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次はパール・ジャム?

最近バイトが忙しいです。
明日もバイト。バイト、バイト。
今月はお給料が楽しみだな。
ただ、もっと音楽聴きたい。

この作品を紹介したら、『Over The Border』は
パール・ジャムとコールドプレイのファン・サイトなんじゃないの?と思われそうだ。
パール・ジャム→コールドプレイ→パール・ジャムの流れできたから、
次はこれでしょう。
新作楽しみですね。
個人的にはそんなに好きなバンドではないので、
ウィーザーの方が楽しみという暗い男です。
軽くCDレヴュー。

Parachutes
/ Coldplay

パラシューツ


でもだからこそ抽象的
 コールドプレイの歌には共感できない。別に僕の感受性が極端に貧相だというわけではなくて、クリス・マーティンが銀河級のバカでかいテーマを取り上げているというわけでもなくて、ラブ・ソングひとつ取ってみてもそうなのである。共感とは、感情の摩擦である。コールドプレイの音楽にはそれがない。感情のヒダがないから、いとも簡単に聴き手の中にスルリと進入して、その息をつくほどの美しさで心を満たしてしまうのだ。歌に感情の綻びがない。「切なさ」がない、と言っても良い。愛する人と近しい関係でいることの昂ぶりも、去っていく「あの人」への狂おしさもない。常に俯瞰的で冷静だ。いったい僕が何を言いたいのか、わかっていただけるだろうか。つまり、それがコールドプレイという「才能」なのだ。人間の存在すらも無視して極域で揺らめくオーロラのように、コールドプレイの音楽は頭上から柔らかく舞い降りてくる。“トラブル”を初めて聴いた時の衝撃といったらなかった。音楽を聴き続けてそれまでに作り上げてきた自分の中の「計り」でさえ軽く振り切ってしまう、まったく未知の次元から降り注ぐメロディと言葉。身を浸していれば、それらは自然と語り始める。無限の高さからとらえた核心、つまり、本当に歌うべきこと。感情の揺れや迷いを一切排除して心を射抜く「眼」。コールドプレイがここまで聴きやすく(あくまで表面上は)、圧倒的な支持を獲得しながらも決してひとつのムーヴメントを牽引する存在になりえなかったのは、他の誰一人もこの「眼」をモノにできなかったからだ。だからこそ、こんなシンプルな音作りなのにコールドプレイの音楽は今も特別な存在感を放っている。本作は彼らのデビュー・アルバムで、それにも関わらず早くもその表現形態が円熟している。言いたいことはただそれだけ。
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02:47 | 音楽 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

最近届いた

エイミー
21世紀の酔いどれ歌姫、
エイミー・ワインハウスの『バック・トゥ・ブラック』のLPです。
黒地のジャケットは素敵ですね。
この感じだと、アデルの『19』のLP盤も栄えそうだなぁ。
UK女子は見事に個性がバラバラで、
なおかつみんな強烈な存在感を持っていて、すごいですよね。
日本にもあんな刺激的な人たちがいないだろうか。
YUKIとCharaと椎名林檎と鬼束ちひろがみんな同時期にデビューするような衝撃。
そうそう味わえるものじゃない。
というわけで、毎日まさに判を押したような生活をしているので、
とくに書くこともなく、つまらんこと書いてごまかす気満々です。

CDレヴュー。
振り返りもニュー・リリースも一切関係無しに、
今パール・ジャムにハマッています。
デビュー作、セカンドのレヴューは書いたので次は三枚目。
全部書き終わったら掻き集めて『徹底検証』にするのはナシだろうか。
最近「検証」してないなぁ。

Vitalogy
/ Pearl Jam

Vitalogy


名作、でも奇盤
 実は、『テン』や『Vs.』よりも、もちろん『パール・ジャム』よりも、ある意味「オルタナティヴ」な作品なんじゃないかと思っている。前にも一度書いたように、パール・ジャムの根本的な理念には、反大衆とか反商業とかのみんながイメージしやすい明確なオルタナティヴはなかった。パール・ジャムというバンドがロックに向かうモチベーションの正体は、時代やシーンの流れに寄り添う類のものではなく、あくまでも個人的な「怒り」のエモーションであり、「それでも生きる」という固い信念を握り締めた男の生き様というか、エゴだった。だが、本作では前2作でイメージ付けたバンドの在り方すらも彼ら自身から意識的に引き離して、新しい何かを作り出そうとするかのような気概が感じられる。ブックレットや紙ジャケのこだわりようからも、それがただの「遊び心」や「趣味世界」という言葉に収まってしまうものでないことは一目瞭然だ。
 パール・ジャム本来のアグレッシヴなロックンロール・ナンバーから今では彼らの伝統芸にまでなっている壮大なロック・バラッドまで、バンドの魅力を余すところなく堪能できるサード・アルバム。それに加えて“虫”や“愚かなる掃除用具”といった、こればかりは聴いてもらわなわからんわという意味不明な楽曲も収録されていて、バンド史上最も混沌としたアルバムでありながらも、ブックレットで説教書よろしく訓示を垂れる本作は1枚のコンセプト・アルバムでもある。パール・ジャムの作品群の中で唯一対処に困る作品である。オルタナティヴという姿勢が、既存かつ主流の価値観を否定しながら新しい価値観を提示するものであるのならば、とにかく普通であることを極端に避けたという意味でパール・ジャムが最も意図的にオルタナティヴであろうとしたアルバムが本作だ。
01:40 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

Nobody Knows

3週間前にインターネットで注文したDVDたちがまだ発送されないので、
今月はなんだかあんまり映画を観ていないような気がする。
それでも、ものすごく印象的な作品がひとつあった。

柳楽優弥くんが主演の『誰も知らない』。
20年位前に実際に起こった育児放棄の事件を題材にした作品らしいのですが、
シーンの1秒1秒が切実で痛烈な社会批判になっていました。
コンビニで店員から内緒で廃棄の食べ物をもらう子ども。
近くの公園で髪の毛を洗う子ども。
学校に行くことすらできない子ども。
子どもの死に直面する子ども。
それでも「誰も知らない」あの家に帰るしかない子ども。
並みのドキュメント作品よりも大マジで、覚悟の感じられる作品だった。

柳楽優弥くん、良いですよね。
なんか、気張ってなくて、ギラついてなくて。
日本の若い世代の俳優はドイツもコイツも馬鹿みたいな顔してるけど、
柳楽くんの目と表情は抜群に良い。
YOUさんとのコンビも良いよ~。
応援してます。


さてさて、CDレヴューですが、
今日は6月に新作リリースの話題で日本でも盛り上がっているバンドの作品。
振り返って聴くと、自分の聴き方もずいぶん変わったなぁと実感すると同時に、
年とった気がしてなんだか悔しいです。

A Rush Of Blood To The Head
/ Coldplay

A Rush of Blood to the Head



人間は科学よりも奇なり
 高校の時の知り合いにトラヴィスとコールドプレイを同列で愛聴しているやつがいたのだけど、本当に止めてくれと思った。ちゃんと話し合った事はないが、見た感じでは好きな理由は「美メロ」だとか「イケてる」だとか、そんな風だった。アイツはいったい何を勘違いしていたのだろうか。トラヴィスの歌には生活がある。コールドプレイの歌はそんな日常を離れた人間の内なる感情や想像力に訴える力を持っている。どちらが良いという話ではない。両者は、音の出所が真逆といって良いほど食い違っているのだ。当然、感動の種類や質感も違う。アイツはいったい何を聴いていたのだろうか。今も元気にやっているだろうか。
 “サイエンティスト”の「科学や進歩より僕のハートは雄弁だ」という一節がコールドプレイのすべてを物語っている。コールドプレイの多くの楽曲が一応にラブ・ソングとしての体裁をとっているにも関わらずいとも簡単にそれを振り切っているのは、オーロラのように冷たく神秘的で美しいメロディとシンプルでありながらも徹底して選び抜かれた言葉の数々が複雑に絡み合って、歌に無限とも言える驚異的な奥行きを与えているからだ。クリス・マーティンは、“サイエンティスト”で愛の終わりというありがちな色恋沙汰を取り上げながらも、数字の限界に挑む科学よりも人間の感情や精神の可能性の方が複雑で果てしないと歌い、その謎を解き明かしていくかのように去っていった「あの人」に向かって祈りのごとく語り掛ける。本作は、デビュー・アルバムに対する中傷を乗り越えて歌の中身そのものの強度をグンと引き上げ、驚異的なセールスと共に実力を見せ付けたセカンド・アルバム。続く『X&Y』で更にスケールを高めていく彼らだが、個人的に一番好きなコールドプレイのアルバムはこれだ。
02:41 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

浮遊感

6月の怒涛のリリース・ラッシュに向けて、各バンドの過去作品を振り返っています。
今もザ・ミュージックを聴きながら書いているのですよ。

そういえば、「怒涛の」と言いつつも誰が発表するのかいまいち把握してないな。
とりあえずはザ・ミュージック、コールドプレイ、ウィーザー、フラテリス、
アラニス・モリセット、オフスプリング、ぐらいかな?
もっと大物がいたような気がするけど、
思い浮かばないならあんまり食指が動かなかったんだろう。
たくさん聴かなきゃいけないけど、
結構わかりやすいタイプの連中が多くてよかった。
コールドプレイよりもウィーザーの方が猛烈に気になる僕は、
やっぱり内気なんだろうな。
あぁ、あとスカーレット・ヨハンソンが歌手デビューか。
『ゴースト・ワールド』は大好きな映画のひとつだから、気になっちゃうなぁ。
お金に余裕があったら聴いてみよう。

もうあと1週間で6月なのに、僕の頭はYUKIでいっぱいです。
他のバンドの作品を聴いていても、YUKIが聴きたくなっちゃう。
今日の日記やこれから載せるレヴューを見ても、
僕がいかに集中力散漫な状態かがよくわかると思います。
集中力3万……高っ。ふふふ。


Vs.
/ Pearl Jam

Vs.


燃える敵愾心、吼える自尊心
 もともとは収録曲“アニマル”の歌詞の一部である『ファイヴ・アゲインスト・ワン』というタイトルになるはずだった。どちらにしても、パール・ジャムが長きに亘るキャリアの中で最も「闘争」への意識をあらわにした作品であることは間違いない。だから、フックの強いゴリ押しロック・サウンドや雄叫びのようなエディのボーカルが自然と語りだすのは、他でもない「怒り」だった。
 歯を剥き出しにしながら檻の外へ掻い潜ろうとする羊のジャケット。磔刑、あからさまな人種差別、火を噴く拳銃、血の滴る注射器などの描かれたブックレット。「武装してると気分がいい」「警察がまた俺の兄弟を呼び止めた」「ネズミは、他者のものは取らず、比較もしない」という極めて精度の高い言葉の数々。そのひとつひとつが、意図的な問題提起になっている。言うまでもなく、醜悪な世界を前にして、僕たちはその世界の一員であるにも関わらず余りにも無力である。聴き手の前にそんな絶望をうず高く積み上げながら、それでも彼らが問いかけるのは、その中で「どうやって生きていくか」という果てしなく前向きなテーマだった。最終曲で「腕をまっすぐに伸ばし、放浪の自由を気取る/こうしてもう一日、地獄を生き抜く」「俺は生き方も考えも変えない」と歌うエディの言葉には、だからこそ身を切るような重苦しさが付きまとうが、心の中に留めて死ぬまで守り抜きたい信念があった。『ノー・コード』以降はしばらくバラード一辺倒になってしまうパール・ジャムだが、やはり彼らのロックンロールの真骨頂はこれだ。現在制作中の最新作では本作から『イールド』までタッグを組んでいたブレンダン・オブライエンを久々に起用している。待ち遠しい。
13:38 | 音楽 | comments (4) | trackbacks (0) | page top↑

アグレッシヴ

JAPAN.jpg
JAPANに載りました。
本当は20日に発売だったんですけど、九州は2、3日発売が遅れるみたいで、
店頭で見るよりも先に、昨日ロッキング・オン社から送られてきました。
自分の名前と文章が、YUKIの写真と一緒に載ってる!
僕なんかのために2ページも割いてもらって、ありがたや。
実際に見るまで「あれは新手の嫌がらせなんじゃないか」と不安でしたが、
ようやく実感が湧いてきました。すごいなぁ。
自分の書いたものが、大人の世界で少しでも通用したんだ。
大人を動かしたんだ。
これはめでたい。原稿料で何か買お。
中途半端なものは買いたくないから、多分『PRISMIC』を買うだろうな。
それでまた前に進めるような気がする。
YUKIが前に進み続けるのなら、
僕だってここに甘んじて立ち止まるわけにはいかないのだ。
そしてまた、切実な思いで、彼女の音楽と向き合う。
それはつまり、自分自身と向き合うことになるんだ。
行けるところまで行け。
前に、進め。
14:41 | 音楽 | comments (8) | trackbacks (0) | page top↑

眠り姫を見た

昨日はYUKIのライブに行ってきました。
人生でたった三回目の、YUKIだったら二回目の、ライブ。
行くたびにそう言うのかもしれないけど、今までで一番印象的なライブだった。

内容は、YUKIかくありなんといった充実したものだった。
選曲も、「“星屑サンセット”が聴きたかった!」
「“ハローグッバイ”は?」「“スタンドアップ!”やらないの?」と、
個人的な意見は挙げ始めたらキリがないけど、
それでもみんなが十分に満足できる良い楽曲が揃っていたと思う。
“愛に生きて”が聴けて良かったな、と特に思う。
“JOY”の別バージョンもめちゃくちゃかっこよかったし、
“ヘイ!ユー!”があんなにライブで栄える曲だとは思わなかった。
“Rainbow st.”“ファンキー・フルーツ”“WAGON”“プリズム”“長い夢”は、
もうライブには絶対に欠かせないアンセムになっていて、いちいち感動した。
MCではギャグ連発だし、相変わらずその可愛さには萌えてしまうし、
随所に遊び心も満載で、一秒たりとも目が離せなかった。
やっぱり、YUKIのライブはこうじゃなきゃいけない。
可愛くて、お茶目で、ポップに踊りまわって、そして、この人はマジだ。
それが、YUKIの思い描いている最高のロックンロール・スター像なんだ。

でも、そんなライブの中にあって、
明らかにYUKIの歌う姿勢も、聴き手側の態度も、
つまりは会場全体の空気が特別なものになったのは、
アンコールでの“汽車に乗って”だった。
空気を一変させたのは、“汽車に乗って”を歌う前のYUKIの言葉だった。
「私はいつでもあの頃の気持ちを思い出すことができる」と、
あの曲のエピソードを真剣に語った後、
自分の現在位置を改めて確認するかのように、
「最近、曲を作る時は、世界を創る時は、自分じゃないところで、
みんなが歌えるものを作ってきた」とYUKIは言った。
「でも、そろそろ、戻ってみっか!」とも。
“汽車に乗って”はその第一弾で、それをYUKIは「リハビリ」だと言った。

いったい何のための「リハビリ」なのか。
ずっと「みんなが歌えるもの」だけに集中してきた自分に対してか。
病気で亡くした長男のことを今でも血を流しながら引きずっているのか。
それよりももっと前に解散したバンドが今なお切ないのだろうか。
大胆なことを言ってしまえば、理由なんてどうでも良いのだ。
少なくとも言える事は、「リハビリ」なんて言葉を選んでしまう時点で、
YUKIは今の自分に満足などしていない、ということだ。
YUKIにとって、「自分に戻る」ということは、
そんな満足のいかない自分を高めるための「リハビリ」なのだ。
『PRISMIC』がそれを何よりも強く物語っている。
自分をポジティヴな方向に導くために、
YUKIは再び「眠り姫」を呼び起こそうとしている。
「戻ってみっか!」という余りにもあっけらかんとした意思表示は、
「コンビニでも行くか!」とでも言うようなさりげない言葉でYUKIから出てきたけど、
でもその決意のほどは並大抵じゃないように感じられた。
とにかく大マジだった。

大マジで、あの人は「もう一度やり直せば良い」と言う。
その姿が、昨日のライブの中で、YUKIが一番輝いていた瞬間だった。
「眠り姫だ」、僕はそう思った。
16:07 | 音楽 | comments (5) | trackbacks (0) | page top↑

言いたいことが多すぎて

二日後はYUKIのライブの日です。
もう目前に迫っているにも関わらず、
特に高まるものを覚えないまま日々を過ごしています。
楽しみにしていない、ってことじゃないですよ。
そりゃあもうめちゃくちゃ楽しみです。
でもライブ中はものすごく落ち着いて、余り言葉を発さずにいるだろうな。
腕なんか組んだりしちゃうかもしれない。
YUKIの音楽は、僕にとっていつもそうやって聴くものだから。
部屋の真ん中に座り込んで、ヘッドホンをして、
微動だにせずに聴いて、言葉に寄り添う。
YUKIの音楽は、僕の中でいつの間にかそういうものになった。
「YUKIちゃん可愛い!」なんてノリじゃなかった。
YUKIの音楽を聴く、ってことは、もっともっと切実な行為だった。
ドン詰まりになった自分を、とにかく前に進ませようとする行為だった。
だから、「目を、目を、目を、覚ましたいのに」も、
「愛の火は消えないわ」も、「私はこのまま信じてゆけるわ」も、
「あたしはうすっぺらで本物にはなれない」も、「もう歌えないわ」も、
他の誰もが受け入れようとしなくても、
俺だけは死ぬまで受け入れてやると誓った。

一応知らない人のために。
YUKIのソロ第一弾アルバムの『PRISMIC』は
“眠り姫”という曲から始まっているんですよ。
その一曲目で、YUKIは自分の中の「ひとり」の存在を認めます。
独りぼっちで迷子になった自分を、YUKIは「眠り姫」と呼んだのです。
そして、YUKIはそれを一曲目に選んだ。
もう何百万回と聴いたアルバムなのに、
僕は未だにこの始まりにいちいち感動して、涙が出そうになります。
自分の中の「ひとり」と共鳴するんです。
「君もここから始められるんだよ」とYUKIに耳元で囁かれてるような気になるんです。
結局は独りぼっちで、不完全な自分だけど、僕はここから何か始められる。
それはきっとあなただって一緒なはずです。
みんなの中に、「眠り姫」は存在するんです。
自分の中にいる「眠り姫」の存在を認められたら、すべてはうまくいく。
「眠り姫」はすべてをポジティヴな方向に向けるキーワードです。
なんかいかがわしい宗教みたいですね。
もう何でも良いや。
ライブ、ものすごく楽しみだな。


さてさて今日もディスク・レヴューを載せます。
今日は古い作品から。
最近はロックの歴史を遡って聴いているわけですが、
つまり、今はちょうどこのへんを聴いているということです。

Please Please Me
/ The Beatles

Please Please Me


ビートルズのデビュー・アルバム
 最近は何世代も前のロック・グレイツの作品も積極的に購入しているのだけど、こうやって聴いてみると、ビートルズが当時どれだけ特別な存在感を放っていたかが改めてよくわかる。初期時代は彼ら自身がその代表格として語られているが、ロックがたとえ思春期的なきらめきを多く内包したものであっても、ビートルズにはこのデビュー・アルバムの時点ですでに「それだけでは終わらせない」とでも言うような意地があった。ライブ録音されていることも大きいのだろうが、最終曲の“ツイスト・アンド・シャウト”で聴けるジョン・レノンのしびれる歌声には、「これぞロケンロー!」な強いうねりがある。ジョンとポールをいちおう中心に置いてはいるが、メンバー全員がボーカルを担当できる形は今でも十分な強みだ。並みのアイドル・バンドでなかったことは余りにも明白である。他のバンドとは「幅」が全然違うのだ。この後、ビートルズがどのような作品を発表していくかはとっくの昔にわかりきっているが、ここから彼らの才能と魅力がいかに『サージェント・ペパーズ』へと結実していくのか、改めて作品を追うのが非常に楽しみである。ビートルズの未来は、すなわちロックの未来なのである。ビートルズについてはわざわざ僕が書かなくてもすでに語り尽くされている感があるので、以上、すべて蛇足でした。
19:13 | 音楽 | comments (3) | trackbacks (0) | page top↑

メランコリニスタ

本当は大学で授業の時間なんですけどね、
今日はなんだか朝から憂鬱で、お昼の授業は休みました。
そういえば去年もこの季節に憂鬱な日々が続いて、
2週間ぐらい学校を休んだ時期があったなぁ。
5月病、ってやつなんでしょうか。
天気が良いせいか太陽に責められているような気がして、
余計に憂鬱になりますよね。

朝の授業は頑張って受けてきたんですけど、
あれは本当にくだらない授業だな。
幸福論、と言えば良いのでしょうか。
みんなで仲良く「幸福」を定義するおめでたい授業です。
大真面目に議論できたら面白いんだろうけど、
出てくる言葉が「平和」「安心感」「自由」「カネ」
「大切な人が幸せでいてくれること」「悩めること」って、小学生じゃないんだから。
どの言葉も、誰の定義も、みんな僕にはひどく居心地が悪い。
先生も授業の最初にいちいちそんなこと取り上げてる場合じゃないよ。
幸福など存在しないと悟った時に訪れる永遠の諦観?
違う。
幸福とは、どれだけの時間の洗礼を受けても、すべてを感じ終えた後にも、
それでも自分の中に残り続けている「何か」の存在を信じる力である。
そんな、未来を約束する力である。


来月に新作が発表されるので、振り返って久しぶりに聴いてみました。
ザ・ミュージック。
今考えても本当に良いバンド名だな。
「音楽」のすべてを背負って、突き進んでいけ。

The Music
/ The Music

The Music-The Muic

想像力に感電する
 勘違いファッションに身を包んだイタい美大生や芸大生をテレビなんかで観るとこのことについて真剣に考えたことがあるのだろうかとつくづく不安になってくるのだけれど、アートをとりあえず想像力の限界を突き止めようとする営みだと定義するのなら、ザ・ミュージックのデビュー・アルバムである本作は、まさしく正真正銘の「アート」だった。いや、それ以上かもしれない。エクスペリメンタリズムとか新時代の息吹とか、そんな中途半端で都合の良いタームなんて楽勝で振り切ってしまう、ザ・ミュージックという音楽の「発明」である。
 彼らのロックを究極の「アート」、はたまた「発明」たらしめているものとはいったい何なのか。超人的に卓越した演奏力? 流麗な文学性の光るリリック? 聴き手のイメージを否が応でも刺激するストーリー・テリング? 彼らのリスナーならそれら全てが明らかに間違っていることはわかっていただけると思う。だとすれば、ザ・ミュージックの実態とは何なのか。それは「想像力」である。言葉にするほどの思想もなく、語り継がれるほどの演奏力も持ち合わせていなかった、つまり、ロックとして限り無くゼロに近い地平から自分たちの音楽を立ち上がらせる時、彼らはそれぞれが楽器と格闘し、そのしびれるほどのエネルギーとテンションによって音を征服することで、形にし難い「想像力」をエグイくらい肉体化することに成功した。これはそういうアルバムである。発表から5年以上が過ぎた今なおこのアルバムを的確に形容できるシーンや言葉は存在しないのだ。ロックのあらゆる想像力の限界を見事に打開し、ロックがアートすらも凌駕し得る表現だということを証明した1枚。セカンドでは本質的な進歩を見せることが出来なかった彼らだが、来月発表の新作ではどうなる? 孤高をひた進め。
13:50 | 大学 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

麺類は好き

そうめん
昨日サークルの仲間が誕生日を祝ってくれて、
流しそうめんのキットをプレゼントしてくれました。
今年の夏はなんだか楽しく過ごせそうです。
「そうめんも欲しー」とわがまま言ったら「来年ね」と軽くいなされました。
さすが、みんなよくわかってる。
うれしかったです。ありがとう。
バイトに行かなきゃいけないので、早くレヴューを載せちゃいます。
みんな本当にありがとう。


The Kinks(+12)
/ The Kinks

Kinks


ロックの、ひとつの分岐点
 ビートルズ、ローリング・ストーンズ、ザ・フーらと共に60年代イギリスのロック・シーンを支えた立役者バンド。そのデビュー・アルバムに、実に12曲ものボーナス・トラックを加えた06年の後発盤。オリジナルの発表は64年。ビートルズのアメリカ進出をきっかけに第一次ブリティッシュ・インヴェイションが巻き起こっていた真っ只中の作品である。この頃のロック市場では今以上にレーベル側の商的な戦略が露骨に表れていて(でもむしろこの頃のは気持ち良いぐらいで、今の方が陰湿でよっぽど気持ち悪い)、デビュー当時からオリジナルでの勝負を望んでいたというレイ・デイヴィスの強固な意志も空しく、収録曲の約半分は「外さない」無難なカバー曲で占められている。ボーナス・トラックの一曲目、彼らのデビュー・シングルである“ロング・トール・サリー”も、ビートルズもカバーしているリトル・リチャードの楽曲だ。
 そんな中にいて、明らかに異質さを感じさせるのが“ユー・リアリー・ガット・ミー”の存在である。“ソー・ミスティファイング”や“アイ・トゥック・マイ・ベイビー・ホーム”などを聴いて正当かつ典型的なブリティッシュ・ロックの穏やかさに身を任せていると、剃刀でアンプを傷つけて半ば強引に音を歪ませたという重いギター・サウンドが、ガツンと耳を打ちつけて響いてくる。この曲がハード・ロックの原型を作ったということは今では誰もが周知の語り草になっているが、その功績が単なる僥倖ではないことを証明しているのが続くシングル曲でありボーナス・サイドに収録されている“オール・デイ・アンド・オール・オブ・ザ・ナイト”だ。ロックにハード・ロックという新たな可能性が芽吹いた瞬間を記録している。ボーナス・サイドには、イギー・ポップやイアン・カーティスもライブで好んで演奏したというキングスメンの“ルイ・ルイ”のカバーも収録されている。

16:28 | 日記 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

Alive

不自由な心 (角川文庫)


白石一文の『不自由な心』という短編集に入っている
“夢の空”という話をトイレの中で読んでいたのですが、
便器の底に引きずり込まれるような不快な読後感でした。
一枚の落ち葉がゆっくりと静かに落ちていく様子を見守るような、
「多分あそこに着地するんだろうなぁ」という感覚で読めたのですが、
いざ着地というときになったらそこが汚物まみれのドブだということに気が付いて、
落ち葉は何も知らずにそのまま汚物に沈んでいく――雑な感想だけどそんな感じ。
愛し合う者たちの交わした約束も、最後の望みもビリビリに破り捨てて、
全部便器の中に放り投げて、何もかも洗い流してしまうような着地の仕方でした。
“夢の空”。その色は真っ黒に塗りつぶされてしまいました。
白石一文にこんな貫井徳郎みたいなことできるんだ。
良い意味で裏切られたかな。
短編の話はやっぱり長編レベルの読圧がないというか、
時間をかけて様々な情報が結びつきながら様々な人の思いが解きほぐされていく、
そんな高次元の表現力を発揮するのは難しいですが、
その作家の作風がオリジナルな理由とか、
いつもとは違った実験性が垣間見えたりして面白いですよね。
今日は5、6時間目にだけ大学の授業があるけど、
両方ともあんまり面白くないからその時に続きを読もう。

このまえキンクスやディランについて少し書きましたが、
彼らが登場した60年代だけでなく、
自分がこれまでに聴いてきた作品も改めて聴きなおしています。
そうやって久しぶりに聴いてみて思うのだけど、
まだ10代だった頃、僕はいったい何を考えて音楽を聴いていたんだろう。
結局僕は今の今になるまで音楽を聴いたことがなかった。
それぞれの作品やそれらに対する思いを、
僕はずっと「聴いた当時」に置き去りにしていたんだと思う。
それを「永遠」にする術を、僕は知らなかった。
訳のわからないことを言っていますが、でもそうなのです。
過去に置き忘れた「点」を、今僕は必死に「線」で繋ごうとしています。
だから今更になって、
僕はニルヴァーナやパール・ジャムに、とても感動している。


Ten
/ Pearl Jam

Ten



パール・ジャムという揺るぎない生き様
 「91年」「シアトル」「グランジ」という言葉が並べば真っ先に思い浮かぶのはやはりニルヴァーナの『ネヴァー・マインド』だが、僕は断然こちらを推す。パール・ジャムの記念すべきデビュー・アルバムである。90年代初めに台頭したグランジは、当時のMTVを代表とするビジネス至上主義に反旗を翻した一大ムーヴメントといったような文脈で語られることが多いが、ニルヴァーナにしてもパール・ジャムにしても、そもそも彼らの念頭には「反商業」という明確なオルタナティヴはなかったというか、そんなことは実はどうでも良かったんだと思う。ただ、彼らはロックを通して「生きようとする」ことを、演じていなかっただけだ。それがたまたま時代の流れとやらには猛烈にそぐわなかった。だからこそ、その狭間で人格を押しつぶされたカート・コバーンは、その信念を自らの手で撃ち抜かねばならなかった。
 “ワンス”“アライヴ”“ジェレミー”“ガーデン”といったパール・ジャム初期の名曲が並ぶ傑作。エディ・ヴェダーのボーカルは傷跡から穿り出されたかのように重く、その力強さがかえって痛々しくもある。ただこのアルバムが、絶望のどん底のうめき声を音に変換しながらも、そこに一縷の望みや生命力といった温かいものを感じさせるのは、彼らの歌を、「それでも生きる」というしぶとい最後の希望が背骨のようにしっかりと貫いていたからだ。
 もし、カート・コバーンがこのバンドの一員だったら、彼は今も存命だっただろうか。生きることで、自分を打ちのめした連中になんとか一泡吹かせてやろうと戦い続けているだろうか。いくら考えてもそれが想像の域を超えることはないが、少なくともパール・ジャムだけは、かつて数多く登場した「グランジ」と呼ばれるバンドの中で、唯一その戦い方を今も体現している。
14:38 | 日記 | comments (4) | trackbacks (0) | page top↑

共感

昨日、21歳になりました。
21歳。中途半端な歳だ。
もうハタチですらない。
21歳を越したら自分の歳なんかどうでもよくなって、
「あれ、俺今何歳だっけ?」なんてことになると聞いたことがあるんですが、
実際に21歳になってみると、結構信憑性の高い話かもしれません。
年齢なんか、どうでもよくなりそう。

21歳で大学3年生。
本当に早いもんだと思う。
これから卒業まではもっと早いんだろうな。
企業のインターンシップに参加している友達なんかを見ると、
自分は大丈夫なんだろうかと心底心配になります。
同じサークルにもダブル・スクールをして忙しそうな友達がいる。
みんなそれぞれに的を絞って、前に進もうとしている。
僕は大丈夫だろうか。
僕は、自分の本当にやりたいことを最後まで守り抜けるだろうか。
これまでは本当に意志の弱い人生を歩んできたと思う。
消去法でやってきたと言うか、とにかく引き算の人生だった。
僕は自分を変えたい。
僕はまだ、一度も自分自身に満足などしていない。


Third
/ Portishead

Third


「正しい」のはどっちだ?
 絶対零度の漆黒を纏ったサウンド。祈りと怨嗟の狭間で慟哭を刻むような歌声。両者は共に極めて高濃度な「重み」で頭上から舞い降りてくるが、明らかに、満たされていない。つまり、これはポーティスヘッドの世界である。10年の不在をも飲み込む巨大な「闇」が、静かに、空間を侵食していく。通産3枚目となるオリジナル・アルバム。タイトルは『サード』。ポーティスヘッドは、ここで10年前の「続き」を始めようとしている。もう「ブリストル」も「トリップホップ」も関係ない。純粋な、中身だけの勝負である。
 ポーティスヘッドの「闇」には一切の綻びがない。ひどく憂鬱で、圧倒的に暗い。そしてその息を呑むほどの完全性は、同時に世界の不完全性でもある。愛、メインストリーム、「政治的~」「社会的~」といった表層的かつ絶対的な権威の不安定さを拒絶するかのように、自分たちも知らず知らずのうちにそれらに加担していることを認めながらも、それらの不完全性の中でポーティスヘッドは完全であろうとしている。90年代半ば、ブリットポップのお祭り騒ぎの脇道から『ダミー』を発表したという登場の時点でポーティスヘッドはすでに裏側の存在だったわけだが、10年越しの本作でその裏側を覆い尽くす「闇」の正当性がようやく明らかにされたような、少なくとも個人的にはそう思う。
 思い切って身も蓋もないことを言うが、この10年の間に幾度となくアナウンスされた新作発表のニュースがどれも結局はオジャンになっているという彼らの完璧主義的な面を物語る事実から、本作が平凡なレベルの出来でおさまってしまう作品でないことはわかっていた。ただ、彼らの新しい作品が、評論家も、『ダミー』をリアルタイムで経験していない僕を含めた若い世代のロック・ファンからも熱烈な渇望を受け、懐かしさや切ない思いではなく純然たる「新作」として受け止められているということが、ポーティスヘッドの「正さ」を何よりも強く伝えている。まだ誰も、世界の「正さ」を認めてはいない。
16:28 | 音楽 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

オールド・ソウル・ソング

kinks.jpg
バイトから帰ってきたらポストに届いていました。
ザ・キンクスが64年に発表したデビュー・アルバム『ザ・キンクス』。
今、なぜこれを買って聴くのか。
僕は、ビートルズも、ドアーズも、ピンク・フロイドも、一応聴いてはいるけれども、
でも、何世代も前の作品とももっと濃い向き合い方が出来るんじゃないかと思って、
ロッキング・オンのディスク・ガイドを頼りにしながら
ロック・ヒストリーを一から漁り返してやろうという目論見です。
それでも多くの脇道まではカバーできないだろうけど、
でも出来るだけ多くの古い作品を聴きたい。

別に聴かなくても、
その「聴いてなさ」からしか感じられないこともあると思う。
でも、中古のCDをインターネットでいくらでも安く手に入れられるご時勢である。
インターネットの恩恵に、思い切り浴してやろうじゃないか。
お前の耳はいったい何のためにそこにくっついているのか。


The Freewheelin' Bob Dylan
/ Bob Dylan

The Freewheelin\' Bob Dylan


現実という物語
 最近だったらアクモンのアレックス・ターナーやブライト・アイズのコナー・オバーストが挙げられるが、時代の語り部と呼ばれる彼らの歌が感動的なのは、聴き手の頭にその楽曲の情景を鮮やかに描き出すことができるからだと思う。風景も色も空気もリアルに再現しながら、その楽曲のイマジネーションやエモーションの原水地へと聴き手を導く奇跡。それがストーリー・テリングという才能である。誰にでもできることじゃあない。ジョン・レノンやジム・モリソンでさえこのレベルには届かなかったのだ。最初の語り部、ボブ・ディランのセカンド・アルバムである。
 “ライク・ア・ローリング・ストーン”が世界中のレコード・ショップで若者を打ちのめしたことからもわかるとおり、ボブ・ディランはストリートの人だ。そして、道端に転がった石ころを蹴り飛ばすかのように、彼は世界に鋭い言葉を突きつけていく。それは優れて正鵠を射たプロテスト・ソングであり、だからこそストリートにあぶれた若者たちの「普遍」であり、ディランの言葉は「世代の声」だった。その感動が今の時代にもまったく風化せずここにパッケージされているという事実が、彼の歌がストーリー・テリングとして極めてリアルな説得力を持っていることを証明している。21世紀に生きる僕たちでさえ、彼の歌を聴いて世界の胸糞悪さを知り、それでも生きることへの強い肯定性を実感するのだ。ギターとハーモニカと言葉だけ。伝統的なフォーク・ソングのマナーを踏襲しながらも、ディランの歌に覚える興奮は限り無くロック的なものだった。傑作である。
02:00 | 音楽 | comments (4) | trackbacks (0) | page top↑

なんと

ROCKIN' ON JPANからメールが来た。
知らないアドレスからだったから、迷惑メールかと思ったけど、違った。
迷惑メールだったら件名のところにはいつも卑猥な言葉が並んでいるけど、
書いてあったのは「ジャパンレヴュー掲載のお願い」。
僕が送ったレヴューをJAPAN6月号に掲載したいって。
このブログでは一度載せた記事ですけどね。
“汽車に乗って”について。

ちょっともう興奮しちゃって何がなんだかわからなくなって、
10分ぐらいはテレビをボーっと観てたんですけど、
メールに「お電話ください」と書いてあったので、
震える手で携帯と格闘しながら、メールに書いてあった番号に電話しました。
侵しちゃいけない聖域に踏み込むような覚悟で電話したんですけど、
案外あっけなく終わって、こんなもんかと言うか、ちょっと安心したと言うか。
もう今は興奮もおさまりました。嬉しいです。

僕は、JAPANは買っていません。
読んでいるのは専ら洋楽誌のrockin' onの方です。
ほいじゃあなぜJAPANに投稿したのかというと、
それはもちろん、説明するまでもなく、YUKIについて書いたものだからです。
一番信頼している人について書いて、
唯一信頼している雑誌社にそれが載ると思ったら、
これほど胸の高鳴るものはありませんね。
多分これからしばらくはYUKIの音楽を聴きなおす作業に入るな。
いや、正確にはもう入ってるというか、今は『PRISMIC』を聴いています。
今月はライブも待ってるぞ。

『PRISMIC』。
もう一回、声に出して、『PRISMIC』。
僕の、すべてを変えたアルバムである。
「一枚選ぶとしたら?」と聞かれたら、絶対にこのアルバムを挙げることにしている。
初めて買ったCDではない。
初めて真剣に聴いたロック・アルバムでもない。
でも多分、初めての、「思い出のアルバム」である。
このアルバムを聴くことは、最初は過去の思いを舐める情けない行為だった。
でもこの「思い出のアルバム」が、それだけじゃなくなった時、
「思い出」だけではこのアルバムへの思いを説明し切れなくなった時、
僕の中に「ロック」が完成した、と思う。そういうことにしている。

『PRISMIC』の一曲目は“眠り姫”。
二曲目は“the end of shite”でその次が“66db”……。
ラスト三曲は“プリズム”に“ふるえて眠れ”、そして“呪い”。
まるで分裂症みたいに、YUKIの中の色んな人格が顔を出すアルバムである。
分裂症は、抑圧や喪失からくる激しい感情の波が覆いかぶさろうとした時に、
その脅威から逃れようとするために別人格を言わば磔刑にする逃避手段である。
まさにそんなアルバムだ。
時に奔放に、時に陰湿に、YUKIはこのアルバムの中で、
右往左往してあちこちに体をぶつけながら、それでも前に進むことを選び抜いた。

今度のライブで同じ空間を共有する多くのファンの中で、
このアルバムを一番に挙げる人は多分少数派だろう。
でも、もしこのアルバムが、
YUKIがなんとか自分を前に進めるために吐き出した「わがまま」なら、
俺が死ぬまで受け止めてやる。

12:05 | 音楽 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

今日したこと

タイトルが小学生の日記みたいだ。
世間はGW真っ只中で何やら騒がしいですが、
僕みたいな引き篭もりには連休中の予定など一切なく、
相変わらず家で音楽聴いて映画観て本読んで、気ままに過ごしています。

今日は音楽はナールズ・バークレイの新作や
ケイジャン・ダンス・パーティーのデビュー作を中心に聴いていました。
両方ともレヴューを載せられたら良いと思う。
今日はまた違う作品のレヴューを下に付け加えます。
今まさに聴いている最中の最新作です。
『徹底検証』で一度取り上げた人。ずっと楽しみにしていました。

映画は『白いカラス』と『オリバー・ツイスト』の2作品を観ました。
『白いカラス』は主なテーマが人種差別についてなんですが、
もっともっと広い意味で、人がいかに観念的な思いに縛られているか、
について考えなきゃいけないな、と思いました。
『オリバー・ツイスト』を観るのは2回目。
子どもの美しいピュアさが高慢な大人社会でどれほど無力なものか。
ついつい切ない気持ちになってしまうけど、
これよりひどいことなんてそこらへんで起こってるんだろう。
これは19世紀のロンドンの話だけではなくて、21世紀の僕たちの話でもある。

新しい本を買う金銭的な余裕があまりないので、
最近は野沢尚の作品を読み返しています。
今は『烈火の月』という作品。
「どんな過去であろうが記憶にとどめ、引き受けようとする生き方を、
瑛子は激痛と錯乱の狭間で選び取った」だって。
これぞ野沢流の、そして彼自身が挫折した「生き方」の真骨頂。
野沢尚にとって執筆作業は、
理想とはほど遠いところにいる自分の現在位置を確認する行為だったのかな。
空白を活字で埋め尽くすことで、不完全な自分から逃げていたんだろうか。
暗いな。だから好きなんだけども。

あと、それらの合間にゲームもやりました。
スーファミの『ボンバーマン2』。
画質もサウンドも可能性も最新機種には足元にも及ばないけど、
スーファミのソフトには不朽の名作が多いですよね。
今日はやらなかったけど最近は『ドンキーコング』のシリーズも
自分の中でリバイバルの熱が高まっています。
『カービィ・ボウル』もやりたいなあ。

本当に今日やったことを羅列しただけ。
内容も小学生みたいになっていなければ良いけど。
さてさて、最後にレヴューを載せようと思います。
待ちに待った新作。
今日になってようやく聴くことができました。
とりあえずの感想。


Hard Candy
/ Madonna

Hard Candy


恐るべき女王、その余りにも鮮やかな現役宣言
 これがもうじき実に50歳を迎える女王マドンナの渾身の開脚である。ボンテージの上からチャンピオン・ベルトを装着である。これはもう過激というかイタイというか、完全にアウトじゃん、というレベルである。しかしこれはモラルとか常識とか規範といった一種の「とらわれ」を猛烈に振り切ってしまう、非常にマドンナらしい本来の姿でもある。前作の紅パン・ルックも相当に苛烈だったが、今回の最高にビッチな感じは『ライク・ア・ヴァージン』期の印象と激しくカブる。だからといって、これが原点回帰になるとは思わない。もっと気楽なラヴ・ソングを歌って若手世代に第一線の立場を譲り渡しても誰も文句は言わないだろう。それでも今なおマドンナをリングへと駆り立てているのは、「世界は何も変わってはいない」「まだ闘争を終わらせることはできない」という極めてシンプルな「怒り」に他ならない。マドンナはずっとそうやってキャリアを切り開いてきた女性であるし、本作でもその意志がまったく揺らいでいないだけの話だ。まだ一度しか聴けていないから「待望の新作!」という興奮も大きく影響しているとは思うけど、00年代に入ってからの彼女の作品の中ではこれが一番好きだ。
 マドンナとは初共演のファレル、ティンバランド両者が手がけた楽曲は、共にファレル、ティンバランドそれぞれのものとしか言いようがないハイ・センス・クオリティを保っている。ジャスティン・ティンバーレイクにカニエまで名乗りをあげて、超ゴージャスな大物が一堂に集結し女王を戦いのリングというお立ち台まで押し上げている。そこで全世界に股を開くマドンナの姿も、やはり女王としか言いようがない力強い確信に満ち溢れたものだ。「世界を救うには残り4分しかない!」というリアルな具体性を伴ったラジカルなメッセージで僕たちを立ち上がらせ、マドンナは再びその先頭に自らを放とうとしている。戦いの女王は、いつもこうやって僕たちの闘志に火をつけてきたのだ。
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ベランダの一角へ

ひとつの歌と、ふたつの命と


 ここでは何度も紹介してきた人だから改めて説明する必要もないかもしれないけど、コナー・オバーストというシンガーがいる。ブライト・アイズ、という名前の方が有名かもしれない。ブライト・アイズはコナー・オバーストがフロント・マンを務めるバンドだが、コナー・オバーストとブライト・アイズはほとんどイコールの関係だと考えてもらってかまわない。ブルース・スプリングスティーンやパール・ジャムも参加したアメリカン・ロックのドリーム・チームの一員としてブッシュ再選阻止ツアーを回ったことで有名な人である。「史上最悪」の大統領に鋭い切っ先を向ける“ウェン・ザ・プレジデント・トークス・トゥ・ゴッド”という最強のプロテスト・ソングも残している。言うまでもなく、「今を生きる」という月並みながらも曖昧で絶妙な感触に敏感で、敵に怯える小動物のように震えた歌声からもわかるとおり、とてもナイーヴな精神の持ち主である。 
 『アイム・ワイド・アウェイク・イッツ・モーニング』という作品がある。一切の駄作を残していない彼のキャリアの中でも特別な作品である。“アット・ザ・ボトム・オブ・エヴリシング”という曲からこのアルバムは始まる。「あらゆることの根源」。初めて聴いた彼の曲がこれだった。この曲に心をわしづかみにされて以来、僕にとって彼の作品を聴くということは、それについて考える行為になった。つまり、「あらゆることの根源」とはいったい何なのか、ということである。柔らかいアコースティック・ギターの音色と彼の臆病な声に寄り添って、今もそのことについて考えている。

 “アット・ザ・ボトム・オブ・エヴリシング”はコナー・オバーストの語りから始まる。語りの終盤まで楽器の音は一切なく、彼の言葉だけが時間を支配しているかのような、迫真の物語である。舞台は大海の遥か上空をいく飛行機の機内。主役はひとりの女性と、隣の席に座ったひとりの男性。お互いに面識はない。退屈な長時間のフライトを終わらせたのは機長の突然のアナウンス。エンジンが破損して急速に堕ちていく機体をどうすることもできずにパニックを起こす機長。女性は隣に座っている男性に初めて声をかける。「私たち、いったいどこに向かっているの?」。すると男性はこう返す。「僕たちはパーティーに向かっているんだよ。君のバースデイ・パーティーだよ。ハッピー・バースデイ!ダーリン!僕たちは君のことを、とてもとてもとても、愛しているよ!」。そしてコナー・オバーストのギターがジャカジャカと鳴り始め、歌はようやく幕開けを迎える。自分の「死」と直面している真っ最中に、そこに居合わせた見知らぬ誰かにこう言うことが出来たら、素敵だと思う。泣かせる。

 ただ、この最初の語りは果たして聴き手の涙を誘うだけの感動的なフィクションに過ぎないのだろうか。男性の言葉の通り、みんながバースデイ・パーティーに向かっているのならば、その次に始まる歌はある種の「祝祭」なのではないだろうか。そして、この語りは「祝祭」の幕開けを告げる重要な布石なのではないだろうか。機体が地面に打ち砕かれ、命が飛び散り、そして「何か」が始まる。墜落して粉々になった機体から、悠々と空に舞い上がっていく風船のような生命力を感じさせるカラフルな球体が勢いよく飛び出すビデオが印象的だ。
 もし女性がバースデイ・パーティーに向かっているのならば、つまり、飛行機が墜落し、最初の語りが終わり、歌の始まりが彼女のバースデイを告げているのならば、彼女はその「生」の中で余りにも多くのことを感じることになる。「インターネットに繋がっていない電話を見つけたら、僕たちはいつでも話をしなくちゃならない/自分たちが読んだいろんな本の結末のページを、僕たちは全部引きちぎらなくちゃならない/電気椅子にしっかりと縛り付けられているすべての犯罪者の顔を、僕たちはじっと見つめなくちゃならない」。冒頭だけでも、彼女はこれだけの経験を課せられることになる。それらは言葉通りの具体的な出来事ではなく、生活を覆う様々な思い・感傷のメタファーである。そして、「聖歌隊の歌声に混ざり、僕たちはみんなとまったく同じように歌わなくちゃならない/僕たちは9つの数字を記憶し、自分たちに魂があることを否定しなくちゃならない/財産と名誉だけをひたすら追い求めるこの終わりなき人生レースを、僕たちは走り続けなくちゃならない」とも歌われている。彼女が、バースデイ以降にこれらすべてを経験する運命にあるのならば、たとえありがたい「生」を享けたとしても、その人生は決して手放しに「幸福」と呼べるものではないのかもしれない。最後には、「ああ、また僕に朝が訪れる/全世界が目を覚ます/すべての市内バスが目の前を泳ぐように走り抜けていく/僕は幸せ/だって自分がまったく無名の、取るに足らない人間だってわかったんだから」とある。朝が来て、つまり、すべてを感じ終えて、結局自分は普通の人間でしかない、と。「愛してる」と言われた彼女だって、特別ではない。僕とあなただって、決して例外ではないのだ。僕たちの人生は、特に美しくもなく、眩しく光り輝いてもなく、でもそれなりの幸せがある。そして、僕たちはそんな誰でも拾える石ころのような極めて普通の人生を、宝物のようにポケットに大事にしまって守り抜かなければならないのである。走り続けなければならないのである。コナー・オバーストは、自分もそんな普通の人間だと認め、だから幸せだと言う。
 皆、結局は堕ちていく飛行機に乗り合わせた者たちで、一緒に「死」へと向かっていくためだけの「生」なのかもしれない。コナー・オバーストはそれを幸せだと呼ぶ。余りにも脆弱で頼りないその声をなんとか搾り出して、様々な苦悩と絶望に打ちのめされ最後には「死」へと萎んでいく命を、それでも全力で認めている。そんな情けない人生に、強い肯定性を求めている。この曲はいったい何のための「祝祭」なのか。答えはそこにある。だって、自分が生きていることすらも祝福できないなんて、悲しすぎるだろう?


 僕が住んでいる部屋のベランダの一角で、当初はなんやかんや騒がれながらもめでたく「バースデイ」をむかえた2羽のハトのヒナの片方が、先月の終わりに生後2週間も経たない早さで息をひき取りました。そしてそれからまだ5日くらいしか過ぎていないのに、もう1羽も亡くなってしまいました。動物臭い強烈なにおいの立ち込めるベランダには、もう親のハトは寄ってこようとすらしません。巣の中でぐったりと体を横たえたヒナの最後の姿を見て、僕はひどく感傷的になった。ヒナが生きている間は見守る以外は何ひとつしなかったけど、せめてもの供養になればと“アット・ザ・ボトム・オブ・エヴリシング”を部屋で聴いた。先に亡くなったヒナのお墓を作った場所に行くまでの道程でも、コナー・オバーストの楽曲を聴いた。一緒にお墓を作りに行った僕の彼女は、ハトの卵を発見した時には厄ネタを掴まされたみたいに気持ち悪がっていたけど、土の中にヒナを埋めてやる時には静かに泣いていました。いつの間にか心の中で愛着を育てていた自分に驚いていました。この涙も、巣という小宇宙の中で何をするわけでもなく死んでいったちっぽけな命を、全力で肯定しているんだなあと思って、帰り道もコナー・オバーストの声を聴いた。その脆弱な歌声は、以前よりも重い説得力を感じさせたと思う。そんな気がしただけかもしれない。別にどっちでもいい。


 「あらゆることの根源」とはいったい何なのか。今もそのことについて考えている。2羽のハトが「生」を享け、そして「死」に沈んだところで、世界はおろか僕の人生すらも変えることなどできない。余りにも無力な命を目の当たりにして、そこに自分の無力さが並んで横たわっている姿も見て、ようやく「あらゆることの根源」はなんとなくだが僕に伝わり始めたような気がする。とは言ってもまだすりガラス越しに見ているような感覚だ。丸裸の実態はわからない。
 僕の乗っている飛行機が落下地点をとらえた時、隣に座っている見知らぬ誰かは僕が生きることを祝福してくれるだろうか。「愛してる!」と言ってくれとまでは望まない。そのころまでには、「あらゆることの根源」の意味もわかっていれば良いと思っている。


I'm Wide Awake It's Morning / Bright Eyes
I'm Wide Awake, It's Morning/Bright Eyes



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徹底検証 第5弾

「言葉」の力
 音楽の携帯化・ファッション化に僕が個人的に抱えている危機感についてはこれまで何度も書いてきたけど、最近の音楽に対する不安は決してそれだけではない。むしろ、携帯化・ファッション化は音楽の聴き方や価値を変えることはあるが、音楽という表現のそもそもの中身は何ひとついじくることができない分、まだまだ生易しい方かもしれない。音楽の将来に暗い影を落とす忌々しき問題は、他にも残されている。
 ヘヴィ・ロックがエンターテインメントとして肥大化し、だぶついていた90年代後半のアメリカの享楽的な空気は、そのまま持ち越されることなく9.11によって激変した。「今、歌うべきこと」と向き合いながら自分たちのアイデンティティの根本的な部分にまで視野を深めていったアメリカのロックは、『アメリカン・イディオット』を生み、『ネオン・バイブル』を生んだ。言わなければならないことを正確に言葉にし、アメリカのロックは真に迫っていったのだ。そして、アメリカのロックが次に向き合わなければいけない問題は、これから何を歌うか、だ。難しいが、アメリカのロックには未来がある。
 イギリスのロックは、どうでも良いことを歌っている。ロックが普遍である意味を歌ったザ・ヴュー、違和感を忠実に具体化してみせたブロック・パーティーなど、良いバンドはいる。でも、それもどこか突き抜けていない印象がある。どれもそのバンドの個人的なエモーションに収まってしまっていて、「時代の声」になっていないのだ。そして、それは日本でも同じだ。果たして僕たちはいつまでEXILEやコブクロで気楽な気持ちに浸かることができるだろうか。
 全ては「言葉」である。「言葉」は、気持ちであり、価値観であり、器だ。大きな「言葉」の器を持っていなければ、それだけ多くの思いや情報を取りこぼしてしまう。そして、その器から引き出す「言葉」も、限られたものになってしまう。最近の音楽に足りないところはまさにそこである。伝える側にそれが欠けているから、受け取る側も“NO MUSIC, NO LIFE”で終わってしまうのだ。それではいけない。音楽の表層的な部分だけを舐め回して悦に入っていてはいけない。今回の『徹底検証』で取り上げるのは、そこに強く訴えかけることのできるバンドだと思っている。
 ザ・スミス。現在のところイギリスで最後の「言葉」のバンドである。彼らが残した4枚のオリジナル・アルバムを通して、その「言葉」がいかに強烈な説得力を伴っていたかを振り返ります。
 『徹底検証』です。


The Smiths
The Smiths


あなたの「ロック」を裏切る歌
 ロックほどロマンチックなものはないと信じている。ラブでもピースでもハーモニーでも何でも良い。ロックは、未来を約束する表現だと思っている。どん詰まりの現状をどうにか打開するために、未来に輝いているはずの光に思いを馳せる、そんな「夢」という手段だと信じている。誰が何と言おうとそうである。僕の全ロック体験を懸けて、そう宣言する。でも、スミスの場合だけは例外を許して欲しい。スミスを聴くと、僕の中のロックは「夢」からベリベリと剥がれ落ちて、暗く深い闇へと沈んでしまうのだ。ラブもピースもハーモニーも、そしてそれらを歌うロックだって、すべて嘘っぱちだ。信じられるのは欲求にバカ正直な下半身だけである。そして少年は愛する人に股間を摺り寄せながら、絶望する。今なお英国で厄介な論争を巻き起こす発言を繰り返していることからも容易に理解できるが、モリッシーという男が地でいく変態であるためにスミスの作品はどれも本質的な部分を一切外していない。デビュー・アルバムである本作にしてすでにその表現型は堂に入っている。処女作にありがちなロックの輝かしい可能性に酔いしれるロマンチシズムは、一粒たりともない。モリッシーはロックが最終的に堕ちるべき肥溜めから言葉を拾っているのだ。ロックは無力だ、と。


Meat Is Murder
ミート・イズ・マーダー


全ての人間が共有する孤独と絶望について
 もともとはコンピレーション・アルバム『ハットフル・オブ・ホロウ』に収められ、オリジナル版には収録されなかった楽曲だが、後に再リリースされた際にはイギリスでも追加収録されたスミス髄一の名曲、“ハウ・スーン・イズ・ナウ?”について書きたい。モリッシーの書く詞の主人公は、毎晩ベッドで孤独を抱きしめながら自分の運命に絶望する「僕」であることがほとんどだが、“ハウ・スーン・イズ・ナウ?”ではそんな「僕」の目に映る「君」が無感情に説明されている。「クラブに行けば君のことを本当に愛してくれる誰かに会えるかもしれない/だから君は出かけて行って一人でつっ立ってみる/そして結局一人でクラブを出る/家に帰り/泣き/死にたくなるんだ」。そう、ここで語られる「君」の情けない姿とは、紛れもなくこれまでモリッシーが歌ってきた「僕」のそれと同一のものである。スミスの表現の核心部分に聴き手が急接近する数行だと思っているのだが、どうだろう。スミスの音楽が持っている多分に気色悪さを含んだ異常なほどの普遍性――それは聴き手の心に乗り移る「ひとり」の存在だと考えている。独り言のように己の暗さを披瀝するモリッシーの言葉に身を沈めながら、僕たちはそこに独りぼっちの自分の姿を見ているのだ。十代特有の倦怠や怒りを代弁し、一躍スターダムに伸し上ったt.A.T.u.は、デビュー・アルバムでこの曲をカバーしている。


The Queen Is Dead
ザ・クイーン・イズ・デッド


心に茨を持った少年がそこにも
 むなしい眼差しで地面に沈む女性。『女王は死んだ』というあえて薄氷を踏むような大胆なアルバム・タイトル。股間をまさぐるようにゾワゾワと這い上がってくるモリッシーの歌声。僕が初めて聴いたスミスのアルバムがこれだった。そのどれもが危ない世界への入り口につながっているみたいで、変に血が沸いたことを覚えている(実はこのブログを始めて僕が2番目に取り上げた作品がこれ。絶対に見ないほうが良いです)。でも、最も危険な匂いを発散していたのは、言葉だった。自分が孤独でいる理由にひとつずつ直面していく“アイ・ノウ・イッツ・オーヴァー”、スミス流の「人間失格」である“ビッグマウス・ストライクス・アゲイン”、強烈に愛情を求める思いを欺瞞にまで転換させた“心に茨を持つ少年”、健全に生きることを諦めた少年が闇へと向かう様を生々しく描いた“ゼア・イズ・ア・ライト”……。それら全ての物語が「愛こそ全て」と歌ったかつての素晴らしきロックを遥かに超える説得力を持っていたことは、ロック不毛の80年代にスミスが狂信的な支持を得たという史実をめくるまでもなく、僕は実感で知っている。スミスは、ドイツの悪魔のように若者を暗い穴蔵へと誘い込んだ笛吹きなのか、屈折した想像力の限界まで辿り着いた突然変異なのか。ただ言えることは、スミスの実態は僕とあなたの心の中にも存在する、ということだけだ。


Strangeways, Here We Come
Strangeways, Here We Come


負け犬は世界の終わりを見た
 本作発表後にバンドは解散する。ザ・スミス、最後のアルバムである。そして、このラスト・アルバムでもスミスはスミスであろうとした。“デス・オブ・ア・ディスコ・ダンサー”がそれを物語っている。上に書いたとおり、モリッシーの歌う「僕」が情けない彼自身であると同時に僕やあなたの隠されざる本性であるとわかった以上、「強きを救うサッチャリズムに汲々とする最底辺の若者の思いを代弁し~」という限定的な解説は僕にはほとんど意味を持たなかった。「ラブ、ピース、ハーモニー/とっても素敵だね/でもきっと来世のことだよね」と歌い、僕たちの生活を優しく包み込む絶対的な理想主義の偶像を完膚なきまで打ち砕き、モリッシーは未来を閉ざした。スミスがまだ現役で活動していた80年代よりも夢と希望に満ち溢れているはずだった21世紀の真実を知った今のほうが、モリッシーの言葉は切実に響くのではないだろうか。平和の祭典もエコもアキバのホコ天も、全ては絶望的な馬鹿どもの手によって「死」へと収束するのだ。「ディスコ・ダンサーの死」とは、その事実を鋭く叩きつけた明確なメタファーだった。僕たちが生きる命題を根本から覆したスミスの存在は、果たして世界を変えたのだろうか。伝説と化しながらもスミスは余りにも無力だった。だからこそ、きっと僕はまたどうしようもない思いでこのアルバムを開くことになるのだ。
13:58 | 徹底検証 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑
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