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邪王炎殺黒龍波

久しぶりの更新。
ここ数日は映画と幽遊白書のDVDを観ては寝る、
寝ては映画と幽遊白書のDVDを観る、という生活を繰り返していたので
どうやら体内時計がおかしくなってしまったようで、
昨夜は結局寝られずに、朝を迎えたわけです。

小学校のころ大好きだった幽遊白書のDVD、
TSUTAYAで借りてきて1話目から観ています。
今は50数話目ぐらい。
暗黒武術会の終盤で、鴉と蔵馬の死闘を見届けたところです。
次は武威と飛影。
飛影、めちゃくちゃかっこいいですよね。
彼には密かに名言が多いです。
魔金太郎と戦った時の「残像だ」とか、
桑原・蔵馬とジャンケンをした時の「貴様、今のは遅出しだぞ」とか、
日常のふとした瞬間に真似したくなります。
武威との戦いでは忌呪帯法を解く時の
「もう後戻りはできんぞ。巻き方を忘れちまったからな」
という究極の名言があるので、ものすごく楽しみにしています。
だがしかし、このセリフを果たして日常のどの場面で使うことができるか。
マフラーを外す時にでも言ってみようか。


まぁ冗談はさておいて、CDレヴューを書きます。
最近はマドンナを熱心に聴いているんですけど、
マドンナの作品のレヴューは『徹底検証』でやろうかなと思うので、
今日はこの作品。
発売後にはしばらく聴いたけど、今はもう全然聴いていません。
今日久しぶりに聴きました。
いちおう今月発表されたばかりの最新作。

Sleep Through The Static
/ Jack Johnson

スリープ・スルー・ザ・スタティック

売れてはいるけれども
 もはや当然のようにアメリカでもイギリスでもオーストラリアでも1位を獲得した、ジャック・ジョンソンの通算4枚目となるオリジナル・アルバム。巷では戦争問題にも触れた政治性があるとか家族への優しさがあるとか、初めてハワイ以外の場所でレコーディングされた作品だとかいろいろ言われているが、何のことはない。この穏やかなさざ波のようなぼやっとした柔らかい線を描き続ける限り、彼は海について歌っているのだ。少なくとも、海に向かって歌っているのだ。確かに、ジャックとしては初めてハワイを離れロスで制作された本作。太陽光発電所で太陽エネルギーを動力にレコーディングされたわけだが、要はアメリカ南西部の海岸の延長線上にあるリラックスできる場所で作られたということだ。そこにドラスティックな変化は、ない。そもそもジャック・ジョンソンという人は太陽と潮の香りを糧にして、00年代におけるサーフ・ロックのスタンダードとでも言うべきあのオリジナルなスタイルを確立したわけだし、熱心なファンはそれを永遠に彼の音楽に求め続けるだろう。そこから一歩でも踏み外すことがとてつもなくリスキーな行為だということはわかる。そういう意味で、ジャックは絶対に海を裏切らない。ハズさない。だが、それはひとりの表現者として、どうなんだろうか。別に変化を無理強いしたいわけではない。ただ、海は必ずしも穏やかではないのだ。人間の感情だって、時にはどうしようもないくらい荒れ狂うのだ。ジャック・ジョンソンの音楽は優しい。サウンドも言葉も、というか言葉自体がまるで強烈な意志を持たないサウンドの一部であるかのように、いとも簡単に心へとすり抜けてくる。そこに、彼のリアルな感情はきちんと練り込まれているのか。
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08:48 | 独り言 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

徹底検証 第二弾

カテゴリーに「徹底検証」という項目を追加しました。
僕のリンクに入ってる「Deep Impact」というブログで
fafnirさんがやっている「Artist Pickup」というコーナーの完全なるパクリ企画ですが、
本人の許可をちゃんと取ってパクってますので大丈夫です。
前にYUKIのキャリアをオリジナル・アルバムを通して振り返ったことがあるんですけど、
そんな感じで、あるアーティストのキャリアを簡単に総括してやろうという試み。
どれくらいの頻度でできるかわかりませんが、頑張ってやっていこうと思います。

YUKIを第一弾ということにして、今日は第二回目。
このバンドについて、このブログで触れることはあまりありませんが、
今年は新作発表を控えているのでよく登場すると思います。
僕のロック・オタク人生を切り開いた人たち。
高校の卒業文集での僕の作文には、
この人たちの名前が十回以上登場するという異常さでした。
6枚目のアルバムが出た時には、学校休んで買いに行ったなぁ。
一生聴き続けていくであろうこのバンド。
「徹底検証」、第二弾はオアシス。


Definitely Maybe
Definitely Maybe

ガサツな、余りにもガサツな「伝説」
 オアシスの場合、歌詞はあまり重要ではないとよくいわれる。シェイクスピアよりも生傷と白いラインが大好きな若猿だった彼らに文学性なんてものは無縁だったし、ライブでほぼ全曲をファンが合唱するのが象徴的なように、オアシスの良さは誰でも口ずさめるその普遍さにあるからだ。だが、このアルバムでは言葉こそが物をいう。リアムのボーカルはまだ出来上がっていないし、94年作という時差を加味した上でも、このアルバムの音は余りにもお粗末だ。決して完璧なデビュー・アルバムではない。では、なぜこのアルバムは今なおオアシスの「伝説」として90年代ロック史にどっしりと鎮座しているのか。言葉の圧倒的な存在感である。一曲目から「今夜、俺はロックンロール・スター」と歌ってしまうのである。「死にたくねえ、生き続けたいんだ」も、「働くなんてアホな行為、苛立つ価値すらねえぜ」も、「俺は俺自身でいなくちゃならない」も、ガサツ極まりないが、カート・コバーンやトム・ヨークには絶対に歌えなかったのである。ここまで楽曲に対してバカ正直なロックンロール・スターは、後にも先にもオアシスしかいないのである。ドラッグとビートルズ愛しか持っていなかったワーキング・クラスの若者の徒手空拳が世界を打ちのめした、最高のデビュー・アルバムなのである。


(What’s The Story) Morning Glory?
(What's The Story) Morning Glory?

オアシスの記念碑
 『ディフィニトリー・メイビー』、シングル“ホワットエヴァー”、そして本作、と94年から95年のオアシスの勢いは本当に凄まじい。90年代のワーキング・クラス・ヒーローとしての登場からたった1年で、オアシスは自身をロック界の頂点まで一気に高めてしまうのだ。ビートルズからの流れを汲む、というよりもビートルズのメロディのパッチワーク・ソングにもなりかねないこの思いっきりブリティッシュでわかりやすいメロディは、ビートルズのそれと同様に、今聴いても精彩をまったく失っていない。“ワンダーウォール”“ドント・ルック・バック・イン・アンガー”“シャンペン・スーパーノヴァ”といった現在もライブのハイライトであり続けている「オエィシス!」な名曲たちが当然のような顔をして並んでいる本作。このアルバムの発表でオアシスは鮮やかなグローバル・サクセスを手に入れ、「第二のビートルズ」の名を欲しいままにするのだ。セールスはついに二千万枚を超え、ネブワースやメイン・ロードなどの大規模なライブを制覇する一方で、ブラーとの確執が最も激しさを増した時期でもあったし、ドラッグ&アルコールの摂取量が尋常ではない時期でもあった。とにかく、様々な意味で、オアシスが世界の中心で暴れまくっていたことを示すアルバム。


Be Here Now
Be Here Now

永遠に拭い去れない「97年」
 『ディフィニトリー・メイビー』以来、最短距離を通って頂点に上り詰めたオアシス。盛り上がるのも早かったが、落ち始めるのもまた早かった。『モーニング・グローリー』がもたらした抱えきれないほどの成功は、やっぱりこぼれ落ちていたんだなとこのアルバムを聴く度に思う。オアシス史上最悪な環境で作られた本サード・アルバム。ギャラガー兄弟の仲は以前にも増してギスギスと歪みバンドはすっかり機能を失い、成功が連れてきたドラッグの効果を原動力になんとか作られたわけだが、結果は『ストップ・ザ・クロックス』収録曲を見ればわかる。一曲も入ってないから。ノエルもこのアルバムはキャリアから消し去りたいと嘆いたほど。でも、このアルバムは発表当時だけで800万枚も売れた。前作の成功が数字に影響しているのは明らかだが、それでもすごい記録である。僕も中学生の時初めて聴いて、正直、悪いアルバムだとは思わなかった。でも、徐々に化けの皮は剥がれてくる。ダイナミズム至上主義に一気に傾倒した本作の爆音は、曲の悪さをごまかすためのトリックか、ドラッグでハイになった意識が作り上げたのか。ごまかしの処置では悪さは絶対に糊塗できないし、聴き手もバカじゃない。ブリット・ポップを終わらせた大元凶。でも日本でだけは人気がある。はてな。


Standing On The Shoulder Of Giants
Standing on the Shoulder of Giants

ついに鞘に納まったか
 『モーニング・グローリー』で世界を手に入れてからのオアシスの作品は、少なくともメイン・ソングライターかつバンド・リーダーのノエルにとっては、自分の楽曲の可能性を探る自問と検証だったんだと思う。それはつまり、オアシスというバンドの現役存続を懸けた冒険だった。随所で顔を覗かせる半端なサイケデリアに、そんな試行錯誤が垣間見える4枚目のオリジナル・アルバム。『ヒーザン・ケミストリー』『ドント・ビリーヴ・ザ・トゥルース』の2枚が発表されていなかったら、このアルバムを振り返ることは、ファンにとってはとてつもなく切ない行為になっていたかもしれない。初期メンバーのボーンヘッドとギグジーが相次いで脱退を表明し、前作『ビィ・ヒア・ナウ』の不振もあって、そろそろオアシスも解散か?シーン撤退か?と囁かれていた頃だった。そんな悲惨な状況の中、現役宣言の如く発表された本作だが、やはり絶望的だった。そもそも曲が良くない。あまりにも存在感が薄いのだ。かつてのストレートど真ん中なサウンドもすっかり停滞し、サイケデリアで輪郭を曖昧にぼやかしている感覚さえある。それにも関わらず、“ワン・ウェイ・ロード”“キャリー・アス・オール”“レッツ・オール・メイク・ビリーヴ”など、シングルのカップリング曲だけがかなりのクオリティを誇っているところは、未だ解明されない謎。


Heathen Chemistry
Heathen Chemistry

王者、帰還
 新メンバーのゲム・アーチャーとアンディ・ベルも制作に関わり、ソングライター4人体制で作られた初めてのアルバム。ノエルが完全にソングライティングの独占権を握っていたバンドにとって、このアルバムでの抜本的な構想改革がもたらしたものの意味は大きかった。ノエルの役割の後退が、ネガティヴな意味ではなくバンド復権の重要なカギになっている。ゲムとアンディの曲も良いが、リアムのソングライターとしての急成長には特に目を見張るものがある。“ソングバード”なんて、キャリアを代表する名曲のひとつじゃないか。でも、やっぱりノエルの存在感はでかい。信頼できるソングライターを新たに3人も得たことで、前作、前々作のころの迷いがノエルから払拭されたようだ。これまでよりもリラックスしてのびのびと作ることができたのか、“ヒンドゥ・タイムズ”“ストップ・クライング・ユア・ハート・アウト”“リトル・バイ・リトル”など、ノエルの楽曲は以前のクオリティを完璧に取り戻している。没しつつあったオアシスが、再び鎌首をもたげ始めた。別段、際立った個性があるわけではない。しかし、面構えのすっかり変わったこの頃のオアシスは、これからまたでかい一発かましてくれるんじゃないかという予感をヒシヒシと発信していた。


Don't Believe The Truth
Don't Believe the Truth


これが新しい「オアシスらしさ」
 『ヒーザン・ケミストリー』で激変したソングライティング・システムをそのまま踏襲した6枚目のオリジナル・アルバム。4人のソングライターが、自分のやりたいこと・それぞれの個性を自由に発揮させ、それが黄金比率で結晶化した、素晴らしく奇跡的な作品。これは『ヒーザン~』でも言えることだが、ファンが求め続ける「オアシスらしさ」と自分のやりたいことの落差の中で立ち尽くしていたノエルを救ったのは、ゲムであり、アンディであり、そして、リアムだった。「オアシスといえばノエルの曲」という凝り固まった概念を、他の3人の楽曲がノエルの楽曲と拮抗できるレベルにまでついに辿り着いたというポジティヴな意味で見事にぶち壊した作品。リアムは「我が道」をさらに奥へと突き進み、ゲムとアンディはオアシスらしいダイナミックな楽曲を手がけ、ノエルは新たな試みを生き生きと実践しながらも、“レット・ゼア・ビー・ラヴ”というオアシス王道のニュー・アンセムを残した。『ディフィニトリー~』のような比類なき「オレ様宣言」ではないし、純音楽的な魅力では『モーニング~』に一歩譲るかもしれない。セールスだってあの頃に比べればこぢんまりとしているが、オアシスの、ロック・バンドとしての一番幸せな場所は、間違いなくここにある。


他にも初期のカップリング曲集『ザ・マスタープラン』や、
ベスト版の『ストップ・ザ・クロックス』などがありますが、
多くなりすぎるのでオリジナル・アルバムだけにして省かせてもらいました。
ソニーとの契約切れのためここ数年、ベスト版やシングル・ボックスやDVDなど、
これまでのキャリアを総括させてきたオアシス。
去年は配信限定シングル“ロード・ドント・スロウ・ミー・ダウン”を発表し、
相変わらずのグッド・メロディで才能を誇示していた。
今年夏に発表が予定されている7枚目となる新作は、いったいどんな作品になるのか。
子どもの時から夢見てきたものすべてを手に入れたのが今のオアシスだと語るリアム。
音楽活動にはもっと集中していくという。
「一度聴いただけでぶちのめされるようなレコードを作る」というリアムの言葉が、
相変わらずのガサツさを持っていて頼もしい。
果たして、新作で世界をぶちのめすことはできるか。
15:24 | 徹底検証 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

Like A Prayer

20080219194411.jpg
USBでパソコンに繋げるスピーカーを買いました。
ロック・オタクですが音響マニアではないので細かいことはわかりませんが、
音を聴いた感じでは悪いものではなさそうです。
現在再生中なのはマドンナで『レイ・オブ・ライト』。
パソコンそのもののスピーカーじゃ再現できなかった
突然のアンビエント・ポップは僕を深海へと導きます。
向こう岸まで泳いで行こう。

それでも大学入学時に買ったコンポで聴いた方が音質は圧倒的に良いので、
別に音楽を聴く環境を向上させようとしたわけではありません。
映画は主にパソコンで観るので、そっちの方です。
一度パソコンの中身を整理した時に間違ってDVDを再生するソフトを消してしまって、
それからはフリーソフトをダウンロードして観ていたんですけど、
なんかそのソフト、音が小さいんですよね。
声の低い俳優さんの場合は、
もうボソボソで何言ってんのかわけがわからん状態だったので、
まぁ音が大きくなればなんでも良いやと思って買ったわけです。
これで早く映画観たいなぁ。


マドンナはちょっと止めて、テレビをつけてさんまにしたら、
アイドル系の女の子が春にCDデビューするとかなんとかで、
本人曰くジャンルは「ロックです!ギター弾いたりして!」と。
お嬢ちゃん、それは本当にロックなのかい?
と数ヵ月後に21歳になるのがとてつもなくイヤな大学生は思ってしまうのです。

僕より遥かに年下の女の子でさえ簡単に口にできる、ロック。
そのボーダレスさ故にロックは素晴らしいのですが、
だからこそもう今のロックは、無条件には信用できない。
ロックというラベルは、もうほとんど意味を成さない。
例えば、YUKIやCharaはロック、じゃあB'zとかGRAYは?という話。
つまり、ロックの核心部分は、単なる音そのものだけじゃなくて、
もちろんギターがどうこうとかでもなくて、もちろん言葉や枠組みでもなくて、
エネルギーとか、妄想とか、宗教みたいなものだから。
ロックは、それを信じている人をどこかへ導く奇跡だから。
長くなっちゃいそうなので自制します。
小島よしおも柳原可奈子も好き。応援してます。


CDレヴュー載せます。
お嬢ちゃん、ロックっていうのはこういうものなんだよ。
まぁ、これはかなり歪曲した世界の住人のお話ですが。

Good News For People Who Love Bad News
/ Modest Mouse

Good News for People Who Love Bad News



人間の行き着く先は
 実はモデスト・マウスの作品を聴いたのはジョニー・マーが加入した昨年の『生命の大航海』が初めてで、今は過去の作品を逆算して聴いています。そうしたらこのアルバムにも『生命の大航海』のジャケットに使用された碇を吊るした気球が描かれていて、これは彼らの表現には欠かせない重要なアイテムなんだなと感慨深かった。このブログで『07年ベスト・アルバム50』をやった時に、僕は『生命の大航海』について、「沈み逝く船からの脱出法は“死”以外にもあるのかもしれない」と書いたけど、多分それは間違っていたんだと思う。モデスト・マウスは、“死”に向かう自分たちを“生”の方向へと転換するパワーを求めて歌っているのではない。“死”に墜ちていくことこそが運命の指向性であるということを受け入れた上で、それでもその事実を認めたくない。全身は地に朽ち果てていくのに、精神だけは空に向かって屹立している。そんな悲惨な矛盾に根ざしたものが、モデスト・マウスという表現の正体だ。浮力を失わずとも碇の重みに耐え切れなくなってゆっくりと墜ちていくであろうこの気球は、つまり、僕たちの運命を極めてわかりやすい形で表してみせたリアリズムなのである。そして、もはやドラッグを用いてすら不可能な、残酷な現実からの逃避手段はもうひとつしか残されていない。精神の内から狂うしかないのである。その先導者として、アイザック・ブロックは口角あわを飛ばしながら怨嗟の笑い声を上げる。「バッド・ニュースが好きな人のためのグッド・ニュース=身に降りかかるバッド・ニュース」が押し寄せてきたその時にも、腹を抱えて笑い転げていれば自分が“死”の淵に足を掛けていることに気付かないフリをしていられるかもしれない。世界のどうしようもない絶望が底流に渦巻いているてらいなきポップ・ソング。確かにこれは狂いそうになる。本作は彼らのメジャー・デビュー作であると同時にグラミー賞にまでノミネートされた大出世作。
20:40 | 日記 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

入札宣言

YUKIのライブのチケット、オークションで手に入れることにしました。
福岡公演の一般発売はまだだし、もちろん一般も挑戦するけど、
可能性は多いに越したことはありません。
同じくYUKI好きの友達も、オークションにしたみたい。
お互い無事に行けたら良いね。
でも、取れたとしたら、間違っても隣りとか前後の席にはなりたくない。
だってなんか、恥ずかしいもん。

ライブのチケットを取るのって、なんでこんなに難しいんだろう。
どうしても行きたいのに行けない人がいる、なんて状態はおかしい。
みんなが行けるようにしろ、コノヤロー。
YUKIだったら、公演数増やしたってガラガラなんてことにはならないだろ。
頑張れば行けないことはないけど、でもそれにはリスクが大きい。
機会を限定しちゃいけない。
みんなが観に行けなくちゃ意味がない。
ポップの中身ってそういうことだと思う。
これは、取れなかった時の言い訳になるかな。
主催側が悪いって。


この前妄信的なYUKIファンのメイクについてちょっと触れましたが、
このアルバムみたいなメイクが理想的なんだなとか思ってみる。
今日のディスク・レヴュー。
今月発表されたばかりの最新作です。

Jukebox
/ Cat Power

ジュークボックス



オリジナルな悲しみ
 最近よく使う言葉だから自分でもそろそろウンザリしてきたけど、今はこの言葉でしか自分の思っていることが的確に表せなくて、悔しいけど使います。音楽っていうものは本来的に個人の「感傷」に力点を置く表現なんだと思う。言葉を持たないで音そのものの最先端を求める音楽もあればどこまでも能天気で軽薄な音楽もあるから一概には言えないけど、フォークやブルースなどの伝統的な保守音楽はギター一本からでも伝えられる個人性の濃さ故に、その傾向が極めて強い。
 父親のレコード・コレクションから知ったビリー・ホリデイや彼女が敬愛するボブ・ディランなどの往年の名曲をキャット・パワーことショーン・マーシャルが歌ったカバー・ソング集。ライブでもカバー曲をやることが比較的多いようだが、彼女はこのアルバムをただのカバー・アルバムとして受け取って欲しくないという。ここにある感傷は別人が洩らしたものだが、これらに寄り添いながら人生の潮流を経験してきた自分のそれと重ねることのできるリアルな感傷なのだということだろう。確かに、そうでなければ自然な状態でここまで真に迫った歌い方はできないはずだ。ノド元を焦がしながら這い上がってくる悲しみは、本物だ。このアルバムがただ大好きなだけの音楽のイミテーションや単なる寄せ集めというカバー・アルバムにありがちな陥穽に陥っていないのは、そこの部分の意識が何よりも強いからだろう。というか、人の楽曲を歌うことが多い彼女だからこそ、カバーという行為はそうでなければ意味がなかったのかもしれない。解釈から唱法やアレンジに意識、とにかくどこまでもオリジナルな一枚。
22:32 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ティム・バートンの本棚

ヴィダル・サスーンのCMの安室奈美恵、あれ、かっこよすぎるなぁ。
去年発表した『PLAY』もめちゃくちゃ良かったし、ファンになっちゃおっかなぁ。
再び上り詰めたキャリアの頂点。
彼女はしっかりと謳歌しているようです。

それは全然関係ないけど、最近『ビッグ・フィッシュ』という映画を観ました。
監督はティム・バートン、僕の大好きなユアン・マクレガーが主演の作品。
本当は友達の家で一回観たことあるんですけど、なぜか覚えてないんですよね。
こんなに良い映画だったとは。

ユアン・マクレガーのことはもう完全に信頼しちゃってるなぁ。
相変わらずのイイ男でした。
ティム・バートンの映画は、
他には『チャーリーとチョコレート工場』と『シザーハンズ』しか観たことがない。
だからティム・バートンの大ファンの人からしたら甘い意見なのかもしれないけど、
『ビッグ・フィッシュ』は、ティム・バートンの真骨頂だと思う。
もう本当に素晴らしいと思う。

ティム・バートンの映画って、夢みたいに魅力的で、絵本みたいに妄想的ですよね。
でも、絶対にただの「子ども向け」では立ち止まらない。
そもそも僕は絵本を子どもだけのものとは思ってはいないけど、
ティム・バートンの本棚には、絵本がズラーッと並んでいて、
でも、一冊分だけ、一冊分だけ場所が空いている。
そこには、「感傷」という人間臭さが入る。

ティム・バートンの作品が本当に素敵なのは、
その一冊分の感傷があるからだと思う。
窓を開けた瞬間に圧倒される水仙の世界も、時間止めちゃったりとかも、
巨人とか体のくっついてる双子とか魔女とかも素敵だ。
実際には見たことのないような情景やキャラクターにはワクワクする。
ティム・バートンの作品は基本的にそういうものが多いけど、
それが完全な「向こう側の世界」になってしまわないのは、
服を着たままの老夫婦がバスタブの中で抱きしめ合う、
そんなさりげない感傷が僕たちの世界と作品世界を繋いでいるからだ。

思いっきり主観的なこと、
というか僕がティム・バートンの作品を観ていていつも感じることを言います。
その感傷の正体とはつまり、
この映画の中の世界は、結局はあなたが今いる世界と地続きなのだ、と。
そこが、恋人と一緒に来た映画館でも、
独りぼっちで画面を覗き込む狭苦しい部屋の中でも、
家族みんなで肩を並べるリビングでも、
どこで、どんなふうにこの作品を観ていたとしても、
ここにある世界はあなたがいる世界と本質的な部分で繋がるのだ。
あなたのその人生は、
この映画のようにロマンチックなものにも成り得るのだ。
そういうこと。

そして、この映画はそんなティム・バートンの核心部分に思い切り直接的に触れる。
死へと向かう父親に必死に「作り話」を語りかける息子。
その「作り話」を嘘っぱちと吐き捨てるか、素敵な「夢」にするか。
ここでいう「夢」はいつもの夢とはもちろん意味が違います。
ティム・バートンの作品は、言ってみれば息子が語るその「作り話」だ。
彼の語る「作り話」は、あなた次第で「夢」に変わる。
あなたの人生に、「夢」はあるか。
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デスノートと変わらん

この前mixiをやってる友達の入ってるYUKIコミュを見せてもらって、
とてもとても怖い体験をしました。
熱狂的なYUKIファンが集まるだけあって、
ひとつひとつの書き込みが本気中の本気だったし、
なんというか、女の子の陰湿な排他性みたいなものを感じてしまいました。
YUKIの曲全部歌えなきゃ仲間に入れてあ~げない!みたいな感じです。

「YUKI」と書いて何と読む?――「神」。
これには本当に腰を抜かしそうになった。
僕は「YUKI」と書いて「YUKI」としか読まないけど、
あの人たちよりもYUKIのことを好きな自信があると思った。

YUKIの髪型とかメイクを真似して写真を載せまくっている人もいっぱいいて、
その成り切りぶりが本当に怖かった。
本人達がYUKIに成りたがってるんだから別に良いけど、
ヘアメイクに関しては赤子のように何にもわからん僕でも、
やっぱ真似だけじゃ駄目なんだなと思いました。
なんていうか、メイクだけが顔から浮いてる感じがする。
メイクに説得力がないんだ。
YUKIに少しでも近づきたいなら、
そのままYUKIの顔になろうとするんじゃなくて、
まずは自分を見つめなおさなきゃいけないんだろうな。
よくわかりませんが。

4月に新曲が出ますね。
タイトルは“汽車に乗って”。
そろそろアルバムも出ないかなぁ。
僕は大人しく待っています。


今日のディスク・レヴューはマドンナ。
この人の表現はすごいぞ、と最近思い始めて、
過去の作品を買い漁って聴いています。
今は本当にこの人に夢中。

Like A Prayer
/ Madonna

Like a Prayer

エクスプレス・ユアセルフ
 去年の沢尻エリカの騒動にしても最近の倖田來未のごたごたにしても、正直言って叩く側の方がタチが悪い。というかウザイ。よっぽど暇なんだろうな。羨ましい限りです。倖田來未の場合はさすがにちょっと軽率だったかもしれないけど、でも暇を持て余しているそんな馬鹿の相手なんかしなくていい。「ごめんなさい」と一言謝って、後は堂々としていればいいのだ。沢尻エリカにいたっては謝る必要すらなかった。「ファンが観に来てる前で」とかいって難癖つける見当違いの馬鹿は放っとけばいい。そもそも顔も名前も知らないようなファンに媚びを売る必要はないのだ。どれだけ「真似しちゃいけません」な領域の言葉でも、そこにその人だけの強烈な説得力があれば人はついてくるのだ。そして、沢尻エリカのあの言葉には、彼女にしかない強烈な説得力と存在感があった。もうあの言葉抜きには「エリカ様」は語れないじゃないか。なんで謝ったんだ。沢尻エリカはマドンナにはなれないと思った。
 本作は、マドンナをきわどいポップ・スターから時代のオピニオン・リーダーへと一気に引き上げた89年作。十字架を焼き払い、「私を過小評価しないで」と訴え、“エクスプレス・ユアセルフ”を歌った、余りにも強烈な、余りにもどストレートな、まさに表現者としてのマドンナがここにはいる。このマドンナは80年代当時には危険思想だっただろう。各方面で野放図なリベラルの求められる今という時代にでも、“エクスプレス・ユアセルフ”ほどストレートに闘争を歌い、人々を鼓舞した楽曲はない。「完璧な自分を目指すのよ」「自分をエクスプレスすることができれば、きっと自分をリスペクトできるはず」。その対象が「私」でもなく、ゲイやレズビアンなどの抑圧されたマイノリティにでもなく、「you=あなた」へと向けられていたところが、すごい。今の若い人はセクシー・セレブなヨガおばさんぐらいにしか思っていないかもしれないが、今なお自ら十字架に貼り付けられるパフォーマンスをやってしまうマドンナの表現には、これっぽちも妥協というものがないのだ。すべてをなぎ倒す、“エクスプレス・ユアセルフ”というマドンナの説得力。好き。
15:30 | 独り言 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

さよなら

iPod.jpg
iPodが壊れた。
2年ぐらいずっと、毎日身につけてた相棒が。
携帯を家に忘れることはあったけど、これを忘れることはなかったもんなぁ。
もう傷だらけでボロボロだけど、本当によく頑張った。
お疲れ様。
最初に再生させたのはなんだったかな。
オアシスの“ホワットエヴァー”かYUKIの“スタンドアップ!シスター”か、
多分そのどっちかだったと思う。
ちゃんと覚えてなくてごめんよ。
最後に聴いたのはレニー・クラヴィッツだったね。
新しいiPodで最初に聴くのもそれにしようか。
パソコンに繋いでも復元できなかった時は本当にショックだったよ。
部屋のどっかに飾ってあげるからね。今までありがとう。
ちょっと湿っぽくなりすぎたのでCDレヴューでも載せますね。


Scream Aim Fire
/ Bullet For My Valentine

スクリーム・エイム・ファイア(3ヶ月限定スペシャル・プライス)

すべてを焼き尽くす闘志
 前作『ザ・ポイズン』で一躍モダン・メタル筆頭選手に躍り出たブレット・フォー・マイ・ヴァレンタインのセカンド・アルバム。サウンド面での根本的な部分は何ひとつ変わっていない。大量のCDコレクションの中からメタリカだけを選び出すような、スラッシュ・メタル寄りのヘヴィ・メタル。ただ、前作よりもライブを意識して作られたのか、気持ち良いぐらい爽快なスピード感を一貫して保ち続けているし、6分越えのスタジアム・ソングもある。大きくなっている自分たちにしっかりと手ごたえを感じていることがわかる、良いアルバムだ。
 だが、本作発表までの道程は決して平坦なものではなかった。06年にボーカルのマットが扁桃腺を痛め、バンド存続に致命的なダメージを与えてしまったのだ。それに伴ってワールド・ツアーが一部延期。レコーディングも遅々として進まなかったという。別のボーカリストを加えるという案が検討されるところまでいったそうだから尋常ではない。そんな暗礁に乗り上げたバンドを前に進めたのは、他でもない、現状を打開するというメンバー自身の「突破」への強烈な意志である。彼らは良いメロディが書ける。良いアルバムが作れる。でも、彼らの本質はそこではない。彼らの本質とは、今なお虎視眈々と世界制覇を狙っているという、その青臭いぐらいの凄まじき「闘志」である。マットはもう以前の声では歌えない。前作の成功からくるプレッシャーだって計り知れなかっただろう。それらを逆転させて未来へと叫ぶアグレッシヴさが本作にはある。そもそも、メタルはなぜ叫ぶのか。それは、「叫ぶ」という行為が彼らを退屈なここではないどこかへ連れて行くからである。彼らの目指す別世界への唯一無比の橋渡しだからである。未来へと約束するヘヴィネスの「闘志」。それがつまり「叫ぶ」ということなのである。その象徴として、ブレット・フォー・マイ・ヴァレンタインは今も叫び続けている。彼らが世界を焼き尽くす日は、すぐ目の前にまで迫っているのかもしれない。
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Let Love Rule

It Is Time For A Love Revolution
/ Lenny Kravitz

It Is Time for a Love Revolution

「L」の世界
 レニー・クラヴィッツの通算8作目となるオリジナル・アルバム。ところで、本作のテレビCMをご覧になったことがあるだろうか。映画『DEATH NOTE』のスピンオフ作品である『L change the World』の主題歌にリード・シングルの“アイル・ビー・ウェイティング”が使用されているためレニーが「ロック界のL!」と謳われているのだが、なんというか、あれはどうにかならないものだろうか。本作にはご丁寧に『DEATH NOTE』シリーズとまったく同じ書体の「Lステッカー」まで同封されている。この根性はすごい。もっと映画そのものに力を集中させてみてはいかがだろうか。
 広報部はそれを意識したのか、それともただの偶然なのか、このアルバムにはもうひとつの「L」がある。それが「Love」である。最近はマッチョな裸族的趣味やゴージャスなセレブ面ばかりが目についたが、レニーは元々プリンスや吉井和哉らと同種の「愛の人」である。そもそもが「愛にすべて支配させよう」と歌う男である。タイトルは「今こそ愛の革命を起こす時」。前作で洗礼を受けたレニーが久々に愛炸裂の作品を完成させた。本作の制作に取り掛かる前にレニーはこれまで共に仕事を続けてきたスタッフを全員解雇したそう。すべてを白紙に戻すことでこれまでになく自由に曲を書くことができたらしいが、その成果が「愛の解放」として見事に作品に反映されていて、これはファンならずとも嬉しい。レニーの表現はそのシンプルさと愛が肝だと個人的には思っているのだが、そのシンプルさ故に初めて聴く人には愛の押し付けにもなりかねない。そんな誤解を力技でねじ伏せんばかりのこのLoveさ。レニーの愛はポジティヴネスの象徴であると同時に痛烈な社会批判としてあり続けてきたが、世界の落下が止まらない今だからこそ彼は愛という永遠普遍/唯一無比のテーマを再び掲げなければならなかったのかもしれない。とにもかくにも嬉しい最新作。映画は絶対に観に行かないけど。
14:14 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

好きな俳優は

残りあとひとつ!なんて状況になると、もうどうでもよくなってきますよね。
朝は音楽を聴いて、昼から勉強しようと思ったけど、
ジャック・ジョンソンの新作聴いちゃおうかな。

さて、音楽の話も良いですが、今日は映画で。
映画を観てはウンウン考えるようになってからもうだいぶ経ちます。
ジブリは暗いと思います。クレヨンしんちゃんを大真面目に観ます。
そんな僕にもようやく「好きな俳優」なんていっちょまえに呼べる人が
最近わかり始めてきました。
青春期を引きずった表情の柳楽優弥くんも大好きだけど、
でも、やっぱり、ユアン・マクレガーが良いな。

『スター・ウォーズ』シリーズは未だにひとつも観ていません。
他には『ムーラン・ルージュ』が有名なのかな。
『ミス・ポター』にも出てたみたいですね。観たことないけど。
好きと言いつつも全然出演作品を観ていませんが、
どれも僕の好きなユアン・マクレガーとは違う気がする。

僕が好きなユアンは『トレインスポッティング』『普通じゃない』
『シャロウ・グレイヴ』『ブラス!』かな。
この4つに共通するのは、社会の底辺でもがいているということ。
今の自分の人生に満足していなくて、
とにかくどうにかしようとあがいているということ。
これは思いっきり個人的な意見だけど、
ユアン・マクレガーは史上最高にトイレの似合う男だと思う。
それに加えて、これは『ブラス!』でユアン本人が口にするセリフだけど、
「セックス、ドラッグ、ロックンロール」の似合う男だと思う。
だから、「トイレ、セックス、ドラッグ、ロックンロール」は
ユアン・マクレガーを光らせる最高のアイテム。
社会の底辺でもがく、「トイレ、セックス、ドラッグ、ロックンロール」の人。
それはつまり、ひどく英国のワーキング・クラス的だ。
実際にワーキング・クラスなのかは知らないけど。

僕の大好きなユアン・マクレガー出演作4つ。
そのうち『ブラス!』を除く3作品は監督が同じ人です。
ダニー・ボイル。
『シャロウ・グレイヴ』でユアンと一緒にデビューした監督。
お互いに思い入れの強い相手なんだと思います。
そして、お互いに物凄く理解しあっている関係なんだと思う。
この2人が化学反応を起こす時、その映画は凄まじくかっこいい。

音楽プロデューサーとかでも一緒のことだけど、
お互いを理解しあうってことは、才能とか技術なんか通り越して、
一番大切なことなんだと思う。
ユアン・マクレガーの「~っぽさ」を無意識的にわかっているからこそ、
ダニー・ボイル監督作は話に派手さがないのに面白い。
ジョニー・デップとティム・バートンの関係だってそうだと思う。
だって、『シザーハンズ』はもうべらぼうに面白いけど、
キーラ・ナイトレイもオーランド・ブルームもいるし金もかかりまっくてる
『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズは、
確かに退屈はさせないけど、そんなに面白くないもん。
そういうことだと思う。

だから僕は、ユアン・マクレガーとダニー・ボイルのコンビが好きなんだと思う。
素敵な2人だ。
また組んでくれれば良いのに。
今チラッと見たら『トレインスポッティング』『普通じゃない』『シャロウ~』は
撮影監督も全部ブライアン・タファノって人がやってる。
すごい。
コンビかと思ってたけど黄金トリオじゃないか。
じゃあ僕はユアン・マクレガーとダニー・ボイルとブライアン・タファノが好きなんだ。
うん、これは新発見だぞ。

レニー・クラヴィッツの最新作のレヴューを載せようかと思ったけど、
字数が多くなるのでまた今度単独で載せます。
お腹空いた。
12:56 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

虹の向こう側へ

先日、YUKIの新しいDVDがリリースされることが急遽発表された。
“長い夢”以降のシングル曲のビデオが収録された『ユキビデオ2』が3月に、
昨年行われた『five-star』のツアーの映像が収録された作品が4月にリリースされる。
シングル・コレクション、ビデオ集、ライヴ・ツアー。
『five-star』の発表以来、
どうやらYUKIはここまでの自分のキャリアの総括に取り掛かろうとしているようだ。
『PRISMIC』の発表以来、YUKIはいったい何を表現してきたのか。
そしてこれから、YUKIは何を表現していくのか。
オリジナル・アルバム4枚を振り返りながらの徹底検証です。


『PRISMIC』
PRISMIC

YUKIの生まれた場所
 どこか遠くを見つめながらそっと左手を挙げるYUKI。このジャケットは、クモの巣に捕らえられて身動きの取れなくなった少女にも、ひとりの人間の心に巣食う陰りにも見える。多分、どちらも正解なんだと思う。なぜなら、このアルバムはYUKIのすべてを受け入れる作品だからだ。YUKIの「逃避」も「絶望」も、そして「希望」も全部受け入れて、初めて成立するアルバムだからだ。私がすべて受け入れてあげるから、あなたはそこで人生を謳歌すれば良い。あなたはそこで歌い続ければ良い。『PRISMIC』のそんな限り無く優しい包容力、それはお母さんのお腹の中のイメージと似ている気がする。だから、YUKIは暴れまくる。腹を蹴る。泣きじゃくる。すべて本気でやる。バンドを解散させてどうしようもなくなった自分への開き直りやガス抜きなんて生易しいものではなくて、もっともっと大マジな自我の「解放」である。すべてを受け入れてくれる母性の中ですべてを「解放」させなければ、YUKIは何も始められなかったのである。それを、このアルバムを終わらせる最後の言葉は凄まじい説得力で物語っている。歌い続けるための「もう歌えないわ」という究極のパラドックス。その身動きの取れなくなった左手でいつか「J」の文字を作り出すために、YUKIは子宮という更地に自分を導いてやらなければならなかったのである。


『commune』
Commune

あなただって、立ち上がれる
 YUKI好きの友達から、本作1曲目“SWELLS ON THE EARTH”の個人的なイメージは「生きてて良かった~」だと聞いたことがある。そう言いながら本人もわけがわからなさそうだったが、これがあながちバカにできないのである。上で書いたとおり、『PRISMIC』は子宮内の話だからだ。まだ生まれていないのだ。“SWELLS ON THE EARTH”の憂鬱な1分50秒は、YUKIが生まれ変わり再び世界に落とされるまさにその瞬間なのである。そして『commune』と名付けられたこの新たな始まりを告げるアルバムは、その後のキャリアの指針となるべきYUKIのマニフェストである。つまり、私は何かと関わり続ける、と。『PRISMIC』が自分の感情のひとつひとつに火をつけていく強烈な内容だったのと違い、本作が様々なシーンでの様々な感傷とリンクしながらもそれを優しく包み込んだのは、YUKIはそれをみんなに伝えなければならなかったからだ。このアルバムが見せた穏やかな普遍への歩みは、誰かに寄り添う勇気を核心部分に秘めた彼女の、他でもない「強さ」だった。ジャケットでYUKIの後ろに延々と並んでいる人たちが、YUKIとまったく同じ恰好に身を包みながらもYUKIと似ても似つかない顔をしているのは、彼女たちがYUKIの内なる住人であると同時に、もうひとりの「私とあなた」だからだ。


『joy』
joy

『joy』というサバイブ
 今思えば、それまでベッドルームでくすぶっていた女性がいきなり金色のドレス姿で踊りまわるんだから、そこにはきっと凄まじい飛躍と戸惑いがあったんだと思う。でも、アルバム発表当時はそんなことを感じている余裕はなくて、ただただ本作の素晴らしくコンセプチュアルな内容に盛り上がっている自分がいた。YUKIのアルバムは得てしてコンセプチュアルなものだが、本作はそれを最もわかりやすい形で知ることのできる1枚。テーマはアルバム・タイトルが示すとおり、“joy”。余りにも誤解されすぎているのだが、ここで使われる“joy”は決していつもの意味では機能しない。音楽を「楽しむ」とか、そういう意味ではないということだ。Tシャツでもタオルでもパンフでも、当時のライヴ・ツアーで“joy”が常に“pain”という言葉と同列で扱われていたことを覚えているだろうか。「私の可愛い“joy”と“pain”」。それを共に背負いながら、それでも私は「死ぬまでドキドキしたい/死ぬまでワクワクしたい」。そう、YUKIは歌ったのだ。「楽しむ」では追いつけない。「謳歌」といえば少し汗臭くなるが、イメージとしてはそんな感じだ。だからこそ、「死ぬまで~」という歌詞はこの当時のYUKIにとって、かつての「もう歌えないわ」「立ち上がれ」よりも、もっと現実的な響きでサバイブを決意できる言葉だったんだと思う。


『WAVE』
Wave (通常盤)


世界を飛び立つYUKIについて
 個人的に、女の子のカリスマだなんだという以前にYUKIは究極の「言葉の人」だと思う。でも、それと同時にYUKIは究極の「ヴィジュアル・アーティスト」でもある。本作発表に伴って行われたイベントの「WAVE ROOM」が象徴的だ。アートワークとビデオと衣装に造作。それらすべての視覚要素と音楽と言葉が作用しあって、そこで初めてYUKIの世界は血の盛り上がりを見せる。そんな世界が熱を帯び始めた時、なんだかYUKIを包み込む空気感が自分を包むそれとは別次元のものに思えることはないだろうか。「YUKIワールド」とよく言われるそれを、僕は「浮遊感」と呼ぶことにしている。音も言葉も映像も、すべてが地面から浮き立って僕たちの頭上で舞い踊っているような気がするのだ。このアルバムからその浮遊感は一気に鮮やかさを増した。それは多分、“長い夢”のせいでもあるんだと思う。『five-star』収録曲の中でこの一曲だけが明らかに異質な存在感を放っていると感じたことはないだろうか。その特別な存在感こそが、そのままYUKIの浮遊感の正体だ。僕たちの世界を飛び立ち夢の世界に浮かび上がる時、YUKIはこの曲を歌う。正直言って、ひとつのアルバムとしてのどうしようもなく大マジな感じが本作からだけは未だに立ち上ってこないのだが、“長い夢”にだけは、YUKIの表現の真骨頂が、はっきりと鼓動している。


この4枚のアルバム以降、他にも3つの楽曲が発表されている。
“ビスケット”と“星屑サンセット”と“ワンダーライン”。
この3つのシングルはあまりにも決定的だった。
抽象的な言い方で申し訳ないが、YUKIは確実に次のステージに歩み始めている。
虹の反対側に向かって、YUKIは突き進んでいるのだ。
そこにはきっと、これまで以上の「何か」が待っている。
そんな予感をこれでもかというほどにここ最近のYUKIは発信している。
だからこそ、新たな地平に辿り着くために、
YUKIはこれまでの自分をいったん総括させなければならないのだ。
虹の向こう側で、YUKIはいったい何を手にするのか。
次のアルバムはもしかしたら『PRISMIC』を超えるかもしれないと
僕は本気で思っているのだが、どうだろう。
今年、3月から5月にかけてYUKIは3年ぶりの全国ツアーを敢行する。
次のアルバムの発表はもう目の前なのかもしれない。
その日が来るまで、ずっと見守っていようと思う。
23:47 | 徹底検証 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

長かったテストもあと3つで終わり。
それが終わったら待ちに待った春休み。
音楽が全然聴けていないから、春休みになったらもっと聴かなきゃ。

ちなみに今はドイツ語の勉強をしながらYUKIを聴いています。
休憩がてら更新しようと思ったけど、特に書くこともないなぁ。
書くことがないと、なんだか不安になります。
もっと音楽聴かなきゃダメなんじゃないか、
もっといろんなこと感じなきゃいけないんじゃないか、不安になります。

最近ちょっとYUKIのこれまでの作品を振り返っています。
なんだかんだで聴くのもレヴューも僕は洋楽が中心だけど、
iTunesで再生回数順に並べたら、去年最も聴いたのはザ・ヴュー、
その次はレディヘでもなく、スプリングスティーンでもなく、YUKIでした。
やっぱり、YUKIは未だに特別な存在なんだなぁと気付かされる。
YUKIを聴く時は、自分の心の開かれ方とか、
なんていうか、気持ちも姿勢もまるで違う。
大マジになって聴ける。
自分が大マジになってるのがわかる。
“ワンダーライン”は、去年一番良い歌だったなぁ。

近いうちにYUKIのオリジナル・アルバム4枚すべてのレヴューを書きます。
このブログでは何回も書いてきたけど、
聴けば未だに新しい発見があるので、再検証をします。
大真面目にします。
良いことが書けそうな気がする。
お楽しみに。
13:30 | 日記 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

勉強なんてしたくない

数時間前に更新したけど再び。
テスト勉強って引き際が大切なんだよね、と自分を許す。
でも特に書くことがないのでCDレヴューでも。
1月はずっと07年作品を振り返っていたので08年作のレヴューはこれが最初ですね。
今年は去年以上にいっぱい書いていきたい。
音楽だけじゃなくて、映画や本のレヴューも、できたら書いていきたいな。
ただの感想文で終わらないものが書きたい。

The Bedlam In Goliath
/ The Mars Volta

ゴリアテの混乱~デラックス・エディション(DVD付)



混沌たる世界を背負って
 また、マーズ・ヴォルタの新作が始まったのか。一曲目“アバリンクラ”がその重厚な門を開き、1年半もの間せき止められていた音の洪水がドッと流れ込んで来た瞬間、僕はもう完全に身動きが取れなくなってしまいました。マーズ・ヴォルタの作品を聴く時は毎度のことだけど、新しいドラマーを迎え、約1年半振りのオリジナル・アルバムとなる本作でもまったく同じ感覚に陥ったということは、このバンドの本質はなにひとつ揺らいではいないし、やっぱりマーズ・ヴォルタの表現はロックの可能性が両手を開ききった今でさえ、究極のオリジナルなのだなと否が応でも思い知らされてしまう。

 これからまだまだ聴き込んでいくつもりだが、今のところの印象としては、どんどん速くなってるということ。マーズ・ヴォルタ史上最も大きな時間的尺度を必要としたのは間違いなくセカンド・アルバムの『フランシス・ザ・ミュート』だった。5曲で70分以上というとてつもなく野放図な才能は、前作『アンピュテクチャー』、そして本作を通過することで、確実にその濃度を高めた。それがそのまま楽曲の「速さ」という結果に正しく反映されているのだ。この最新作には、10分越えの楽曲はもはやひとつもない。楽曲の濃縮化に伴って一曲一曲が以前よりも短くまとめられているため、その分もちろん収録曲の数は増えているが、アルバム全体のトータリティや勢いはこれっぽっちもブレていない。本作でのマーズ・ヴォルタのロックは、これまでと変わらない、もしくはそれ以上の量感で70分強の時間を支配しているのだ。

 本作制作中、バンドはオマーがエルサレムから土産として買ってきたボードゲームの世界に大いに入り込んだという。それ以来、まったくの偶然かもしれないが、レコーディングには不可解なトラブルが多発し、メンバーはボードゲームから立ち上る怨念的な「何か」を強く感じたと話す。そして、本作はそのボードゲームの存在を具現化した作品だと。その影響か、アートワークにはあらゆる宗教的・民族的な要素からテクノロジーまでが無秩序にぶち込まれ、なんとも奇妙な空気を発散している。ボードゲームの世界はまさにそんな雰囲気だったそう。そして、本作の音楽性そのもの、アートワークやボードゲーム、それらすべてにおけるその無秩序とは、マーズ・ヴォルタの本質である。世界の様々なものを片っ端から引き受けて、混沌を練り出し、批評へと繋げる。本作はそんなマーズ・ヴォルタという表現のプロトタイプを次の段階へ更新しながら、その真上で浮上するかのような圧倒的な神秘性と勢いを持っている。先に挙げた偶然さえも引きつける力が、もしかしたら本作にはあるのかもしれない。08年が始まってまだ1ヶ月。マーズ・ヴォルタは、早くもロックの「その先」へと大きく踏み出した。
03:25 | 音楽 | comments (3) | trackbacks (0) | page top↑

ポジティヴ

明日提出のレポートはもう書き終えたけど、他に3つもテストがある。
これはまずい。非常にまずい。
と思いながらも事情が勉強となるとなかなか手がつけられないなぁ。
まぁ別に今に始まったことじゃないし、これまでどおりなんとかなるでしょう。

彼女が毎月買ってる雑誌を買いに行きたいと言うので、
僕もrockin'onの最新号を求めてさっき一緒に本屋に行ったんですけど、
どうやらこの町は僕にあの雑誌をどうしても買わせたくないみたいです。
決して自意識過剰なうぬぼれ男ではありません。
事実として、そうなのです。
でも、絶対に負けんぞ。
だって、rockin'on3月号の特集は「反逆のロック」。
負けるわけにはいかないのである。レイジに続け。

そんなわけでrockin'onは明日以降に持ち越しになったわけですが、
文庫本のコーナーをフラフラ歩いていたら、見つけてしまいました。
野沢尚の『ひたひたと』。
短編と未発表作品のプロットが収録された、
コレクターズ・アイテムとまではいかないものの、それに近い一冊。
多分、彼の死後に発表された作品なんだろうな。
プロフィールにも載せてある、僕にとっては物凄く特別な作家さんです。

プロフィールに載せているもう一人、太宰治を好きな理由は、
僕が抱いている違和感・倦怠感、特に青春期的な類のものだけど、
それを見事に言い表してくれるから。
自分がなかなか言葉にできない複雑な感傷を、太宰は僕の代わりに言ってくれる。
太宰はもう一人の自分なんじゃないか。
世界を下降していくこのヘタレ男は、まさに鏡に映った自分自身じゃないか。
人間失格。でも、人間でいることをやめられなかったんでしょ?
だから、僕は太宰治が好きだ。

野沢尚は、何でこんなに好きなんだろう。
最近また彼の作品を読み返し始めたのだけど、
最初の頃は文章の流麗さとか、形式的なところしか読めてなかったんだなぁ、
といちいち思い知らされる。

野沢尚の作品のテーマは、「生きることについて」、だ。
要領良く生きていける人たちへの娯楽では収まりきらない、
効率の悪い生き難い生き方しかできない人たちのための、
「生きることについて」。
彼女はクラスで一番可愛くて、でも自分はダサダサで、
自分が彼女の恋人になることは絶対に不可能で、だから枕を濡らして。
そんな青臭い絶望でも「あの世」の淵に足を掛けるか掛けないかの切実なものでも、
事情は何だって良いのだけれど、人生っていうのは、とにかく生き難いものですね。

野沢尚の作品は、その「生き難さ」を起点にして立ち上がる。
生き難さをいかにプラグマティカルに受け入れるかではなくて、
生き難い人生ならいっそ手放してしまえというものでもなくて、
生き難さなんて吹き飛ばしてしまえという楽観的なものでもなくて。
人生は生き難い。でも、僕たちは生きていかなきゃならない。
その中で自分をとにかく前へと送り出すためのエネルギーを探るのが、
野沢作品なんだと思う。

『破線のマリス』を終わらせた「私を信じないでください」は、
単なるストーリーの終わりではなくて、
「生きていく」決心をした、その第一歩なんだと思う。
いじめられっ子や引き篭もりの子ども達への「頑張ろうぜ」が全く空しく響くように、
「大丈夫」という言葉では、多分、生きていくには不十分だったんだと思う。
「私を信じないでください」、このネガティヴは、
本当は大真面目にポジティヴな意味で未来に響かせるための言葉だったんだと思う。

野沢尚、なんで死んじゃったんだろう。
「生きていくことについて」を書き続けた人なのに。
人生は生き難いけど、それを自分で終わらせちゃ絶対にいけない。
僕たちは、生きていかなきゃならない。
だから、僕は多分、野沢尚が好きなんだと思う。
23:52 | 日記 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

あなた次第

07年ベスト・アルバム50の全レヴューを書き終わって、
なんだか気が抜けていた数日間でした。
自分でもよくやったと思う。えらいぞ。
よく1ヶ月でやりきった。
でも、こんだけ書けるならもっと字数の少ないレポートだって書けるだろ、
と思うんですけど、なかなか書けないなぁ。
今日も5限にテストが持っています。
勉強しなきゃ。

僕の選んだ07年No.1アルバムはレディオヘッドの『イン・レインボウズ』。
選ぶときにはかなり悩んだけど、でも今思うと圧倒的なNo.1アルバム。
レディオヘッドの作品はもうほとんど別次元から響いてくるみたい。
個人的な事情や感情で作品を組み立てるのではなくて、
07年という時代に「音楽を聴く」ということがどういう意味を持っているのか。
そんな「今」を正しく反映する作品でなければ、
レディオヘッドの作品としては機能しない。
これまでのレディオヘッドの作品は、1mmもそこからブレなかった。
『イン・レインボウズ』も、もちろんそう。

でも、『イン・レインボウズ』はそれだけで終わらなかった。
「07年の音楽」を示しながら、そこから先へ進むにはどうすればいいのか。
それすらも示唆してみせたのが、
「It's up to you」――「あなた次第」という言葉。

「あなた次第」
そりゃそうだろ。当たり前だろ。
と思う人がいるかもしれないけど、
当たり前だからこそ、この言葉は見事に物事の核心を捉えている。と思う。
世界は、「あなた次第」で変えられるんだと思う。
YUKIは、孤独な心の隠れ家からステージの上まで自力で這い上がってきた。
ノエル・ギャラガーは、本質的な「オアシスらしさ」を頑固に守り抜いて
再び英国の頂点までバンドを連れて行った。
カート・コバーンは、自分の脳しょうと一緒にグランジを撃ち抜いた。
始めることも、終わらせることもできる。
希望と絶望は表裏一体。どちらを選ぶかは、あなたが決めることだ。

「あなた次第」
この言葉が鳴り響いた瞬間、世界はガラリと音をたてて変わる。
これからどうやって生きていくか。
すべては、僕自身に懸かっている。
14:34 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑
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