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ハト日記③

こいのぼり
大量のこいのぼりが揺れる川の近くで土のやわらかそうな場所を探して、
ハトのヒナのお墓を作ってきました。
ヒナの一匹が巣からこぼれ落ちて地面を舐めるようにして倒れているところを見つけて、
そっと近寄ってよく見てみると、死んでいました。
自力で巣から這い出たとは思えないから、ポッピーが押し出したんだろうな。
ポッピーのバカ。死んだ子どもは電池の切れたおもちゃじゃないよ。
ここしばらくすごく暖かい日が続いていたせいか腐敗が思った以上に進行していて、
すでにお腹は蛆に食い破られて、ベランダに命をぶちまけているような最後でした。
強烈な死臭の中でその姿を見て、なんだか一人でポッピーにイラついていました。
最近ベランダにいることが少ないみたいだけど、もう一羽のヒナはちゃんと育ててよ。
同じことしたら、許さないからね。
簡単な見送り方しかできなかったけど、キレイな眺めに満足してくれたら良い。


There is a light that never goes out.
「絶対に消えない光」って、一体何のことなんだろうか。
そんなものが本当にあるのか。
多分、モリッシーは、それを連呼することで、
そんなものどこにもない、って言いたかったんじゃないだろうか。
全ての光は消える。
ロックですら何の役にも立たないのだ。
ロックですら、己の無力さだけを知って、萎れていくしかないのである。
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17:07 | 日記 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

CDレヴュー

Accelerate
/ R.E.M.

アクセラレイト



本当の、新章
 巷で言われているように原点回帰のような気もするが、実は少し違う。ビル・ベリーが脱退して10年以上が経つが、それ以降に発表された『アップ』~『アラウンド・ザ・サン』を聴いても、最近のインタビューを読んでみても、彼の存在感は未だにバンドに鋭く突き刺さっているのだなと痛感させられる。『アップ』以降の3作はその重大な「喪失」を乗り越えるためのアルバムだったと言っても過言ではないわけだが、残されたメンバーは本作でようやくバンドを違う方向へと進めることができたようだ。「このアルバムがうまくいかなかった時には解散すらも考えていた」というピーター・バックの言葉が、彼らの本作にかけた思いの切実さや真っ当さを何よりもリアルに伝えている。
 ほとんど丸腰の作品である。『リヴィール』に顕著だったキーボードやストリングスはほとんど使用されていない。ピーター・バックのギターが激しいうねりを見せ、マイク・ミルズのベースがそれを器用に跳ね返し、マイケル・スタイプの言葉はその強い社会性や政治色を露わにしていく。つまり、これはある意味R.E.M.という表現の最も基本的なスタイルであり、足すことも引くことも出来ない、正真正銘のロックンロールの裸の姿である。それはまるで、バンドを始めたての「初期衝動」と呼ばれるものに似ている。未だにビル・ベリーの後姿を見つめているこのバンドにロックの火種は果たして残っているのか。それを確かめるためにも、デビューから25年が経った今、彼らはこのシンプルなロックンロールで自分たちのテンションをどこまで高めることができるかを試さなければならなかった。そして、このアルバムは彼らを新たに何でも始められる全くの「新地」へと連れて行った。これは、そういうアルバムである。
02:42 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

アミラーゼ

cursiveLP.jpg
『ドメスティカ』と並んでカーシヴのキャリアを代表する名作、
『アグリー・オルガン』のLPが届きました。
いびつに尖った鍵盤のアートワークが素敵ですよね。
LPサイズで見るとやっぱり迫力が違いますね。
近いうちにブライト・アイズの『アイム・ワイド・アウェイク~』や
ザ・ヴューの『ハッツ・オフ・トゥ・ザ・バスカーズ』のLPも届く予定。
ウィーザーの『ブルー・アルバム』『ピンカートン』とか
フレーミング・リップスの『ヨシミ・バトルズ・ザ・ピンク・ロボット』も買おう。
LP特有のヤワな音質でシャボン玉級に弱いフレーミングを聴いたらどうなるんだろう。
コナー・オバーストの震える声なんて、ラフ・ダイアモンドの手触りじゃないだろうか。

想像するだけでワクワクが止まらないわけですが、
父親にもらったLPプレイヤー、なんだか重要な部品が壊れてしまったみたいで、
自力でLPを回すことができないという非常に情けないことになっています。
父親が学生時代に買った古いものだから、
仕方ないと言えば仕方ないけど、もったいないなぁ。
新たに買うのも良いけど、できればこのプレイヤーで聴きたい。
解体して、修理してみるか。


僕がCDを買うと決まって「今どきCDなんて買わなくても~」と言う友達がいます。
先日、その友達にシンプル・プランの最新作が聴きたいと頼まれて、
僕の手作りジャケット&ブックレットを付けたCD-Rを渡しました。
友達に「CDコピーして」と頼まれると絶対にそうやって渡すんですけど、
パソコンを使いこなせない僕のチープなジャケット作成には、
チープな出来ながらもこれが結構な労力を必要とするわけです。
USBメモリーに曲のデータを入れて渡す、なんとも器用な友達もいる中で、
僕の精一杯の「アナログ」を同封したCD-Rはものすごく時代遅れだ。
僕はなんでそれにこだわるんだろう、と自己分析したら、
やっぱり僕はパソコンとかネットとかの軽薄な便利さがイヤなんだろうなぁと思う。
iPodは常に持ち歩いてるし、YouTubeだってよく使う。
日頃はそんな「今」の利便性に身を浸しているけど、
完全にデジタル派に振り切ってしまうのは、
自分には居心地が悪いことなんだと思う。
その居心地の悪さが僕をLP収集に向かわせてるんだろうか。
CDもLPも増えれば増えるほど置き場所に困るけど、それも嬉しい悲鳴なのです。
12:27 | 音楽 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

ポリリズム

もうあと一週間もすれば五月。早いですね。
うちのサークルにも少しずつ新入部員が入ってきています。
昨日も一人増えて、来週にもまた一人増えるみたい。
弱小だけど絶対に良いサークルだから、どんどん増えて欲しいな。
いつまでたっても自己紹介のうまくならない学び舎んずが大好きです。

と、もう書くことがなくて明らかに困っているのだけど、
そうなったらハト日記です。
卵が孵化した時からクークスの姿は一度も見てないし、
最近はカーテン開けて覗いてみてもポッピーの姿がない時が多いし、
それにヒナたちが前より弱っているような気がする。
なんだかベランダの一角に以前の活気がないような気がする。
ヒナたちは大丈夫なんだろうか。
ハトのヒナを見るのは初めてだけど、こんなに静かなヒナで良いのかな。
ハトが「ピヨピヨ」鳴いてるのも変だけど、もうちょっと騒いでも良いんじゃないか。
僕はどうすれば良いんだろう。
僕には見守ることしかできない。
このアルバムの音を聴いて、少しはヒナらしい元気さを出してくれないだろうか。

GAME
/ Perfume

GAME(DVD付) 【初回限定盤】


「何も背負わない」という美学
 堂本剛が嫌いだ。彼が専門用語を並べてレコーディングの苦労を語る時が一番嫌いだ。所詮一リスナーでしかない僕よりはそりゃあ音楽のシステマチックな部分には精通しているだろう。音楽を「わかっている」ような顔をしていつも語っているが、それではあなたの表現の中身とはいったい何なのか。奇抜な髪型とファッションに身を包んでなんだかミステリアスな曲を歌っているが、あれはいったい何なのか。堂本剛のファンも同じくらい嫌いだ。「なんとなく」不思議な雰囲気に身を沈めて気持ち良くなるのは勝手だが、レヴューを読んでみても理解する方だって結局は「なんとなく」じゃないか。いったい奴らは何を勘違いしているのか。
 その点、「何も考えないで歌ってるだけ」「アイドルでもアーティストでもどっちでも良い」と聞いてるこっちが申し訳なくなるぐらいバカ正直に答えるPerfumeは誠実である。テレビに出演した時も、熱狂するファンの前でマイペースにはしゃぐ彼女たちのノリは、まるで学芸会でも見ているようだった。そして、彼女たちは極めてわかりやすくどうでも良いことを歌っている。要は楽しく踊れればみんなハッピー!というわけである。そして、そこの部分にかけては一義に及ばず満点の作品である。そこだけを絶対無比の美学にして立ち上がる作品である。楽曲担当、ダンス担当、アートワーク担当、と3人のクリエイターが一貫して「Perfume」という世界を作り上げていることに加えて、その世界にちょこんと乗っかって歌っている本人たちに何かを背負う意志がエグイぐらい欠けていることが、この作品をまったく綻びのないキラッキラに楽しいアルバムへと引き上げている。そもそも、インディ時代に発表した地元・広島限定の楽曲タイトルが“OMAJINAI★ペロリ”に“彼氏募集中”である。この時点でもうすでにタダ者じゃあない。自分たちが何ひとつ「わかっていない」ことを自覚している分、Perfumeの作品はそうそう簡単にブレはしないだろう。笑いこける大器、Perfumeの最新作である。
16:20 | 日記 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

この映画を観ろ

 この映画を観ろ。ズバリ、この映画を観ろ、である。そのまま受け取っていただければ良い。これを書く理由は、ただ単にこの9つの作品をできるだけ多くの人に観てもらいたいという願いである。それ以上でも、それ以下でもない。改めて見ても素晴らしい作品群である。最初は10作品選ぼうと思ったが、自分のDVDコレクションを前にウンウン唸りながら考えて、結果的に同列で語れる作品は9つしかなかった。一切の妥協無しに選んだ9作品である。アクションもミュージカルも感動ドラマもアニメもある。選んだ基準は個人的な思い入れだけだが、どれも極めて普遍的な魅力を持っている作品だ。是非とも一度観て欲しい。すでにあなたが観たことのある作品も、いくつかあるのではないだろうか。もし観ていない作品がひとつでもあれば、今すぐにでも観て欲しい。だから、前置きはこれぐらいにしてさっそく紹介します。相変わらず字は多いです。


No.1
A Chorus Line
コーラスライン


僕の、この一作
 やはりミュージカル映画はこうでなくてはならない。同じミュージカルものでも高次元な表現力を誇る『ダンサー・イン・ザ・ダーク』から過去の有名曲の数々をミュージカル風にアレンジしてその価値を再発掘した『ムーラン・ルージュ』など様々だが、ミュージカル映画は最終的には歌と踊りの存在感そのものが物を言うのである。歌と踊りを除けば、どうでも良いセリフが並べられた退屈な映画だ。そして、歌と踊りを観せるだけで人を感動させられる映画である。ふと音楽が流れてきた瞬間、歌と踊りが頭の中で鮮やかに再現される、本当に素晴らしい映画である。ダンサーの中にはブロードウェイの舞台版でも本作に出演経験のある者もいる。全てを懸けて歌と踊りを謳歌するダンサーたちの姿は、何度観ても観飽きないし、とてもとても感動的だ。さっきから具体的なことを何ひとつ言っていないが、説得力がないことを承知でこのまま書かせていただく。この映画ほど素晴らしいラスト・シーンを僕は未だかつて観たことがない。金ピカの衣装に身を包んだ総勢100名以上のダンサーで歌い踊るラスト・ナンバー、“ワン”。眩暈が起きそうなくらいの過剰な金ピカで埋め尽くされたステージというあの空間には、映画がその誕生から常に果たそうとしてきた「夢」が、確かにある。


No.2
Big Fish
ビッグ・フィッシュ コレクターズ・エディション


ガラクタの奇跡
 今更説明する必要もないと思うのだけど、フレーミング・リップスというバンドがいる。機械でパパッと済ませれば良いのにあえて人力で音を探ったり、音程を外しまくった歌声をそのまま採用したり、その美学はとにかく機能的なものではない。でも、自分たちのそんな役に立たない「うまくなさ」を大真面目に認めながら「君は自分のありったけのパワーでいったい何をする?」と問いかける彼らが、僕は好きだ。そして、ティム・バートンという男は、映画界のフレーミング・リップスである。彼の作る作品はどれも切なくなるほどに妄想的で、所詮は実生活では何の役にも立たないフィクションに過ぎない。この作品だって、つまるところは一人の男の作り話である。僕たちの背丈の二倍以上はある大男だって、体がくっついた双子の歌手だって、オオカミに変身するサーカスの団長だって、人の死に様が瞳に映る魔女だって、そして湖を泳ぎ回る大きな魚だって、全て嘘っぱちである。嘘っぱちで、何の役にも立たないガラクタである。それをくだらないと言って投げ捨てるか、何の役にも立たないガラクタだけどとりあえず立ち止まって拾ってみるか、それはあなた次第だ。でもどうせなら、ポケットに大事にしまっておくほうが、僕は素敵だと思うぞ。その感触は、きっと温かいはずだ。


No.3
Kill Bill Vol.1
キル・ビル Vol.1 (ユニバーサル・ザ・ベスト2008年第2弾)

ヤッチマッター!
 オタク気質の映画監督なら、誰だって一度はこういう究極の趣味世界を映し出した作品を作ってみたいと思うのではないだろうか。宮崎駿も『紅の豚』を作った。ただ、こうゆう映画は余りにも個人的な趣味性が爆発しすぎてしまい、独りよがりなマニアックさだけが目に付く惨めな作品に成りかねない。タランティーノ監督は、あえてそれに全力で固執することで趣味映画にありがちな陥穽にはまることなく、完全に突き抜けた。そもそもこの人の作品には独自の趣味性が至る所に散りばめられているが、本作は別格である。この作品を観るだけで、僕たちはタランティーノの映画に懸けるガチャガチャとした思い入れの全てを瞬時に理解することが出来る。この作品が僕たちの中の「アクション」というカテゴリーをいとも簡単に振り切っているのは、明らかにエグすぎる大量の血しぶきとイタすぎるアニメーションとツラすぎるジャパンの誤解によるものだ。そして、それこそがこの作品を何よりもエッセンシャルなものにしている。作品を観ていると、監督の顔どころか脳みその中身まで見えてくるような気がするのだ。キャスティング、音楽、カメラ・ワーク、色使い……何を取っても「最高!」の一言。はちゃめちゃカオスなのに、みんなとっても生き生きとしている。これぞ趣味世界の真髄。


No.4
Trainspotting
トレインスポッティング DTSスペシャル・エディション 〈初回限定生産〉


ロックすること、生きること
 いくつかの作品を観たが、ダニー・ボイルという監督は「ロックであること」に対してとても意識的な人だ。「セックス、ドラッグ、ロックンロール」を地でいく男である。それは、ふとしたセリフに出てくるロック・グレイツの名前や、フィーチャーされた楽曲のことを考えるだけで簡単に想像できる。本作にもイギー・ポップのポスターがさりげなく飾ってあったりするので探してみて欲しい。そして、本作は彼とユアン・マクレガーが初めてタッグを組んだ『シャロウ・グレイヴ』や、続く『普通じゃない』と同じスタッフで作られた、ダニー・ボイル流の最高にクールでロックな世界観がひとつの完成形を迎えた作品だ。セックス、ドラッグ、アルコール、クラブ、暴力の中心に身を沈めた90年代半ばのスコットランドの若者の文化圏を描いているが、その生活はどう考えても満たされていない。自堕落な生活に影を落とす倦怠や虚無は、しかし、決して当時の若者だけが共有していた特別なものではない。いったい何のために生きているのかわからないまま、でも僕たちは何か始めなきゃいけない。「未来を選べ、人生を選べ」という映画史に残る名ゼリフが、この作品を鬱屈した青春時代のドキュメントとしてリアルなものにしている。この作品を観て少しでも共感できる部分があるのなら、きっと、人生とはこういうことなんだろう。


No.5
Little Miss Sunshine
リトル・ミス・サンシャイン


「あなた」を認める映画
 映画が客席とスクリーンを設置した映画館という基本的な発表のスタイルをとっている限り、つまり、一人二人単位ではなく大勢の人たちを一度に相手にしている表現である限り、映画に必要とされる究極の要素は「普遍」ということになる。それは「流行りの~」とか「泣ける~」とか、決してそういうことではない。僕が思う「普遍」とは、観ている全ての人がストーリーの中に自分の居場所を見つけることが出来る、ということである。そして、僕にそれさせてくれた初めての映画が『リトル・ミス・サンシャイン』だ。この作品を観て感動的なものを何も覚えない人は、自信過剰のバカか映画を観るセンスのない人だと思う。登場するキャラクターはそれぞれに自分だけの論理を持っている。社会の勝ち組になることに固執するお父さん然り、ニーチェに心を奪われて以来一言もしゃべらないお兄ちゃん然りである。そして、その論理はどれも一言に「正当」とは認めがたいものばかりだ。僕たちだって一緒である。誰一人「生きる」ということに違和感を抱えずにいる人間などいない。器用に社会に順応できないダメな自分をどうにか救うために、僕たちは自分だけのやり方を持っている。この作品には恋愛のようなわかりやすい感傷はない。ただ、映画を観ている全ての「あなた」に居場所与えることで、グッと「普遍」に近づいたのだ。


No.6
Butterfly Effect
バタフライ・エフェクト プレミアム・エディション


現実をも凌駕するエンターテインメントの説得力
 映画をとりあえずエンターテインメントとして捉えるなら、この作品は間違いなく最高峰に位置する。本作の成功の影響が明らかに感じられた第二弾は二番煎じという印象をどうしても拭えなくて、確かにまっさらな気持ちで観たらそれなりによく出来た作品なのだろうけど、やっぱりこっちのインパクトが大きすぎる。とにかく徹底されている。無造作に配置された情報が結末に向かうにつれてひとつずつリンクしていくストーリー展開には目を離すことができない。タイトルの「バタフライ・エフェクト」とは「蝶が羽ばたくだけで対岸の国で竜巻が起こる」というカオス理論のことだが、主人公の青年は次々と発生する「エフェクト」で不幸になっていく人々に直面しながら、最も切ない「正解」に迫られる。紆余曲折を経て主人公が何とかその答えに辿り着いた時、オアシスの“ストップ・クライング・ユア・ハート・アウト”が流れてくるのだ。そして、リアムの歌う「終わってしまった過去を変えることはできない」という言葉が響いた途端、本作の「運命は変えられない」という月並みなメッセージは観ている者に強烈な余韻を残す。それは、結局はエンターテインメントでしかない本作に「この映画は実話に基づいて~」という煽り以上の鮮やかな説得力を持たせている。本当によく出来てる。


No.7
Eyes Wide Shut
アイズ ワイド シャット


だからこそ「目を閉じる」のだ
 駄作を残していない監督、という点においては、スタンリー・キューブリックは間違いなくトップ・クラス。だから『時計仕掛けのオレンジ』も『フル・メタル・ジャケット』も本当に捨てがたいのだけれど、僕が選ぶのは彼の作品にしては珍しくトム・クルーズにニコール・キッドマンという超ゴージャスかつ超大衆的なキャストが話題になった本作。性的な精神世界だとか夫婦愛だとか、名作と呼ばれながらもあちこちでとんでもない勘違いがされているようだが、本作が描いているのは「ファックの可能性」について、である。すなわち、ファックは、刹那的な享楽にも、愛する人への裏切りにも、禁じ手のビジネスにも、そして時には「死」にすら成り得る。もちろん、キッドマンが最後で言い放つセリフからも読み取れるように、究極的な愛の証明でもある。ただ、このラスト・シーンが強烈なのは、ファックを楽観的なイメージで健全にまとめてしまうところではなくて、キッドマンが最後のセリフを放った直後に、突如としてエンディングに切り替わるところにある。観ている者にセリフを乱暴に突きつけて、そして終わる。この衝撃がわかっていただけるだろうか。全編に亘って描かれたあらゆるファックの可能性は、それがどんなに卑しいものであっても、絶望的なものであっても、結局は僕たちの目の前に横たわっているものでしかないのだ。


No.8
Dancer In The Dark
ダンサー・イン・ザ・ダーク


見ろ、「新しい世界」を
 ひとつの映画作品がその説得力を最も発揮できるところはエンディングに他ならない。僕のこの映画感想文の多くがエンディングを中心とする理解で書かれているのは、そういうことである。そして、この作品のエンディングは、僕の中の「映画」を変えた。四面楚歌の絶望に追い込まれて全てを失うひとりの女性の最後を記録した本作のエンディング。ビョーク演じるセルマは、お金や視力だけでなく、命までも失った。果たして、この映画はそれで本当に「終わった」のだろうか。この映画を観た友だちはみんな口を合わせたみたいに「暗い」としか言ってくれなくて困るのだけど、その観方ではまだまだ中途半端だ。この作品は、セルマが死を迎え、ビョークが歌うエンディング曲の“ニュー・ワールド”が流れ始めて、そこから「始まる」のだ。あらゆる悲しみと絶望を経験し、それでもセルマが生き生きと歌っていたのは、全てを感じ終えた後にこそ始まる何かを信じる喜びを、彼女は決して忘れなかったからだ。もっと、エンディング直前にスクリーンの真ん中に浮かび上がってくる言葉の意味や、“ニュー・ワールド”の歌詞に注目して欲しい。ありったけの絶望の向こう側にあるはずの、わずかに残された何かに思いを馳せる希望。本作のエンディングは、極めて高度な表現力でその希望の中身を伝えているのだ。


No.9
もののけ姫
もののけ姫【劇場版】


「人間」であることを忘れるな
 「この映画を観ろ」と言いつつこれを観ていない日本人は絶対に多くないと思うのだが、最後はこれである。頭の固い評論家たちは「アシタカは現代社会における○○を象徴していて~」とか得意げに言っているが、そんなこと、本当はどうでも良いのである。宮崎駿の作品に共通するテーマは、初期作の『ナウシカ』や『ラピュタ』を例に挙げるまでもなく、「人間性の否定」だと思っている。人間という世界の闇の諸悪の根源を否定することこそが、宮崎駿にとってのアニミズムだと考えている。だからこそ彼の作品には非・人間的なキャラクターが多く登場するのだ。そして、本作ほど宮崎駿のそんな世界の捉え方が対自然という明確な構図で表れている作品はない。ただ肝心なのは、宮崎駿の「人間性の否定」は、そのまま彼の「人間臭さ」でもあるということだ。否定することで人間の本性を対象化させながら、彼はそれを捨てることができなかった。自分たちの利益だけを考えて高慢に自然を犯すのが人間であるのと同時に、そんな愚かな人間に警告を発するのもまたアシタカやサンといった人間以外の何物でもないのだ。人間性をどれだけ否定しても、結局は自分ですらそんな人間の片割れでしかないのである。宮崎駿の作品は常にその事実と向き合う意味を言外に含んでいる。そんな矛盾に身を浸しながらの「生きろ」というメッセージほど、啓発として真に迫っているものはなかった。
22:10 | コラム | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

安室奈美恵はなぜすごいのか

60s 70s 80s
/ 安室奈美恵

60s 70s 80s(DVD付)



時代が求めた「再構築」
 Vidal Sassoonとタッグを組んで、「60年代」「70年代」「80年代」をテーマにいったん既存のスタイルを解体し、現代的な強度とスタイルを引き出しながらヘア&ファッション&ミュージックの新たな在り方を提案した画期的なシングル。僕はヘアメイクやファッションのことは無知といって良いほど何も知らないので、それぞれの世代感を示す3つの楽曲のビデオが収録されたDVDを観て安室奈美恵の余りに美しい姿にただただうっとりすることしかできないのだけど、ロック・オタクの視点からひとつだけ言えることがある。それは、「シングル」CDという音楽の基本的な発表スタイルの概念の「再構築」である。
 ひとつのアーティストが何枚もわけのわからんベスト・アルバムを発表し、インターネットで楽曲が切り売りされている時代である。要は、聴きたい曲はどこからでも簡単に安く手に入れることができる。薄っぺらい長方形のケースに収められた8mmサイズのシングルCDが発表されるのを一日千秋の思いで待ち続けていた時代とはわけが違う。残酷な言い方をしてしまえば、もうシングルCDなんて誰も必要としていないのだ。先日、YUKIの新しいシングルを買った時に、友達に「今どきシングル買ってる人なんているんや~」と言われて改めて実感したのだが、シングルCDはもはやコレクターズ・アイテムの領域である。この時代にシングルで勝負しようとするなら、今までと同じことをやっているだけではいけない。申し訳程度にDVDをつけるだけでもまだまだ甘い。安室奈美恵が本作でやった試みとは、昔とはすっかり事情の変わってしまった現代音楽の価値観に対する「再構築」という最もラディカルな挑戦である。
 まず驚いたのは収納ケースの大袈裟さだ。内容はブックレットにCDとDVDだけで、特別なものは一切ない。それでも通常アルバムよりもワン・ランク上のケース・クオリティ。セクシーなジャケットと相俟って、ひと目見ただけで高級感がある。更に、本作に収録されてるのは、どれも単体シングルで確実に通用する圧倒的な楽曲が3曲も。CMでも煽られていたように、VSのクリエイティヴ・エキスパートとファッション界のトップスタイリストが安室奈美恵の両脇を固める一大プロジェクトである。どこをとっても超破格。念のためにもう一度言っておくが、これは安室奈美恵の新しいアルバムではなく、あくまで「シングル」CDである。安室奈美恵が提案した、今という時代性と真正面から向き合った新しい「シングル」の形である。昨年の傑作アルバム『PLAY』の時にも思ったのだが、かつては典型的なJ-POP街道を邁進していた安室奈美恵は、いつの間にか時代の「先鋭」にまで自分の立ち居地を高めてしまった。確かにセールス面では90年代に劣る。でも、本人の証言無しに失礼かもしれないが、彼女は今キャリア史上最も幸せな場所にいる。もっとみんな正当な評価をするべきである。
 最高の商品クオリティ、最高の内容、最高のスタッフ、そして「安室奈美恵」という最高のネームバリューが一度に出揃ったとなれば、完全に時代遅れの「シングル」CDと言えども話は変わってくる。これはただの余談だが、安室奈美恵は本作で小室プロデュース期の“I HAVE NEVER SEEN”から実に9年4ヶ月ぶりにオリコン1位を獲得した。
17:34 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ハト日記②

ヒナ
ポッピーの卵が孵りました!
ポッピーは子どもが産まれて警戒心が高まっているのか、
カーテンを開けるといつも以上の俊敏さで子どもを置いて逃げていったので、
このスキに、と思って携帯で写真を撮りました。
網越しなので見難いですが、2羽とも無事に誕生しました。
卵が孵って初めてポッピーの旦那様を見たのですが、
キュッとスマートな佇まいがクールだったので、「クークス」と命名しました。
クークスは、割れた卵のカラを外に運び出して、精一杯優しさを表現していましたよ。
ポッピーはポッピーで、まだ体毛がちゃんと生え揃っていない子どもの上に乗って、
温めてやっていました。踏みつけてるようにしか見えなかったけど・・・・・・。
ところで、ポッピーとクークスは授かり婚だろうか。
そもそも、ポッピーが雌でクークスが雄っていう僕の予想は当たっているのだろうか。
子どもの名前は何にしようか。


Pretty. Odd.
/ Panic! At The Disco

プリティ。オッド。


渾身のパニック!劇場、開演
 初めてアルバムを通して聴いた時は、悪い冗談じゃなくて本当に9曲目の“パ・ドゥ・シュヴァル”らへんから、僕の頭の中では映画『ハイスクール・ミュージカル』シリーズのザック・エフロンが飛びっきりの笑顔を振りまきながら歌い回っていました。
 驚くべき変貌ぶりである。前作のパニック!は若者の自傷行為を助長するという典型的なエモへの誤解の温床になりかねない「自殺」や「神」というキーワードが舞踏会場でステップを踏んでいたが、本作で陽気なミュージカル・モードに大きくシフト・チェンジ。ここまで思い切りが良いとエモだなんだという成分表示はどうでもよくなってくる。パニック!アット・ザ・ディスコというカテゴリーが確実に築き上げられているのだ。前作が「死」の臭いが渦巻く下世話な舞踏会なら、本作は「生命力」がほとばしる快心のミュージカルである。雨や太陽、オオカミやかかしにまで次々と性格を与える基本的なミュージカル・マナーをきちんと守りながら生き生きと歌うブレンドンは、もちろんもうゴス・メイクを施していない。ホーンもストリングスも多重コーラスも、すべてがステージを彩る「演出」として意図的に作用し、ストーリーを過剰に盛り立てている。ただ、これは悲劇から喜劇まで見事に演じ分ける劇団パニック!を作り上げるだけの意味で収まってしまう作品ではない。前作からの飛躍、70年代サイケデリアの復元、バンドの二面性、様々な角度からこれまで自分たちが属していた「エモ」の枠組みを解体し、それをパニック!は完全に突き抜けた。誰の胸にも『サージェント・ペパーズ』の衝撃が鮮やかに甦る、壮大なアルバムである。
15:25 | 日記 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

汽車に乗って

汽車に乗って(初回生産限定盤)(DVD付)


YUKIの新曲とロックの本質的な意味について
 僕が毎月買っている雑誌の古い号に、面白い記事が載っていた。今は手元にないので正確な言葉ではないかもしれないが、「思い切りポップに振り切る」ということは、「あっちの世界」を覗きこむ「背徳感」なのだ、と。つまり、ポップの世界は僕とあなたが呼吸をしているこの世界とは全く別のところにある、ということだ。だからこそ極端なポップネスには僕たちの生活の暗さを反映する気のない過剰な陽気さがあるし、それが同時に危険な中毒性にもなり得る。雑な例えだが、ドラッグと似たようなものだ。これに僕の意見を少し加えるなら、ポップに「共感」はいらない、ということになる。ポップが「あっちの世界」のものならば、ポップには「こっちの世界」の感傷を背負う義理など全くないのである。
 そして、ここ最近のYUKIの楽曲はまさにそれだった。なんせ“ビスケット”に“星屑サンセット”に“ワンダーライン”である。タイトルからしてすでにYUKI特有の浮遊感が漂っているこの抽象的な楽曲たちに感じられる「共感」は少なかったと僕は思う。そこにもちろん批判の意味はなくて、これらの楽曲には浮遊感を増して「あっちの世界」へと飛び立っていくYUKIに対する「憧れ」のようなものが強かった、と言いたいのだ。“ワンダーライン”はそれを象徴する曲だった。ぶっとい虹のような摩訶不思議な線が、YUKIと「あっちの世界」を鮮やかに繋いでいた。最近のYUKIの楽曲に僕が感じていた気持ちの高ぶりの理由は、きっとそれなんだと思っていた。
 それがここにきて“汽車に乗って”である。“汽車に乗って”。余りにも具体的である。函館から上京した時のYUKI自身の気持ちがベースになっているらしいが、成り立ちからしてこの曲はハッキリしている。それはYUKIが遠い昔に経験した、紛れもない「こっちの世界」のものだ。入学・就職がひと段落着いたばかりのタイムリーな時期に発表されたのはただの偶然かもしれないが、今この曲に胸を打たれる人は結構多いのではないだろうか。それは、「共感」以外の何物でもない。牧歌的なアレンジやマンドリンなどの新しい要素も含まれているこの曲だが、手触りや強度という点においてはここ最近の楽曲たちと地続きのものである。でも、僕がこの曲を聴いて連想したのは“ビスケット”でも“星屑サンセット”でも、もちろん“ワンダーライン”でもなく、『commune』であり、そして『PRISMIC』だった。

 言うまでもなく、YUKIは弾けるポップネスをお菓子箱みたいに詰め込んだ『joy』の成功によってキャリアの第二の頂点に上り詰めた人だ。しかし、この人のソロとしての第一歩目は、『PRISMIC』という地味なアルバムである。そもそもがJUDY AND MARYでキャリアをスタートさせた人なのだ。なんだかんだ言いながらも、日本のマーケットでは陽気なポップさが強い力を持つことをYUKIは知っているはずだ。それでも彼女には『PRISMIC』を作る必要があった。それを物語っているのが、このブログでは何度も繰り返し主張している最終曲“呪い”のラスト一行である。歌い続けるための「もう歌えないわ」。YUKIは、『PRISMIC』でもはやバンドの一員ではない「今、ここ」の自分をいったん対象化しなければ前へ進めなかった。「もう歌えないわ」は決してネガティヴな響きを持たずに、続くセカンド・アルバム『commune』の外の世界と関わる勇気へと発展し、準備の整ったYUKIは『joy』で迷わず勝ちにいった。
 YUKIの表現はいつもまず「自分」から始まる。いきなり「あっちの世界」へ踏み出そうとはしない。まずは「自分」をどうにかこうにか見つめ直して、それから前へ、とにかくポジティヴな方向へ進み始める人だ。長男を病気で亡くした後の“joy”ツアーで、「joy」と「pain」という文字の書かれたTシャツを着て、アンコールで目に涙を浮かべながらのMCの後に歌った“ドラマチック”が印象的だ。

 僕は、いつも居心地の悪い「違和感」を抱きながらYUKIの音楽を聴いている。YUKIの表現は、彼女の生まれ持った可愛さやそのオシャレな雰囲気ゆえにそこばかりに議論が集中してしまって、ファンからでさえ過小評価されやすい。“汽車に乗って”はYUKIが過去に上京した時の思いを歌っているから素晴らしいわけではない。もちろん、YUKIの歌声が可愛いからでもない。シングル・コレクション『five-star』や映像作品の『ユキビデオ2』、『YUKI LIVE “5-star”~』など、ここ最近のYUKIはこれまでの自分を総括する作業に入っている、と少し前から考えていたのだが、それに“汽車に乗って”が加わると僕は非常に感慨深い。YUKIは、再び「こっちの世界」から「自分」を見つめ直そうとしている。そして、それはただ単に過去に思いを馳せるだけではなくて、YUKIが更に前へ進もうとしている証である。「汽車」は、YUKIを乗せていったいどこへ向かうのか。もう少し作品を重ねれば、その答えは見つかるかもしれない。

 もうひとつ、僕は「違和感」を抱えながら音楽を聴いている。もう何年も音楽を聴き続けてその正体について考えるけど、未だに答えの見えない、途方もない自問である。それはつまり、ロックとは、それを聴くとは、いったいどうゆうことなのだろう、ということである。時々友達に「ロックって何なの?」と聞かれるのだが、僕はずっとうまく言葉にできないでいる。「ああじゃない・こうじゃない」という否定形で語ることはできるが、それではいったい何なのか。
 それを、僕に何となくでも教えてくれたのがYUKIの『PRISMIC』だった。そして、“汽車に乗って”を聴いて、僕は強く思う。ロックは、他でもない「自分」を見つめ直す手段である。YUKIが何かを始める時、いつも「自分」を音楽に託すことから始めているように、僕たち聴き手側はその音楽に「自分」を託している。その音楽はいったい「自分」のどこに繋がりを求め、そこから何を引き出そうとしているのか。ロックを聴くということは、そこから引き出された何かを認める行為である。そこにある「自分」の断片を認め、そこから「自分」が始まることを、前に進めることを認める行為である。それは時に、個人的な思い出をめくることと紙一重だ。それはYUKIが歌う時にも同じことである。それでも、“汽車に乗って”という思い出をめくりながら、YUKIは前へ進もうとしている。僕も前へ進まなければならない。ロックがいったい何なのか、具体的にはまだわかっていない。それでも、YUKIの表現にはロックの本質があると、僕は信じている。
20:09 | コラム | comments (8) | trackbacks (0) | page top↑

ハト日記

を書こうと思ってカーテンを開けたら卵を置いて逃げて行ってしまいました。
卵ってずっと温めてなくて大丈夫なのかな。
僕の姿を見るとよく逃げ出すんですけど、卵は無事に孵化するのかな。
というか親の方にストレスがかかりすぎたりしないだろうか。
何もしないから逃げなくて良いよ~。
そうそう、親のハトに勝手に名前を付けました。
「ぽっぴー」。
可愛い。

Konk
/ The Kooks

Konk


理想的な成長
 バンドの中心人物であるルークはコールドプレイに例えていたが、個人的にはストロークスが『ファースト・インプレッション・オブ・アース』で見せた飛躍に似ていると思う。それは単にバンドの存在がよりビッグになったということだけではなくて、メンバーの突破への意志が作品に見事に反映され、それが音そのものに強烈な鮮やかさを与えたという意味において、である。
 ゆっくりと、でも確実に支持を増やしジワジワと売れ広がっていった前作『インサイド・イン/インサイド・アウト』は結果的にダブル・ミリオンを獲得したという。あのアルバムの時点でザ・クークスの鳴らす音はすでに完成していて、個人的に彼らのキモはわかりやすいメロディをそれだけでは終わらせないクールな「効き」だと思っている。“マッチボックス”や“ナイーヴ”を聴けばわかっていただけるのではないだろうか。本作は、その「効き」をメロディに維持させたまま、熱い普遍にグッと近づいた良いアルバムに仕上がっている。今なお勢いを失わないUKインディ・ギター・ロックの中で、前作のクークスのイメージにはどこか冷めた態度で他のバンドからは距離をとっているような感があったのだが、本作の熱気はすごい。“ドゥー・ユー・ワナ”“ギャップ”“スウェイ”などではこれまでのクークスにはなかったダイナミズムが爆発していて、思わずむせ返りそうになる。それはもう「インディ」なんていうこぢんまりとしたシーンのものではなくて、明らかに「メジャー」なものだ。本作でクークスはコールドプレイやオアシスのいるイギリスの正当なロックの地平にまで一気に漕ぎ出した、と言っても過言ではない。アクモンだケイジャンだと騒がしい今のUKロックの中で、ロックの正当性を感覚的に叩き出せる若いバンドいるのは非常に頼もしい。年内に新作リリースの噂が囁かれるザ・ヴューにも期待です。
16:38 | 日記 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

フレッシュな気持ちで

プロフィールを更新しました。
どこが変わったか、お解りいただけるでしょうか。
大学3年生になりました。昨日から授業が始まりました。
来月には年齢を更新しないといけません。
ここはあんまり更新したくないですね。
3年生の授業は、なんだか楽しみなものが多いです。
たった6人の、少人数のあのゼミも楽しみ。
今年こそは授業を頑張ります。

あと、好きな映画にも作品をひとつ追加しました。
追加した作品は、『リトル・ミス・サンシャイン』。
今まで観てきた何百という映画の中で、
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』と『コーラス・ライン』だけは
別格の素晴らしさだと思っているのですが、
この作品も同列で語れる作品なのでは?と思い始めて、
さっきクークスの新作を聴きながらテレビをつけて映像と字幕だけで流してみたら
やっぱりそれぐらい素晴らしい作品だったので追加しました。
そしてちょっとこの映画について書いてみようと思う。

Little Miss Sunshine
リトル・ミス・サンシャイン


ダメダメな、自分の中の、サンシャイン
 娘のミスコン出場を軸に、バラバラだった家族の世界がひとつに繋がっていく様子をコミカルに描いた映画、『リトル・ミス・サンシャイン』。この作品、とにかくキャラクターの存在感がすごい。そして、ひとりひとりのキャラクターの存在をスペシャルなものに引き上げているのは、それぞれの「ダメさ」、だと思う。キャラクターは、話の中で自分たちがダメな理由に次々と直面していく。それでもこの映画は常にポジティヴである。僕は、そのポジティヴさが好きだ。
 この映画の家族だから、登場するキャラクターがみんなダメダメなわけではない。僕やあなたのすぐ傍の世界だってそうである。クラスや部活の仲間だって職場の仲間だって僕たちの家族だって、みんなダメダメである。僕だってダメダメである。人見知りは激しいし、スポーツだって苦手だし、全然オシャレじゃないし……これこそまさに枚挙に遑がないというやつで、思わず一人で打ちのめされそうになるのだけど、それに直面するたびに暗い顔して下を向いて落ち込んで、それでどうする?それが紛れもない「僕」である限り、僕はそこからしか始められないのだ。ダメダメな自分を受け入れて、それを引きずりながらでしか僕たちは前に進めないのだ。そして、僕たちはそうやって前に進み続けなければいけないのである。この映画は、それを真っ当に実践する作品だ。ポジティヴであることの本当の意味。娘がパフォーマンスをしているステージにダメダメな家族がみんなで乱入して踊り倒すところなんて、映画史に残るべき名シーンである。
 というわけで、これも所詮は僕の個人的な感想文でしかないのだけれど、もしこの映画が僕やあなたの中の「ダメダメな自分」を立ち上がらせる、そんな作品ならめちゃくちゃ素敵だと思う。根暗でダメダメな僕だって、本当のポジティヴさを失わなければ「サンシャイン」でいられるのである。あなただって、きっとそうだ。
22:32 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ジャック・ホワイトの時間感覚について

ラカンターズの新作『コンソーラーズ・オブ・ロンリー』によせて
CONSOLERS OF THE LONELY


 先日、倖田來未の復活ライブのニュースを取り上げているワイドショーがあったのだけど、そこで某有名芸能リポーターが彼女のキャラクターについてのコメントで「商品価値」という言葉を使っていた。つまり、復活後に以前とは違うキャラクターで活動してしまったら倖田來未という「商品価値」は大きく下がることになる、と。そう、所詮は「商品」なのである。歌手の才能やキャラクターというものは、表現である以前に、結局は「商品」でしかないのである。その芸能リポーターは倖田來未だったから「商品価値」という言葉を使ったのではない。ロック歌手の場合だって一緒である。大量消費社会の一員である以上、それは避けられない運命である。そこに今更反発していてはキリがない。そんなことはバカのすることである。歌手が「商品」であることはもはや大前提。何かを言うなら、まずはそこを認めてからだ。

 ホワイト・ストライプスのジャック・ホワイトのもうひとつのプロジェクト、ラカンターズの新作が、先月、何の告知もなしに急遽リリースされた。評論家もふくめた世界中のすべての人がまったく同じラインからスタートできるように、つまりは前評判もレヴューも第一週目のセールスもプロモーションも何も関係なしに作品と向き合える状況にする、というのが究極的な目的である。リスナーは、雑誌よりも先にCDショップやデータ配信サイトで作品のことを知ることになる、というわけだ。レディオヘッドやナイン・インチ・ネイルズがネット社会にすばやく対応しながらもその居心地の悪さを露骨かつ的確に表していたのとは違い、ラカンターズの場合はこの現代のスピード感を無邪気に楽しんでいるような雰囲気がある。なんというか、「余裕」なのだ。そして、それは恐らくバンドのコアであるジャック・ホワイトの「余裕」なのだと思う。

 ジャック・ホワイトは破格の才能である。ホワイト・ストライプスというたった2人だけの地平から伝統的なブルースを解体し、現代性を導き出した稀有な男である。作品の発表ペースも破格のスピードだ。ここ数年だけを振り返ってみても、05年に『ゲット・ビハインド・ミー・サタン』(ホワイト・ストライプス)、06年に『ブロークン・ボーイ・ソルジャーズ』(ラカンターズ)、07年に『イッキー・サンプ』(ホワイト・ストライプス)、そして08年に『コンソーラーズ・オブ・ロンリー』(ラカンターズ)、と立て続けにアルバムを発表。新作の評価はまだできないが、それ以外はすべて各国の年間ベストで軒並み上位にランクインした名作である。他バンドの作品への参加やプロデュース、映画出演までこなす中、一切クオリティを緩めずにこのペースでの作品発表は驚異的だ。ジャックは僕たちとはまったく違う時間感覚で生きているとしか思えない。ホワイト・ストライプスの活動だけを見ても、ジャックの時間感覚は異常だ。レコーディングの期間は大まかに一週間から二週間、これまでの最長記録でさえたったの三週間である。『エレファント』の制作時には63年以前の楽器しか使わないという制約も自分に課している。それでいて鳴らすものは間違いなく21世紀の新しい強度を持ったブルース・ロック。オーセンティックでありながらも斬新。時代から時代へ自由自在に駆け巡り、そして叩き出すものが未来的な空気を伴った、未曾有の音楽。

 そして、倖田來未もそんな破格の才能さえも「商品」として見做してしまうのが大量消費にネット時代のスピード性まで加えられた現代社会の価値観である。ジャックはそれを自覚しているのだろう。ラカンターズの新作の異常なスピード性と対応力はそれを物語っている。大量消費×ネット時代の中でしか動けないという自覚こそが生んだアクションだと、僕は考えている。そして、メディアもリスナー・サイドも、そのスピードについてくることができなかった。現代の時間感覚を遥かに超える驚異的なスピードで才能を「消費」させながら自己を更新するジャック・ホワイトの才能。社会はいつまでもそれを「商品」として凡百のものと一緒くたにしてしまうだろうが、僕は別にそれでも良いと思っている。僕たちは、ただ必死で彼の後を追いかけて、その足跡の鮮やかさに感嘆するしかないのである。
14:55 | コラム | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

大荒れ

なんだか今日の天気はすごいぞ。
雨よりも風の強さが尋常じゃない。
大学じゃ今頃新歓でいろんなサークルがテント出してるのに、大丈夫なのかな。
うちのサークルは昨日・一昨日の二日間で良かった。
近くのスーパーに買物に行こうと思ってたけどこれは憂鬱。
ベランダのタマゴちゃんはどうかな、と思って覗いてみたら
親バトが上に乗って静かに温めてましたよ。
僕の姿を見ると一目散に逃げていきましたが。
悪いことしちゃったかな。

さてさて、アークティック・モンキーズのアレックス・ターナー君の新プロジェクト、
ザ・ラスト・シャドウ・パペッツのアルバムが今月16日に発表されますが、
同じ日に発表のPerfumeの新作『GAME』も買うことにしました。
僕が日本の歌手のアルバムを買うのは、
YUKI、JUDY AND MARY、Chara、そしてイエモン以来のなんと史上5組目。
しかもPerfumeの場合はCM以外では未だにちゃんと曲を聴いたことがない。
僕にとってはほぼ青田買い状態。
歌モノに特化したダフト・パンクっていう僕のイメージも
もしかしたら実際とはちょっと違うのかもしれないけど、
とにかく聴いてみないことには始まりません。
そういえばテクノだディスコだなんだと言っても、
結局日本で今までデジタル・サウンド主体のアーティストが
チャート上位を掻き回したことってないんじゃないか。
いや、僕が知らなさ過ぎるだけかな。
Perfumeの楽曲は多分思い切りポップで、
クソ真面目でいけ好かないテクノ/ディスコ一派の連中は
どうせまた「軽い」とか言うんだろうけど、
その軽やかさが日本のロックとの距離の置き方なんじゃないかと思う。
別に根本的なところからバカ正直に始めなくたって良いのである。
Perfumeは軽い。それで良いのである。
海外の大物たちが持ってるプライドまで、日本人が背負う必要はない。

最後に軽くレヴューを載せようと思う。
レヴューだけにして更新させた方がスッキリしてて良いんだろうけど、
なんだかそれだけだったらそっけなくて、
というか別にレヴュー・サイトにするつもりはないし、難しいところです。
とにかく進んでいくしかないのです。

Last Night
/ Moby

Last Night



甦るラスト・ナイト
 『プレイ』でモービーのダンス・フロアに辿り着いた人には嬉しいアルバムに仕上がっているのではないでしょうか。00年代の作品は人間の内なる世界を追究した精神的なアルバムが続いていたけど、ここで正真正銘のディスコ・ダンスに回帰。近年の作品ではもちろんこれが一番好きだ。作品の起点をモービー自身の青春期である80年代ニューヨークのディスコ・ナイトの思い出と認めながらも、ここにある楽曲が単なる個人的な回想録をめくるものではなく、ニューヨークのディスコ・ナイトを過ごせば誰もが経験するであろう夜のミステリアスさも享楽さもいやらしさも映し出しながら「みんな」を踊らせる機能性に溢れているところは彼の客観力の勝利だ。作風も極めてコンセプチュアル。前半は躍動感のあるダンス・ナンバーで華やかな夜を演出し、終盤に向かうにつれてダウンテンポしたアンビエントへと移行。重層的に深みを増していきながら着地していく。最終曲の“ラスト・ナイト”は夜の終わりを告げると同時に「昨夜」の狂騒を振り返らせる、本作を総括するようなナンバー。このアルバムを聴けば、僕たちは何度でもあの夜のダンス・フロアでモービーと出会うことが出来る。
15:27 | 日記 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

ハトさんが

ハト
ベランダのネットの外側にタマゴを産んだ!
洗濯物を干してたら見つけてしまいました。
なんてこった。
俺には「孵化を見届けよう」なんて寛容さはないぞ!
ダンボールにでも入れてマンションの下に降ろしに行こう。
ダンボールに入れる時に親バトに襲われたら怖いから、
今日はそのまま置いといて今度降ろそう。
怖いな。
11:11 | 日記 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

複雑怪奇

Antidotes
/ Foals
アンチドーツ(解毒剤)


新世代の完成形か
 ロックが古い価値観を否定し、それに替わる新しい価値観を提示するものならば、これはただの異端ではなく新世代の普遍なのかもしれない。マイ・スペースで注目が高まって、というもはや新世代にマストな勝利の方程式も実践している。クラクソンズほどのインパクトはないが、面白いバンドだ。マス・ロック的な複雑さの中にホーンもアフロもぶち込んで意味不明な音像を作り出し、その中でとにかく踊れることに重点が置かれている。「ポップ」という曖昧なタームではこの音には追いつけない気がするが、最終的にはそう言うしかないような気がする。正直、僕にはちょっとよくわからない。前も見えないまま闇雲に走り出して、最後までちゃんと走り続けたのに置き去りにされたような感じだった。僕は古い人間ということだろうか。まだ20歳なのに、ちょっとひどいじゃないか。
 最近のUKロック、とくにこういうダンス・ビートを持っているバンドには、ほとんど言葉の意味がない。どうでも良いことを歌っている、というよりも言葉からどんどん意味が乖離している、と言った方が正確か。まるで言葉すらもサウンドの一部でしかないとでも言うかのように、言葉に意味を必要としていないのだ。このアルバムも、ラケットやらガジェットやらカシアスやらホスピタルやらヴァンパイアといった共感や批評からは遠く離れた境地の言葉で埋め尽くされている。それでも確実に「オモロイもの」を提供できているから彼らは良いが、これから先、新世代の音楽がペラッペラに骨抜きされた「なんとなく新鮮」な空気感を鳴らすだけのものにならないように心から願っている。
12:19 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

軽い日記と

先日、彼女と一緒に下関に遊びに行きました。
そこで食べたウニとイクラがたっぷりの海鮮丼が忘れられなくて、
腹が減ったなあと思えばもうお昼前ですね。
その後に食べたウニ・ソフトクリームに思いを馳せることがないのはなぜだろう。
二度と食べる気にならないご当地アイテム。
これぞ観光の醍醐味ですね。

昨日初めて行った居酒屋も良かったな。
クジラの肉を生まれて初めて食べました。
カウンターで食べてたらママさんが気さくに話しかけてきてくれて、楽しかった。
また行くぞ。

お腹減ったのでレヴュー載せてお好み焼きを作ろう。
今日は先月発売された最新作。
昨日載せたロス・キャンペシーノス!も先月の作品です。
ジャネットの新作も良かったし、先月は結構な豊作でしたよ。

Punkara
/ Asian Dub Foundation

パンカラ


ADFにしかできない戦い方
 『エネミー・オブ・ジ・エネミー』の感覚が鮮やかに甦る。そんな攻撃的なアルバムだ。『パンカラ』というアルバム・タイトルは「パンク×バングラ」からきているらしいが、これほど的確に本作のサウンド構造を表す言葉はないだろう。西アジアの血を受け継ぐ者たちのコミュニティ、というバンドの在り方を取っている時点で彼らが人種差別問題を引き受けることはある意味必然だったし、世界を相手にする限りそこを出発点にするしかなかった彼らの政治意識の高いアティテュードはパンクそのものだった。本作ではギターも意識的に多くフィーチャーされていたりイギー・ポップを迎え入れていたり、サウンド面でもパンクの要素は強い。それにインド系舞踊を起点にしたバングラを、BPM高め設定、アグレッシブなビート炸裂のアレンジで加え、重厚な戦車みたいなサウンドを作り上げている。これはもしかしたら自分たちの戦う意味を探った『コミュニティ・ミュージック』とは別の、極めて音楽的な切り口から自分たちのルーツを見直したアルバムになるのかもしれない。そして、彼らは大量消費社会も戦争も政治家も、次々に狙い撃ちしていく。9.11以降、混乱した世界に対する議論はどうしてもアメリカが主役だったが、極東からの意見もやはり強烈だ。メンバーが入れ替わり立ち替わりしてもまったくブレない「戦い」への意志は、対世界の構図でメンバーそれぞれが構えた時に頭脳だけではなく「茶色」の血すらも熱を求めるからだろう。いつまでたってもディーダーは帰ってきてくれないが、彼なしでもここまで出来るというのは頼りになる。でもだからこそディーダーが再びこのコミュニティを戦いの場に選ぶ時を、僕はどうしても目撃したい。
11:53 | 日記 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

こういうのを待っていた

Hold On Now, Youngster...
/ Los Campesinos!

ホールド・オン・ナウ,ヤングスター...


世界を救わないロック
 青山テルマにしてもGReeeeNにしても、最近の現役大学生の歌う歌にはいい加減ウンザリする。いったいいつまで同じことを繰り返すつもりだ。日常にそっと寄り添うあの人たちの歌は、どうしてこんなにも日常を正確に反映しないのか。あの人たちの生活には不安とか倦怠感といったものはどこにもないのだろうか。あの人たちの生活はそんなに穏やかなのだろうか。泣いたり笑ったりしかないのだろうか。大学生の表現力は貧相だ。
 ロス・キャンペシーノス!はカーディフ大学を卒業したばかりの7人からなるバンド。混乱した世界のど真ん中で大学祭を開くような、すごい連中だ。めちゃくちゃになった世界を歌い、ビデオでは人類滅亡を描きながらも、そのサウンドからは「楽しさ」や「喜び」がキラキラとこぼれ落ちてくる。ともすればビールですべてを解決するような無責任なオプティミズムにもなりかねないが、これは多分彼らにできる最大にして最善の世界との繋がり方なのだと思う。どうにもならない世界の中でもがき苦しむのではなく、自分たちにはこんな世界を変えることなどできないからこそ、彼らはそこで乾杯する。自分たちの歌が世界どころか人ひとりすら救えないという事実を認めた時に初めて頭をもたげるDIY精神が、ここにはある。己が「役立たず」であることを唯一の架け橋にして世界と繋がろうとするポジティヴネス。これが大学生にできる最も誠実な姿勢だと、一現役大学生として僕は思う。そして、彼らのロックは別に世界を救えなくてもいいのだ。そんな「正義」や「人間愛」の上に礼儀正しく座らなくていい。歌うことで、どうしようもない自分だけを救えばいい。それこそがパンクの本当の中身だと、僕は考えている。
11:09 | 音楽 | comments (6) | trackbacks (0) | page top↑
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