリームを圧倒するほどの巨大な力を手に入れたヒップ・ホップは(もちろんすべてがそうではないが)、「カネ、車、オンナ、マッチョ」だけで語れるいけ好かない音楽に自ら価値を下げてしまったと僕は考えている。ヒップ・ホップには、もう闘志の欠片すらも感じられない。僕が知っているそもそものヒップ・ホップとは、どんな音楽よりも格段に言葉の比重を高め、それを「武器」にまで昇華させた「闘争」の表現である。そこにはやはり、醜悪な社会と向き合わなければならない必然があった。
 株主優待ライブの映像を観て僕が思ったことと、ペラッペラに骨抜きされた黒人音楽の現状には、美しすぎる形のまま巨大化してしまった現代の音楽が抱えている恐ろしく根源的な「欠落」が見える。「必然性」でも「熱意」でも良いが、その失われた何かを最も手っ取り早く伝える言葉。人は、それを「魂」と呼ぶ。そう、音楽は、時代の流れと共に「魂」を失いつつある。「魂」からでしか生まれるはずのないロックでさえ、もう「魂」ごと震えているような作品にはそうそうお目にかかれない。でも、僕が音楽に最も強く求めているのはそこである。「ポップ」でも「キャッチー」でもなく、すべてを塗り変えてしまうようほどの強烈な意志を持った「魂」。音楽はそんな「魂」の力のみによって更新され、前に進み続けてきたはずだ。テクノロジーの発展なんて二の次三の次である。なめてもらっては困る。
 このアルバムを聴いて、「売れ線」とか「ファッション的」とか言ってるやつがいたら、悪いことは言わないから本当に音楽を聴くのなんて止めた方が良いと思う。多分、君が音楽から新たな何かを見つけることは、もう死ぬまでないと思うから。それぐらいこのアルバムはすごい。単刀直入に言ってしまえば、本作でもN.E.R.DはN.E.R.Dだった、ただそれだけのことである。こいつらやっぱり最強。N.E.R.Dは、現在のアメリカが誇る最高峰のロック・バンドである。
 念のために言っておくが、N.E.R.Dはヒップ・ホップ・グループではない。勘違いのR&B集団でもない。黒人の安全圏内から大胆に飛び出して、ロックの首根っこを鷲づかみにした、紛れもないロック・バンドである。ネプチューンズ二人の編集センスがすごいだけじゃないの?なんて思われていそうだが、いや、もちろんファレルとチャドのコンビは最高である。「今一番イケてるもの」を音として具体化させることに懸けては天才的な才能の持ち主である。ただ、彼らがN.E.R.Dでやろうとしている音楽は、もっともっと本質的な意味での「ロックであること」に重点が置かれている。
 一旦発表された機械によるプログラム重視のファースト・アルバムを、納得がいかないからという理由で収録曲すべてを別のロック・バンドに演奏し直してもらって新たに作り直したというのは彼らの有名な話。すでに発表された作品を録り直すなんていう無茶も、自分たちの作品に強烈な何かを吹き込むための冷静な判断だったんだろう。セカンド・アルバムでは、彼ら自身が演奏することでエグイくらいの肉体性を放出することに成功した。スタイルとしてはヒップ・ホップもファンクもジャズもロックも一緒くたにぶち込んだ一種のミクスチャーとしての体裁を保っているが、N.E.R.Dではそんなスタイル云々よりも「自分たちはミュージシャンである」という意地とプライドが熱く立ち上ってくる。それは、自分たちが実際に楽器を取って演奏しているかどうかではなく、「音を鳴らす」という音楽の始まりの場所に彼らが求める「必然性」であり、「熱意」であり、「魂」だ。スタイルはその後についてくるものでしかない。そういう意味で、どれだけ機械を前にして音楽を作り上げていたとしても、N.E.R.Dにおいての彼らは音楽への深い理解でもってとてつもなく意識的なミュージシャンとしてあろうとしている。
 『シーイング・サウンズ(音が見える)』と題された本サード・アルバムは、そんな彼らのひとつの高みといっても良いアルバムだと思う。ファースト・アルバムでは未完成に終わった、機械から生まれるサウンドに「魂」を吹き込むことに大成功している。前作のような野生的な欲求は抑えて最高にクールでかっこいい音を探り当てながら、どんな美辞麗句も置き去りにしてしまうような、「魂」としか言えない何かが激しくうごめいている。黒人音楽が背負い続けてきた「必然の悲しみ」はもう消えつつある。そこを前提にした、それとは別質の、音楽を更に深く掘り下げた極点でN.E.R.Dが見つけた「魂」。それが、震えている。ヒップ・ホップがその根源的なパワーを見捨ててその周りでいつの間にか逞しく鍛え上げられた「筋力」のみでシーンにのさばり、大衆的なメインストリームの音楽ならまだしもロックまでもがそれに対する明確な危機感を鳴らせずにいる今だからこそ、彼らはこの作品を作ることができた。本来のロック・バンドよりももっと本質的な問題と向き合い、自身を前に進めるロック・バンド。それがN.E.R.Dである。08年、今のところ最も音楽そのものの在り方に接近し、最も「魂」を震わせている作品。多分、音楽の底の方まで、彼らには「見えている」んだろうな。ラカンターズやコールドプレイの新作も素晴らしかったけど、個人的には断然こっちを支持。
11:39 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

美しき人々

今朝、大学に向かう前に何気なくワイドショーを観ていたら、
なんだか不意に楽しくなってきた。
なんでも“Beautiful People”なるコミュニティ・サイトの日本版が始まって、
ジワジワと人気を集めているよう。

ビューティフォー・ピーポー(これでも英語専攻)。
なんて浅はかで単純な、
でも気持ち良いくらいにサイトのコンセプトを丸裸にしたネーミング。
もはや言うまでもなく、
「美男美女」だけが参加することを許されたコミュニティ・サイトである。

本国アメリカでは12万人以上が参加している人気サイトらしく、
日本でも現在およそ2000人が登録されているようです。
参加資格は「美男美女」であること。ただそれだけ。
すでに会員になった多くの「ビューティフォー・ピーポー」たちが、
参加希望者の容姿が「美男美女」かを判断して、
過半数以上の支持を得られたら参加を許されるみたいです。
ネットの世界で、「美男美女」と認められるわけですよ。
男性の場合は社会的な地位の高さまで求められるらしい。
僕なんか、秒速ではじかれちゃうんだろうな。
でも面白いと思う。
僕はものすごく興味がある。

オフ会の映像なんかもしっかり観てしまったのだけれど、
やることはひたすら自分の「ビューティフォー」なところの自慢。
親がホテル持ってるとか、俺ならどこの店でも顔パスとか。
参加してる人たちはいけ好かない連中ばっかりだったけど、
サイトのアイディアそのものは、わかりやすくて僕は好きだな。
ネットの世界には、匿名という隠れ家に引き篭もってるくせに、
だからこそ自分の本性が曝け出せるという、
なんだか「陰湿さ」を「自由」と言い違えたようなバカが多いけど、
“Beautiful People”のコンセプトは、そんな中で、とても清いと思う。
まぁ多分中には某mixiみたいに
ヨコシマな気持ちで参加するやつがいっぱいいるだろうから、
コンセプトの本当の魅力は十分に発揮できずに終わるんだろうけど、
正直な話、ショーモナイと思うけど、でも気持ち良い。
「美男美女」が寄り集まって存分に楽しんでもらえれば良い。

自分の中の「美しい人」って、どんな人だろう、
ともう答えはわかりきっているのにとりあえず考えてみる。
うん、これだと思う。
「自分の中のピュアなものを守り続けている人」、である。
それが最高に「ビューティフォー」な人だと思う。

勘違いしないで欲しいのだが、
「ピュア」といっても「純粋」とか「世間知らず」とかそういう意味ではない。
「かっこいい」とか「可愛い」とかいうことよりも、
もっと内側の方で、タフであり続けるものを持っている人である。
それを、自覚せずとも守り抜こうとしている人である。
そういうピュアであり、タフなものを持っている人は、
黙っていてもそれそのものが圧倒的な存在感を放つものである。
そんな人、そうそう出会えるもんじゃない。
でも、数少ない心当たりはある。
僕は、そんな人になりたい。


ボブ・ディランの65年作。

Bringing It All Back Home
/Bob Dylan

ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム


革命前夜のきらめき
 ボブ・ディラン初期フォークの傑作を聴きたいなら『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』をお勧めする。ロックの表現形態に移行してからの作品なら『追憶のハイウェイ61』と『ブロンド・オブ・ブロンド』だ。フォークからロックへ。ボブ・ディランが自身のスタイルを大きく変えた60年代において、このアルバムの立ち居地は良く言えば変革における必然的なプロセスのひとつであり、悪く言えば移り変わりの狭間で中途半端にぶら下がっている作品である。それはどちらでも良い。ただ、LP盤での発表当時、A面にロック・サイド、B面にフォーク・サイドを収録という非常にわかりやすい形で明らかな分岐点を記録した本作が、彼のキャリアにおける重要作であることは間違いない。アルバム発表と同年に行われたフォーク・フェスティバルで、ステージにエレキ・ギターを持ち込んだボブ・ディランに保守的なフォーク・ファンが怒りを露わにし、いったん裾に引っ込んでアコギに持ち直して再びステージに立った彼が本作のラストを飾る“イッツ・オール・オーヴァー・ナウ、ベイビー・ブルー”を眼に涙を浮かべながら歌ったのは有名な話。フォーク・ファンからは罵声を、若者からは歓迎を大々的に受けたロック的なスタイルへの以降だが、本作ではまだフォーク・サイドに分があるような気がする。彼のストーリー・テリング特有のどうしようもなく言葉が溢れてくることへの一種の高揚が感じられるのはフォーク・サイドの方だ。ザ・バーズのカバーで有名な“ミスター・タンブリン・マン”も収録されている。でもこれの半年後には『追憶のハイウェイ61』を発表して完全にロックをモノにするんだから、やっぱり本作は至極前向きに受け止めるべきプロセスのひとつなんだと思う。だからこそ、彼はステージで泣いたんだろう。
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ひとり

コインランドリーに行ってコタツ布団を洗濯してきました。
6月も終盤に差し掛かったというのに、
未だにコタツを出していたという体たらくです。
いつも外ではビーサンで過ごしているのに、家ではコタツ。
ここ数日はコタツの隣に扇風機が置いてあるという混沌とした状態に。
何たる矛盾。
でも、矛盾を抱えずに生きている人はこの世にひとりもいません。
僕もそんな世界の「ひとり」であるというだけ。


ところで、最近YUKIの“ロックンロール・スター”という歌をよく聴きます。
青春回顧の歌にも聴こえるこの曲ですが、決してそれだけでは終わらない。
この曲には、僕がYUKIを支持する理由が詰まっている。

「ロックンロールスター 夢見てた
本気で世界を 変えようとしてた」

青臭い。
切ない思い出をめくるようなこの曲。
YUKIは、世界を変えられないことをもう知っている。
自分の言葉が世界を染め直すことはないと、自覚している。
それでYUKIはどうしたのか。
世界を変えることなんてできないから、立ち止まったのか。
夢を停滞させたのか。
違う。
YUKIは、それでも止まらなかった人である。
夢を終わらせなかった人である。

これは、ロックの丸裸の姿である。
世界を変えられないという事実に直面して、
それでも「変えられる」ということをバカみたいに信じ込んでいる、
というのとは少し違う。
変えられないからといって、めそめそするのか。
立ち止まって、落ち込んで、すべてを止めてしまうのか。
大切なのは、それでも続けるということである。
世界を変えられなくても、僕たちは続く。
それでも、僕たちはきっと今よりも前に進める。
首の皮一枚の夢と希望。
それがロックの実態である。
前に進めなければロックじゃない。
夢と希望がなければロックじゃない。
ギリッギリでスレッスレの状態でも未来と繋がること。
それをビビッてるやつにロックなんて鳴らせやしない。

「ロックンロールスター We are together」

聴く度に、この一節に猛烈にしびれてしまう。
世界を変えられなくても、YUKIは前向きである。
おそらく、「世界を変られる」と信じていた頃よりも、ずっと前向きである。
臆病になる必要はない。
前に進まないロックなんて、どこにもないのだ。
なぜなら、前に進めない人は、どこにもいないからだ。

世界を変えられないYUKIを救ったのは、実はロックじゃない。
YUKIを救ったのは、YUKIである。
強引にまとめてしまえば、ロックなんていうものは存在しないのだ。
ある言葉を言い換えたのがたまたまロックと呼ばれているだけだ。
そして、そのある言葉とは、「自分」である。

僕は、多分、きっと、それを伝えたい。
今年の一番はこれだとか、今売れてるのはこれだとか、
この人の表現力はすごいとか、それはそれで大切だけど、
僕もよくそういうことを書くけど、
でも根底にあるのは、ロックの向こう側に「自分」がいることを認めることだ。
僕が音楽を聴いて、ここで屁理屈こねまわして何か書いて、
それは全部、「自分」と向き合うことから生まれている。

僕は「居場所なんてない」とか「自分なんていなければ」とか
「人生なんてクソだ」とか、そういうことを言うやつが嫌いだ。
僕がこの世で一番嫌いなタイプの人間は、自殺するやつである。
他人を殺すどうしようもない連中よりも、
それの百万倍くらい自殺するやつが嫌いだ。
逃げているだけである。甘えているだけである。
醜悪な世界からではなく、自分で自分を救うことから、逃げている。
一言で言うなら、アホである。
自分だけが特別に孤独で、可哀想な人間だとでも思っているのだろうか。
寂しい顔をしていれば誰かが助けてくれるとでも思っているのだろうか。
でも誰も助けてなんてくれやしないから、こんな世界じゃ生きていけないと、
マンションの屋上からアスファルトの地面に命をぶちまけるのだろうか。
いったい何を勘違いしているのか。
自分で自分のことが救えないのなら、他の誰かがどうやって救える?
誰も助けてなんてくれない。
自分を救えるのは、自分だけである。
ロックが伝えているのはそこである。
自分が生きてることにすらビビッているやつはダメだ。
そんなやつにロックの本当の意味がわかってたまるか。
「ロック」と「自分」は同義である。

ビビッてるやつに、「自分」なんて鳴らせやしない。
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完走

酒
コールドプレイ・マラソンをやり抜いて、昼間まで眠りこけて、
今日も夕方から酒を飲んでいる。
ロックを肴にして、もはやただの酒飲みと化して、過ごしている。
学校休んで夜も早いうちから酔っ払っていると聞いたら親は泣きそうである。
そういえば、音楽聴いてそのまま床で寝たから、
ずっと同じ一畳ぐらいのスペースだけで生活している。
これはいけない。不健全である。
夜中に散歩でもしに行こうか。
今日はN.E.R.Dの新作も聴くのだ。
まだうまくまとまってないけど、とりあえずコールドプレイの新作について。


Viva La Vida or Death And All His Friends
/ Coldplay

美しき生命 【初回限定盤】


初めて求めた「具体性」
 コールドプレイの音楽は、21世紀最高の「ストーリー無き」ロック・ミュージックである。いや、楽曲の背景にあるディテールを説明するためのストーリーを、彼らの音楽はこれまでまったく「必要としてこなかった」といったほうが正確かもしれない。それは、聴き手を表現の核心部分に導くための細かいストーリーを必要としなくても、彼らの音楽はすでに眩いほどの「本質」のみを照らし出す極めてラジカルな表現として完成していたからだ。そして、そんな一切の注釈を厳しく排除した彼らの表現は、だからこそ抽象的だった。感情の棘を削ぎ落とした徹底的な俯瞰力という才能。それこそがコールドプレイというバンドを美メロ・バンドの海から浮かび上がらせる一番の存在感だった。
 コールドプレイ・マラソンを無事にやり遂げた安心感からか、本作をいったん聴き終わった直後に爆睡してしまったので実はまだあんまり聴けていないのだが、とりあえず聴き終わった時の印象は、グリーン・デイの『アメリカン・イディオット』やマイケミの『ブラック・パレード』を聴いた時のそれと激しく重なった。つまり、「とことん明確」な「コンセプト・アルバム」ということだ。そして、それが何よりも本作のエッセンシャルな部分を伝えている。最終的に一曲目の“天然色の人生”に帰結するようになっているアルバム構成、印象的なパーカッションのリズム、コールドプレイ史上最も激しいギター・サウンド、一曲の中にまったく異なるヴィジョンを持ったチャプターが存在するという破天荒な試み、それらすべてがこれまでのコールドプレイの流儀とは明らかに大きく距離をとったところから鳴り響いてくる。そして、コールドプレイがこの明確なコンセプト・アルバムで掲げるテーマとは、アルバム・タイトルからも明らかな通り、ズバリ、「生と死」である。
 コンセプト・アルバムとは、文字通りひとつのある明確なテーマに沿って展開するアルバムのことである。そこに必要とされるのは、すべてを包み込む壮大な抽象性ではない。テーマの輪郭をはっきりと示す具体性である。クリス・マーティンの書く詞が本作で激変したとは思わない。ただ、本作を埋め尽くした言葉の数々が伝えるこのアルバムのコンセプトの中身が「生と死」という明らかな具体性を伴っているところが、これまでのコールドプレイの作品とは大きく違う。それだけ誤解は許さないということだろう。これまでの作品を「三部作」とまとめて、本作から新しいスタートを切ったコールドプレイ。そこにかける突破への意志の強さは、中途半端なものではない。まだそこまでしか言えない。散漫ですんません。08年、最も巨大な大衆性、話題性、批評性を兼ね備えている作品であることは間違いないです。
 個人的に面白かったのは、聴き手の好みでどっちから捉えてもいいように分断された対極が同居するコンセプトにしたにも関わらず、コールドプレイ(というかクリス・マーティン)からの本作に対するオピニオンが明らかに「それでも生きる」という生命力に思い切り傾いているところ。コールドプレイにも迷える感情が芽生えたか? これまでで一番好きなアルバムになりそうです。早くも新生コールドプレイの「次」に期待。
20:15 | 音楽 | comments (4) | trackbacks (0) | page top↑

コールドプレイ耐久

夜食とコールドプレイ
コールドプレイの新作を聴こうと思う。
と思ったが、これまでちゃんと聴いてこなかったバンドだから、
この機会にしっかり聴こうと決心して、
今からコールドプレイ・マラソンをします。
『パラシューツ』からオリジナル・アルバム全作をちゃんと聴いて、
それで最後に最新作を聴こうと思う。
最新作を聴くころには朝になっているだろうか。
バイトしてきたところだから少し疲れてはいるけど、
ビールと焼酎と一緒にそんな疲労感は飲み込んでやる。
もうすでに、軽く酔っ払っている。
こんな調子で大丈夫だろうか。
いや、お菓子と夜食まで買ったのだ。
明日の授業なんて休んでやる。
単位よりもコールドプレイをちゃんと聴くことのほうが
僕の人生においては重要である。
大切なものを、間違えちゃいけない。

でもその前にいつも通りCDレヴュー。
今日はボブ・ディランの65年作。
同年の『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』も良いけど、
ボブ・ディランと言えばやっぱこれでしょ。

Highway 61 Revisited
/ Bob Dylan

HIGHWAY 61 REVISITED


「ロック」という深み
 邦題は『追憶のハイウェイ61』。ボブ・ディランがフォークのマナーを完全に無視してアコギからエレキ・ギターに持ち替えた時期の傑作。お堅いフォーク・ファンからは辛らつな揶揄が投げかけられたらしいが、“トゥームストーン・ブルース”などを聴くと、彼の音楽に対する欲求心がもはやフォークでは満たすことのできない状態にあったということがよくわかる。つまり、これはボブ・ディランにとって初めての、意識的な「ロック・アルバム」ということになる。変化はそれのみに収まらず、歌詞も以前の彼のイメージとは大きく変わってくる。「時代の声」を鋭く反映したプロテスト・ソングの歌い手としての彼の姿は、ここにはもうない。孤独や迷いや虚無などからくる彼の個人的なエモーション、がしかし、人間の根源的で普遍的な欲求が、手の内から次々とこぼれ落ちるのをじっと見つめるような、そんな佇まいである。一曲目に収録されているのは彼の説明不要の名曲“ライク・ア・ローリング・ストーン”である。転落した人生を送るミス・ロンリーに向けられたはずの「どんな感じだい? 独りぼっちになって、転がる石みたいになって」という言葉が、固くなってしまった僕たちの心にまで空しい風穴を開けて通り抜けていくのは、それこそがこの頃のボブ・ディランが音楽に求めていた深い高揚であり、ロックという音楽の背負うリアリズムと悲しみの不変の実態だからだ。
02:23 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

Get Through It

ゼミの宿題が一向にはかどらない。
全然集中しないで、音楽ばかり聴いてしまっている。
向こうのお国の人の詩を訳してきて、
ゼミ生みんなに解説しないといけないのだけど、
これが全っ然おもしろくないのです。
極端なことを言ってしまえば、翻訳なんてできなくてもいいのだ。
そんなことは僕にはどうでもいい。
すでに翻訳された詩を読んで中身について考えるほうが、よっぽどおもしろい。
でもまがいなりにも英語専攻なのだし、
そういうわけにはいかないんだろうな。
英語を勉強するなんて大嫌いだ。
翻訳するのが目的なら詩なんて読みたくない。
アホらしい。やってられない。

大学三年になって、これまでになく自分の将来に不安感を抱いている。
これまでは、大学三年生になるだなんてことすら想像できなかったのだ。
それがもう二年もしないうちには卒業である。
大学卒業なんて、そんな日は永遠に来ないような気さえしていた。
でも数えてみたらあっという間である。

ただ、大人の社会に仲間入りなんてしたくない、
というネガティヴな気持ちは、不思議と自分の中にはない。
僕の心の中にたたずんでいるのは、もっとポジティヴな意志である。
何年かかってもいい。
学生という安全圏から放たれても、
強烈な意志さえあればやっていけるさ。
楽観的になってるだけ、ではないと思いたい。
自分がまだまだ修行足らずなのはわかっている。
絶望的なまでにダメダメなのはわかっている。
ただ僕は、そんなところでいちいち立ち止まって、
クヨクヨと落ち込んでいるわけにはいかないのだ。
僕は、自分自身についてすら何ひとつ満足できていない。
でも、そんなことはもはや大前提である。
そんなことは、生まれたときからわかっている。
目指す自分に少しでも近づくことである。
俺は、絶対に負けない。


ザ・ミュージックの最新作。
真面目さ故の4年という長きにわたったブランクを、見事に埋めてくれる傑作。

Strength In Numbers
/ The Music

STRENGTH IN NUMBERS


苦難と葛藤を乗り越えて鳴り響いた「音楽」
 僕はザ・ミュージックの作品の中で何が一番好きかと聞かれたら迷わずセカンド・アルバムの『ウェルカム・トゥ・ザ・ノース』だと答える。要は変わり者なのだが、どうしてあのセカンドはこんなにも評価が低いのだろうか。ザ・ミュージックの本質はといえば、やはりあの真っ暗闇の中で生命が激しくうごめくような危ないグルーヴに他ならない。そのインパクトが最も強く感じられるのがファースト・アルバム『ザ・ミュージック』である。しかし、デビュー期の彼らは、実は自分たちの音楽の本方論に対して全くと言って良いほど無自覚で、でもだからこそ『ザ・ミュージック』のグルーヴは正体不明ながらも刺激的かつ魅力的だった。ファーストの成功は言うまでもなくレーベルからバンドへの圧力を増大させ、セカンドではファーストのインパクトを半ば強制的に、そして短期間で再現することを強いられたわけだ。つまり、作品が出来上がるプロセスそのものが極めて不自然であって、彼らはセカンドで本質的な進歩を示すことができなかった。だからあのアルバムは完全な失敗作だったのかというと、絶対に違うと思う。あのアルバムは、ザ・ミュージックという無自覚なバンドの、ピュアネスの結晶である。大人の世界の常識に巻き込まれながらも必死に守り抜こうとした「何か」が、「葛藤」として揺られながらもあのアルバムにひとつの筋を通していた。この最新作を聴いた今も、僕はあのアルバムが一番好きだ。
 そのセカンドから実に4年ぶりとなるサード・アルバムが本作。あちこちで言われているから僕なんかがいちいち言うのもめんどくさいけど、彼らが自分たちの音楽の在り方について初めて自覚的になれた作品である。細部のアレンジにまで意匠をこらして、自分たちがかつて無意識のうちに生み出したあのグルーヴを今度は意識的に再現しようとしている。自問と検証を何度も重ねてコツコツと自分たちを高めてきたんだなあという感じがして、相変わらずの誠実な連中だと安心した。その誠実さが、僕の好きなセカンドのピュアさなのだ。話がセカンドに戻ってしまいそうだが、冷静に自分たちの「音楽」の正体と向き合い新たなる一歩を踏み出した作品として、本作も高く評価している。


15:41 | 独り言 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

終わらない映画

昨日の夜、久しぶりに映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を観た。
初めてこの映画を観た時から約二年弱、何度も何度も観た。
それでも、この映画の表現力は未だに鮮やかで強烈だった。

今思えばビョークが主演&音楽なのだから当然なのだけど、
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』はイマジネーションの映画である。
この作品を観た人なら誰もが印象的に感じるであろうビョーク演じるセルマの
「ミュージカルで最後から二番目の歌が流れ始めたら席を立つの」というセリフ。
先のわかってしまうものなんて観たくない。
終わってしまうものなんて観たくない。
だから、セルマは最後から二番目の歌の「その先」を想像する。
次はいったい何が待ち構えているのだろう。
いったい、どんなことが起きるのだろう。
それはつまり、この映画のエンディング曲“ニュー・ワールド”の世界である。
セルマが死へと向かい、“ニュー・ワールド”が流れ始めた「その次」に、
どんな物語が待っているかはあなた次第である。
「その先」の世界を観ている者のイマジネーションに託すことで、
「終わり」を描かなくても映画はこんなにも素晴らしく、
感動的であることを、この作品は高度な表現力で伝えている。
僕の中で、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』はまだ終わっていない。
だから、僕はこの映画を観て何度だって感動できるのだ。
もうすんばらしい作品である。
見えているものだけを観ているのではいけない。
この作品は、きっとあなたの中の「映画」を変える。
映画には、こんなにも限り無い夢と希望が、溢れているのだ。
これを「暗い」とか「ひどい」なんていうやつは、アホである。
これを観て、あなたのイマジネーションの限界を更に深く突き破って欲しい。

それではCDレヴュー。
先月発表された、オーストラリア出身の若き五人組のデビュー・アルバムです。

Yes Yes Vindictive
/ Operator Please

YES YES VINDICTIVE


「意味」から乖離してまで踊りたくはない
 結成のきっかけとなった高校のバンド・コンテストのノリそのままで世界に飛び出してしまったバンド、それが良くも悪くもオペレーター・プリーズの実態である。それ以上でも、それ以下でもない。ただ、だからと言って甘く見てはいけない実にあざとい連中だ。すでにシングル化された三曲が象徴的で、その名のとおりピンポン玉をぶちまけたように騒がしい“ピンポン!”、ゴシップのベスにも負けないアマンダの強烈なボーカルが吼える“ゲット・ワット・ユー・ウォント”、バイオリンの音色がやけに切なく響く“リーヴ・イット・アローン”と、どれも高速ビートとハイテンションさだけは見失わないが、ひとつの手癖に縛られない非常に多様なポップ・センスを持っているバンドだ。とにかく瑞々しくてカラフルなサウンドに身を任せていたら、気付けば体中どっぷりと浸かってしまっている。趣向は違うがジェットにしてもヴァインズにしても、オーストラリア出身の連中はみんな当然のようにポップ・ミュージックの核心に辿り着いてしまうのだが、オペレーター・プリーズもすでに自分たちの「ポップ」の意味を理解しているようだ。おまけに彼らは若い。否が応でも未来に期待してしまう。
 ただ、これはフォールズのデビュー作を聴いた時にも思ったことだが、歌っている中身は本当にどうでもいいことばかりだ。二回目以降は歌詞カードに触れる気すら起こらなかった。ロックは、いったいいつから言葉を必要としなくなったのか。すべてはクラクソンズのせいである。当初は一過性で終わると考えられていたニュー・レイヴは、ネット世代の強力な伝達力で世界中を瞬く間に席巻した。それからはどこもかしこもダンス・ロックで溢れかえっているが、その中で本当の本当にラジカルだったのは未だに発起人のクラクソンズだけである。だから正直な話、ビートやリズムよりもスタイルやトレンドに躍らせれているような気がしないでもない。そこまで陽気にはなれない。危機感。
21:49 | 映画 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

パン職人のいちごジャム

毎日毎日ご飯のカサ増しを狙った雑炊ばかり食べている。
家でとる食事は、すべて雑炊である。雑炊のみである。
でも、そろそろ限界がやってきたのか、
朝っぱらから毎日同じ味の雑炊を食べるのがなかなかつらくなってきた。
だから、今日はバイト帰りにスーパーに寄った。
原油・原料・運送料の高騰で猫も杓子も値上げのご時勢である。
そんな中にあって、小麦という値上げの代表格を主原料にしているはずなのに、
値上げブームの以前とまったく価格の変わらない、激安食パンを買った。
この食パンはいったい何でできているのだろうか。
前に友達がくれたいちごジャムを、まだ未開封のままで置いていたのを思い出した。
明日の朝はいちごジャムを食パンにぬって食べる。
ささいなことだけど、明日の朝がものすごく楽しみなのである。

昨日の夜、同じサークルの友達から届いたメールが嬉しかった。
「持ち前の反射神経」とやらを駆使して、何かあると察知するとすぐに連絡をくれる。
大学に入って以来、僕は何度その「持ち前の反射神経」に救われたかわからない。
昨日は高校時代の友達から、素敵な贈り物なんかも届いていた。
いろいろ忙しくてまだお礼の返事ができていないのだけれど、
大切にしようと思っている。
僕には、良い友達がいる。

なんだか久しぶりに「日記的なるもの」が書けたような気がする。
CDレヴューも載せようと思う。
今日は新作ではなく、古い作品をひとつ。
60年代からざっくりとロックの歴史を振り返ろうとしているのですが、
なかなかペースがつかめないというのが本音です。
65年作。

My Generation
/ The Who

マイ・ジェネレーション(デラックス・エディション)


ここに「十代」を誓う
 パンクの原衝動とは、若者の倦怠感である。そんなどうにもこうにも言葉にしがたい複雑な感情をそのまま「うまく説明できない」と歌った“アイ・キャント・エクスプレイン”でデビューを飾ったザ・フーは、常にその倦怠感に忠実であろうとしたバンドだ。本作は彼らの余りにも有名なデビュー・アルバム。オリジナル10曲+カバー3曲と当時のバンドにしてはオリジナル重視の姿勢を示しているところにも、彼らの意志の強さが感じられる。彼らのすごいところは、「キッズのために、キッズのことを歌う」という極めてシンプルな思いを貫き通し、そこに本気で夢を見出していたところだろう。そして、若者の代弁者となったザ・フーの音楽に、若者もまた夢を見た。街で流れていた“マイ・ジェネレーション”に完全に打ちのめされたポール・ウェラー少年が後に70年代パンク・ムーヴメントの中で傑作アルバム『イン・ザ・シティ』を作り上げるように、だ。自分たちの抱える倦怠を言葉と音で具体化してくれたザ・フーの音楽は、だからこそ若者たちに行き止まりではなく無限の未来を予感させるものだったのだろう。彼らの若者に対する熱い思いは後に“ババ・オライリィ”の「十代の荒野」という表現力、そして一大パンク・ムーヴメントへと結実していくのだ。プロデューサーの権利問題で長年廃盤になっていたことも有名な話。それはどうでもいいけどね。
02:21 | 日記 | comments (7) | trackbacks (0) | page top↑

徹底検証 第6弾

 そういえば『徹底検証』なんてカテゴリーを作っていたことをすっかり忘れていた。前回ザ・スミスを紹介したのはちょうど一ヶ月ぐらい前。なんだ、まだ一ヶ月しか経っていないのか、と思う。それだけこの一ヶ月でいろんなことがあったということだろうか。確かに、この一ヶ月で僕の状況は激変した。いや、「激変した」なんて言い方じゃ僕はダメかもしれない。「激変させた」のだ。去年の夏から付き合ってきた彼女と別れました。突然に個人的なことですんません。複雑に入り組んだ気持ちにどうにかこうにかケリをつけたくて、とことん内に向かって、ここ数日は変なことばかり書いていたと思う。でも、今回の『徹底検証』にこのバンドを選んでしまう時点で、僕はまだ完璧にケリをつけることができていないんだろうな。本当は、ニルヴァーナにしようと思っていた。でも書き始めようとして気分が変わった。つい先日、待望の新作が発表されたことは関係ない。その子が大好きなバンド、ウィーザーである。
 ウィーザー。急速に流れる時代の波とも、音楽的な技術革新とも無関係の場所で、ただひたすら「個人的な感情」を糧にして、モチベーションにして、長年のキャリアを築いてきたバンドである。でもだからこそ、彼らのファンもまた時代の波とも技術革新とも無関係の場所で、「個人的な感情」を理由に彼らを愛し続けてきたはずだ。今日の僕の全オリジナル・アルバム・レヴューでも、作品ごとの熱の落差がすごいと思う。それがそのまま彼らの作品に対する僕の「個人的な感情」の密度と温度の差である。今回の『徹底検証』はそもそもが「個人的な感情」から始まったものである。自由にやろうと思う。あなたにも、「個人的な感情」のみを理由にして聴ける音楽と一度向き合ってみて欲しいと思う。
 『徹底検証』です。


・1st album
Weezer (The Blue Album)
Weezer/Weezer


“オンリー・イン・ドリームス”を聴いて欲しい
 僕がこのアルバムについて言いたいこと・言わなきゃいけないことはそれだけで、だから後のことは実はどうでもいい。本作の最終曲として収録されたこの曲には、僕がウィーザーを聴き続ける理由がギュウギュウに詰まっている。多くのファースト&セカンド支持者の人たちも、それぞれに諸色意見はあるだろうけど結局は僕と似たような感じじゃないだろうか。この曲を「女々しい」とか「ダメダメ」とか「情けない」とかいう理由で聴かない男子がいたとしたら、そんなアホなやつはみんな死んでしまえばいいと本気で思う。俺がぶち殺してやる。気が狂いそうになるくらい大好きで大好きでたまらない「あの子」のことを夜な夜な飽きもせず考えて、独りぼっちのベッドの上で「女々し」くて「ダメダメ」で「情けない」姿になれない男子は、ダメである。強いコンプレックスと自意識にさいなまれて言いたいことも言えずに苦悩する男子の実態を暴いた本作収録曲の中で、例外的にこの曲は「夢の中だけ」という名目の下に一切の迷いなく感情を爆発させている。僕は今でもこの曲を聴くと自分の夜の姿が覗き見されているみたいでなんだか恥ずかしくなってしまうのだけど、君はどうだろうか。でもだからこそ、女の子にはこんな男子を好きになって欲しいよね。女子諸君、そこんとこ、ほんと、よろしくお願いしますよ。


・2nd album
Pinkerton
ピンカートン


世界で最も高濃度なエモ
 ロックは基本的に「型」のない音楽である。どこからでも始められるという意味で、本当に自由な音楽である。だからこそ、ロックには作り手の人格や性格、経験や生き様が色濃く反映されやすい。それを最もピュアな形で封じ込めたのが「エモ」と呼ばれる表現である。「日記的」とよく形容されるリヴァースの赤裸々な告白で埋め尽くされたセカンド・アルバム。“タイアード・オブ・セックス”、“ノー・アザー・ワン”、“アクロス・ザ・シー”、“ザ・グッド・ライフ”、“ピンク・トライアングル”など挙げ始めたらキリがないが、本作でリヴァースは数々の大泣きメロディにのせて自分がダメダメな理由をひとつひとつ明かしていく。ハッキリ言って、名曲しか入っていない。優れてコンセプチュアルでありドラマチックなこの傑作が、どうしてアメリカで大コケしたのかまったく理解できない。アメリカ人はアホである。この心の内側を針でチクチクとされるような痛みと悲しみと切なさが連中にはわからないのだろうか。女の子のことばかり考えては絶望しているリヴァースのどうしようもない姿は、真っ当な日本のファンからは今も変わらず愛され続けている。エモがこんな作品ばかりだったらいいのに。それくらい、ドロッドロでねばっこいエモーションに溺れそうになる。


・3rd album
Weezer (The Green Album)
Weezer (Green Album)


余りにも悲しすぎる成功
 毀誉褒貶の相半ばする作品である。前作『ピンカートン』がアメリカで大失敗したことを受けて、リヴァースはここからガラリと作風を変えてしまう。音は抜けが良くなった。爽やかになった。“アイランド・イン・ザ・サン”なんて、めちゃめちゃスタイリッシュでかっこいい。実際、本作は売れた。でも、それを素直に喜べないのがファースト&セカンド支持者の悲しすぎる性である。初期はギターの音ひとつとってもザラザラしていて、荒っぽかった。でも、その「イビツさ」が感動的だったのだ。自分の感情とリヴァースの感情が擦れあって起こる激しい摩擦。その痛々しい摩擦に、僕たちは狂おしいほどの切なさを感じていた。グッド・メロディは健在だ。でも、抑えようとしても腹の底から這い上がってくるような、どうしようもなくナチュラルなきらめきが、本作にはない。本作を聴く時、僕はわざと「共感」を捨て去って耳を傾けないといけなくて、とてもつらい。最新作を聴いた今、ウィーザーがアルバムをセルフ・タイトルにするのはバンドが重要な分岐点に立たされている時だという考えに確信が持てたのだが、最新作やデビュー・アルバムと同じく本作もバンドの名前を背負っている。新しいウィーザー誕生を祝福しているのだろうか。苦い過去は切り捨てるという意味だろうか。せめて、後者であることを願う。


・4th album
Maladroit
Maladroit


もう聴く気にすらなれない
 初めて聴いたウィーザーのアルバムがこれ。僕はそういう世代です。でも、一番ちゃんと聴いてこなかったアルバムでもある。僕にとってはどうでもいい作品である。だからといってそれだけで終わらせるわけにもいかないので、何を書けばいいものかと困っています。これはただの偶然だが、最新作の収録曲“ハート・ソングス”の中でリヴァースが自分の音楽体験を告白していて、ご存知の通りビートルズとメタル系バンドを同列で愛していた彼らしく、ジョン・レノンはもちろんアイアン・メイデンやジューダス・プリーストやスレイヤーの名前も歌詞に並んでいる。本作はそんな彼のメタル趣味が露骨に表れたアルバムとなった。骨太な轟音リフと痛快なポップ・センスで駆け抜ける一枚。でも、いくら意匠をこらしても趣味は趣味である。別にウィーザーにやって欲しいアルバムではないという意味で、本当にどうでもいい作品。『ピンカートン』以来のセルフ・プロデュースで好き勝手やってガス抜きになったのならそれでいい。なんせ次作は『メイク・ビリーヴ』である。傑作である。ただ、メタル色の濃い本作の日本盤にボーナス・トラックで“アイランド・イン・ザ・サン”の入っている意味がわからない。大人の世界では誰も何も疑問に思ったりはしないのだろうか。どこまでも散漫なアルバムである。


・5th album
Make Believe
Make Believe



前向きに回帰
 申し訳ない感じがなくなってきた。アルバムの内容そのものもだが、聴く側の態度としてもそうである。リヴァースは、もう開かれることに戸惑いを感じていない。バンドのそのリラックスしたムードが作品のキレの良いポップさや自由さにうまくつながっている。ウィーザーは、時代の必然性や最新テクノロジーといった自身のロックを更新する手っ取り早い常套法を一切用いないで前に進み続けてきたバンドである。だからこそ彼らの音楽の核心部分は外の世界ではなくリヴァース・クオモというひとりの男の心の内にこそある。本作では彼自身がそこの部分に非常に意識的になっている。だから、“ホールド・オン”も“ピース”も、彼には書くことが出来た。このアルバムのポップさはいったい何なのだろうとずっと考えてきた。初期よりも『グリーン~』『マラドロワ』に限り無く近い種類のポップさだが、なぜだか「後ろめたさ」がないのだ。その答えを次のアルバムで明確に示す義務がリヴァースにはある、と強く思っていたのだが、『レッド・アルバム』はそれに十分すぎる快作だった。要は、リヴァースが今の自分を突き詰めて、掘り下げて、それを披瀝することに躊躇していないということに尽きる。初期作があんなにも自分のダメダメぶりを暴露しながらも素晴らしかったのは、それでもリヴァース自身が前向きだったからだ。そういうことである。


・6th album
Weezer (The Red Album)
ザ・レッド・アルバム


愛嬌溢れる(=センスない?)ジャケットは相変わらず
 正真正銘の原点回帰、とは少し違う。とはいえファースト&セカンド支持者も『グリーン~』以降のファンも、みんなを唸らせることのできる快作であることは間違いない。もちろん00年代に入ってからの作品ではこれが一番好きだ。かつては溢れ出る自己嫌悪で呼吸困難になっていた男が「史上最強の男」と歌うのだから、ここにある決意のほどは凄まじいものなのだろう。実に三度目のセルフ・タイトル。今度は、新生ウィーザーの誕生を僕の方から祝福したいと思う。リヴァースはもう自分が自分であることに躊躇したりはしない。その意識は間違いなく本作の更なる自由度の高さに影響しているし、だからこそリード・シングルの“ポーク・アンド・ビーンズ”で「僕は自分のやりたいことをやるんだ」と堂々宣言することができたし、他のメンバーの曲も、すべてがこのアルバムをポジティヴな方向へ導いている。リヴァースは昨年の冬に主にウィーザー初期の未発表曲やデモを寄せ集めたソロ・アルバムを発表している。ファンからの勝手な勘違いかもしれないが、過去の自分は一旦きちんと整理して、更なる一歩を踏み出すプロセスの一部のようなアルバムだと思っていた。このアルバムを聴くと、決して間違った推測ではなかったような気がする。これまでの自分を引き受けながらも、新たな息吹きを感じさせる素晴らしいアルバム。
03:56 | 徹底検証 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ここ一週間、ロックを聴くのがとてもつらかった。
めんどくさかった。しんどかった。とにかくダルかった。
今も少し引きずってはいるけれど、ずいぶんマシになって、
今日はウィーザーとかラカンターズとかパール・ジャムを聴いた。
でも、この一週間は、
僕みたいな暗い男の感傷を歌っているはずのウィーザーも、
今年のベストになりうる素晴らしい新作を届けてくれたラカンターズも、
必死で前に進もうと、生きようとしているはずのパール・ジャムも、
僕には居心地が悪かった。
彼らの音楽に僕の居場所はなかった。
彼らの音楽に僕はいなかった。
ロックはデタラメだと思った。
人が沈んでいるときに助けてくれないような音楽なら、やっぱり偽物だ。
結局、ロックは人を救うことなんてできない。
だからYUKIの『PRISMIC』ばかり聴いていた。
『PRISMIC』だけには、僕の居場所があると思っているからだ。
そう自分自身を信じ込ませているからだ。

音楽と人を繋いでいるのは何なんだろうかと思う。
初めて聴いた時から5年近くも経つ『PRISMIC』を聴くということが、
なぜ今も僕の中でクリエイティヴな行為であり続けているのか。
『PRISMIC』を聴くたびに僕の頭に浮かぶのは、YUKIの姿じゃない。
過去の「思い出」であり、それに対する「思い入れ」だ。
極端な話、それがすべてである。
愛らしいYUKIの姿も、叫びも、何も関係ない。
『PRISMIC』を聴くたびに昔のことを思い出して、
その「思い出」と「思い入れ」が
自分の中の「本物」であることを確認するかのように、
毎回毎回切実な思いで聴いている。
僕が『PRISMIC』を聴く時、その向こう側には、YUKIはいない。
『PRISMIC』の向こう側には、あの人がいて、
あの人の向こう側には、「思い出」があって、
「思い出」の向こう側にいるのは、自分だ。
『PRISMIC』を聴くということは、自分自身と向き合うということだ。
昔を懐かしんでるわけじゃない。
決して未練があるわけじゃない。
ただ、僕は僕でしかない、
そのことを自分で認めるために、僕は『PRISMIC』を聴く。

ロックは誰も救わない。
『PRISMIC』だって、僕を救うことはない。
でも、『PRISMIC』を聴くと、
僕は否応無しに今の自分をその向こう側に見てしまう。
『PRISMIC』ですら僕を救ってくれないのなら、
僕を救えるのは僕だけである。
そのことを伝えるために、ロックは人間一人すらも救おうとはしないのだ。
僕はよくわからないことを言っているだろうか。
文章力のせいもあるだろうけど、
僕の言っていることがわからないのなら、
あなたはまだ「ロック」を聴いたことがないのだ。
「共感」とか「泣ける」とか「大好き」なんてレベルのものではない、
音楽とのもっと強烈な一体感。
あなたは、まだ音楽の向こう側に、自分を見ていない。

自分のすべてを懸けて肯定するほどの「思い入れ」を、
あなたはまだ音楽に見出せていない。
僕は『PRISMIC』を聴いても泣かない。
あの作品にまとわりつく悲しい思い出に触れても、僕は泣かない。
自分のために、僕は泣かない。
むしろ聴くたびに自分がまだ前に進めることを知る。
僕は今よりもまだ幸せになれる。
僕はそうやって『PRISMIC』を聴いてきたのだ。
そうやって前に進んできたのだ。
『PRISMIC』は自分だと信じ込んで、
『PRISMIC』を聴いて必死に自分を正当化して、
『PRISMIC』のデタラメにだまされ続けて、
ここまで来たのだ。

ロックは誰も救わない。
だから、僕は僕を救えるのだ。
ロックなんて嘘だ。
だから、僕は前に進めるのだ。
21:39 | 音楽 | comments (7) | trackbacks (0) | page top↑

PRISMIC
/YUKI

PRISMIC/YUKI


このアルバムは嘘だ
 ロックなんてすべて嘘っぱちである。作り手の自己陶酔と自己憐憫に半ば共犯的に聴き手が盛り上がって、自分たちだけの世界を作り上げて悦に入る。新興宗教の奇跡の壺と何ひとつ変わりはしない。ロックなんて、所詮は嘘とエゴで塗り固められたまがい物の音楽である。ただ、「嘘っぱち」と呼ぶのはあんまりだから、とりあえず「ロック」なんてかっちょいい名前を付けてごまかしただけである。
 YUKIは、後にこのアルバムのことを「もう二度とできないかもしれない素人アルバム」と呼んでいる。様々なミュージシャンが寄り集まって自由気ままに作ったことを「素人的」といっているのだが、なるほど、このアルバムは確かにド素人の作品だ。このアルバムには、通常のロックに欠かせない聴き手がいることを前提にした「建て前」とか「後ろめたさ」とか「嘘」とかの入り込む余地が一切ない。YUKIという女性が、ひとりぼっちのベッドルームで自分が自分である理由、自分が自分でしかない意味をひとつずつ吐き出しながら、自己陶酔と自己憐憫にズブズブと沈んでいく。そして、僕は直接しゃべったこともない女性のその姿に、自分を見ている。なんだ、奇跡の壺じゃないか。『PRISMIC』は新興宗教なのだろうか。『PRISMIC』はまがい物の音楽なのだろうか。ただ、「嘘」がない、と僕が思い込んでいるだけで、後は何も変わらない。でもだからこそ、僕はこの一枚を死ぬまで認め続けるだろう。いつ「嘘っぱち」になり変ってもおかしくないこの一枚だけを、僕は墓の中でも信じ続けているだろう。このアルバムですら嘘っぱちでまがい物のロックの一部でしかないとわかっていながら、それでも僕は、自分のすべてを懸けて、全力で『PRISMIC』を肯定する。それが、ロックということである。ロックとは、そんな、何かを信じる奇跡である。
12:28 | 音楽 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

無題

他のすべてを停滞させて、ずっとYUKIの『PRISMIC』を聴いている。
僕は、そろそろ自分を対象化しなきゃいけない。
自分と向き合わなくちゃいけない。
僕は、誰も幸せになんてできない。
他の誰かを、救うことなんてできやしないのだ。
そんな自分をどうにかこうにか幸せにするために、救うために、
僕はロックなんてやっかいなものを聴いて、必死に生きているのだ。
それが僕の思想である。
『PRISMIC』という宗教である。
それが、「ロック」ということである。
思いっきり内に向かえ。
そうやって、またこのアルバムを開けば良い。
今でもまだ、『PRISMIC』だけが僕を前に進めてくれる。
なぜなら、『PRISMIC』は僕だからだ。
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マジック・サマー

先日、同じ学科の友達にビーチサンダルをプレゼントされました。
サイケデリックな色彩のキノコが描かれたかわいいやつ。やったね。
春から履いてたやつがもうボロボロになっていたので、良いタイミングです。
去年の夏から冬越しまでしてビーサンを履き続けている僕にとって、
ビーサンはもはや体の一部です。
新しいものに履き替えるとなると、
前のビーサンとの思い出が走馬灯のように、鮮やかに浮かびます。
だがしかし、前に進むために、
過去の思いは振り切って新たなる一歩を踏み出さねばなりません。
お、もうどうでも良くなってきたぞ。
とにかく決意表明でした。

さて、先月にホワイト・ストライプスのジャック・ホワイトのもうひとつのプロジェクト、
ラカンターズの新作の日本版がリリースされましたが、
これがもう素晴らしい出来なのです。
ジャックの歌は、どんどん自由になってる。
それがリスナー側への信頼からきているのではなくて、
むしろ、好意的なリスナーからでさえ自分が正当な理解を得られていない、
そんな現状の居心地の悪さからきているところが面白い。
というか、ジャック・ホワイトらしい。
誤解は1㎜でも許さないとでも言うかのように、
ハッキリとした、でも本当に多彩なロックンロールを、次々と叩きつけてくる。
ラカンターズはストライプスの方で溜まったストレスを発散するための、
ロックへのシンプルな思いで作品を作るリラックスしたバンドだと思っていたけど、
表現のラジカリズムはストライプスに近づいてきたな。
ラカンターズは本当に良いミュージシャンが揃っている。
でも、やっぱりこれはジャック・ホワイトのバンドだ。
この人の才能は、やっぱり破格の存在感を放っている。
孤立しているけど、孤高だ。

だったらラカンターズ紹介しろよ、と思われるかもしれませんが、
『Over The Border』が今回紹介するのはやはりパール・ジャムなのです。
パール・ジャムのファン・サイトではありません。
96年発表の4作目。

No Code
/ Pearl Jam

No Code


深海で手に入れたもの
 前作発表後、アホなチケットマスターとのトラブルでライブを行うことすらままならない状況に追い込まれたパール・ジャム。小規模なライブを少しずつ展開するしかなかったバンドは、最終的にツアー中止を決定せざるを得なくなるわけだが、それが影響してのことか、パール・ジャムの音楽はここから徐々に初期のアリーナ・ロック色を薄め、逆に胸を焼くような内省性を深めていく。今聴くと、グランジの波が完全に途絶えたことを伝えるアルバムのようにも思える。それはつまり、グランジの大波に絶妙のタイミングで乗り上げてその名を広めたバンドのファンにとっては、ストレスだったのだろう。全米一位を獲得しているもののセールスは全三作と比べて明らかに見劣りする。チケットマスターを介さないライブ活動も一般のファンにはチケットの入手を困難にさせたようだし、本作を境にバンドの規模がやや矮小化したような印象がある。
 表面上の評価はその程度だったかもしれない。ただ、内容そのものはどうだったのだろうか。個人的にも彼らの真骨頂は初期のアグレッシヴかつダイナミックなロック・クラシックだと思っているが、喉の奥を焦がしながら這い上がってくるようなエディの歌声が聴けるバラードも、良いと思う。一曲目としては異例の静けさの“サムタイムズ”だが、終盤の絶頂感は真に迫るものがある。「敗者を救うことはできない。俺は俺、お前はお前でしかないのだ」と、パール・ジャムの表現の根源的な部分を穏やかながらも力強く歌う“フー・ユー・アー”も素晴らしい。完全復活作の『パール・ジャム』を聴いた今だからこそ安心してこんなことを言えるのかもしれないが、本作からしばらくの間、彼らは闘争の刃を海の深くにいったんしまい込んだだけだ。良いアルバムである。
11:22 | 日記 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑
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