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徹底検証 第4弾

「反抗する」音楽

 ロックという表現は何かに「反抗する」という意味合いを少なからず内包しているものだと思う。政治・社会に反旗を翻したパンクはそれの最たるものであるし、オルタナティヴはビジネス化して太りきった既存のロックに対する反発だった。革新的なサウンドを求めるタイプのロックは一世代前の革新に対する反抗からくるものである。対世界、世代間、自己、ロックは常に何かと戦い続けてきた。
 早くも第4回目となる『徹底検証』。今回取り上げるのは、心無い「機械」に反抗し続けたこのバンド。もちろん、「ウィーン、ガチャン」というメカではない。人間の皮を被っただけの、人間のハートを持たない「機械」である。己の持つ力の強さを誇示するかのように警官バッジを掲げながら銃をぶっ放す「機械」。社員の劣悪な職場環境よりも権力のためにカネをばら撒く「機械」。ゴルフを楽しみながらどこの地域を爆撃するかを話し合う「機械」。そんな、腐りきって修理不可能な「機械」である。バンドは、そんな「機械」に踊らされているアメリカの危機感の象徴として立ち上がったが、その骨格を支える強力な思想は支持と共に大きすぎる誤解も抱え込み、2000年、解散を迎えた。もしこのバンドが9.11以降に現れていたら、そのデビューのインパクトはもしかしたらアメリカをもっとドラスティックに変えたかもしれないと思うのは僕だけだろうか。これは決して9.11を認める意味ではないが、9.11はアメリカが「機械」であることを世界中が目撃する事件だったと僕は思っている。そのアクティヴィズムにはこのバンドと多少なりとも似通った点がある。俺たちは「機械」には支配されない、という余りにも明確な意見である。
 今回のテキストは、そんな「機械」への反抗を表明したバンドの闘争を振り返ったものである。「機械」への怒り、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン。彼らの残した5枚のアルバムからこのバンドの闘争の記録を読み解いていきます。
 『徹底検証』です。


Rage Against The Machine
Rage Against the Machine


俺たちは、腐っていない
 決して大袈裟な言い方ではなくて、本当に数え切れないくらい再生した曲なのに、“ノウ・ユア・エナミー”のラストでザックが前のめりになって歌う「ああ、俺は俺の敵を知っている。自分を抑制するように教え込んだ教師どもだ。妥協、従属、同化、服従、偽善、残虐性、エリートたち。それら全てがアメリカン・ドリームってやつさ」という言葉が未だに強烈な鋭さをもって心に切り込んでくる。レイジが抵抗する「機械」の正体が次々に丸裸にされる、僕が最も気に入っているフレーズだ。過激な言葉を尽くしたザックのラップで聴き手に膨大な情報を送り込み、トムのアイディア豊富なリフ/サビの爆発でそれらに片っ端から火を放ち焼き払っていく。レイジの手法は作品を重ねてもここからあまり大きな変化が見られないのだが、最初から自分たちのやるべきことを明確に理解していたということだろう。デビュー作にしてすでに楽曲にスキというものが一切なく、自分たちの表現をパーフェクトに完成させている。そして、レイジの楽曲は極端にわかりやすく、怒っている。大金片手に腹を抱えてガハガハ笑っている高級官僚や企業幹部と、世界中がバカらしく思えてしまうちっぽけな自分。いったい腐っているのはどちらか。その答えを本作ほど明確に教えてくれる作品はなかった。


Evil Empire
Evil Empire


終わりなき闘争
 スーパーマンばりのヒーロー・コスチュームに身を包みニマッとした笑みを顔面にへばりつけた少年。そして「Evil Empire(危険分子)」の文字。レイジの怒りは作り物の笑顔をベリベリと剥ぎ落とし、その下に隠されたマグマのように赤黒い本性を太陽の下に引きずり出す。ここでいう「Evil Empire」とはもちろんアメリカのことだが、9.11以降の価値観でこのアメリカン・ヒーロー像を完膚無きまで打ち砕くジャケットを見たときの説得力というものは本当にすごい。9.11も、アメリカの闇に沈み切った団結と正義を露わにする行為だった。だからこそアメリカ人は揺らぎ始めた自分たちの足元を改めて見つめ直さなければいけなくなったわけだけど、レイジは92年のデビューからずっと、それを訴えていたのだ。前作から4年という長い時間が経とうとも、本作でレイジがやっていることは以前と何ひとつ変わっていない。いや、変われないのだ。「Evil Empire」が変わらないのならば、レイジがやることはやはりその嫌らしい笑顔の裏側にある欺瞞を暴くことだけである。それはこの後もそうだった。アメリカでは、9.11が起こると即座にレイジの楽曲は全曲放送禁止の指定を受けた。レイジの指摘が余りにも正確に図星をついていたからだ。こんな胸クソ悪いことがあるか。戦いは、今も終わっていない。


The Battle Of Los Angeles
バトル・オブ・ロサンゼルス


レイジを殺したのは誰だ
 メンバーの場慣れやレコーディング環境の向上などによってバンドの発散するエネルギーの塊を最も的確に、生々しく聴き手にぶつけることに成功したアルバム。もはや当然のように全米1位を獲得した後も各誌面で賞を総ナメにし、本作は再び彼らにグラミーの栄光をもたらした。発売前から本作の政治的影響力の大きさが危惧され、事態はレイジがひとつの「権力」にさえ成り得ることを象徴するかのような大きな社会問題へと発展した。メッセージ性だけでなく音楽的にも非常に優れたこのアルバムは、しかし、彼らを本来とはまったく違う場所に連れて行ってしまった。バンドが当初から掲げていたメンタリティを明確に理解しない名ばかりのフォロアーやファンは彼らをラップ・メタルの教祖へと祭り上げたが、レイジはそもそも音楽家である以前に強固な思想・理念を持った政治的機関なのだ。高いクオリティを誇る楽曲群の凄まじい引力は作品へのアクセスを容易にはしたが、受け手側の不透明な理解はザックを自らが作り上げたスタイルに嫌悪感すらも抱くところまで追い込んだという。楽曲が中身を置き去りにしたまま聴き手を刺激してしまった時、レイジの表現は「機械」になった。このままでは本来の革命は成し得ない、と判断したザックは、本作発表の翌年、バンドからの離脱を表明した。


Renegades
Renegades


「言葉」こそが手段
 最近のヒップ・ホップは一時のギャングスタの影響か何か知らないが、カネ、暴力、女、Bボーイ、マッチョ……そんないけ好かない音楽に劣化したような感がある。違う。あんなものは違う。誰が何と言おうとヒップ・ホップは「言葉」の音楽である。ビートだってスクラッチだって重要だ。でもヒップ・ホップの強みは「言葉」の力である。僕はそれだけは絶対に譲らない。ヒップ・ホップほど言葉数の多い音楽はないのである。「言葉」の可能性を最も持っている音楽なのである。ザックがラップにこだわる理由はそれだ。“マイクロフォン・フィールド”を聴きながら僕はそう思った。そう、レイジというバンドは音楽にポーズやスタイルよりも「言葉」を求めている。このアルバムはバンドのメンバーが影響を受けた楽曲を独自にリメイクしたカバー・アルバムだ。エリックB&ラキムやらMC5やらアフリカン・バンビータやらストゥージズやらボブ・ディランまで、ヒップ・ホップもパンクもニュー・ウェイブも一切の脈絡無しに並べられたこの曲群に見える唯一の共通点、それが「言葉」の持つ強さである。レイジは結局「言葉」でしか何も変えられないことを知っている。彼ら自身、ここにある「言葉」に動かされ、マイクを握り、楽器を選び取った。エネルギーもすごいが、実は極めて言語的なバンドなのだと思い知らされる。


Live At The Grand Olympic Auditorium
Live at the Grand Olympic Auditorium


「俺たち」の怒り
 2000年9月13日。レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン、最後のライブである。僕は彼らのライブに参戦した経験はないが、レイジというバンドの在り方を考えた時に、やはりライブというものはこのバンドにとって物凄くスペシャルな場所なのだと思う。そもそもライブはスペシャルなものだが、レイジの場合は少し意味が違う。レイジのライブは、彼らの楽曲の「矛先」を明確にする場所なのだと思う。それは、ゲリラを取り締まる警官でもなければ、彼らに「要注意人物」の判を押すホワイトハウスの役員でもない。この歌は、今まさに目の前にいる「お前たち」に向けられているのだ。そういう場所なのだと思う。そして、民主党党大会会場と真向かいの場所で行われたこの最終ライブで、ザックは「この国における俺たちの選挙の自由は終わった。民主党や共和党なんかに俺たちのストリートを支配されてたまるか!」と叫び、全身全霊を込めて“ブルズ・オン・パレード”を歌う。それはまるで、選挙は俺たちのためには行われないが、この歌は紛れもない俺たちのものだ、と主張しているようで感慨深い。本作リリースの時点でバンド解散から約3年の時が過ぎている。しかし、そこに「切なさ」の割り込む隙間はない。どこまでもリアルで真っ当な、「機械」に対する怒りがしっかりと記録されている。


 ザック自身が「復活はありえない」と解散当時洩らしていたにも関わらず、レイジは去年コーチェラにて奇跡の復活を見せた。8年の不在を経て、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンは再び「機械」への怒りを表明した。アメリカ大統領選挙を前にブッシュがこのまま逃げ込もうとしている絶妙なタイミングで、である。そして、8年ものブランクを経験しても、レイジはレイジでしかなかった。バンドの命題もエネルギーも手法も、復活ライブのステージには以前からなにひとつ遜色のない「機械」への怒りが渦巻いていたという。レイジは変わっていない。それは「機械」が変わっていないからだ。9.11から6年以上の時が流れても、「機械」は「機械」でしかない。それならば、レイジが今最もやらなければならないことは新しいオリジナル音源を発表することである。結局「機械」はこれっぽっちも変わっていないという決定的な事実を前に、彼らは何を歌うのか。僕たちは、ただ待つだけだ。
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21:13 | 徹底検証 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

もうひとりのYUKI

YUKIpic.jpg
今日は晩ご飯を食べながら『ユキビデオ2』を観ていました。
写真は見てのとおり、“ビスケット”から。

この曲のビデオ、空手をするYUKIだったり、
ナイトに扮したYUKIだったり、ビスケット・ヘッドホンのYUKIだったり、
いろんな恰好のYUKIが見られて、
思わず「可愛い!」と目がハートになってしまいそうになるんですけど、
でも僕はなんだかこのビデオが苦手だ。

YUKIは可愛い。
それは断固として譲らないけど、このビデオはなんだか
「みんなが求めてるのはこういう可愛いYUKIでしょ?」っていう、
明らかに僕の勘違いだけど、でも表現者らしからぬ高慢なところがある。
だれがなんと言おうと、絶対にある。

僕は、YUKIは不完全な人だと思っている。
完全な人はいない、とか言う人がいるかも知れないが、
それは話のすり替えというやつである。
そういう意味ではない。
YUKIが歌う、ということは、彼女が不完全な自分と対峙するということだと思っている。
不完全なYUKI。
それを、彼女はかつて「眠り姫」と呼んだ。

最近たまたま彼女の作品を過去作から聴くことがあった。
その時ふと思ったのだけど、
多分彼女は自分に音楽的な才能があまりないことを知っている。
“66db”というキャリアを代表する名曲を残してはいるけど、
でも自分のソングライティングにおける才能が
決定的に普遍性に欠けるということを彼女は知っている。
だからこそ彼女は言葉と本気で向き合わなければならないし、
30代も後半に差し掛かってもステージで回り続けなければならないし、
ライブを誰でも楽しめる「ショー」にしなければならないし、
MCでみんなを笑わせなきゃならない。
そうじゃないと誰もついて来てはくれないし、
そうじゃなかったからソロ初期の頃は沈み気味のキャリア運びだった。

『joy』ですべてが変わって、YUKIはまたスターの座まで上り詰めた。
大切なのは、ちょっと恥ずかしいことを言うが、
売れても自分を見失ってはいけないということである。
支持されていても、思い上がってはいけない。
ほとんどのYUKIファンはバカみたいに「可愛い」としか言わないが、
それを真に受けてそこに甘んじていてはいけないのだ。
“ビスケット”のビデオはいったい何なんだ。
可愛いだけのYUKIなら、僕はそんなYUKIには用はないのだ。
YUKIのソロ・キャリアが『PRISMIC』から始まっているという時点で、
彼女に「眠り姫」の影が付きまとうことは必然なのだ。
「YUKI、PVで7変化!」とか発表当時も騒がれていたが、
そんなことはどうでも良いのである。
だから何だと言うのだ。
ポップな「可愛さ」だけを見せ付けて「これが見たいんでしょ?」なんてYUKIは、
もうウザイだけである。

だから僕は、“センチメンタルジャーニー”のビデオで、
次々に「もうひとりのYUKI」が現れて、
その先頭でちょっと照れ臭そうに、でも楽しそうな表情で、
ポーズをとっているYUKIが好きだ。
表現者は、こうでなくてはならない。
こんなことを言ってる僕が一番ウザイだろうか。
21:58 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

今日はミニ・レヴュー

Warpaint
/ The Black Crowes

ウォーペイント


永遠のブルース
 実を言うと僕はドライブな疾走感のある99年作の『バイ・ユア・サイド』しかブラック・クロウズのアルバムは聴いたことがなくて、彼らのイメージはずっとゴージャスさの欠けるエアロスミスだった。でも古川琢也さんが言ったように本作が初期作に似た手触りを持っているなら、エアロスミスよりももっと真っ当なブルース・アディクトなんだろうな。というかむしろエアロスミスの場合はイギリスのロックからブルースやハード・ロックに近づいていったタイプのバンドだから、そもそも根本的に違うんだろうな。自己完結です。さてさて、どうやら前作から実に7年ぶりの新作となるのがこのアルバム。ファンは多いに喜んだことでしょう。だって、このアルバムはめちゃくちゃ良い。ブルースが始まった時から宿命的に付きまとう喜びも悲しみもきちんと引き受けて08年に鳴らす卓越した職人芸。昔ながらの手法を取りながらも極めてタイムレス。インタヴューを読んで少し驚いたのだけど、フロントマンのクリスはテクノロジーの発展やそれが生み出した若い世代のインスタントな音楽の聴き方に対してとても敏感で、ちゃんと自分の意見を持っている。音楽の「今」を分かっているからこそ、このバンドのブルースは少しもかび臭くないし、ダサくないんだろうな。これまでの作品、聴かなきゃいけないな。
14:38 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

映画は面白くない

と思っていた。


 多分何かの本で読んだのだと思うのだけど、昔、まだ概念的に映画なんてものが日本人の頭の中に成立する前、映画が「活動写真」なんて呼ばれていた時代に、日本(特に田舎近く)で上映されていた映画は、ほとんど怪獣モノしかなかったらしい。しかも、『ゴジラ』の構想を思いっきり単純化させたような、今だったら完全に子ども騙しの怪獣モノ。上映する側も観に来る側も、そんな単純な「活動写真」を飽きもせずに楽しんでいたらしい。虫捕り網を持って山中走り回ったり近くの川でザリガニ釣ったりが毎日だった子どもたちにとっては、見たこともないでっかい怪獣が飛行機を叩き落として建物を破壊して大人たちが逃げ惑って、そんな「活動写真」の世界は最高のファンタジーだったんだろうな。正直、ちょっと羨ましい。

 ちっちゃい頃から父親が何かにつけて「面白いから」と観せてくれた『コーラス・ライン』と『ルパン三世:カリオストロの城』、それと毎年終戦記念日前後に放送されてた『火垂るの墓』は本当に大好きで、何度も何度も繰り返し観ていた。でも全部テレビ画面で観ていたから、ちょっと長いお話、ぐらいにしか思っていなかったのかもしれない。今、幼い頃を振り返ってみて、自分が映画の存在をきちんと認めた時はいったいいつ頃か。多分、沈み逝く旅客船「タイタニック号」の中でのお話に世界中がおめでたい涙を流したあの頃とか、宮崎駿が「もののけ」として育てられたひとりの少女に人間否定の使命を背負わせたあの頃とか、それぐらいだったと思う。両方とも、当時ものすごく話題になった映画だった。でも、船が沈む話ぐらいでなんで大人がおいおい泣くのかわからなかったし、突然「シシ神様」「でいだらぼっち」なんて言われても訳がわからなかった。その頃だって怪獣が飛行機を叩き落とすようなわかりやすい映画はたくさんあったんだと思う。でも、映画と言えばやっぱり『タイタニック』とか『もののけ姫』とかだった。映画はよくわからない世界だった。僕はまだまだ子どもなんだと思った。それが、小学生の頃だった。

 中学、高校と進学するにつれて、僕はバカみたいに音楽街道を邁進し始めたから、映画なんて別にどうでも良かった。音楽が面白すぎたから、映画は面白くなかった。超めちゃくちゃな理屈だけど、でもそういうことだった。数時間もかけて船の沈む話を観るだなんてくだらなかった。2時間も他人の恋愛を覗くより、たった3分半で人生を駆け抜けるロックの方が、よっぽど感動的だった。それに、映画はひどく刹那的だと思っていた。僕の映画の印象は、なんとなく、カップルが観に行きそうで、なんとなく、ちょっとだけ刺激的な場所だった。その楽しみは映画を観ている時間のみに限定されているものだと思っていた。実際に、映画は音楽みたいに後まで響いてはこなかった。

 大学に入って、映画好きな人と知り合って、なんだかんだ屁理屈をこねながらも影響されやすい僕は、映画を観るようになった。お店でDVDを借りて、数え切れないぐらいたくさん映画を観た。今まで観てこなかった分が全部ここに掻き集められたみたいに、いっぱい観た。そこで、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』と出会った。あの映画を観た友達はみんな未だに僕の言うことをわかってくれなくて困るのだけど、エンディング曲とスタッフロールが流れるころになってようやく作品の本質的な部分がムクムクと頭をもたげ始める映画を、僕は初めて観た。「終わり」すらも吸い寄せる「始まり」がやってくる瞬間を、生まれて初めて体験した。映画が刹那的な感動だけではなくて未来にまで感動を約束できる表現だということを、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を観て、僕は知った。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は、僕の中の「映画」をエグいぐらいハッキリと変えてみせた。

 あれ以来、僕の映画生活はバラ色になった。『タイタニック』はただ船が沈むだけの話じゃなかった。『もののけ姫』以降、一気にアクセスしにくくなった宮崎駿作品に、自分なりの理解が出来上がってきた。スタンリー・キューブリックの「キテレツさ=異物感」の正体もなんだかわかるようになってきた気がする。アクションでもラブ・ストーリーでもコメディでもサスペンスでもアニメでも韓流でも映画は何でも楽しくなった。未だに「全米興業成績何週連続1位!」とか「この映画は実話に基づいて~」とかいちいち煽ってくるものは胡散臭くて、映画はそんなとこじゃなくて内容そのものによってのみ評価されるべきだと思ってしまうし、おすぎの評論は相変わらずくだらない。でも僕は映画の楽しみ方を知っている。僕は大人だと思った。

 映画は物凄く刺激的なものになった。映画を観ることは、僕にとって物凄くクリエイティブな行為になった。でも、そうやってせっかく自分の中で映画の立ち位置がどんどん確立していってるのに、この作品は僕の中の「映画」を不用意に揺さぶる。後ろから石で頭をガツンとやられる感じのショックだった。例えるなら、それは怪獣が暴れ回る「活動写真」だ。日常から過剰に乖離した非・現実という正体不明の違和感。「あっち側」の世界を除きこんでしまった時の背徳感。昔の単純極まりない「活動写真」がその未知の感覚のみによって人々を興奮させていたように、パッケージを塗りつぶすこの真っ黄色は、余りにも目立ちすぎる己の「まぬけさ」を最大のラディカリズムにして、光る。真っ黄色の正体は、『キル・ビル』。クエンティン・タランティーノ監督が自分のオタク根性を総動員して作り上げたこれぞ正真正銘の趣味世界。映画、アニメーション、ジャパン、血飛沫への最高にイタイ思い入れのすべてを泥団子みたいにいっしょくたにして押しつぶす。己のエゴ爆発に躊躇というものは1mm足りとも、ない。いつまでたっても世間がイケメン俳優と美人女優のありがたいラブ・ストーリーを求め続ける傍らで、この男が大真面目に作るものがこれである。追撃者は、いない。僕たちは、ただしがみついているしかないのだ。

 そして、先ほどDVDを注文したお気に入り作品のために、その作品そのものよりも個人的な映画遍歴の方に熱を入れて語り倒してしまう、それが『Over The Border』という迷惑なブログである。こういうことがしたくなった時のために、カテゴリーに『コラム』を追加しました。何か真面目に書きたい時は、音楽でも映画でも本でも恋愛でも料理でも、ここで書いていこうと思います。いや、もちろん今回も大真面目に書きましたよ。よろしくお願いします。
16:06 | コラム | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

サンキュー

Motion Sickness
/ Bright Eyes

MOTION SICKNESS [Import]


この声はやっぱすごい
 21世紀という時代に伝統的なフォーク・ロックを使って本気で世界を変えようとしている男の唯一のライブ・アルバム。日本盤の発売を希望する。05年に『デジタル・アッシュ・イン・ア・デジタル・アーン』『アイム・ワイド・アウェイク・イッツ・モーニング』という趣向のまったく異なる2枚のアルバムを同時発表、それぞれからのシングルがビルボードでチャートを独占し話題になったが、このライブ・アルバムはフォーク・サイドである『アイム~』のライブ・ツアーを収録したもの。
 声が、震えすぎている。ジョークで会場を沸かすような余裕だってあるのに(“メイク・ウォー”のショート・バージョン最高!)、歌声は相変わらず怯えた小動物のようにガクガクと震えている。ビョークのようにステージに自分の世界を呼び起こすわけでもないし、リアム・ギャラガーのような超俺様節でもない。コナー・オバーストの歌声には彼らみたいな「強さ」は少しもないが、この「震え」には立ち止まらなければならない説得力がある。その説得力の正体を「21世紀のアメリカに生きることの怒り」だ、とすることがファンからの後付と屁理屈だということはわかっている。でもそうなのである。その声で、彼はブッシュに向けられた最強のプロテスト・ソング“ウェン・ザ・プレジデント・トークス・トゥ・ゴッド”を歌うのである。配信限定でリリースされたこの曲がCDで聴けるのは本作だけだ。黒人か女性か、どちらが米国大統領になるかという今、彼はもうこの忌々しい曲を歌うことはないだろう。これが聴けるだけでも価値がある。その他楽曲も、対世界の構図でコナーが必死にもがいることの伝わる良い選曲だ。
 ちなみに、後半には海外の子供向け番組でコナーが歌ったフェイストやエリオット・スミスのカバーも収録されていて、日本盤が発売されていないとはいえコレクターズ・アイテムにしてしまうのは余りにももったいない作品。
18:14 | 音楽 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

一休み

今日は高校時代の友達と飲みに行きます。
今までとはちょっと違うメンバーだし人数も多いから楽しみ。
早く約束の時間になってほしいものだけど、
残念ながらまだまだ時間はあるので軽く更新。
マドンナについては『徹底検証』で散々書き倒したけど、
番外編というわけでこのアルバムのレヴューでも。

I'm Breathless
/ Madonna

I\'m Breathless


ブレスレス・マホーニよりマドンナが好きだ
 一マドンナ・ファンとして、彼女の作品に期待するものといえばやはり「世界を変えてみせる」という断固たるアティテュードだが、本作はそもそもが彼女の主演した映画『ディック・トレイシー』を軸にしたプロジェクトの中の一部だから、そこの部分は我慢して聴いていこう。
 こういう映画やミュージカルなどのサントラ的な作品は、曲と曲とをつなぐ本来のストーリーをどうしてもすっぱ抜く形になってしまうので喜怒哀楽や楽曲のテンションの落差が激しくなりがちだが、このアルバムみたいに単純な曲の良さで勝負できるものは、雑な例えで申し訳ないのだが、動物園みたいで素直に面白い。ライオンさんを観たら次はキリンさん、ゾウさん……といった感じだ。わかってもらえるだろうか。オリジナル作品では聴けないような大げさなぶりっ子からいつもとはまた一味違うブロンド・グラマーな女性まで軽妙に演じていて、ミュージカル特有の軽さというか躍動感もあるし、これは確かに部屋で小さくなってCDで聴くよりもステージやスクリーンを通して聴いた方が映えるだろうなと納得。完全なサントラではないためにオリジナル・アルバムとしての文脈で語られることもたまにある作品だが、事実上のサントラといって良いだろう。ラストには日本で強い支持を誇っている“ヴォーグ”もしっかり収録。未だに日本ではこの曲が“エクスプレス・ユアセルフ”や“パパ・ドント・プリーチ”などよりも大きく扱われているのには納得いかないのだが、『ライク・ア・プレイヤー』から『エロティカ』までの音楽的変化の理由を引き受ける重要な楽曲だ。オリジナル・アルバムみたいな世界を震わせる高揚はないけど、ファンなら押さえておくべき作品ではないでしょうか。
16:51 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

倖田來未の活動再開によせて

 実は最近ずっと気になっていたのだが、「羊水腐る」発言で活動を自粛中だった倖田來未が、4月のライブからようやく活動を再開するようだ。
 一連の問題は、彼女のCDを一枚も聴いたことがない完全な第三者の僕にとっては、世界のバカさ加減があの騒ぎに集約されていたみたいでものすごく面白かった。でも、第三者だからといって、冷めた目で「バカだなぁ」と呟いて、あとは知らん振り、というわけにはいかないのである。第三者なら第三者なりの意見がなくてはいけないのである。だから自由気ままに、自分勝手に、書いていこうと思うのである。

 まず倖田來未の発言には脇が甘いとしか言えないのだが、その後のメディア、レーベル、企業、世間、みんなの過剰反応があまりにもバカげていた。そもそもがどう考えても若い女の子の冗談としか思えない文脈から出た失言なのだ。許すことなんて簡単だったはずなのだ。常日頃から彼女のことを快く思っていなかった連中が寄ってたかってハメようとしない限り、あの発言はこんなバカ騒ぎには発展しなかったはずだ。活動や宣伝を自粛させたレーベル然り、彼女を使った広告を一切排除した企業然り、まるで伝家の宝刀を抜くかのように得意げになって「デリカシー」なんて言葉を叩き付けた世間然りである。完全にネタ目当てで彼女を非難したメディアもバカである。我が物顔で偉そうな口を利く「芸能評論家」なんてわけのわからん肩書きの連中にいたってはスキャンダル好きで好色なだけのただのクソである。匿名希望でなきゃ意見のひとつも言えない陰湿なネット住民なんてもうそれ以下である。誰よりも「デリカシー」のないバカが寄ってたかって弱者をハメる。これはもう完全なる「イジメ」の構図である。こういうバカは自分たちの間抜けさを自覚する能力がないからタチが悪い。揚げ足取って「正しいこと」を押しつけて、一体どこに正義があるというのか。ただ彼女のことを恐れてるだけじゃないか。そんなもの、「現地の人たちの自由と権利のため」という大義名分の下に、ある国を爆撃するのと同じくらい間抜けな行為じゃないか。

 倖田來未の謝罪会見は、キッカケとなった発言以上に放っておけない問題である。彼女が涙を流して謝って、自分が極端に悪いことを認めてしまって、それが既成事実になってはいけないのである。イジメ的な反応をした連中のバカさだって追及しなければいけないのである。謝罪することで全部引き受けてしまって、それでひとりの人間がひん死状態に追い込まれてしまってはいけないのである。そりゃあとりあえず謝ることは必要だったと思う。そんなにシリアスな問題なのかという話なのである。ひとりの女の子はこんなにも簡単に打ち砕くことができるのに、なんでもっと悪いことをしている政治家はこれっぽっちも動かすことができないんだろう。つくづく効率の悪い世界だと思うのである。

 発言後にして最新作が1位獲得という嬉しいニュースも確かにあるが、雰囲気的に斜陽気味の今こそ、彼女が大きく開き直るチャンスだと僕は思っている。復活ライブで「メディアもレーベルも腐ってる」ぐらい叫んでみて欲しいもんである。今のスターであり続けたいのなら、今という時代のあらゆるものを背負って欲しいもんである。レーベルのビジネス至上主義もメディアの高慢さもネットの陰湿さも背負った上で、ファイティング・ポーズをとってもらいたいもんである。余りにもリスキーな行為だが、必ず支持者はいるのだ。自筆の謝罪文なんて惨め極まりないものが送られてきてもなお、彼女を応援している人はいるのだ。そんな立派で真っ当なファンを、彼女はもう絶対にガッカリさせちゃいけないのである。復活ライブで、彼女は去って行った軽薄な似非ファンにではなく、彼らに向かって歌わなくてはならないのである。今なお自分を支持してくれる彼らに、「倖田來未を好きな明確な理由」を与えなければならないのである。それが例えレーベル側で膨らむ負債を抑えるために用意された場所でも、である。レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンを聴いているせいか、僕はちょっと過激になっているのである。

 そんなわけで(全然関係ないが)、僕はちょっとJ-POPが気になっているのである。歌モノに特化したダフト・パンクみたいな女の子三人組のパフュームとかいう人たちと、AKB48がものすごく面白いと思って、聴いてみたいのである。YUKIにしても安室奈美恵にしてもチャットモンチーにしても、僕が好きになる日本の歌手は女性ばっかである。カラオケで歌えないのである。カラオケで吉井和哉なんて歌っても盛り上がらないのである。
 そんなことはどうでも良いのだが、明日は久しぶりに高校の時の友達と遊ぶのである。非常に楽しみなのである。

17:56 | コラム | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

ただいま

今朝、大阪の実家の方に帰ってきました。
家族ひとりひとりに素敵なプレゼントを買って帰ってきたのに、
みんな仕事やら出張やらで家にいなくてひとりぼっちです。
早く渡したいなぁ。
この気持ちに、プレゼントのマジックがありますよね。

さてさて、北九州から大阪まで、
高速バスで片道7時間という長旅だったわけですが、
毎度のことながら狭苦しいし、
なんだか今回は座席がやけに暑くて眠れるわけもなく、
あんまり集中できなかったけどずっと音楽を聴いていました。
ようやくオウテカの新作を聴きましたよ。

オウテカは最新作から3作前の『コンフィールド』が大好きで、
実際に『コンフィールド』が影響したわけではないけど、
こういうオウテカの音を聴いてトム・ヨークは『キッドA』を作ったんだよな
と思うとめちゃくちゃ感慨深い。
個人的に、『コンフィールド』前後の時期の作品が
オウテカの最もエッセンシャルな部分を鳴らしてるなぁと思うんですけど、
つまりは、なんというか、ロック批判なんですよね。

あの痙攣しながら脈打つエレクトロ・サウンドは、
ロックの否定と拒否なんだと思うのです。
だって、ロックにはあの音は出せない。
ロックに退屈な2人組が自分たちを満足させる音楽を作った。
それがオウテカというグループの核心部分だと思うのです。
だから、否定と拒否だからこそ、『コンフィールド』前後の作品は
凄まじく聴き心地が悪い。
不快とかそういう意味ではなくて、音そのものが何かを嫌ってる。
ロックを完全に否定して、それ以外の「何か」を音そのものが求めている。
それをレディオヘッドという怪物級の説得力に託したのが、『キッドA』だ。

でも、まだ2回しか聴いてないからうまく言葉には出来ないけど、
オウテカの新作は、凄まじく聴き易い。
むしろ心地良いくらいだった。
一曲一曲がグッと短絡化したことも大きいんだろうけど、
でも絶対にそれだけじゃない。
音、だ。

言葉を必要としないオウテカの音楽は、音こそがすべて。
2人ともコミュニケーションをとるのが苦手とかだったらちょっとお茶目だけど、
言葉を使うのは苦手でも音だけで伝え切る自信があるんだと思う。
そのオウテカの新作が聴き易かった。
どういうことなんだろう。
まだ「痙攣していない」ということしか言えない。
もっと聴きこまなきゃな。
でもその前にちょっと眠りたい。
おやすみなさい。
09:30 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

徹底検証 第三弾

二年前、ライブ公演で自ら十字架に磔になり
キリストの磔刑を再現するという過激極まりないパフォーマンスを行った女性がいる。
彼女は敬虔なカトリック教徒の父親を持ち、
物心ついた時から宗教の持つ胡散臭さに疑問を抱いていた。
父親という身近な宗教者への反発心を常に研ぎ澄ましていた彼女にとって、
表現が何らかの宗教性を帯びることはある意味必然だったのだろう。
そして、彼女を神さえも迷わず引きずり落とす過激因子へと育て上げたのも、
他でもない父親だったのだと思う。
近くに父親という反抗すべき存在があったからこそ、彼女は強くなれた。
彼女の名前はマドンナ。
セックス・シンボルとして時代の寵児と祭り上げられ臆病な男性社会を脅かし、
ポップ・アイコンとして唯一無比のカリスマ性を発揮してきた女性。
今回、第三回目を迎える『徹底検証』で取り上げるのは、
そんな恐るべき女性、マドンナ。
自分を表現することにまったく躊躇を感じさせない彼女が残してきた
10枚のオリジナル・アルバムすべてを通してそのキャリアを振り返ります。
『徹底検証』です。


Madonna
バーニング・アップ


本物のカリスマ
 初めてのテレビ出演の時、マドンナはこれからの野望について聞かれ、「私は、世界を征してやる」と答えた。それが今ではギネスすらも認める「世界で最も成功した女性シンガー」なんだから、これこそアメリカン・ドリームだよな。本デビュー・アルバムもさっそく800万枚を超える売上を記録。発言からなにからとにかく破格な人だ。ところで、マドンナを破格たらしめているものは間違いなくその強烈な意志だが、それが徐々に形成されて確信的なものに出来上がるのではなくて、この時点ですでにマドンナにしかない「自分のやりたいこと・やりたくないこと」が行間からクッキリと浮かび上がってくるところが面白い。歌っていることのほとんどが恋愛に関するあれこれという最も基本的なものであるにも関わらず、である。つくづく言葉に信念をぶち込む人だよなぁと圧倒させられる。そこの部分の表現に対する躊躇のなさでは、この時から25年近く経つ今だって右に並ぶ女性はいないんじゃないか。たった一回の危うい発言だけで支持者に直筆の謝罪文なんか書いてる倖田來未に、「世界征したんねん!」と叫ぶ度胸があるかという話なのである。しかもそれを有限実行しちゃうんだからマドンナはすごい。カリスマっていうのは、こういう人のことを言うんだろうな。余りにも鮮烈な登場を記録した処女作。


Like A Virgin
Like a Virgin


ギャップという過激さ
 個人的な話だが、この頃のマドンナの印象はレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンを初めて聴いた時のそれと激しく重なる。レイジといえばアメリカで「全曲」放送禁止を食らうほどのあの過激な政治的メッセージが武器だが、でも初めて聴いた時にはそこの部分の驚きよりも高度なラップとギター・テクという極めて音楽的な、そして単純な「かっこよさ」に対する畏怖みたいなものが大きかったように思う。つまり、その強烈な言葉抜きにしたとしても音楽的なレベルが非常に高いのだ。秒速で興奮できるのだ。音楽に付けられた名称や作品のテーマが違うだけで、このアルバムのマドンナは言わばポップ界のレイジである。マドンナを一躍スターダムにのし上げた“ライク・ア・ヴァージン”“マテリアル・ガール”といった特大ヒット曲が収録された、彼女の代表作とも言える本作。おじさんがマドンナと聞いて真っ先に思い浮かべるのはこの頃の彼女だろう。ヴァージンの感動や物質社会などの明確な、そして当時はまだまだ危険思想だったラディカルなテーマを取り上げながらも、本作に収録されたポップ・ソングはアイドル・ポップとしてさえ通用しそうなほどにわかりやすい。つまり、ポップとしての機能性の高さがすっかり堂に入りきっているのだ。そのギャップが僕には何よりも衝撃的だった。


True Blue
True Blue


雛形にして驚くべきクオリティ
 『ライク・ア・ヴァージン』のヒットで世界に一騒ぎ起こしてみせたマドンナがその1年半後に発表した3枚目。根本的な構造は前作と特に変わらない、無垢でポップな編集センスからは想像できないほどの強烈な意志が全体を一筋に貫く「これぞマドンナ!」を外さないアルバム。最終曲なんて『おかあさんといっしょ』にでも使われそうなぐらいのジャングル・ポップにも関わらず、そこからは凄まじい説得力を持った意見が飛び出だしてくる。ところで、マドンナの表現には常に反キリスト的な空気が纏わりついているが、それには敬虔なカトリック教徒であった父親に対する反抗心のようなものが根っこにある。後に“オー・ファーザー”などでも語られるが、本作冒頭曲は「パパ、お願いだから説教しないで」と嘆願する迫真のナンバー。『ライク・ア・プレイヤー』収録の“エクスプレス・ユアセルフ”でピシッと結晶化する自分実現への「立ち上がれ!」ソングも入っていて、言ってみればマドンナが表現へと向かうモチベーションのすべてがもっとも普遍的かつ初期的な形で顔を見せる作品かもしれない。その解りやすさゆえか、キャリア史上最大のセールスを記録した本作。ここから1枚のリミックス・アルバムを通過し、次作『ライク・ア・プレイヤー』へと彼女は表現力を一気に高めていくのだ。


Like A Prayer
Like a Prayer


オピニオン・リーダーとしてのマドンナ
 “エクスプレス・ユアセルフ”のビデオの最後に現れる格言のような言葉が心に焼き付いて忘れられない。「“heart”がなければ、“hand”と“mind”の間に理解などあり得ない」。いったいどういうことだろうか。“hand”と“mind”の間の理解とは、いかなることか。マドンナが言う“heart”とは、いったい何を示しているのか。これは何の裏づけもない個人的な解釈だが、“heart”とは「エクスプレス・ユアセルフ」ということである。「自己を表現する」という「信念」とでも言おうか。“hand”は労働や修業などにおける「外的自己」、“mind”は「内的自己」に近いものだと僕は考えている。「上辺」と「本音」でも良いかもしれない。つまり、誰もが持っているそんな二面性を繋ぐもの、それこそがまさに「エクスプレス・ユアセルフ」という「信念」なのである。上辺にも本音にも筋を通せ、ということなのである。それが難しいからみんな窮しているのだが、保守的な80年代ポップス界でマドンナはそれを歌い、黒人たちを多くバックに引き連れ、そして十字架に火を放ったのである。「エクスプレス・ユアセルフ」はマドンナの表現をギュッと濃縮した言葉だと言っても良い。その本当の意味を伝えるために、今年なんと50歳を迎えるその強靭な肉体で、マドンナは今も歌い続けているし、踊り続けている。


Erotica
Erotica


脱ぐことさえも表現
 女性シンガーがエロの世界に足を突っ込む時というのは、決まって表現のモチベーションが尽き果てた後の最終手段であって、「もっと、もっとぉ」という形式的な快楽を無表情な恍惚で歌って仕舞にはファンにも厭きられるものである。とまあこれは昨年ブリトニーが実際にとった手段だが、もはや「セクシー」とか「ビッチ」とかいう精一杯の言葉でさえフォローできない始末の悪さである。だがマドンナの場合、『エロティカ』という極めて危ういベールを纏った本作においても、その説得力と意志の強さは健在だった。というかむしろこういう「お父さんお母さん、ごめんなさい」な世界のほうがマドンナというキャラクターにはハマりすぎていたぐらいだから驚きだ。だから、ここでの変化はマドンナ自身というよりも外側の変化だったんだと思う。過去の名作3枚を共にしたプロデュース陣を総替えし、これまでのお気楽な快楽性に対しては自由すぎたポップネスからここからの作品のひとつの編集基準になるハウス・ミュージックへとシフト・チェンジした本作。セールス的には実は後ろから数えた方が早いのだが、ファンの間では今でも根強い人気を誇っているようだ。「マドンナ」というカテゴリーを「エロス」という方角から固めた作品。同年出版作のヌード写真集『SEX by MADONNA』もそのひとつと言えるだろう。


Bedtime Stories
Bedtime Stories


ベッドタイムは漫然に
 ベッドに横たわるクイーン・オブ・ポップ、マドンナ。プロデューサーとしてネリー・フーパーやベイビーフェイスを招き、一部には北欧の天使ビョークも参加しているというなんともゴージャスなアルバム。今聞いてもその話題性は抜群で、実際にベイビーフェイスとの“テイク・ア・バウ”では7週連続全米1位を獲得する鮮やかなヒットを記録した。でも、「別にマドンナじゃなくても良いじゃん」と思う。ベイビーフェイスもネリー・フーパーも確かにプロデュース経験の豊富な優れたソングライターだが、本作での彼らの欠点は「マドンナ」というカテゴリーを十分に規定することができなかったところにある。「良い曲」は、必ずしもそのシンガーが「歌うべき楽曲」ではないのだ。マドンナがポップ・アイコンとしてただひとつの存在感を獲得することができたのは、彼女が時代にただひとりのラディカリストだったからだ。マドンナだってバラードは歌う。でも、マドンナは決してバラード歌手ではない。そうあるべきではない。なぜなら、彼女がこれまでやってきた音楽はポップ面でありながら、その中身はロックそのものだったからだ。だからこそ、僕は“ヒューマン・ネイチャー”で静かに囁かれる「自分を押さえつけないで、自分をエクスプレスするのよ」という未だ消えていないロックの火種のみを信じるしかなかった。


Ray Of Light
Ray of Light


マドンナ、という宗教
 前作『ベッドタイム・ストーリーズ』から実に4年という年月を経て発表された98年作。深海の神秘のようなアンビエント・ポップが生み出す空間を、マドンナは「私は人ごみの中で自分を見つけた/気分は孤独だった」「私はもう罪を背負えない」「逃げて、逃げて、私は自分を探していた」という内省的な言葉で埋め尽くした。そして、「自分の心が分かった/これが私の宗教なのよ」と。これまで書いてきたとおり、基本的にマドンナの作品には彼女ならではの信念や強烈なテーマが打ち出されてきたが、本作はそれをサウンドの持つ無重量感や内省的ながらも妙に確信的な言葉の数々によって一種の「神性」にまで高めた美しい作品。前作がバラード歌謡のパスティーシュ的な作品だっただけに、この変貌ぶりには嬉しくも驚きを隠せない。38歳にして初めて経験した出産、ヨガを始めとするインド文化への傾倒、カバラを信じる奇跡――どの影響が最も大きかったのかは本人以外にはわからないが、どれも大きな影響力を持っていたのだろう。世界に向かって叫び続けてきたマドンナが自分の心の奥底に向かって働きかける、キャリア史上唯一の作品。一番好きなマドンナの曲はもちろん“エクスプレス・ユアセルフ”だが、アルバムだったら僕は絶対にこれを選ぶ。


Music
ミュージック


クラブ・マドンナ
 『レイ・オブ・ライト』でマドンナにその手腕を認められたウィリアム・オービットが引き続きプロデューサーを務める本作。エレクトロ・ミュージックの仕事で名の知れたミルウェイズ・アマッザイも参加している。前作で己のハートの中身を見つめ直したことで踏ん切りがついたのか、今回はフィーリングの披瀝や士気の鼓舞ではなくフロアにも目を配ったこれまでよりも高性能なダンス・ミュージックへと大きく舵を切った、プロデュース陣の個性が強く打ち出されたアルバムだ。タイトル通り、非常に「音楽」的な変化をマドンナのキャリアに引き起こした転換作となった。ビートの響き方がこれまでの作品とは比べ物にならないくらい良い。このアルバムを聴くと、マドンナの音楽に対する距離の取り方は絶妙だなと思い知らされる。基本はどれもダンスだが、新たなプロデューサーを頻繁に加えてサウンドの構図を変化させるにも関わらず、作品毎の瞬発力の高さは尋常じゃない。このアルバムが発表された時、マドンナはなんと42歳。同年、彼女は第2子の誕生と人生2度目の結婚を経験する。それでも、彼女は本作で「踊り続けること」に全神経を注いだのである。溢れ出るエネルギーに蓋さえしなければ、人はいつまでも現役でいることができる。カッチョ良いよね。


American Life
American Life


アメリカン・ライフの闇
 ハリウッドを痛切に皮肉ったその名も“ハリウッド”や映画『007』シリーズの主題歌になった“ダイ・アナザー・デイ”もめちゃくちゃかっこいいのだが、やはり“アメリカン・ライフ”の存在が大きい。この時のマドンナがマジになって伝えたかったことのすべてがこの曲にギュッと詰め込まれている。空っぽなアメリカと、これまでそんな国の華やかな夢の象徴としてキャリアを歩んできた自分の足元を、「このモダン・ライフは、私のためになっているの?このモダン・ライフは、自由のためなの?」と問い質しながら、否定していく。こんな国の夢ならば私はいらない、と。だからこそ「名前を変えるべきかしら?」なのだ。そうすれば「私はスターになれるかしら?」なのだ。果たしてタイミングが良いのか悪いのか(少なくともセールス的には最悪だった)、期せずしてイラク戦争の開戦直後という世界中がピリピリとした緊張に包まれていたところに投下された本作。“アメリカン・ライフ”のPVは、ファッション・ショーというスポットライトの下に、血まみれで運ばれる人間、爆撃に吹き飛ばされる肉体、兵士の体からもぎ取られた片足、火を噴く殺人兵器、突如投げ込まれる手榴弾などに加えて実際の過去の資料も使って戦争の現実を「曝け出しすぎた」ために全米で放送禁止となった。


Confessions On A Dance Floor
Confessions on a Dance Floor



紅パンの理由
 レコードから立ち上ってくるこの圧倒的な熱量はなんだ。“ハング・アップ”を聴いて、いまだにマドンナの当時の年齢を調べては驚きを隠せない僕は確かに彼女のことを恐れている。87年生まれの僕は、マドンナが全盛期を迎えた80年代の頃の衝撃は作品を辿ることで追体験するしか他ないと思っていたが、このアルバムを聴いた時の感覚はもしかしたら当時の人たちのそれと似ているのかもしれない。要は「恐れ」だ。80年代に「まるでヴァージンみたいよ~」と歌うことで臆病な男根主義者を刺激したマドンナ。47歳を迎えながらも紅パン姿で踊り狂い同年代だけでなく若年層まで巻き込んでフィーバーをぶち上げたマドンナ。尊敬とか憧憬とかいう以前に、「こいつほっといたらエライ事になるんじゃないか」という「恐れ」がそこにはある、と少なくとも僕は思う。00年代に入ってからのマドンナは、正直言って行き詰っていたと思う。『ミュージック』も『アメリカン・ライフ』も個人的には大好きなアルバムだが、マドンナはずっと型破りなカリスマ性を打ち出せずにいた。でも、このアルバムで彼女は以前のようなビッチに扮するのではなく、過激な社会批判でもなく、紅パンにこそ突破口を見出した。己の肉体の若さを誇示するかのように紅パン姿で体をそり返すマドンナは、比類なきカリスマそのものだった。


マドンナは、来月に『コンフェッションズ~』以来3年ぶりとなる新作を発表する。
タイトルは『ハード・キャンディ』。
周辺情報としては、
プロデューサーとしてファレル・ウィリアムズやティンバランドが参加、
中にはカニエ・ウェストまで関わっている曲もあるそうだから、
ここ三作品と同様とにかくノリまくれるダンス・アルバムになりそうだ。
ただ今回はかなりヒップ・ホップに接近したサウンドに傾きそうでもある。
そんな彼女にとっては新しい試みの中で、
強力なプロデュース陣の勢いに負けない「マドンナらしさ」を発揮できるかどうか、
すべてはそこに懸かっていると言って良いだろう。
マドンナのキーワードはいつだって「エクスプレス・ユアセルフ」だ。
僕はマドンナを信じている。
15:04 | 徹底検証 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

すげえ

19
/ Adele

19


世界をも突き動かす「喪失」の力
 リリー・アレン、エイミー・ワインハウス、ケイト・ナッシュにM.I.A.とここ数年のUK女子力の勢いは留まるところを知らないわけだけど、この大型新人・アデルの登場で更に熱いシーンへと盛り上がるのは確実だ。今年最初の決定打。08年は、今、アデルと共にようやく始まったのだろう。
 世界で最も多く歌われているのは間違いなくラブ・ソングだと思う。そして、ラヴ・ソングが語るテーマは大きくふたつの種類に分けることができる。つまり、「成就」と「喪失」である。アデルが歌うラブ・ソングは、極端に後者へと振り切れる。収録曲のほとんどがひとりの元カレへと向けられた余りにも個人的なエモーションの塊という本作。すでに人生投射型とかそんなレベルの話ではない。アルバムを別れた相手への純度100%のノンフィクションで埋め尽くしている。その元カレの立場になったら、人によっては重苦しくてちょっとしんどい女の子に感じてしまうかもしれない。でも、その重さはきっと彼女の実直さの裏返しだ。そして、同じ特定の「あなた」への思いでも、いつも隣で笑っていてくれる「あなた」へのそれよりも、もう去ってしまってからの「あなた」への方が狂おしいぐらいに強烈な時だってある。この恋愛の奇妙な矛盾をわかっていただけるだろうか。それこそがアデルの歌う「喪失」の力だ。
 「喪失」の力は、気持ちは「あなた」の方角を示しつつも自ずと内向きに作用する。なぜなら、「あなた」はもう傍にはいないからだ。彼女は「喪失」が生み出した心の空白に「あなた」を呼び戻すために、ここにあるラブ・ソングを歌う。“チェイシング・ペイヴメンツ”を歌う。その時心に現れる「あなた」は、自分が作った言葉と妄想に過ぎないとわかっていても、である。自分の実年齢をそのままアルバム・タイトルに冠しているが、これを歌わなければ彼女は10代を終わらせることが出来なかった。ただそれだけだろう。
 アデルの楽曲モデルは極めてシンプルだ。背景にあるのは伝統的なジャズやブルース。現代的な要素はひとつもない。それは特定の「あなた」だけを標的にした彼女の歌が「今」という時代の必然性に寄り添う必要がまったくないからだ。それは同時に彼女のラブ・ソングが極めて個人的な内容であるにも関わらず高度な普遍性を持っているという証でもある。加えて、声がとてつもなく良い。アダルトな知的さと感情の上気・綻びを同時に表現してしまう磨き上げられた歌声。これは間違いなくUK女子最高峰だ。奇跡的なバランスで立ち上がっている。その歌声だけでもこの少女がどれだけ稀有な才能の持ち主かは明らかだ。
 本国イギリスではすでにアルバムは1位を獲得、昨年はMIKAが選ばれたBBCの「サウンド・オブ・2008」でも堂々の首位。08年を牽引する存在としてすでに認知されているようだ。今、若干19歳の少女が世界を揺り動かそうとしている。この瞬間を、絶対に見逃してはいけない。
03:51 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

リンクフリーです

う~ん、今日は僕がいつもお世話になっている皆さんに感謝の気持ちを込めて、
リンク先のサイト紹介でもしようかな。
一時期リンク先のサイトが一気に増えて、その頃にやろうとしていたことです。
僕が日々訪れては、更新されていると読み倒し、
されていなければ肩を落とす、そんな風にお世話になってます。
ではさっそく。
ちなみに、僕のリンクは追加された順に並べています。
最後の『最近、野菜たべてないなぁ』だけは特別ですが。


My own way
大学で同じクラスの友達の日記。でした。今はもう閉鎖、というか止めてしまったのでアクセスしても「お探しのページが見つかりません」と表示されるだけで、ちょっと寂しいです。外国語学部英語専攻のうちのクラスの中でも英語力は間違いなくトップ。憧れます。リスペクトの意を表して、今でも名前を残しています。

冷やしちゅうか始めました。
同じサークルの先輩の日記。実は元部長。ちなみに僕は副部長。ゲームだったり写真も載せるし語ることもある。先輩の軽妙な文章は大好きです。なんか、面白い。個人的にはカテゴリーの『写真』コーナーが好き。昔の記事「素晴らしき店名の世界。」はローカル・ネタだけど最高。全店見つけましたよ。

poco a poco
ここも同じクラスの友達の日記。ページは残ってますがここももう完全に停滞しています。写真いっぱい載せてて楽しかったのにな。テスト前には毎回助けてもらってる気がする、頼れるやつです。彼はディベート力が凄まじい、らしい。直接戦ったことはないです。3年になってもよろしくね。

my steps - I tasted
なんでもひっそり静かにやりたいようなので、こういうことはされたくないかな?だったらごめんよ。「アグレッシブ」、この一言で色んなことが変わった方の日記とかいろいろ。同じサークル。コメントは少なめに。僕もアグレッシブにならなければ。

Deep Impact
fafnirさんのレヴュー・サイト。僕が最近始めた『徹底検証』はここでfafnirさんがやっている『Artist Pickup』というコーナーの真似です。ここを見つけるまで僕はほとんどのレヴュー・サイトは当てにならないと思っていましたが、良いサイトもあります。勝手にライバル視しています。

The Dragon_T's Show
Dragon Tさんの音楽ブログ。『Today's Recommend!』や『Play Back』などのコーナーが設置されていますが、最近は停滞気味のようです。今年はまだ2回しか更新されてない・・・・・・。レヴューよりもニュースみたいな感じですがこの情報はどこから仕入れてくるんだろう。ネットってすごいな。

Grumble Monster
Ta9也さんが運営しているハード・ロック/ヘヴィ・メタル中心のレヴュー・サイト。僕はそっちの方はあんまり得意じゃないので名前も知らないバンドだらけですが、総レヴューの数は凄まじく、中にはよく親しんだバンドの名前も。僕には立派すぎるでっかいレヴュー・サイトです。

最近、野菜たべてないなぁ
「野菜中心のブログです。やっぱ野菜でしょ!」。すごい。このセンスは大真面目にすごすぎる。と恐れおののいてリンクに加えさせてもらいました。野菜が主役のブログなんて、そうないです。だから大好きだったんですけど、もう1年以上放置状態。良いブログだったのになぁ。ちなみに僕はレンコン、ゴボウ、ユリネなどの根菜が大好きです。

半数は停滞していますが、以上8つ。
あんまり紹介になってないなぁ。
みなさん本当にお世話になっております。
これからもよろしく。

ちなみに僕のブログ、『Over The Border』はレヴューを載せてはおりますが、
別にレヴュー・サイトという自覚はまったくありません。でもそんな感じ。
レヴューっていうのは、なんというか、対象化させることです。
fafnirさんやTa9也さんも意識しているかどうかはわかりませんが、多分そう。
ロックを活字で埋め尽くして、そうしないと僕たちのロックはどうにもならないのです。
ロックをどうにかするために、僕たちはそれを一度対象化して、どうにかするのです。

近いうちに『徹底検証』の第三回目をやる予定。
「徹底」して、ロックをどうにかするための「検証」です。
お楽しみに。
今日の記事はいったいなんだったんだろう。
22:23 | 未分類 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

Born To Kill

今日はなんでも映画監督スタンリー・キューブリックの亡くなった日らしいですね。
さっきテレビでやってました。
そこで紹介されてたキューブリック監督作品のDVDボックス、
僕は発表されてすぐに買いましたよ。
未だに最後の『アイズ・ワイド・シャット』だけは観れていないんですけど、
他の作品はどれも印象深かったです。
なにせ今まで観てきた映画とはなんというか、距離感が違うというか、
とにかくこれはキューブリック作品にしかないなぁという何かがありましたよ。

ところで、さっきやっていたテレビでは革新的な撮影技術で世界を驚かせた監督を
「映画に永遠の時を刻んだ人」というわけのわからん言葉でまとめていたんですけど、
要は「キューブリック作品の撮影方法とかカラーは独特ですごいんだよ!」
って感じだったかな?
確かにキューブリック作品は物とか色の配列、それを撮るカメラ・ワークが特徴的で
ちょっと不気味な感じすらあるんですけど、そこの部分が個性的過ぎるせいか
さっきのテレビみたいに議論がそこばっかりに集中してしまって、
作品の内容そのものにはいまいち言質が及んでいないというか、
「最高傑作!」とかいう形式的な言葉でしか紹介されていないのがつらい。
「じゃあお前ちょっとやってみろよ」と言われたら、できない僕もつらいです。
どうにか言えるようになるまで何回も観るしかないな、これは。

今のところ、最も印象的だった作品は『フル・メタル・ジャケット』。
最後に米軍兵士たちがベトナムの戦地をバックに
“ミッキー・マウス・マーチ”を歌うシーンが強烈でした。
前半は兵士をウジ虫以下としかみなさない過酷な訓練キャンプ。
後半は戦争という非・日常世界の描写。
個人的には世界のダークサイド批判の映画だと思っているんですけど、
それを徹底して描きながらも最後が能天気な“ミッキー・マウス・マーチ”。
この落差は衝撃的でしたよ。
あと、そんな世界の醜悪なものが集まったみたいな非・日常の環境で、
仲間の死とか、自分にも襲い掛かるかもしれない銃弾への緊張とか、
自分の手で人を殺める感触とか、
とにかく色々なものを感じて絶望の端っこまで行き着いたら、
もしかしたら人間はここまで楽観的になれるのかもしれない。
“ミッキー・マウス・マーチ”はそれすらも物語っているみたいで、
背筋が凍りそうになったのを覚えています。
一度ご覧になってはいかがでしょうか。


さてさてCDレヴューですが、今日は先月デビューした新人の作品。
なかなか面白い新人ですが、
今年は未だに08年が始まっていることを認識させてくれる連中がいません。
去年の今頃にはもうクラクソンズもザ・ヴューもいたもんなぁ。
今年はちょっとスロー・スタートだ。
来月にデビュー作を発表するケイジャン・ダンス・パーティーに期待。

Vampire Weekend
/Vampire Weekend

吸血鬼大集合!


08年最初の異端
 初めて聴いた時の印象は、USインディ特有のゆる~い感じや陽光の当たる真昼の庭で言葉がフワフワと飛び交う感じがクラップ・ユア・ハンズ・セイ・ヤーと似ていた。シンプルというよりも隙間だらけと形容した方が相応しいギター・サウンドは初期ストロークスに通じるところがある。ニューヨークにあるコロンビア大学在学時の仲間4人で結成されたこのバンドが作り出す音楽は、そんなある意味USインディのパッチワーク・サウンド的な感覚だが、そこにアフロ・ビートやみんなで囲んだキャンプファイヤーの炎の中に真の居場所を見出すような逃避的な匂いを漂わすことで、このバンドにしかないオリジナリティを見事に演出している。極めて実験的なサウンドながら、それを確信犯的にというよりも自分たちが好きでよく聴く音楽だから、という理由で自然にやってのけるところがまたすごい。でも、同時に本人たちは普通のロックではなくてこれまで聴いたことのない新しい「何か」をやりたいという向上心も持ち合わせている。つまり、彼らの大好きな音楽がヴァンパイア・ウィークエンドというフィルターをいったん通って響いた時、ここにある全く新感覚の気持ち良いポップ・ソングが生まれた。ただそういうことなのである。新しい音楽をやりたいという衝動が今のポップ・ソングへの批判というニヒリズムに向かって捻り曲がらずに、あくまでこういう軽いポップでいることは彼らの慧眼かもしない。そして、フロントマンのエズラはかつてのクラッシュのようにエネルギーと変化を保ち続けながらバンドを更に先へと進めたいと言う。この正体不明のポップ・ソングが更なる異端へと変貌する可能性は、十分にある。
15:47 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

Happy Bath Day

4日くらいお風呂入ってないと言ったら彼女に怒られたので入ってきました。
サッパリ。つるりんタマゴ肌。
いや、実際はカサカサ乾燥肌です。すんません。
やっぱり風呂は良いね。

まあそんなことはどうでも良いのだけど、
昨日は学校に修学簿を取りに行ってきましたよ。
落とすんじゃないかとビクビクしていたドイツ語がちゃんと取れていて安心。
2年間のドイツ語勉強からやっと解放された。
ドイツ語するために大学入ったんじゃないっていうのに、長いんだから。
他にはまあ英語は相変わらず成績悪いんですが、
自分の英語力の無さは自覚しているのでそんなことでは落ち込みません。
でも今北九州にいないから代わりに取ってきてよと頼まれた友達のを見たら
英語の成績がもうべらぼうに良いのでちょっと傷つきました。
でも、ちょっとやそっとじゃAはくれないと聞いていた先生から
Aをもらえている授業があったので嬉しかったです。
レポートとか持論を述べる記述式のテストは好き。
勉強しなくて良いもん。

そういうわけで2年次は無事に終了。
3年からはゼミが始まるのですが、
同じゼミの人、ほとんどみんな知り合い。
新しい友達ができるかと期待したのに、なんか緊張感ないなぁ。
とにかく、3年からは頑張ります。


今日紹介するCDは中学の時に時々聴いていたこのバンドの最新作。
去年はサム41とグッド・シャーロットが良いアルバムを発表したけど、
このバンドもこんなアルバムを残したとなると
あとはニュー・ファウンド・グローリーだな。
彼らが良いアルバムを発表すれば、
中学の時に好きだったポップ・ロックの連中がみんな出揃う。

Simple Plan
/ Simple Plan

シンプル・プラン 3

正しい成長の証
 下宿の方にシンプル・プランのCDは1枚も持ってきていないから、本作を聴く前にはYouTubeでビデオを観ながら過去作を聴いたのだけど、画面の中で跳ね回るその奔放な姿を今改めて観直して、デビュー当時は本当にそこらへんにいるただのガキだったんだなと思った。青春を言い訳にして暴れまくって、「だってまだ子どもだもん」と威張り倒すヤンチャ坊主たち。それが6年も経てば「今夜は俺の手を握って、明日のことを考えるのはよそう」と歌うんだから、こいつら真面目にコツコツ胆を練ってきたんだろうなあと感心させられる。そう、シンプル・プランの通算3作目となる本作は、歌詞の存在感がこれまでの作品とは比べ物にならないぐらい大きい。簡単に斜め読みするだけで「人生が待ってくれないのなら、すべては僕次第なんだと思うよ」「僕たちに未来などない、と君は言った。君は過去を生きているんだろう」など、印象深い歌詞が目に留まる。これまで歌ってきた自分たちの身の回りという範疇を別段広げているわけではないが、物事を深く掘り下げて考える力は確かに養われている。面白いこと書くようになったな。
 ところで、プロデュース陣にデンジャハンズ(ジャスティン・ティンバーレイク、ミッシー・エリオット)やマックス・マーティン(バックストリート・ボーイズ、ブリトニー・スピアーズ)の名前を見た時にはどんなサウンドになるのか想像するのが難しかったが、今ならこの突然の起用が強い野心を伴った大抜擢なのだと頷ける。ポップ・ロック・バンドの若手筆頭選手として前2作でワールド・ワイドな成功を手に入れた彼ら。これまでと違ったアイディアを試すには絶好のタイミングだ。R&Bのリズム的な要素やシンセのアレンジが良い働きをしている。歌詞にしてもサウンドにしても、シンプル・プランはとにかく本作で次のステージへと大きく踏み出した。本当に、良いバンドになったな。
15:29 | 大学 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

スペシャル

ジャネット・ジャクソンの最新作『ディシプリン』を注文しました。
買うかどうか悩んだけど、どうやら転機作になりそうだし、
中学の時はむさぼるように聴き込んでたし、買うことにしました。

『オール・フォー・ユー』以来さっぱりヒットのないジャネット。
最新作ではヴァージン・レコードからアイランドに移籍したせいか、
86年作の『コントロール』以来の盟友である
ジャム&ルイスをついにプロデューサーから降ろして、Ne-Yoを起用したみたい。
Ne-Yoの色香にジャネットも迷ったか?
Ne-Yo起用は、吉と出るか、凶と出るか。
個人的にジャム&ルイスのプロデュース作品は好きなものが多いので、
今回新たに加えられたプロデュース陣には懐疑的です。

父親が持っている“ミス・ユー・マッチ”の入っているコンピ・アルバムと
R&Bが大好きな姉に貸してもらったアルバム『ジャネット』、
そして自分で借りた『ヴェルヴェット・ロープ』を
中学生の時にちょうど同時期に聴いて、好きになって、
しばらくしたら『オール・フォー・ユー』が発表されたもんで、
それ以来ジャネットは特別なシンガーです。
今はロックにすっかり偏っちゃったけど、
これでも中学の時はもっといろんな音楽を聴いていたんですよ。
オアシスの“リヴ・フォーエヴァー”でエア・ギターをして、
ジャネットで踊りまくって、スリップノットで頭振り回して、
ブリトニーにミーハー的にハマって、ボーイズⅡメンで枕を濡らす。
そんなわけの分からん中学生でした。

でも、『ダミタ・ジョー』でコケてからは
ジャネットの作品をちゃんと聴くことってなかったな。
新作は本腰を入れて聴こう。
その前に過去作をちょっと聴こう。

The Velvet Rope
/ Janet Jackson

The Velvet Rope

正真正銘のセルフ・ヌード
 スーパーボウルでの「おっぱいポロリ」騒動以降いまいちパッとしない印象のジャネット。今の若い人にとってはもう完全に「昔の人」なのかな。新作の出来次第では本格的にシーン撤退も心配だが、『コントロール』『リズム・ネイション』の全盛80年代の勢いの凄まじさは、リアルタイムで経験していない僕でも作品を聴くだけですぐにわかる。でも個人的には、90年代に入ってヴァージン・レコードに移籍した当時の作品の方が遥かに良いと思う。つまり、『ジャネット』と、本作『ヴェルヴェット・ロープ』だ。
 ジャネットと言えばやはりダンスの人だが、通算6作目となる本作で実はいったん踊ることをやめている。ビデオやライブなどでは一応ダンスとしての体裁がとられていたようだが、実際にリズムやビートなどのサウンド面ではスロウかつソフトな、曲の勢いよりも言葉やアダルトな雰囲気を優先するアレンジが施されている。そこで彼女は切ないくらいの内省的な心情を吐露するのだ。セレブといえども彼女の恋愛にだって苦悶はいくつもあっただろうし、彼女が踊るモチベーションには決して超えられない兄に対するコンプレックスもあったかもしれない。ちりばめられた「弱さ」の結晶の中から確信を選び抜くような本作には、日頃は包み隠されている彼女のそんな深奥部分がこれまでとまったく違ったムードの中から浮かび上がってくる。その特異さは、全作品のジャケットを見比べるだけで一目瞭然だ。笑顔の象徴として白い歯を光らせるジャネットよりも、悩ましげに下を向いて表情を隠したジャネットの方が、僕は好きだな。音楽的にも、言葉においても、ヴィジュアル面でも、僕の一番好きなジャネットはやっぱりこれだ。ここでの心の「沈み」が、次作の『オール・フォー・ユー』での爆発に繋がったのは言うまでもない。
 ちなみに、『ジャネット』の方はジャネット&ジャム&ルイスが黄金三角を作り出す、超がつくほどハイ・クオリティなダンス・アルバムです。久しぶりにこっちも聴いてみようかな。
16:30 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

いや、僕はそもそもやらないけど

なんてこった、清水ミチコと新しいロックの可能性について書いてたのに、
ログイン時間が長すぎたせいか、
プレビュー・ボタン押したら書いたの全部消えちゃった。
もうやんなっちゃう。
笑いと酒ですべてを解決しちゃう本気のロックの可能性は、
僕の目の前からあっという間に消え去ってしまいました。
しかも僕自らの手で消滅させてしまいました。図らずも。
なんて残酷な。

今は『それでも僕はやってない』を観ています。
法学部の友達が「この人、痴漢です」とさえ言えばほぼ100%有罪にできる
と言っていたけど、本当にそうかもしれないな。
突然名前も知らない女の子に腕つかまれて痴漢呼ばわりされて、
無罪にできる証拠なんて、あるわけないじゃないか。
これは史上最強の完全犯罪じゃないか。
しかも個人レベルじゃなくて、司法レベルの。
なんにでも証拠がなきゃダメだなんて、誰が考えてもナンセンスじゃないか。
でも司法が判断を誤っちゃいけない。証拠は絶対に必要。
それはどちらも正しい。
どちらも正しいから、法律はねじれてるんだろうな。
国家権力も法律も世界も、どれも、
ひとりひとりの人間の認識や知識や意識の集合体の下に成り立ってる。
でも、この映画みたいに、ひとりの人間がどうわめいたって、
世界は何も変わらない。国家権力も、法律も。
残酷だなぁ。
男性諸君、満員車両では両手を挙げましょう。
司法と医者には、できるだけ関わりたくないもんです。


CDレヴューでも載せましょうか。
これ、バレンタインの時にもらっちゃいました。やったね。
セカンド・アルバムから聴き始めて、ずっと欲しかったデビュー作。

Stars Of CCTV
/ Hard-Fi

スターズ・オブ・CCTV(初回限定ハッピー・プライス)

サバービアの雄叫び
 余りにも当然過ぎて別に今更取り立てて言う必要もないことだけど、ロックというものはあるひとりの人間の世界に対する関わり方、間合い、密度などが詳しく反映される場所だと思う。だからこそ、その在り方は文字どおり多種多様で、積極的に世界に潜り込んでいくものもあれば、世界なんて見て見ぬフリをして無関心を装うものもあるし、打ちのめされては立ち上がるのが大好きなマゾなものもある。ハード・ファイの場合、それはフロントマンであるリチャード・アーチャーの、ロンドン郊外のワーキング・クラス出身という生い立ちに根付いた極めて反骨的なものだ。「レイザーライトやキラーズと競いたいわけじゃない。俺はエミネムに勝ちたいんだ」という彼の言葉が忘れられない。社会不適格なひとりの人間の人生すべてを音楽フォーマットにぶち込むことで相対的に世界の闇に怒りの光をあてたのがエミネムだとすれば、常に監視カメラに追いかけられているサバービアの少年少女の余りにも日常的な喪失を引き受けることで世界に対する不平不満を爆発させたのがハード・ファイだ。だからこのアルバムは「CCTV(監視カメラ)のスターたち」という皮肉極まりないタイトルなのだ。そして、ここでの「スター」が複数形で扱われているのは、ハード・ファイのロックがムカつく世界に向かって鳴り響いているのではなくて、結局はそんな世界でしか生きることができないサバービアの若者たちに捧げられた祝福の歌だからである。リチャード自身、かつてはそういう若者のひとりだった。「21世紀のレベル・ミュージック」「クラッシュの再来」という謳い文句を引き連れながらイギリスでNo.1を獲得した本デビュー・アルバムで彼を取り巻く環境は激変したはずだ。しかし、続くセカンド・アルバムでリチャードが歌ったものは、またしてもロンドン郊外の決して満たされない物語だった。サバービアは、リチャードのエモーションの終わらない源なのだ。“サバーバン・ナイツ(郊外の騎士たち)”は、余りにも決定的な一曲だった。
22:29 | 独り言 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑
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